明智光秀は本能寺の変で主君・織田信長を攻め信長と信長の長男・信忠は自害する。光秀は天下人になりますが、約10日後、秀吉の軍と摂津国と山城国との境・山崎で激突。この戦いで光秀は落命したというのが定説ですが、岐阜県・山県市・中洞地区には「死んだのは影武者であり、光秀本人は生きていた」との言い伝えがあり、墓所があります。
国道の入口に幟旗が立っている。ここを入り左折し少し行くと駐車場がある。
駐車場はトンネルの入口手前に12台分ある。NHKが先年「麒麟がくる」を放映し、人気になりこの日も遠く和歌山ナンバー、小牧ナンバー2台が来ていた。土曜日で4、5組10数人の見学者とすれ違った。
質素な造りの白山神社前。神社お社は山の上にある。橋を渡ってすぐ光秀産湯の井戸。左へ墓所。
近くにお住いのおばあちゃんは「来週12月3日日曜日にお祭りですよ」と教えられた。トンネルの上は国道256号線。
左の阿弥陀堂の中に光秀の位牌と肖像画があるらしい。施錠してあった。右が白山神社。
阿弥陀堂前の掲示板。
井戸には蓋がしてありました。
光秀が産まれた庵跡は山の中になっていた。
桔梗橋を渡り少し登ると光秀墓所・桔梗塚・家紋が桔梗。
案内パンフのボックスがあり、詳しい解説書も貰ってきた。カウンターはなかった。
風が強かった日で旗が揺れた。徳川家250年余の大奥を形作った春日局は関市・武芸川町谷口に少しの間住み、使った井戸が残っています。
墓所への参道。
中洞地区には荒深の名字が多いとか。光秀の影武者で死んだのは荒木山城守行信であった。光秀は山城守の忠誠に深く感動し、荒木の「荒」と、恩義を深く感じる「深」で、自らも荒深小五郎と名乗り、西洞寺の林間に隠宅を建て、三男の乙寿丸と共に住んでいた。
光秀のお墓