たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

タイ旅行の思い出3

2012年08月31日 | 旅行

タイは敬虔な小乗仏教の国です、毎朝黄色の衣の僧達が托鉢に回ります
(ホテルの前はWat Boop Bharamという立派な寺院でした)

タイ旅行でちょっとした失敗は、長いフライトも目的地にあと少しで着く前、客室乗務員が入国カードの記入を英語とタイ語でアナウンスし、乗客にカードを配ってまわります。
この入国・出国カードは旅行社が書いて準備してくれ、出発時に同伴者から搭乗券とともに渡されました。
ネットで調べておおよそ分っていたので、機内では書く必要はありませんでした。中味を一見すると、生年月日の月が英文表記で、私の誕生月に入国カードは合致していましたが、出国カードの誕生月が間違っていました。
チェンマイについていよいよ入国審査の通関で入国・出国カードを係官に示し、「おかしくない?」と目線で聞くと「OK、OK」と云われ、そのまま入国カードを渡し入国しました。

帰国時の空港通関でこのことをすっかり忘れていて、当然パスポートと違うので引っかかり、英語でペラペラ言われるのですが通じません。
戸惑っていると係官がカウンターから出てきて、出国カードの誕生月をパスポートの誕生月に訂正してくれました。

出かける前ネットで調べて、カードの記入例のとおり数字で書けばいいことは知っていました。個人旅行社なので英語表記の略称、AUGとかSEPとわざわざパスポートの表記どおり書いて、しかも誤記入したのです。やはり大事なことはネット情報を印刷して所持していくべきでした。

同伴者はロングステイするので帰国は一人旅になり、空港まで車で同伴者とタイ女性が送ってくれました。
空港に入ったら最初に、空港利用税を窓口で支払うことも教えてもらい、彼らは通関も遠くから見ていてくれ、何がトラぶっているのか心配顔でしたので、戻って説明し二人を写真に撮りました。
彼女にはその前、最後の一緒の外食で別れの餞別に、日本のお年玉袋に1,000バーツ紙幣を入れ感謝とお礼の印にしました。また、この食事の席で、数日前、街でタイの旅行案内所のマスターがくれた、品のない日本製ビデオ・DVD2枚を処分してくれるよう依頼しました。

また、出国の通関では黒い精悍そうな麻薬探知犬が、ゴルフバッグや旅行鞄をクンクン嗅ぐときは、DVDを処分してホットしましたが、なんとなく不安でした。


タイ旅行の思い出2

2012年08月30日 | 旅行

ターペイ・プレースホテル(Tapae Place Hotel

空港出発まで、今でも解せぬ思いをしていることは、インターネットでゴルフバッグを空港まで宅配便を利用して、中部國際空港で出発時に受け取ることにし、同空港のホームページから、JALエービーシーの空港宅配便を案内され、ネットで申し込み福山通運が集荷にきてくれましたが、そのときの料金が7千数百円とべら棒に高かったことです。

帰国時に自宅宅配便は1,890円と常識的だったので、わずか一晩か二晩空港に預かってもらうのにこうも料金が違うのか、キチンと問い合わせるべきでした。ひょっとして集配人に引っ掛けられたかもしれません。料金が書いてないバッグのタグしか残っていないのです。
団体旅行やパック旅行と違って失敗はありますが、JALともあろう会社が間違いするのか?

空港でタイ・バーツに通貨の両替をしました。自宅近くの銀行ではドル以外の両替ができなかったからです。
5万円をトラベレックスという会社の窓口で、受付のお姉さんに適当に小銭を混ぜて両替してとお願いしたら、20Bコイン×10個、100B札×10枚、500B札×8枚、1,000B札×10枚=15,200バーツに両替してくれました。
レートは当時1円が0.3バーツ、1バーツは3.3円でしたね。いまも大して変わらないでしょう。
現地の物価を概算するには1バーツを3倍して100バーツは300円と計算していました。
帰国時もこの中部國際空港で残った3,520バーツを円に両替したら、今度はレートキャシュは1バーツ2.42円で、8,518円になりました。
出入り11日間の小遣いはおみやげを入れて4万円弱と超経済的・質素な旅行でした。
他の全ての費用は同行者に20万円の約束で、現地のホテルで円の現金で払ったわけです。

料金の概算は飛行機代が往復の正規料金で64,000円くらいでした。同行者が知人の旅行社を通じて切符を手配してくれましたので、実際はもっと安く手に入れたでしょう。
ホテル代は、大きくないビジネスクラスで650B、これを同行者が短期滞在の私の分までチャカリ長期滞在として、500Bに社長と値引き交渉しました。
一泊1,650円です。きちんとしたツインの清潔な部屋でバストイレ付です。

ゴルフプレー代金は、タイ陸軍の厚生施設でもあり、コース内に競馬場も併設の、市街地から30分のランナ・ゴルフコース(Lanna Golf Course)でした。十分な庶民コースでしたが、ビジター料金は18ホール
グリーンフィー 平日800B ウイーク・エンド1,000B
キャデイ・フィー150B
ゴルフカート600B 計1,550バーツで前払いの5、115円でした。
このほかにキャデイにチップを毎日200B払いました。キャデイが客にあぶれると、日に僅か60B、200円程度の賃金で草取りだと、ここのメンバーでもあるこの同行者は言いました。

キャデイ詰め所には朝、キャデイが客待ちで多数たむろしています。同行者は常連なので二人目だという馴染みのキャデイを毎日指名し、私は彼女の友人のキャデイさんが、二日目からついてくれました。お客一人に単独キャデイです。

食事は豪華クラブハウスではなく吹き抜け、開放型の質素な建物で、小鳥が餌を貰いに飛んでくる風情で、メニューには写真付でなく適当に日替わりで指差すと、美味しい麺類と同伴者の教示で餅米の「おこわ」を毎食頼みました。プレー代とは別のただみたいな料金です。

朝は、ホテル近くの朝粥屋で40B、ここで路上駐車違反を取られ、反則金は40バーツでした。委託整理員のおばさんがバスの車掌のような大きなバッグを胸に下げ、日本人と見れば切符を切るということでした。

タイはチップが必要でルームサービスに毎朝20Bを枕元に、コーヒーショップを出たら子供連れの女性乞食に乞われて20Bを恵み両手で拝まれたり、街の銀行でチップ用に1,000バーツ紙幣を100B紙幣に両替しました。7年も前の話です。




タイ旅行の思い出

2012年08月29日 | 旅行

国王はタイ国民の誇り~ラマ9世 プミポン国王(在位1946~現在)

シリキット王妃

平成17年(2005年)11月18日~28日の11日間のタイ・チェンマイ旅行の思い出です。
同行者はゴルフ場ホームコースで、ちょくちょく相手をしていただいたメンバーさんです。
この方はもう長い間チェンマイの常連で、現地に愛人がいて、中古車日本車コロナを買い与えてあり、彼女の家族に新車の日本車、イスズ・ピックアップも商売用に買い与えているとのことでした。この案内者の親分(私より若い)は女性に投資してあるのです。

空港へは彼女が車で迎えにきてくれました。何でもその直前彼女に不運が襲い、家屋敷のことで前持ち主と訴訟になっているとかで、二人は同行訪問者の私の世話は十分にしてやれないかもしれないとのことでした。
チェンマイには中部国際空港からタイ航空TG645便、AM10:30発、タイの玄関口バンコク国際空港15:15着、6時間弱と遠い国です。
バンコクでTG310便、16:10発に乗換えて、約1時間10分でチェンマイ國際空港着が17:20着でした。まる1日がかりでした。

空港から都心へのバスは出ていないようでした。タクシーもあるにはあるのですが、言葉の通じない外国人には簡単に目的のホテルへ連れて行ってくれる日本とは少し様子が違いました。
うまく彼女が迎えに来てくれて助かりました。都心へ入ってインペリアム・メイピン・ホテル(メイピン帝国ホテル)という一流ホテル前で、同行者は「ここが、テレサ・テンが亡くなったホテルだ」と、案内してくれました「現地の人は、死因は麻薬ではと?言っているらしい」とも付け加えました。ここからあの有名な「黄金の三角地帯」(ゴールデンデルタ)は150キロくらいと聞きました。

テレサ・テンはいまでもファンが多く私もその一人です。You Tube動画で再生リストに入れ、時々聞いたり、ドラマ2007年放送・木村佳乃「テレサ・テン物語~私の家は山の向こう」を見たり、有田芳生著、「私の家は山の向こう~テレサ・テン十年目の真実」文芸春秋2005年の単行本を図書館で借り読みました。死因は急性喘息となっています。

タイは王国で日本人に限りない親愛感を示し、国王はタイ国民の誇りです。皇室に寄せる日本国民の比ではないようです。滞在ホテルの近くを散歩していても政府機関のお役所に国王の肖像、民間の建物でも王妃の肖像といたるところで目にします。


海外旅行の思い出

2012年08月28日 | 旅行

今朝の新聞には米女子ゴルフツアーの一つ、カナダ女子オープンで15歳4ヶ月のアマチュアの、リデリィア・コー(ニュージランド)が優勝と、快記録を報道した。
もちろん史上最年少優勝記録だそうだ。彼女は韓国で生まれ6歳のときにニュージーランドへ移住したとある。

韓国からの移住でアメリカ国籍のプロゴルファーは珍しくない。
何かで読んだことがあるが、アメリカはベトナム戦争で韓国が参戦したことにより、韓国人の移住を好意的に扱うらしい。

私は59歳の6月3日に亡妻と家内の母、妹の4人でハワイ旅行した。女達は2回目だったが私は退職直後でハワイは初めてだった。今日は「ゴクロウさんの日」だと飛行機に乗ってから家内が云った。なるほど、長年の苦労の慰労旅行かと納得したがもちろん偶然そういう日だったのだ。
飛行機はノースウエスト航空で、機内サービスのアジア系女性に「アー・ユー・チャイニーズ?」と聞くと「ノー・アイム・コリアン・アメリカン」と返事が返ってきた。家内が韓国系二世のアメリカ人だと解説した。缶ビールを2本貰おうとしたら1本にしてくれといわれた。二世という日本語は英語化されていることも知った。

この客席乗務員も移住組の二世だろうと想像した。ハワイに着いて乗務員が客を見送ってくれたので、彼女に「カムサハムニダ」とお礼を言ったら、ペラペラと何か韓国語の返事が返された。家内は何を言ったのかと聞くので「韓国語でありがとうといったのだ」と教えた。
この旅行の前年、私だけ招待旅行で済州島(チェジュ)へ2泊3日で行くことができた。

大して多くもない退職金の利殖のため、兄貴が勤める某金融機関の生命保険を5年満期・一時払いで掛けたことによる招待だった。自分の掛け金だけでは足らず在所の保険も合わせて招待基準に達し、兄が私に権利を譲ってくれた訳だ。
そのとき「アンニョンハムシニカ」(おはようございます)と韓国語を覚えた。
済州島(チェジュ)の旅行は私には始めての海外旅行で楽しく過ごし、3日間のガイドは本国から派遣された、小学生の息子さんが一人いる金さんという中年の女性で、名門の韓国外国語大学を出た秀才だった。
日本語はバリバリで英語もできるというトライギンガルだった。「新潟なんかへ留学して日本語を覚えた人は、なまりがあるが私は学問として学んだ日本語で正当な日本語だ」と言った。
妙に私とは気が会い、同行者がうらやむ親しさになったが、バスでガイド中「韓国人は他国へ侵略したことがない民族だ」と言った。婉曲に大戦中の日本支配を非難して言っているように聞こえた。
帰国後先輩とゴルフ中そんな話をしたら「元寇の役」など日本へも侵略していると反論されたが・・。

また、平成17年11月にはタイ・チェンマイへ10日間のゴルフ旅行をした。プライベート旅行で、連れて行ってくれた人はホームコースの会員で、フリーで行った時、ときどき一緒に組んでくれる在日コリアンだった。
金融業と自称していたし事実であるが遊び人という風情で、墨は入れていないが人によると付き合ってはいけない職業の人という人もいた。周囲の知人何人もの人が一緒に行くし、今度行くがどうかと誘われ連れて行ってもらった。費用は、自分持ちはおみやげ代と現地での小遣いだけ、全部で20万という格安旅行だった。
現地空港には彼の愛人で、美人の日本語もバリバリの小学生の女児一人がいる離婚家庭のタイ人の女性が出迎えてくれた。
9日間ひたすらゴルフだけやった。夜の外食で一夜在タイのコリアン・ジャパニーズの男性と3人でシュウマイ屋へ行ったりした。

コリアンも普通に信頼して付き合えばどうってこともない、日本人より親切で優しいところもある。この方にはいろいろ親切にしてもらった。この人の子息は隣の市、愛知県の公立病院で立派な国立医大を出て外科医をしている。
帰国してゴルフ場の従業員は、この種の職業の人と対等に付き合う人だと私を見たり、会員の一部の人は狭い了見で非難する人もいる。
この方はその後ゴルフ場が経営者の交代があったりして、とんと来なくなってしまった。

竹島・尖閣諸島の領土問題が熱い。政治と経済や文化は区別してお互い冷静になるべきだろう。


暑い晩夏

2012年08月27日 | 音楽

暑い晩夏にバラの3番咲きが小さい花をつけた。毎日夕方水遣りをしていた。
あまりの暑さにアジサイは葉が陽に焼けて水遣りしても元気がない。芝は刈り込みを最大の2.5cm以上は刈り込まないようにしていて、なかなか元気がよい。シャラの木(娑羅の木)すなわち夏椿は元気よく葉を繁らせている。
この木は雌木だったと見えて花は咲かない。庭を家の建替えで整備した時、建築会社が連れてきた庭師に騙された。株も殖え過ぎ大きくなりすぎで庭にいい木ではない。
このシャラに足長蜂が夏中飛んできて止る。今年は春から足長蜂の天敵になって最近は子供の捕虫網で捕らえて、何匹も踏み潰した。放っておくと蟻が寄ってきて餌にし、数日で中味は空になる。

不満だらけの家を愚痴ったら昨夜、居間のダウンライトの一つが駄目になって消えた。とにかく馬鹿げた自己満足の塊・建築設計士に頼んで、大金の設計監理料を取られて家はつくるものではない。遊ばれるだけで後は人生が悲劇になる。 

昨日夕方サウナ・スーパー銭湯に行った。客が多い土日に行かず平日に行けばいいのだが、何となく人が休みで遊ぶ土日は寂しさがあって銭湯へ行くことになる。450円の入場料なのでお値打ちだ。施設も大きく内容もカラオケ・食堂・マッサージなど全部揃っている。

こういう施設は韓国系の企業が多い。水道料はバイパス配管などで水量の誤魔化しは常道といわれるが、ここはどうだろうか。
イクメンパパが小さい子を世話して入っていて、キッズは嬉々としてパパに甘えている風景にいつも癒される。

遅めの夕食後、Nスペ土曜からのつづき「北極と南極に迫る危機—シロ熊危機」を見ようと思っていたが、8時からのNHK大河ドラマ「平清盛」などは見ないで、Eテレの日曜美術館を見る。昨日は藤田嗣治の戦争画を見て、つづいて「らららクラシック」--- 音楽の都ウイーンコンサートホールから、若きマエストロ・ベネズエラ出身グスターボ・ドゥダメル指揮---ベートーベン「交響曲第5番 ハ短調作品67」(運命)ベルリンフィルを聞いた。
重厚かつ繊細な演奏で申し分なかった。録画すべきだった。いまは運命とはいわないらしい。NHKの番組ホームページも運命とは表記してなかった。

11時からはTBS系の情熱大陸「25歳の可愛いヴァイオリニスト木嶋真優」のヨーロッパ音楽生活を見た。ウン!可愛いし個性的、ファンになりそう。こういうグローバルな日本人が増えてきて嬉しい。


嘆きの家

2012年08月26日 | 日記

今朝もじりじりと照りつける。L字型の左右を逆に配置した家の間取りの、離れに当る老人部屋は、春から秋にかけて真東からの朝日を受けて夏は耐えられません。
昨年の節電騒ぎでホームセンターからガラス窓に日覆いを買ってきて、アルミサッシの窓枠に金具をネジ止めし、裾は庭木や雨どいにくくりつけて、斜めに張り明かりを取る仕掛けですが、やはり部屋中が暗く陰気です。
もう10年くらい前になりますが、長男の子供が大きくなるので家が必要になり、彼らはいろいろ探したが金がなく土地もなく、家を新築するなんて無謀な夢を追い叶わず、結果的に私が一人住んでいたまだ十分な家を壊し、費用の半分以下を老人が負担し建替えた住宅です。
彼らは退職金の前借で費用を賄い、それでも足りずに銀行からも借金して建てた家です。
返済が滞れば直ちに銀行が差し押さえ競売にできるよう、土地まで抵当に入っています。

そんな無理して、すぐ子供の学資に行き詰まると、当時話したのですが女の子なので高等教育は必要ないと言って無理したのが、現実になって今ひぃひぃ言っています。
しかもデザイン重視の若い建築設計士、本人やオヤジは建築家と自称している事務所の設計の洋風建築です。
家は一代に3つ造らないと本来の家にたどり着けないと言われます。吉田兼好は「徒然草」で家は夏を主体に造るのを基本とすべしと書いています。

デザイン性を主体にした洋風建築、モルタル作り、金属屋根といった家は感心しません。
やはり腕の良い大工さんに一式請負で純和風に、田の字田の字の部屋作りが一番日本的です。
日本の気候風土・生活環境に合っています。建築中から建具職人などが洋風建築はどんなに立派な家でもうらやましくないといっていましたがそのとおりです。
法事に来ていただいた前ご住職も「年取れば分る」と言われました。
自分が二世帯住宅はどうかと切羽詰って提案したこと、設計士も了解したことなので愚痴っても仕方ありません。もう後10年もしないでこの家からも、この世からもさようならですから。

梅雨に入る頃は老人部屋の天窓が雨漏りです。シトシト雨が長く降ると、建具のシーリングが不良かもう劣化で雨が滲み入るのでしょう。新築5年目くらいからでバケツに雑巾を入れ雨水を受けています。外出中から帰ってこの始末だとビショビショです。
もうやけくそで放ってあるのですが、何とか施工会社に電話しなければなりませんが、現存してるやら。
電灯も変なダウンライトでよく球切れするし、交換すると2,500円もするし、その一つは配線か接触不良で点いたり消えたりします。頭にくる嘆きの家です。


夏休みもあとわずか

2012年08月25日 | 日記

子供の夏休みは残り数日となりました。末孫の姫は中学1年で元気に夏休みを過ごし、残りわずかになって、図書館で勉強なのでアッシーをやってとのお願いで、ニ日間送り迎えしました。
図書館は勉強するにはいい環境で冷房完備、50人くらいの勉強スペースが2階に用意されています。
部活も真面目にやり今朝も自転車で行くので、出かける前に日焼け止めクリームを上げました。ゴルフ用の乳液です。部活は陸上部という体育系本格派です。夏休みは7月中も午前中は部活に行きこの暑いのに外で活動といっていました。

いじめなんてどこの学校のことといった健全派に見えます。一度は仲良しとショッピング・モールへ往復してくれとのお願いでアッシーをやりました。滞在時間は2時間です。迎えの電話でまた行くわけです。何をやって遊んだかというとプリクラといっていました。
学校のホームページを見ると28日には全校登校日、30、31日は前期期末テストになっています。

高校3年の二孫はバレーボール部マネージャーのようで、ほとんど毎日部活に行きました。岐阜駅前の河合塾でしょうか夏休み特訓の塾にもいったようです。進路は看護士コースに決めたとか。職業選択をしっかり決めるのはいいことです。流行り廃りがない、いつも求人需要がある、いざというときいつでも働ける看護士は大変な仕事でも女性にはいい職業です。

この春から大学1年になった長孫は「アルバイトをやらないとやっていけん」と言っていましたが、父親の許可が出たとかでチェーン店の喫茶店でウェイトレスのアルバイトのようです。
朝から晩までめったに姿は見えません。私立で授業料が月10万はいかにも大変です。
今はこんな相場なのでしょうか。教員を目指しています。特待生で授業料免除を目指すとか頼もしい目標です。
昨日は自動車学校にも通学しかけたと、自宅前で送迎バスを待っていて乗り込みました。教習2日目です。前日初めて運転したといっていました。

今朝、土曜の新聞は--「教員評価に親・生徒の声 大阪府教委、給与に反映--の見出しです。橋下改革は君が代くらいは許せるが、ここまで逸脱すると反吐が出ます。

昨日はメガネ屋へ医師の診断・処方箋でつくったメガネの検眼に行きました。0.7~0.8と出ました。高齢講習では0.8でした。運転講習センターの検眼では0.6でした。1.0で作ったのでわずか1年数ヶ月でこうも落ちるのか?最初から合わなかったのか?昔、高校の頃、恩師の先生は軍隊で1週間検眼の平均値で眼鏡を作らされて、これが最適だったと話されたことを思い出しました。


猛暑日がつづきます

2012年08月24日 | 日記

1年前の2011.7.30の朝日新聞は「なぜ暑い東海地方?」を愛教大名誉教授の解説で特集。その概要を引用させていただきました。
真夏日とは最高気温30°以上 猛暑日とは35°以上 異常猛暑日とは37°以上。
(異常猛暑日が増える東海地方)
・異常猛暑日が東海地方は増えている。名古屋を例にすると真夏日は全国でも1・2を争うほど暑いとろではない。ところが猛暑日で比べると熊谷や大阪、福岡と並び暑いのが名古屋です。
また異常猛暑日は1995年からだんだん増えてきています。
・太平洋高気圧は日本列島の東側から舌状に張り出してきます。東海地方は地理的に東側にせり出す形をしており、ちょうど東海地方の上に舌の先が乗っかる形になるため、暑くなるためです。
(自然と都市によるヒートアップ)
・琵琶湖方面から吹いて来た30°の南西の風が鈴鹿山脈に当ると、上昇時で24°まで下がります。山頂から下降する時は36°まで逆に気温が上昇します。フェーン現象です。
・都市や街が排出する熱により気温が上昇するヒートアイランドで名古屋を中心に蒸し暑さが増すのです。
(3倍近くも増えた熱帯夜)
・熱帯夜の平均日数は東京・大阪よりも少ないのですが、増加率では名古屋地方は50年間で約3倍になっています。
(亜熱帯化が進む日本列島)
・夏をもたらすのは太平洋高気圧ですが、どんな夏かを決めるのは亜熱帯ジェット気流です。地球温暖化の影響から熱帯地方の海面温度の上昇で、気温的には日本列島は昔より500~1,000キロメートル南へ移動しています。日本の気候はもはや亜熱帯といえるのです。

分りやすい解説なので、切り抜いて保存していました。
熱中症に気をつけましょう。昨日は多治見市が35.6°、美濃加茂市が35°岐阜市が34.9°でした。この暑いのに美濃加茂までゴルフの練習に行きました。さすが暑くて2時間で切り上げました。

夜、この5月に男の子が産まれたヤンママが電話をくれました。少しのお祝いを預けたお礼で、姉の孫で岡崎に住んでいます。上に2歳の可愛い盛りの女児がいます。
電話でお話ししたいというと女児に代わりました。第一声は「あぁ!」、何か話しかけると「あぁ!」、すべてタイミングよく「あぁ!」で十分会話が成立し一服の清涼剤でした。


読書 「昭」 田中角栄と生きた女

2012年08月23日 | 読書

「昭 田中角栄と生きた女」著者 佐藤あつ子 講談社 2012・3刊
著者は“昭和32年生まれ55歳、田中角栄と佐藤昭の娘として東京で生まれる。(認知されていないため、戸籍上の父は別にいる)慶応義塾大学2年退学、文芸春秋2011年11月号で発表した「田中角栄の恋文」が第73回文芸春秋読者賞を受賞した。“
「越山会の女王」と呼ばれた母とオヤジ・田中角栄が私に遺してくれたこと、三回忌を前に父母の素顔を娘が語る なぜ母は私を生まねばならなかったのか”(帯から)

昭は角栄の有能な秘書で「越山会の女王」といわれ、また愛人でもあった。
本の出版後、朝日新聞元政治記者・コラムニストの早野透氏が朝日に、「田中角栄再考」を書いて、この本について「赤裸々な角栄私記である。首相として外遊中の田中が、あつ子に送った愛情あふれるはがきを読むと、何も知らずにオモテの田中を追いかけていた政治記者の私は不思議な感慨を覚える。淋しきは角栄その人だったのか」と書いた。 

著者はあまりにも有名な父と、表には出ない出生の秘密の重圧に悩み、母との関係が円滑にとれなくギクシャクし受け入れられない。母の越山会の女王の娘からひたすら逃れようと、慶応女子高の頃からリストカットを始め、いくつかの恋愛にのめりこみ、愛人の前で包丁で腹を刺したり、大学2年の頃は神戸のホテルの最上階の部屋を予約し、大阪府警へ出向していた知人の警察官僚に「これから飛び降り自殺するので、発見してほしい」と電話した上で、ホテルの5階から投身自殺未遂まで起こす。木の枝に引っかかって奇跡的に骨折くらいで助かった。

本は平成22年3月、81歳で肺がんで亡くなった、母、昭の臨終の床へようやく付き添うが、母は莫大なお金もすべて無くして、質素な家族葬で送る序章から始まっていた。

あとがきでは本の構成をなど一部を、ルポライターの協力を得たと書いているが、母と娘・オヤジの関係を赤裸々に書き、文章も読みやすく、珍しく愛らしい写真も多く一読の価値ある昭和史の1冊だった。彼女は父を一貫してオヤジと書いている。

角栄さんが絶頂の頃、選挙応援にヘリコプターで全国遊説の途中浜松へ降り演説された。
当時私は浜松に長期出張中で、同輩と是非本物を拝見したいと、演説を聞きに行ったことがある。
豊かな気候温暖の静岡と、出稼ぎの故郷越後を比べ、国土改造計画を迫力あるダミ声で訴えられた。
それから間もなく昭和49年11月号の月刊誌・文芸春秋に立花隆が「田中角栄研究--その金脈と人脈」を、児玉隆也が「淋しき越山会の女王」を書き、「昭」の存在が世間に知られて、これが元になってオヤジは退陣に追い込まれていった。
この雑誌を私も買って読み、所持していたが数年前、もう角栄でもないだろと廃棄して、今惜しいことをしたと思っている。


暑い夏ですね

2012年08月22日 | 日記

暑い暑い暑い・・・。給油に行くと141円とガソリンが値上がりしていました。

その足で、蒸し風呂のような平屋部分の鉄板屋根下の老人部屋へ戻る気にもならず、床屋へ行きました。イーオン・ショッピングモールにあるQB・HOUSEという千円床屋です。

うまい具合に5~6人の待ち合わせです。券売機でチケットを求めようとしたら、こういう時に限って千円札が切れています。
両替機もないので案内所へ行って両替を求められます。そこへ行くと「店内でお使いですか?」と必ず聞かれます。「合理化とコストカットは分るけど、つり銭が出る機械にするとか、両替機を置くとか、QB床屋に言ってくれませんか。面倒でかなわんわ」というと「ほんとですね」と答えました。

床屋を終わって映画館の前へ行ってみましたが、それらしいのは掛かっていません。中年夫婦が夏休みなので漫画が多いなと言っていました。

夕方皮ふ科へ薬を貰いに行きました。夏はいつもこの時期、昔は「あせものより」といいましたが、赤い発疹がぽっと体の各所に出て痒いので、いつも処方されるアレルギーを抑える薬「アレグラ」を1週間分貰うためです。受付でいつもの薬なので「診察はよろしいわ」、と処方箋だけ書いていただきました。

隣の薬局で今日8月21日の中日新聞に名大泌尿器科教授 後藤百万(ももかず)先生が排尿障害について書いておられ、薬剤師に新聞をコピーしてもらいました。「10円払います」といいましたが、「よろしいですよ」とご親切にしていただきました。

最近特に多くなって困っている夜間頻尿について「ハルナール飲んでいますね」と薬剤師に指摘され少し話しました。今年から薬局へお薬手帳を提出することになったため、何を飲んでいるか点検されるためです。一晩3~4回は苦痛です。

後藤先生のホームページは前は膀胱がんの専門的解説がアップされていて大変勉強になったのですが再訪してみると、ごく一般的なサイトに改変されていました。
少し詳しいのは京大付属病院のサイトです。私は表在性腫瘍だったため内視鏡手術で済み、経過も良く助かりました。