たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

図書館の本その2

2012年01月31日 | 読書

新築から日が浅い地元医療の中核 岐大付属病院 エントランスホール

過日読んだ、京大原子炉実験所助教授小出裕章(こいで ひろあき)先生の本「原発のウソ」にがんのメカニズムが書いてあった。

”生命は細胞分裂しながら同じ遺伝情報を複製することで支えられています。自分だけの遺伝情報を複製しながら生きています。・・人間は1人1人違う。性別、顔、体、考え方、誰1人同じ人はいない。・・
・・一つ一つの細胞には核という部分がある。その中では父親から得た染色体と母親から得た染色体が23個ずつ鎖状に繋がっている。これら2本のDNA(デオキシボリ核酸)の鎖は二重らせん構造でねじれながら
チミン(T),アデニン(A),グアニン(G)、シトミン(C)という四つの塩基でハシゴ状に繋がれている。このハシゴがどんな並び方をしているかによってその人の遺伝情報が決まる。・・

細胞分裂のときに2本のDNAの鎖がスーッと分かれていって、片方の鎖がもう一方を正確に複製し、新旧が対になって元と同じ配列で繋がるのです。

・・DNAを太さ0.2mmの糸に拡大してみましょう。すると、一つの細胞の中のDNAの長さは全長180kmになります。東京~伊豆大島の距離になります。そして、その糸を正確に複製し、二重らせん構造で繋ぐことを想像してみてください。どんな化学工場でも絶対にできない精密作業が私たちの体内で行われていることがわかります。”

なるほど、がんというのは元の二階建ての家に複製するはずだった遺伝子が、ミスコピーするようになって、いつの間にか間違って10階建てのマンションに複製してしまう。といわれる所以だね。

また、(2011.12.26朝日 ドクタービジット 中川恵一東大準教授 横浜雙双葉学園 特別授業)では、

”16年前、がんで亡くなる人の割合は、アメリカも日本も同じだった。アメリカは年々減っている。ヨーロッパもそう。先進国でがんで死ぬ人が増えてるのは日本だけなんです。
日本の女性は86歳、男性は80歳くらいまで生きます。明治の始めの平均寿命は35歳くらい。がんが世界一増えた理由は、日本人が長生きになったためです。がんは老化だから、長く生きるほどがんが多いというのは当たり前なんです。”

がん、あたりまえのこと。死ぬときは死ぬ、当たり前のこと。「死もまた我等なり」(清沢満之)生死一体(しょうじいったい)生きるのも死ぬのもひと続き。何を恐れよう。

昨日大学病院の定期検診を受けた。




 

 

 


図書館の本

2012年01月30日 | 読書

国宝犬山城 (昔は子孫成瀬氏の個人蔵の城、本物、焼けて再建した城と違う)

当地は年末の25、26日に庭に少し雪があっただけ、寒気は厳しい。ブログに振り回され図書館もご無沙汰でしたが、過日借りてきた本は、原発の危険性・反原発で一貫していて時の人になった、京大原子炉実験所助教授小出裕章氏の2冊、この本はネット検索すると何時も貸出し中だった。貸出し中はネットでも予約でき返本されると電話がくる。わが市のシステムとなっている。

・「隠される原子力、核の真実」2010.12.12発行 創史社
小出氏は1970年10月女川町で開かれた原発反対集会に参加して以降、仙台に、東京に、名古屋に、大阪になぜ原発を作らないのかが原点となり、反原発の立ち位置をはっきりさせてきた人。この本が出版されて3ヵ月後に予言が現実になる。
原発に頼らなくても電力は確保できると解説されている。石油よりウラン鉱石が一番早く枯渇するとある。

・「原発のウソ」2011.6.1発行 扶桑新書
事故後の出版、前著の内容と一部重複があるが、読みやすい講演調の記述だ。事故後のことも追記し難しいことを優しく説いて読み易い。図表も多くこの2冊は原発の欺瞞性、危険性と怖さがよく理解できる好著。本が売れても嬉しくないと、みんもんたの番組で言ったとか。

想定外とか、直ちに影響はない、などと無責任なことを言われて、住むところを追われた貧しい無垢の民の哀れを思う。10Km圏内なんてこれからも人は住めるかどうか。小出先生は福島原発の一定の区域を原発死の灰の置き場にと提案している。

2002年の夏東北旅行した。十和田湖から奥入瀬を下り、恐山へ行く途中で回り道し、むつ小川原六ヶ所村の使用済み核燃料の再処理工場を道路から見たことがある。
このこともちょっと書いて昨年の新聞投書に載った。あれから10年この工場も難航し全く目途は立っていない。既に原発100年分の死の灰を貯め込み3000トンも。金食い虫の高速増殖炉「もんじゅ」なんてまともに完成なんてできないと断言している。
仏教講座の講師も知恵の仏文殊菩薩の名「もんじゅ」を高速増殖炉の名に使うなという運動に署名したといっておられた。

何方のご寄付か図書館から貰ってきたReユースブック棚からは、
・井上靖「しろばんば」文庫本、 
・浅田次郎「鉄道員」(ぽっぽや)初版本、この2冊は前に読んだような気がする
司書のお姉さんには「読んだらまた棚に返して置くね」、「そうして下さると助かります」、「ここのブログ講習に振り回されてるな、えらいものにはまった」、相手は笑っていた・・。
古本は紙焼けと活字が小さいのが困る。今日は大学病院で定期検診の予約。ロビーの待合で読む。

 

 

 


丹生川(にゅうかわ)その2

2012年01月29日 | 日記

私が生まれ育った飛騨は上古から五穀の実りが薄く、奈良時代にはそれぞれの国は大国、上国、中国、下国の4つの等級に別けられました。飛騨国は下国(げこく)でした。下国9国は大半が島なのです。周りに海のないところは飛騨国と伊賀国だけです。
大宝2年(702)大宝律令が施行され、部役令(ぶやくりょう)に「斐陀国条」が定められ「・・庸調(ようちょう)倶に免ぜよ、里ごとに匠丁十人を黠(てん)ぜよ・・」と、命じられました。当時の人口から里ごとの10人は厳しかった。
庸は、税の一種、決まった労働の代わりに納める絹
調は、みつぎ、物品を納める税   匠は、大工、技術者  丁は、公役の人夫
絹や穀物を納める代わりに大工や職人を都に出仕させよと命じらたのです。

これが今につづく「飛騨の匠(たくみ)」の始祖です。藤原宮などの造営で名を挙げます。
橿原市畝傍駅の近くに国名集落「飛騨町」が現在も存在します。このようにして駆り出された人が住み着いた地、全国の国名集落が奈良盆地にはいくつもあるそうです。道路信号標識に「飛騨町」とあって、明日香村への入り口でもあり、はじめ何でこんなところに飛騨町がと驚きでした。
万葉歌人が詠っています。

飛騨人の真木流すとふ丹生の川 言は通へど船そ通はぬ
(柿本人麻呂 万葉集巻7-1173) 

この丹生川を岩波古典文学全集(万葉集)では、吉野の丹生川と、飛騨の国高山市丹生川町(旧丹生川村)を流れる小八賀川、と二説があるとされ気になっていました。

ということでこの歌の川が、吉野では下社の社前を流れる丹生川か、うんと上流の中社の古代は丹生川といった高見川か、はたまた飛騨の国の小八賀川か(この上流の旗鉾という地にもまた昔は平金鉱山というのがあって)、前から興味を持っていて、吉野の丹生川を見たいと思っていたからです。

歌の意味は、「飛騨人が、山から伐り出した真木(まき:杉の古い呼び方、桧の美称)を、筏に組んで川を流す丹生の川は、川岸から言葉を交わせるくらいの、小さな川なので船は通わない」と歌っているのです。もう一句、

かにかくに物は思はじ飛騨人の 打つ墨縄のただ一道(ひとみち)に
(読み人知らず 万葉集巻11-2648)

あれこれと物思いせず飛騨の人は、ただ一心に墨縄を打ってることよ

川流しした真木に墨縄を打って、柱材にしたり板材にする。飛騨の匠がこうした木工に関して卓越した技術をもっていたことが、大宝令の施行とともに、「斐陀国条」が規定された背景にあったと思われる。と、後で偶然図書館の本で勉強しました。この本が欲しくなってネット通販Amazonを検索し、古本を手にしました。何と新潟県の書店から取り寄せでした。
(出典:京都教育大教授 和田 萃(しとみ)、三重大教授 八賀 晋 基調講演)⇔(「飛騨」 よみがえる山国の歴史 飛騨国府シンポジューム 編者、森浩一・八賀晋 大巧社 1997.8出版」

2年前の高校同窓会は平城遷都1300年を記念し奈良で行った。級友達は翌日の帰路、橿原市飛騨町の藤原宮旧跡をバスで訪ね、地名ともなって残っている地域のコミニティセンターに立ち寄らせてもらい、お茶の振る舞いを受けたらしい。私は手術後のため残念ながら欠席した。

お伊勢参りから神話・古代史と少し勉強しました。どぜう首相がネバー・ネバーと叫ばれる税金は昔も今も厳しいね。


丹生川(にゅうかわ)

2012年01月28日 | 日記

吉野の丹生川上神社のつづきです。上神社に上、中、下と三つあってこんがらがる。
一番上流の奈良県吉野郡東吉野村にある中社は、氏子や宮司さんには叱られますが、道路も狭くとても辺鄙な地です。
立派なお宮さんなのでちゃんと受付事務所に正装した宮司さんが居られます。宮前に吉野川の支流高見川と書きましたが、どこかで貰った奈良県観光連盟発行の地図にもドライブマップも高見川となっています。

ところが中社で貰ったパンフのこの宮の由緒です。
”当社は今を去ること1千3百余年前、天武天皇白鳳4年「人声ノ聞コヱザル深山吉野丹生川上ニ我ガ宮柱ヲ建テテ啓祀セバ、天下ノタメニ甘雨ヲ降ラシ霖雨(りんう:長あめ)ヲ止メン」との御神教によって斎祀された”とあります。

そして「水神の宮居」という地図が載っていて、宮前を蛇行し流れる川は高見川でなく丹生川となっています。神域の一部が丹生川(象の小川、小川)、丹生の峰などとも記されています。古代は丹生川といったのかなぁ。この疑問は「玄松子の記憶」さんで解消した。太古はこの中社、高見川を丹生川といったらしい。奥の宮、口の宮もいろいろ変遷があったらしいと分った。

歴代朝廷の御崇敬は篤く 後醍醐天皇御製
 この里は丹生の川上ほど近し 祈らば晴れよ五月雨の空  と詠っておられます。

ここから、車で小一時間吉野川を下って川も太くなり、大淀町の下市口駅前、岡崎から吉野川を渡って30分くらいのところに奈良県吉野郡下市町町長谷、下社があります。字は長谷ですが土地の名は丹生です。ここも辺鄙なところです。

由緒も歴史も古いのお宮のようです。社前にここにも丹生川の源流が流れています。この丹生川は現在の地図表記も丹生川です。
宮司さんに聞きました。「ここは何故丹生というのですか」、「昔この上流に神社仏閣を朱色に塗る塗料の丹とういう鉱物が取れたからです。そういうことで丹生(にゅう)といいます」。

辞書には「丹(たん)は赤色の土、朱砂、辰砂(しんしゃ)」とあります。神奈備さんによれば中社も下社も朱砂の女神丹生都姫といって、いにしえより渡来した姫神を祀ったらしい。
丹生という地名から丹生都姫伝承から辰砂まで、この神奈備ドンは呆れるほど博識です。

神社の歴史は仏教とはまた別に奥が深く参ってしまう。私がなぜ丹生川にこだわり、興味を持ったのか長くなるので・・。(つづく)

付録)私のブログは昨朝で丸7週間余経ちました。
誰かに読んでもらおうとして始めたものではなく、暇つぶしの日記でした。お粗末な内容で恥欠き日記にもかかわらず、予想外に多くの訪問者で少し驚いています。訪問者にお礼申し上げます。寒いので遊びにも行けず、仕事にしてせっせとアップしました。

小さい文字で読みにくいと思います。ブラウザの字を大きく表示する方法は幾つかありますが、簡単なのは、「Ctrlキーを押したまま+マウスポインタのホイールを回すと表示文字の拡大.縮小が可能です」ので、110%以上でお読み下さい。

当方ブラウザはWindows Internet ExplorerV8 (V9はXP非適用)のほか、
Mozilla Firefox 、Google Chrome の三つを入れていますが、どれも同じ方法です。Google は文字の再変換ができませんので、ブログの投稿編集には不適です。Firefoxが開いたページがタブで表示されるので、ブログ編集には便利なような気がします。

                                  


八咫烏(やたがらす)

2012年01月27日 | 日記

愛知県犬山を流れる木曽川(水量不変の川も今冬は渇水気味:寂光院下)

同じ八咫でも今度はカラスです。
八咫烏(やたがらす)は神武天皇東征の際、熊野の国から大和の国へ道案内したとされる3本足の烏です。ウィキペディアによると、この場合は単に大きいという意味とか。

平成16年正月元旦に法隆寺にお参り、紀州、白浜温泉で一泊、翌日那智の瀧の根元にある民宿に一泊、熊野那智大社へお参りしたとき、参道に沿った街灯のデザインが八咫烏だった。ワールドカップ・サッカー・オールジャパンのシンボルがこの3本足の八咫君であることはご存知のとおり。

平成18年には熊野の山を一つ越した、桜の名所吉野の上流、丹生川上神社中社へお参りした。東吉野の辺鄙な山の中の神社です。この社の前を流れる川は吉野川の支流高見川。
このほかに上社下社と歴史のある神社が二つ。

中社の宮司さんに「何でこんな山奥に似たような名前の神社が三つもあるの」とお聞きしたら、昔、神武東征の際、八咫烏が神武を道案内した道筋に当たるためと説明された。

橿原市に皇祖神武天皇をお祀りする橿原神宮がある。大和三山のひとつ畝傍山(うねび)を背景にした、大きく静かで立派な神社だ。ここは2回お参りした。後二つの山は、耳成(みみなし)と、
持統天皇の歌
「春過ぎて夏来たるらし白たへの衣干したり天香具山」(万葉集巻1-28)

「日本人の心のふるさと」と言われる古代史、明日香村を中心に、吉野町、橿原市、桜井市、天理市周辺を、高校の級友が吉野町の団地に別荘を持っていた関係で、時々行っては何年もかけて歩き回っています。

八咫烏と同じ道案内、猿田彦神はお伊勢さんの内宮さんの正門前に、猿田彦神社があった。猿田彦がニニギの天降りの先導を終えた後、伊勢の五十鈴川の川上に鎮まったことに由来するらしい。

私の住むこの辺では猿田彦様は屋敷の神様とも聞いたことがある。壊してしまったが旧宅を増築した際、ここでお払いをしてもらったという砂を、請負師が清めの砂だと撒いてくれたことがある。また変な方へ脱線した。

付録)神奈備HP紀の国の神々と古代にも詳しい。


八咫鏡(やたのかがみ)

2012年01月26日 | 日記

犬山城と木曽川

12月ブログ講習の際、会場となった市図書館のReユースブック棚から、貰ってきた本
「栄光の岸壁」(上、下)新田次郎 新潮社 昭和48年刊  の冒頭の一節に

”天孫、ニニギノミコトがタカマガハラから日向(ひゅうが)の国高千穂に降りてこられるときに、道案内をした神様が猿田彦神(さるたひこのかみ)である。猿田彦神は身の丈七尋(ひろ)というから42尺、鼻の長さ7咫(あた)(咫は古代の尺度の単位、親指と中指を開いた長さ で6寸)というから4尺余りもあって、目は鏡のように光っていた・・。” ・・とあった。

(あた)とは長さの単位と知った。 

三種の神器のひとつ八咫鏡(やたのかがみ)は伊勢銀宮内宮さんの御神体、草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)は名古屋の熱田神宮の御神体、もうひとつの八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、は天皇の御所にあるとされる。

”八咫鏡は「周尺の八寸を咫とし、十寸を尺とする」とあり、この「周」とは円周のことである。日本の八咫鏡は円周 8 咫、すなわち径 2 尺という意味である。後漢の尺は 23.04cmであるから、直径 46cm 前後の円鏡を指し、現在 4 枚の出土例がある。”とウィキペディアで解説されている。
漢和辞書では「咫は周代の長さの単位。8寸」とあり、周王朝はB.C.1122~221の867年間と分った。
八咫鏡の裏にはヘブル文字(ヘブライ語)で書かれているとかの説もあるらしく興味は尽きない。

元旦にお伊勢さんへお参りした縁で、ネットで歴史を勉強しました。長い歴史だね。

 


連続無窮(れんぞくむぐう)

2012年01月25日 | 読書

             花が咲いて蝶が来る 蝶が来て花が咲く
             花は無心 蝶は無心 良寛 (愛知県犬山市寂光院)

仏教講座では講師が本を出版しておられる方は、受付に何冊か購入できるよう持ってきて陳列される。12月の仏教講座は元明治学院大学名誉教授、阿満利麿(あまとしまろ)先生の講演で先生のご著作2冊を求めた。

「親鸞」ともう一冊は、氏が代表者の同人誌「連続無窮」(れんぞくむぐう)、1,200円と高めであったが実費、同人誌というのは何を書いてあるのだろうと買ってきた。
講演の最後にこの本の出版直前に起きた、福島原発の事故に対する同人一同のメッセージを読まれた。

「連続無窮」とは難しい言葉だ。親鸞聖人の言葉と紹介されたが解説はなかった。1月の講座で廊下においてあったパンフを貰ってきたら、そのパンフにその言葉が書いてあった。

”前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き、後(のち)に生まれん者(ひと)は前(さき)を訪(とぶら)え、
連続無窮(れんぞくむぐう)にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲(ほっ)す”
「安楽集」(あんらくしゅう)

先週、喫茶店の週刊誌、週刊現代だったか、五木寛之氏が新聞で連載された「親鸞」(下巻)が出版されて、記者の取材を受け、「親鸞という人は、多くの著作や手紙を残されたが、自分のことは全く書き残されていない。僅かに奥さんの恵心尼・消息(えしんに・しょうそく)という手紙が西本願寺の蔵で偶然発見され、それが伝記の手掛かりになるのみ。巷間親鸞伝記はこれを基にされるが、この手の伝記を書こうとは思わなかった。自分の想像する親鸞像を思うがままに小説にしようと思った。とにかく親鸞という画数の多い漢字をしんらんと読んで貰える人が増えたら幸いだ」と言う趣旨だった。

それにしても親鸞という人はすごい人だ。
”早くに母親を亡くし、養和元年(1181)9歳のときに叡山に上がり、愚菅抄(ぐかんしょう)の著者として有名な慈円(じえん)の弟子になる・・しかし彼は29歳にして叡山を去った・・”
(歎異抄入門 梅原 猛 PHP文庫)

当時の比叡山は今の東大、総合大学のようなものだったらしい。電気も、辞書もネットも無い時代にどうやって、20年間も黙々と学問を勉強されたのだろうか。学識は第一級といわれる。
昨日は何となく新聞記事からたいそうな東大論を述べた。今日は何となくこういう記事になった。

さて「連続無窮」の意味であるが、漢和辞書を引くと、「窮」(きゅう)は、きわまる、つきる、なくなる、などをいうとあるので、「つながりつづき、つきることなく」という意味と解した。

・・たとひ法然上人にすかされまひらせて・・法然上人にだまされて念仏したため地獄に落ちても後悔はしない。・・歎異抄(たんにしょう)第2条・・、連続無窮とは、ゆらぎもしない師への敬愛と信心、念仏がこの世につづくことを願われた言葉であろう。

ブログなどというアホなこと始めて、買ってきた本の読書がサッパリ、目はショボショボ、肩はコリコリなのである。

付録)連続無窮は道綽禅師の言葉を親鸞が主著教行信証の最後に記されたものらしい。この方のブログをご一読を!


東大秋入試

2012年01月24日 | その他

東大の浜田純一学長が秋入学を悲願とし、学内の検討組織が具体的な問題点を洗い出すなど本格化してきたようだ。提案の論拠をネットの読売新聞記事で見た。

1、学部に所属する1万4000人の学生のうち、海外へ留学した人数は過去10年間で、年間30~60人に低迷していること。
2、在学中の留学をためらうおもな要因は、海外の7割が秋に始まるため、帰国してからの卒業が1年遅れてしまうこと。
3、学部で受け入れる留学生の比率も米ハーバード大が10%なのに対し東大は1.9%。東大の国際的評価にも影響して世界ランキングで2005年の19位から11年には香港大に抜かれてしまった。
4、東大が動くことで日本社会全体の意識を変えたい。グローバル化が加速する世界に乗り遅れる原因が4月入学にある。
5、高校を卒業して半年の待機期間はボランティア活動などさせて、国際体験や社会体験をさせて、より有為な人材を育てる。

という、夢のような願望を期待しておられる。
少し待っていただきたい。こういう提案はキリスト教でないとグローバル化する社会に乗り遅れる。仏教徒はすべからくキリスト教に改宗すべきだというのと同じ、と言っては言い過ぎだろうか。
4月入学はさくら咲く日本の気候風土に合い、長い教育の歴史や日本の社会システムに馴染んでいる。変えるなら小学校入学を秋入学にすると言うならまだ分る。

世界の小学校入学時期はバラバラである事もネットで分る。就職・入社時期も混乱する。どうしても東大が秋入学に変えたいなら、東大だけそうしたらいい。入社も同年齢の一年遅れ、それでも日本社会は全く不自由しないし不都合ではない。
受け入れ留学生のトップクラスが欧米へ流れ、セカンドクラスしか留学して来なくても良いではないか。世界評価のランクが低いのも東大卒のノーベル賞受賞者が少ないことからも自明。

そも東大は日本の大学予算の配分比率が高い大学。余計な半年の待機期間で世帯負担や国家負担を大きくするより、卒業したら直ぐ働く、働いて国や人の役に立ち、多大な国のお金を使った学費を税金で納めて返す。これが混迷を深め、地球が益々住み難くなる今後もっと大事なことではないか。

私は大学はおろか、高校も定時制で戦後日本の再興に懸命に働いてきた世代だ。現職時代は組織の田舎の下っ端で、会社の支社長に東大出の上司が赴任されると、神輿に担がれて温厚に過ごされるタイプと、野心的で業績主義の方は人情味に薄く、冷酷に切り捨てるタイプ、と遠くの山を見上げる感じだったが一般的に個性的過ぎる印象も受けた。

東大、秋入学結構、ただ東大だけにして貰いたい。半年の待機期間中、確りボランティアでも社会体験でもして人間生を磨き、世界的活躍をして貰いたい。旧帝大系に呼びかかけてまた序列化するような混乱は避けて頂きたい。それより問題続出のセンター試験を廃止することを提唱してほしい。

 


ショッピングモールの床屋

2012年01月23日 | 日記

             花が咲いて蝶が来る 蝶が来て花が咲く
             花は無心 蝶は無心 良寛     (愛知県犬山市寂光院)

数年前、車で15分くらいの所にイオンモールという大型ショッピングモールができた。
その中に「QB HOUS」という全国チェーン店の1000円床屋が開店した。行ってみると顔剃り、洗髪は無し、カット専門、櫛は使い切り、欲しければ貰って帰る、洗髪の代わりにブロワーで吸い取る。「大きい音がします」といつも必ず言う。

勿論好みの髪型を聞いてカットする。10分で終わりだ。すこぶるシンプル、刃物はアルコールで拭いて消毒する。客の回転率がすこぶる早い。長椅子に4人くらい、丸椅子が4、5脚、一人終わるごとに横いざリする待合。最近理髪椅子も1台増えて5台、理容師は比較的若い。

カット専門なので技術は高い。客には中・高の女性も混じる。いつも満席、土日は待つ時間がカット時間の何倍も長い。

散髪は40日が普通の人のローティションという。最近の客は子供大人とも皆カットする髪の量が多い。2ヶ月置きくらいに来るのだろうか、長期が増えてきているとか。

髪型の注文は皆細かい。特に子供の髪型については男親でも、女親でも細かく注文し理髪師が仕上がりの確認を親に求める。現代世相なんだね。
爺は頂点も後ろが剥げて薄くなり、細い髪の毛質でも気持ちが悪くて1ヶ月が待ち切れない、スタイルも理容師任せ。

昨日は私の直ぐ後に、双子かなと思われる2歳くらいの男女、可愛盛りの子連れの若いパパが来た。子供達に店の外の丸椅子で待つよう言われ子等は従った。そのうち女の子が自動開閉のドアの把手に手と背を伸ばして触り、ドアを半開きし「おとうさん・・・」と二回ほど・・。何とも可愛い。若いパパは知らん顔。
三回目に「お父さん、おなかペコペコ・・」、ホントかいな。男の子はジッと我慢。散髪が終わって店を出るとカットを始めたお父さんを見ようと、二人は丸椅子に膝座りして伸び上がり、鼻をガラスにくっ付けてお父さんの散髪具合を観察してござった。

こういう姿はエンゼルですね。良質の映画のワンシーンを観るように癒される。土曜日、久しぶりにパパとモールへ連れてきてもらった嬉しさが溢れていた。ママはパートかな。

枝野通産大臣も家へ帰れば、5歳の男の双子のパパとして嬉々としてお戯れであろう。地震の対応で大騒動のときは官房長官、子供が淋しがって泣くので、寸暇を割いて会いに行かれたと新聞で読んだ。

 

 

 

 

 


仏教講座

2012年01月22日 | お寺参り

出あえてよかった ようこそ ようこそ (愛知県犬山寂光院)

今年は当地方、東海地方は雪は年末に少し降っただけ、大事な書き入れ時のゴルフ場は儲け損なったようだが、日暮には有難い。ただ寒気が厳しい。昨日は少しためらったが仏教講座の日なので行って来た。

講師は現在名古屋の真宗系・同朋大学の学長先生だった。この方はお寺の住職でもあられる64歳の講師だった。経歴は人生の3が1を勉学で過ごされたようなお方だ。

テーマは「世のいのりにこころをいれ--生きることと死ぬこと」。そして先生からのメッセージは
・ガンジス河の川辺に佇んで、露天で焼かれる遺体を見つめながら、生まれ老い病み死んでいく自分を考えた。⇒
(内容)何でも20回ほどインドに魅せられて行っている、12~3回は個人旅行の由、そこには、”生と死がむき出しのまま転がっているから”、ということのようだ。ガンジス河・ベナレス・24時間営業で焼く。貧富の差やカーストはこの場でもあり、貧乏人の遺体はハラワタが少し黒こげの塊に残っていても、棒の先で突いてガンジスへポイらしい。その下流では沐浴している。

・しかし、その生老病死は決して個人的にあるのだけではない。世界的な意味を持っている。自己を問うことと世界を問うことが重なっている⇒
・東日本大震災、更には原発事故における生と死を通して、改めて、人が人として生きるとはどういうことか考えてみる⇒

(内容)福島の原発事故のいろいろを話された。30km圏内のある93歳の老女が”お墓の中へ避難します”という遺書を残して自死、ある略農家の方の自死など、原発が残した人類への警鐘と、仏法の関わり方、社会に関わる仏教といったことを話された。

(感想)死者1万6千、行方不明2千、今回の震災では仏教は本当に被災者に宗教として機能したのだろうか。
被災者のモラルの高さを世界が賞賛した。日本人の精神文化の根底に伝教大師最澄様の教えが1400年後の今も、脈々と生きていたことは頼もしかったし、東北人は立派だ。

このお寺の講座は大学教授・名誉教授等の赫々たる講師が多い。人によりレジュメを配って筋に従ってキチンと話される先生(筑波大名誉教授今井雅晴先生)とか、明晰で哲学、宗教が確りして、板書も適切、達筆などいろいろ居られる。聴衆は耳が肥えた人が多く、同業の坊様も聴衆に混じる。なので講師もよく準備して話されれないと大変だろう。

他宗派の坊さんも居て、挑発的質問で、講師が机を叩いて応酬される場面とか、それは反論では無い。貴方の自説に過ぎない、反論出来たらたいしたものだなどと、目を見張る問答もある。