たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

読書 アンネの日記

2012年06月30日 | 読書

図書館の貸出し係の女性が何冊もある、本の中から1冊を選んでくれた。 

「アンネの日記」 アンネ・フランク 深町真理子訳 増補新訂版 文芸春秋 2003・4刊 図書館の本 

この日記はあまりにも有名であるが、増補新訂版の解説が冒頭に「この本について」と、前書きで紹介されている。以下がその要旨です。

“アンネ・フランクは1942年6月12日から1944年8月1日まで、13歳から15歳にかけてずっと日記をつけていた。
・アンネの日記は手を加えていない原型版 これを Aテキスト
・アンネ自身が戦後この日記を基に本を出したいと考え、原型の日記を清書し、内容に手を加え、文章を書き直し、加筆訂正し、彼女自身が手を加えていた Bテキスト
・アンネの死後、父オットー・フランク氏は娘の希望をかなえるため、日記AとB両テキストをもとに編集し、短縮した第3のバージョンの Cテキストの3種ある。

Cテキスト版は出版され、その後もずっと版を重ねたが以上のような理由から、テキストの範囲は各国によってまちまちだった。この日記が出版された1947年当時は、
・性に関するテーマをありのままに記述することは未だ一般的でなかった。
・Cテキストで文章が削られたり、表現が変更されたりした理由は、オットー・フランクが亡き妻の立場を考慮したり、隠れ家でともに2年余りを過ごした、ほかの人びとを傷つけないためだったとされる。
・日記にはアンネ・フランクの13歳から15歳にかけての出来事が描かれているが、彼女の記述には、嫌悪とか好き嫌い、怒りといった感情が思いやりとかやさしさなどと並んで、同等にはっきりと表現されている。(これは中学生らしい甘えの感情表現とも読めた)
・彼女の父オットー・フランク氏は1980年に死亡し、アンネの自筆原稿は遺言により、アムステルダムのオランダ国立戦時資料研究所に遺贈された。
・1950年よりボールペンで書いてあるのではないか等、その信憑性が問われていたという事情があり、同研究所では残されていたすべての資料を調査し、当時のインクの特性などを科学的に調査し、日記はまぎれもなく本物であることが判明し、日記の原型と調査結果が公表された。

・フランク氏の遺産を包括的に相続し、アンネの日記の版権を取得している、フランク氏の戦後の移住先スイスのバーゼルの<アンネ・フランク財団>は1991年、彼女の自筆原稿に基づいて作成された新版を公刊することを決定した。
・新しい版の編集には作家であり、翻訳家でもあるミリヤム・プレスラー女史が当った。これが増補新訂版という完全版、借りてきたこの本であった。内容は従来の版より30%増え、新たに発見された5ページ分の日記が追加された。
さらに詳しく知りたいと望む読者には、オランダ国立戦時資料研究所編による<研究版「アンネの日記」完全版(第5版)(アムステルダム、2001年)(オランダ語)がある。
彼女の父オットー・フランクが編集した短縮版は、世界各国に普及し政治的意味さえ持つようになっている。“

いづれにしても“鋭い感性と驚くべき表現力で、思春期の夢と悩みが赤裸々に綴られた日記は、永遠の青春の記録として、半世紀を経た今も世界の人びとの胸をうってやまない。”

いつ、おそってくるか、死の影におびえることなく、「大冒険をいま、自分の意思で経験してるのよ」と明るく立ち向かったアンネ。

それにしても、ホロコーストジェノサイドとかいわれるユダヤ人に生まれたというだけで、なぜこうも迫害を受けるのか、増補新訂版の訳者は「異質なものへの不寛容」と嘆いているが、私には600万人も虐殺した、イスラム教とかキリスト教文化というものがイマイチ理解できない。


郵政解散の頃の思い出2

2012年06月29日 | 日記

(前の日からのつづき)
岩手県公聴広報課担当課長からのご返事は、どこの県・市の提言・質問コーナーにもある、受け付けたらメールアドレスを確認するために自動返信されるフォームとは少し違って、キチンと文書番号まで入った正式書類形式の文書でした。
それが送信されてから6日後、県知事から回答が寄せられたので驚きました。以下の文言です。
---件名 ○○様からのご意見に対して回答申し上げます----
○○様
私宛のメールを読ませていただきました。
○○からご指摘いただいたとおり、330兆円もの巨額の資金が政府系金融機関や特殊法人などを経て、公的部門に回る構造は「大きな政府」を生む温床となっており、郵貯・簡保の規模を減らし、政策目的の支出のスリム化を図るとともに、これらの資金を民間に回していく郵政改革の方向性は間違っていないと思います。
ひるがえって、衆議院選挙は、「政権選択のための選挙」です。有権者は各政党の複数の政策を比較考量した上で投票すべきです。

しかしながら、ややもすると「郵政民営化に賛成か反対か」のみが選挙の唯一無二の争点であるかのごとく誘導されがちな風潮に私自身危惧を感じており、地方自治を預かる知事として一石を投じた次第です。
衆議院解散の可能性が高くなかった6月に実施された「日経定例電話世論調査」によると「小泉内閣に優先的に処理してほしい政策課題は何か」との問いに対して、郵政民営化は15項目中11位となっております。詳細は以下のとおりです。
1位 年金・医療などの社会保障問題(51%)
2位 景気対策(31%)
3位 外交・安全保障問題(23%)
4位 雇用対策(23%)
5位 教育改革(21%)
(中略)
11位 郵政民営化(14%)
こうした世論調査を踏まえ、「郵政問題が必ずしも国民にとって優先度の高い政策課題ではない」という記述にしたところです。

なお最近の主な世論調査結果は以下のとおりです。
○8月16日の毎日新聞⇒最重視する課題は何か」との問いに対して、1位:年金・医療・福祉(36%)、2位:景気対策(22%)、3位:税制改革(17%)、4位:郵政民営化(14%)
○8月17日の朝日新聞⇒「郵政民営化は今回の選挙の最大争点か」との問いに対して、「最大とは思わない」と回答した人が52%(「最大の争点」と回答した人は38%)。

以上、ご理解賜りますよう、よろしくお願いいたします。
今後とも、お気付きの点がありましたら、率直なご意見・ご提言をお寄せ下さい。

平成17年8月24日

岩手県知事 増田 寛也
(担当:岩手県総合政策室 政策調査監 ○○ TEL○○ FAX○○
-----------------------------------------------------
いやぁ驚きました。失礼しました。でもさすが宮沢賢治のイーハトーブの国の知事さんだけあるな、と感動しましたね。
その後平成19年、増田寛也知事は4選不出馬で退任され、同年8月安部内閣に、引き続き福田内閣に総務大臣に就任されました。

氏は東京育ちですが父は奥州出身の参議院議員のようです。建設官僚時代小沢一郎氏に見出され岩手県知事に就任されています。総務大臣のときの国会答弁も、お人柄どおり真面目で誠実な答弁をテレビで見ました。
週刊誌か何かで氏には子供がなく、愛妻家で東京帝国ホテルの結婚式の時の指輪交換で貰ったのをずっと肌身離さないとも読み、益々ファンになりました。
小泉純一郎総裁は郵政選挙で圧勝され、4年の長きに首相を勤められ、あっさり引退されました。

ご子息の小泉信次郎さんは「郵政見直し法案採決」には棄権していましたね。骨抜き法案ですから当然でしょう。
純一郎氏は、以後表には立たずコメントもありませんが春先に、「野田首相は権力というものがよく分っていない。輿石氏を幹事長にしたのは間違いだ」と談話していました。 


郵政解散の頃の思い出

2012年06月28日 | 日記

さて、今日も少し政治の話です。今国会では、「郵政民営化を見直す法律」が成立しました。小泉改革の象徴だった郵便貯金と簡易生命保険の完全民営化路線が崩れたと報じられました。消費税に隠れてしまいましたが、簡単にいうと

郵政民営化見直し法のイメージ

政府(株式3分の1越を保有)⇒日本郵政(100%保有)⇒郵便局会社郵便事業会社統合
政府(株式3分の1越を保有)⇒日本郵政(100%保有)⇒(全株処分をめざす⇒ 郵貯銀行かんぽ生命
 が、キモで郵政民営化法(2005年成立)は、17年9月末までに日本郵政(持ち株会社)が保有する金融2社の全株売却を義務づけていた。
見直し法(今年4月成立)は、これを努力義務に改め、日本郵政が持ちつづけることを可能にした。

国民にはよく分りませんが小泉改革は「民間にできることは民間に」が、21世紀の日本のあり方として、譲れない一線、重要な線引きだったのです。
それが結局、旧特定郵便局長等が影響力をもち、確実に勘定できるとされる「1選挙区あたり1千票」を無視できなくなり、完全民営化路線から「郵貯・簡保へ関与を国に残し、官主導経済」に逆戻りした。
「市場はゆがんだままに」、また一歩後退したということのようです。
さらにこれは「郵貯・簡保は国債引受機関」に戻ってしまったのではないでしょうか。

難しくて私にはよくわかりませんが、これはよくないようです。この見直し法は民主・自民・公明が共同提案し成立しました。(出典:2012.6.9朝日新聞 インタビュー/オピニオン「先送り政治の罪」 國際公共政策研究センター理事長 田中直毅氏) 

私は小泉選挙の際、新聞に出た増田寛也岩手県知事の論文に知事宛感想文を送信しました。
論文(2005.8.15朝日新聞)の冒頭の文言、
「小泉首相が衆議院を解散した。首相は「郵政解散」と名付けたが、今回の解散劇は国民にいま一つわかりにくい。
 その理由は、郵政問題は必ずしも国民にとって優先度の高い政策課題ではないことである。二つ目は郵政民営化法案を否決したのは参議院なのに、衆議院を解散したことである。
 さらに、・・」と、つづき「総選挙の争点」には氏の持論である「“地方分権”でも論戦望む」と主張されました。
 私はこの論文冒頭の「郵政問題は田舎の小さな郵便局を廃止して、国民に不便を強いる合理化政策ではなく、真の目的は当時の新聞が解説しているように、“改革の本丸”は国と地方の借金が770兆円に膨れた財政改革にほかならないこと。
郵政民営化も民主党が総選挙で掲げる“3年間で10兆円の無駄遣い削減”も、その手段だ」と、主張するように郵政問題は喫緊の政策課題だと思います。
国民にとって優先度の高い政策課題ではないと主張される、増田知事のご見解にはすこし異議があります。という主旨のメールを送りました。

ご多忙な知事がこんな駄文を目にされることもないだろうし、まさかご返事が来るとは思いもしませんでした。ところが下記のようなメール文書が岩手県・公聴広報担当課長から返信されたのです。
「御提言へのお礼について」
このたびは、御提言をお寄せいただき、ありがとうございます。
お寄せいただいた御提言につきましては、早速、知事に届けるとともに、総合政策室へ、その内容を伝達し、対応を依頼しました。

今後とも、お気づきのこと等がありましたら、お気軽にお寄せくださるようお願いします。

私は岩手県の応対の親切さ・誠実さに感動しました。それで終わりと思ったら今度は数日して、知事殿からまたご丁重なご返信をいただき恐縮しました。 (つづく)         


増税法案が可決された

2012年06月27日 | 日記

昨日の午後、消費税増税法案国会裁決をテレビで見ました。久しぶりの記名式投票だった。野田佳彦首相にとっては悲願であった政治課題なので、可決され安堵されたことでしょう。
昨年のはじめ、税と社会保障の一体改革をやると言って、「立ち上がれ日本」の共同代表だった与謝野馨さんが、菅直人内閣に一本釣りされ入閣されました。
過日与謝野さんは新聞に「行政改革が先といっても、大化の改新から行政改革をやっているができないのだ。できないことをやるより、いまできることをやらなければ・・・」、「野田さんは菅氏と私が提唱したことを、引き継いで実現しようと頑張っている。歴史に名が残る首相になってもらいたい」と、悲願を述べておられた。

昨日の国会ではパーシャル連合という、政策の部分修正合意を飲んだ野党、自民党から元・国土交通大臣金子一義議員が賛成討論に立った。この先生は税と社会保障改革委員会の委員なのか、数日前も質問に立ちテレビ中継されたのも見た。
この先生は実家のある飛騨と美濃加茂・可児市などを選挙区とする古参政治家だ。
私ごとながら、4月に母が108歳で永眠した仮通夜の午後、ちょうど土曜日だったこと、隣町の下呂市長選が行われていて、その応援に行く途中、兄の付き合いの関係で実家に立ち寄っていただきご弔問いただいた。

3年前の私の高校同窓会を世界遺産白川郷でやったとき、どぶろくの振る舞いの最中、神社の境内に先生は来られた。同窓会の世話をしてくれた地元の級友は、役場で枢要な地位まで登ったので、先生とはつとに顔馴染みで、さんそく駆け寄って歓迎し、もう一人の高山市で伝統工芸の事業家の級友は、手をあげて「よう!」と挨拶していた。
「お前は後援会員か」と聞いたらその級友は、「あいつとは、子供の頃父親同士の関係でよく遊んだのよ」と、子分扱いしていた。

さて、消費税であるが、抱きつかれて部分連合した自民党・公明党は、野田内閣の延命に手を貸したのと同じになるのか、小沢一郎グループは離党して新党を結成するのか、造反した民主党員はどう処分するのか、政治は目を離せない状況を迎えている。
まだ二番煎じの厄介な参院審議を控えるが、内閣不信任案が自民・公明から提案されると、可決される状況になってきたので、そうなればアもスーもなく野田氏は解散するだろう。
修正合意の裏には谷垣総裁と密約があったのではないかと報じられたが、それはないだろう。ただ、小沢グループと決別覚悟で修正合意したことは間違いないと想定する。

日本の国がさらに経済が縮小して斜陽化していくのか、また盛り返すのか、財政のバランスだけみれば消費税は20%くらいまで行かなければ改善できないことは、世界各国が教えている。

国名 標準税率 食料品などの税率 世界各国で低い税率に抑えている主な対象
スェーデン 25% 12%  
ギリシャ 23 13  
英国 20 子供用の衣服や履物・スーパーの惣菜など
フランス 19.6 5.5 肥料・医薬品・バター・板チョコなどの食料品
ドイツ 19 新聞・雑誌・ホテル宿泊費など
中国 17 17  
フィリピン 12 12  
韓国 10 10  
日本  
カナダ 持ち帰り用ドーナッツ(6個以上買った場合)などの食料品

出典)朝日新聞2012.6.22税と社会保障 修正法案ポイントから (財務省調べ2011.1現在)

付録)この記事はブログ編集エディターは Windows Live Writer で作成しました。でないと表がアップできません。gooブログに対応させる方法を参考にしてください。


消費税裁決の日、岩手県の思い出

2012年06月26日 | 日記

今日は消費税増税案国会採決の日、昨日の国会中継の自民党の長老、伊吹文明氏と町村信孝氏の質問をテレビで見たが、やはり常識的で分りやすい質問内容で安定感があった。

伊吹氏は「大変なので助けてくれと隣に求めながら、家の中の者が勝手なことを言いまくっている」と、もう答えなくていいと嘆いておられた。
市井の一老人の私も小沢一郎氏には呆れてしまっている。3月はじめ頃から週刊文春が書きまくっている小沢氏関連の記事を喫茶店で拾い読みしてきた。
先週土曜日の朝日社説は「小沢氏の造反・大義なき権力闘争」と、大批判するし、喫茶店で読んだ読売は2面を割いて週刊文春が書いてきたところの、小沢和子夫人が後援者に宛てたとされる長文の手紙のことを報じていた。

今日予定どおり反対票を投じるのであろう。造反とか離党とかいわれる議員が40人でも60人でもいい、反対でも、欠席でもいい、政治家らしい信念でそれぞれが貴重な一票を投じてほしいと願わずにはおられない。

その結果責任はいさぎよく取ってほしい。鳩山さんは反対票を入れるが離党しないとか、輿石幹事長のように、なにがなんでも民主党は割らない、などの政治姿勢は国民には理解されない。除名してスッキリした政党に脱皮すべきだ。

私は消費税増税に積極的賛成ではないが、国の財政、プライマリーバランスという収支が、こうもひどくては、貰っている年金も、お世話になっている医療も、今のレベルが下がったら困るので、朝日や読売が説く「増税もしかたがない」の論に組している。
国民のみなさんに増税をどうか理解してくださいと、お願いしなければいけない立場だろう。

小沢氏は岩手県の選出であるが、岩手は平成14年8月11日、当時二男が仙台の関連会社に出向した縁で、ひと夏東北旅行した。
当日、世界遺産になった平泉・中尊寺をお参りし、金色堂を拝観し、寺僧に「建立した藤原清衡は、大和の藤原鎌足と関係あるの・・」と聞くと「いえ、関係ありません。“むかでのとうた“ご存知ありませんか、その藤原です」と禅問答のような会話をした。

その後、花巻市の宮沢賢治記念館に寄ってみようと二男に提案し行ってみた。
付属施設にイーハトーブ館があって、一帯はきれいな観光施設に作られていた。記念館からは、はるかに北上川が遠望できたし、館内には賢治の「雨ニモマケズ」の詩の原稿が粗末な小さい手帳に鉛筆で書いて展示してあって、賢治の死後発見されたと解説されていた。

この詩は私が中学1年の担任の先生が黒板に書いて教えてくれたのが印象深く記憶に残っている。

またその後の平成17年8月小泉郵政解散選挙の頃、当時の岩手県知事・増田寛也氏の朝日「私の視点・ウイークエンド」に「総選挙の争点・“地方分権”でも論戦望む」と題する論文が掲載され、その記事の感想文を県庁知事室宛送ったら、なんと増田知事からご返事をいただいた。全く予想もしなく恐縮した。その後増田氏は安部、福田内閣で総務大臣に民間人として登用され重責を担われた。そんなわけで増田氏にも岩手県にも好印象を持っている。

話は脱線したが、小沢氏は和子夫人とは既に別居しているのを週刊文春が報じていたし、放射能が恐くて震災に遭った選挙区の岩手に行ってもいないと手紙で非難する和子さんは、もう一郎氏と復縁しないだろう。
過日の「女性自身」は“ 糟糠の妻 和子さん(67)こらえ続けた39年間の非道、小沢一郎(70)離婚拒否 金やらん ”と広告していた。一郎氏はどうも親しめない。

今日は亡妻の墓参りの日、11時頃、朝・昼兼用のモーニングを喫茶でとって、スーパーへ寄り花を買って手向けよう。


オーケストラを聴きに行った

2012年06月25日 | 音楽

音楽は聴くだけでくわしくもありませんが、日曜日は久しぶりにオーケストラを聴きに行ってきました。

公益社団法人 岐阜県交響楽団 第17回岐阜県民文化祭協賛事業 第79回定期演奏会
2012年6月24日(日) 会場 羽島市文化センター「スカイホール」午後2時開演~4時まで

入場料 2000円 当日券300円増 指揮 井村 誠貴(いむら まさき)

いつも建築家 安藤忠雄氏設計の 岐阜市、長良川國際会議場 さらさーら が会場になっていますが、最近年1回くらい羽島市や、岐阜市の隣町、瑞穂市文化センターでも行われます。
岐響は地元の長い歴史を誇る本格派で、1953年発足、楽団員は110余名で様々な職業人で構成されているアマチュア・オーケストラです。今回のコンサートマスターは女性でした。

1998年 専用練習場完成(これがすごい)、2003年創立50周年にはサントリ-ホールにおいて「東京公演」を開催、2009年創立55年周年には、世界一の響きを誇るウィーン楽友協会・黄金ホールにて「ウィーン公演」を開催し大成功をおさめた。来年2013年には創立60周年を迎えます。還暦です。
1984年 「地域文化功労表彰」(文部大臣)受賞
2007年 「岐阜新聞大賞」(岐阜新聞社)受賞
1999年 「ふるさと文化賞」(岐阜市)受賞 しています。
今回のプログラムは
モーツァルト/ 歌劇「魔笛」序曲K.620(約7分)
リスト/交響詩「レ・プレリュード(前奏曲)」(約17分)
------------------休憩(20分)---------------------
チャイコフスキー/交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」(約50分) 

第一楽章 約20分 第二楽章 約9分 第3楽章 約9分 第四楽章 約10分

指揮者の井村氏は最近準常任指揮者のように毎回来演されます。
悲愴はチャイコフスキーが1893年10月28日にペテルブルグで、彼自身の指揮で初演された。「悲愴」という表題は、俗説では弟モデストが提案し、その絶妙な表題に大喜びした。また、初演からわずか9日後に、食事の際に飲んだ生水でコレラに感染し、急死してしまった、等々詳しく曲目説明がありました。
指揮者は岐響機関紙{ひびき}に、「悲愴」の4つの楽章の構成は、正に「レクイエム」そのもの、自らの運命にこの鎮魂歌を意図的に書いたであろうか、とコメントをしておられました。
4楽章の構成は私には文章作法の「起承転結」のように思えます。

たまにはナマのオーケストラもいいものですね。なんといっても入場料が安いし、身近な会場で行きやすい、気軽に楽しめます。羽島市文化会館は東海道新幹線の岐阜羽島駅の近くで私は今回で3回目かな。1回目は家から車で25kmくらい、時間に余裕がなく駐車場探しに手間取り、開演に間に合わず会場まで行きながら諦めて、途中映画に切り替えたことがあります。今回は十分な余裕で行きました。毎回ハガキか電子メールで案内がきます。

第80回 定演は 2012年11月25日(日)岐阜市 長良川國際会議場 さらさ~ら
 シューマン/ 交響曲第3番「ライン」、
  ブルッフ/ ヴァイオリン協奏曲第1番、
 山田和夫/交響的「木曽」  です。お近くのお方はぜひどうぞ!


台風一過の日のできごと

2012年06月24日 | 日記

6月22日先週の金曜日は台風一過抜けるような青空に白い雲が浮かんだ日だった。
午前中、ブログ原稿、「ちょこ手を出すな」を書きアップして、あまりの好天気に午後から、ゴルフ・午後のスループレーにひとりで行って見るかと浮気心が出て電話してみた。
フロント嬢の懇意なひとりが電話に出て「1人プレーは可能ですが、今日は既に予約で満員です」と、申し訳なさそうに言った。「では打ちっ放しに行ってみるよ」と答えた。

1時頃フロントへ行くと、彼女は昼食休憩で居なく、最近入った若い可愛い娘さん2人が出迎えてくれた。スタート係り二人の男女も御馴染みで出迎えてくれ、娘さんがマスター室にいて練習ボールを出してくれた。先客は1人いた。

適当に打ち、きっかり2時間で駕籠半分も球は残り、蒸し暑さも増してきて疲れて、残った球を倉庫に納めて、スタート係りに挨拶して帰路についた。

よく立ち寄るコンビニでアイスクリームを食べて、しばらく走ると交通量の多い交差点に着くと、あら!信号機が消えている。前を見ると車2台が接触事故・衝突して2台とも斜めにくっついて事故している。車のそばに警察官が立って事情聴取しているではないか。

事故についてブログアップしてまだ半日も経っていないのにと、右から来た車は私に交差点を優先させてくれ停止していたので、会釈して左右をよく確認して通過した。
2,3km先の交差点でも信号機が消え、交差点で警官が手振りで交通整理していた。前の交差点と何か関連があるのかな、と、思いながら走っていると警官二人が乗った事故処理専用パトカーと出会った。一帯が停電なのか、衝突現場の応援なのか、と思いながら帰宅した。

翌日夕方、外食し近くの銭湯へサウナに入りに行った。土日のどちらか日課みたいになっている。そこで地元新聞・岐阜新聞を見ると、やはり昨日の事故現場一帯は大規模な停電事故があったと報じていた。
前の日、台風の来た木曜日の夕方はスーパーへ食料調達の帰り、雨の道路端に若い男性が坐りこみ、白い雨合羽に制帽を冠った警官が彼に傘を差しかけていた。傍にミニバイクが1台、何があって何を待っていたのだろうかと思って帰宅した。
原発反対もいいけれど、電気がなければ一時も過ごせない社会なのです。


読書 少女アンネ-その足跡

2012年06月23日 | 読書

今日は昼前図書館へ行ってきた。「アンネの日記」を読んでみようかと思って借りてきました・・。2ヶ月ほど前、Reユース棚から

「少女アンネーその足跡」 シュナーベル著(久米 譲訳) 偕成社文庫 1978・7刊 偕成社 

を、誰か市民が寄付されていて、貰ってきて長い時間をかけて読了しました。30年も前の本で新書版です。さすが紙焼けしていますが、新品同様で書き込みもなく良書でした。
内容は、”「アンネの日記」の筆者、アンネ・フランク・・・その短い生涯を彼女を直接知っていた人たちの生々しい証言によってあますところなく伝える・・・・世界的反響をよびおこした名著の完訳。”です。

子供さんにも読めるよう、漢字のほとんどにルビがふってあって、文言は優しさにあふれた筆致で書かれています。
”原著者エルンスト・シュナーベルはドイツに生まれ、そだち第二次大戦中は海軍軍人として連合軍とたたかいました。そして戦後1950年代の初めに「アンネの日記」を読み、深く感動すると同時にじっさいのアンネを知りたいという衝動にかられました。その後数年間をかけて、アンネの足取りを追って各地をめぐり歩き、アンネとかかわりのあった76人の後を追い、そのうちの46人の人たちと会ったり、手紙でつぶさに話を聞き、自分の主観をくわえることも、修飾することもなく伝えているのです。
それにもかかわらず、アンネの人となり、よろこび、悲しみ、いかりが、みごとなまでにえがきだされ、わたしたちにせまってきます。”と、訳者後書きに書いています。初出版は西ドイツの出版社から出版され、出版と同時にひじょうな売れ行きを示し、アメリカ、イギリスなど9カ国で翻訳出版されて、民族・国籍を問わず、多くの人々に深い感銘を与えた本です。

アンネ・フランク一家は1933年ドイツのフランクフルトから迫害を逃れて、オランダのアムステルダムに移住しますが、1940年5月、ドイツ軍はオランダに侵攻しわずか5日で降伏します。
それからもう7月にはオランダ国籍以外のすべてのユダヤ人は役所へ出頭し、住所、氏名を申請すべし。とユダヤ人の迫害がはじまります。
1942年7月、一家は隠れ家生活に入る。この地で父オットー・フランクは香辛料を加工する会社を経営していて、クラーレル、コーフェイス、女性のミープ、タイピストのエリの4人の従業員がいた。他に倉庫番の男の子が二人いたが、二人はこの会社の3階と5階に7人もが、咳一つ音を立てずに隠れていることは知らない。隠れ家には7人に後でひとり加わり8人になったようだ。
4人の従業員が25ヶ月にわたって彼らの隠れ家生活を支える。パンを大量に工面して分けてくれるパン屋さんや八百屋さんが、そうした内情を内心知りながら、真相は問わず協力する。多くの善意に支えられたのだ。
1944年8月誰かの密告で捕らえられて、アンネはアウシュビッツ、ついでベルゲン・ベルゼンに送られ、そこでチフスのため15歳の短い生涯を終えた。1945年2月末から3月と推定される。彼女は最後はひとりになってしまう。
「アンネの日記」は13歳の誕生日に父から日記帳をプレゼントされ、早速日記を書きはじめ、連行される1944年8月1日まで書きつづけた。
クラーレル、コーフェイスは政治犯収容所へ入れられるが、逮捕をまぬがれた二人の女性が、手入れのあった翌週床に散らかった、アンネの日記などを発見し保管する。このミープとエリはただひとり生き残って帰ってきた、父フランク氏にアンネの日記原稿を渡す。
こうして、アンネの声は沈黙させられた6百万の人からはなれて、のちの世までのこされた。

この本は、連行されてからのアンネの収容所生活がどんなにかみじめで、ひどいものであったかを、身近にいて幸い生き残った人の生々しい証言で知ることができる。


「ちょこ手を出すな」の教え

2012年06月22日 | 日記

青は藍より出でて藍よりも青し  (実際の花はもっと濃い紫色のアジサイで珍しい)

昔、労働省の外郭団体「中央労働災害防止協会」の、大阪府河内長野市にある「大阪安全衛生教育センター」でRST講座を受けたことがある。

1週間の宿泊研修で全国から集まった、いろんな企業の安全衛生担当の方々と労働災害防止の基本を学んで職場で安全指導者になるための研修であった。
RSTとは、労働のR、災害防止のS、トレーニングのRの略称だ。KYTとは危険のK、予知のY、トレーニングのTである。和洋折衷の頭文字で労働省はトレーニングは日本語扱いだ。

その指導のなかに「ちょこ手を出すな」という教えがあった。回っている機械が職場にあって高速回転している、歯車なんかにチョットゴミでも見つけて取ってやろうと軍手などで触ると、巻き込まれ片手はおろか、時には肩から先、体全体が機械に巻き込まれて大事故に至る。
動いている機械や、コンピューターなど、どうでもいいことにちょこ手を出してはいけないという教えだった。

さて、どうしてこんなことを思い出したか。昨日は二世帯住宅に住む嫁が「ちょこ手を出し」て爺に叱られた。
わずかにバラ1本と、きれいに咲いたガクアジサイの2本しか花木が無いわが家のさびしい庭に、アジサイが少し盛りは過ぎたがきれいな濃い紫色で咲き残っていたのを嫁が株仕立ての上の方数本の花を茎の中途からバッサリ切ってしまったから叱られた。

前に記事にしたが、アジサイは花をつけたすぐ下の、葉が出たところに翌年の花芽ができる。これを切ると翌年咲かない。株が大きくなり過ぎたらバッサリ根元から剪定せず、株を間引きして整枝せよとネットで教えられている。行きつけの喫茶店のアジサイは昨年庭師ともあろう人が根元からバッサリで今年は咲かない。女将やお手伝いさんに教えたばかりなのに・・。

あ~ぁ!これで来年は丸く仕立てたアジサイの上の方は花が咲かなくなった。冬寒肥をやったり雑草を抜いたり、手を入れて慈しんできて長い間楽しませるアジサイだったのに惜しいことをしたと叱った。

これがアジサイくらいならいいのだが、車の運転でも脇見運転やほかの考え事をして運転すると「ちょこ手を出した」事と同じで悲惨な大事故になる。
数年前親戚が勤めていた近くの病院の医師が、考え事をしていて道路脇を歩いていた、小学学生の女児二人を亡くさせた。事故直後この子らにこの医師は一生懸命人工呼吸をして救急車を待ったらしいと話していた。この医師はたしか禁固3年の実刑だった。 


仏教講座・原発問題

2012年06月21日 | 日記

昨夜は仏教講座に行ってきました。講師は隣の県三重県からお出でいただいたお寺の住職さんで、60歳代の方でした。
講話の内容はお寺の生まれでなく、高校を出て通信教育で大学を出て、教員の道に入り、お寺の婿養子に入り、現在は住職として勤めておられる。
坊さんの修行としては大谷専修学院という学校で1年間、学んだという経歴でした。その中で浄土仏教をどう受け入れてきたかという体験的講話だった。
残念ながら、言葉の語尾が不明瞭な発音で、自分が坐った位置も悪く、マイクかスピーカーの配置が悪いのか良く聞こえなかった。自分の耳も相当衰えてきて聞くのに苦労した。
善男善女をお堂に集めて、お笑いも入ってという類の内容で、講話の筋道、順序立てがよくなく理解に骨が折れ半分程度しか分らなかった。質問時間もある講座なので講談調で無い講義をできればお願いしたい。

お堂で貰ってくる小冊子「ぎふどうぼう」(岐阜同朋)わずか8ページの冊子ながら、これがなかなか良い。
その2012・06月号に巻末裏表紙に「原発銀座に思う」(小笠原 まや)という一文があった。
”・今、日本には54基の原発があり、岐阜県の隣の福井県には
 敦賀原発2基 美浜原発3基 高浜原発4基 大飯原発4基 高速増殖炉もんじゅ 新型転換炉ふげん
と、15基の原発があり、原発銀座といわれていること。
・今年3月に、福井県美浜町水晶浜から仲間と1,000個の風船を飛ばした実験をやった。
・福井県で原発事故があった時を想定して、放出される放射性物質を風船にみたて、その広がりを調べるため。
・10月~4月にかけて北西~北北西の「伊吹おろし」という日本海側から季節風が吹く。
・この実験では岐阜・愛知・三重・滋賀・静岡等で98個の風船がみつかり、なんと80個の風船が岐阜県内だった。
・「放射性物質」(別名・死の灰)」とは、放射線を出す能力を「放射能」といい、この能力をもった物質のことを「放射性物質」(ヨウ素・セシューム・プルトニュームなど)という。
・放射線は人体を構成している細胞のDNAを傷つける。
・放射線の強さが元の半分にまでなる時間の長さを「半減期」といい、ヨウ素131は8日間、セシューム137は30年、プルトニューム239は2.4万年、ウラン238は45億年とされている。
・原発事故が起これば、死の灰は風にのって流れ、被害は拡大していく。原発について考えるキッカケにしてほしい”  と、結んでありました。
よく勉強もし、行動もされていて説得力ある一文であった。小出裕章氏の本にもあったが、原発は地球上に存在しない放射性物質(名前を忘れた)まで、作ってしまうらしい。

福井県知事が地元の雇用・経済の死活問題と大飯原発の早期再稼動を求められたことも十分理解できるし、政府が再稼動を決定したことも理解できる。
原発はここまで日本で深く根を降ろした、エネルギー政策なので急に全廃などできるわけがない。
仙石前官房長官のいう日本人の集団自殺との発言は本音なので反発を受けるが、それが現実であろう。
アメリカは百数十基の原発があるが、地震国ではない決定的違いがあり、時間をかけて廃炉にすべきと思う。
それより、実現不可能といわれ、稼動しないのに年800億もの費用がかかる「もんじゅ」の廃炉を早く決定すべきではないか。
それと六ヶ所村の「再処理工場」のあり方、「使用済み核燃料」保存のあり方を早く検討するべきではないかと思う。

6月17日NHK・Eテレ ETV特集 「核燃料サイクルの50年・無限のエネルギーを夢見た2兆円国策の迷走 高速増殖炉もんじゅの誤算」を観て特にそのように思う。

20日公表の東電の自社・事故調査最終報告は、自己弁護・国への責任転嫁が過ぎて体をなしていない。事故の際のテレビ会議の記録も素直にナマのまま公表すべきだ。
この会社は一気に会社更生法を適用して破たん処理すべだったという意見に賛成できる。