たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

慈悲について

2013年01月17日 | お寺参り

年末には手次寺から報恩講の案内と、新年の法語カレンダーと小冊子2冊が送られる。
1月の法語は「とにかくお慈悲の力はぬくいでなあ」であった。

慈悲とは何か。親鸞聖人が弟子唯円に語った「歎異抄」第4条に慈悲について語っている。
  ・・慈悲といふはものをあはれみ、かなしみ、はぐゝむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲というふは、念仏していそぎ仏(ぶつ)になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益(りやく)するをいふべきなり・・・。

この冒頭を聖道門(自力門)の慈悲と親鸞は解説し、歎異抄第4条後半で
  ・・この世の中でわれらがどんなに他の生けるものをいとおしい、かわいそうだと思っても、われわれの思いどおり、いとしいものを救うことができませんので、そういう慈悲は結局首尾一貫しない慈悲であります。だから、この世の中のことは業(ごう)にまかせて、ひたすら念仏するのが、首尾一貫した慈悲でありましょう。・・
これを浄土門(他力門)の慈悲と大義を説かれています。(歎異抄入門 梅原猛PHP文庫)

いそぎ仏(ぶつ:ほとけとこの場合読みません)になり、ということは死ぬことではなく、悟りを得てという意味、悟りとは無上覚、これ以上ない最高の真理を得ること。つまり仏法に目覚めることと理解しています。

小冊子「真宗の生活2013年版」の一編に「受けとめられるということ」の一文が印象に残りました。
“評論家の芹沢俊介さんが、次のようなことを語っておられます。
・・『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』(講談社)という本がありますが、そこで語られるアレン・ネルソンさんは、ベトナムに出兵して、多くのベトナム人を殺した経験をもつ帰還兵です。彼はその問題を抱えて苦悩する中で、友人からベトナムの話をしてほしいと頼まれ、小学校4年生の子どもたちに話をすることになります。ところがなかなか事実を話すことができず、当たり障りのないことを話して終ってしまったのですが、最後に一人の女の子が、「ネルソンさんは人を殺しましたか?」と質問したのです。自分が忘れてしまいたいことであったため、しばらくの間、何もいえず、その場に立ちつくしてしまいますが、最後につぶやくように「イエス」といいます。
すると、そのように苦しむネルソンさんの姿を見て、質問した女の子が、涙を目にいっぱい浮かべながら、彼を抱きしめて、「かわいそうなネルソンさん」といいます。そして、その自分を無条件で包み込んでくれる優しさとの出遭いによって、ネルソンさんは自分をごまかさずに生きていく力を獲得したのです。
つまり、人から受け止められることをとおして、初めて自分自身を受け止めて生きることが始まるのです。
人間にとって受け止められる、愛されることがどれほど大切なことかがわかります。・・・”
(中川皓三郎 帯広大谷短期大学長 真宗文庫「ほんとうに生きるということ」東本願寺出版部)

私はこの女の子の行為を慈悲と思います。名古屋不動産業一家3人殺害事件、昨日の記事は捜査機関が未だ容疑者を公表していない予想記事です。もし自殺した娘さんが被疑者であれば、この精神的に追い詰められて生きられなくなってしまった被疑者の心を、誰かが「受け止めていてくれたら」、すなわち慈悲があったら、こんな悲劇は起こらなかったかもしれないと思ったのです。

浄土仏教は死んだら極楽へ迎えてもらえるとの信仰です。現世が苦しいのに死んでから助かる宗教なんて・・、という批判があります。ネットにもある新興宗教団体の会員は既存仏教を「死んだ宗教だ」といわれていました。
そうでしょうか?死んだら極楽へ迎えられるという安心感があることによって、今の生き方が変わるのだと説教で聞きました。