たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

蘇我倉山田石川麻呂

2013年01月11日 | その他

今年の初詣は昨年に続き伊勢神宮に参りした縁で、持統天皇と夫の天武天皇のことをブログでアップしました。
私の住まいの近く指呼の距離に、伝蘇我倉山田石川麿の墓、宮塚があります。
伝承史跡で文書では残っていない。岐阜県各務原市指定史跡で市史を読むと、当時この地方は、後の壬申の乱で活躍した村国連男依が活躍したように、大和朝廷と縁が深かった。

天武天皇は天智天皇の弟、天智天皇は幼名、中大兄皇子(なかのおおうえのおうじ)で、乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)では中大兄皇子と、中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変の中心人物です。
この乙巳の変で重要な脇役を務めたのが、同じ蘇我一族の蘇我倉山田石川麿(そがのくらやまだのいしかわまろ)です。

この石川麿はその後右大臣の枢要な政治的地位に登りますが、弟蘇我日向(ひむか)に謀反の疑いありと讒訴(ざんそ)され、氏寺の山田寺で自害します。その後この謀反の疑いは晴れ無実とされます。
この山田寺跡が発掘され明日香村の隣の桜井市にあり、国指定史跡になっています。一度行ったことがあります。
近くに飛鳥の展示施設、飛鳥資料館があり、掘り出され保存された山田寺の格子戸をはじめ、持統天皇が開かれた日本最初の都、藤原京の模型が展示されています。
郷里の飛騨の匠(たくみ)が、この藤原京造営に深く関わりました。

また、山田寺の仏頭が奈良春日公園の藤原不比等が建立したという藤原氏一族の氏寺、興福寺宝物館に安置されています。あの有名な阿修羅像と共に。
あるときの拝観で、「どうして山田寺の仏頭が興福寺にあるの・・」と、つぶやいたら、傍にいたご婦人が「きっと盗んできたのよ」と、言われました。二度行きました。

伊勢神宮式年遷宮の発意が天武天皇であり、皇后の持統天皇が第1回目の実行者、天武天皇の舎人が当地の地方豪族であり、天武天皇の兄、天智天皇の義父に当る、蘇我倉山田石川麿の墓が私の住む近所にある。

古代の歴史が身近に連綿と繋がるご縁を感じます。