たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

お彼岸法会4

2012年09月27日 | お寺参り

誓願 第18願

“法蔵菩薩が(世自在王仏のもとで修行中に)建てた六八の願は、その第1から第48に至るまで、悉(ことごと)くが衆生済度の大願であるが、そのいずれにも、「かくあらば(またはかくあらずば)正覚を(しょうかく)をとらじ」と契(ちか)っている。もろもろの衆生の悩みを済(すく)い、この世から浄土へ彼等を渡さぬ限りは、仏とはならぬとの義である。---その中でとりわけ凡夫のため用意した一願がある。---本願中の本願、まさに「王本願」とか「願王」といわれる---それが第18番目に記された願なのである。”
 以上の引用は「南無阿弥陀仏」柳 宗悦(やなぎ・むねよし)著 岩波文庫 解説は何度も講演を聴いた今井雅晴氏で、柳宗悦氏の晩年の傑作と評価され、格好の仏教入門書とあります。

仏説無量寿経から
設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念。若不生者、不取正覚。唯除五逆、誹謗正法。
せつがとくぶつ じっぽうしゅじょう ししんしんぎょう よくしょうがこく ないしじゅうねん にゃくふしょうじゃ ふしゅしょうかく ゆいじょごぎゃく ひぼうしょうぼう

これが第18願です。文語訳は
たとい我、仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽(しんぎょう)して我が国に生まれんと欲(おも)うて、乃至十念せん。もし生まれずば、正覚を取らじ。ただし五逆(ただごぎゃく)と正法(しょうぼう)を誹謗(ひぼう)せんをば除く。

信楽とは 教法を信じ,これに喜び従うこと。浄土真宗では,弥陀の本願を信じる心。
五逆とは 5種の最も重い罪、父を殺すこと、母を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけることをいう。
乃至十念 「南無阿弥陀仏」と名号を十回唱えること。
正法とは 正しい教え、すなわち仏法。 誹謗とは そしること。

十念について、阿弥陀浄土に往生するためには、法然は十回、口誦念仏を唱えることと解釈した。親鸞は一度念仏すれば、既にそれで往生できる、念仏する心が起こったとき(アもスもない瞬間=これを一念と、ある師はいわれました)、既に阿弥陀仏の方からおさめとって下さるのだと解釈した。(出典:歎異抄入門 梅原猛 著 PHP文庫) 

“---阿弥陀如来の物語とても同じく創作で、歴史的事実ではなく、かかる空想を元に宗教を立てることに懐疑を抱く人も出よう。---
----聖徳太子は、はっきりと「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」(この世のことは虚(うそ)で仮で、唯仏ばかりが真である)といわれた。-----“
引用「南無阿弥陀仏」柳 宗悦(やなぎ・むねよし)著 岩波文庫

お彼岸法会の講師は「宗教は、自然界や人間社会の現象をさまざまに解釈するためのものではなくて、その中で生きる私の心のあり方を問うものです」、「素直な心で受けとめてください」と教えられました。