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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ラストゲーム

2020-03-28 09:00:20 | 作品
 最後のバッターが打った小フライが、内野にフラフラと力なく落ちてきた。ボールはセカンドの章吾のグラブにしっかりとおさまった。
「やったーっ!」
 歓声を上げながら、みんながホームベースへかけよっていく。裕次も、遅れないようにライトからけんめいに走っていった。
 5対4。一点差で、ぎりぎり逃げ切った。これで準決勝進出だ。
 両チームがホームをはさんで整列した。
「ゲーム。5対4でヤングリーブスの勝ち」
 審判が、裕次たちのヤングリーブスの勝利を宣言した。
「ありがとうございました」
 裕次たちは、相手チームに元気よくあいさつをした。
「うわーっ!」
 相手チームの監督にあいさつにいくキャプテンの将太たちを残して、みんなは歓声を上げながらで味方のベンチに戻っていった。
「よくやったぞ」
 いつもは怒鳴ってばかりの監督も、今日は満足そうにうなずいている。
「整列!」
 ようやく戻ってきた将太が、みんなを観客席に向かって並ばせた。
「ありがとうございました!」
 帽子を脱いで、いっせいに頭を下げた。
ベンチ裏に陣取った応援の人たちから、いっせいに大きな拍手が起こった。大接戦の末の勝利に、応援の人たちの方も大騒ぎだ。
「浩介、ナイス、ピッチング!」
「竜平、いいぞーっ!」
 興奮して口々に叫んでいる。
 無理もない。たとえ16チームしか参加していない小さな大会だとしても、ベスト4進出なんて今年のチーム結成以来の快挙だった。いつもは、一回戦か、二回戦で負けてばかりなのだ。接戦ばかりとはいえ、今日は二試合続けての勝利だった。裕次も、みんなとベンチ前に整列しながら、誇らしい気持ちがわいてきていた。

 試合後のミーティングが終わったメンバーは、ようやく遅い昼食にありつけた。裕次はチームメイトとならんで土手の斜面に腰をおろして、コンビニのおにぎりをほおばっていた。
 ヤングリーブスでは、お弁当はおにぎりだけときまっている。おかずやおかしのたぐいは、チームでみんなの分を用意するときを除いては禁止されていた。
それは、子どもたちの間で、お弁当に差がつかないようにとの監督の配慮からだった。もちろん、お弁当を用意するおかあさんたちの負担を、軽くしようという考えもあっただろう。
それでも、実際には、子どもたちには差が生じてしまっていた。お弁当は手作りのおにぎりがほとんどだったが、中にはいつもコンビニのおにぎりを持ってくる子たちもいるのだ。
裕次もそんな一人だった。いつもチームの集合の前にコンビニによって、その日の昼食を自分で用意していた。 
 目の前の河川敷のグランドでは、準々決勝の残り二試合が行われている。少し風が冷たいけれど、河原は広々していて気持ちがよかった。
「ちぇっ、次は、どうせあっちはキャロルが上がってくるんだろ」
「三決(三位決定戦)はあるのか?」
「いや、ないみたいだよ」
「じゃあ、来週はお昼で終わりだな」
 大会のプログラムを見ながら、ほかのメンバーたちが話している。どうやら、来週の準決勝の相手は、この大会の主催者のキャロルというチームになりそうだ。今年も県大会で優勝し、全国大会にも出場している強豪だった。
「うわー」
 すぐそばで歓声があがった。
 裕次が顔を上げると、土手の上では、先にお昼を食べ終えていた五年生たちがふざけあっている。突き飛ばしっこをしたり、ダンボールのそりで草の斜面を滑り降りたりしていた。
 彼らが退屈しているのも無理はなかった。今日も十人いる六年生全員が来ていたので、まったく出番がなかったからだ。
 裕次たちヤングリーブスでは、試合には六年生たちを優先して出している。
どうしても負けられない試合には、上手な五年生を先発で使うこともあった。そんなときでも、代打や守備の交替などで、六年生全員が必ず試合に出られるように、監督はいつも気を配っていた。
 特に、このキャロル杯は、六年生にとって最後の大会だった。だから、五年生たちにはまったくといっていいほど出番がなかったのだ。
 実は、この監督の年功序列のやり方の恩恵を一番受けていたのは、裕次だった。打順が八番でポジションはライト、俗にライパチといわれる九番目のレギュラーだった。
 裕次は、五年生以下で組んでいるBチームのスコアラー(試合の記録をつける係)もやっている。それで、よくわかるのだけれど、五年生の中に4、5人、さらに四年生の中にさえ、自分よりうまい選手がいた。もしも完全な実力主義でAチームを組んでいたら、代打や守備要員としてさえ出場できなかったかもしれない。

「裕次と正人、来週はいよいよ監督だぞ。ほんとに良かったな。今日で終わりだったら、おまえたちまでまわらないところだった」
 うしろから、監督が声をかけてきた。試合や練習中はどなってばかりのこわい監督だけれど、こんな時はけっこうやさしい。
 ヤングリーブスでは、町の秋季大会が終わると、六年生が交替で試合の監督をやることになっている。打順や守備のポジションを好きなように決められ、試合中はサインも出せた。自分の打順を四番にしたり、ピッチャーなどのやってみたかったポジションができたりするので、みんな楽しみにしている。ちなみにさっきの試合の監督の亮輔も、自分の打順をいつもの九番ではなく、たくさん打席のまわる一番バッターにしていた。
「どうせ、裕次までで、俺までまわってこないすよ。準決はキャロルすよ。三決もないから、それで、一巻の終わりすよ」
 六年でただ一人の補欠の正人は、いつものようにおどけた口調でいった。正人は自分だけが補欠なのもぜんぜん苦にならないようで、いつもマイペースでチームのムードメーカーになっていた。
「そんな弱気でどうするんだ」
 監督はそういって、正人の頭を軽くこづいたけれど、目はわらっていた。おそらく監督も、キャロルには勝てるとは思っていないのだろう。もしかすると、「正人監督」のために、すでにどこかのチームと練習試合を組んであるのかもしれない。

 裕次は早めにおにぎりを食べ終えると、ひとりで隣のグラウンドへ向かった。そこでは、キャロルが準々決勝を戦っている。
 さすがに主催チームらしく、たくさんの人たちが応援に来ていた。
(祝 全国大会出場 キャロル)
 応援席の前にはられた横断幕が誇らしげだ。
 裕次は応援席のうしろを通って、バックネット裏に腰をおろした。ここからだと、ピッチャーの球筋が良く見えるからだ。
 もう十一月もなかばすぎなので、三時近くともなるとすっかり日が傾いている。空気がひんやりして、ウィンドブレーカーをはおっていても、まだ寒いくらいだった。
 裕次はいつものようにスコアブックをつけながら、試合を見ていった。たんにスコアをつけるだけでなく、ピッチャーの球速やコントロール、キャッッチャーの肩、守備の弱点、ファールの飛んだ方向など、気づいたことをどんどん余白に書き込んでいく。
 今までは、監督と一緒に、次の対戦相手を偵察していた。スコアブックのつけかたや、どんな点に注意するかを、教えてくれたのも監督だった。
 でも、この大会では勝ち負けにこだわっていないせいか、監督は偵察にはやってこなかった。いや、監督の関心は、すでに五年生たちのBチームに移っているのかもしれない。Bチームは先月の郡の新人戦で優勝して、来年の活躍がおおいに期待されていた。
 試合は、予想どおりに、キャロルが一方的にリードしていた。三回を終わって8対0。もうすぐコールド勝ちだ。
 キャロルのピッチャーは、中学生かと思えるほどの長身だった。それをいかして、球威充分の速球を投げ込んでくる。相手チームが高目のボール球に手を出していることもあって、面白いように三振を取っていた。
(高目は絶対に捨てること!)
 裕次はスコアブックに書き込むと、忘れないように丸で囲んだ。
 相手チームの選手が、苦しまぎれに三塁前にセーフティバントをした。キャロルの三塁手が、すばやく前にダッシュしてくる。ボールをすくいあげると、軽快なランニングスロー。
「アウト!」
 一塁の審判が叫んだ。楽々と、ランナーに間に合った。守備も良くきたえられているようだ。
「ツーアウトよお」
 三塁手が、右手の親指と小指を立てて、野手のみんなに合図を送っている。どうやら、この選手がキャプテンのようだ。
「おーっ、ツーアウト、ツーアウト」
 他の選手たちも、声をかけあっている。
 全国大会に出場するだけあって、キャロルは猛練習で有名だった。裕次が通っている塾の送迎バスは、彼らが練習場所にしている小学校の横を通っている。そんな時、往きはもちろん、時には八時をとっくにすぎた帰りにも、まだ練習をしていることがあった。

「裕ちゃん、いよいよだね」
 スコアブックから顔をあげると、声をかけてきたのは五年生の明だった。めがねをかけた小柄な子で、運動能力の高いメンバーがそろっている五年生以下のBチームでは補欠だった。
 でも、野球を良く知っているので、裕次のあとがまとしてスコアラーに抜擢されている。
「監督をやるなんて、わくわくしない?」
「うーん。でも、相手がキャロルじゃなあ」
「なーんだ、ずいぶん弱気だなあ。いつも言ってることと、ぜんぜん違うじゃない」
 明が少しがっかりしたように言った。
 ヤングリーブスでは、「みんなが出られるように」とか、「へたでもまじめにがんばっている子を使う(裕次のことだ!)」とかが、勝負よりも優先されている。そのために、勝てる試合を失ったことさえあった。
「俺が監督だったら、もっと勝てるんだけどなあ」
って、裕次は明だけには話していた。
「集合!」
 両チームの選手たちが、ホームベースに集まっていく。四番バッターがランニングホームランを放って、とうとうキャロルのコールド勝ちが決まったのだ。
 裕次たちは立ち上がると、ポンポンとおしりについた土をはたきおとした。
(弱気だなあ)
 明のことばが、頭の中によみがえってくる。
たしかに、みんなの弱気なムードに影響されて、いつのまにか自分も
(キャロルには勝てっこないんだ)
と、思い始めていたのかもしれない。
(でも、うちのチームがキャロルに勝てる可能性は、本当にあるのだろうか?) 

「パンフレットを、忘れずに持って帰れよ」
 塾の先生が、さっき配ったピンクのパンフレットを、ヒラヒラさせている。裕次は、送迎バスにむかいながら、もう一度それを開いてみた。
 中には、「私立中学は公立よりもこんなに勉強している」、「東大合格ランキングの上位は、中高一貫教育の私立高校ばかりだ」、「中高一貫教育は、受験勉強ばかりでなく個性重視だ」といった、裕次のおかあさんが読んだら、泣いて喜ぶような受験情報が満載だ。塾でもらうこうしたパンフレットや父母会などでもらった資料を、おかあさんはいつも大事にファイルしていた。
 中学受験で有名なこの塾に、裕次は四年生の時からはいっている。おかあさんが、裕次にも私立中学受験をさせたがっていたからだ。
でも、五年まではまだよかった。週に二回だけ、塾に行けばすんだのだ。それに、塾の授業も学校よりは面白かった。
もともと裕次は、勉強が嫌いなわけではない。成績も、つねに塾でもトップクラスをキープしている。だから、塾とヤングリーブスを両立させることができていた。
 ところが、六年になって塾が週三回に増えたあたりから、それらのバランスが崩れてしまった。さらに、難関私立受験コースへ移った二学期からは、月曜から金曜までの毎日、送迎バスで30分以上もかかる隣の市にある塾まで通わなくてはならなくなっていた。
 本当は、おかあさんは裕次が六年になった時に、野球をやめて受験勉強に専念させようと思っていたのだ。
 でも、裕次は、どうしても
「うん」
と、いわなかった。
私立中学にいきたいと思っていなかったし、大好きな野球をどうしてもやめたくなかった。
さすがのおかあさんも、とうとう最後にはチームをやめさせることをあきらめた。ただし、いつでも難関私立受験コースへ移れる成績をキープすることが、野球を続けることの条件になった。
 おかあさんは、二年前にも同じように裕次の兄を途中でやめさせて、監督たちともめていた。サードで三番バッターだったにいさんがやめたときには、監督はずいぶんくやしがっていた。
 今でも、冗談ぽい口調だったけれど、
「斎藤兄弟には、必要な方に逃げられた」
って、時々からかわれる。
 にいさんは、「チームの中心メンバー」という裕次がのどから手が出るほど欲しい地位をあっさりとすててしまった。そして、今度は受験勉強に熱中して、おかあさんの望みどおりに、ランクが一番高いといわれている私立中学に受かっていた。
「おにいちゃんを見習って」
 それがおかあさんの口癖だ。素直に言うことを聞いたにいさんと違って、おかあさんの目から見ると、裕次はずいぶん頑固に映っていたのだろう。

 帰りの送迎バスが、キャロルがホームグラウンドにしている小学校の横を通りかかった。思いがけずに、キャロルのメンバーは、まだ練習をしていた。県大会に優勝し、全国大会でも上位にまで進んだキャロルにとっては、キャロル杯はただの小さな大会にすぎないと思っていた。
 でも、主催している大会というのは、彼らにとっても特別なものなのかもしれない。きっと、優勝が義務づけられているのだろう。
 ナイター用のライトに照らされて、選手たちの白いユニフォームがキラキラと光っている。
 裕次は、送迎バスの小さな窓を少し開けた。冷たい外気が、サーッと車内に流れ込んでくる。
「バッチ(バッターのこと)、来ーい(こっちへ打ってこいの意味)」
「バッチ、来ーい」
 守備についている選手たちの、かけ声が聞こえてきた。
 カーーン。
見覚えのあるキャロルの監督がノックした打球に、三塁手がダッシュしていく。
 ビュッ、……、バシーン。
 横のブルペンでは、例のノッポのエースが投球練習をしていた。
 バスが校庭を通り過ぎても、裕次は首をいっぱいにひねって、ぎりぎりまでキャロルの練習を見続けていた。
学校が見えなくなって前に向き直ったとき、裕次は、胸の中のもやもやとしていたものが、だんだんはっきりと形作られてくるのを感じていた。
 ヤングリーブスでも、キャロルと同じように校庭で平日の練習をやっていた。一応は、子どもたちだけでやることになっているので、「自主トレ」と呼ばれている。
 でも、五時すぎからは、監督やコーチたちも交替で顔を出して、ノックやフリーバッティングもやってくれていた。
 裕次の学校の校庭には、キャロルのところのようなナイター設備はなかった。暗くなってからは、職員室からもれてくる光だけがたよりだ。明るい校舎よりに集まって、ベースランニングやすぶりを、監督たちにじっくりと見てもらっていた。週末は大会や練習試合が多いので、基本練習をみっちりとやる場はここしかない。裕次はあまり活躍のチャンスのない週末の試合よりも、少しでもうまくなったことが実感できる自主トレの方が好きだった。
 その自主トレに、塾へ毎日通うようになってからは、まったく参加できなくなっていた。当初はそれを補うために、塾へ行くまでのわずかな時間に、家の前ですぶりや壁投げをやっていた。
でも、やはり一人でやるのははりあいがなくて、長くは続かなかった。
 裕次は、本当に野球が好きだった。小さいころから、にいさんとキャッチボールをしたり、ひとりでも家の横の石垣に向かってボールを投げたりしていた。
 にいさんが三年生になってチームに入った時、本当は一年ではまだだめなのに、おまけとして一緒に入れてもらった。チームからもらった、お下がりのダブダブのユニフォームを初めて着た時の、うれしいような恥ずかしいような気持ちは、今でもはっきりと覚えている。
その野球を、受験勉強のために、もう思うようにはやれなくなってしまっていた。かろうじてチームはやめさせられなかったものの、週末に模擬試験がある時は、試合さえも早退したり、途中から参加したりしなくてはならなかった。

 次の日、裕次を乗せた塾の送迎バスが、またキャロルの小学校の横を通りかかった。
 信号が赤に変わって、バスは校門のまん前にとまった。キャロルの選手たちは、今日も元気に練習をしている。
カキーン。
……。
カキーン。
フリーバッティングをやっているところで、バッターは鋭いライナーを連発していた。キャロルの監督が、バッティングピッチャーをやっている。
 次の球。バッターが、大きくからぶりをしてしまった。
「……」
 キャロルの監督が投げる手を止めて、バッターに何か注意をしている。
 ググッ。
 裕次は、送迎バスの窓を開けてみた。今日も、冷たい外気が流れ込んでくる。
「……」
 キャロルの監督は話し続けているが、まだ声が聞こえない。
突然、裕次は、監督が何をいっているのかを、どうしても聞きたくてたまらなくなった。バスを降りて、すぐそばまでいってみたい。
 でも、信号が変わったのか、バスはまたゆっくりと走り出してしまった。
 やがて、バスは塾の駐車場にいつものように到着した。
 グ、グーン。
 いつものように大きな音を立てて、バスのドアが開いた。みんなが席を立ち上がり始めた。
「ちょっと、用事を思い出したんだ」
 裕次は、隣の席の子にいった。
「えっ、塾はどうするんだよ?」
 その子は、びっくりしたような声を出していた
 でも、裕次はそれには答えずに、さっさとバスを降りていった。
(よし!)
思い切ったように勢いをつけて、キャロルが練習していた小学校を目指してかけだした。背中のデイバッグの中で、塾のテキストがゴトゴトと音をたてている。
 塾から小学校までは、走れば五分ぐらいでつけるだろう。
 祐次が塾をさぼるのは、初めてのことだった。
それでも、裕次は走りながら、気持ちがだんだんすっきりとしてくるのを感じていた。
(キャロルの練習を、思いっきり見てやるぞ)
 そう思うと、だんだん気持ちがわくわくしてきていた。

「おらおら、声が出てないぞお」
 キャロルの監督の声が、すっかり暗くなったので照明が点灯された校庭に響いている。練習はさっきまでのフリーバッティングから、シートノック(各自が自分の守備位置について受けるノック)に変わっていた。
「バッチ、こーい」
「バッチ、こーい」
 守備についている選手たちが、いっせいに声を出し始めた。
 裕次は、校庭のフェンス沿いに外野のうしろまでまわっていった。そちら側は金網になっていて、ずっと練習が見やすかった。
 裕次は金網によりかかるようにして、練習をながめはじめた。
 初めは、偵察するつもりなんかはぜんぜんなかった。ただ一所懸命に練習しているキャロルの選手たちを、見ていたかっただけだったのだ。そうすると、なんだか自分も野球をやっているような気分になれる。
 キャロルの選手たちは、今日もいきいきとプレーをしていた。裕次には、それがうらやましくてたまらなかった。
(えっ!?)
驚いたことに、いつのまにかキャロルの要注意点や弱点を塾のノートに書き込み始めていた。
(癖になっているのかな)
裕次は、思わず苦笑いした。
カーーン。
大きなフライがフェンスの近くまで飛んできた。背走してきたセンターの選手が、グローブを差し出すようにして捕球した。
「ナイスキャッチ」
ノックをした監督が、バットを上げながら声をかけた。センターは、グローブの手を上げながら、誇らしげな顔をして守備位置に戻っていく。
裕次は、それをうらやましそうに見送った。
実は、この大会を最後に、裕次は正式にチームをやめることになっていた。遅ればせながら受験勉強に専念することを、おかあさんに約束させられていたのだ。
次の日曜日の試合は、裕次にとってまさにラストゲームになる。
 日がすっかり沈んで、空気が冷え冷えとしてきた。
目の前には、ナイター照明に照らされて、声を掛け合いながらきびきびと練習を続けるキャロルの選手たちがいる。
 裕次はジャンパーのえりをかきあわせながら、
(最後の試合にどうしても勝ちたい)
という気持ちが、ふつふつとわいてくるのを感じていた。

「行ってきまーす」
 裕次はそういいながら、玄関でスニーカーをはいた。
「もう、バスの時間? まだ早いんじゃないの?」
 おかあさんが、居間の時計を見ながらいった。たしかにいつもより三十分近くも早かった。
「バスが来るのが早くなったんだ」
 早口にそういうと、デイバックの中にグローブを忍ばせて家を出た。
裕次は、送迎バスの乗り場には向かわずに、学校へ向かった。
 校庭には、ヤングリーブスのメンバーがすでに十人以上来ていた。おもいおもいにランニングやストレッチなどの、ウォームアップを始めている。
 自主トレに来ているのは、最近は五年生以下ばかりになっていた。六年の姿はひとりも見当たらない。キャプテンの将太やエースの浩介などの中心メンバーは、すでに硬式のシニアリーグのチームとかけもちなので、そちらの練習へ行っている。他のメンバーたちは、もう前のようには練習に熱心ではなくなっていた。
それにひきかえ、五年生のメンバーは、来シーズンに備えて、ほとんど全員が毎日来ているようだった。
「あれ、裕ちゃん。塾じゃないんですか?」
 アップを終えた明が声をかけてきた。
「うん、いいんだ。それより、今度の試合のことで、みんなに話があるんだけど」
 裕次は、明にそう答えた。
「おーい、みんな集まれーっ。裕次・か・ん・と・くから、話があるってさ」
 明が両手をメガホンにして、みんなに声をかけた。
「ちぇっ、からかうなよ」
 裕次は、明のしりに軽くまわしげりを入れた。
「ちわーす」
 みんなが、裕次のまわりに集まってきた。
「こんちわー」
 後から来たメンバーも加わって、全部で十五人もいる。五年生は、全員顔をそろえていた。
(どうしたら、みんなにわかってもらえるだろうか?)
裕次は、みんなをぐるりと眺めながら考えていた。
「来週のキャロル戦のことなんだけど、…」
 裕次が話し出しても、みんなは興味なさそうな顔をしている。出場しない自分たちには関係ないと、思っているのだろう。
裕次は、昨日から考えてきたことを、みんなに話し出した。
 キャロルにも弱点があること。それにつけこむための作戦。そのための練習方法。そして、これが一番肝心な点であるが、ヤングリーブスにも勝つチャンスがあること。
 それでも、五年生たちは、はじめはあまり関心がなさそうだった。肝心な六年生たちがいないのでは、練習しても無駄だと思っているのかもしれない。
「キャロルとの試合だけど、六年だけでなく、五年も出すつもりだ」
 とうとう裕次は、切り札を出した。
「おおっ」
 思わず、みんなから声が上がった。
(自分たちも出られる)
そう思ったせいか、五年生たちは裕次の説明に急に興味をもってくれたようだった。
「こんちわーっ」
「ちわーっ」
 みんなが、急に帽子をぬいであいさつをした。振りむくと、監督がそばまでやってきていた。いつのまにか、五時をすぎていたらしい。
「おやっ、どういう風の吹きまわしだ」
 監督は、裕次を見つけると、わらいながらいった。
「はい、……」
 裕次は、今、五年生たちに話していたことを、もっと具体的な作戦や技術的なことを含めて、監督に説明した。
 監督も、はじめは少しめんくらったようだった。
 でも、裕次の熱心な説明を聞いて、最後にはこういってくれた。
「さすがあ。いかにも裕次らしいなあ。だてに、二年間も、チームのスコアラーをやってたんじゃないよなあ」
「じゃあ、やってもいいんですか?」
「いいも悪いも、今度の試合は、いや今日から、おまえがチームの監督だよ。裕次の思うようになんでもやってみな」
 こうして、この日から、裕次と五年生たち、それに監督たちも協力してくれて、打倒キャロルの練習が始まることになった。

 いつもより熱が入ったせいか、その日の練習が終わったのは七時半を過ぎていた。
 それでも、裕次はまだ家には帰れない。塾からの帰宅時間には、まだ一時間近くもあったからだ。
 あたりは真っ暗で、すっかり冷え込んできている。
(これから、どうやって時間をつぶそう)
 裕次は、校庭の隅にある、チームの用具入れの物置あたりでうろうろしていた。まわりでは、五年生たちが中心になって、野球用具の後片付けをしている。
(コンビニへでも行こうか?)
 そこなら、まんが雑誌を立ち読みしたりして、時間がつぶせる。何より、明るくてあたたかいのがよかった。もしおなかがすいたり、のどがかわいたりしても、すぐに何か買って食べたり飲んだりできる。ただ、誰か知っている人に会わないかどうかが、少し不安だった。
(もし、サボったことが、おかあさんにばれたら、……)
と、思うと、気がすすまなかった。
「これで最後だな」
 用具の片付けが終わった。
「さよならあ」
「また明日」
 他のメンバーは一人で、あるいは二、三人で連れ立って家に帰っていく。祐次も、いつまでもここにいるわけにはいかなかった。
「さよなら」
 裕次はみんなに声をかけると、校門の方へ歩き出した。やはり他に行くところがないので、コンビニへ行くつもりだった。
 と、その時、
「裕ちゃん、ちょっと家へ来ない? いい物があるんだ」
と、明が声をかけてくれた。
「なんだい、いい物って?」
 裕次がたずねても、
「それは、見てからのお楽しみ」
 明はわらって、すぐには答えなかった。
 でも、渡りに船なので、裕次は明の誘いにしたがうことにした。明の家は裕次とは、反対方向なのでおかあさんに会う心配はなかった。
 二人は、ユニフォーム姿のまま、肩をならべて歩いていった。あたりはもう真っ暗で、所々にある街灯がぼんやりと歩道を照らしていた。
「裕ちゃん、キャロル戦が楽しみだね。きっと作戦はうまくいくよ」
「うん。でも、これからだよ。練習でどこまで準備できるかが大事だから」
 裕次は、そう慎重に答えた。

 明の勉強部屋は、ゆったりとした大きな部屋だった。おまけに専用のテレビやゲーム機、ブルーレイレコーダーまでがそろっている。
「これ、裕ちゃんが監督をやるのに、役立たないかなと思って」
 明は、すぐに一枚のディスクをレコーダーに差しこんだ。
「あっ、これ、Kテレビ杯のじゃない?」
 映し出された画面を見て、裕次がいった。
「うん、キャロルが優勝したやつ。録画しておいたんだ」
 キャロルが出場した県大会のスポンサーは、Kというローカルテレビ局だ。大会後には、出場チームの紹介と全試合のダイジェストが放送される。自分の姿をテレビで見られるので、六つある県レベルの大会でも、もっとも人気があった。
 優勝したキャロルは、決勝戦までぜんぶで五、六試合は戦っているはずだ。もしかすると、全選手のバッティングやピッチング、守備などが見られるかもしれない。
「ちょっと待って」
 裕次は、デイバックから、いつも持ち歩いているスコアブックを取り出した。
「じゃあ、一回戦から頼むよ」
 裕次は、明が再生してくれたキャロルの試合を、熱心に見つめはじめた。

 録画されていた各試合を見ていると、キャロルは予想通りにすばらしいチームだった。
おそらくレギュラー全員が六年生なのだろう。相手チームに比べて、一回り大きいがっちりとした体つきをしていた。
打線は、一番から九番まで切れ目がない。どこからでも点が取れる感じだ。
特に、先日の試合でランニングホームランを打った四番打者を中心に、クリーンアップは長打力もあるようだ。放送でも、何回もホームランのシーンが出てきた。
投手は全部で三人。エースはあの長身の速球派のピッチャーだ。中学生並みの体格を生かした豪快なホームで、ビシビシ速球を投げ込んでくる。特に、高めの伸びのあるボールまるで手が出ないようで、三振の山を築いていた。二番手の投手は、普段は一塁を守っている選手だ。サウスポーで、エースよりは球速はないけれど、コントロールがいい。投手は、この二人で交代につとめていた。それ以外に、大量リードしたときなどに、二人を休ませるために出てくる三番手のピッチャーがいる。
守備も、よく鍛えられている。キャッチャーは強肩で、キャッチングもうまい。パスボールをするようなことは、まったくなさそうだった。内野は、例の三塁手を中心に良くまとまっていて、キャッチングもスローイングもあぶなげない。外野も、俊足ぞろいで守備範囲が広そうだった。
(どこかに欠点があるのだろうか?)
裕次は、不安な思いで画面に目を凝らした。

 その晩、裕次は、スコアブックをひろげて対キャロルの作戦を立てていた。
 ドンドン。
 急に、ドアが強くノックされた。
「はい」
 裕次が返事をすると、
「裕ちゃん」
と、いいながら、おかあさんが入ってきた。そのひきつったような笑顔を見たとき、サボリがばれたことがわかった。
「どうしたの? 二日も休んだりして。塾の石川先生からお電話があったわよ」
(やっぱり、塾から連絡が入ったか)
 たった二日休んだだけで電話を入れるなんて、さすがは「良く指導の行き届いた」塾だ。
「塾を休んで、どこへ行ってたの?」
 おかあさんは、なんとか感情的にならないように努めているようだった。もしかすると、これも塾が作った「受験生を持った母親用マニュアル」か何かに、従っているのかもしれない。
 怒っているのではないこと、もう何度も聞かされた受験の大切さなどを、くどくどと繰り返している。けっして、頭ごなしに叱ろうとはしなかった。
 どうやらおかあさんは、塾をさぼってどこへ行っていたかが、特に知りたいらしい。
「自主トレに行ってたんだよ」
 裕次は素直にそう答えた。別に恥じることなど何もない。それならば、自分のやりたいことをおかあさんにはっきりと告げたほうがいい。
それを聞いて、おかあさんは少しホッとしたようすだった。もしかすると、ゲーセンとか、駅ビルのショッピングセンターにでも行っていたのではと、思っていたのかもしれない。
「でも、どうして? もう他の六年生たちも来てないんでしょ」
 心配が少なくなったせいか、作り笑顔はやめている。
「今度の日曜、ラストゲームの監督をやるんだ」
 裕次は、落ち着いた声で答えた。不思議なくらい、気分はすっきりしている。塾をサボッたことなんかに、ぜんぜんうしろめたい気持ちはなかった。
「えっ?」
 おかあさんは、しばらくポカンとした顔をしていた。おそらく、裕次がいった「ラストゲーム」の意味など、まったく理解できなかったのだろう。おかあさんは、六年になってからは、一度も試合や練習を見にきたことがない。
 しばらくの間、おかあさんはまだ何かいいたそうにしていた。
 でも、やがてそのまま部屋から出ていってくれた。

 その後も、裕次は「自主トレ」への参加を続けた。帰りに明の家によるのも、習慣になっていた。録画された試合を何度も見て、明とキャロルの分析を根気よく続けている。
不思議なもので、繰り返し試合を見ていると、付け入る余地がないように思えたキャロルにも、いくつかの弱点が見えてきた。それらは、先週の試合のときと、塾をさぼって偵察に行ったときに気づいたことと、かなり一致していた。
個々のバッターの苦手にしているコース。投手陣の癖や欠点。鉄壁に思われた守備陣にも弱い部分があるようだ。
裕次は、こういった弱点をつくための作戦を、明と練り上げていった。そして、それを自主トレのときに、繰り返し練習していった。
 土曜日は正式練習なので、硬式に入っていない六年生たちも参加していた。
裕次の説明を聞くと、彼らもすすんで打倒キャロルに協力してくれることになった。祐次の説明する打倒キャロルの作戦が、それだけ実現性を帯びてきていたのかもしれない。
その日、裕次たちは、夜遅くまで、みっちりと最後の仕上げを行うことができた。
 本当は、同じ土曜日に塾で模擬試験があったのだ。いつもならば、祐次は練習の途中で帰らなければならないところだ。
 でも、裕次はとうとう最後まで残ることにした。そして、みんながきちんと作戦通りのプレーができるまで、繰り返し指示を続けていた。
模擬試験を休んだのは、塾に入ってから初めてのことだった。

 裕次は、その日はまっすぐ家に戻った。もうキャロルの試合を研究する必要はなかった。それよりも、早く家に戻って、明日のオーダーや作戦を考えたかった。
 その日の模擬試験をサボッたことは、当然塾からおかあさんには連絡が行ったはずだ。怒られることは、覚悟のうえだった。
「ただいま」
 祐次が、さすがに少し心配しながら、玄関のドアを開けると、
「おかえり」
 すぐに、おかあさんの声が聞こえた。
 裕次がそのまま自分の部屋へ行こうとすると、
「ごはんにする。お風呂もわいているわよ」
と、おかあさんが声をかけてきた。
妙にやさしい。今まで、練習帰りにこんなことばをかけてもらったことはない。「汚い靴下で部屋の中を歩かないで」とか、「洗濯物はすぐに出して」などと、言われるだけだった。
おかあさんは、とうとう模擬試験をサボッたことについては、何も文句をいわなかった。
もしかすると、「良く指導の行き届いた」塾の先生と相談して、しばらく様子を見ることになっていたのかもしれない。

 その晩、夕食を食べてから、裕次は、明日の先発メンバーを検討していた。勉強机には、スコアブックやメンバーの成績表を開いておいてある。
 ここまできたら、もうかまっていられない。ラストゲームへの準備を、おおっぴらにしていた。もっとも、おかあさんのほうでも、最近はほっといてくれるので問題はなかった。
 成績表を見ながら、メンバー票に一番バッターから順番に書き込んでいく。
(一番は、……)
 今まで考えていた対キャロルの作戦が、具体的なイメージとして浮かび上がってくる。それにあわせて、トップバッターを決めなければならない。
 裕次の頭の中には、明日の試合開始の場面が描かれていた。
 ついつい想像するのに夢中になって、メンバー表を書き込む手が進まなかった。
(うーん)
 裕次はとうとう書くのをいったんあきらめて、下へ降りていった。
「おかあさん、お風呂に入っていい?」
 台所にいるおかあさんに声をかけて、風呂場に向かった。
 裕次は服を脱いで風呂場に入ると、湯船に体を沈めた。
「ふーう」
 手足を伸ばすと気持ちがいい。
 でも、頭の中には、またメンバー表のことが浮かんできた。

 風呂から上がって、またメンバー表に向かった。
(一番は、……)
 ようやく一番バッターを書き込んだ。風呂の中でやっと決めたのだ。
(えーっと、二番は、……)
 ここで、また空想にふけってしまった。
 一番バッターが出塁した場合は、……。アウトになった場合は、……。
ケースバイケースで、試合の展開は変わってしまう。その状況ごとに、適したメンバーの顔が浮かんでくる。
 こんなふうに、打順の一人一人を、展開を想像しながら決めていった。だから、なかなかメンバー表がうまらなかった。打順が後ろにいけばいくほど、空想が広がってしまうのだ。
(うーん)
裕次は、またみんなの成績表を広げてながめはじめた。
 ようやく途中まで書き込んだ時、机の前に貼ってある打撃成績表のグラフにふと目がいった。
それは、新チーム結成以来の裕次の打率グラフだった。
 一年前には、裕次の打率は一割にも満たなかった。
 でも、その後は上がったり下がったりしながらも、徐々に右肩上がりになっている。
 八月にはとうとう二割を超えた。
そして、八月十四日、A市による招待大会の二回戦の日に、最高の二割一分七厘に到達している。
 その日のことを、裕次は一生忘れないだろう。裕次にとって、初めて(そしてたぶん最後)のホームランを、ライト線に放ったのだ。
台風によるスケジュール変更で、お盆休み中の試合だったため、相手チームはメンバーがギリギリだった。だから、ライトは二年生の子が守っていた。
 でも、ホームランはホームランだ。
 他の六年生たちからは、
「中継プレーがちゃんとしてたら、せいぜい三塁打だった」
って、今でもいわれるけれど、それはやっかみというものだ。六年生でホームランを打ったことのないメンバーは、まだ三人もいた。成績表の本塁打欄に記入された「1」の数字は、裕次にとって、小さな、でも、とても大切な勲章だった。
 裕次の打率は、自主トレに出られなくなった九月を境に、逆に徐々に下がりはじめていた。そして、先週は二試合ともノーヒットだったので、とうとう三ヶ月の間なんとか守り続けていた二割台を切ってしまっていた。
 現在の打率は、一割九分八厘。打率が二割に達していない六年生は、裕次以外にはいなかった。
(明日の試合でヒットを一本打てれば、また二割に復帰できる)
 裕次は、書きかけのメンバー表を、しばらくの間見つめていた。

 日曜日、キャロル戦の朝が来た。
 朝から晴れ上がって、絶好の野球日和だ。十一月になって毎朝めっきり寒くなっていたが、これなら試合開始の十時までには、十分に気温が上がるだろう。
今日のキャロル杯では、午前中に準決勝が、お昼を挟んで、午後に決勝戦が行われる。
祐次の打倒キャロルの作戦が当たって、もしキャロルに勝てればもう一試合、決勝戦を行えるわけだ。
でも、祐次の頭の中には、準決勝のキャロル戦に勝つことしかなかった。だいいち、その試合の監督は祐次ではない。順番でいけば、正人が監督をやることになる。もっとも、正人に、どこまでその自覚があるかは怪しかったが。
「行ってきます」
 そういって、玄関を出た祐次はもう一度中に戻った。
「あら、どうしたの?」
 おかあさんが不思議そうな顔をしている。
「今日の試合、見に来ないかなと思って」
 祐次は、思いきっておかあさんを試合に誘ってみた。
 でも、おかあさんは、黙って首を振るばかりだった。
 祐次は、それ以上誘うのをあきらめて、一人で家を出た。
 集合場所の学校に行く前に、いつものコンビニで、しゃけとタラコのおにぎりを買った。おかあさんは、今日もお弁当のおにぎりを作ってくれなかった。

「それでは、先発メンバーを発表します。名前を呼ばれた人は、その場にしゃがんでください」
 まわりを取り囲んだメンバーを見まわしながら、裕次は発表を始めた。今日も六年生全員、それに五年生も休まずに来ているので、裕次を入れて二十一人もいる。
「一番センター、啓太」
「はい」
 啓太が元気に返事をして腰を下ろした時、六年生の何人かはオヤッという顔をした。啓太はヤングリーブスきっての俊足の持ち主で、バッティングもよかったが、五年生だったからだ。
「二番サード、功」
「はい」
 功も五年生だった。
「三番ファースト、……」
 裕次は、昨日考えた先発メンバーをどんどん発表していった。
「九番ライト、拓郎」
 メンバー発表が終わった時、エースの浩介も、いつもは四番バッターの竜平も、そしてキャプテンの将太までもが、まだまわりに立ったままだった。
 裕次の発表した先発メンバーには、六年生は四人だけで、五年生が五人も含まれていた。
「じゃあ、キャッチボールを始めてて」
 裕次は、他のみんなに声をかけた。
 みんなはキャッチボールのためにすぐにグラウンドに散っていったのに、レギュラーに選ばれなかった六年生たちはまだそこに立ち止まっていた。
「裕次、キャロル杯は六年中心でやるはずだろ」
 とうとうキャプテンの将太が、口をはさんだ。浩介や竜平も、不満そうな顔をしている。この三人は硬式のチームとかけもちなので、打倒キャロルの練習には一度も来ていなかった。
「作戦があるんだ」
 裕次はおちついて答えた。
「作戦って?」
 三人はけげんそうな顔をしている。彼らも、キャロルには勝てっこないと思っているのだろう。
「後で三人にも説明するけど、今週はずっとその練習をしてたんだ」
「でも、俺たちだって、さぼってたんじゃないぜ。硬式があったから、行かれなかっただけなんだから」
 浩介が、少し得意そうにいった。
「うん、わかってる。三人にも、重要な役割があるから」
 裕次は、三人の顔を見ながらいった。
「なんだよ。役割って」
 三人は、まだ不服そうだった。
「おいっ、今日は誰がカントクなんだ」
 いつのまにか、監督がそばに来ていた。
今日は口を出さないように頼んであったのだが、三人に文句を言われているのを見かねて来てくれたのかもしれない。
「裕次です」
 将太がしぶしぶ答えた。
「じゃあ、指示に従えよ。嫌なら、ベンチに入らなくてもいいぞ」
 監督が、いつもの大声でどなりはじめた。
「それは困ります。三人がいなくては、打倒キャロルの作戦が全部はできません」
 裕次がキッパリと言うと、
「おっ、すまん、すまん。いつもの癖が出て」
 監督がそう言って裕次にあやまったので、将太たち三人はびっくりしていた。いつも監督は、選手にあやまったりしたことはなかったのだ
「そうだ、もうひとつだけ。お前たち、自分が出ないことばかり文句いってるけど、もういちど先発メンバーを見てみな。裕次だって、入っていないんだぜ」
 監督はそう言うと、むこうへ行ってしまった。
「えっ?」
 三人は、あわてて裕次の手にあるメンバー表を覗き込んだ。
 たしかに、監督が言ったように、裕次自身も先発メンバーには含まれていない。
監督役の六年生が、自分を先発メンバーに入れないなんて、前代未聞のことだった。
「なんでだよ?」
 将太が、不思議そうにたずねた。
「うん、打倒キャロルの作戦に、ぼくは向いていないんだ」
 裕次は、苦笑しながら答えた。
「えっ、打倒キャロルの作戦?」
 浩介が聞き返すと、
「うん。それに、今日はそれの指揮をとるのに専念したいんだ」
 裕次は、まだピンとこない顔をしている三人を、ベンチの横につれていった。
「それで、先発メンバーは、……」
祐次は、今日の作戦と三人の役割を説明した。
「ほんとにうまくいくかなあ?」
 最後には、まだしぶしぶながら、三人とも協力してくれることになった。

「キャプテン」
 審判が、ホームのうしろで呼んでいる。裕次は、急いで走りよっていった。
「おねがいしまーす」
 帽子をぬいで、キャロルのキャプテンとメンバー票を交換した。例の守備のうまい三塁手だ。まっ黒に日焼けしていて、裕次よりも頭ひとつ背が高い。
「最初はグー、ジャンケンポン」
 裕次がパーで、相手はグーだった。
(よっしゃー!)
 思わず、ガッツポーズがでる。まずは、幸先よく相手に気合勝ちだ。
「先攻をお願いします」
 これで、作戦はグッとやりやすくなる。
「それじゃ、ヤングリーブスの先攻ですぐに始めます」
 審判が、二人に言った。二人は握手をして別れた。
「先攻!」
 ベンチに戻りながら、裕次は大声でメンバーに伝えた。
「おおおーっ」
と、いっせいにどよめきがおこった。みんなも気合十分だ。
「ベンチ前!」
 裕次は、ウォーミングアップしていたメンバーに、声をかけた。みんなは、いっせいにファールグラウンドからかけてくる。
「整列!」
 裕次は一番ホームよりにならんで、みんなとそろえるようにして左足を前に突き出した。
「集合!」
 審判の声がかかった。
「いくぞーっ!」
「おーっ!」
 裕次の掛け声を合図に、みんながホーム前へかけていく。むこうからは、キャロルの選手たちもいきおいよくやってくる。両チームはホームベースを境にして、向かい合わせに整列した。
「じゃあ、キャプテン、握手して」
「お願いします」
 審判にうながされて、キャロルのキャプテンと握手をした。
「礼!」
「お願いしまーす!」
 帽子をぬいで、両チームの選手たちがあいさつした。
いよいよ、裕次のラストゲームが始まった。

 裕次はベンチの前列におりたたみのいすを二つ並べて、スコアラーの明とならんですわった。いつもなら、監督がすわる席だ。
 他の六年生が監督をやるときは、隣にスコアラー役の本当の監督にすわってもらってサインを出していた。
 でも、今日は、監督は裕次にまかせっきりだ。ベンチの端の方で、のんびりと誰かとおしゃべりしている。
 ベースコーチには、普通はバッター順の八番(裕次だ!)と九番がたつ。
 でも、今日はキャプテンの将太とエースの浩介という豪華版だった。
 長身のキャロルのエースが、投球練習を始めている。
 シュッ、……、バシン。
速球が、ミットにいい音を響かせていた。
いつものヤングリーブスなら、これだけでビビッてしまうところだ。
 ところが、ベース横に立った先頭打者の啓太と、ネクストバッターサークルの功は、平気な顔をしてすぶりを繰り返していた。むしろ、ヤングリーブスをなめて、二番手ピッチャーを先発させるんじゃないかと心配していたので、ホッとしたぐらいだ。
「ラスト!」
 最後に、キャッチャーが二塁に矢のような送球をしてみせた。あいかわらずすごい強肩だ。
 キャッチャーは、得意そうな視線をチラリとこちらに送ってきた。いつもなら、対戦相手はこのデモンストレーションにびっくりして、シーンとしてしまうところだ。
 ところが、
「走れる(盗塁ができるという意味)、走れる!」
と、裕次が大声で叫んだ。
「ワーッ!」
ヤングリーブスベンチから、歓声があがった。
 相手のキャッチャーは、キョトンとした顔をしてこちらを見ていた。

「お願いしまーす」
 トップバッターの啓太が、左のバッターボックスに入った。
「啓太、ピッチャーより」
 すかさず裕次が声をかけた。
「いけねえ」
 啓太はペロリと舌を出して、首をすくめた。そして、バッターボックスのピッチャーよりぎりぎりに立ちなおした。
 これは、キャロルのピッチャーのような速球派に対しては、意外なポジションだ。普通は、スピードボールに振り遅れないように、キャッチャーよりに立つ。それが、逆にピッチャーよりに立ったのだ。
(ピッチャーよりぎりぎりに立つ)
これが、打倒キャロルの作戦の一番目だ。相手のエースがとまどっているのが、裕次のところからもわかった。
「いくぞーっ!」
 啓太は、大声で気合をかけた。そして、小柄な体をいっそうかがめて、ベースにかぶさるようにかまえた。ピッチャーから見ると、ストライクゾーンが極端に狭く感じられるはずだ。
 ピッチャーが大きく振りかぶった。
 思いっきり投げ込んできた第一球は、高目に大きく外れた。

「リー、リー、リー」
 一塁で啓太がわざと大声を出して、ピッチャーを挑発している。
 プレートをはずすとすばやく啓太がベースに戻ったので、ピッチャーは投げるかっこうをしただけで牽制球はほうらなかった。
 けっきょく、啓太は一度もバットを振ることもなく、ワンスリーからボールを選んで四球で出塁していた。
「ランナー、ほんとは走る気ないよ。バッター勝負よ」
 キャッチャーは自信まんまんだ。げんに県大会では、ビデオで見る限り一度も盗塁を成功させていない。たいてい一回目の盗塁をピシャリと刺して、相手にそれ以上走る気を起こさせなくしているようだ。
 これは、少年野球の世界ではまったくすごいことだ。弱いチームでは、二塁まで送球が届かないキャッチャーがいるくらいなのだから。
 次の投球。
 バッターの功はバントの構えをした。でもボールが来ると、すばやくバットをひいた。あいかわらず小技のうまいやつだ。これだから、二番バッターに抜擢したのだ。
「ボール」
 ボールは、わずかに高めにはずれた。
「やらせろ、やらせろ」
 バントの構えを見てすばやくダッシュしてきた三塁手が、ピッチャーに声をかけている。こちらも、自信まんまんだ。
「啓太っ!」
 裕次が大声でどなった.
(すまん、すまん)
って感じで、一塁ランナーの啓太が顔の前で手を合わせている。本当は、盗塁のサインを送ってあったのだ。
 裕次は、もう一度、二人にブロックサイン(いくつかの動きを組み合わせて相手チームに見破られないようにしたサイン)を送りなおした。
(わかった)
という合図に、啓太と功がコツンとヘルメットをたたいた。
「リー、リー、リー」
 啓太が思いきったリードを取る。
 ピッチャーが牽制球を投げた。
 啓太はヘッドスライディングで戻って、セーフ。
 次にピッチャーが投球動作に移った瞬間、啓太がすばやくスタートを切った。
 功がバントの構えから、絶妙のタイミングでまたバットをひいて走者を援護した。
「ストライクッ」
 キャッチャーがすばやく二塁へ送球。
 啓太が滑り込む。
 ショートがタッチする。
「セーフ」
 塁審の両手が、大きく左右にひろげられた。
 でも、きわどいタイミングだった。
 ベースの上に立ちあがった啓太が、ガッツポーズをしてみせた。
「啓太、いいぞーっ」
「ナイスラン」
 ベンチや応援席から、声援が飛んでいる。
 啓太とそれを助けた功に拍手を送りながら、裕次は満足そうにうなずいていた。
 ふつうの場合、一塁ランナーは、ピッチャーが足を上げる角度で、牽制球なのか、投球なのかを区別する。キャロルのような右ピッチャーの場合は、判断するのは左足の上げ方だ。
 しかし、それを見てからスタートしたのでは、遅すぎるのだ。
 並のチーム相手ならば、それでもいい。
 でも、キャロルのような速球派のピッチャーと強肩のキャッチャーでは、それではアウトになってしまう。
 啓太は、投球動作に移る瞬間のわずかな癖を盗んで、スタートを切ったのだった。
 キャロルのピッチャーは、牽制球を投げるときだけ左肩がかすかに動く癖がある。あの初めて塾をサボってキャロルの練習を見た日に、裕次はすでにこの癖に気がついていた。その後、明の家で何度もビデオを見ているうちに、それは確信に変わっていた。
 裕次は、この一週間、徹底的に盗塁のスタートの練習をさせていた。特に、啓太や功を初めとした足の速い選手を、そのために選んであった。器用な明にキャロルのピッチャーの癖を真似させて、なんども繰り返して練習した。
 いつも立ちあがりにコントロールの悪いピッチャーを、四球と盗塁でかきまわす。地力にまさるキャロルの先手を取るには、これしか方法がなかったのだ。
 キャロルのエースは、県大会の五試合全部に先発してわずかに六失点。
 でも、六点のうちじつに五点までが、初回の制球の乱れによるものだった。

 カツンッ。
 次のボールを、いきなり功がセカンド前にプッシュバントした。少し深めに守っていたセカンドは、けんめいにダッシュしてきてボールを拾い上げる。
 でも、送球よりも一瞬早く、功の足がベースをふんでいた。
「セーフ!」
 一塁手が、両手を大きくひろげた審判の方を思わず振り返る。そのすきに、三塁をまわっていた啓太が、一気にホームへ。
 ようやく気がついたファーストが、あわててバックホーム。
 送球が少し高めにそれる。
 啓太がヘッドスライディング。けんめいにブロックするキャッチャーのタッチをかいくぐって、啓太が左手でホームをタッチしていた。
(ホームイン!) 
 ねらいどおりに先取点が入ったのだ。
「やったーっ!」
 裕次は、思わずメガホンで隣の明の頭をひっぱたいてしまった。
「いてーえ」
といいながら、明もわらっている。
 ヤングリーブスの、鮮やかな速攻による先制攻撃だった。
 ベンチでは、帰ってきた啓太を迎えて、ハイタッチしたりヘルメットをひっぱたいたりして大騒ぎだ。ねらいどおりの先制点におおいに盛り上がっている。
 この場面、定石どおりならば、三塁側にバントするだろう。二塁ランナーを着実に三塁に進めるためには、三塁ベースを空けさせなければならないからだ。
その裏をかいて、セカンドへのセーフティバント。キャロルの守備陣は、まったく予想していなかっただろう。それが、ファーストのミスまで誘ったようだ。
 キャロルのエースの投球は、少年野球としてはそうとう球が速かった。だから、振り遅れながらけっこう強い打球が、セカンド方向へ飛ぶことが多かった。そのために、セカンドの守備位置が、普通よりも深くなっているのだ。
 それに、サードには例のダッシュのよいキャプテンがいた。ねらい目はここしかなかった。
 あっという間の一得点。それに、一塁では功がさっきの啓太のように、大きくリードを取って次の塁を狙っている。裕次のねらいどおりの先制攻撃だった。
 さすがのキャロルのエースも、かなり動揺したようだ。マウンド上で、大きく深呼吸をしている。
「タイム」
 見かねたキャッチャーが、マウンドへ駆け寄っていった。

次のバッターの博もバントの構えだ。三塁手が、バントを警戒してじりじり前進してくる。
「リーリーリー」
 一塁ベースでは、功が大声でピッチャーをけん制している。
 ピッチャーは、セットポジションで功の方に視線を送っている。
 第一球。
ボールは高めにはずれた。博がすばやくバットをひいた。
「ボール」
 盗塁を警戒していたキャッチャーが送球の構えをした。
 でも、一塁ランナーの功はベースに戻っている。
その後も、裕次のサインのもと、ヤングリーブスは盗塁やバントの構えを見せ続けていった。
動揺したピッチャーは、ますます制球を乱してしまった。おかげで、ヤングリーブスは、着々と得点を重ねていった。
 でも、実際には、一度も本当には盗塁もバントもしていなかったのだ。
「やるぞ、やるぞ」
と、見せかけて、実際は徹底した待球作戦(打たずにフォアボールを狙う)をしていた。相手のピッチャーはそれにまんまと引っかかって、四球やデッドボールで点を失っていった。
 最初の啓太と功の攻撃は、あまりにも鮮やかに決まった。そのおかげで、後はピッチャーが勝手に一人相撲を取ってくれたのだ。
 三点を奪って、まだノーアウト満塁。まだまだ、ヤングリーブスのチャンスが続いていた。
「タイム、ピッチャーとファーストが交代します」
 とうとう見かねたキャロルの監督が、ピッチャーの交代を告げた。県大会優勝のあのエースピッチャーをノックアウトしたのだ。
一塁を守っていた選手が、小走りにマウンドに近づいていく。エースからボールを受け取ると、ピッチング練習を始めた。サウスポーのこのピッチャーは、スピードはあまりないけれどコントロールがいい。県大会でも、このようなピンチにリリーフしたことがあった。
 このピッチャーには、エースに対するような待球作戦は通用しない。それに左投げで牽制球もうまいので、盗塁も無理だろう。
「監督、代打をお願いします」
 裕次が、相変わらずベンチの隅にいた監督に頼んだ。ルールでは、正式な監督しか交代を告げられない。
「おっと、今日は、俺は裕次のパシリだったけな。誰を出す?」
「竜平をお願いします」
「ふーん、OK」
 監督はゆっくりと主審に近づくと、代打をつげた。
本来の四番バッターの竜平は、
(まかせておけ)
と、ばかりに、バットを振り回しながら、打席にむかっていく。
「よっちゃん、ごめん」
 裕次は、入れ替わりに戻ってきた佳之にあやまった。一回の表に代打を出されてしまったので、けっきょく一度も出番がなかったからだ。
「ドンマイ、ドンマイ、そういう作戦だったじゃない」
 佳之が、逆に励ましてくれた。
「次、二人もいくぞ」
 裕次が、コーチスボックスにいた将太と浩介に声をかけた。
「おお、忙しくなってきたぜ」
 二人があわててベンチに戻ってくる。
「ランナーコーチに行って」
 裕次が指示すると、代わりの二人がヘルメットをかぶりながら、ベンチから飛び出していった。
「素振りしておいて」
 裕次が声をかけると、将太と浩介はバットケースからバットを抜いて、ベンチ裏へいって素振りを始めた。
 裕次は、この回に一気に勝負をつけるつもりだった。

 リリーフピッチャーの練習が終わった。
 代打の竜平が、バッターボックスに入る。
 裕次は、竜平に「待て」のサインを送った。いきなり打たせて、竜平が力んでしまうのが怖かった。
 セットポジションから、ピッチャーが三塁に牽制球を送った。ランナーの亮輔がすばやくベースに戻る。
 さすがにキャロルのリリーフピッッチャー。ノーアウト満塁のピンチにも、落ち着いたプレートさばきをみせている。
 第一球目。外角高めのボールで、はずしてきた。スクイズを警戒しているみたいだ。相手は、竜平が、本来の四番バッターだとは知らないのだろう。
 もちろん、裕次は竜平にスクイズをさせるつもりはなかった。ここは、一発長打を期待していたのだ。
 裕次は、今度は「打て」のサインを送った。押し出しがこわいから、二球目ははずさないだろうとの読みだった。
 セットポジションから、ピッチャーが投げ込んできた。予想通りの、ストライクコースだ。
 カキーン。
 竜平のバットが、力強いスウィングでボールをとらえた。
 打球は、ぐんぐんと左中間に飛んでいく。
(やったあ!)
と、裕次が喜んだのもつかの間、キャロルのセンターが快足を飛ばして、打球に追いついてしまった。残念ながら、これでワンアウトだ。
 でも、三塁ランナーは、タッチアップからゆうゆうとホームインした。ヤングリーブスのリードは、四点になった。
「監督、次は将太を代打にお願いします」
 祐次は、ベンチの監督の方に振り返って頼んだ。祐次は、手を緩めずに一気に勝負をかけるつもりだった。そのために、持ち駒の中で、最も打撃の良い三人を残してあったのだ。

その後のヤングリーブスの攻撃は、けっきょく将太のタイムリーによる一点をあげただけだった。それでも、いきなり合計五点のリードを奪うことに成功した。
 その裏、裕次は予定通りに五年生の直樹を先発させた。直樹は、ピッチャーにしては小柄で、エースの浩介よりもスピードはなかった。
 でも、なかなかコントロールのよいピッチャーだ。
 マウンド上で、直樹はペロリとくちびるをなめた。緊張しているときの癖だ。
「直樹、リラックス、リラックス」
 すかさず、裕次が声をかけた。直樹は大きくうなずくと、後ろを振りかえって叫んだ。
「打たせるぞお」
「おーっ!」
 守備についたみんなから威勢のいい声が返ってくる。五点のリードは、みんなを元気づけたようだ。
「プレイ」
 主審が試合再開をつげた。
 一球目。
「ストライーック」
 直樹の直球が、外角低めに決まった。
「いいぞお」
 裕次が声援を送る。ベンチからも歓声があがった。
 直樹がすばやく二球目を投げた。軽快なテンポだ。
「ストライク、ツー」
 またも低めに決まった。
「よーし」
 裕次が満足そうにうなずいた。直樹に徹底的に低めにボールを集めさせて、長打を防ぐ作戦だったのだ。さいわい今日の審判は、低めの球をストライクに取ってくれるので助かった。
 直樹は、もう三球目のモーションにはいっている。
 ガッ。
 低めのボール気味の球に引っかかって、平凡な三塁ゴロだ。本来の三塁のポジションに入った竜平が、軽快なフットワークでさばく。
「アウト」
 幸先良く先頭打者を打ち取った。

その後も、試合はヤングリーブスのペースですすんだ。
直樹のようにピッチャーのコントロールがいいと、バックにもリズムが出て守りやすい。みんなは再三好守備をみせて、ピッチャーを盛り立てていた。
 それでも、直樹は強打のキャロルに打ち込まれて、何回もピンチを迎えた。
 しかし、バックが良く守って、最小失点に押さえていた。
 上位打線のときには外野を思いっきり深く守らせて、大量失点を防ぐ作戦もきいている。大きなあたりを打たれても、足の速い選手をそろえておいた外野がなんとかまわりこんで抜かれないようにしていた。
 おかげで、長打になるところを、シングルヒットにおさえられていた。
「くそーっ」
 キャロルのバッターたちは、ヘルメットをたたきつけたりしてくやしがっていた。

 試合は、すでに最終回を迎えていた。7対4で、ヤングリーブスはまだ三点をリードしている。
 初回のリードで自信がついたのか、ヤングリーブスの選手たちは、のびのびプレーできていた。強豪のキャロルを相手にしても、ぜんぜん臆することはなかった。
「いけるぞ!」
「この調子でいこう」
 ベンチにも、活気があふれていた。
 逆に、キャロルの方では、思いがけずに大量リードをゆるしたために、あせりが出ているようだった。一発長打をねらって、大ぶりになっている。
 それを、直樹のていねいなピッチングでかわされてしまっていた。
ヤングリーブスは、その後も三回と五回に一点ずつ、合計二点も追加点が取れていた。
 守っても、四球やエラー長打を許さなかったので、キャロルの反撃を最少失点でかわしていた。
 あと一回、なんとか守りきれば、念願の打倒キャロルを達成できるのだ。いや、それどころか、今シーズン初の決勝進出をはたせる。夢にまで見た優勝に手が届くところまでやってきていた。
 最後の守りにみんなが散っていったとき、キャプテンの将太がそばによってきた。
「裕次、なんとかこの回もうまくいったら、次の試合もやってくれないか?」
「えっ、何を?」
 裕次が聞き返すと、
「決まってんだろ。か・ん・と・くさん」
 将太はニヤッとわらいながら後ろの方を指さすと、守備位置へダッシュしていった。
 裕次が振りむくと、隣のグランドでは準決勝のもう一試合をやっている。レッドベアーズとジャガーズだ。
 たしかにこのまま逃げ切れれば、むこうで勝った方と決勝戦をやることになる。そして、それが裕次にとって本当の、いや今年のヤングリーブスにとっても、ラストゲームになるのだ。
(うーん、……)
 一瞬、裕次はレッドベアーズとジャガーズが、どんなチームだったかを思い出そうとした。
(たしか、ジャガーズとは、前に練習試合を、……)
 いやいや、それはこの試合が終わってからのことだ。
 裕次は首を大きくブルンとふると、守りについたメンバーに大声で叫んだ。 
「ヤンリー、しまっていこうーぜ!」





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痛い!

2020-03-26 09:54:35 | 作品
「あーあ」
 彩加(さやか)はトイレから出るとため息をついた。今朝も生理が来ていなかったからだ。もう三か月もずっと生理がなかった。
 中学三年生の健康な女の子だというのに、彩加にもこれは異常なことのように思えた。
 でも、なんだか恥ずかしくて、おかあさんには相談できなかった。おかあさんの方でもうすうすは気づいているようだったが、今まではなんとかごまかしてきた。このままでは気がつかれるのは時間の問題だろう。
彩加は憂鬱な気分で、食堂のテーブルについた。
 そこには、彩加の朝食が用意されている。低脂肪のミルクとノンオイルドレッシングの野菜サラダだけだ。
「いただきまーす」
 彩加はミルクを一口飲むと、フォークでサラダをつつきだした。
「それだけで、本当に大丈夫?」
 おかあさんが、今日も心配そうに尋ねてくる。
「大丈夫、大丈夫。朝練があるんだから、おなかいっぱいだと走れなくなっちゃうのよ」
 彩加は、無理に笑顔を浮かべて答えた。
「それなら、走った後で食べられるように、サンドイッチかおにぎりでも持っていったら?」
 おかあさんが重ねてそう言ったけれど、
「ううん、走った後はぜんぜん食欲がなくて、まったく食べられないよ」
と、彩加は断った。
 本当のことを言うと、長期のダイエットによって収縮した彩加の胃袋には、朝食はそんな少ない量でもちょうどよかったのだ。

それよりも問題は、生理が来ないことだ。もともと彩加はおくての方で、初潮をむかえたのも他の子よりは遅く、中学生になってからだった。
 成長が早い子たちは、小学高学年になると次々とむかえはじめ、彩加は自分だけが取り残されたようで心配していた。
 中一になってようやくむかえた時、自分でも嬉しかったし、おかあさんもすごく喜んでくれて、昔からのしきたりどおりにお赤飯を炊いて祝ってくれた。
 しかし、去年の初めごろから生理が不順になって、暮れごろからはたまにしか来なくなってしまった。
 彩加は、身長百三十八センチで体重三十二キロ。クラスでも一番小柄だった。
 胸もぺったんこで、髪もベリーショートにしていたから、よく男の子と間違えられた。口の悪いクラスの男子からは「おとこおんな」とからかわれていた。

「ラストッ!」
 ストップウォッチを片手に、陸上部の顧問の宮川先生がどなった。
 彩加は、走るスピードを上げてラストスパートをかけた。
 あっという間に、前のランナーたちを追い抜いて先頭に立った。それまでは、駅伝チームのメンバーたちは、隊列を組んで一定のペースで走っていたが、ラスト一周だけは自由に走ってよかった。
 彩加は、そのまま後続を引き離して先頭でゴールインした。
「吉谷、いいぞ」
 ストップウォッチを片手に、宮川先生が笑顔で声をかけてくれた。
「はい」
 彩加は息が切れていなかったので、すぐに先生に応えられた。
次々にゴールインしてきた他の部員たちは、苦しそうに両ひざに手をついてあえいでいる。平気でクールダウンのジョギングをすぐに始めた彩加とは対照的だった。

「サーヤ、調子よさそうだね」
 練習が終わって、スポーツタオルで汗を拭きながら、部室のある校舎のそばに彩加が来た時、同じ陸上部の由姫(ゆみ)が声をかけてきた。
 由姫は、彩加とは対照的に大柄でがっしりした体格をしていた。専門種目は砲丸投げだ。陸上部でも有数の実力のある選手で、二年生のころから市大会で活躍していた。今年は県大会にも、彩加の学校からはただ一人で出場している。
 由姫は、今日は生理中で練習を休んでいたので、校舎のそばで彩加たち駅伝チームの練習を見ていた。
「まったく面倒くさくて。彩加がうらやましいな」
 前に、彩加が生理のこない悩みを打ち明けた時、由姫はあっけらかんとそう言っていた。
 陸上部で一番小柄な彩加と一番大柄な由姫、不思議に気が合って、一番の仲良しだった。

彩加は、来月にせまった市の駅伝大会の選手に選ばれていた。彩加にとっては、これが最初で最後のレギュラーだった。しかもエース区間を任されている。ここのところ二千メートル走のタイムが急激に伸びてチームで一番になったので、宮川先生に補欠から大抜擢されたのだ。
 彩加たち三年生は、この大会で引退することになっていた。二年間の苦しい練習と減量に耐えた彩加の努力が、ようやく報われる時がきたのだ。
一年のころの彩加はやはり小柄だったけれど、どちらかというとポッチャリタイプで、ピークの時には体重が四十五キロもあった。
「吉谷、もっと体重を落とさないと、タイムが伸びないぞ」
 宮川先生に口を酸っぱくして言われて、この二年間で十三キロも体重を落としていた。
 その影響か、身長も二センチしか伸びなかったのは、かなりショックだった。
 しかし、体重を落とした効果は、三年生になってからてきめんに表れてきた。
 今では、足が軽々と前に出てストライドが伸びたし、ピッチをあげて長く走っても疲れが少なかった。
 彩加は、二年生のころまでのタイムを、三年になってから大幅に更新していた。

「うめえー!」
「最高っす!」
 駅伝のメンバーに選ばれなかった子たちは、コンビニでアイスクリームを買って、おいしそうに食べている。
「ずっと我慢していたんだあ」
 屈託なくそう言いながらアイスをなめている子たちを見て、彩加は少しうらやましかった。
 彩加に限らず、駅伝チームのメンバーは、宮川先生から帰り道でのアイスを厳禁されていた。もっとも中にはこっそり食べている子たちもいたが、彩加はまじめにいいつけを守っていた。
(がまん、がまん)
 大会が終われば部活を引退するので、帰り道だけでなく普段の生活でも自分に課している「アイスクリームやチョコレートは厳禁」という戒めを解くことができる。彩加は、もう半年以上もスイーツ類を食べたことがなかった。クリスマスも誕生日も、家族にも付き合ってもらってケーキを我慢していた。
 普段の食事でも、おかあさんの協力で、今朝の朝食のように炭水化物や糖類をできるだけ少なくしたメニューにしてもらっている。
「サラダばかりで、大丈夫?」
 おかあさんは心配していたけれど、
「平気、平気。部活でも絶好調なんだから」
 彩加はそう答えて、最近生理がないことは、おかあさんにはひた隠しにしていた。

 翌日も、彩加はチームメイトと練習をしていた。
 千メートルを過ぎたところだった。
(痛い!)
 カーブで左足を踏み出した瞬間、足首にズキンと痛みがはしった。
 とっさにその足をかばったので、足の運びがばらついて、隣を走る子にぶつかりそうになった。
 彩加は、何とかバランスを立て直した。
 でも、左の足首の痛みは続いている。
 彩加は、なるべく左足に体重をかけないように注意しながら、走り続けた。
 千二百メートルから千六百メートルへ。
 走るにつれて、足首の痛みはますますひどくなってきていた。
(痛い!)
 彩加は、とうとう我慢できなくなって、一人コースを外れると、その場にうずくまってしまった。
「吉谷、どうした?」
 宮川先生が、心配そうな顔をして駆け寄ってきた。

「疲労骨折ね」
 レントゲンを見ながら、女性のお医者さんがあっさりと言った。白衣に「田丸」と書いたネームプレートを付けている。髪をボブカットにして、両耳にピアスをした若い先生だった。
 田丸先生は、それからもいろいろな検査をしてくれた。
 どうやら彩加は、骨密度にも異常があるようだった。
「中学三年生かあ」
 田丸先生は、画面に映し出された彩加の検査データを見ていたが、急に声を潜めて言った。
「ねえ、あなた生理はちゃんとあるの?」
 彩加が赤くなってうつむくと、
「やっぱりねえ。まだ血液検査の結果は出ていないけれど、きっと疲労骨折は女性ホルモンの異常のせいよ」
「えっ!」
 彩加がびっくりして顔を上げると、
「過度のダイエットと激しい運動のやりすぎが原因なの。生理がとまるだけでなく、骨密度も低くなっちゃうの。あなたの骨はスカスカで、まるでおばあさんのようよ。どうやら成長も遅れているようだし、このままだと赤ちゃんも産めなくなっちゃうよ」
 ズバズバ言われて、彩加が泣きそうになると、
「大丈夫、今からきちんと治療すればちゃんと治るから」
と、田丸先生は急に表情をゆるめて、彩加を励ますように言ってくれた。

 次の日、彩加が学校へ行くと、宮川先生から職員室へ呼び出された。
「吉谷、足は大丈夫か?」
「いえ、左足首の疲労骨折だそうです」
「そうだってなあ」
 宮川先生は、彩加から骨折と聞いても、少しも驚いた様子はなかった。どうやら、彩加の骨折の情報は、病院から学校へも直接いっていたようだ。
「それで、すまないんだが、今度の大会のメンバーからははずれてもらうことになったから」
「…!」
 彩加は、大会に出られないことはすでに覚悟していた。左足の患部をギブスで固定して、片方だけだが松葉づえまでついている状態では、とても大会までには回復できそうにない。
 でも、宮川先生から、最初で最後のレースに出場できないことを正式に告げられると、彩加は改めて強いショックを受けていた。
「ついてないなあ。吉谷が抜けると、今度の大会は厳しくなるぞ」
 宮川先生は、彩加が怪我やレギュラー落ちでショックを受けていることよりも、チームの大会での結果の方を心配しているようだった。

「ああ、おいしかったあ」
 夕ご飯の時に、彩加は思わず言ってしまった。いつもはごはんをほとんど食べないのに、今日はお茶碗によそわれたごはんを残さずに食べられた。久しぶりの白いごはんは、甘くて本当においしかった。
「よかった。おかわりは?」
 おかあさんが聞いてくれたが、
「ううん、もうおなかいっぱい」
と、彩加は答えた。これからはダイエットをする必要はないのだから、おかわりしてもっと食べてもいいのだが、胃が小さくなっているので、それ以上はうけつけそうになかった。
「ダイエットし過ぎてたからねえ。まあ、だんだん食べられるようになるんじゃない」
 おかあさんは、田丸先生からもらったアンチダイエットの食事の注意表に従って、タンパク質やカルシウムなどの身体を作る栄養を十分に含んだおいしい料理をたくさん作ってくれていた。今までと違って、炭水化物や糖類もたっぷり入っている。
 なんだか、おかあさんは怪我の心配よりも、彩加がもうこれ以上過剰な練習やダイエットをしなくていいことを喜んでいるようだった。

おかあさんが張り切って用意してくれる食事を、きちんと食べるようになって、彩加の体重はだんだんと増えていった。もう練習はまったくしていないので、その影響ももちろんあるだろう。学校でも、今までのように給食のパンを全部家に持ち帰るようなことはせずに、きちんと残さずに食べている。
 毎朝、体重計にのるのが彩加は楽しみだった。田丸先生からは体重を少なくとも四十キロまでは戻すように言われている。ランニングのタイムの代わりに。毎日つけるようになった彩加の体重グラフは、順調に右肩上がりになっていた。
 宮川先生にチームを抜けさせられてからしばらくは、彩加は強いショックを受けていたけれど、田丸先生にもアドバイスされたように、今はしっかりと身体を治すことが先決だった。
 幸い、左足首の痛みはすっかりなくなっていた。気のせいか、身長も少し伸びたような気がする。

数か月後、運動部の女の子たちを対象に、学校で「無月経と疲労骨折の関係」についての講演と指導があった。
 講師は田丸先生だった。
 陸上部を休部中の彩加も、講演には参加した。左足首の骨折はすっかり治っていたけれど、もう高校受験に備えて部活を引退する時期になっていたので、陸上部には籍だけを置いてそのまま練習は休んでいる。
といって、走るのが嫌いになったわけではないので、毎朝一人で家のまわりを走っていた。練習不足と太ったせいか、すぐに息切れして怪我の前のようには速く走れなかったけれど、ランニングしているだけで気持ちがよかった。
(私って、本当に長距離走が好きなんだなあ)
と、初めて実感できたような気がしていた。
部活で走っている時は、タイムが速くなるのはうれしかったけれど、どこか宮川先生に無理に走らせているようだったのだ。
 身体が風を切っていく音、規則正しい自分の息遣い、アスファルトをけるリズミカルな足音、…。
 朝早いので、彩加の家のまわりの住宅地には、散歩しているお年寄りや犬を連れた人たちをたまに見かけるだけだった。
 こうして自主的に走っていると、ランニングの楽しさを自分で実感できるようになっていた。

 田丸先生は、プロジェクターを使った三十分ほどの講演の後で、駅伝チームの女の子たちだけでなく、体操、新体操、バレーボール、バスケットボールなど、ダイエットをしていそうな女子部員たちに、一人一人の体重や練習時間や食生活、生理の有無などを質問しながら、時間をかけて時には厳しく個人指導していった。
 でも、まるまる太っていかにも健康優良児のような砲丸投げの由姫だけには、
「あなたはダイエットしてないんでしょ。ならぜんぜん大丈夫ね」
と、太鼓判を押していた。
 田丸先生の講演と指導の内容は、宮川先生を含めて、運動部の顧問の先生たちにも伝えられた。
 しかし、宮川先生は、過度のダイエットと練習を強要して疲労骨折させてしまったことを、とうとう彩加本人にはあやまらなかった。

 (あっ!)
 それから、しばらくした朝だった。
 彩加に、半年ぶりに生理が戻った。
 これで、将来ちゃんとおかあさんにもなれると思ったら、すごくうれしかった。
 もうすぐ入学する高校では、また陸上部に復帰して、全国高校駅伝を目指すつもりだった。
 そのチームの指導者は女性で、田丸先生の情報だと、選手たちの健康管理に、非常に理解があるとのことだった。


 

 
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明日も遊ぼうよ!

2020-03-22 09:18:58 | 作品
 肉まんをカプッとほおばると、熱い肉汁がのどにググッと流れこんだ。
「ハグ、ハグ、……」
 急いでのみこんで、優治はホーッと白いいきをはいた。
 肉まん二個とカレーパン一個。これで、塾から帰る八時すぎまでの三時間を、もたさなければならない。
 月曜から金曜まで、雄治は電車で東京よりへ二駅行った所にある大手進学塾へ通っていた。
 月水金は普通コース。火木は受験コースだ。
 強い風がガタガタッと、古いガラス戸をゆすった。外はすごく寒そうだ。
 でも、パン屋の中は、ストーブがカッカッともえていてあたたかい。雄治は、店の中に五、六脚置かれているいすにすわっていた。
駅前にあるこの店は、五時半をすぎるとけっこうにぎわってくる。部活帰りの高校生のたまり場になっていたからだ。
 でも、今はまだ時間が早いので、お客は雄治だけだった。
 今日、塾へ行きたくなかった。先週のテストが返されるからだ。
結果は見なくてもわかっている。まったく悲惨なものなのだ。
 五年生になってから、雄治の成績は少しずつ下がり始めている。
 特に算数。中でも分数が苦手だった。
 肉まんとカレーパンは、すぐに食べ終わってしまった。
 でも、雄治は、壁にはられた古いコーラのポスターをながめたりして、ぐずぐずしていた。
 テレビの横の古ぼけたかけ時計が、五時二十分をさした。とうとうタイムリミットが来てしまった。雄治は、のろのろと立ち上がった。
 ガララッ。
 ようやくパン屋のガラス戸を開けた。
(ふーっ!)
 あんのじょう、外はすごく寒かった。

 改札口を抜けてホームへの階段に行こうとした時、掲示板の前に拓哉がいるのに気がついた。
 拓哉は、クラスで一番からだが小さい。いつもノートに犬の絵ばかりかいていて、勉強はビリの方だ。
 拓哉は、掲示板をじっくりとながめている。
 アニメのキャラクターが変なポーズをしている遊園地、作り笑いを浮かべた女の人のスキー場、そして、初もうでのお寺のポスターなどがはられている。雄治には興味のないものばかりだ。
 それなのに、拓哉は何がおもしろいのか、熱心に見つづけていた。夢中になった時のくせで、口をポカンとあけている。
「拓哉、どこへ行くんだ?」
 雄治が声をかけると、拓哉はしばらくぼんやりしていた。
 でも、相手が雄治だとわかると、ニコッとわらってそばにかけよってきた。
「やあユウちゃん。これから千葉まで行くんだ」
「ふーん。そっちに知り合いでもいるのか?」
「ううん」
 拓哉は首を振りながら、雄治を階段の方へ引っぱっていった。そして、改札口の駅員の様子をうかがいながら、声をひそめていった。
「終点まで行って、また戻ってくるだけ。でも、中でいろいろ遊ぶんだ」
 拓哉はそっとてのひらをあけて、雄治にキップを見せた。それは入場券だった。
「なんだよ、ひまなやつだな。そんなことしてて、おかあさんにおこられないのか?」
 雄治は、少しうらやましそうにいった。
「うん。おかあちゃんは、ここんとこ帰りが遅いんだ。家にいても、テレビかゲームしかないし」
 雄治は、拓哉の家族について自分がなにも知らないことに、初めて気がついた。もう二年以上も同じクラスだったのに。
「ユウちゃんも、いっしょに行かないか?」
 拓哉が、少し遠慮がちにさそいかけた。
「えっ! でも、電車の中で何をするんだよ?」
「いろいろさ。あとで教えてあげるよ」
 拓哉はそういって、先に階段をかけあがっていった。
 雄治はそのあとを追いかけながら、だんだん迷い始めていた。なんだか今日だけは、塾をサボってしまいたい気もするし、行かないとますます勉強についていけなくなるような気もする。

 ホームには、おおぜいの会社帰りの人たちが、寒そうに電車を待っていた。
 風がピューッとふいてきて、雄治は思わずダウンジャケットのポケットに両手を突っこんだ。
 拓哉の方は元気いっぱいで、ホームの黄色い線の上を行ったり来たりしていた。一歩一歩、わざわざ黄色いブロックをふみながら、チョコチョコ歩いている。
 雄治は電車を待ちながら、塾をサボるかどうかまだ決めかねていた。
 その時、上り下りほとんど同時に、電車が前の駅を出たことを示すランプがついた。
(よーし)
 とうとう雄治は、判断を天にまかせることにした。上り電車が先に来たら、このまま塾へ行く。下りが先だったら、拓哉と一緒にそちらへ乗って、サボッてしまおう。
 やがてホームの両側に、あいついで電車が滑り込んできた。
 スピードがだんだんゆるくなる。
 雄治は少しドキドキしながら、電車がとまるのを待っていた。
 シュッ。
 一瞬早く、下り電車のドアが開いた。たくさんの乗客が、はき出されてくる。
「行こう!」
 拓哉はそう声をかけると、先にたって電車に乗り込んでいった。
 ついに雄治は思いきって、その後に続くことにした。

 サラリーマンやOLたちの帰宅時間にちょうどあたっているらしく、電車の中はすごくこみ合っていた。
 雄治たちは、ぎゅうぎゅうづめの車内で、すぐにはなればなれになってしまった。
 雄治のまわりは、人の壁、壁、壁。あちこちから押されて、息がつまりそうだ。
「拓哉」
 雄治は小声で、拓哉を呼んでみた。
 でも、遠くに離れてしまったのか、ぜんぜん返事がない。しかたがないので、天井をにらみながらじっとしていた。
 電車が江戸川を渡り千葉県に入るころになって、ようやく降りる人たちが増えてきた。車内にも、少しは余裕ができてくる。
「ユウちゃーん」
 拓哉が、大人たちの間をもぐるようにして、そばにやってきた。
「すごいラッシュだね?」
 雄治はびっくりしていた。上り電車は、いつもこの時間にはガラガラだったのだ。塾の帰りには、下り電車も混雑のピークをすぎている。
「うん、七時まではいつもこんなもんだよ」
 慣れているのか、拓哉はケロリとしていた。

 次の駅が近づいた時、少し離れた所にすわっていた太ったおばさんが立ち上がった。
「ユウちゃん、早く、早く」
 拓哉はすばやく人をかきわけて席を確保すると、大声で雄治を呼んだ。
 雄治は少し顔を赤くして、拓哉の横に腰をおろした。前に立っているめがねをかけたおじさんが、手に持った新聞の上から雄治たちをこわい目でにらんでいる。
 雄治はからだをかたくしてうつむいてしまったが、拓哉の方はまるでへいちゃらのようだ。かばんからすぐにノートを取り出すと、雄治に手渡した。
 あけてみると、どのページにもぎっしりと犬の絵が並んでいる。ひとつひとつが、濃いえんぴつでたんねんに描かれていた。
 大きい犬、小さい犬。かわいいの、どうもうそうなの。拓哉の知っているミニチュアダックやトイプードル、ポメラニアンなどもいる。
「これはねえ、グレートデン。体高は五十八センチから六十二センチ。体重は五十三キロから六十八キロ。主に番犬と軍用犬に使われているんだ」
 体じゅうにはんてんのある大きな犬の絵を指差しながら、拓哉が説明してくれた。
「ふーん」
 雄治は、拓哉が詳しいのに感心してうなずいた。
「これはシェトランドシープドッグ」
「えっ、コリーじゃないの?」
「ううん、コリーを小型にした犬なんだ。やっぱり牧用犬だけどね」
「へーっ」
「そう見えないかな?」
 拓哉は少し不安そうに、急いで別のページをめくった。
「こっちがコリー。シェトランドシープドッグにくらべると、足が長いんだ」
「うん、そんなような気もするな」
 雄治がそういうと、拓哉は安心したようにニカッとわらった。拓哉がわらうと、たれぎみの細い目はぜんぜんなくなってしまう。
 拓哉は一頭ずつ順々に指差しながら、いろいろな犬について教えてくれた。
 でも、その説明は、グレートデンの時と同じように、ひとつの型にはまっている。なんだか、ボタンを押すとおしゃべりするロボットみたいだ。もしかすると、図鑑かなにかを丸暗記しただけなのかもしれない。
「どうして、みんなベロを出して、しっぽを振ってるんだ?」
「えっ! ああ、そうした方が、本当に生きてるように見えるんだよ」
「ふーん?」
 雄治が首をひねっていると、拓哉はポケットからチビた3Bのえんぴつを取り出した。そして、ノートの余白に、さっさと犬の絵を書き始めた。
 シェパードのようだ。どうやら拓哉は、シェパードの絵が一番得意らしい。ノートにもたくさん出てくる。
 そして、口を閉じしっぽを動かさない絵と、舌を出してうれしそうにしっぽを振っている絵とを、あっという間にかきあげた。
 だんぜんしっぽ振りの方がいい。
「ほんとだな」
 雄治が今度は心からそういったので、拓哉はうれしそうに顔をクシャクシャにした。

「ユウちゃん、これできる?」
 拓哉は、一本の鉛筆を両手の親指と人指し指の間にはさんで、雄治に向かって突き出した。えんぴつの上に両手の親指を出して、てのひらを合わせている。
「何だよ?」
「ハイッ!」
 拓哉は、いきなり大声で気合をかけた。
 次の瞬間、拓哉は両方のてのひらを、逆方向にグルリとまわした。
「あっ」
 いつの間にか、両手の親指が鉛筆の下に移動している。
「ハイッ!」
 拓哉はもう一度気合をかけて、てのひらをグルリとまわした。今度はもとどおりに、両手の親指がえんぴつの上にきている。
「やってみる?」
 拓哉はそういって、鉛筆をさしだした。
 雄治は受け取った鉛筆で、同じようにやろうとしてみた。
 でも、ぜんぜんうまくいかない。手がグチャグチャにこんがらがってしまう。
「えーっ? もう一度やってみてよ」
「うん。ハイッ!」
 拓哉は得意そうな顔をして、この手品を何度も繰り返した。雄治はジーッと、拓哉の手先を見つめている。
 でも、なかなかコツがわからなかった。
「ス・ロ・ー・モ・ー・シ・ヨ・ン」
 最後に拓哉は、雄治にもコツがわかるように、ゆっくりとやってくれた。
「なーんだ。簡単じゃないか」
 雄治があっさりとやってみせると、拓哉は少しだけ残念そうな顔をしていた。
 拓哉は鉛筆をしまうと、今度はポケットから消しゴムを二つ取り出した。それを両手にひとつずつ持って構える。
「ハイッ!」
 例の気合とともに、次の手品が始まった。

その後も、拓哉はえんえんと手品を続けていた。
 しかし、得意なネタがつきてきたのか、しだいにつまらなくなっている。
 雄治は、ときどき拓哉から目を離して、窓の外をながめた。
 外はすっかり暗くなっている。かすかに見える見知らぬ風景が、急に不安に感じられてきた。
 雄治が興味を失うのを恐れるかのように、拓哉は次々に新しい手品を繰り出していた。

 六時四十分ちょうどに、終点の千葉駅に到着した。塾では、ちょうど一時間目の算数がおわったころだ。
 電車がとまるのをまちかねていたように、乗客はわれ先にと降りていった。みんな足早に急いでいる。
 そのまま車両に残っているのは、もちろん雄治と拓哉だけだ。ガランとした車内は、急にさみしくなってしまった。
 窓越しに、別のホームにも電車がとまっているのが見えた。きっと、そっちが先発に違いない。
「行こう」
 雄治は拓哉を誘って電車を降りると、階段に向かって走り出した。

 帰りの電車は、驚くほどすいていた。六両編成全体で、雄治と拓哉の他には、五、六人しかお客が乗っていない。
 六時四十八分発。
 雄治たちの駅には、八時少し前に着くことになる。塾から帰る時刻とピッタリなので、雄治にはちょうどよかった。
 雄治たちは、誰もいない三両目に乗り込んだ。
「ヤッホー!」
 拓哉はすぐに靴を脱いで座席にあがると、そこからつりかわへ飛びついた。
 両手でぶら下がり、足をぶらぶらさせる。半ズボンからシャツがはみでて、おへそまでまる見えだ。
 雄治の方は座席に乗らなくても、ちょっとジャンプすればつりかわに手が届く。拓哉のよこで同じように足をぶらつかせてみた。
「よいしょっと」
 拓哉はつりかわの位置まで腰を引き上げると、あざやかに前転をしてみせた。最近、運動不足で太り気味の雄治には、とてもそんなまねはできない。
 ここからは、拓哉の一人舞台になった。
 両手で交互につりかわにつかまりながら、まるでうんていでもやるように車内を移動してみせた。
 はじまでたどり着くと、こんどは左右をつなぐパイプを器用に伝わって反対側へ移る。そして、またうんていで雄治のそばまで戻ってきた。どうも、いつもやり慣れているって感じだ。
 拓哉がポンと座席に飛びおりると、パッとホコリが舞いあがった。

「ユウちゃん、見てて、見てて」
 拓哉はある駅についたときに、ホームへとびだしていった。
 ドアから顔を出してみると、電車の先頭へむかって走っている。
 発車のベルが鳴り出した。
 すると拓哉は、二両ほど前のドアに、急いでとびこんだ。
「なんだよ?」
 車内通路をもどってきた拓哉に、雄治はたずねた。
「うん、停車中にどこまでいけるかためしてるんだ」
 まだ少し息をはずませながら、拓哉はそうこたえた。
「よーし。それなら競争しよう」
 これなら雄治にもできそうなので、はりきっていった。
 電車が、次の駅のホームに滑り込んでいく。
 しだいにゆっくりになって、やがて完全に止まった。
 シュッ。
 ドアが開くと同時に、二人は外へ飛び出していった。どこまで遠くのドアに行けるかの勝負だ。
 リリリリリ……。
 ホームには、発車のベルが鳴り響いている。すぐに雄治が少しリードした。鉄棒はだめだけれど、かけっこなら自信がある。
 ベルが鳴りやんだと同時に、雄治はすぐそばのドアに飛び込んだ。
 しかし、拓哉はそのドアには入らずに、通りすぎていく。
 ドアがしまる。その瞬間、拓哉は一つ先のドアを、スルッとすり抜けていた。
「勝った、勝った」
 拓哉は大喜びだ。
(クソーッ。まるでサルみたいに、すばしっこいやつだな)

 次のホームでは、雄治は作戦を変更した。
 拓哉を先に行かして、後ろにつける。そして、拓哉がドアに入ろうとしてから、全速力で追い抜いて、次のドアから乗ろうというのだ。
 拓哉は、後ろにピタリとくっついた雄治を少しも気にしないで、マイペースで走っている。拓哉より足の速い雄治は、余力充分だ。
(よし、これならラストスパートで勝負できる)
 ……リリリリ。
 ベルが鳴りやんだ。
 しかし、拓哉はドアに入ろうとしなかった。雄治は不安になって、スビードをゆるめた。
 シュッ。
 ドアの音と同時に、雄治は車内に飛び込んだ。
拓哉は、まだけんめいに次のドアに向かっている。
 いくらなんでも、これは無理だ。ドアは拓哉の目の前で、完全にしまってしまった。
 ぼうぜんとしている拓哉を残して、電車はゆっくりと走り出した。
「次の駅で待ってるぞーっ」
 雄治はけんめいに、口の形で拓哉に知らせようとした。拓哉は不安そうな顔で、こちらを見送っている。

 約束どおりに、雄治は次の駅で電車を降りると、拓哉がやって来るのを待っていた。
 ようやく次の電車が来た。
 でも、拓哉は乗っていなかった。
 その次の電車にも、やっぱりいない。
(拓哉のやつ、しょうがないな。あの駅でまだ待ってるのかなあ?)
 どうやら、雄治のいったことが、わからなかったらしい。
 とうとう雄治は、ひとつ前の駅へ戻ってみることにした。
 雄治を乗せた下り電車が動き出した時、上りにも次の電車が入ってきた。
「あっ!」
 拓哉がその電車に乗っているのに気づいて、雄治はびっくりしてしまった。
 でも、どうすることもできない。
 拓哉は上り電車を飛び降りると、雄治の乗っている下り電車をけんめいに追いかけ始めた。
「拓哉っ! そこで待ってろよ。すぐ戻ってくるから」
 雄治は、今度は窓を開けて大声で叫んだ。冷たい十二月の夜の空気が、ドッと車内に押し寄せてくる。
 拓哉はようやく走るのをやめると、こちらに向かって大きくうなずいた。
 雄治は窓を閉めながら、そばにすわっている人工毛皮のえりの付いた服を着たおばさんが、めいわくそうに顔をしかめているのに気づいた。

 拓哉との行き違い騒動のために、雄治たちがもとの駅にたどり着いたのは八時半を過ぎていた。ふだんなら、もう家へついている時間だ。
雄治は拓哉へのサヨナラもそこそこに、家に向かって走り出そうとした。
「ユウちゃん」
 拓哉が大声でよびとめた。
「なんだよ?」
 雄治が振り返ると、拓哉はニッコリ笑いながらさけんだ。
「明日も遊ぼうよ!」
 雄治はびっくりして、しばらく拓哉の顔をみつめていた。
「うん」
 やがて雄治は小さくうなずいた。
「ユウちゃん、バーイ」
 拓哉はそういうと、反対方向へ走っていった。
(明日も遊ぼうよ!)
 拓哉の言葉を頭の中で繰り返しながら、雄治は家へ急いだ。

 次の朝、雄治が教室へ入っていくと、まっさきに拓哉がわらいかけてきた。
(明日も遊ぼうよ!)
 昨日の拓哉のことばがよみがえってくる。
 でも、雄治はぎこちない笑顔をうかべて、目をそらしてしまった。拓哉との約束を、すっぽかすつもりだったからだ。
 昨日の晩、家に帰ってから、パパとママに、雄治はこっぴどくしかられていた。塾に行かなかったことが、塾からの連絡でばれていたのだ。
今日は、もうとてもサボれない。
 授業中も、時々、拓哉は雄治の方を親しげに見ていた。
(今日も遊ぼうよ!)
 拓哉の顔が、そういっているように思えてならなかった。雄治は、そのたびにすぐに目をそらしてしまった。
 でも、雄治にははっきりと約束をことわることはできなかった。拓哉のがっかりする顔を見る勇気がなかったからだ。
 休み時間には、雄治は拓哉と顔をあわせないように、他のクラスへ行ったり、ふだんはめったに行かない図書室をのぞいたりしていた。拓哉に、昨日した約束の念をおさせないためだった。
 ようやく、学校が終わった。雄治にとって、すごく長く感じられた一日だった。
「先生、さようなら」
「さよなら」
 みんなが、担任の先生にあいさつをしている。雄治だけは、帰りのあいさつもそこそこに、ランドセルをつかんで教室をとび出していった。拓哉につかまらないためだ。
 そんな雄治を、拓哉はふしぎそうな顔をして見送っていた。

 四時になると、雄治は塾へ行くために家を出た。いつもより一時間も早い。ふだんなら、ギリギリまでテレビを見ている。ママにせかされてから、いやいや出かけるのだ。これも、駅で拓哉と顔を合わせたくないからだった。
 塾の教室に入れるのは、五時半からだ。これでは、一時間近く、塾の前の道路で待たなければならない。
(それでもかまわない)
と、雄治は思っていた。
 いつものように、例のパン屋で肉まん二個とカレーパン一個を買った。
 でも、今日はすぐには食べないで、店を出てそのまま改札口に向かった。
 頭上で、ちょうど上り電車が到着する音が聞こえる。雄治は、急いで階段を三段飛びでかけ上がっていった。
「ヤッホー」
 いきなり声をかけられた。
 いた。なんと拓哉が、もう来ていたのだ。
 雄治はぼうぜんとして、ホームに立ちつくした。
 上り電車は雄治を残したまま、さっさと行ってしまった。
「ユウちゃん、今日の方が長く遊べるね」
 拓哉は、ニコニコと笑いながらいった。
「食べる?」
 雄治は、そんな拓哉に肉まんを一個手渡した。
「えっ、いいの?」
 拓哉は肉まんを受け取りながら、目を輝かせている。
 そんな拓哉を見ながら、雄治は、困ったような、でもちょっとだけうれしいような気持ちがしていた。


明日も遊ぼうよ!
平野 厚
平野 厚
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マスクマン、最後の日

2020-03-21 09:28:21 | 作品
「ヒロちゃん、たいへんだ」
 朝、学校へいくと、ブンちゃんがすぐにとんできた。いつも陽気なブンちゃんが、こんなに真剣な顔をしているのはめずらしい。ただでさえ丸いほっぺたが、不服そうにプーッとふくらんでいる。
「なんだい、たいへんって?」
 ぼくがランドセルをおろしながら聞き返すと、
「それが、マスクマンが、来月、最終回になっちゃうんだって」
 ブンちゃんは、世界の破滅を知らせるかのような深刻な調子で話した。
「えーっ! ほんとかよお」
 ぼくも、びっくりして飛び上がった。
 マスクマンといえば、三年前、ぼくが一年生のときに、放送が開始されて以来、最高の人気をほこるテレビアニメだ。
 ふだんはドジでマヌケだけど、いざという時にはすごい力をはっきするマスクマンは、みんなに圧倒的に支持されている。
 毎週日曜日の朝九時三十分からマスクマンを見るのは、ぼくたち小学生の男の子にとっては、かくことのできない習慣になっていた。
「なんで、最終回になっちゃうんだろ?」
 横から、かんだかいボーイソプラノで、クリちゃんが口をはさんだ。
ブンちゃんが大声を出したんで、まわりには、クラスの男の子たちが集まってきている。みんなマスクマンの熱心なファンばかりだ。
「マンネリしたからじゃないの」
 細谷くんが、訳知り顔で答えた。おかあさんがブティックのオーナーなので、今日も「コムサ・デ・モンド」のジャケットで、ビシッときめている。
「どうしてさ。視聴率だって、まだ高いんだぜ」
 ぼくはムッとして、細谷くんをにらみつけてやった。
「ふふん、そんなんじゃないんだよ。マスクマンのキャラクター商品の、売れ行きが落ちてきたからなんだってさ。だから、おかしやおもちゃの会社じゃ、新しいヒーローが必要なんだよ」
 細谷くんは、得意そうに説明した。
「ふーん、なるほど」
 みんなも、感心したようにうなずいていた。
(キャラクター商品の売上げが落ちたからって、何だっていうんだ)
 ぼくはムカムカして、まるで小さな大人のような細谷くんの顔に、一発くらわしてやりたくてたまらなかった。

(マスクマンが終わっちゃうなんて!)
 その晩、ぼくはベッドにねころびながら、昼間のことを思いだしていた。
 もう最終回をいれても、あとたった三回しか見られない。
 真の格闘家をめざしていたマスクマン。愛犬チャッピーとともに、強敵を求めて世界中を武者修行していた。
 毎回、いろいろな敵を倒してきた。
 中国の怪人、チャイナマスク。アフリカの強豪、マサイファイター。フランスの伊達男、エッフェルマン、……。
そして、永遠のマスクマンのライバル、ロビンキッド。彼とは、数々の名勝負を繰り広げてきた。
 地球の破滅をねらうデビルマスクとの長い戦い。デビルマスクが送り込むさまざまな刺客を、死闘のすえ破ってきた。
 そして、プリンセスリリーへの恋。何回も、もう少しでうまくいきそうになった。
 でも、いいふんいきになると、いつもマスクマンがどじなことをやってだめにしてきてしまった。
 一年生のときからずっと使っているぼくの下じき。ショッピングモールの広場で、はじめてマスクマンショーを見たときにもらったものだ。
 ぼくは、ランドセルの中からそっと下じき取り出してみた。その時にしてもらったサインは、もうすっかりうすれてしまっている。
 去年の子ども会のクリスマス会。かくし芸大会のときに、三年連続でマスクマンのものまねをした。
「まったくヒロキは、ワンパターンなんだから」
って、みんなに笑われてしまった。
 そして、今年のぼくの誕生日。マンガのとくいなマユミさんが、色紙に描いてくれたマスクマンの似顔絵。
そのとき、マユミさんの横顔が、
(プリンセスリリーに、似てるな)
って、思ったっけ。マユミさんの描いてくれた似顔絵は、机の前に大事に飾ってある。
 この三年間、どんな時も、マスクマンはぼくと一緒にいた。
(ああ、あれは、マスクマンが、デビルマスクと戦った時だな)
(あの時は、マスクマンとロビンマスクが初めてであった時だ)
 ひとつひとつの思い出が、みんなマスクマンと結びついて思い出されてくる。
(マスクマンのいない生活なんて、とても考えられない)
 でも、もうすぐ終わってしまうんだ。
(なんとしてでも、マスクマンの最後だけは、見届けなくては)
 壁にはられた大きなポスターから、マスクマンはいつものように笑顔を送ってくれていた。

「それでは、この通知を家の方に渡してください」
『二学期の授業参観日について』
 プリントの一番上に、そう書いてあった。
「ふーん」
 興味がないので、ろくに読まずに机の中につっこんだ。
「えーっ!」
 最初に叫んだのは、ブンちゃんだった。
「そんなあ!」
「ひどいやあ!」
 たちまちクラスの男の子たちのあいだに、悲鳴のような叫び声がおこった。
 わけがわからずに、ぼくがキョロキョロしていると、
「ヒロちゃん、参観日の通知を読んでみろよ」
と、ブンちゃんが教えてくれた。
 あわてて机の中から、すこしクチャクチャになった通知を出してみた。
「あーっ!」
 思わず、ぼくも声をあげてしまった。
 そこには、『授業参観日 十月三日(日)』と書かれていたからだ。
 そう。その日こそ、マスクマンの最終回の放映日なんだ。
「どうしたんだ、静かにしろ」
 教壇から、佐藤先生がどなった。
「先生、授業参観の日はもう決まっちゃったんですか?」
 おもいきって席を立つと、先生にたずねてみた。
「そうだよ、書いてあるだろ。十月三日、日曜日って」
「だって、先生。その日は、マスクマンの最終回の日ですよ」
 ぼくがそういうと、他の男の子たちもみんなうなずいている。
「えっ?」
 先生はなんのことだかわからないようで、しばらくポカンとしていた。
「……、フ、……、フアッハハッハー」
 やがて先生は、たいこばらをつきだして、大声でわらいだした。
「何を言い出すのかと思ったら、ばかばかしい。そんなことで、みんなさわいでいたのか。だれかの家にDVDレコーダーかブルーレイレコーダーがあるだろ。そいつに録画してもらって、ダビングしてもらえ」
 先生は、またさもおかしそうにわらいだした。
(まったくわかってないなあ)
 ぼくは席にこしをおろしながら、そう思った。
 もちろんぼくだって、最終回はブルーレイにとって、永久保存版にするつもりだった。そのためのディスクだって、もう用意してある。
 でも、放映されたその時に見なきゃ、ぜんぜん意味がないのだ。
 十月三日、午前十時。
 それが、ぼくたちが、マスクマンとサヨナラするときなんだ。これを見のがしたら、ファンだなんていえやしない。
(くそーっ、よりによって、最終回の日が、授業参観日だなんて)
 ぼくは、くやしくってたまらなかった。
(先生たちが子どものときには、アニメってなかったのかなあ)
 ぼくは、授業をはじめた佐藤先生をながめながら、そんなことをかんがえていた。
(いや、待てよ。そんなことはない)
 いつか佐藤先生は、ゆでたまごの「キン肉マン」について話してくれたことがあったのだ。そのとき、子どものころにキン肉マンがどんなに人気があったか、先生は目をキラキラさせながら熱心にしゃべっていた。
ぼくは、
(キン肉マンって、ちょうどぼくたちにとってのマスクマンのようなものなんだな)
って、思ってその話を聞いていた。
(佐藤先生は、そのころの自分の気もちを、もう忘れてしまったのだろうか)

 最終回までの二回の放送で、マスクマンのストーリーは、バタバタとかたづいていった。
 ついに宿敵デビルマスクをたおし、世界の平和は守られた。
世界マスクチャンピオンの座は、親友のロビンキッドにゆずられることになった。
あこがれのプリンセスリリーには、ふられつづけたままでおわるようだ。
 そして、さいごにして最大のなぞが残った。
 それは、マスクマンのすがおだ。予告編によると、どうやら最終回であきらかになるようだった。
 マスクマンのすがお。これについては、いろいろな説がある。
 アイドルなみのイケメン説。これはやっぱり少ない。マスクマンのひょうきんな性格には、ハンサムな顔はあまりにあわない。
 ギャグまんが風のおもしろい顔。この説を支持する友だちは多いけれど、それではあたりまえすぎておもしろくない。
 そのほか、「子どものころに悪人にさらわれて、ふためと見られない顔にされた」とか、「マスクの下もマスク、その下も、そのまた下もマスクで、ラッキョウみたいになっている」とか、「実は、マスクマンは女で、体だけが男に作りかえられた」とか、さまざまなうわさ、おくそく、デマなどが流れている。
 そのマスクマンのすがおが、最終回のラストシーンであきらかになるというのだ。
(あーあ、せめてラストシーンだけでも、見られないかなあ)
 ぼくは、思わずためいきをついた。

 マスクマンの最終回、そして、授業参観日がいよいよ明日にせまった。
「ヒロちゃーん、電話よお」
 トイレに入っていたら、おかあさんがよぶ声がする。
「ここだよ」
 ドアをちょっとだけあけてこたえた。
「あら、まだ入っていたの。長いわねえ」
 おかあさんが、あきれたような声を出した。
我が家では、ぼくのトイレは長いので有名だ。ぼくは、この狭いところで漫画や本を読んだりして、ゆっくりするのが好きだった。
「井上くんからよ」
 おかあさんは、すきまから子機をわたしながらいった。井上くんというのは、ブンちゃんのことだ。
「もしもし」
「ヒロちゃん、もう絶望だ」
 いきなり、ブンちゃんの泣き声がきこえてきた。
「どうしたんだい?」
「もうマスクマンが見られない」
「………」
「ママにばれちゃったんだ」
 ブンちゃんの声は、悲鳴のようにかんだかくなっていた。

 とぎれとぎれにいう、ブンちゃんの話をまとめるとこうだ。
どうしても最終回を見たかったブンちゃんは、仮病をつかって授業参観日を休む決心をしていたようだ。そのために、二、三日前から、コンコンとセキのまねをしたり、「あーあ、なんだか熱があるみたい」と、つぶやいたりしていたらしい。
 でも、さっきブンちゃんのママに、ズバリいわれてしまったのだ。
「文彦(これがブンちゃんの本当のなまえだ)。仮病をつかって、マスクマンを見ようったって、だめだからね。明日は、絶対に学校へ行かせるよ」
(ブンちゃん、そこまで思いつめていたのか)
 でも、それも無理はない。ブンちゃんのニックネームは、「マスクマン博士」。ぼく以上に、マスクマンに夢中なのだ。
 なにしろ、マスクマンの今までの放送を、すべてブルーレイにとって保存していて、「マスクマンがバッファローマスクにけがをさせられたのは第47回」だとか、「ロビンキッドがマスクマンと仲間になったのは第63回」だとか、めったやたらと記憶している。
 ぼくたちは、ときどきブンちゃんの家で、「マスクマン一挙上映大会」をやって、盛り上がっていた。
 すっかり泣き声になっているブンちゃんをなぐさめながら、ぼくは頭のかたすみで別のことを考えていた。
(そうか、仮病という手があったか?)
 ぼくはよくおかあさんに、「ヒロキは元気だけがとりえね」と、いわれている。
なにしろぼくは、入学以来、一度も学校を休んだことがないほどなのだ。だから、仮病をつかって休むなんて、ぜんぜん思いつかなかった。
 でも、かえってそんなぼくだったら、この手は使えるかもしれない。
(いかん、いかん)
 ぼくはだれも見ていないのに、あわててひとりで首をふった。こんなに悲しんでいるブンちゃんを裏切って、ひとりだけでマスクマンの最終回を見るわけにはいかない。それに、他の友だちだって。
 そのとき、ぼくは体の中に、ムクムクとファイトがもりあがってくるのを感じた。
(よーし、絶対に、マスクマンの最終回を、みんなで見てやるぞ)

『マスクマン最終回対策本部』
 黒のマジックでそう大きく書かれた紙が、ドアにはってある。
 ドアをあけると、そこは、……。
 マスクマン一色の世界だった。
 壁という壁には、マスクマンのポスターやペナント、ステッカーなどがびっしりとはられていた。
 部屋のすみには、マスクマン人形、変身セット、ぬいぐるみなどがずらりとならんでいる。
 そして、机の上にも、マスクマンけしゴム、下じき、クリップ、ふでばこ、ものさし、…。
 マスクマンのキャラクターがついているものが、ごっそりとのっていた。
 そう、マスクマン博士こと、ブンちゃんの部屋は、マスクマンのキャラクター商品にうずまっていたのだ。
 ぼくは、あのあとトイレから、クラスの男の子たちに電話をかけまくって、みんなをブンちゃんの家に集めていた。
 なんにでも名前をつけたがるブンちゃんいわく、『マスクマン最終回対策本部』。
 たしかに、この部屋ほどそれにふさわしい場所を、ぼくは他に知らない。
 あつまったメンバーは、クラスでも熱心なマスクマンファンばかり。
 まずは、部屋の主のブンちゃん。学級委員で、クラスで一番でかいリョウくん。キャンキャンと、声のかんだかいクリちゃん。いつも物静かな加瀬くん。女の子みたいにかわいい顔をしているユウたん。それに、どういうわけか、細谷くんまでがきていた。「マキハウス」の、ピンクときいろと赤のはでなトレーナーをきて、すわっている。
 でも、細谷くんに電話したおぼえは、ぼくにはない。
(へんだなあ。だれが連絡したんだろう。でも、まあいいか)
「これでも、飲んでよ」
 ブンちゃんが、2リットル入りのペットボトルのコーラと人数分の紙コップをもってきてくれた。
「おい、つぐぞ」
「押すなよ、こぼれるぞ」
「ほーら、こぼれた」
「ブンちゃん、ティッシュ、ティッシュ」
 ぼくたちは、それを飲んだりこぼしたりしながら、さっそく作戦を考えはじめた。

「こんなの簡単、簡単」
 そういって、最初に提案したのはリョウくんだ。クラスでいちばん背が高く、まだ四年生だというのに、鼻の下にはうっすらひげまではやしている。いったい何を食べれば、こんなにでっかくなれるんだ。
 リョウくんの作戦というのはこうだ。
 一時間目が終わったら、だれかが仮病を使って、佐藤先生を保健室へ連れ出す。そのすきに、みんなで学校から逃げ出そうというのだ。
 どうせ後で大目玉をくうだろうけれど、
「みんなでおこられりゃ、こわくない」
ってのが、リョウくんの意見だった。
「うーん、『マスクマン大脱走作戦』だな」
 ブンちゃんが、すぐに作戦の名前を考えた。
「でも、うまく逃げ出せるかなあ」
 クリちゃんが、首をひねってる。
「うん。おとうさんやおかあさんたちが、もう学校に来てるころだよ」
 ぼくにも、この作戦がうまくいくようには思えなかった。授業参観は二時間目からだけど、もう校門のあたりや廊下は、おとうさんやおかあさんたちで、ごったがえしているだろう。とても、そのあいだをすりぬけて、学校から逃げ出せそうにはない。
「それに、最初に仮病を使うのは、だれがやるんだよ?」
 細谷くんがそう言うと、みんなが隣の子を見ながら、もじもじしだした。
 たしかに、『マスクマン大脱走作戦』がうまくいったとしても、その子だけは、マスクマンの最終回を見られない。ただおこられるだけの、損な役目だ。
「おれ、やだよ」
「おれだって」
 みんなが口々に言っている。
「いいだしたのは、リョウくんだろ。だったら、リョウくんがやるべきだよ」
 すかさず細谷くんが言った。
「なんだとお」
 細谷くんになぐりかりそうになったリョウくんを、なんとかみんなで押しとどめた。

「いい考えがある」
 次に提案したのは、放送委員のクリちゃんだった。ただでさえかんだかい声が、興奮のせいか、完全にキンキン声になっている。
「ヨーレリホー」
 すかさずリョウくんが、裏声をまねてからかった。
「放送室にテレビがあるだろ。あれと全校放送用のマイクを、つないじゃえばいいんだよ。そうすりゃ、画面はだめでも、音だけならOK。前にもやったことあるよ」
「グッドアイデア。『マスクマン放送室ジャック大作戦』と呼ぼう」
 ブンちゃんが、また名前をつけた。
「ふふん。そんなの、すぐに先生にとめられちゃうよ」
 細谷くんが、馬鹿にしたように口をはさんだ。
「だから、放送室にだれかがたてこもってさ」
「だれかって、だれだよ」
「………」
 また、みんなはおたがいの顔を見まわしているだけで、自分から名乗り出ようとするものはいなかった。どうやら、この中には、みんなのために自分を犠牲にするような、りっぱな人はいないようだ。

「あーあ、休み時間に学校から抜け出せればなあ。少しだけなら、走っていって見てこられるのに」
 今までだまっていた加瀬くんが、ポツリといった。
「なんで?」
 ぼくがたずねると、加瀬くんはあっさりと答えた。
「だって、ぼくんち、学校のとなりだよ」
(そうかあ)
 忘れていたけれど、加瀬くんのうちは、学校の東側にある二階だての新しい家だった。校庭に面して、大きなベランダがある。
 と、その時、ぼくの頭の中に、すごいアイデアがうかんだ。
「みんな、いい考えがある。加瀬くんの家のベランダにテレビを出して、マスクマンをうつしてもらうんだ。それを見ればいい」
「すげえ。『マスクマン中継大作戦』かあ」
 またまた、ブンちゃんが名前をつけた。
「でも、教室から見えるかなあ?」
 クリちゃんが、首をひねりながらいった。
「そりゃ無理だよ。でも、二時間目の休み時間があるだろ。その時、校庭に出て加瀬くんちのそばまで行けば、ぜったい見えるよ」
「うん、そりゃそうだな」
 リョウくんも、めずらしく感心したようにうなずいている。
 二時間目は九時四十五分におわる。それから十五分間が休み時間だ。それなら、「マスクマン」の後半からは見られることになる。
「九時四十六分ごろから、後半がはじまるんだよ」
 マスクマン博士のブンちゃんは、さすがにくわしい。
「やったあ。それならラストシーンは見られるじゃないか」
 リョウくんは、立ち上がってガッツポーズをしてみせた。
「そうそう。マスクマンのすがおが、ばっちり見れるよ」
 クリちゃんも、うれしそうなキンキン声を出している。
「よーし、たとえ雨がふっても、ぜったいに見にいくぞ」
 ぼくは、はりきって大声で叫んだ。
「待ってよ、待ってよ。だれがベランダでテレビをうつすの? おとうさんもおかあさんも、学校へ来ちゃってるんだよ」
 あわてて加瀬くんが、口をはさんだ。
「はははっ、やっぱりだめか」
 細谷くんが、なんだかうれしそうに言った。
「えーっ、だれもうちにいないの?」
 細谷くんを無視して、ぼくは加瀬くんにたずねた。
「中三のアニキがいるけど、いつも日曜は昼ごろまで寝ているし、………」
 なぜか、加瀬くんは口ごもっている。
「だいじょうぶだよ。おにいさんの方がかえっていいんだよ。頼めば、きっと手伝ってくれるよ」
 ぼくがはげますように言ったのに、
「ダメダメ。すげー、いじわるな奴なんだ」
 加瀬くんはそう言うと、顔をしかめた。いつも兄弟げんかで、よっぽど痛めつけられてるらしい。
「そこんとこ、なんとか頼めないかなあ」
 ぼくは、ねばって言った。
 加瀬くんはまだ首を振っていたけど、ぼくたちはおにいさんに頼みにいくことにした。

 トントン。
 ドアをノックしても、中からは返事がない。
 トントン。
 またノックしてみた。
「ダメダメ、そんなやさしいやり方じゃ。きっと昼寝でもしてるんだよ」
 加瀬くんはそう言うと、フーッとひとつ大きく息を吸い込んだ。
「起きろーーっ。ショウやろーーっ」
 いきなりすごい声でどなり始めた。
 ドンドン、ガンガン。
 家がこわれるんじゃないかと思うぐらいのいきおいで、ドアをたたいている。
「起きろーーっ!」
 たしかに、おかあさんたちが留守で、家には他に誰もいない。
 でも、これじゃあ、外からだって聞こえるかもしれないほどの大声だった。
 いつもはおとなしい加瀬くんからは、とても想像できないようなどなり方だ。
 ぼくたちは感心して、真っ赤になってどなっている加瀬くんの横顔を見つめていた。
 それでも、部屋の中からはまったく反応がなかった。

「いないんじゃないのか?」
 五分ぐらいして、リョウくんがそう言いかけた時だった。
 ガチャリ。
 ようやくドアの鍵を開ける音がした。
 中から顔を出したのは、冬眠中を起されたクマ。
 じゃなかった。加瀬くんのおにいさんだった。
  ボサボサの髪の毛に、薄汚いぶしょうひげ。 目はまだ半分閉じたままだ。
「うっせえなあ。チビスケ」
 すごくふきげんそうに、加瀬くんをにらみつけた。
「ショウちゃん、頼みがあるんだ」
 驚いたことに、加瀬くんはさっきとはうってかわってていねいな口調だ。もしかすると、おにいさんの復讐を恐れているのかもしれない。
「なんだよ、チビスケ、…」
 その時になって、おにいさんは、ぼくたちが一緒にいることにようやく気がついた。
「入れよ」
 おにいさんはそう言って、ドアを大きく開いた。

 おにいさんの部屋は、南と西に窓のある、四畳半ぐらいの明るい部屋だった。ベッド、勉強机、本棚などが、所狭しとならんでいる。
でも、うまいことには、南側の窓から例のベランダへ出られるようだ。
(うん、テレビはここから出せばいいな)
 ぼくは、窓からベランダの様子をうかがった。
 おにいさんは椅子に腰をおろすと、みんなの方にあごをしゃくった。
「まあ、かけろよ」
 ぼくたち七人のうち五人は、ベッドにぎゅうぎゅう詰めにならんでこしかけた。すわりきれなかったユウたんと加瀬くんは、床に直接こしをおろしている。ただでさえ狭い部屋に大勢入ったものだから、満員電車の中みたいになってしまった。
「それで、おれに頼みって、なんだい?」
 おにいさんは、ようやく完全に目がさましたようだ。
 でも、まだふきげんそうな顔をしている。
「おにいさん、マスクマンって、知ってるでしょ」
 ぼくが、みんなを代表して話し出した。
 十月三日が、マスクマンの最終回だということ。
 その日に、運悪く授業参観があること。
 でも、どうしてもみんなで見たいこと。
 そして、二階のベランダからの、『マスクマン中継大作戦』について。
 ぼくはベッドから立ちあがって、身ぶり手ぶりをしながら、つばきをとばすようないきおいで、一気にしゃべりまくった。他のみんなも、ぼくを助けるように、一緒にうなずいている。
「………、フフ、フワッハッハッ」
 はじめはまじめそうに聞いていたおにいさんが、突然笑い出した。
「なんだよ、大げさだなあ。録画して後で見ればいいじゃないか」
 おにいさんは、あきれたようにみんなを見まわした。
(だめだ、おにいさんも佐藤先生と一緒だ。いったい男の子はいくつぐらいになったら、こんなにわからずやになってしまうのだろう)
 ぼくはがっかりして、またベッドにこしをおろした。
 と、そのとき、机の横に、大事そうにかざられている古い人形が、目にとびこんできた。そして、それと同時に、さっき加瀬くんがおにいさんのことをショウって言っていたことを思い出した。
(ショウ、加瀬ショウ。そうかあ!)
 ぼくはパッとまた立ちあがると、おにいさんの前に顔をつき出した。
「な、なんだよ」
 おにいさんは、ビクッとして少しうしろに体をひいた。
 ぼくは両手でゆっくりと、前がみをうしろへかきあげていった。そこには、ひろいひろーいぼくのおでこが。
「えっ?」
 キョトンとしていたおにいさんの顔が、ゆっくりと笑顔に変わっていく。
「なんだあ、おまえ。『デコヒロオくん』だったのか」
(やっぱり、覚えてた)
 ぼくが幼稚園のころ、近所の公園で、いつも遊んでくれたおにいさんたちがいた。そのころはとってもとっても大きく感じられたけど、今のぼくたちとちょうど同じ四年生だった。中でも、おでこが広いのと名まえのヒロキをひっかけて、ぼくのことを『デコヒロオくん』ってよんで、かわいがってくれたのがショウくんだった。
 ぼくは、だまって机の横の人形を手にとった。まっかなコスチュームに、必殺のブレインソードを手にしている。
 レッドレンジャー。
 ぼくは小さかったからよく覚えていないけれど、あのころ、一番人気があったヒーローだ。ちょうど今のマスクマンのように。
 ショウくんが、『デコヒロオくん』こと、ぼくと遊んでくれた時も、いつもレッドレンジャーごっこだった。
「わかった、わかったよ。でも、準備はおまえらでやれよ」
 とうとうおにいさんは、少してれくさそうにそう言ってくれた。

「ふーっ」
 みんなはためいきをついた。
 居間にあった40インチの大型液晶テレビは、大きすぎてとてもベランダまで運べそうにない。
「それに、今から運び上げたんじゃ、おかあさんたちが帰ってきたらばれちゃうよ」
 加瀬くんがいった。
「それもそうだな。加瀬くんちに他にテレビはないの?」
 ぼくは、他の部屋をキョロキョロさがしながらいった。
「うん、勉強のじゃまになるって、一台だけしか使ってないんだ。でも、物置に、昔使ってたっていう古いブラウン管のならあるはずだけど」
 ぼくたちは、ドヤドヤと玄関に向かった。
 外に出ると、ものおきはカーポートの向こう側にある。
 ギギギッ。
 さびついた扉を、力持ちのリョウくんがなんとか開けた。
(うわーっ)
 物置の中は、いろいろなものがつまっていた。
 廃品回収に出される古新聞紙やダンボール、使わなくなった三輪車やバギー、…。
 ぼくたちは、入り口近くにあるものをどかして、物置の中をさがしていった。
(あった!)
 テレビは、古いゴルフバッグやバーベキューセットなんかと一緒に、一番奥に置かれていた。
 加瀬くんが生まれる前に使われていたという、29インチのブラウン管テレビは、さすがに古ぼけていた。
 でも、きちんとビニール袋にくるまれていたおかげで、すこしもほこりをかぶっていない。
 ブラウン管テレビは重かったけれど、なんとか七人がかりで、おにいさんの部屋まで運び上げた。こんなときには、力持ちのリョウくんがいたので助かった。
どこかへ出かけてしまったのか、おにいさんはいつのまにかいなくなっている。

「端子、端子と」
 さっそく、窓際にあったテレビの端子に、ケーブルをつないでスイッチを入れた。
 七人がのぞきこむ。
 ザザザー。
 雑音と、たくさんのななめの線がうつっただけだ。
「あれっ?」
 あわてて他のチャンネルに変えてみた。
 でも、やっぱり同じだ。
「ちぇっ、ぶっこわれてるのかな」
 リョウくんが言った。加瀬くんが、さっきのドアと同じように、テレビをガンガンたたきはじめた。
「まって」
 そう言って、みんなをとめたのは、ユウたんだった。すごくおとなしい子で、『マスクマン対策本部』でも、今までいるのかいないのか、わからないぐらいだった。
「このテレビ、きっとアナログしかうつらないんだよ」
「アナログ?」
「うん。テレビ放送は今はディジタルだけど、昔はアナログだったんだ」
「さすがあ。電器屋の息子ーっ!」
 リョウくんがからかうように言うと、ユウたんの顔がレッドレンジャーみたいに真っ赤になった。たしかにユウたんの家は、「技術と信頼の店」、鈴木電器店だ。
「それじゃ、このテレビじゃ、だめなのかあ」
 ぼくががっかりしてそういうと、
「大丈夫だよ。アナデジ変換用のチューナーがあればいいんだ」
 ユウたんは自信たっぷりにいった。
「そんなの、どこにあるんだよ」
「うちにいっぱいころがっているよ。昔、ディジタル放送がスタートするときにたくさん仕入れすぎて売れ残っちゃったんだって。すぐに、取ってくるよ」
 ユウたんはそう言うと、小走りに部屋を出て行った。 

「これでOK」
 ユウたんは壁のテレビ端子とブラウン管テレビの間にアナデジ変換用のチューナーをつないだ。
 そして、アナデジ変換用のチューナーとテレビの電源を入れた。
 みんなは期待してのぞきこんだ。
 でも、やっぱり映像はうつらなかった。
 その代わりに、『接続が悪い』とか『電波が弱い』という表示が出た。
「やっぱり、だめかあ」
 細谷くんが、なぜかうれしそうにいった。
「チェックしてみるよ。加瀬くん、プラスのドライバーかして」
 ユウたんは細谷くんを無視すると、壁のテレビ端子からケーブルをはずして、なれた手つきでコネクタをはずして、中をチェックしはじめた。
「ケーブルはだいじょうぶみたい」
 ユウたんはもとどおりにコネクタをとりつけると、照れたように、そして、少し誇らしげに言った。
 今度は、ケーブルをアナデジ変換用チューナーにだけつないで、反対側を窓の方向に向けた。
「あっ、うつった」
 テレビに一瞬、かすかに絵がうかんだ。
 でも、すぐに消えて電波が弱いことを示す表示に変わった。ユウたんがケーブルのむきをかえるたびに、かすかにうつったり、もとの表示に戻ったりしている。
「テレビもOKみたい」
「へーっ。なんで、つないでないのにうつるの?」
 ぼくは、すっかり感心してたずねた。
「電波は、どこにでも飛んでるんだよ。でも、それじゃ弱すぎるわけ。それを屋根の上のアンテナでキャッチして、増幅、えーっと、強くしてるってわけ」
 ユウたんが、みんなにもわかるように説明してくれた。
「うえーっ。おれたちのまわりにも、電波が飛んでるのかあ」
 リョウくんが、気味わるそうに大きな体をすくめた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。すっごく弱いから、体には影響ないんだよ」
 ユウたんが、少しじまんそうに言った。

「加瀬くん。きみんち、屋根裏部屋ってある?」
 ユウたんがたずねた。
「うん、あるよ」
 加瀬くんはみんなをつれて部屋の外へ出ると、ろうかの天井を指差した。そこには、アルミの枠で囲われた、長方形のふたのような物がついてる。加瀬くんは、先にT字型の金具がついた棒をもってくると、天井のふたの取っ手に引っかけて、グルッとまわしてからひっぱった。
「おっ!」
 おもわず、みんなから声がでた。そこから、スルスルと、おりたたみのはしごがおりてきたからだ。
「忍者屋敷みたい」
 ブンちゃんが、うしろでうれしそうに言っている。
 加瀬くんは屋根裏部屋のあかりをつけると、先頭にたってはしごをのぼりはじめた。ユウたん、リョウくんにつづいて、みんながのぼっていく。
「ぼくは、ここでまってる」
 細谷くんだけは、はしごの下のままだ。どうやら、自慢のトレーナーが、ほこりで汚れるのが嫌らしい。
 ユウたんは屋根裏部屋にあがると、しばらくキョロキョロしていた。そこには、ふとんの大きなつつみや、ホットカーペットの箱、それに加瀬くんたちが小さいころに使っていたベビーチェアやチャイルドシートなんかが、所狭しとおかれている。
「ここかな?」
 ユウたんは、はしごをのぼった正面のかべの前につまれた箱を、かたづけだした。
「やっぱり、あった」
 そこには、人ひとりがかがめばとおりぬけられるぐらいの大きさに、ベニヤ板のかべが切りとってあった。
 でも、切りとられた板は、そのままたくさんのネジで、しっかりととめてある。
「加瀬くん。プラスとマイナスのドライバー。それに懐中電灯持ってきて」
 ユウたんが、おちついた声で言った。

 十六個もついていたネジをぜんぶはずすと、ユウたんはゆっくりとふたをはずしていく。何かが飛び出してきそうで、みんなはジーッと穴を見つめていた。
「わっ!」
 とつぜんうしろから、大声を出した奴がいた。リョウくんだ。
「うわあーっ、ビビったーっ」
 ブンちゃんが、ふるえながら言っている。
 ユウたんは、身体を穴の中に半分つっこんで、懐中電灯をつけた。みんなもうしろからのぞきこむ。
 丸い光の輪にてらされた天井裏は、意外なほどきれいだった。直角に交差した太い柱やはりは、白くピカピカしているし、かべのうらにはられた断熱材も、新品そのものに見える。いちばん太い柱には、神主さんがもつ白いおはらいのようなものが、しばりつけてあった。二階の各部屋の天井には、あちこちにすきまがあって下から光がもれてくるので、意外にもまっくらではなかった。
「さすが、新築の家はちがうなあ」
 リョウくんが、感心したようにいった。
「あったあ!」
 いきなりユウたんが叫んだ。懐中電灯に照らし出されて、奥の方に銀色のボックスが光っている。
 ユウたんは穴から中へ入り込むと、はりを伝わってボックスの方へ行こうとした。
「あーっ!」
 外からのぞきこむみんなが、おもわず大声をあげた。
 ユウたんが足をすべらせて、おっこちそうになったのだ。両手両足ではりにぶらさがって、「ブタのマルヤキ」みたいになっている。手をはなしたら、天井をつきやぶって、下へ落ちてしまうかもしれない。
「しっかり、つかまってろよぉ」
 リョウくんがすばやく中に入って、ユウたんを助けにいった。
 ユウたんのトレーナーを片手だけでつかんで、はりの上にひっぱりあげた。やっぱりすごい力もちだ。
「ユウたん、気をつけろよ」
 うしろから声をかけたぼくにVサインを出して、ユウたんは、こんどはハイハイしながら、銀色のボックスへ近づいていった。
「やっぱり」
 ユウたんは、こちらへむかってケーブルのようなものをさしあげている。
「アンテナからの分配器に、同軸ケーブルがつながってないんじゃ、うつるはずないよ」 
 ここぞとばかりに、むずかしいことばをポンポンいいながら、ユウたんはなれた手つきで、ケーブルを銀色のボックスに取りつけている。
「おーい、うつるかどうか、見てくれーっ」
「うつってるよお」
 下の部屋で待機していたクリちゃんが、うれしそうなボーイソプラノで答えた。
「分配されて電波が弱くなってるかもしれないから、全部のチャンネルをチェックしてくれ」
 ふしぎなもので、いつもはクラスでもまったく目立たないユウたんが、いつのまにかりっぱな電気の専門家に見えていた。

 いよいよ日曜日、マスクマンとさよならする日がきた。
 ぼくは朝おきると、まっさきに部屋のカーテンをあけて、空を見た。いい天気だ。十月の空は、まっさおにはれあがっている。
 昨日、みんなで最後にひとつずつ作った、七人のマスクマンてるてるぼうずが、今ごろ加瀬くんちのベランダで、得意そうな顔をしてぶらさがっていることだろう。
 これなら、『マスクマン中継大作戦』はうまくいきそうだ。いや、明るすぎたときに備えて、画用紙を切り抜いてテレビの画面のまわりにはりつけておいた特製サンバイザーが、力をはっきしそうなくらいだった。
 ぼくは、いつものように朝ごはんを超特急でかっこむと、はりきって登校班の集合場所へいそいだ。
「おはよう」
「おい、ヒロキ。休み時間に、マスクマンのテレビが見られるんだって」
 先にきていた班長の斉藤さんが、ぼくの顔を見るといきなり言った。
「えっ!」
 ぼくは、すっかりびっくりしてしまった。
(だれがしゃべってしまったんだろう)
 先生たちにじゃまされると困るから、休み時間になるまでは、他の人たちには言わない約束だったのに。
 斎藤さんだけではない。登校班の人たちは、みんな知ってるようなのだ。
 学校へつくと、『マスクマン中継大作戦』のうわさは、学校中にひろまっていることがわかった。

「だれがしゃべったんだい?」
 『マスクマン最終回対策本部』のメンバーを集めて、ぼくはたずねた。
「となりのクラスの吉川くんには言ったけど、ぜったいに他にはしゃべらないって、約束させたんだぜ」
 まっさきにいばっていったのは、リョウくんだ。
「えーっと、近所のケンちゃんと清水くんには、言っちゃった」
 クリちゃんも、いつもと違う小さな低い声でいった。
 つづいて、加瀬くんも、ユウたんも、そしてブンちゃんまでが、
「……くんだけだよ」とか、「絶対いわないって、男の約束をしたんだよ」とか、口々にいいだした。
「ふふん。男の約束ってのが、あてにならないんだよなあ」
 細谷くんが、馬鹿にしたようにいった。
「なら、おまえはだれにもしゃべらなかったのかよ」
 リョウくんが、細谷くんにくってかかった。
「ぼく? もちろんだれにも言わないよ」
 細谷くんはそういばっていったけれど、つづけて小さな声でつけくわえた。
「うちのおにいちゃんは、のぞいてね」
「ばかやろー。おまえのアニキだって、うちの学校の六年じゃねえか。それなら、おれたちとおんなじだろ」
 そういってリョウくんは、プロレスのヘッドロックという技で、細谷くんをしめあげはじめた。
 なんのことはない。ぼく以外は、みんながだれかにしゃべっちゃったんだ。『マスクマン中継大作戦』には、すごくたくさんの男の子たちが集まるにちがいない。もうこうなったら、なんとか始まるまでにじゃまがはいらないことを祈るしかなかった。

 一時間目が終わった。ショウくんとの約束では、もうベランダで『マスクマン中継大作戦』の準備がはじまっているはずだ。
 ぼくは、教室の窓から校庭ごしに加瀬くんの家を見た。
(えっ?)
 ベランダにはテレビどころか、ショウくんの姿さえ見えない。七つのマスクマンてるてるぼうずたちが、さびしそうにぶらさがっているだけだ。そして、すぐにそれどころではないことがわかった。ショウくんの部屋は、まだ「雨戸」さえピタッと閉められていたのだ。
「やばい、ショウやろうめ、またねぼうしてやがるな」
 となりで、加瀬くんがうなり声をあげた。昨日の、冬眠中を起こされたクマみたいなねぼけ顔がうかんでくる。
 他のメンバーも、心配そうに集まってきた。
「これは、たいへんなことになりましたねえ」
 細谷くんが他人事みたいに言って、うしろからリョウくんにどやされていた。 
 二時間目が始まるまで、あと六分。とても、加瀬くんの家までいって、おこしてくるひまはない。
「だれか、テレカ持ってる?」
 学校にはスマホや携帯を持ってくることは禁止されている。そのため、今でも公衆電話があった。
「よしきた」
 タイミングよくブンちゃんが渡してくれたテレフォンカードを握りしめて、ぼくは教室を飛び出した。

 廊下は、いつもよりおめかししたおかあさんやおとうさんたちで、すでにごったがえしていた。
「ヒロキ」
 いきなりおかあさんに、声をかけられてしまった。エメラルドグリーンのワンピースに、金のネックレス。とっておきのよそゆきのかっこうだ。
「だめだめ、いそがしいんだから」
 ぼくは、むねの前で両手をバッテンにしてすりぬけた。
「どこにいくの?」
 うしろで、おかあさんがどなっている。
「文彦」
 こんどはブンちゃんのママだ。もう腕をつかまれてしまっている。
 でも、助け出しているひまはない。ぼくたちは、そのまま走り続けた。
「ユウジ、どこへいくんだ」
 ユウたんのおとうさん、「技術と信頼の店」、鈴木電器店のおじさんが立ちふさがっている。今度は、ユウたんがつかまってしまった。
 こうして、ぼくに続いた『マスクマン最終回対策本部』のメンバーは、次々に「敵」の手に落ちていく。
 大人たちをかきわけかきわけ、公衆電話にたどりついたとき、ぼく以外に残っていたのは加瀬くんとリョウくんの二人だけだった。
 
 ルルルル、ルルルル、……、……、……。
 なかなか出ない。やっぱりショウくんは、まだねむっているようだ。加瀬くんにしっかりおこしておくようにたのむのを、わすれたことがくやまれる。
 ガチャ。
 あきらめかかったとき、とつぜん電話がつながった。
「あっ、ショウくん。よかった、起きてくれて」
「バカヤロー、こっちはとっくに起きてるんだぜ。それより、うちのそばの校庭を、先生たちがウロウロしてるのは、どういうことなんだ」
「えーっ!」
「これじゃ、あぶなくって準備ができないぜ」
「うーん、そうだったのか」
 ぼくは、『マスクマン中継大作戦』のうわさが、学校中にひろまってしまったことをショウくんに話した。
「そうかあ。でも、このまま準備をやろうとすると、きっと先生たちにとめられてしまうぜ」
「うーん」
 くちびるをかみしめて考えてこんでいるぼくを、リョウくんと加瀬くんが期待をこめてみつめている。
「そうだ!」
 とうとうさいごの作戦を思いついたぼくは、それをショウくんに説明をはじめた。

「それでは、今日のところで、質問のある人はいませんか?」
 佐藤先生はそう言って、二時間目の授業をしめくくった。教室のうしろやろうかに、二、三十人のおとうさんやおかあさんたちがならんでいるので、先生のことばづかいはふだんとちがってていねいだった。
(しめた!)
 まどの外をよこ目で見ると、校舎にかかった時計は、まだ九時四十二分だ。このままいけば、終了のチャイムと同時に、教室を飛び出せる。ぼくは少し離れた席のブンちゃんと、笑顔をかわした。
 と、そのとき、
「はい、先生」
 なんと手をあげて、わざわざ質問をした奴がいた。
 細谷くんだ。いったい何を考えているんだろう。
(くそーっ、しめころしてやりたい)
 せっかく授業をおわりかけた先生が、また説明を始めてしまった。
(うーっ)
 ぼくはじりじりしながら、先生と細谷くんを交互ににらんでいた。
 ぼくだけじゃない。『マスクマン最終回対策本部』のみんなが、まるでマスクマンが、宿敵のデビルマスクをにらみつけるときのような、おそろしい顔をしている。
 キーンコーン、カーンコーン、…。
 とうとう二時間目終了のチャイムが、なってしまった。先生の説明は、まだ終わらない。
 ワーッ。
 他のクラスの子たちが、校庭に走り出てきた。
「うーっ!」
 とうとうみんなは、本当にうなりごえを出しはじめた。ブンちゃんなんかは、もうなみだぐんでいる。
「そ、それでは、これで二時間目の授業を終わります」
 佐藤先生はそう言って、急に説明をきりあげてしまった。もしかすると、身の危険を感じたのかもしれない。
「きりつ、れい、ちゃくせき」
 リョウくんの超特急のかけ声であいさつをすると、ぼくたちはいっせいに席を立った。
「わーっ!」
 すごいいきおいで飛び出していくぼくたちを、先生とおとうさんやおかあさんたちが、あっけにとられて見送っていた。

 ぼくたちは全速力で走っていた。両どなりにはブンちゃんとクリちゃん、すぐうしろには加瀬くんとユウたんもつづいている。
 廊下をつっぱしり、階段を一気に飛び降りた。
「このやろう。おまえのおかげで五分も損したんだぞ」
 細谷くんも、リョウくんにこづかれながらけんめいに走っていた。
 校庭をつっきって、一直線に加瀬くんの家へむかっていく。ほんとうはバラバラにさりげなく集まるつもりだったけど、もうそんなことはいってられない。
(止められるもんなら、止めてみろ)
 もうすっかりひらきなおった気分だった。
「ヒロキーっ、ガセネタだったじゃねえか」
 校庭の中ほどで声をかけてきたのは、斉藤さんだった。他の人たちと、長なわとびをやっている。
 でも、ぼくは何もいわずにそのそばをかけぬけていった。斉藤さんは、しばらくの間、ぼくたちをキョトンとして見送っていた。
「あっ、そうか!」
 ようやく斉藤さんも気づいたようで、なわをなげすてて走り出した。ほかの人たちも、すぐにそのあとにつづく。

 あっという間に、ぼくたちを先頭に、レミングのむれのような男の子たちの集団ができあがった。みんな、いっせいに加瀬くんの家をめざして進んでいく。
 校庭のはずれ、鉄棒とジャングルジムの間。ついにぼくたちは、目的の場所に到着した。
 ガラッ、ガラッ。
 すぐに、ベランダのガラス戸がいきおいよくひらいた。あの古ぼけた29インチテレビを一人で懸命にかかえて、ショウくんがとびだしてきた。すごい力持ちだ。
 すでに画面には、マスクマンの最終回がうつっている。
ショウくんは、ベランダの手すりの上にテレビをドーンとのせた。そして、うしろからしっかりとささえてくれている。
 まわりには、ぞくぞくと男の子たちが集まっている。あとからきた子たちは、鉄棒の上にこしかけたり、ジャングルジムによじのぼったりしている。
 でも、先生たちのすがたはまだあたりには見えなかった。これなら、終わるまではじゃまはできないだろう。
 ショウくんにはあらかじめ家の中で準備してもらい、ぼくたちが到着したらパッととびだしてうつす。このゲリラ戦法が、最後に思いついたぼくの作戦だったのだ。
「『マスクマン電撃奇襲大作戦』、大成功」
 となりで、ブンちゃんが小さな声でつぶやいていた。

 画面は、すぐにラストシーンになった。ぼくたちのマスクマンは、夕陽にむかって一人で去っていく。それを見送っているのは、かつてのライバルで今は親友のロビンキッド、マスクマンがずっとふられつづけていたあこがれのプリンセスリリー、そしていつも忠実な部下だったラブラドル犬のチャッピーだ。
「マスクマン、いかないで!」
 リリーが前へ進み出て叫んだ。
 マスクマンはふりむくと、ゆっくりと自分のマスクに手をかけた。
(いよいよだ)
 とうとうマスクマンのすがおが、明らかになるのだ。ぼくはいきをとめて、画面を見つめた。まわりのみんなも、シーンとしずまりかえっている。
 ゆっくりとマスクがはずされていく。
 しかし、夕陽を背にしているので、画面が逆光になっていてよく見えない。
 ぼくたちは、おもわず目を細めて画面を見つめた。
 ついに完全にマスクがはずされた。
 しかし、そのしゅんかん、画面はピカーッと強く光って、何も見えなくなった。つづいて、画面いっぱいに大きく『END』とでてしまった。
「あー、あっ!」
 みんなは大きなためいきをついた。
 マスクマンのすがお、それは永遠になぞのままになってしまったのだ。

「なーんだ」
 ふたたびシーンとしずまりかえった中で、細谷くんがつぶやくのがきこえた。そして、ききなれたマスクマンのエンディングテーマが流れ出しても、だれひとりとしてその場を立ち去ろうとしなかった。気がつくと、いつのまにか百人以上にもふくれあがっている
 パチパチパチ、…。
 そばで、小さく手をたたく音がきこえた。ブンちゃんだった。ふっくらしたほっぺたには、涙が流れている。
 パチッ、パチッ、パチッ、…。
 ぼくも、力いっぱい拍手をした。
 パチパチパチパチ、…………。
 すぐに拍手は、加瀬くん、ユウたん、リョウくん、クリちゃんに、そしてみんなへと、ひろがっていく。
(とうとうマスクマンのラストシーンを、見ることができた)
 たしかに、マスクマンのすがおがわからなかったのはすこし残念だったが、これでよかったのかもしれないという気もしていた。
 エンディングテーマが終わって、画面がコマーシャルにかわったとき、みんなはいっせいに立ち上がった。
 ぼくは、ハーフパンツのおしりについた砂をポンポンとはたいた。
「ラストシーンが見られてよかったね」
 ブンちゃんが、もうニコニコしながらぼくに言った。
「うん」
 ぼくも笑顔をうかべてうなずいた。あんなに苦労して準備したのに、ぼくたちが見られたのは、たったの三分間だけ。
 でも、これまで三年以上もぼくたちと共にいた、マスクマンの最後の姿を見送ることができた。それもひとりでではなく、ブンちゃん、リョウくん、加瀬くん、ユウたん、クリちゃん、おまけに細谷くんの、『マスクマン最終回対策本部』のメンバーたちと。いや百人近くの男の子たちと一緒に、マスクマンを見送ることができたのだ。
「それじゃあ、もういいね」
 ショウくんが、ベランダからテレビを動かしはじめた。
「どうも、ありがとうございました」
 ぼくたちは、声をそろえてお礼を言った。
「おーい、こらあ。早く教室へ入れえ。三時間目が始まったんだぞお」
 遠くの方から、先生たちがどなっている。
 いつの間にチャイムがなったのか、ぼくたちは少しも気がつかないでいた。




マスクマン、最後の日
平野 厚
平野 厚
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ヘビさん

2020-03-17 11:01:11 | 作品


 むかしむかし あるところに ヘビさんが いました。



 あるひ ヘビさんは グニョグニョと あるいていました。
 むこうから カエルが ピョコンピョコンと やってきます。
 ヘビさんは、カエルを パクッと のみこんでしまいました。



 また ヘビさんが あるいていくと むこうに おおきなかわが ありました。
 かわには たくさんのサケが およいでいます。
 ヘビさんは パクパクパックンと サケを いっぱいのみこんでいきます。
 サケは どんどん ながれてくるので たべほうだいです。
 ヘビさんは サケを いちまん さんぜん ろっぴゃく にじゅう ななひき たべました。



 なんで そんなに たべられたかって?
 だって ヘビさんは、とってもおおきな ヘビだったからです。
 ながさは 10メートルいじょうも あります。
 からだの ちょっけいも 1メートルいじょうも あります。
 くちをあけると まるで トンネルのようです。



 また ヘビさんが あるいていくと むこうから キリンがやってきました。
 ヘビさんは パクッと のみこもうとしましたが のどのところで キリンのくびが つっかえてしまいました。



 また ヘビさんが あるいていくと むこうから アリが やってきました。
 ヘビさんは パクッと のみこもうとしましたが あんまりちいさいので やめました。
 アリを ふみつぶそうとしましたが できません。
 だって ヘビさんには あしが なかったからです。



 また ヘビさんが あるいていくと むこうから ライオンが やってきました。
 ヘビさんは パクッと のみこもうとすると ぎゃくに ガブッと ライオンに かみつかれてしまいました。



 けがをした ヘビさんが あるいていくと むこうから カンゴシさんが やってきました。
 カンゴシさんは ヘビさんに おおきなばんそうこうを はってくれました。



 ばんそうこうをはった ヘビさんが あるいていくと むこうから ペンギンが ヒョウザンにのって やってきました。
 ヘビさんは パクッと のみこもうとしましたが ヒョウザンが すごくつめたかったので ヘビさんは カチンカチンに こおってしまいました。

10

 カチンカチンの ヘビさんが あるいていくと むこうから ゾウがやってきました。
 ヘビさんが パクッと のみこもうとすると ドシンドシンと ゾウに ふみつぶされてしまいました。

11

 ペッタンコになった ヘビさんが ヒラヒラと あるいていくと むこうから ジテンシャヤさんが やってきました。
 ジテンシャヤさんは ヘビさんに じてんしゃのポンプで くうきをいれて もとどおりに ふくらませてくれました。

     12

 ヘビさんが あるいていくと むこうから ゴリラが やってきました。
 ヘビさんが パクッと のみこもうとすると ゴリラは ヘビさんの あたまと しっぽを つかんで こしのまわりにまいて ベルトに してしまいました。

13

 ベルトになった ヘビさんが あるいていくと むこうから カブトムシと カンガルーと キリギリスと ダンゴムシが やってきました。
 ヘビさんは パクッパクッと どんどん みこんでいきます。

14

 でも、まだ タヌキや ドクアリや ラクダや おサルや ミノムシが どんどん やってきます。

15

「わーっ もう おなかが いっぱいだ」

16

 ヘビさんは あわてて いえへかえると ニョロニョロと ヘビのかたちをした おおきなウンチをして ねました。

 

ヘビさん
平野 厚
メーカー情報なし


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月曜日には、自転車に乗って

2020-03-16 08:45:11 | 作品
 午前七時二十分。樋口正和は、まだベッドの中でまどろんでいた。
「それじゃあ、行ってくるわよ」
 ドアの外から、かあさんの声が聞こえてくる。
 でも、正和はかあさんに返事をしないで、そのままうとうとしながら、九時近くまでベッドを出ようとしなかった。
 今日は月曜日。学校は、もうとっくに始まっている。
 ようやく起き上がった正和は、のろのろとパジャマをぬいだ。そして、洗いざらしのジーンズとポロシャツ、それにブルーのサマーセーターに着替えた。
 自分の部屋を出て、ダイニングキッチンへいった。流しの横のオーブントースターに、食パンを二枚入れて一枚にはスライスチーズを載せてスイッチをひねる。
 パンが焼ける間に、カーテンを開け放して、ベランダに通じるガラス戸から部屋の中へ、明るい日の光を入れた。
 正和の通っている中学校は、そのベランダから見ることができる。なにしろこのマンションからは目と鼻の先、ほんの五十メートルほどしか離れていないのだ。
 ガラス戸を開ければ、授業の始まりと終わりを告げるチャイムはもちろん、校内放送や楽器の音、さらには休み時間のざわめきまでが飛び込んでくる。マンションから校門までは、歩いてたったの三分だった。
 でも、月曜日にはその距離がすごく遠くに感じられた。

 中二の正和が毎週月曜日に学校を休むようになってから、もう三カ月がたとうとしていた。
もっとも、時々休むようになったのは二学期の初めのころからだから、そこから数えれば半年以上ということになる。
 月曜日を休むことには、特にはっきりした理由はなかった。きっかけは、当番で早く行かなければならないのに寝坊してしまったり、国語の宿題を忘れていたことに朝になって気付いたりといった、ささいなことにすぎない。
 こうしたことがいく回か重なっているうちに、だんだん月曜日に行くのが嫌になってきたのだ。
 月曜日を休みたくなる気分は、その前日、日曜日に目を覚ました瞬間から始まる。起きた時にその日が日曜日だと気づくと、とたんにゆううつになってしまう。そして、その日一日、何をしていても、翌日が月曜日であることを、つい考えてしまう。すると、口の中が苦くなってくるような気さえするのだ。
 正和は、こうして毎週日曜日を、ブラブラとしょうもなく過ごすことになる。
 日曜日の夕ごはんを過ぎると、ゆううつな気分はピークに達する。正和は、もうぼんやりテレビを見る以外に、何の気力もなくなってしまう。そのくせ、ベッドに入っても、いつまでも目がさえて、なかなか眠れなかったりするのだ。
 しかし、いざ月曜日になってズル休みをしてしまうと、今度は次第に学校のことが気になり出す。そして、月曜日の夕方にはすっかり元気になっていて、翌日からは、他の生徒たちと変わらずに学校へ行けるのだ。
正和は、けっして学校が嫌いなわけではなかった。成績もまあまあだし、体も大きくスポーツも得意だった。だから、月曜日を除くと、他の生徒と変わりなく学校生活をおくれていた。

 しばらくの間、正和が月曜日にズル休みをしていることに、かあさんはぜんぜん気づかなかった。
 正和のかあさんは、薬品会社の研究所で検査技師をしていた。正和よりも早く家を出て、毎晩七時過ぎに疲れきって帰ってくる。とても、正和の様子に十分注意する余裕などない。
 かあさんが気づいたのは、二年の二学期の通知表をもらってからだった。欠席数が8にもなっていたのだ。ぜんぜん心当たりがなかったから、かあさんがびっくりしたのも無理はない。
「どうしたの、いったい?」
 かあさんは、努めて冷静に正和にたずねた。
「えっ、ああ。ちょっと行きたくなかったんだ」
 正和は、悪びれずに答えた。
「ズル休みして、どこへ行ってたのよ」
 かあさんは、少し感情的になってきた。
「ずっとうちにいたよ」
 正和は、平気で答えた。本当にうちにいたのだ。
「嘘、おっしゃい」
 かあさんは、ついにヒステリックな声を出した。
 でも、そういわれても、本当なんだからしかたない。正和は肩をすくめるだけで、それ以上弁解しようとしなかった。

 その後も、正和は月曜日に休み続けた。
 困りはてたかあさんは、担任の先生や校長先生に、さらには、病院の精神科のお医者さんにまで、相談にいったらしい。
 そして、なだめたりすかしたりして、なんとか正和を月曜日に学校へ行かせようとした。
 ところが、かえって正和は、それまでは時々休むだけだったのが、毎週月曜日にきっちり休むようになってしまった。
かあさんにヒステリックに行くようにいわれればいわれるほど、ますます月曜日には行きたくなくなってしまうのだ。
 とうとうかあさんは、正和が月曜日に休んでも、何もいわなくなった。もしかすると、お医者さんか誰かに、そっとしておくようにとアドバイスされたのかもしれない。
 サボり始めたころの正和は、月曜日には一日中、ただひたすら眠り続けていた。昼近くに起きて朝昼兼用のごはんを食べると、再びベッドにもぐりこむ。完全に起き出すのは、夕方の五時近くになってからだ。自分でも感心するくらいによく眠れた。
 起きている時も、ワイドショーやテレビドラマの再放送を、ただぼんやりとながめているだけだった。
 しかし、三学期に入ったころから、寝ている時間はしだいに短くなってきた。今では、九時近くには完全に起きてしまっている。

 正和は、スマホをつないであるアクティブスピーカーのスイッチを入れると、今お気に入りのアルバムをスマホでストリーミングした。そして、好きなアイドルグループのヒット曲をバックにして食べ始めた。
 朝食には、いつもトースト二枚(一枚はチーズ載せ)とハムエッグに野菜サラダを食べる。それに、大きなコップ一杯のミルクと紅茶を飲む。
  野菜サラダはかあさんが出かける前に冷蔵庫に入れておいてくれたものだが、ハムエッグは自分でフライパンを使って作った。正和の料理の腕は、ここのところ確実に上がっている。
正和は、朝食を食べながら、今日一日をどう過ごすかを考えていた。
 午前中は、音楽を聞きながら、読みかけのライトノベルを読む。
 昼ごはんには、チャーシューとほうれんそうとメンマと二つに切ったゆでたまごを入れて、インスタントラーメンを作ろう。初めのころは、カップ麺を食べていたが、袋麺の方が断然おしいしいことが分かってからは、かあさんに頼んでいろいろな物を揃えてもらっている。
午後は、数学と英語の問題集を一時間ずつやった後、かあさんのパソコンにつないであるゲーム機でロールプレイングゲームの続きをすることにしよう。
 おなかがすいていたので、朝食はあっという間に食べ終わってしまった。
 フンフン、フンフンフン、……。
 正和は鼻歌を唄いながら、フライパンとお皿、それにティーカップを、ながしで洗い始めた。まだ汚れがこびりつかないうちに洗ったので、すぐにきれいになった。

 その日の正和の計画が狂ったのは、昼ごはんを食べ終わってからだった。おなかがいっぱいになったら、急に腹のまわりについたぜい肉が気になりだしたのだ。学校をさぼるようになってから、さすがに運動不足気味だった。
 正和は、すぐに洗面所のヘルメーターにのりにいった。
(やっぱり)
 ヘルメーターの針は、六十キロを軽くオーバーしている。気づかないうちに、三キロ以上も太っていた。
 正和は居間に戻ると、ソファの下に足を入れて腹筋運動を始めた。
「いーち、にーい、…」
 ところが、二十回もいかずに、あっさりダウンしてしまった。前は、三十回は楽にできたのに。気がつかないうちに、体力もだいぶ落ちている。
 ハアハアハア、…。
 正和は、じゅうたんに寝転んだまま、荒くなった呼吸を整えていた。
 と、その時、居間の隅に置いてある室内自転車が、正和の目に入った。
 その自転車には、「コンピューターサイクル」などという、大げさな名前がついている。もともとは、中年太りを解消するために、かあさんが数年前に通販で購入したものだ。
 でも、すぐにあきてしまったらしく、今では部屋のすみでほこりをかぶっていた。

 正和は、「コンピューターサイクル」にまたがってみた。
 サドルやハンドルの高さが、小柄なかあさん用に調節してある。もう身長が百七十センチ近くある正和には、ぜんぜん合わなかった。
 コンピューターサイクルのハンドルには、二十センチ×三十センチぐらいの四角い操作パネルがついている。正和は取扱い説明書を見ながら、いろいろな機能を試してみることにした。
 コンピューターサイクルのコースには、「テスト」と「トレーニング」とがあった。
 まず、「テスト」コースを選んでみる。
 正和は、右の耳たぶにコードのついたクリップを取り付けて、スタートボタンを押した。
 ピッ、ピッ、ピッ、…。
 いきなり規則正しい電子音が鳴り出した。
正和は、あわててペダルをこぎ始めた。
 こぐペースが、合図より速すぎたり、遅すぎたりすると、操作パネルのアラームが点滅する。
 正和は、うまくこぐスピードを調節してアラームが出ないようにした。
パネルには、心泊数と経過時間も表示されている。
 ペダルをこぐ負荷は、はじめは軽かったが、だんだん重くなっていった。そのため、正和の心拍数は、時間の経過とともに上がっていった。

 ピピピピピ。
 スタートボタンを押してからきっかり十分後に、「テスト」は終了した。
最終的な正和の心泊数は百四十を越え、呼吸はすっかり荒くなっていた。
パネルの表示が変わった。
「最大酸素供給量、2・27。最大消費エネルギー、105ワット。総合評価、『ヤヤオトッテイル。モットガンバロウ』」
 正和は、ディスプレーに表示された「テスト」の結果を見て、がっくりしてしまった。
(自分の体力が平均よりも劣っているなんて!)
 その日の午後の予定を変更して、正和は本格的にコンピューターサイクルに取り組むことにした。
 「トレーニング」コースに設定すると、ペダルの重さやトレーニング時間を自由に変えることができる。
 正和は、重い負荷で短時間やったり、軽い負荷で長時間こいだりと、変化をつけながらトレーニングを続けた。
 けっきょくその午後は、ずっとコンピューターサイクルをこぎつづけた。ハンドルの横に書見台がついていてスマホや本を読みながらできるし、テレビも正面にあるので、あきずにこぎ続けられる。
 とうとう最後には、両足がパンパンにはってしまったけれど、久しぶりにたっぷりと運動をした充実感が得られた。

 正和のトレーニングは、月曜日以外にも続けられた。
毎日、かあさんが帰ってくるまでに、最低二時間はコンピューターサイクルをこいでいる。いったんはまった時の正和の集中力は、なかなかのものだった。正和は帰宅部だったから、コンピューターサイクルをやる時間はたっぷりあった。
 かあさんに冷やかされないように、トレーニングのことは秘密にしていた。
 でも、夕食の時にみせるすごい食欲だけは隠せなかった。体育系の部活に入ったわけでもないのに、今までより食べるのが、かあさんには不思議だったろう。
 正和は、トレーニングをやるときには、いつも耳たぶにコードのついたクリップを取り付けて心拍数をモニターしながらやっていた。
初めは、負荷を軽く設定して回転数をあげてこいでいく。心拍数は、初めの七十台から徐々に上がっていく。でも、負荷が軽いから、足はまだ軽い感じだ。
 心拍数が、百を越えたあたりで、今度は負荷を重くする。そのため、回転数はガクッと落ちる。それでもなるべく落ちないようにしてがんばってペダルをこいでいく。
 心拍数はますますあがっていく。今度は回転数を一定にしながら負荷を徐々に重くしていく。
 心拍数が百三十を越えたあたりで負荷をそれ以上あげないようにする。そして、心拍数が百四十を超えないように注意しながらペダルをこいでいく。
 スマホで調べたところによると、正和の年齢と安静時の心拍数からすると、乳酸値を上げないで長くこいでいくのには、そのくらいの心拍数がいいのだそうだ。
 トレーニングが終わっても、しばらくは軽い付加でこぎ続けて安静時の心拍数に戻す。
それから、毎日一回だけ「テスト」に設定して、今までのトレーニングの成果を確認することにしていた。そして、その結果をグラフに記録していった。

 トレーニングの成果は、着々と上がっていた。「テスト」のグラフは、上下に折れ曲がりながらも全体としては確実に右肩上がりになっていく。
 トレーニングは意外に楽しかった。ペダルをこぎながら、イヤフォンで好きな音楽を聴けるし、雑誌やマンガを読むことだってできる。それにもあきたら、テレビを見ればいい。
 心拍数を百四十以下に保って長くこぐのも楽しかったし、時には負荷を重くして、心拍数を百七十ぐらいまで上げて、全力でもがいてみた。
 百七十以上に心拍数を上げると無酸素領域に入ってしまって、脂肪を燃焼させる有酸素運動にならないので、それ以上はあげないように注意していた。
 トレーニングの成果はすぐに上がった。コンピューターの診断によると、正和の体力は、一週間後には「フツウ」の領域に入ったのだ。
 トレーニングの成果は、それだけではなかった。体もずいぶん引き締まってきた感じがしてきた。体重はあまり変わらなかったけれど、体脂肪率はかなり下がってきたに違いない。家の体重計では体脂肪率が測れないのが残念だった、
 成果が出ると、トレーニングをするのにも励みになる。正和はトレーニング量をだんだん増やしていった。
 初めは夕方の二時間だけだったが、土曜や日曜など家にいるときには、かあさんの目を盗んでコンピューターサイクルに午前中にもまたがることもあった。そして、正和だけがお休みの月曜日には、一日中自転車に乗っている。
 練習量の増加は、着実に成果として現れる。三週間後には、「テスト」の結果は、「ヤヤスグレテイル」に達したのだ。

 正和がトレーニングをしていることをかあさんに話したのは、春休みになってすぐのことだった。
 ある晩、夕食のときに、正和はかあさんにいった。
「おかあさん、新しい体重計が欲しいんだけど、…」
「体重計なら、うちにもあるじゃない」
 かあさんは、おかずのハンバーグをナイフで切りながら答えた
「あれじゃだめなんだ。体脂肪率が測りたいから」
「ふーん。体脂肪率なんて気にしてるんだ。マサちゃん、あなた太っていないじゃない」
 かあさんは、からかうような調子で正和にいった。
「そうじゃなくってさ。トレーニングの成果が知りたいんだ」
「トレーニングって?」
 かあさんは、けげんそうな表情を浮かべていた。
「じつは、おかあさんのコンピューターサイクルをやってるんだ」
「あら、そうなの。そういえば、置き場所が変わったと思ってたけど。それで、その体脂肪率を測れるのって、いくらぐらいするの?」
「スマホで調べたら、三千円ぐらいで買えるみたいだけど」
「なーんだ、そんな安いの」
 かあさんは、値段を聞いて拍子抜けしたみたいだった。

 次の休みの日に、かあさんは正和を家電量品店に連れていって、正和の気にいった体脂肪測定機能つきの体重計を買ってくれた。
 それからは、正和はグラフに体脂肪率も記録するようになった。
 完全主義者なところのある正和は、数字の上昇(体脂肪率は下降)を楽しみに、トレーニング量をだんだんエスカレートしていった。
ちょうど春休みになったこともあって、次第に朝から晩まで断続的にコンピューターサイクルによるトレーニングをこなすようになっていた。
 もうかあさんにも話してあるので、トレーニングは大っぴらにやることができる。連日のトレーニング量は、トータルすると六時間を超えていた。
 そして、正和にもともと自転車競技の素質があったのか、練習を始めて六週間後には、あっさりと「スグレテイル」体力の持ち主になってしまったのだった。
 体重こそ前とあまり変わらなかったが、体脂肪率は15%を切っていた。全身が引きしまり、足の筋肉が盛り上がってズボンがきつくなったのが自分でもわかった。この六週間に練習した距離は、二千キロメートルを越え、ゆうに本州を縦断してしまっている。
 正和はトレーニングの結果に満足していた。
 でも、これ以上トレーニングをエスカレートして、家の中でコンピューターサイクルをこぎ続けることには、さすがに物足りなさを感じるようになっていた。

 サイクリングの体力に自信がついてくると、正和は、自分のサイクリストとしての能力を、実地にためしてみたくなってきた。
 サイクリング用の自転車は持っていた。中学の入学祝いとして、母方の祖父に多段変速のスポーツタイプのものを買ってもらっていたのだ。もっとも、最近はめったに乗る機会もなく、マンションの自転車置場でカバーにおおわれているだけだった。
 さっそく正和は、自転車を久し振りに引っ張りだしてみた。
 自転車はロードレース用のものとは違って、がっちりと頑丈なフレームをしていて重そうだった。
でも、変速機は、一応前六段の後ろ三段で十八段変速の物がついている。
 正和は、さっそくサドルにまたがるとペダルをこぎ始めた。
 初めは、ギアを軽くして回転数をあげてこいでみた。徐々に、ギアを重くしても、できるだけ回転数を維持するようにがんばる。それにつれてスピードがビュンビュンあがっていく。最近長く伸ばしている髪の毛が、風になびいて気持ちが良かった。
 正和は適当なところで角を曲がりながら、マンションのまわりを大きく一周してみた。でも、正和の家の近くはほとんど平坦で、坂がないのが少し物足りなかった。
 正和は、今度は角をまがらずにできるだけ直進してみた。車を避けて裏道を通っていたので、すぐに行き止まりにぶつかってしまった。
 正和は、バス通りに出て見ることにした。そこは、ひっきりなしにトラックや乗用車が走っている。正和は緊張しながら、道の左隅ぎりぎりをキープして自転車を走らせていった。

 新学年が始まった。正和も欠席数は多かったものの、無事に三年に進級できていた。
 ある日、正和は、同じクラスの佐々木修一の席までいって話しかけた。彼とは、二年のときも同じクラスだった。
「よお、修一さあ。おまえ、サイクリングやってるって、前にいってたよなあ」
「うん」
 修一は、読んでいた自転車競技の雑誌から顔を上げた。
「サイクリングで、どのへんへ行ってるんだ?」
「どのへんって、まあ、普通は日帰りで行ける所だけだよ」
「ふーん」
「おまえもサイクリングやるのか?」
 修一は、意外そうな顔をして聞き返した。
「えっ。ああ、ちょっと始めたばかりなんだ。日帰りって、どこへ行くんだ?」
「ほら」
 修一は、答の代わりに、ボロボロになった一枚の地図を広げてみせた。
「通った所には、赤線で印がつけてあるよ」
 東京を中心に、びっしり書きこまれた赤線は、関東地方だけでなく、伊豆や山梨あたりにまで伸びていた。
「すげえなあ」
 正和は、感心しながら地図を手に取った。

 その後も、正和は、サイクリングの話を修一とするようになった。
「夏休みには、東北を一周してみたいんだ」
 ある時、修一はちょっと自慢そうにいった。
「東北一周?」
「そう、三週間ぐらいかかるけどね」
「そんなの、学校でOKが出るのか?」
「もちろん、黙って行くさ」
 修一は、ちょっと声をひそめていった。
「家の人はどうなのさ?」
「うちの親父は大丈夫。おれと同じで、学生時代にサイクリングやってたんだから」
「ちぇっ、いいなあ」
 正和は、うらやましそうにいった。
「それより、おまえ、自転車の修理、できるのか?」
「それが、ぜんぜんなんだ」
 正和は、正直に答えた。
「ひでえなあ。それでサイクリングに行くつもりだったのか」
 修一は、すっかりあきれていた。

 正和は、さっそくその日の帰りに修一の家に寄らせてもらった。サイクリングや自転車の整備に関する本を借りるためだ。
「そうだなあ。まあ、前輪と後輪のパンクの修理と、チェーンの長さの調整ができれば、まあ一応いいんじゃないかな」
「ふーん」
 そういわれても、正和にはピンとこなかった。
「他にも、ブレーキの修理とか、折れたスポークの交換とか、いろいろあるけど。まあ、だんだんに覚えていけばいいよ」
 修一は自分の自転車を使って、パンクの修理やパーツの交換の方法を実地に教えてくれた。
「じゃあ、やってみて」
 一通りの手順をやってみせてから、修一はいった。
「うーん、できるかなあ」
 正和は工具を片手に、前輪を取り外しにかかった。
「そうそう、もっと深くつっこんで」
 修一が、そばからいろいろと指示を出してくれた。正和は、油や埃で手を汚しながら、自転車に取り組んでいった。
 その日から毎日のように、今度は自分の自転車を持ち込んで、修一の家に寄るようになった。そして、一通りの自転車の修理方法をマスターしていった。

 毎晩、正和は、初めてのサイクリングについて、計画を立てるようになっていた。中間試験が終わったら、すぐにどこかへでかけるつもりだった。おかげで、試験勉強のほうは、すっかりおろそかになっている。
 放課後には、毎日のように、修一と近所のサイクルショップに寄っている。
「こんちわーっ、今日はお客さんを連れてきたよ」
 初めて店へ行った時、修一は店のおやじさんに正和を紹介してくれた。
 おやじさんは、タオルで手を拭きながら店の奥から出てきた。白髪混じりの親切そうな人なので、正和はホッとしていた。
「よろしくお願いします」
 正和がペコリと頭を下げると、
「やあ、いらっしゃい。シュウちゃんの友だちなら大歓迎だよ」
と、おやじさんはニコニコしながらいった。
 ここで、ヘルメット、水筒、空気入れ、雨具、バッグなど、サイクリングに必要な物をだんだんにそろえていった。修一は、正和のためにおやじさんと交渉して値段をねぎってくれた。さらに、中古品をただでもらったりもしてくれている。そのおかげで、サイクリングへ出かける準備は、すっかりできあがった。
 しかし、肝心の行先が、なかなかひとつに絞れずに迷っていた。
湘南のような海辺を走るのも、気持ち良さそうだった。その一方で、深大寺や井の頭みたいな公園にも行ってみたい気持ちもあった。また、江戸川や荒川のような川沿いの道を走るのも魅力的だった。
正和は、色々と迷ってしまって、なかなか行き先が決められなかった。

 ある日、正和は学校から帰ると、いつものようにエレベーターホールの郵便受けをチェックした。ダイレクトメールやガス料金の通知書などと一緒に、一通のはがきが入っていた。
「拝啓 新緑の候、皆様お変わりもなくお過しのこととお慶び申し上げます。
 さて、この度、拙宅の新築にともない、左記へ転居致しましたので、お知らせ申し上げます。
 お近くへお越しの節は、是非お立ち寄り下さいます様、お待ち致しております。
 先ずは簡単ながら御通知申し上げます。   敬具
 平成××年五月
  新住所  〒一九X-XXXX
東京都八王子市XX町五丁目四番地七号
           森下進一郎
               由美子
                真理
  電話  〇四二(XXX)XXXX  」
 正和は、「森下」という名字を目にしても、初めはピンとこなかった。
 でも、やがてこの手紙が、自分の父親からの移転通知であることに気がついた。
 森下進一郎。
 久し振りに父親の名前を見ても、正和には何の感慨もわいてこなかった。
 他の二つの名前は、全く初めて目にするものだった。そういえば、かなり前に、おしゃべりな世田谷のおばさんから、父親が再婚したこと、そして、女の子が生まれたことを聞いたような気もした。

 両親が離婚したのは、正和が二才のころだ。だから、正和には父親と暮らした日々の記憶がいっさいなかった。
 父親に関して覚えているのは、小学校にあがる前まで、父親の希望で二人だけで面会して、遊園地や公園に何回か連れていってもらったことだけだ。それもいつの間にかとだえ、正和はもう十年近く父親に会っていなかった。
 父親から転居通知が来たことをかあさんに話すべきかどうか、正和は迷っていた。現在のかあさんが、かつての自分の夫にどんな感情を持っているのか、まったくわからなかったからだ。
 結局、正和は、通知に気づかなかったことにしようと決めた。そして、他の郵便物と一緒にして、食堂のテーブルの上に置いておいた。
 かあさんは、いつものように七時過ぎになってから、あわただしく帰宅してきた。そして、着替えもそこそこに、夕飯のしたくに取りかかった。
 かあさんが転居通知に目を通したのは、二人の遅い夕食が終わった八時過ぎになってからだった。
 正和は食後のお茶を飲みながら、さり気なくかあさんの様子をうかがっていた。転居通知を読んだ時、さすがにかあさんの顔が少し曇ったような気がした。
 でも、かあさんはすぐに普段の表情に戻ると、通知を他の郵便物と一緒に状差しに突っ込み、夕飯の後片づけをするために立ち上がった。
「皿洗うの、手伝おうか?」
 正和がそういった時、
「あら、珍しいわね。明日、雨にならなきゃいいけど」
と、明るく答えたかあさんの表情からは、正和は何も読み取れなかった。

 正和は自分の部屋へ戻ってから、いつものようにサイクリングの計画を立て始めた。
(行先は?)
 その時、父親からの転居通知が頭に浮かんできた。
(そうだ、あそこにしよう)
 父親が現在の家族と暮らしている家を、見てきてやろうと思った。
 さっそくスマホのMAP機能でその住所を調べてみた。
「東京都、八王子市、…」
 状差しからこっそりハガキを持ってくると、住所を入力していった。
 しばらく検索していたスマホが、パッと地図に変わった。
地図の中心に示された父親の家は、中央線高尾駅から五キロほど南へ行った所にあった。拡大してみると、その付近だけが道路が碁盤の目のようになっている。どうやら新興住宅地らしい。
 MAP機能を切り替えて、正和の住んでいるところから、父親の家までのルート検索してみた。
 正和のマンションのある新宿区早稲田から、早稲田通りを通って高田馬場へ。
高田馬場で左折して、明治通りを新宿まで行く。新宿駅の南にある陸橋を渡れば、あとは甲州街道で高尾まで一直線だ。
 父親の家へは、高尾駅のちょっと手前で左折して、町田街道を行けばいい。

 翌日、正和は、昨晩作成したサイクリング計画を、修一に見せた。
「高尾か。初めてのサイクリングにしちゃ、ちょっと遠すぎないか?」
「そうかな。直線距離で三十キロぐらいしかないけどな」
「いや、道なりに行くと、もっとあるんだよ。四十キロ以上はあるんじゃないかな。往復で八十キロ。ちょっときついよ」
「だいじょうぶだよ」
 足に自信のある正和はいった。
「高尾山へは登るのか?」
「いや、高尾駅までだ」
 最終地点が父親の家であることは、もちろん修一にはふせていた。
「そうか。それなら、なんとかなるかもな?」
 修一はしばらく考えてから、また正和にたずねた。
「いつ、行くんだい?」
「来週の月曜日」
「えっ? ああ、おまえは週休三日制だもんな」
 修一は、ニヤッと笑いながらいった。
「でも、できたら日曜日にしないか? そしたら、おれも一緒に行くからさ」
「えっ?」
 今度は、驚くのは正和の番だった。たしかにベテランの修一と一緒なら、ペースもつかみやすいし、心強くもある。
 でも、それでは、父親の家をこっそりのぞいてくるという、正和の計画はおじゃんだ。それに日曜だと、父親と顔を合わせてしまうかもしれない。正和の方は顔を覚えていなくても、さすがに向こうは気づくだろう。きっと、おたがいに気まずい思いをするに違いない。
「いや、日曜日はちょっと都合が悪いんだ。次の時は、一緒に頼むよ」
「そうか」
 修一は、まだ少し心配そうだった。

 ドアが閉まる音に続いて、鍵をかけるカチャンという音が聞こえてきた。かあさんが会社に出かけていったのだ。
 寝たふりをしていた正和は、すぐにベッドから飛び起きた。すでに、Tシャツに短パンという、サイクリングスタイルに着替えてある。
 正和は、自転車用の水筒に水をつめると、すぐに家を飛び出した。なにしろ、夜七時までには戻らなければならないから、けっこう忙しい。
 かあさんには、今回のサイクリングのことは内緒にしてあった。行き先を聞かれて高尾と答えると、父親の家のことを連想されてまずいなあと思っていたからだ。
 自転車置場でカバーをはずすと、完璧に整備された愛車が姿を現わした。正和は、それを押しながらマンションの前の道路に出た。
 腕時計を見ると、まだ七時三十分だ。通勤の人たちが、マンションの玄関から次々に出てくる。まだ、登校時間にならないので子どもたちの姿は見えない。
(よし、行くか)
 正和はペダルを力強くこぎながら、早稲田通りへ飛び出していった。
 通勤の車なのだろうか、道路はけっこう込んでいる。
正和は、慎重に道路の左端を進んでいった。
 足の調子は絶好調だった。慎重に設定した変速ギアに合わせて、自転車はいかにも軽々と進んでいく。
正面から風をまともに受けて、自転車用ヘルメットからはみ出した髪の毛がうしろへなびいていた。

 予想に反して、十一時ごろには、正和はすっかりまいってしまっていた。
 自転車をこぐのに、疲れたわけではない。修一のアドバイスどおりに、こまめに切り替えている変速ギアもぴったりで、自慢の足はますます快調だった。
 正和を悩ませていたのは、車の廃棄ガスと砂ぼこりだ。特に、ダンプの吐き出す黒いガスには、完全にまいってしまった。 
 走り出したころは、都内を抜けさえすれば次第に良くなるだろうと思っていた。
ところが、道が多摩地区に入っても、良くなるどころか、かえってひどくなってきている。
 鼻はにおいでツンツンするし、のどはすっかりいがらっぽくなっている。
 正和は、甲州街道からそれて、裏通りで自転車を止めた。
 水筒の水でうがいをしてみる。
 でも、少しもさっぱりしない。
 とうとう正和は、ルートを変更することにした。
 スマホのナビ機能によると、すでに調布市を抜けて府中市に入っている。それなら、ここで甲州街道をはずれて、是政橋で多摩川を渡り、川崎街道で高幡不動まで行けばいい。そこからは裏道を通って、高尾の南側、父親の家の近くまで一直線に行ける。
(よーし)
 正和は、また力強くペダルをこぎ始めた。

 正和が、目標の八王子市×町に着いたのは、一時過ぎだった。目指す番地は、街角の真新しい住居表示の地図で、すぐにわかった。
 少し緊張しながら、正和は家を捜していった。
 五の四の三、五の四の四、…。
 あった。
 五の四の七は、予想通りに新築ほやほやの二階建ての家だった。
「森下」
 凝った飾り文字の表札の下に、家族の名前が並んでいる。
「森下進一郎
   由美子
   真理 」
 表札の下には、インターフォンもついていた。
 一瞬、正和は、そのボタンを押してみたい衝動にかられた。
 でも、押したところでいったいどうなるのだ。だいいち、父親は会社にでも行っていて、今は家にはいないだろう。玄関の横にある真新しいカーポートにも、車は停まっていなかった。
 正和は、引き返す前にもう一度たんねんに家をながめてみた。
 白い壁に、しゃれた出窓がついている。二階の窓はバルコニーになっていて、ふとんが干してあった。家の南側は、生け垣に囲まれた芝生の庭になっていて、まだ育ちきっていない庭木が何本か植えられている。
 正和が自転車の方向を変えようとした時、庭に面した一階のガラス戸が開いた。正和は、そのまま立ち止まった。
 すぐに、洗濯ものをたくさんかかえた女の人が、家から出てきた。
 その人は、正和が想像していたより、ずっと若かった。かあさんよりも、十才以上は年下に見える。
 女の人は、庭の物干しにシーツを干し始めた。
(でも、かあさんの方が少し美人だな) 
と、正和は思った。
 しばらくすると、三才ぐらいの女の子が庭へ出てきた。正和の妹にあたる「真理」という子に違いない。
 思わず生け垣に乗り出すように、中をのぞきこんでしまった。女の子は、洗濯ものを干しているおかあさんにまとわりつくようしたり、シーツをひっぱったりしている。
「こらーっ」
 おかあさんが叱る真似をすると、
「キャーッ」
と、大声を出してはしゃいでいる。
 父親の家庭は幸福そうだった。思わず、正和も微笑んでしまった。
「あっ、誰かいるよ」
 目ざとく正和を見つけた女の子が、こちらを指差しながら叫んだ。母親も振りかえる。正和はあわてて自転車をターンさせると、力いっぱいこぎ出した。

 正和は、予定通りに七時少し前に家へたどり着けた。
でも、すっかり疲れきって、到着時間はぎりぎりセーフだった。帰り道の途中で、バテバテになってしまったのだ。
 やっぱり、修一の忠告は正しかったようだ。特に、尻がサドルにこすれてはれあがっていた。
 でも、ラッキーなことに、下から見上げた正和の家の窓には、まだ明かりが灯っていなかった。かあさんは、まだ戻ってきていないようだ。
 正和は、自転車置き場に自転車をとめてきちんとカバーをかけた。そして、エレベーターを待たずに一気に階段をかけ上っていった。
 部屋に入ると、汗まみれのTシャツと短パンを脱いで洗濯機に放り込んだ。そして、すばやくシャワーをあびた。
 ピンポーン。
 ちょうどタオルで頭をゴシゴシこすっていた時、ようやくかあさんが帰ってきた。
「ただいまあ。さあ、ごはん、ごはん」
 かあさんはいつものように疲れきった表情をしていたけれど、無理して元気な声を出していた。
「おかえり」
 正和は何事もなかったような顔をして、かあさんに声をかけた。 
 夕食後、正和は湯船の中で疲れた筋肉をほぐしながら、久し振りに充実した月曜日になった今日のことを考えていた。
 もちろん、かあさんには今日のことは何もいえない。
 でも、父親の家へ行ったことも含めて、修一にだけは話してみたいような気がしていた。
 そして、
(夏休みの東北一周サイクリングに、一緒に連れていってくれるように頼んでみようかな)
とも、思っていた。



月曜日は自転車に乗って
平野 厚
平野 厚
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フランケンの一日

2020-03-15 09:28:38 | 作品
 タケシの右手の中指と薬指からにじんでいた血は、もう固まっていた。
 でも、塾の先生が黒板に書いた算数の問題をノートに写す時には、まだ少しだけ痛んだ。
 タケシは、傷をじっとながめてみた。それは、ギュッとこぶしを固めたときに、ちょうど先端になる部分だった。この傷は、今日、学校で、片岡ハジメをなぐった時に、彼の歯に当たってできたものだ。
 タケシがなぐり合いのけんかをしたのは、三、四年ぶりのことだった。
タケシに限らず、低学年のころこそ、ささいなことでとっくみあいをしたものだ。
ところが、学年が上がるにつれて、いつのまにか口げんかだけになっていた。徹底的に決着をつけて、肉体的に傷をあたえるばかりでなく、精神的により深い傷をつけるのを避けているのかもしれない。
たまにたがいの胸ぐらをつかむ所までいっても、そこで注意深くひと呼吸おかれる。そして、だれかがタイミングよく仲裁に入って、ことなきを得てしまう。けんかをしている当事者も、誰かが止めに入ってくれるのを待っているのかもしれない。威勢のいい捨て台詞ははかれるもの、けんか自体はそれっきりになってしまうことが多かった。
 ところが、今日のタケシは、実際になぐる所までいってしまったのだ。
 タケシがなぐった片岡ハジメは、学校もよく休むし、成績もパッとしない。頭でっかちで、顔がちょっと怪物のフランケンシュタインに似ているので、みんなに「フランケン」と呼ばれていた。体はタケシよりも大きいくらいだが、すごくおとなしいのでいじめられっ子の一人になっている。

 今日も何人かが、教室でフランケンをからかっていた。
「ちょっと、いただき」
 トオルが、フランケンの筆箱を取り上げた。フランケンは、あわててトオルの後を追った。
「よ、よせよ」
 トオルは、ダイスケにすばやくパス。
「ほらほら、もたもたするんじゃねえよ」
 フランケンは、取り囲んだ数人の間を行ったり来たりさせられていた。タケシやほかのクラスメートたちは、まわりで笑いながら見ている。
ひょうきん者のユウタが、両手を前に伸ばして白目をむきながら、ユラユラとフランケンシュタインが歩くまねをしたので、みんなはドッと笑った。
「ホイッ」
 トオルが輪の外にいたタケシにパスしたのは、その時だった。
(あっ!)
不意をつかれたタケシは、筆箱を下に落としてしまった。あわてて拾い上げようとするタケシに、フランケンがとびついた。バランスをくずしていたタケシは、あっけなくひっくりかえった。それを見て、まわりのみんなは大喜びだ。
「このやろう、何すんだよ」
 タケシはカッとなってはね起きると、フランケンの胸ぐらをつかんだ。
(えっ!)
一瞬、フランケンは、タケシがドキッとするような力で腕をつかみ返した。
 でも、フランケンはすぐに力を抜いた。
 タケシは、足をかけてフランケンを倒すと、すばやく馬のりになった。力を抜いてからのフランケンは、まったく無抵抗だった。
「やれ、やれーっ」
 タケシは、まわりのはやし声につられたように、フランケンの顔をなぐってしまった。
 一発、二発、……。
 フランケンの唇が切れ、タケシのこぶしもすりむけて血がにじんでくる。
初めははやしていたクラスメートも、いつの間にかシーンとしていた。
 しかし、止める者はいない。タケシは、泣きそうになりながらなぐり続けた。フランケンの顔ははれあがり、鼻血も出てきた。
「何してるんだ。やめなさい」
 ようやくやってきた担任の岡村先生に引き離されながら、タケシはホッとしていた。

 翌日、フランケンは学校を休んだ。
 もともとフランケンは、欠席しがちだった。だから、フランケンの欠席とタケシとのなぐり合いを結びつける者は誰もいなかった。
 しかし、タケシは、一日中、そのことが気になってしかたがなかった。
 ポツンと、ひとつだけあいているフランケンの席。なんだか、そこにポッカリと大きな穴ができているようだった。
(どうして、気にかかるんだろう?)
 今までは、フランケンが学校に来ようが来まいが、ぜんぜん気にとめていなかった。タケシにとっては、フランケンは「どうでもいい奴」にすぎなかった。
(痛っ!)
 手を動かしたら、傷がひきつれて鋭く痛んだ。
 タカシは、右手の傷口をあらためてながめた。もうすっかりふさがって、かさぶたができかかっていた。 

 フランケンは、次の日から何ごともなかったように登校してきた。
 でも、くちびるには、切れたあとが少し残っていた。
 トオルやダイスケたちは、前と変わらずにフランケンをからかいはじめた。
 しかし、タケシには、今までまったく気にならなかったこの光景を、ながめ続けることができなくなっていた。
そして、そんな時には、さりげなくその場を離れるようになった。

 数日後の昼休みだった。
 ダイスケが、ニヤニヤ笑いを浮かべて、タケシに近づいてきた。
「タケちゃん。今度の日曜日にひまある?」
「うん。特に予定はないけど」
「それならさ、原宿へ行かないか?」
 女の子二人と、ダブルデートしないかという誘いだった。
「誰とだよ?」
 タケシがたずねると、ダイスケは声をひそめて答えた。
「島田さんと川井さん」
「へーっ」
 島田さんといえば、クラスで一番人気のある女の子だ。アイドルグループのセンターの子に似ているという者もいる。ダイスケも、彼女のファンのひとりだった。
「何だよ。島田さんと二人で行けばいいじゃないか」
「それがさ、二人だけじゃいやだっていうんだ。川井さんと一緒ならいいっていうんだけど。それでさ、おれの方もおまえを誘ったって訳なんだ」
「ふーん」
 あいかわらず、話をまとめるのがうまい奴だ。 
「タケシだって、川井さんとならいいだろ」
 タケシは、ダイスケにズバリと本音をいわれてしまって、ドキンとした。
 川井さんは、前にクラス委員を一緒にやっていたので、タケシとは仲がいい。時々、二人の名前を相合いがさやハートマークで囲った紙が、クラスの中をまわったりしている。タケシもそれを見て、まんざら悪い気持ちではなかったのだ。
「OK、おれも行くよ」
 タケシは、思い切ってダブルデートに参加することにした。例えダイスケたちといっしょとはいえ、女の子とデートするのは初めてのことだった。
「そうこなくっちゃ」
 さっそくダイスケは、当日の計画を細かく話しだした。さすが、岡村先生が命名するところの、「スリーマセガキズ」の一員だけのことはある。こんなときの用意はぬかりがなかった。
 タケシとダイスケは、音楽や映画の趣味があった。クラスの他の子たちは、アイドルグループなんかのファンで、大人ぶるのが好きなタケシとは話が合わない。そんな時、外国のヒップホップやラップなどの音楽情報を交換するのに、ダイスケはかっこうの相手なのだ。
 ダイスケは背も高いし、ファッションセンスも抜群なので、女の子にもてている。その点は、六年生になっても、今だに子どもっぽい格好をしているタケシとはぜんぜん違う。

 タケシとダイスケは、おおぜいの人たちでごったがえす竹下通りを歩いていた。もちろん、島田さんと川井さんも一緒だ。
「キャー、かわいい!」
 女の子たちはが、いろいろなグッズを見つけるたびに立ち止まってしまう。おかげで、タケシたちはなかなか前に進めなかった。
 今日の二人は、はでなワンピースを着て、大きなアクセサリーまでつけている。タケシには、まぶしすぎるくらいだった。
 ダイスケも、紺のジャケットできめている。タケシは、自分のトレーナーとジーンズ姿が、みすぼらしくさえ感じられた。
 竹下通りのいろいろなお店を見たり買い食いしてから、キディランドで女の子たちの好きなスニーピーのグッズを、男の子たちがプレゼントする。ダイスケの立てたスケジュールどおりに、デートは進んでいく。
「ねえねえ、今度のスノーマンのCD、買ったあ?」
 ダイスケが、いかにも興味しんしんといった感じで、女の子たちにたずねた。
「えーっ。ダイスケくん、持ってるのお」
 島田さんが、顔をかがやかせていった。
「今度貸してよ。スマホにダビングしたいから」
「うん、いいよ」
 いつもとまったく違うアイドルグループの話を巧みにこなす、ダイスケの変わり身のはやさはあきれるほどだ。
タケシもけんめいに話を合わせようとするのだが、しだいにみんなから浮いてしまっていた。何だか川井さんまでが、いつもとは別の子のように感じられてきた。

「かっこいいーっ!」
 島田さんが、急に大声を出した。みんなは、彼女の指さす方を見た。
 中学生ぐらいの男の子が、七、八人、スケートボードに乗って走ってくる。みんな、そろいのスカジャンに身を固めていた。
「すごーい!」
 川井さんも、感心したような声を出した。
 男の子たちは、クレープを立ち食いしていたタケシたちの前を、アッという間に通り過ぎていった。
「あれえーっ。今の中に、フランケンがいたよーっ」
 島田さんが、びっくりして叫んだ。
「えーっ。まさかーっ?」
 みんなは、振り返って走り去っていく彼らを見送った。タケシの眼にも、集団の先頭でひときわあざやかにボードをあやつる少年が、フランケンのように思えた。
 しかし、その時、川井さんが首をかしげながらいった。
「違うんじゃない」
「そうだよ。フランケンのはずないじゃん」
 ダイスケがそういって、両手を前に差し伸べて白目をむいて、ユラユラとフランケンシュタイン・ウォークをやってみせた。
「キャハハハ、……」
 みんなは、思わずわらってしまった。
 話題はすぐに他へ変わったけれど、タケシにはさっきの少年の姿がはっきりと記憶された。

タケシのかよっている塾は、月、水、木、土と、週四回も授業がある。火曜と金曜には家庭教師が来るし、日曜にも模擬試験に行くことが多い。一週間、毎日休みなしで勉強に追われている。それもみんな、あと四か月後に迫った中学受験のためだ。
 タケシはそんな生活に疲れると、塾をさぼって自転車で遠乗りする。
 友だちの家へ行くとさぼりがママにばれるし、ゲームセンターなんかに行けば補導されるかもしれないので、学区外の町をうろつくだけにすぎない。

 タケシはこの日も塾をさぼって、U高校に向かっていた。
 U高校には、道路を隔てて、今は使われていない小さなサブグラウンドがある。タケシは、そのサブグラウンドの少し手前に自転車を止めると、そっと中をのぞきこんだ。
(いた)
 フランケンだ。
 コーラのボトルを並べて作った障害物の間を、スケートボードで滑っている。
 タケシは、フランケンがここで滑っているのを、前にも見かけたことがあったのだ。
 でも、その時はチラッと通りがかりに見ただけだったので、フランケンがどのくらいうまいかまではわからなかった。それで、この間の原宿の少年がフランケンだったのかどうかを、確かめに来たのだ。
 フランケンは、あざやかにボードをターンさせて滑っている。やはり、原宿の少年はフランケンのようだった。
 その時、フランケンは最後のボトルにボードをぶつけてしまった。バランスを崩したフランケンは、激しく転倒した。
(すげえ、けっこうハードなんだなあ)
 思わず前に乗り出したタケシと、フランケンの目が合った。
 次の瞬間、フランケンは顔に恐怖の色を浮かべると、ボードをつかんで走り出した。反対側の金網を越えて、逃げるつもりらしい。タケシは夢中になって、大声で叫んだ。
「待ってくれ!」
 フランケンは、金網の所でこちらを振り返った。
 しかし、両手を金網にかけて、いつでもよじ登れるように身構えている。
「こないだは、ごめん」
 タケシは、自分の口から出た言葉に驚いていた。今の今まで、フランケンにあやまろうとは思っていなかったからだ。
 タケシは続けて何かしゃべろうとしたが、言葉が浮かんでこない。しばらくの間、二人は、おたがいを見つめ合いながら立っていた。
 タケシが先に照れたように笑うと、フランケンはゆっくりとこちらへ戻って来た。でも、顔はまだ少しこわばっている。タケシは、すばやく金網のフェンスを乗り越えた。
「やあ」
 少しはにかみながら、タケシはあらためてあいさつしたが、フランケンはいぜんとして黙っている。タケシの方をじっと見ていた。フランケンの上唇には、この前の傷のなごりが残っている。タケシの指の傷も、かさぶたになっていた。
「いつもここで練習してるのか?」
 フランケンは、コクンとうなずいた。
「だまって入って、よくおこられないな?」
 もう一度たずねると、ようやくフランケンが口をひらいた。
「うん。でも、もうすぐ工事が始まって使えなくなるけど」
「何ができるんだい?」
「卓球とバトミントン用の小体育館だって」
 タケシは、思い切っていってみた。
「この前、原宿で見かけたよ」
「えっ!」
「かっこよかったな」
 フランケンは、顔を少し赤くした。
 タケシは、フランケンにまたスケートボードで滑ってもらった。
 ボトルのコースでのスラローム。途中の障害物を飛び越えるジャンプ。さらに驚いた事には、ベニヤ板を立て掛けた特製スロープで、鋭いターンまで演じてくれた。
 タケシも、ボードの乗り方をフランケンにコーチしてもらった。
 三十分ほどして、ようやくゆるゆると進むようになったころには、あたりは薄暗くなってきていた。
「帰ろうか?」
 とうとうフランケンがいった。
「うん」
 タケシは、元気なくうなずいた。まだ塾が終わる時間にはならない。あと二時間以上もひまをつぶさなければ、家へ帰れないのだ。
 二人の自転車が家の近くまで来た時、フランケンは遠慮がちにいった。
「タケシくん、時間ある?」
「うん」
「それじゃあ、うちによっていかない?」
「えっ、いいのかあ」
 タケシは、内心のうれしさを隠して、さりげなさそうにいった。

 フランケンの家は、バス通りに面した古いマンションだった。
 タケシとフランケンは、マンションの駐輪場に自転車をとめて、建物の中に入っていった。
フランケンの家は、マンションの八階にあるという。古ぼけたエレバーターは、ゆっくりゆっくりと二人を乗せて上がっていった。
 ドアの鍵を開けると、玄関の電気がついていた。
 家には、中学生だというフランケンのおねえさんが、先に帰ってきていた。おとうさんもおかあさんも、まだいなかった。
「こらあ、ハジメ。ハトのエサやりに遅れたぞ」
 フランケンの顔を見るとすぐに、おねえさんはちょっと怒ったふりをしていった。
「いけねえ」
 フランケンはかばんを自分の部屋に放り込むと、すぐにベランダに出た。タケシも、その後に続いた。
 外は風が強い。ベランダには小さなハト小屋があり、二羽のハトが寒そうにこちらを見ていた。
 フランケンは手早くふんの始末をすると、水とエサを換えた。ついでに、壁沿いに並べてある鉢植えの草花にも水をやっている。
 タケシは、ベランダからぼんやりと自分の家の方向をながめていた。
「ハジメの友だちが来るなんて、めずらしいねえ」
 いつの間にか、フランケンのおねえさんもベランダに来ていた。
 スラリと背の高い人で、あまりフランケンに似ていない。びっくりするぐらい真っ黒な髪の毛を、無造作にうしろにたばねている。
「こんにちは。あっ、いけねえ、こんばんは」
 タケシは、あわててあいさつした。
「こんばんは、お名前は?」
 おねえさんは、ニコニコしながら聞いてくれた。
「水村タケシです」
 タケシは、緊張しながら答えた。
「タケちゃんね。今日、ごはんを食べていきなさいよ」
 おねえさんは、あたりまえのようにあっさりといった。
「そんなあ」
 タケシはあわてていった。
「いいの、いいの、うちの両親は遅いんだから。今日は、二人で食べるつもりだったの。にぎやかな方がいいよ」
 彼女は、フランケンのおねえさんとは思えないほど、きびきびとひとりで決めてしまった。

「これ、やらないか?」
 フランケンが持ち出したのは、手作りらしいゲーム盤だった。木製で、あちこちにくぎが打ってあり、ところどころのくぼみに点数が書いてある。
「コリントゲームっていうんだ。パチンコみたいなもんだけど」
 フランケンは、部屋の真ん中にゲーム盤をセットしながらいった。
「これ、フランケン、じゃなかった、ハジメくんが作ったの?」
 タケシがたずねると、
「ううん。とうさんが作ったんだ。手先が器用なんで、木工が趣味なんだよ」
と、フランケンは少し得意そうにいった。
 盤の右はじがバネじかけになっていて、ビー玉をひとつずつ前へ打ち出す。
板が傾斜しているので、あちこちのくぎに当たりながら、ビー玉は手前に戻ってくる。
途中のくぼみに入れば、その点数がもらえるが、一番下までくると零点だ。ひとり五個ずつはじいて合計点で勝負する。
 いきおいよくはじかれたビー玉は、電灯の光をうつしてキラキラと光りながらころがってくる。
 バネのはじき方にコツがあるのか、クラスではゲーム名人でとおるタケシも、フランケンにはなかなか勝てなかった。
「あのハトは、ハジメくんのか?」
 三連敗をきっした後、タケシはベランダのハト小屋を見ながらいった。
「うん、まだ飼い始めたばかりだけど」
 フランケンは、またビー玉をはじきながら答えた。
「高いのかい?」
 ハトのことはぜんぜん知らないが、なかなかきれいなハトだった。
「うん、二羽で、一万二千円」
「へーっ。金持ちなんだな」
 タケシは、うらやましそうにいった。
「アルバイトしてるんだ」
 フランケンは、声をひそめていった。
「内緒だけど、新聞配達、朝刊だけやってんだ」
「すげえ、おこられないの?」
 タケシはびっくりしていった。
「うちの両親は、あんまりうるさくないのよ。それに新聞屋さんが知り合いなんで、内緒でやらせてもらってるの」
 おねえさんが、振り返りながらいった。
「それより、水村くん、おうちへ電話しなくていいの」
 口ごもったタケシを見て、おねえさんはニヤリとしただけで何もいわなかった。

 夕食は、意外なほど早くできあがった。
フランケンは、当然のようにテーブルに食器を並べて、おねえさんを手伝っている。タケシは、小さくなってそれを見ていた。
「たくさん食べてね」
 おねえさんは、ごはんをよそいながらタケシにいった。
 おかずは、大きなオムレツにポテトサラダ。野菜の煮物にお新香。そして、おみそ汁とごはん。
 ごはんはやわらかすぎたし、みそ汁も塩辛かった。
 でも、タケシには、自分の家でのどんな食事よりも、おいしく感じられた。いつもなら絶対手を出さない野菜の煮物も残さず食べ、ごはんを三杯もおかわりしておねえさんを喜ばせた。
 食べ終わると、フランケンは皿洗いを手伝い始めた。
 フランケンは、スポンジに洗剤を含ませて手早く汚れた食器を洗っていた。洗い終わった食器は、おねえさんがお湯ですすいでふいている。
「あのーっ」
 タケシは、少しためらってから声をかけた。
「なに?」
 おねえさんが振り向いた。
「ぼくにも手伝わせてください」
 タケシは、少し顔を赤くしていった。
「いいのよ。すぐ終わるから」
「でも、やらせてください」
 タケシは力を込めていった。
「そうーぉ。じゃあ、ふくのをやってもらおうかしら」
 おねえさんは、そういってふきんをタケシに渡した。
 タケシは、おねえさんがすすいだ食器を受け取った。ぬれているので持ちにくい。もう少しで下へ落としそうになった。
「フフッ。家であんまりお手伝いしてないんでしょ」
 タケシのぎこちない手つきを見て、おねえさんが笑いながらいった。フランケンも笑っている。タケシの顔はまた赤くなった。

 タケシが、フランケンの家を出たのは、もう八時を少しまわっていた。
いつもだったら、家に着くころだ。さぼりがばれないように、タケシは全速力で自転車をこがなければならなかった。
 家には、タケシの遅い夕食が、いつものように残されていた。
 オムレツが皿の上でゆげを立てているのを見て、さすがにタケシはギョッとした。
 でも、がんばってなんとか残さずにたいらげた。
「皿洗い、手伝おうか?」
 食べ終わった時、タケシはママに申し出た。
「……」
 ママはエイリアンでも見るような眼つきをして、タケシをしばらくみつめていた。
「いいのよ、タケちゃん。お勉強で疲れてるんだから。それよりゲームでもやったら」
 ママは、ぎこちない笑顔を浮かべていった。
 タケシは、素直にしたがって自分の部屋へ戻ることにした。
 いつもだったら、一日三十分だけゆるされているビデオゲームを始める所だ。六時半からのアニメも、ママが録画してくれている。タケシの部屋には、専用のテレビもブルーレイレコーダーも備えられていた。
 でも、ゲームもアニメも、今日はタケシの関心をひかなかった。

 翌朝、タケシはいつもよりねぼうしたので、登校したのは遅刻ぎりぎりだった。
 フランケンの机の横を通った時、タケシは小さな声でいった。
「おはよう」
「……」
 フランケンはびっくりしたような顔をして、タケシを見送っていた。
「タケちゃん、ばっちり、ばっちり」
 ダイスケが、上機嫌でやってきた。
「何が?」
「マユちゃんの誕生パーティーに呼ばれたのさ」
 ダイスケは、ウインクしながらささやいた。
「マユちゃんて?」
「島田さんのことさ」
 ダイスケは、声をひそめてさらにいった。
「タケちゃんはどうなんだ。川井さんと」
 タケシはあいまいにわらってごまかすと、ちらりと川井さんを見た。あれ以来、川井さんに接するタケシの態度は、かえってぎこちなくなっている。

 昼休みが終わって、タケシは教室へ戻ってきた。
(あれ?)
 国語の教科書に何かがはさんである。
ひろげてみると、手紙のようだった。
『タケシくん、
 A公園にギンナン取りに行くんだけど、いっしょに行かないか』
 フランケンからだ。
 署名はなかったけれど、タケシにはすぐにわかった。かわりに、濃い鉛筆で丹念に描いた鳩の顔があったからだ。
 タケシは、振り返ってフランケンを見た。
 しかし、フランケンは、いつものようにぼんやりと前を見ているだけだった。
 今日、フランケンは、タケシに話しかけてこなかった。タケシの方からも、朝の時以外は特に声をかけるようなことはなかった。まわりから見たら、二人の関係は今までまったく変わらないように見えたことだろう。昨日、フランケンの家まで行ったのが、まるで夢のようだった。
(どうしようか?)
 今日も、あのタケシにとっては不思議な、「フランケンの一日」に付き合いたいような気がしていた。

 塾の教室では、先生が方程式を熱心に説明している。本当は中学で習う勉強なのだが、受験対策の裏技だった。
タケシは迷いながらも、ギンナン取りを断って塾へ来たのだ。
「ごめん、今日は塾に行かなければならないから」
 誰もいないのを見はからって、学校の階段で声をかけた。
「そう、じゃあ、またね」
 フランケンは、残念そうにそういった。
 でも、すぐに思い直したようだった。
「今度、また家に来ないか?」
「うん、きっと」
 そう答えると、フランケンはうれしそうな笑顔をみせた。
 タケシは、黒板から目をはなすと、ぼんやりとフランケンの事を考えた。
今ごろ、A公園のいちょう林の中で、フランケンはギンナンを拾っているだろう。楽しそうなフランケンの姿が、見えるような気がした。かぶれないように、ポリ袋で手をおおっている。そして、なぜか自分もそこに一緒にいるように思えたのだ。
「それじゃあ、水村、三番を答えて。」
 タケシは、再び算数の問題に集中していった。


フランケンの一日
平野 厚
平野 厚


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ベホマの呪い

2020-03-14 09:17:28 | 作品
「やっりー! 全員に50のダメージね」
「くそーっ。死んでしまった」
 ぼくの手から、ポトッとキラータイガーが落ちた。
「へへん、三連勝ね」
 ヨッちゃんは、得意そうにガッツポーズをしている。
 今日も学校から帰るとすぐに、弟のヨッちゃんと「バトえん」をやってた。
 「バトえん」ってのは、バトル鉛筆のことだ。今、ぼくたちの間で、すごくはやっている。一本一本が人気アニメのヒーローやモンスターになっていて、六角鉛筆のそれぞれの面に、「△に30のダメージ」とか、「ダメージ回復」とか、「ミス(攻撃も防御も失敗)」とか書いてある。そして、それをころがして戦うゲームだ。「バトえん」同士に相性みたいのがあって、単純に強い奴が勝つとは限らないのが面白い。
 五本ずつの勝ちぬき戦でやっているんだけど、最近はぼくの方が負けてばかりだ。
「あーあ、ベホマがあればなあ」
 思わずため息が出た。
「うーん、ベホマかあ」
 ヨッちゃんも、うっとりしたような声を出している。
 そう、ベホマは最強の「バトえん」なんだ。     
 でも、ほとんど世の中には出回っていないので、「幻のバトえん」とも呼ばれてる。「バトル鉛筆公式ガイドブック」に載っているので、知っていただけだった。

「……、58、59、60回」
「ああ、気持ち良かった。ゴウちゃん、肩たたき、すっかりうまくなったねえ」
 おばあちゃんはそういうと、大きくひとつ伸びをした。
「十円、十円」
 ぼくは、待ち切れずにいった。
「はいはい」
 おばあちゃんは、差し出したぼくの手のひらに、十円玉を一枚載せてくれた。
「じゃあ、おじいちゃんも」
「うーん、いいよ、今日は」
「そんなこと、いわないでさあ」
 おじいちゃんのうしろにまわると、むりやり肩をたたき始めた。
 こんなに熱心にやっているのは、「バトえん」のためだ。「バトえん」は、四本セットで二百九十円もする。おかあさんはすごいケチだから、絶対買ってくれない。だから、肩たたきのおだちんだけが頼りなんだ。
 六十回で十円。「バトえん」を買うためには、なんと千七百四十回もたたかなければならないことになる。
 初めは喜んでいたおとうさんやおかあさんは、このごろはちっともたたかせてくれない。近所に住んでいるおばあちゃんたちが、最後の頼みの綱だった。

二丁目の横断歩道を渡ったところで、夕方五時の「家に帰りましょう」のチャイムがなってしまった。冬のころとは違って、まだだいぶ明るい。四月に入ってからというもの、すっかり日が長くなっている。
(えい。おかあさんに叱られたって、かまやしないや)
 ぼくは、思い切ってショッピングセンターにある若葉書店に寄ることにした。
 ポケットには、大事な大事な二百九十円が入っている。やっと二週間ぶりに、「バトえん」を買える。
「こんちわーっ」
「おや、ゴウちゃん、お久しぶり」
 本屋のおばさんが、愛想良くいった。
 若葉書店は、本屋とは名ばかりで、本は雑誌とコミックスと文庫本をチョコッと並べているだけだ。小さな店の大半は、画用紙やクレヨンやノートといった文房具がしめている。「バトえん」は、その中でも一番目立つ入り口のそばに置かれていた。
(どれにしようかなあ)
 外箱を見ただけでは、何が入っているかわからない。
『また、おんなじ奴買わされて。ほんとに、鉛筆会社とアニメ会社が組んで、子ども相手にあこぎな商売やってるんだから』
 おかあさんは、いつもプンプンに怒っている。
「どれにするの?」
 いろいろ手に取って迷っていると、おばさんが催促するようにいった。
「何が入ってるか、わかればいいのになあ」
 思わずため息をついてしまった。
「わかんないのが、いいんじゃない。中身は後のお楽しみってね」
 おばさんは、ずるそうな目をして笑っていた。
(えっ?)
 その時、一番右の上から二番目の「バトえん」セットが、一瞬光ったような気がしたのだ。
「これ」
 反射的にそれをつかむと、おばさんに差し出していた。

 家に帰ると、外でヨッちゃんが縄跳びをしていた。
「……、19、20、21、……」
 すごいスピードで、前跳びを続けている。いつも練習しているので、メキメキうまくなっていた。一年生のくせして、もう三年生のぼくより上手なくらいだ。
「おにいちゃん、ハア、ハア、買ってきた?」
「えっ、何を?」
 ちょっととぼけてみせたけど、嬉しくってつい笑顔がこぼれちゃう。
 部屋に行くのを待ち切れずに、玄関で「バトえん」の箱を開けた。
 一本目はタイフーンマン。
「あっ、まただ」
 ヨッちゃんが、馬鹿にしたようにいった。ぼくもヨッちゃんも持っているし、あまり強くない。
 二本目はヘルゲイナス。
「いいなあ」
 ヨッちゃんが、うらやましそうにいった。これも一本あるけど、けっこう強いからヨッちゃんのキングスライムと交換できるかもしれない。
 三本目はスモールプールだった。これはまあまあだけど、やっぱりもう持っている。
 そして、最後の四本目。金色の端っこが見えたとき、急に胸がドキドキしてきた。
(まさか?)
 思い切って、箱から抜いてみた。
 初めて見る鮮やかなペイントと模様。
 そう、あのベホマだったのだ。
「うーん」
 急にまわりの風景が、遠のいていくような感じがした。
「うはーっ」
 ヨッちゃんも大げさに叫びながら、わざと玄関からころげ落ちてみせている。
 ベホマは、まるでそのすごいパワーを表すかのように、ゴールドメッキとライトグリーンで、きれいに塗り分けられている。一番端には、とんがり帽子に白ひげの、闇と悪とを支配する大魔法使い「ベホマ」が描かれていた。
 そして、六つの面に書かれた伝説の必殺技の数々。
 第一の面はスロイド。これをくらうと、いきなり敵のパワーは半分になってしまう。
 第二の面はホメイロ。敵全員に五十のダメージ、そしてさらにもう一回攻撃。
 第三の面はグンダ。会心の一撃。好きな敵をアウトにできる。
 第四の面はマホータ。今まで敵からうけたダメージを、完全回復できる。
 第五の面はバクロマ。次の自分の回まで、敵の攻撃のダメージを受けない。
 そして第六の面は、あの伝説のヒャダルク。これは、なんと敵全員に百のダメージ。普通「バトえん」は百パワーを持ってゲームをスタートするから、これをくらうと敵全員が一発でアウトだ。
 たったひとつの「ミス」もない、完璧な攻撃力とディフェンス力。これが最強の「バトえん」、ベホマだった。

「えーっ、嘘おーっ」
 ジュンが、大きく手を広げて驚いている。まだ四月だというのに、オレンジのランニングシャツ一枚しか着てない。両肩の肉が、ムッチリと盛り上がってる。
「本当? いいなあ。ぼくも欲しいなあ」
 ソウタもうらやましそうだ。
「ふーん。ベホマが入っているのは、一万分の一の確率だそうですね。山川ゴウくんは、これでもう一生分の運を使いはたしましたよ」
 そんな変なことをいったのは、田所くんだ。
 とうとう我慢しきれなくなって、昼休みにベホマのことをみんなに話したところだった。
 たちまちぼくは、クラス中の男の子たちに取り囲まれてしまった。全員がうらやましそうにしている。それもそのはず、ぼくの三十六本なんてのはまだ少ない方で、百本以上持っている子もザラにいるんだ。それでも、ベホマを持っている子は、学校には誰もいなかった。
 昼休みのうちに、ベホマの噂は学校中に広がってしまった。ぼくの三年二組の教室には、三年生だけでなく、他の学年の子たちまでがやってきた。
「ゴウちゃん、すごいねえ」とか、「今度、ちょっとだけでも見せてくれよな」とか、口々にいってくる。
 ぼくはだんだん自分自身が、ベホマのすごいパワーを身につけたような気がしてきていた。

 家に帰ると、ヨッちゃんが、今日はうしろ跳びの練習をしていた。ヨッちゃんたち一年ぼうずは、まだ給食が始まっていないから、昼前には帰っている。まったく、楽ちんなもんだ。
「ただいまあーっ」
 玄関にランドセルを置くと、すぐに部屋へ向かった。
「こんちはーっ」
「おじゃましまーす」
 ジュンを先頭に、みんなも続いてくる。クラスの子が七人も、さっそくベホマを見にきたんだ。
「ここに入ってるんだ」
 「バトえん」入れになってる、机の二番目の引き出しを開けた。
 ホイミ、グリアル、モモンガ、……。
 むきだしで入れてある普通の「バトえん」をかき分けて、奥からプラスチックの筆箱を取り出した。中には、ネリウスとかキラータイガーといった、強い「バトえん」だけがしまってある。もちろん、あのベホマも。
「あれっ、変だな」
 ベホマが筆箱に入ってない。あわてて引き出しの中身を、全部机の上にあけてみた。
「……、33、34、35」
 やっぱり一本足りない。
「どうしたんだよ」
 五月人形の金太郎のような太い眉毛を寄せて、ジュンが心配そうにのぞきこむ。
「本当に、ベホマだったのですか?」
 田所くんが、疑い深そうに聞いた。
「ほんとだってば」
 ぼくは、また玄関から外へとび出した。
「ヨッちゃん、ぼくのベホマ、知らない?」
「えっ、知らないよ」
 ヨッちゃんはあっさりいったけど、ぼくと目を合わせようとしない。わざとそっぽを向いて、うしろ跳びを続けている。
(ははん。やっぱり、勝手に使ったな)
 すぐにピンときた。
「ヨッちゃん、おにいちゃん、怒らないからね。いってごらん。ベホマを使わなかった?」
 「優しいおにいちゃん」のふりをして、わざと猫なで声を出してもう一度たずねた。
「あっ、忘れてきた」
 急にヨッちゃんが、跳ぶのを止めてうつむいた。
「えっ、どこに?」
 ぼくは「優しいおにいちゃん」から、「普通のおにいちゃん」に戻った。
「うん、ケイくんちだ」
「えっ、なんで、ケイんちなんかに、持ってったんだよ」
 こんどは、「普通のおにいちゃん」から、「恐いおにいちゃん」になった。
「えっ、見たいっていってたからね。ちょっと見せにいったんだよ」
「馬鹿やろう」
 さっきの約束なんか、関係ない。ヨッちゃんの頭を一発思い切りひっぱたくと、すぐに新しい自転車を引っ張りだした。進級祝いにおばあちゃんに買ってもらった奴だ。
「おーい、待てよお」
 ジュンたちが、あわてて後を追いかけてくる。チラリと振り返ると、そのうしろから、ヨッちゃんだけは、駆け足跳びをやりながらのんびりついてきていた。まったく、こんな時でも、縄跳びの練習だけは欠かさないんだから。

 ピンポーン。
「はーい、どなた?」
 すぐに、ケイのおかあさんの声がインターフォンから聞こえた。
「ハアハア、山川、ゴウ、ですけど、ハアハア……」
 学校の反対側のケイの家まで、全速力で突っ走ってきたので、まだ息が切れている。それでも、なんとか用件を伝えられた。
「わかった。心当たりを見てみるわ」
ケイのおかあさんが、すぐに捜してくれることになった。
「おーい、一人で先に行くなよお」
「こっちは自転車じゃないんだぞお」
 ジュンたちが、ドヤドヤと到着した。
 ぼくはそんなみんなを無視して、じっとケイの家のドアをにらんでいた。
 ガチャッ。
 ようやくドアが開いた。
「ゴウくん、ケイの部屋も、テレビのまわりも捜したけど、その『ベホマ』っていうバトル鉛筆はなかったわよ」
 ケイのおかあさんが、すまなさそうにいった。
 そのとき、ヨッちゃんが、駆け足跳びをやりながら、のんびり現れた。
「ヨシキッ」
 これがヨッちゃんの本名だ。
「ケイんちには、ないってよ」
「ゴウちゃん、落ち着いて、落ち着いて」
 ぼくが今にもなぐりかかりそうなので、ジュンとソウタが両腕をつかんでいる。
「そうかあ。途中で、おっことしちゃったかなあ。ポケットに入れて、縄跳びやりながら帰ったからなあ」
 ヨッちゃんは、そんなとんでもない事を、ケロリとした顔でいい出した。
 ぼくは、あわててまわりの地面を捜し始めた。

「あーあ、どこにいっちゃったんだろう」
 鉄棒に足をかけて、逆さまにぶら下がりながら、ジュンがいった。
「誰かに拾われちゃったのかなあ」
 隣の鉄棒の上から、ぼくが答えた。
 他のみんなも、ブランコやジャングルジムに腰かけている。捜し疲れて、すっかりくたびれてしまっていた。
 でも、ヨッちゃんだけは、今度は二重とびに挑戦している。さすがに難しいらしく、なかなか続かない。
 あれから、みんなに手伝ってもらって、ぼくとケイの家の間を、徹底的に捜した。ケイの家からぼくの家まで、ヨッちゃんが帰ってきたとおりに歩いてみたのだ。
 あきれたことに、ヨッちゃんはとんでもないコースで、ケイの家から戻ってきていた。
学校まではなんとかまっすぐに来たものの、そこから、反対側の「谷津公園」へ向かっている。そこでは、大きな土管の中をくぐったり、目玉焼き型の砂場のまわりをわざわざ一周したり、いろいろな所で遊びまわっていた。
その後も、まっすぐには家に戻らなかった。ショッピングセンターの中を突っ切ったり、わざわざ歩道橋の上に登ったりしている。そんなふうに、さんざん寄り道してから、やっと家のそばの「小栗公園」まで戻ってきていた。
 でも、ベホマはどこにも落ちていなかった。
「そうだ。誰かが拾ったんなら、警察に届くかもな」
 クルリと宙返りして鉄棒から降りると、ジュンがいった。
「うん、そうだよ。ゴウちゃん、みんなで警察に行ってみようよ」
 ソウタも、励ますようにいってくれた。
「だめですよ。だって、大人人にとってはただの鉛筆だから、わざわざ届けるはずないし、子どもがベホマなんか拾ったら、ネコババしちゃうに決まってますよ」
 田所くんがそういったので、みんなはまたシュンとしてしまった。
「そうそう、ぼくだって、絶対ネコババしちゃう」
 ヨッちゃんまでが、調子に乗ってそんなことをいいだした。
「馬鹿やろ、おまえのせいなんだぞ。馬鹿やろーっ」
 とうとう頭にきたぼくは、泣きながらヨッちゃんになぐりかかった。
「うわーん」
 力いっぱい頭をなぐられて、ヨッちゃんもぼくより大きな声をあげて泣きだした。
「よせよ、ゴウちゃん」
「やめろってば」
 ジュンたちが、あわてて止めに入った。
 ぼくの大切なベホマは、こうしてたった一日で、その姿を消してしまった。なんだか本当にあったのか、自分でも昨日のことが、まるで夢のように感じられ始めてきた。

「さあ、あと十五分だよ。今日できあがらなかった人は、宿題にしまーす」
 図工の佐久間先生が、みんなの間を歩きまわりながらいった。
「えーっ!」
 みんなは不満そうな声をあげている。
 先週から始めた画用紙でいろいろな形を作る工作は、最後の仕上げにはいっていた。
 ぼくはすでに完成していたので、もう一度自分の作品をじっくりとながめた。
 赤く塗った紙と青の紙を、組み合わせて作った大きなロボット。「無敵合体ライジンガー」のつもりだ。
 両手を大きく広げていて、今にも「ガオーッ」てほえそうだ。われながら、いい出来上がりになっている。
 と、その時、
「わー、変なの」
「よしてよ」
 前の席の高橋くんと吉野さんが、いい争いを始めた。高橋くんが吉野さんの作ったアニメのヒーロー、スーパームーンにケチをつけたからだ。
 でも、それは無謀というもんだ。スーパームーンならぬ、スーパーダンプというあだなの吉野さんの体重は、やせっぽちの高橋くんの軽く二倍はある。
「うわーっ」
 たちまち吉野さんに突き飛ばされた高橋くんが、ぼくの机に勢いよくぶつかってきた。
 そのはずみで、ライジンガーが倒れ、机の下に落っこちていく。
(うそーっ!)
 落ちたはずみで、ライジンガーの頭がポロリともげてしまった。
「くそーっ、ひどいなあ」
 ぼくはライジンガーの体と取れた頭を両手にかかえて、二人に文句をいった。
 二時間目の終わりのチャイムがなった。
 でも、ライジンガーの頭をくっつける作業は、まだ終わっていなかった。落ちた時にどこかがゆがんでしまったのか、どうしてもうまくくっつかない。
「ベホマ様の呪いかな」
 いつのまにうしろに来たのか、ジュンがポツリといった。目を細めてせいいっぱい恐ろしげな顔をしているつもりだろうが、タヌキみたいなまん丸顔なのでちっとも怖くない。
「まさかあ」
 ぼくは笑いながら、すぐに答えた。
 確かに、ベホマはアニメの「ドラゴン伝説」の中では、誰にでも呪いをかけられるけど、それはお話の中だけのことだ。 
 でも、おかげでせっかく忘れかけていたベホマのことを、また思い出してしまった。
 昨日はあれからも、何度もケイの家との間を往復して捜したけど、とうとうベホマは出てこなかった。念のために、ケイの部屋まで捜させてもらったけど、やっぱりだめだったんだ。
 校庭からは、他のクラスの子たちが遊んでいる声が聞こえ始めた。
 ぼくは指先に力を込めて、ライジンガーのゆがみを直して、また頭を取り付けようとしていた。
「うわーっ!」
「大変だあ」
 いきなり、外から叫び声が聞こえた。
 急いで窓から外を見ると、うんていの下に誰かが倒れていて、みんなが取り囲んででる。
 青いTシャツにグレーのハーフパンツ。
(まさか?)
 ぼくはあわててライジンガーを放り出すと、教室を飛び出した。せっかくくっつきかけた頭が、また取れてしまったけど、そんなことにはかまってられない。ジュンやソウタたちも、すぐに後に続く。
 廊下を突っ走り、階段を途中から一気に跳び下りる。ずいぶんと増えた人がきをかき分けて前へ出てみると、うんていの下に倒れていたのは、やっぱりヨッちゃんだった。

「やっぱり、これはベホマの呪いだよ」
 昼休みに、ジュンがみんなを校庭の隅に集めていった。
 ヨッちゃんは、他の子とふざけていて、うんていの上から落ちたんだそうだ。けがはしなかったけれど、少し頭を打ったようなので、念のために養護の先生と病院へ行っている。
「そうかなあ」
 ぼくは、まだ信じられなかった。ヨッちゃんの悪ふざけはいつもの事だし、暴れん坊だからしょっちゅうけがもしている。
 ライジンガーの頭が取れたんだって、もちろん偶然だ。あれから、セロテープでギチギチに固めて取り付けてある。
「ほんとは、もっと恐ろしい話もあるんだ」
 わざとためらうような様子を見せてから、ジュンが声をひそめて話し出した。
「何、なーに」
 みんなが、興味津々って顔で、ジュンを取り囲んだ。
「実は、ベホマをなくしたら、一週間後の同じ時刻に、その人を本物のベホマがさらいに来るんだって」
「うそーっ!」
 みんながいっせいに叫んだ。
「ほんとだってよ。おにいちゃんが、昨日いってたんだぜ。初めにさらわれた人は、長崎ってところの、斉藤タカシって子なんだってよ。それから神戸とか大阪でも、ベホマにさらわれた子がいるんだって」
「うわー、恐ろしい!」
 ソウタが首をすくめた。他のみんなは、恐ろしいような面白いようなって感じで、ニヤニヤしている。
 でも、ぼくにとっては他人ごとじゃない。もしかすると、なくしたヨッちゃんと持ち主のぼく、その両方に「ベホマの呪い」がかけられているのかもしれない。
「馬鹿馬鹿しい。そんなのデマですよ。だってベホマなんて、アニメのキャラですよ。そんな、すぐにお話と現実を、ゴッチャにする人がいるんだから」
 いつもながらの田所くんのクールな意見が、そのときばかりはとても頼もしく思えた。

 ジュンちゃんの「ベホマの呪い」の話を裏付けるかのように、その後もぼくたち山川ゴウとヨシキ兄弟には、次々と不吉なことが起こった。
 ぼくは、絶対受かると思っていたスイミングの進級テストに、あっさりと落ちてしまった。
 しかも、その帰りに、ダブルパンチが襲いかかってきた。あの新しい自転車が、クギか何かを踏んだとも思えないのにパンクしていたのだ。
 ヨッちゃんは、一日休んだだけで学校へ行くことができた。
 でも、ずっと楽しみにしていた初めての給食を食べそこねた。しかも、その日は、カレーとイチゴゼリーという豪華メニューだったのだ。
 さらに、ぜったい当たるといいはっていた「小学一年生四月号」の懸賞にも、見事にはずれてしまった。これは「ドラゴンの逆襲」という新作ゲームだったから、かなりがっくりしていた。
 今まで、ヨッちゃんは抜群にくじ運が強かった。商店街の福引きや子供会のビンゴ大会などでも、毎回のように一等や二等を当てていたのだ。
 だから、今回の落選は相当ショックだったようだ。なにしろ、欠かさずにやってきた縄跳びの練習を、その日だけは休んだほどだった。
 これだけ二人にアンラッキーなことが続くと、だんだん「ベホマの呪い」が信じられてくる。
 いよいよ一週間の期限まで、あと一日。まだベホマのバトえんは出てこない。
(やっぱり「ベホマの呪い」は、ほんとなのだろうか?)

「ベホマが二人をさらいに来るのは、なくしたときと同じ時刻だろ。だから、その時、ゴウちゃんとヨッちゃんを、みんなで守ればいいわけじゃないか」
 一週間目の朝、教室でそういい出したのはジュンだった。
 「ベホマの呪い」について、ぼくたちに話しちゃったことに、よっぽど責任を感じているらしい。一緒に捜す時にも、一番熱心にやってくれていた。
「うん、そうだな。みんなで守ればきっとベホマもあきらめるよ」
 ソウタがすぐに賛成してくれた。
「まだ、そんなこといっているんですか。ベホマの呪いなんか都市伝説なんですよ」
 田所くんは相変わらずそういって馬鹿にしていたけれど、他のみんなは賛成してくれた。
 ヨッちゃんが、ケイの家でベホマを見せていたのは一時半ごろだから、なくしたのはそれから家へ戻ってきた二時までの間だ。その時間中、ずっとぼくとヨッちゃんをみんなで守ろうというのが、ジュンの作戦だった。
 学校があれば問題はないのだけれど、運悪くPTA総会のために、給食なしで十二時には帰らなければならない。おかあさんも総会に行くから、家には誰もいないだろう。
 けっきょくみんなが、一時までに家にやってきて、ぼくたちを守ってくれることになった。
 ジュン、ソウタ、コウジ、高橋くん、リョウヘイ、八木くん。ぜんぶで六人だ。

 ピンポーン。
 まだ十二時三十分だというのに、早くも誰かがやってきた。
 特大のダブルバーガーをほおばりながら一番乗りで現れたのは、やっぱりジュンだった。
「これこれ、これさえあればベホマも逃げるよ」
 そういって差し出したのは、黒光りするエアガンだった。たしか、おにいさんの奴だ。
「勝手に持ち出して、怒られない?」
 ぼくが心配していうと、ジュンは片目をつぶってニヤッと笑ってみせた。
 次にやってきたのは、ソウタだった。
 ローラーブレード用のヘルメットをかぶり、金属バットをしっかりと握りしめている。「ベホマの呪い」には一番ビビッているけれど、責任感はすごく強い。
 そして、一時ピッタリに、なんと来るはずじゃなかった田所くんまでがやってきた。
「まったくもう、ベホマの呪いなんて、デマですよ。でも、科学的に証明しなければなりませんからねえ」
 変な理屈をこねながら、照れくさそうに笑っていた。
 でも、あとの四人はなかなか来なかった。
「男同士の約束だったのになあ」
 ソウタが、残念そうに首をふっている。
「男同士の約束なんて、まったくあてにならないものですよ」
 田所くんだけは、いつものように落ち着いている。
「しかたないなあ。三人だけでも、守りに着こうか」
 とうとうジュンがそういったので、みんなと家の中に入った。

「ところで、ヨッちゃんはどこにいるんですか?」
 田所くんが、あたりをキョロキョロしながらいった。
「あれっ、食堂にいなかった?」
 さっきまで、おかあさんが作って置いてくれたサンドイッチを、しつこくいつまでも食べていたはずなのに。
いつのまにかいなくなっている。
 ジャジャーン、ジャンジャン……。
 いきなり、二階で大きな音楽が鳴り響いた。「ドラゴン伝説」の「ベホマのテーマ」だ。
「しまった、上だあ。ヨッちゃんがあぶない」
 ジュンを先頭に、階段に駆け寄った。
 階段の手すりからは、マントのような物がぶら下がっている。
(やっぱり、ベホマだ)
「くそーっ、もう現れたのかあ」
 ジュンがエアガンを片手に、一歩一歩階段を上がっていく。ソウタもバットを握りしめて続く。ぼくと田所くんもその後へ続いた。
「うわっ!」
 いきなり大声で叫びながら、階段の上に現れたのは、……。
 ヨッちゃんだった。
 首の所で結んでマントの様にしてるのは、よく見るとおかあさんのピアノのカバーだった。
「馬鹿やろう。こんな時までふざけやがって!」
 ぼくが飛びかかろうとするのを、田所くんが懸命に押さえている。
「こいつめ、こいつめ」
 さすがに他の二人も頭にきたようで、ソウタがうしろからはがいじめにすると、ジュンが「くすぐり殺し」の刑を始めた。
「うはっ、ごめん、ごめん。ははは……」
 ヨッちゃんは、ぷっくりしたおなかを丸出しにして笑いころげた。
 リリリーン。
 とつぜん、下で電話のベルが鳴り出した。
 ジュンと顔を見合わせながら、恐る恐る受話器を取ると、リョウヘイからだった。
「わりい。帰ったらメモがあってさ、妹たちの面倒見てろってさ」
 そういえば、リョウヘイには、五才、三才、一才と、三人も妹がいる。
「うーん。じゃあ、しょうがないよな」
 ぼくが電話を切ろうとすると、そばで耳をつけるようにして話しを聞いていたジュンが、受話器をひったくってどなった。
「おい、リョウヘイ。ゴウちゃんのピンチと、妹なんかの面倒と、どっちが大事なんだよ」
 ジュンがリョウヘイをなんとか説得しようとしている時、ようやく高橋くんとコウジと八木くんが一緒になって現れた。
「ベホマが来るまで、暇だろー」
 そういって八木くんが差し出したのは、「バトえん」だった。他の二人も、自分のを持ってきている。
「おまえらなあ。いったい何考えてるんだよ」
 ジュンが、あきれたような声を出していた。
 最後にリョウヘイが来て、ようやく全員がそろった。一番下のユイちゃんをおぶり、真ん中のミナちゃんの手を引いている。
「あっ、マリナちゃんだ」
 ヨッちゃんが嬉しそうな声を出した。
 一番上の妹のマリナちゃんは、ヨッちゃんのガールフレンドの一人だ。さっそく、手をつないで子供部屋へ連れていって、ブロックで遊ぼうとしている。
「あたしもやるう」
 ミナちゃんも駆け寄っていく。
 これじゃあ、ベホマに備える要塞というよりは、まるで幼稚園か保育園にでもなったようだ。

「よーし、まず雨戸を閉めよう。時間がないから急ごうぜ」
 ジュンの指図に従って、子供部屋と居間の雨戸を閉め始めた。少しでも、ベホマの侵入を防ごうというんだ。
「マリナ。邪魔だから、ミナとユイを連れて、小栗公園で待ってろよ」
 リョウヘイがそういうと、
「待って、ぼくも行く」
 ヨッちゃんが、先に立って外へ行こうとしてる。
「おいおい、待てよ。何、考えてるんだよ。ヨッちゃんまで外へ行って、どうすんだよ」
 ジュンがあきれたようにいった。
「あはっ、そうだった」
 ヨッちゃんは、ペロリと舌を出した。
「二階はどうする?」
 ソウタがジュンにたずねた。
「うーん、ベホマは空も飛べるからなあ。やっぱり閉めてきてくれ」
 ぼくとソウタが二階へ駆け上がろうとした時、
 ピンポーン。
 いきなり玄関のチャイムが鳴った。
 居間の置き時計を見ると、いつのまにか一時三十分を過ぎている。
(ベホマだ!)
 みんながギクッとして、動きを止めた。
 ピンポーン。
 もう一度チャイムが鳴る。
 ジュンが、忍び足で食堂の出窓へ近寄っていく。そこからは、門のインターフォンの所をのぞくことができる。
(たっ・きゅ・う・び・ん)
 ジュンが口の形だけでいった。
「なーんだ」
 ぼくが玄関を出ていこうとすると、ジュンが首をブンブン振って止めた。
「ベホマが、変装してるのかもしれない」
 ジュンは、声をひそめて耳元でそうささやいた。
(えーっ!)
 急にドアの外に、恐ろしい者が立っているように思えてくる。
 みんなも、凍りついたようにシーンとしている。
 ピンポーン、ピンポーン、……。
 チャイムは催促するかのように鳴り続けていたけれど、誰もドアは開けなかった。
 とうとうあきらめたのか、車の発車する音が外から聞こえてきた。

 全部の雨戸を閉め切って、ぼくたちはもう一度居間に集まった。
 電灯のスイッチを入れたのに、なんだかいつも夜つけたときよりも暗いような気がする。思わず電灯を見上げたけれど、やっぱりきちんとついている。
 みんなも黙りこくっていた。こうしていると、なんだか不安が背中から這い上がってくるようで、ぞくぞくしてくる。知らず知らずのうちに、みんなは居間の真ん中に固まってきてしまった。
「よーし、ゴウちゃんたちの部屋へたてこもろう」
 ジュンが勇気を振り絞るようにして、みんなにいった。
 みんなはわれ先にと、急いでとなりの部屋へうつった。
 全員が中に入ると、ジュンが居間との間のふすまをピシッと閉めた。
 ぼくやヨッちゃんの椅子に座る者、ベッドに腰かける者。四畳半の狭い部屋に、九人がギチギチ詰めになった。
「みんな、丸くなれえ」
 ジュンの命令に従って、みんながぼくとヨッちゃんを取り囲んだ。腕をしっかり組み合って、どこからベホマが襲ってきても大丈夫なように、外側を向いて円陣を作っている。ぼくとヨッちゃんは、その中にしゃがみこんで、しっかりと手をつなぎあった。
「にいちゃん、きっと大丈夫だよ」
 緊張しているぼくに、ヨッちゃんの方から声をかけてきた。
 時間がゆっくりと過ぎていく。ぼくは、目の前にあるジュンのムチッとしたふくらはぎを見つめていた。時々変なことをいうけれど、いざという時には頼りになる。他のみんなもそうだ。油断せずに、まわりをしっかり見張ってくれている。
 こうしてみんなと体をくっつけ合っていると、だんだんぼくには、たとえベホマが襲ってきても、大丈夫なような気がしてきていた。

「たすかったあ」
 とうとうジュンが、大声で叫んだ。時計を見ると、いつのまにか二時を十分も過ぎている。
「ほらね。やっぱりデマだったんだよ」
 田所くんが、得意そうにいった。
「違うよ。みんなで守ってたから、襲ってこなかったんだよ」
 じゅんが、むきになっていい返した。
 狭い部屋の中で、みんなが急に動き出したので、あちこちで互いにぶつかりあってしまった。
「うわーっ」
 ソウタがコウジに押されてよろけたはずみに、うしろのふすまに激しくぶつかった。
 ガターン。
 大きな音がしてふすまがはずれ、向こう側へ倒れてしまった。
 と、その時、机のうしろに、金色に光るものが……。
「あったあ!」
 ぼくとヨッちゃんが、同時に叫んでいた。
 なんとベホマが、ふすまとヨッちゃんの机の間に、落っこちていたのだ。
「ふーっ、良かったあ」
 ぼくは急いで拾い上げると、しっかりとベホマを握りしめた。
「ほらね。やっぱり家へちゃーんと持ってきてたんだ。あっ、そうか、あの時、敷居につまずいて、『バトえん』をばらまいちゃったんだ」
 今ごろになって、ヨッちゃんはそんなことをいってる。
 でも、ぼくはもう怒る気にもなれなかった。
「ほんとに、みんなありがと、ありがと」
 みんなも、ようやく肩の荷が下りたのか、ホッとした顔をしていた。

 ぼくの机の上に置いたベホマを、みんなが取り囲んでいる。ようやく雨戸を開けはなった窓からは、明るい午後の光がいっぱいに差し込んでいた。
「ちょっと、さわらせてくれよ」
 ジュンはベホマを手に取ると、じっくりと眺め始めた。ゴールドメッキとグリーンのペイントが、光を受けてキラキラと輝いている。
「俺も………。やっぱりやめとく」
 差し出した手を、ソウタが恐ろしそうに引っ込めた。
「大丈夫だよ。もう呪いは解けたんだから」
 ジュンがそういって、ベホマを手渡した。
「きれいだなあ」
 ソウタは、うっとりとした声を出した。
「おれにも……」
「ちょっと、持たせて」
 みんなも、次々にベホマを手に取った。
「ふーん、これがベホマですか」
 最後に田所くんが、じっくりとすべての面を眺めてから、元の場所へ戻した。
「ちょっと、振ってみていい?」
 ぼくがうなずくと、ジュンは勢いよくベホマをころがした。
 コッ、ロ、ロ、ロ、ロ、……。
 最後に、ベホマはカタッと止まった。
 ヒャダルク、全員に百のダメージ。対戦相手全員を、一発でアウトにしてしまうあの伝説の必殺技だ。
「ウヒャヒャー」
 ジュンが、すっとんきょうな叫び声をあげた。みんなもため息をついている。
「やっぱりすげえなあ。これじゃ、呪いの力を持ってても、不思議はないよなあ」
 ジュンはそういいながら、ベホマをぼくに差し出した。
「でも、ベホマは、けっきょく現れなかったじゃない」
 ぼくはそういってベホマを手に取ると、しっかりと握りしめた。
「そうだよ。『バトえん』でのベホマはすごいけど、やっぱり鉛筆に呪いの力なんかないよ」
 ソウタが、自分にいいきかせるようにいった。
「そりゃ、そうだよな」
「ベホマなんて、アニメのキャラだもんな」
 みんなも口々にいいだした。
 と、その時、田所くんが口をはさんだ。
「でも、よく考えてみると、ベホマは最初からこの部屋にあって、なくなっていなかったんじゃないですか。これじゃ、『ベホマの呪い』が本当かどうかは、まだわかりませんねえ」
 田所くんの言葉に、今まで威勢の良かったみんなは、いっぺんにシュンとなってしまった。
(たしかにそうだ。ベホマは、ほんとになくなってたんじゃない。すると、もしかして、ほんとにベホマをなくしたら……)
 ギュッとベホマを握っていたぼくの手のひらは、いつのまにかじっとりと汗をかいていた。
 と、その時、手の中のベホマの目が、一瞬ギラリと光ったように見えた。



ベホマののろい
平野 厚
メーカー情報なし
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キャプテン佐藤とスーパーキッズ

2020-03-10 08:55:42 | 作品
 隆志の家族にとって、世界の中心は真子ねえさん(マコネー)だ。
 マコネーを真っ青な空に輝く太陽としたら、隆志なんか、夜空の月。いや、ダンボールで拵えたただのペーパームーンかもしれない。
 小さい頃から、可愛くて、しかも賢いマコネーは、とうさんやかあさんの自慢の種だった。
 七五三の時だけでなく、毎年、写真スタジオで撮ったマコネーの写真のパネルが、居間の周りをグルリと取り囲んでいる。アイドルのような派手な衣装を着ても、不思議なくらい似合ってしまう。いや、本物のアイドルなんかより、よっぽど可愛かったかもしれない。
(何かのグッズにプリントして売り出したら、爆発的に売れたりして)
 七年後に、ヒョッコリと隆志が生まれてからも、マコネーの王座は微塵も揺らがなかった。ちょうど小学校に上がったばかりのマコネーは、今度はクラスや学校中の人気者になっていた。
 禿げちゃびんで泣いてばかりの赤ん坊なんて、両親にとっては単なるオマケの様な物だったかもしれない。隆志にとって唯一の赤ちゃんの時の写真パネル(隆志が生まれた産婦人科医院では、院長先生がそこで出産した赤ちゃんは全員、記念に写真を撮って小さなパネルにしてくれていた)は、食器棚の上でホコリを被っている。
 家ばかりではない。卒業してもう六年以上もたつのに、マコネーは若葉小学校では、今だに「生ける伝説」として語り継がれている。
 児童会長にして、文化祭の劇では作者兼演出家兼ヒロイン。運動会では、応援団長兼騎馬戦の大将兼対抗リレーのアンカーを務めて、赤組を勝利に導いた。ミニバスケットチームでは、市大会の得点王でチームを優勝させてMVPに選ばれた。その他、数え切れないほどの栄光に包まれたマコネーの小学校時代。さらに、若葉小学校では誰も受かった事のない最難関私立中に、塾にも通わずにあっさり合格してしまったのだ。
(なんで、隆志がマコネーの小学校時代について、こんなに詳しいかって?) 
 だって運の悪い事に、マコネーの六年の時の担任だったのが、今の校長先生なのだ。

 今日もこんな事があった。
 隆志は、啓太やジュンくんと一緒に、いつもの様に廊下をドタドタと走り回っていた。
 ガラガラガラッ。
 いきなり校長室の戸が開いた。禿げ頭の校長先生(もちろんあだなはピカチューだ)が、顔を覗かせた。
「うるさいなあ。廊下を走っちゃだめだろ。ちょっとこっちに来なさい」
 気が付くと、啓太もジュンくんも、もう姿が見えない。ほんとにすばしっこい奴らだ。
 しょうがないので、隆志は一人でピカチューのもとにスゴスゴと歩いていった。
「また、石川くんか」
 ピカチューは、呆れたような顔をしていた。
「すみません」
と、隆志が頭を下げると、
「本当に君は落ち着きがないねえ。それに引き替え、君のおねえさんは、……」
 また始まった。今日だけじゃない。隆志の顔を見るたびに、
(いかに石川くんのおねえさんが素晴らしかった)
かを、長々と話し出すのだ。
 こうして隆志は、たっぷりとさっきいったような伝説的な思い出話を、聞かされてしまう事になる。しかも、そんな時、ピカチューは、遠くを見つめるようなうっとりした表情まで浮かべているのだからたまらない。

 2月のある晩、隆志は居間のテレビの前で「ウルトラスーパープロ野球」をやっていた。お年玉で買った新しいゲームソフトだ。
「タカちゃん、見つけてあげたよ」
 大学から帰ってきたマコネーが、居間に入ってくるなり隆志に向かって言った。
「お帰り、ところで何を見つけたの?」
「何って、あなたたちの監督じゃない」
「監督?」
「ヤングリーブスのよ」
 ヤングリーブスっていうのは、隆志が入っている少年野球チームだ。
「どうして?」
「だって、捜していたじゃない?」
 マコネーは、さっさと二階の自分の部屋へ行こうとしている。
「誰?」
 隆志は跳ね起きると、階段の下まで付いていった。
「佐藤くんよ」
「佐藤くんって?」
 でも、マコネーはトントンと階段を登っていくと、そのまま部屋に入ってしまった。さすがの隆志も部屋の中までは付いていけない。なにしろマコネーは、自分の部屋に入るなり、ほとんど全裸同然の格好になるからだ。

 大学に入るまでマコネーが熱中していたのは、なんと「受験勉強」だった。さすがのマコネーも、今回は塾に通わないで受験するのは無理な様だった。高校生になってからというもの、放課後には毎日熱心に予備校に通っていた。
 でも、これはいわゆる「ガリ勉」といった様な、悲壮感の漂ったものではなかった。純粋に「受験勉強」に興味をそそられた様なのだ。そして、ここでも持ち前の集中力を発揮して、成績をグングン伸ばしてしまった。なにしろ、どこの大学でも合格間違いなしという、全国模擬試験で百番以内の常連になってしまったのだ。もちろん予備校でも大人気で、「模試の女王」というニックネームまでゲットしていた。そして、あっさりと現役で、一番偏差値が高いと言われている大学に合格してしまった。
 大学に入ると、マコネーは一転して今度は「恋愛ごっこ」に熱中し始めた。当然すごくもてるから、すぐにいっぱいボーイフレンドができた。そして、家に連れてくる相手は、毎月クルクルと変わっていた。
ジャニーズ系のイケメン。ポルシェを乗り回している金持ちのボンボン。医者や弁護士志望の優等生。……。様々なタイプの男の人たちがいた。
 でも、どの人もすぐに飽きてしまうみたいだ。気に入らなくなると、マコネーはあっさりとみんなふってしまった。
 佐藤くんも、そんな新しいボーイフレンドなんだろう。
(今度は、どんな人なんだろう?)
 いささかうんざりした気分だった。

「だって、タカちゃん。あんたの所、監督のなり手がいないんでしょ」
 マコネーは、服を着替えて部屋を出てくると、隆志に言った。
「うん、まあね」
 隆志たちのチーム、ヤングリーブスが新しい監督を必要としているのは本当だ。そればかりか、チーム自体がつぶれかかっていたのだ。
 先月、それまで20年以上もチームを率いていた監督が辞めてしまった。監督がいなくなっただけではない。打撃コーチも、ピッチングコーチも、スコアラーも、チームを支えてくれていた人たちは、みんないっせいに辞めてしまったのだ。それらの人たちは、監督が頼んだりかつての教え子だったりで、監督を慕って手伝ってくれていた人たちばかりだった。
 残った大人たちは、チームメンバーのおとうさんやおかあさんたちだけだ。その中には、野球をよく知っている人は、まったくいなかった。
 そのためもあって、次のチームの監督がなかなか決まらなかった。監督だけでなく、打撃コーチも、ピッチングコーチも決まっていないから、だれもメンバーに野球を教えてくれなかった。
 いなくなったのは大人たちばかりではない。肝心のチームの子どもたちも、監督たちが辞めてからずいぶん減ってしまった。みんな、指導者のいないチームに見切りをつけて、次々と辞めてしまったのだ。
 今では、五年生は隆志を入れてたった三人しかいない。四年生も五人しかいなかったから、試合をするのには三年生までメンバーに入れなければならない。その下級生たちも減って、三年生が四人、二年生が二人、一番年下の一年生も二人しかいない。チームは、ぜんぶで十六人しかいなくなってしまった。これでは、紅白戦もできやしない。
(なんで、こんな事になったかって?)
 実は元々の事件の発端は、隆志に原因があったのだ。

 去年の十一月、隆志たちのチームは、ライオンズカップというシーズン最後の大会に参加していた。チームの調子は最高で、順調に勝ち進んで決勝戦を迎えていた。
 今さら言っても仕方がないけれど、今年のチームは結成以来最強といわれていた。10月に新チームになってから、郡の新人戦でも優勝していたし、ライオンズカップでも優勝候補の筆頭だった。
 最終回の表に勝ち越し点をあげて、一点のリード。その裏の相手の攻撃も、四球でランナーが一人出たものの簡単にツーアウトを取っていた。あと一人で二大会連続の優勝だ。
 次のバッターの当たりはライトフライ。いい当たりだったものの、ライトを守る隆志の正面だった。
 なんなくキャッチと思った瞬間、河川敷のグランドの向こうに傾きかけていた太陽が目に入ってしまった。
(あっ!)
 あわててグラブで光を遮ったけれど、間に合わなかった。打球は見失った隆志のグラブをかすめて、頭の上を越していってしまった。いわゆる「バンザイ」って奴だ。
あわてて追っかけたけれど、球はそのままどこまでもころがっていく。
 土手の手前でようやく追いついて振り返った。
 でも、ランナーはとっくにサードを回っていて、もうスピードをゆるめている。ランニングツーランホームランで、逆転サヨナラ負けをしてしまったのだ。
 相手ベンチでは、総出でバッターを迎え入れて大騒ぎだ。ハイタッチしたり、バッターのヘルメットを殴り付けたりして喜んでいた。

「ありがとうございましたあ」
試合後の挨拶をして、ベンチに戻ってきた時だった。
 バシーン。
 ピッチャーの康平が、グローブをベンチに叩き付けた。
「ヘボ野郎」
 そうつぶやくと、隆志を睨みつけた。何を言われても仕方がないので、隆志は黙っていた。周りのメンバーは、二人を遠巻きにして黙っている。
「おい、康平」
(いけねえ。監督に聞こえてしまった)
 バチーン。
 あっという間に、監督は康平をビンタしていた。康平は、ホッペタを押さえたまま立ちすくんでいる。まわりのみんなも、凍り付いた様にその場を取り囲んでいた。
「試合にミスはつきものなんだ。終わってしまったものを、グズグズ言うんじゃない」
 監督は真っ赤になって怒鳴っていたけれど、康平はプイとふてくされた様な顔をしていた。
(まずいなあ)
 その時、隆志はそう思った。試合に負けただけでなく、チームの雰囲気まで最悪になってしまった。

 ビンタ事件をきっかけに、監督と一部の親たちが対立してしまった。
(体罰をするような暴力監督は辞めろ)
と、いう訳だ。ちょうど、全国的に部活やスポーツクラブでの体罰が問題になっているときだった。
騒いでいたのは、ビンタされたエースの康平、キャプテンの淳一などの親たちが中心だ。隆志の親なんかは、監督が辞めることには反対だった。今まで、ずっとチームを指導してくれていたのに、たった一度のビンタで辞めさせろというのは、いきすぎだというのだ。
 何度も大人たちで話し合いが持たれた様だったけれど、なかなからちがあかなかった。
「辞めろ」
「辞めるな」
で、チームを二分して揉め続けた。
 次第に、話は監督の選手起用法にも飛び火した。監督は練習では厳しかったが、試合での選手起用は温情的で、下手でも上級生や普段の練習に真面目に出ている子たちを優先して出場させていた。実は隆志もその温情のおかげでレギュラーになっていたのかもしれない。反対派の親たちは、学年などに関係なく実力主義でレギュラーを選ぶべきだと主張した。そうすれば、この間のエラー(隆志のだ)なんかで、負ける事はなくなると言うのだ。
メンバーたちも、オチオチ練習をやっていられるような雰囲気ではなかった。とりあえず、監督は練習に参加する事を自粛していたので、チームにはいつもの緊張感がなかった。
 すったもんだしたあげく、結局監督は先月辞任する事になった。そして、それと同時に監督が頼んでいたコーチたちも、みんな辞めてしまった。
それからさっきも言った様に、次の監督がなかなか決まらなかったのだ。
 そうこうしているうちに、今度は康平や淳一たち中心選手が、硬式野球のボーイズリーグのチームへ移っていってしまった。騒ぎの当事者だった癖に、さっさとチームを見限ったって訳だ。監督を辞めさせた彼らの親たちは、どんなつもりだったのだろうか。
残された隆志たち、普通のメンバーにとっては、
(なんのこっちゃ)
って、感じだった。
自分たちで騒ぐだけ騒いでおいて、チームが苦しくなったらあっさり辞めてしまう。まったく身勝手な奴らだ。
(ひどいなあ)
って、隆志も思っていた。
 そうは言っても、とりあえず野球の練習は続けなければならないので、親たちが交替でチームの指導をしていた。
 でも、みんなあまり野球を知らないので、チームはぜんぜん盛り上がらなかった。今まで、いかに監督やコーチたちに頼り切っていたかがよく分かる。
その後も、時々は練習試合はやっていたのだが、いつも大差を付けられてボロ負けだった。チームの戦力も士気もガタ落ちだったから、それも無理はなかったが。
そして、だんだんに他の人たちも辞めてしまい、本格的な野球シーズンを前にして、このままではチームは潰れてしまいそうだった。

「こんにちわー」
 マコネーが、チームのメンバーににこやかに挨拶した。
「こ、こんちわ」
 みんなは、気の抜けたような返事をしていた。一応、全員が顔を揃えているけれど、もう十六人しかいない。
「それでは、ヤングリーブスの新しい監督を紹介します。佐藤俊一さんです」
 マコネーは、そんなことには少しも構わずにニコニコしている。
「こんちは」
 隣にいた男の人が一歩前に進み出て、挨拶した。
 マコネーのボーイフレンドだから、
(どんなカッコいい人かが来るのだろう)
と、思っていた。
 ところが、その人は、髪の毛がボサボサのさえない感じの人だった。
「みんな、野球が好きかな?」
 佐藤さんは、こちらもニコニコしながらみんなに尋ねた。
 その時、ぼくは、佐藤さんが笑顔になると、なんとも言えずいい感じになるのに気が付いた。イケメンじゃないけれど、(いい人)って、感じがするんだ。もしかすると、マコネーも、そこの所が気に入っていたのかもしれない。
「ふぁーい」
 みんなからは、なんだかさえない返事だった。ここの所のゴタゴタで、みんなは野球もチームもかなり嫌になっている所だったのだ。
「そうか、そうか」
 それでも、佐藤さんはまだ一人でニコニコしていた。

 あの後、マコネーは、まず隆志の両親に、佐藤さんを新しい監督に推薦した。
 マコネーの言う事ならなんでも信用する両親は、もちろん大賛成だ。そして、チームの連絡網を使って、他の親たちに電話で連絡した。
 この降ってわいたような話に、ヤングリーブスの選手の親たちは、一も二も無く飛びついた。正直言って、野球をよく知らない親たちは、ヤングリーブスの練習の面倒を見るのを、完全に持て余していたのだ。古い言葉でいえば、まさに「渡りに船」っていうやつだ。
 それに、もしかすると、佐藤さんがマコネーと同じ偏差値の一番高いと言われる大学の学生だというのも、賛成の理由だったかもしれない。大人たちにとって、あの大学の名前は、魔法の呪文みたいに凄い威力があるらしいのだ。
 全員の賛成を取り付けた隆志の両親は、改めてマコネーに佐藤さんへ正式に監督を依頼するように頼んだ。
 佐藤さんも、すぐにOKしてくれたらしい。
 そして、今日が佐藤さんとチームの初顔合わせと言うわけだった。
 佐藤さんが来るというので、校庭の隅には大人たちが大勢集まっている。おかあさんたちはほとんど全員が来ているし、おとうさんたちも結構来ていた。
(佐藤さんって、どんな人なんだろう)
と、みんな興味津々なのだ。
ペチャクチャと、そんな事をおしゃべりしているおかあさんたちの話し声が、隆志たちにも聞こえてきた。

「それじゃあ、まずウォーミングアップをやろう。キャプテンは誰?」
「……」
 佐藤さんが聞いても誰も答えない。淳一が辞めてからは、ちゃんとしたキャプテンは決めていなかった。ただ試合の時なんかにキャプテンがいないと困るので、一応隆志がキャプテン役を代わりに務めていた。
「あれ、キャプテンはお休み?」
「えーと、キャプテンが辞めちゃったので、一応代理という事で、……」
 隆志がおずおずと手を上げると、
「OK。じゃあ、ランニングから始めて」
「分かりました」
 隆志は、みんなを学年順に二列に並べると、
「行くぞっ」
 声をかけて走り出した。
「ヤンリー、ファイトッ」
「フ、ファイト」
「ファイトッ」
「フ、ファイト」
 気合の入らない声を出しながら、みんなはヨロヨロと走り出した。それでも、佐藤さんは相変わらずニコニコしながらみんなを見送っていた。

「みんな、野球じゃ、何が好きかな?」
 ウォーミングアップのランニングと体操とキャッチボールが終わると、佐藤さんはまたみんなを集めてたずねた。
「バッティング!」
「バッティング!」
 みんなが、餌をついばもうとするヒナがピーチクパーチクする様に、口々に叫んだ。
「よーし、それじゃあ、今日はバッティングだけをやろう。みんな思い切り打っていいぞ」
「わーい」
 みんな大喜びだ。面白くない守備の練習なんかより、バッティングの方が断然楽しい。
「じゃあ、打順通りに打っていこう」
 打順って言っても、最近はレギュラーがごっそり抜けたから特に決まっていない。みんなが困ってモジモジしていると、
「それなら、背番号順にしようか」
「えーっと」
 それでも結構困る。一桁の番号を付けていたレギュラーが、ごっそり抜けていたからだ。
「あっ、ぼくが最初だ」
 なんという事はない。残っている一番小さな番号は9番。つまり隆志だった。
「じゃあ、他の人は守備位置について」
 そこでも、レギュラーがみんないなくなっていたから混乱したけれど、やっとみんなが守備位置についた。
 佐藤さんはピッチャーマウンドに歩いていくと、控えピッチャー(いや、今はエースだけど)の耕太に言った。
「俺が投げるから、どこかの守備について」
 耕太はボールを佐藤さんに渡すと、外野の方へ走って行った。
「お願いしまーす」
 隆志は帽子を脱いでペコリと頭を下げると、バッターボックスに入った。
「次の背番号の子は、素振りをしていて」
 佐藤さんが振り返ってそう言うと、背番号11番の健介がこちらに走ってきた。

佐藤さんが新監督になって、はじめての練習が終わった。
みんなは、満足して家路についていた。もうゲップがくるくらいたっぷり、バッティングをやらしてもらったからだ。
 佐藤さんが投げてくれたフリーバッティングは最高だった。びっくりするくらいコントロールが良かったのだ。二、三球でそれぞれのバッターの得意なコースを探り当てると、後はそこに続けて投げてくれる。だから、みんな急にうまくなった様に、快音を響かせていた。
 佐藤さんは投げるだけでなく、守備にも目を光らせていて、誰かがエラーすると練習を中断して、丁寧に捕り方を教えてくれた。
「いいかあ、腰を落としてグラブの先を地面すれすれにするんだ。そのままグラブを上下させないで、すり足で左右に移動してキャッチするんだぞ」
 佐藤さんはエラーした子の後ろに回って、実際に取るポーズをさせながら丁寧に教えていた。
だから、この練習は、バッティングだけでなく守備の練習にもなっていたのだ。
 シートバッティングが全員終わると、それからは、三箇所に分かれての、トスバッティング。今度は、まわりで見ていたおとうさんたちの出番だった。みんなが交代で、たっぷりとトスボールを上げてくれた。
 佐藤さんは、ここでもあちこちに回って、バッティングや守備の指導をしていた。
 みんなが嫌いな守備専用の練習は、最後にみんなを自分の守備位置につかせてのシートノックをちょっぴりやっただけだった。

「ねえ、佐藤さんって、いったい何者?」
 隆志は、帰り道でマコネーに聞いてみた。
「そうねえ。私も、最近付き合い始めたんで、よく知らないんだけど。どこか東北の方の県の出身じゃなかったかしら」
 マコネーは、少し首を傾げながら答えた。佐藤さんは練習が終わると、アルバイトがあるとかで急いで帰っていた。
「野球がすごくうまいね」
 隆志がほめると、
「そうね。高校の時に野球部のキャプテンだったって、言ってたな」
 マコネーも、自分の事のように嬉しそうに話している。
「ふーん。甲子園に出ていたりして」
「残念だけど、甲子園には出られなかったみたい。でも、進学校の弱小チームを、キャプテンとして県大会の決勝にまで導いたのよ」
「そんなに野球をやったのに、マコネーと同じ大学なの?」
「そう。野球部を引退してから猛勉強したみたいよ。うちの大学に、現役で受かっているぐらいだから」
 マコネーは、特に自慢そうでもなく、あっさりと言っていた。きっと自分も現役で合格しているから、たいしたことだと思っていないのだろう。

 ヤングリーブスのメンバー全員は、たった一度の練習で佐藤さんの魅力にまいってしまった。佐藤さんは、一度に十六人もの崇拝者を獲得した事になる。
 佐藤さんを気に入ったのは、子どもたちだけではなかった。メンバーの親たちも同様だった。野球を教えるのがうまいだけでなく、あの偏差値が一番高いといわれる大学に一発で合格してしまった勉強での実績も、魅力だったに違いない。
「ねえ、野球だけでなく勉強も教えてもらえないかしら」
 啓太のおかあさんから、隆志のおかあさんに電話がかかってきた。啓太のおかあさんだけではない。他の親たちからも同じ様な依頼が殺到した。
結局、みんなで相談して、佐藤さんに野球だけでなく勉強も見てもらうように、マコネーから頼んでもらう事になったのだ。
 もちろん、こっちの方は無料という訳にはいかない。なにしろ家庭教師は佐藤さんのもともとのバイトなのだ。
けっきょく、チームの会費とは別に、一人月五千円ずつ佐藤さんにアルバイト料を出す事になった。これでも、学習塾なんかに行くよりはずっと安い。
 十六人分で合計月八万円になるから、貧乏学生でアルバイトに追われている佐藤さんにとっては、結構な収入だった。
 さっそくマコネーは、佐藤さんにみんなの希望を伝えた。他ならぬマコネーの頼みとあっては、佐藤さんも断るわけにはいかなかったろう。佐藤さんは今までやっていたアルバイトはすべて辞めて、子どもたちの勉強も引き受けてくれる事になった。

 佐藤さんとメンバーの親たちとの話し合いで、スケジュールが決められた。
 平日は四時から六時までが野球で、六時から七時までが勉強、週末は一時から六時までが野球で、六時から七時までが勉強という事になった。
(えっ、勉強の時間が少ないんじゃないかって)
 今言ったのは、晴れの日のスケジュールだ。雨の日は勉強の時間はもっと多くなる。もちろん遊びの時間もあるけれど。
 佐藤さんはこのスケジュールの事を、古い言葉の「晴耕雨読」をもじって、「晴球雨勉」とよんでいた。晴れた日は野球で雨の日は勉強という意味だ。
佐藤さんが来るのは、もちろん毎日というわけにはいかない。佐藤さんが授業や他の用事があって来られない時は、親たちが交代で面倒を見る自習や自主練習という事になる。
それでも、佐藤さんは途中からでもなるべく来ると約束してくれた。なにしろ下宿からこちらまでの回数券を買ったほどなのだ。
子どもたちも、全員が毎日参加するわけではない。みんなこれを機会に学習塾は辞めたものの、スイミングやピアノなどの習い事に行っている子たちもけっこういたからだ。
親たちは、野球のためには小学校の校庭や地域のグラウンドを確保した。勉強の方は自治会館や公民館でやる事になった。

佐藤さんは、勉強を教えるのも抜群にうまかった。やり方も独特で、塾のようにいっせいの授業をやるのではなく、みんなにそれぞれが持ってきた問題集をやらせるのだ。
それも、子どもたちがやるのは、算数でも、社会でも、国語でも、理科でもなんでもいい。佐藤さんは、それを一年生から六年生まで、いっぺんに教えてくれるのだ。
みんなは1ページ終わるごとに、佐藤さんの所へ問題集を持っていく。そうすると、佐藤さんは解答集も見ずに、あっという間に丸付けをしてくれた。そして、間違えた所を丁寧に説明してくれる。
(すげえ!)
と、隆志は思った。
佐藤さんはまるで魔法使いみたいだった。佐藤さんには、小学生の問題なんて一瞬で答えが分かっちゃうみたいなのだ。
 この野球&勉強塾(?)は、たちまち学校で評判になった。入会者が殺到して、すぐにメンバーは三十人以上にもなった。今ではヤングリーブスの人数が減り始める前より多いくらいだ。
中には、一度チームを辞めたのに、ちゃっかり戻ってきたメンバーもかなりいた。
 でも、佐藤さんは、そういう子たちも分け隔てなく、チームに加えていった。こうして、佐藤さんの収入も、メンバーが増えるにつれて十五万円以上にもなっている。
でも、佐藤さんがチームを引き受けたのは、お金のためだけではない。他ならぬマコネーに頼まれたからだろう。

佐藤さんは、練習や授業に来た時には、夕食を隆志の家で食べていく様になった。佐藤さんは地方出身者だったので、都内のアパートに住んでいる。もっとも、みんなとしゃべる時は標準語でしゃべっているので、地方出身者だとは分からなかったけれど。よく注意して聞いてみると、かすかに東北地方のなまりがあるようだった。
アパートでは一人で自炊しているので、佐藤さんには我が家での夕食は魅力的だったようだ。一方、隆志のかあさんは、毎日はりきってご馳走をこしらえている。マコネーも、もう夜遊びはせずに夕食に顔を見せるようになった。
 もしかすると、佐藤さんにとっては、夕食よりもマコネーに会えるのが魅力だったのかもしれなかった。平日は、隆志とマコネーとかあさんと佐藤さんの四人で、夕食を食べる事が多くなった。隆志のとうさんは、会社からの帰りが遅くて参加できなかったのを残念がっていた。どうやら、今までのマコネーのボーイフレンドたちに比べて、古い言葉でいえば朴訥とした雰囲気のある佐藤さんのことを気に入っているようだ。
話題はチームの事が多く、みんな最近メキメキうまくなっているとほめてくれるので、隆志はすっかりいい気分だった。幸いな事に、勉強の方の話は出ないので、あまり一所懸命やっていない隆志としては大助かりだった。
 土日には、夕食に隆志のとうさんも加わった。
佐藤さんはまだ未成年なのに、
「まあまあいいから」
などと言って、ビールを勧めていた。佐藤さんはあまりお酒が強くないらしく、コップ一杯のビールで真っ赤になっていた。とうさんがもう一杯注ごうとすると、佐藤さんは、
「もうけっこうです」
と、コップの上を手で覆った。
「私も」
 マコネーが、自分のコップをとうさんに差し出した。
「なんだ、お前、酒なんか飲むのか?」
「もちろん。だって、大学って新歓コンパなんかで、一年生だって飲むのよ」
「しょうがねえなあ」
 とうさんが、渋々ビールを注ぐと、マコネーがグビグビと一気に飲み干した。
「プハーッ、うめえ。お代わり」
 マコネーがまたとうさんにコップを出すと、
「何よ、お行儀の悪い」
と、かあさんが顔をしかめていた。
   
 ある日、佐藤さんが、グループの名前をみんなに決めさせる事になった。もうすでに、佐藤さんのもとに集まっているグループは、単なる野球チームというよりは、勉強や遊びも含めた少年団の様になっていたかもしれない。それには、手垢のついた「ヤングリーブス」という名前は似合わない。
「じゃあ、みんな、どんどんアイデアを出して」
 佐藤さんは、まわりにみんなを座らせて言った。
 みんなは、次々といろいろな名前を提案した。
「ドラゴンモンスターがいいな」
そう言ったのは、五年生の麻生ちゃんだ。
「それなら、スペシャルファンタジーの方がいいよ」
四年の誠が言い返した。なんだか、どちらもゲームの名前のようだ。
「若葉ビクトリーズはどう?」
三年の章吾が言った。
「城山ジャイアンツ」
 四年の純もいった。ようやく、野球チームらしいものが出てきた。
でも、それでは、今のグループの名前には相応しくない。
 その時、隆志の頭の中にひらめくものがあった。
「スーパーキッズってのは、どう?」
「いいね、それ」
「なんかかっこいい」
 すぐにみんなの賛同が得られた。
「でも、ちょっと短くないかなあ」
「うん」
「なんとかとスーパーキッズっていうのは?」
「それ、いただき」
「佐藤さんとスーパーキッズは?」
「なんか、かっこ悪いよ」
「じゃあ、キャプテン佐藤とスーパーキッズでどう?」
「うん、いい。いい」
最終的に、その「キャプテン佐藤とスーパーキッズ」に決まった。
ただ、これでは少年野球チームの登録名としてはおかしいので、そのときはたんに「スーパーキッズ」とする事にした。

 キャプテン佐藤は、小学生の男の子たちを夢中にするあらゆる魅力を持っていた。
 まず、なんといっても野球がうまい。今までのチームでは、バッティングとピッチングは違うコーチがいた。
 でも、キャプテン佐藤は、バッティングでも、ピッチングでも、守備でも、走塁でもなんでも上手だった。だから、一人で全部を教えられるのだ。
 今までのパパよりも年上のコーチと違って若いから、子どもを教えるぐらいでは全然疲れないみたいだ。なにしろ、ついこの前まで、現役の高校球児だったのだ。
キャプテン佐藤は、高校時代はピッチャーと外野を守っていたらしい。
でも、中学時代は内野手だったし、少年野球時代にはキャッチャーの経験もあるそうだ。そして、何よりも、自分がうまいだけでなく、教えるのが上手だった。こんなところには、弱小チームをキャプテンとして引っ張っていた経験が生きているようだ。
 教える事に関しては、勉強も同様だった。教え方がユーモアたっぷりで、学校や塾の先生よりだんぜん面白かった。
 勉強や野球だけでなく、キャプテン佐藤は遊びにも卓越していた。驚いた事に、キャプテン佐藤はあらゆるビデオゲームの名人だったのだ。おかげで、たちまちのうちにみんなの尊敬を集めてしまった。
キャプテン佐藤は、ビデオゲームだけでなくモノポリーやカタンのようなボードゲームにも詳しかった。アパートにたくさんのボードゲームを持っていて、雨の日には自治会館に持ってきてゲーム大会を開いてくれた。
 さらに、屋外の遊びにもめちゃくちゃくわしかった。「Sケン」とか「すいらいかんちょう」など、みんなの知らない遠い昔の遊びをたくさん教えてくれた。今の大学に受かるための勉強や、野球の練習をたくさんしなくてはならなかったはずなのに、どうしてこんなに遊ぶ事に詳しくなれたのか不思議でならない。
 前にも言ったけれど、キャプテン佐藤は見た目にはかっこいい人には見えなかった。特に、女の人には、ぜったいもてそうなタイプではなかった。身長は、百六十センチちょっとしかないんじゃないかな。チームで一番のっぽの大樹よりも低いくらいだ。
一方、マコネーは百六十八センチの八頭身美人だ。特に、マコネーがヒールの高い靴をはいてキャプテン佐藤と一緒にいると、完全に見下ろすような感じになってしまっている。
 キャプテン佐藤は、上半身は肩幅が広くがっちりとしていて、筋肉がよく発達している。いかにもスポーツマンって感じだ。でも、残念ながら足がすごく短いのだ。
 キャプテン佐藤の短めの髪の毛はボサボサで、ぜんぜんつやがなかった。隆志は、いつも(ムースか何かを使えばいいのになあ)と、思っていた。
 口のまわりやあごには、びっしりとぶしょうひげが生えていた。
 キャプテン佐藤は、古い形の黒ぶちの眼鏡をかけている。着ている物も、ジャージやフリースの様な物が多く、あまり構わない様だった。美人でスタイルのいいマコネーと歩いていると、「美女と野獣」って感じだった。誰が見ても、不釣合いなカップルに見えただろう。
 でも、そんなのは外見だけの判断だ。キャプテン佐藤の魅力は、内面にこそあるのだ。そこの所が、マコネーにも良く分かっていたのだろう。

 キャプテン佐藤が監督になって一ヶ月がたった。スーパーキッズは初めての試合をやることになった。
 対戦相手は、城山ジャガーズ。同じ町の城山小学校のチームだ。町の春季大会の前哨戦といったところだ。
 去年の新人戦では、7対4で勝っているが、こちらのメンバーは、その時からだいぶ主力が抜けている。もっともキャプテン佐藤が監督になってからは、前よりも練習量を増えているし内容もいいので、全体にはかなりレベルアップしているとも思えた。
 その前の日、キャプテン佐藤は練習の後で、みんなを集めて明日のメンバーを発表した。
「一番、センター、孝治」
「はい」
 名前を呼ばれた者はその場にしゃがむ。
「二番、ショート、章吾」
「はい」
「三番、キャッチャー、……」
「……」
 次々と発表されていく。
「六番、サード、隆志」
「はい」
 隆志も大きな声で返事した。去年まではライパチだったから、だいぶ昇格したことになる。
「隆志、今までは代理だったけれど、明日から正式にキャプテンをやってくれ」
「はい」
 隆志はもう一度返事したけれど、はたして、大所帯になったチームをまとめていけるか、あまり自信がなかった。硬式野球チームに移った連中を除いては、レギュラーをやっていた人たちも戻ってきていたので、隆志より野球のうまいメンバーも多かった。

「キャプテン」
 主審が両チームに声をかけた。
隆志は、初めそれが自分のことだと思わなかった。うちのチームでは、みんなが監督のことを「キャプテン」とか、「キャプテン佐藤」って呼んでいるからだ。
「タカちゃん、主審が呼んでるよ」
 隣にいた孝治に注意されて、初めて気が付いた。
 主審が呼んでいたのは、試合前のメンバー表の交換のためだった。隆志はキャプテン佐藤からメンバー表を受け取ると、小走りに主審の方へ向かった。
「じゃあ、握手して」
 主審にうながされて、隆志は相手のキャプテンと握手した。相手のキャプテンは隆志より頭一つ大きい。
「お願いしまーす」
 隆志は、相手とメンバー表を交換した。
「最初はグー、ジャンケンポン」
 隆志がチョキで、相手がパーだ。幸先良くジャンケンに勝った。
「先攻でお願いします」
 ねらいどおりに先攻が取れた。
「先攻だそお」
三塁側の ベンチに戻りながら怒鳴ると、
「オーッ」
 キャッチボールをしていたみんなからも歓声が起きた。
「ベンチ前集合」
 隆志が声をかけると、みんなはキャッチボールをやめて集まってきた。
 みんなは右足を一歩前に出して足先を揃えて整列する。隆志は一番左端で、みんなとは逆に左足をみんなに揃えて一歩出している。
「集合」
 主審が両チームに声をかけた
「行くぞお」
 隆志が叫ぶと、
「オーッ」
 みんなが答えて、いっせいにホームベース横に駆けていった。反対側からは城山ジャガーズが走ってくる。
 両チームは、ホームベースをはさんで整列した。城山ジャガーズは元々大きなチームだったが、今ではスーパーキッズも人数だったら負けない。
「キャプテン、握手して」
「お願いしまーす」
 隆志は、背の高い城山ジャガーズのキャプテンとまた握手をした。
「それでは試合を開始します、礼」
「お願いしまーす」
 みんなが大声で叫んで、いよいよゲームが始まった。

 一回の表、ツーアウト満塁。
 いきなり絶好のチャンスに、六番の隆志に打順が回ってきた。隆志は緊張で少し足が震えながら、バッターボックスに向かう。
 と、その時だ。
「タイム」
 キャプテン佐藤が叫んだ。隆志の方に手招きしている。
 隆志がベンチのキャプテン佐藤のところへ走っていくと、
「いいか、隆志。お前は、この一ヶ月間、誰よりも練習をやってきたんだ。昔のライパチのお前とは違うんだからな」
(そうだ!)
 本当にこの一ヶ月間は、隆志は熱心に練習をやってきた。それというのも、キャプテン佐藤が大好きだったからだ。キャプテン佐藤の言うとおりにやれば、きっとうまくなれると固く信じていた。
 隆志は、ジーッとキャプテン佐藤の目を見つめていた。
 キャプテン佐藤は、ぼくを後ろ向きにすると肩をもむようにしてから、最後にポンと尻を叩いて言った。
「よし、自信持っていけ」
 隆志は、小走りにバッターボックスに向かった。もう足は震えていなかった。
「いくぞーっ」
 隆志は気合を入れて叫びながら、ピッチャーをにらみつけた。
 相手ピッチャーが、一球目を投げ込んできた。
「ボール」
 外角高めにはずれた。
(よし!)
 隆志はボールが良く見えていた。相手ピッチャーは制球に苦しんで、この回二つも四球を出している。
(このまま打たずに、フォアボールをねらおうか)
 一瞬、そんな弱気な考えが、隆志の頭をかすめた。

 と、その時だ。
「隆志、フォアボールなんかねらわずに強気でいけ。いい球が来たら、思い切り叩いてやれ」
 まるで隆志の心の中を読んだように、キャプテン佐藤に言われてしまった。
 第二球。
 四球を嫌がった相手投手のボールは、ど真ん中の直球。
(今だ!)
 隆志は、思いっきりバットを振った。
 ガキッ。
 鈍い音を立てて、小飛球を打ち上げてしまった。
(しまった)
 隆志は、懸命に一塁に向かって走った ボールは、フラフラとセカンドの後方へあがっていく。ジャガーズのセカンドとセンターとライトが、ボールを追っていく。
 でも、幸運にも三人の間に、ボールはポトリと落ちた。テキサスヒットだ(昔、アメリカのテキサス州の地方リーグでこうしたポテンヒットが多かったので、そう呼ばれている)。
ツーアウトだったのでスタートを切っていた三塁ランナーはもちろん、二塁ランナーまでホームインして二点を先制した。一塁ランナーも三塁まで到達して、チャンスは続いている。
「隆志、よくやった」
 ベンチから、キャプテン佐藤が声をかけてくれた。

翌日、自治会館の部屋で反省会が開かれた。城山ジャガーズとの練習試合は、惜しくも6対9で敗れていた。
キャプテン佐藤とベンチ入りした四年生以上のメンバーが集まった。それから記録係として、マコネーが参加している。マコネーはいつの間にかスコアブックのつけ方を完璧にマスターしていて、スーパーキッズのスコアラーをやるようになっていた。
「今日の試合はどうだった」
 キャプテン佐藤がみんなにたずねた。
「リードしたのに逆転されて惜しかった」
「負けて悔しかった」
「城山ジャガーズは強かった」
 みんなが口々に言った。
「うんうん」
 キャプテン佐藤は、そのひとつひとつにうなずいていた。
 そして、みんなが言い終わると、優しい声で話し出した。
「まず、バッティングだけど、今日の相手のピッチャーはどうだった?」
「そんなにスピードは速くなかった」
「コントロールもそれほど良くなかった」
 みんなが口々に答える。
「そうだな。うちのチームも、ヒットやフォアボールですいぶん攻められていたよな。でも、点が六点しか取れなかった。それはなぜだろう」
 こうやって、キャプテン佐藤はみんなに自分たちに欠けていたことを考えさせた。
 みんなは、自分の考えをどんどん出していった。その結果を、最後にキャプテン佐藤は、みんなの発言の記録を取っていたマコネーと一緒に、黒板にまとめてくれた。

1. 攻撃
・バントの失敗が多かった。最後までよくボールを見なかった。
・ランナーを先に進める進塁打(右方向に打つこと)ができなかった。右バッターはサード側に引っ張りすぎていた。
・初球から積極的に打っていかなかった。
・見逃しの三振が多かった。自信がなくて積極的に打っていけなかった。
・盗塁が少なかった。自信がなくて、フリーのサイン(走れると思ったら自分の判断で走ってよい)が出ていても走れなかった。
・サインの見逃しが多かった。緊張しすぎていた。
2.守備
・ピッチャーは、耕太に頼り過ぎ。きちんと投げられるピッチャーがあと三人は必要。特に大会になったら、一日二試合あるから、同じ日に投げられるピッチャーの人数が大事だ。
・相手の盗塁をぜんぜん防げなかった。二塁まで送球の届くキャッチャーを作らなければならない。
・牽制球やスクイズを外して、相手ランナーをはさんだときに、それからどうするかがわからない。そういったランダンプレーの時の約束事ができていない。
・ベースカバーができていない。エラーに備えた行動を忘れている。
・ダブルプレーができなかった。連携プレーの練習が足りない。
・相手にバントを決められすぎた。バントの守備陣形ができていない。

 キャプテン佐藤は、これらを説明した後でみんなに言った。
「今までは、前からのポジションをやっていたけれど、みんなの基本的な体力測定をやった後で、それぞれに適したポジションに割り振りし直そう。平日は、今までは基本プレーの練習だけをやっていたけれど、これからは連係プレーを中心にやる。土日は、試合に慣れるために、練習試合をできるだけやろう」
 みんなは真剣な顔をして、キャプテン佐藤の話を聞いていた。
「それから、みんな約束して欲しい。基本プレーの時間が不足するから、それを補うために、各自が素振り百回とキャッチボールを百球、毎日やって欲しい。キャッチボールの相手の見つからない人は壁当て(家の石垣や塀にボールを投げて、跳ね返ったボールをキャッチする練習)でもOKだ。いいかな?」
「はい」
 みんなは、大きな声で返事した。
 すぐにユニフォームに着替えて、校庭へ移動した。
 まずは、50メートル走のタイム測定だ。キャプテン佐藤はマコネーに手伝ってもらって、巻尺とライン引きで50メートル走のコースを作った。そして、キャプテン佐藤のホイッスルを合図に、一人ずつ全力で走って、マコネーがストップウォッチで計測する。一人二回ずつ計っていい方のタイムを取ることになった。
 次は、遠投だ。
 これも巻尺とライン引きで距離をはかれるようにして、一人二回ずつ投げることになった。
 意外だったのは、隆志の遠投力だ。なんとチームでトップであることがわかったのだ。これには隆志自身が一番びっくりしてしまった。
 キャプテン佐藤は、最後にノックでみんなの守備力をチェックしていた。
こうして、スーパーキッズの新しいチーム作りが、本格的に始まったのだ。

 次の日、さっそくキャプテン佐藤から、新しいポジションが発表された。
 まず、ピッチャー。新六年からは、エースの耕太となんともう一人は隆志が選ばれた。隆志が選ばれたのは、肩の強さを見込まれたからに違いない。五年生からは章吾が、四年生からは慎太郎が、ピッチャーをやることになった。彼らは、六年生たちの控えであるとともに、五年生以下でBチームを組むときのエースにもなる。
キャッチャーには、隆志が選ばれた。つまりぼく以外がピッチャーをやるときは、必ずキャッチャーをやることになる。隆志が投げるときには、耕太がキャッチャーをやることになった。これも肩の強さを重視した人選だと、キャプテン佐藤はみんなに説明した。とにかく本塁から二塁までボールが届かなくては、相手に盗塁されっぱなしになって話にならない。
ファーストには、チームで一番のっぽの六年の大樹が選ばれた。大樹は背が高いだけでなくキャッチングもうまかったので、ファーストには向いている。
セカンドは小柄な五年生の徹だった。肩はあまり強くないが、動きが敏捷だった。
サードは六年の竜介だ。ボールを怖がらないので強い打球が多いサードにうってつけだ。
ショートは、五年生の章吾。ピッチャーの控えもやる章吾は、小柄だが肩が強く守備もうまい。それに一年生からチームに入っていたので、野球を良く知っているから、内野のかなめのポジションにはピッタリだ。
外野は、全員、足が速くて守備範囲が広い子たちが選ばれた。
こうして、新生スーパーキッズのレギュラーが定まった。

それ以来、練習は、四年生以上と三年生以下に、分かれて行われるようになった。
キャプテン佐藤が四年生以上の子たちと校庭で正式練習をやっている時には、おとうさんたちが何人かついて三年生たちを隣の公園に連れて行く。そこで二チームに分かれてミニゲームをやっている。
(三年生以下は野球をただ楽しめばいい)
というのが、キャプテン佐藤の方針だった。
「ワアーッ」
 公園の方からは、時々歓声があがる。なかなか楽しそうだ。おとうさんたちも、一緒に試合に入ってやっているようだった。
 上級生たちの正式練習で、キャプテン佐藤が真っ先に取り組んだ練習はバントだ。
 送りバント、スクイズバント、セーフティバント、……。
少年野球では、いろいろなシーンでバントが使われる。これがうまいかどうかで、得点力はずいぶん変わってしまう。
この前の試合では、スーパーキッズはバント失敗を何回もしてしまっていた。もし成功していたら、試合に勝っていたかもしれない。
 バント練習は、三人一組になって、ピッチャー、バッター、キャッチャーを交代しながら行う。十本ずつを十セット。合計百本もバントの練習を繰り返した。これを毎日やり続ける
 練習の間は、キャプテン佐藤が見回っているから、みんな真剣に取り組んでいた。
 隆志も、キャプテン佐藤から教わったバントの注意事項を頭に浮かべながら練習していた。
体をボールが来る方向に対して、きちんとまっすぐむける。足の間隔はやや広くして、ゆったりと構える。両手をにぎりこぶし二つ分離して、ボールの勢いに負けないようにしっかりと握る。バットはできるだけ目の高さに近づけ、ボールが来ても腕だけでバットを上下させない。高さの調整は、腕ではなくひざの屈伸を使って行う。
これらを注意してやると、だんだんうまくなっていくのが実感できた。
 ビュッ。
 カッ。
 コロコロ。
 ビュッ。
 カッ。
 コロコロ。
 ……。
 ほとんど百発百中で、バントを決められるようになってきた。
 隆志だけではない。みんなも上手になったから、これで試合でもバントをうまく使っていけそうだ。
 みんながうまくバントをできるようになると、キャプテン佐藤はランナー一塁の送りバント、ランナー二塁の送りバント、ランナー三塁のスクイズバントなど、状況ごとのバントの練習も始めた。みんなを守備位置につけ、実際にランナーを置いていろいろなバントの練習をした。

 盗塁の練習もたくさんやった。
「この前の試合、相手のキャッチャーの送球は山なりだったんだぞ。あれなら、セカンドまではフリーパスだったのに。盗塁のサイン出しても走らない奴もいたぞ」
 キャプテン佐藤は、少し悔しそうに言った。
「例えばな、ノーアウトの時にフォアボールで出塁するとするだろ。これをバントで送ったらうまくいってもワンアウト二塁だ。ところが、相手のキャッチャーの肩が弱ければ、黙っていても盗塁で二塁までいける。これをバントで送ればワンアウト三塁だ。これならスクイズだって、パスボールだって、外野フライだって、一点取れちゃうんだぞ。もったいないと思わないか」
 これからは、相手の投球練習の最後にキャッチャーがセカンドへ送球するを見ていて、届かなかったり山なりだったりしたら、ノーサインで全員が二盗することになった。三盗と相手のキャッチャーの肩が強いときは、今までどおりにキャプテン佐藤のサインで走る。
「ただ、ピッチャーの牽制球だけには気をつけろ」
 キャプテン佐藤はそう言って、牽制球を投げる時のピッチャーのプレートからの足のはずし方を実地に何度もやって見せた。
「要は相手の左足だけを見ていればいいんだ。それがプレートに平行に上がった時は、牽制球だからな。足がホームの方を向いたら投球だから、スタートを切っていい。もし、それでピッチャーが牽制球を投げたら、ボークになるから、黙っていても二塁まで行ける」
 キャプテン佐藤は、ピッチャー役の耕太に実際に投げさせて、みんなに盗塁のスタートの切り方を練習させた。キャッチャー役はキャプテン佐藤自身がやって、牽制か投球かのサインを出すことになった。ファースト役には、レギュラーの大樹がついている。
 効率良くやるために、ランナーは一人ではなく、ファーストベースの前後に一人ずつ立って、合計三人が同時に練習する。
「おーい、他の連中もピッチャーの左足を良く見てろよ」
 監督が大声でみんなに言った。
「それじゃ、始めるぞ」
「リーリーリー」
 隆志はファーストベースから離れてリードしながら、耕太の左足に注目した。他の二人も、前後でリードを取っている。
 耕太の左足が上がった。
(投球だ)
 隆志は、素早くスタートを切った。
 ところが、他の二人は、ベースの方に戻ってしまった。
 隆志の予想通りに、耕太はキャッチャー役のキャプテン佐藤に投球した。
「はーい。正解は隆志だけ。他の二人は失敗だ」
 キャプテン佐藤が叫んだ。みんなが習得するのは、なかなか難しいようだ。二盗の練習が終わったら、今度は三盗もやらなくてはならない。

「連携プレーも少し練習しておこう。まずランダンプレーだな」
 ある日、キャプテン佐藤がいった。
 ランダンプレーの練習は面白い。まるで鬼ごっこのようだった。
 ランダンプレーというのは、塁間にはさんだランナーを、キャッチボールをしながら追い詰めていってアウトにするプレーだ。前の試合では、このやり方がわからなくって、せっかくスクイズをはずして三塁ランナーをはさんだのに、逆にこちらが大慌てになってしまい、ミスが出てホームインされてしまった。
 キャプテン佐藤は、ランダンプレーを、順を追ってていねいに説明しながら、ランナーの殺し方を教えてくれた。
 まず、最初に練習したのは、やはり三本間でのランダンプレーだった。これは試合で失敗したばかりだったので、みんなも真剣な顔つきになっている。
 三本間の場合は、キャッチャーと三塁手で追い詰める。このとき三塁ベースはショートが、ホームベースはピッチャーがカバーする。さらに、三塁ベースの後ろにはレフトが二重にカバーする。これはランダンプレーが、三塁ベース寄りの所で行われることが多いからだ。
 基本的には、キャッチャーが三塁ベースの方に向かってランナーを追い詰めていく。これなら失敗しても、ランナーは元の塁へ戻るだけで進塁できない。
これが逆にホームベースの方へ追い詰めると、へたをするとランナーにホームインされてしまう危険がある。
こういったことを、三本間、二三塁間、一二塁間のそれぞれについて、実地に何度も繰り返して練習した。
頭ではわかったつもりでも、実際にやってみると、焦ってしまってなかなかうまくいかない。
「練習で百パーセントできるようにならないと、実戦では使い物にならないぞ」
キャプテン佐藤はそう言って、みんなにはっぱをかけた。
「連携プレーには、まだダブルプレーとか、中継プレーとか、ピックオフプレーとか、いろいろあるけれど、いっぺんにやると混乱するから、今はこのくらいにしておこう」
 キャプテン佐藤はそう言ってから、最後に付け加えた。
「バントと盗塁。それさえきっちりやれば、少年野球は絶対勝てるから。しっかり練習しようぜ」
「はい」
 みんなは大きな声で返事をした。
「逆の言い方をすると、相手にバントと盗塁をさせなければ、なかなか点が取られないってことになる。それには、バッテリー、おまえたちの腕にかかっているからな」
 キャプテン佐藤は、みんながバッティング練習をやっているときに、ぼくと耕太には、牽制球の投げ方や盗塁のときのスローイングをつきっきりで教えてくれた。
「この前は、フォアボールが多かったな。それを減らせば、ぐっとピンチの回数を減らせる」
 ぼくと耕太、それに五年生の章吾と四年生の慎太郎、スーパーキッズの投手陣全員に交代でバッティング練習のときのピッチャーをやるように、監督は指示した。
 バッティング投手は、すべてストライクを投げなければならない。コントロールをつけるには絶好の練習だった。
 それと、一日百回のシャドーピッチングのノルマが、素振りとキャッチボールに付け加えて、投手陣のノルマになった。シャドーピッチングとは、ボールの代わりにタオルを握って、投球練習をすることだ。
 隆志は、一日も欠かさず、素振りとキャッチボール(相手がいないときは壁あて)、それにシャドーピッチングを繰り返した。

 毎週、土曜日と日曜日には、練習試合が組まれた。対戦相手は、同じ町内のチームのことが多かったが、時には近隣の地域にまで遠征することもあった。そんな時は、メンバーのおとうさんたちが車で送り迎えをしてくれた。
キャプテン佐藤は、スーパーキッズの町のある郡や隣のS市の少年野球協会に連絡を取って、近くにあるチームの連絡先を調べていた。そして、片っぱしから電話をかけて、練習試合の日程を組んでいた。
時には、違うチームとダブルヘッダーを組むこともあった。例えば、午前中はホームグラウンドである若葉小学校の校庭で同じ町のチームと試合をする。試合後、急いでお昼ごはんを食べると、隣のS市のチームのグラウンドまで急いで車で移動する。午後は、そのチームと練習試合をやった。
一日に二試合やるのは、大会に備えてだ。当面のスーパーキッズの目標は、五月の下旬に行われる郡大会だった。ここで、ベストファイブに入れば、夏休みに行われる県大会のどれかに出場できる。大会では一日に二試合行われることもあるから、練習試合でもダブルヘッダーに慣れておく必要があった。
ダブルヘッダーでは、第一試合はエースの耕太が、第二試合は隆志が先発した。章吾や慎太郎は、リリーフピッチャーに使われていた。これも大会に備えてのことだった。
こうして、週に3、4ゲームも練習試合が行われた。
初め、練習試合ではなかなか勝てなかった。
しかし、練習の成果が出てきたのか、そのうちに勝ったり負けたりするようになってきた。

「宣誓! 日頃の練習の成果を発揮して、スポーツマン精神にのっとり、正々堂々プレーすることを誓います。20XX年10月22日。選手代表、スーパーキッズ主将、石川隆志!」
 久々に晴れ上がった空に、堂々とした隆志の声が響いた。
 キャプテン佐藤とスーパーキッズが結成されてから初めての大会、郡大会の開会式が行われていた。大会に参加する郡内四町からの18チームが、グラウンドに整列している。
 隆志は、一礼すると駆け足でヤングリーブスの列に戻った。
 いよいよ県大会出場をかけたトーナメントが始まる。
 隆志は、興奮と期待で胸が高鳴っていた。隆志だけではない。チームメンバー全員が、自信を持って大会にのぞんでいる。
 もう四か月前のつぶれかかっていた弱小ヤングリーブスではない。キャプテン佐藤の指導の下に、一から生まれ変わったスーパーキッズの初陣なのだから。


キャプテン佐藤とスーパーキッズ
平野 厚
メーカー情報なし

     
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夏の終わりに

2020-03-07 10:27:47 | 作品
夏の終わりに
平野 厚
メーカー情報なし


 今日は、塾の夏期講座の初日だ。これから三週間、日曜日を除いて毎日、ここに通わなくてはならない。夏期講座が終わるとすぐに二学期が始まるので、ぼくの夏はもう終わってしまったようなものだった。
それというのも、来年に迫った私立中学受験のためだ。ぼくは別に私立中学に行きたいわけではなかったが、おかあさんが受験に熱心なのだ。
「公立中学にいったら、後で苦労する」
というのが、おかあさんの口癖だ。私立の中高一貫校がいかに勉強にいい環境で大学受験有利かを、塾の説明会で繰り返しインプットされて洗脳されてしまっているのだ。
「高校受験がないから、クラブ活動をやるのにもいいのよ」
 おかあさんは、ぼくの反対を抑え込むかのように付け加えた。
 ぼくの友だちで私立中学を受験するような奴は、誰もいない。来年みんなと離れ離れになると思うと、心の中がシーンと沈み込むような気分だった。
夏期講座は、午前中が二時限で、午後に一時限の授業がある。朝は九時から始まるので、そんなに早く起きる必要はなかった。もっとも、ぼくの地域では毎朝ラジオ体操があるので、どっちみち早起きしなければならなかったけれど。
ぼくは授業を聞くふりをしながら、ひそかにインターネットの高校野球の中継をスマホで聞いていた。
教壇では、算数の先生が熱心に文章題の説明をしている。なんだか眠くなりそうで、こっそりイヤホンを耳につけている。
 やっと午前中の授業が終わった。
(やれやれ)
と、思ったけれど、午後もまだ授業がある。
昼休みに、ぼくは教室でおかあさんが作ってくれた弁当を食べた。
「栄養満点の愛情弁当よ」
 朝、お弁当を渡す時に、おかあさんは自慢していた

「じゃあ、みんな、気をつけて帰れよ」
「さよならあ」
午後の授業が終わって、ぼくは大きな声で先生にあいさつすると、塾をすぐに飛び出した。
塾までは、ぼくはバスで通っていた。塾の近くのバスの停留所へ、走って行った。
バスを待つ間、帰りの時刻表を暗記する。3時台は7分、23分、39分、51分の四本だ。
こういうことに関するぼくの記憶力は抜群だ。なんでも一発で覚えられる。
でも、どういうわけか、その力は勉強にはあまり発揮されなかった。塾での成績は、志望校合格にぎりぎりのラインだった。
やがてやってきたバスに、ぼくは乗った。バスの中はガラガラだったので、すわることができた。
家の近くのバス停から家までは、また走って帰っていった。
(なんとかぼくの夏休みを取り戻さなくては)
という気持ちでいっぱいだった。
家につくと、手さげかばんを玄関に置いて、そのまま家を出た。すぐに、一緒に遊べる友だちを探しにいった。
近くの公園に行った。夏期講座が始まらない昨日までは、みんなとそこで遊んでいた。ゴムボールを使った草サッカーをやっていた。三角ベースの野球もやった。水風船のぶつけ合いもした。
でも、今日は公園には誰もいなかった。あたりはガランとしている。
公園のそばのタカちゃんの家にいってみる。
インターフォンを押した。
「はい」
 タカちゃんのおかあさんの声がする。
「石川ですけど」
「あら、タカシはやまびこプールへ出かけているのよ」
 やまびこプールというのは、相模川沿いにある町営のプールだ。歩いて行ったら三十分はかかるので、今からではもう遅い。
「そうですか」
しかたがないので、今度はヤスくんの家にいってみた。
でも、ヤスくんも家にいなかった。家族の人もみんな出かけているのか、インターフォンに応答がなかった。(やっぱり、ぼくの夏休みは終わってしまったのか)
ぼくは、すっかりがっかりしてしまった。

 夕飯を食べてから、花火を持ってあの公園に行ってみた。
うれしいことに、いつものようにみんなもやってきた。こんな夜になって、やっとみんなと再会できたのだ。
「よう」
 ぼくが声をかけると、
「やあ」
と、タカちゃん。
「塾はどう?」
と、ヤスくんがたずねた。
「ボチボチでんな」
と、ぼくは答えた。
暗くなった公園で、みんなで花火をやりながらおしゃべりをした。ぼくの夏の名残りが、確かにここにはあった。


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闇にひそむものたち

2020-03-03 13:51:45 | 作品
「だれ?」
 ぼくは、おどろいてふりむいた。一瞬、黒い影が横切ったような気がしたのだ。
 でも、うしろにはだれもいない。うすぐらい電灯の光が、トンネルの中のしめった地面をてらしているだけだった。
 急ぎ足でまた歩き出した。
 カツーン。
……。
カツーン。
 大きな音が響いている。
 それが自分の足音だとわかっていても、だれかがうしろからついてくるように思えてしまう。その後も、ぼくは何度もうしろを振り返ってしまった。
そのたびに、黒い影が、チラチラッとぼくの視界のすみをよぎった。
 でも、じっと目をこらしてみても、何もいない。
(近道なんか、するんじゃなかった)
 後悔の気持ちでいっぱいだった。
 そもそも、最終バスに乗り遅れたのが失敗だった。先生に質問していて、つい塾を出るのが遅くなってしまった。

 来年の中学入試に備えて、先月からこの進学教室に通い始めていた。
『公立の学校では、将来の大学受験がたいへん』
『私立の中高一貫校は、こんなに勉強をしている』
 毎日のように、家にはダイレクトメールが送られてきていた。
 それを見ているうちに、おかあさんがすっかり洗脳されてしまったようなのだ。
おかげでぼくは、それまで幼稚園のころから通っていたスイミングスクールと、せっかくレギュラーになったばかりの少年野球チームを、やめなければならなかった。 
(これから、一年間、はたして勉強についていけだろうか?)
 ぼくは、不安な気持ちでいっぱいだった。
 塾へは、いつもバスで通っていた。といっても、家のそばの停留所から、ほんの十分ぐらい乗ればいくことができる。
 いつもは、帰りも、塾のそばの停留所から、バスに乗っていた。
 今までは、一度も最終バスに乗り遅れたことはなかった。
 塾からぼくの家までは、バスどおり沿いに歩くと、三十分以上もかかってしまうだろう。
 でも、近道があった。それが、このトンネルを抜けることだった。そうすれば、半分ぐらいでいくことができた。

 ようやく前方にトンネルの出口が見えてきた。少しホッとした気分だった。
 歩くにつれて、だんだん視界が広がってくる。
やっとトンネルの外に出られた。
そこには、新興住宅地のすばらしい街なみがひろがっているはずだった。
 いろいろな店が立ち並ぶショッピングセンター。こどもたちの笑い声がひびく幼稚園や小学校。ひっきりなしに車が行きかう道路。そして、いろいろなスタイルの新築の家々。
 でも、そんな夢も完成するまでに、はかなく消えてしまった。途中で景気が悪くなって、開発が打ち切りになったからだ。
 かわいそうなのは、早々に家を買ってしまった人たちだ。今でも、あちらに一軒、こちらに二軒と、わずかに家が立っている。歩いていくと、そんな家の明かりが、ポツリポツリと暗闇の中に見えた。あとは、雑草が伸び切った空き地が、あたり一面にひろがっているだけだ。
「開発業者と入居者たちの争いは、裁判まで発展したんだ」
と、とうさんに聞いたことがあった。
「それで、どうなったの?」
 ぼくがたずねると、
「入居者した人たちが少なくて裁判を続けるお金が足りなかったから、最後はわずかな和解金で泣き寝入りになってしまったらしいよ」
って、いっていた。

 日中にこのあたりを通るのは、ぜんぜん問題ない。現に、ぼくも昼間にはここに何度もやって来たことがあった。
 友だちと一緒に、敷地のあちこちで自転車を走らせた。この新興住宅地は明るく開けた場所で、すごく気持ちがいいくらいだった。
あたりは、日中でも誰も歩いていないし、車もめったに通らなかったから、自転車で走りまわるのにはもってこいだ。
ただ、道路のところどころに、タクシーや運送トラックが駐車していた。
(変だな?)
と、思って、近づいてみた。
 運転手たちは、窓を開け放って、昼寝をしたり、まんが雑誌を読んだりしていた。
(休憩時間中なのかな?)
とも思ったが、もしかすると、仕事をさぼっていたのかもしれない。よく日があたっていて、気持ちがよさそうだった。
 ところが、夜になるとこの場所は一変した。
 闇。ただ一面の真っ暗な闇が、あたりにひろがっている。このあたりは、昼間とはまったく別の世界になってしまうのだ。

 しばらくいくと、前方の闇の中に、ボウッと白く浮かび上がっている建物が見えてくる。
 汚水処理場だ。
他の部分の開発に先立って、一応完成はしたものの、使われないまま廃虚になってしまっていた。汚れた外壁には雑草がはいまわり、朽ちかけた屋根は風にふるえている。なぜかつけっぱなしになっている古びた蛍光灯のたよりない光に、ペンキがはがれかかった鉄製の格子の門が照らし出されていた。門には赤くさびた鎖がかけられ、大きな錠前がついている。
 ふと気がつくと、門の前に花束が置かれていた。菊やゆりの花びらが、風にゆれている。
(あっ、そうか!)
 その花束にまつわる噂を、思い出してしまった。
 この住宅地の開発担当者が、失敗の責任を責められて、この汚水処理場で首をつって死んだというのだ。
 花束の前には、何かが置かれていた。よく見ると、大きなおまんじゅうだ。死んだ人への、供え物なのだろうか。もしかすると、命日だったのかもしれない。
(甘い物がすきな人だったんだろうか?)
 富士山のような形に積まれている。一番下が三つ、真ん中の段が二つ、てっぺんに一つ。
全部で六個ある。
 ぼくは花束とおまんじゅうの前を通り過ぎる時に、一段と早足になっていた。

 その時だ。
 ぼくは気がついた。廃虚になった汚水処理場の闇に、何かがひそんでいるのを。それは、さっきトンネルで見たのと同じ黒い影のようなものだった。
(うわーっ!)
 ぼくは、がまんしきれずに全速力で走り出した。あの闇にひそんでいたものが、追っかけてくるような気がしたからだ。
つかまったら、どんなおそろしい目にあわされるだろう。ずたずたに引き裂かれて、殺されてしまうかもしれない。
 浄水場の先で、もう住宅地は終わっている。左右は、うっそうとした雑木林になっていた。その中を、長い下り坂が続いていた。
 ぼくは、けんめいに走りつづけた。坂道は、右に大きくカーブしているので、なかなか先が見通せない。
 ハッハッハッ、……。
 息がきれて苦しくなった時、やっと明るい街中にたどりついた。そこからはバス通りで、商店なんかも続いている。
 ようやく一安心だ。
ぼくは、思い切って後ろをふりかえってみた。
でも、そこには何もいなかった。

 ドキドキと、なかなか動悸がおさまらない。ぼくは、まだ早足で歩いていた。なんだか、まだ黒い影が追ってきているような気がする。
 やっと、我が家にたどりついた。
「ただいま」
 ぼくは、ようやくホッとしながら、玄関に入った。そこは明るく電燈が輝いていた。家の中が、こんなに安心できる所だなんて、今まで思ってもみなかった。
「どうしたの? 汗びっしょりになって」
 何も知らないかあさんが、ふしぎそうな顔をしてぼくをむかえいれた。
「ううん、なんでもない」
 ぼくは、かあさんのそばを素通りすると、自分の部屋へむかった。
「お夜食、できてるわよ」
 その背中にむかって、かあさんが声をかける。塾へ行くときは、軽く夕食を食べていく。
 もちろんそれだけでは足りないから、帰ってからおかあさんと一緒に夜食を食べるのが習慣になっている。
 でも、今日はとても食べる気にはなれなかった。
「うん、後で食べる」
 ぼくは、振り返りもせずに答えた。

 部屋のドアを開けると、中は真っ暗だ。なんだか、さっきの黒い影がひそんでいるようで、ぼくはあわてて部屋の電灯のスイッチをいれた。
 パッと部屋の中は明るくなった。黒い影はどこにもいないようだ。
でも、念のために、勉強机の蛍光灯とベッドの枕もとのライトもつけてみる。部屋の中は、まぶしいくらいに明るくなった。
 ぼくは、窓の雨戸やサッシが、きちんと閉まっているかも確認した。
 ちゃんと鍵がかかっていることを確かめて、ようやくホッとできた。これなら、黒い影もどこからも入ってこられないだろう。
 ぼくは、ベッドの上に腰を下ろしてあたりを見まわした。こうして明るい光に包まれていると、さっきのことがなんだか夢だったようにも思えてきた。
(なーんだ。思いすごしにすぎなかったんだ)
 ぼくは、ベッドの上にねっころがった。
(怖い、怖い)
と、思うから、黒い影が見えたような気がしたのだろう。
 汚水処理場の花束やおまんじゅうは本物だろうけれど、闇にひそむものなんていやしないんだ。
(そうだ。だいいち、あそこを通らなければいいんだ)
 そうすれば、もう怖い思いをしなくてもすむ。なんだかびくびくしていたことが、ばかばかしくさえ思えてきた。

 翌日も、ぼくは塾へいった。受験特訓クラスに入ってからは、毎日毎日、授業がある。月水金が普通の授業で、火木土日が受験特訓クラスだ。
 その日も授業が長びいていた。
(早くしないと、バスに間に合わなくなってしまう)
 ぼくは、イライラしながら先生を見つめていた。
「それでは、今日の授業を終わります」
 ようやく先生が、話を終えた。
 ぼくはあいさつもソコソコに、大急ぎで塾から停留所へかけだしていった。
 
黒い煙をはいて、バスが遠ざかっていく。
(あーあ)
今日もまた、最終バスにのりおくれてしまった。来年の中学受験まで、こんな日々が続くのかもしれない。
(今日は、絶対トンネルには入らないぞ)
 ぼくは、かたく心に誓っていた。たとえ三十分以上かかったって、明るく安全なバス通りを通って帰った方がいい。
 ぼくは、急ぎ足で歩き始めた。

 やがて、住宅地に向かうまがりかどにさしかかった。左に曲がれば、住宅地に抜けるトンネルだ。
トンネルは、黒々と大きな口をひろげていた。
 でも、まっすぐ進めば、明るいバス通りが続いている。かなり遠回りだけれど、安心して帰ることができる道だ。
ぼくは、そのまままっすぐ歩いていこうとした。
(あっ!)
 無意識のうちに、足が左にむかっていく。
(いけない!)
 ぼくは、けんめいにもとの道に戻ろうとした。
 でも、まるで足がいうことを聞かない。どんどん、トンネルの方に向かっていく。
 今度は、ぼくは立ち止まろうとした。
 でも、それもだめだ。
 右、左、右、左、…、…。
 自分の意志とは無関係に、足だけが前へ進んでいく。そして、まるですいこまれるように、ぼくはトンネルの中に入ってしまった。
 なぜだか、さっぱりわからない。また、怖い思いをするのは、わかっているのに。

 トンネル内では、今日も黒い影がぼくをつきまとっていた。
 カツーン。
 ……。
 カツーン。
 ……。
 ぼくの足音だけが、うつろにひびく。
 何度もうしろを振り返りながら、トンネルを歩いていった。
 ぼくはゆっくり、ゆっくりと歩いていた。
(早く歩こう)
 そう思っているのに、足がいうことをきかない。
 ツーと背筋に、冷たいものが走る。そのたびに、ぼくはうしろを振り返ってしまった。
 しかし、黒い影は、ぼくをあざわらうかのように姿を消す。
 トンネルは、永遠に続くかと思うほど長く感じられた。
 ようやく、前方に出口が見えてきた。そこだけが、ぼんやりと少し明るい。
 やっとトンネルを抜けたぼくは、シーンと静まり返った住宅地に出た。上空では、不気味な形をした黒い雲がすごいスピードで動いている。
 幼稚園や小学校の予定地を、一所懸命に歩いていく。なんだか、ここにいるはずだった子どもたちのまぼろしが見えるような気がしていた。
 
やがて、あの汚水処理場の前を通りかかった。
(見てはいけない、見てはいけない)
 そう思いながらも、つい花束の方を見てしまう。
 花束は昨日と同じように置かれている。おまんじゅうは、……。
(あっ!)
 数が減っている。おまんじゅうが、一個だけ減っているのだ。
(確か六個あったはずなのに)
 一番上のだけがなくなっている。
(カラスにでも持っていかれたのか?)
 でも、よく見ると、他のおまんじゅうは、崩されずにきちんと積まれたままだった。とても、野犬やカラスのしわざには思えなかった。
 その時、気がついた。廃虚になった汚水処理場の闇に、今日も何かがひそんでいるのを。
 黒い影。そう。トンネルで見たものたち。
 ぼくは、後ろも見ずにけんめいに走り出そうとした。
 でも、足が思うように動かない。もがけばもがくほど、足が空回りしているみたいだった。
 永遠と思えるほど時間がたったときに、やっと明るいバス通りに出られた。

 次の日も、その次の日も、塾の帰りに、すいよせられるようにしてトンネルをくぐってしまった。足が、ひとりでにトンネルの方へ向かってしまうのだ。
 トンネルの中の黒い影は、だんだん数を増やしている。
 気が遠くなるくらい長い時間をかけて、ようやくトンネルを出る。そして、ひと気のない住宅地を一人で歩いていった。
 やがて、汚水処理場の前にさしかかる。
 いつも見てはいけないと思いつつも、つい数を数えてしまう。
 おまんじゅうは確実に減っていた。
 五個が四個になり、四個が三個に、……。
 毎日、一つずつ減っていく。
 それにつれて、闇にひそむものたちは、しだいに数が増えていくような気がした。
 真っ黒な影がだんだんひろがってくる。
 ぼくはそれに気づくと、いつもがまんできずに走り出そうとした。
 だが、いつも足が空回りして、なかなか前へ進めなかった。 
 ようやく、明るい人通りのあるところまで来て、やっと安心できた。
 十二月の凍えるような冷たい空気の中で、ぼくはいつも汗びっしょりになっていた。

 そして、とうとう七日目がやってきた。
 その日も塾の帰りに、ぼくはフラフラとトンネルにすいこまれていった。
 その中では、もうあからさまに黒い影がぼくの後を追っている。
 ぼくは、ゆっくりゆっくりと歩いていった。
 ようやくトンネルを出て、ひとけのない住宅地に出た。
無人のショッピンセンター。建てられるはずだった小学校や幼稚園の跡地。
遠くにポツンと家の明かりが見える。
 薄ぼんやりと道路を照らしているまばらな街灯。上空では、今日も真っ黒な雲が妖しくうごめいている。
 そして、圧倒的な闇。その闇のあちこちにひそむものたちの、ぼくにたいする悪意が感じられる。
 やがて、前方に汚水処理場が見えてくる。
 ぼくの吐く白い息は、だんだんはげしく荒くなっていた。
 花束の前にさしかかった。
(ない!)
 とうとうまんじゅうが、すべてなくなってしまった。
 汚水処理場の廃墟の闇にひそむものたちは、もうそこにおさまりきれないくらいにふくれあがっている。
 ぼくは走り出したくなるのをこらえて、なんとかその前を通り過ぎた。

 と、その時だ。
 カツーン。
 うしろから足音が聞こえてきた。
 カツーン。
 ……。
 カツーン。
 金しばりにでもあったように、ぼくは足をとめてしまった。
 カツーン。
 ……。
 カツーン。
 ……。
 ぼくの足音が響いているのではない。確かに、何かがうしろからやってくるのだ。
(うしろをふりむきたい)
 でも、それも恐ろしい。
 ぼくは、けんめいにまた歩き出した。
 だが、足がフニャフニャしてしまって、力が入らない。
 
カツーン。
 足音は、確実にぼくの背後に近づいている。
「だれ?」
 とうとう、ぼくはうしろをふりむいた。
 巨大な黒い影が、すぐそばまでせまっていた。もやもやとしていて、かろうじて大きな人の形をしていることがわかる。
 でも、どこが目で、どこが口だかわからない。
 プーンと魚の腐ったようなにおいがただよってきた。
 ギリギリギリ、……。
 牙を鳴らすような音がする。
 あまりの恐怖に、ぼくは悲鳴をあげようとした。
「……」
 でも、のどがしめつけられたような感じで、ぜんぜん声が出ない。
 巨大な黒い影は、みるみるぼくにのしかかってくる。
 そして、身体がすっかりと影におおいつくされたとき、ぼくの意識も暗い闇の中に吸い込まれてしまった。
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ロコモティブ症候群

2020-02-23 09:18:36 | 作品
「じゃあ、最初は三段にして」
 担任の村岡先生の指示で、みんなで用具室から運んできた跳び箱の高さを三段にして、マットの向こうに置いた。
 今日の体育の授業は、五年生になってから初めての跳び箱だった。
ジャンプ力に自信のある翔太にとっては、体育の中でも得意種目のひとつだったので、朝から楽しみにしていた。四年の時の最高記録は七段だったから、今年は最低でも八段を跳びたいと思っている。
 久しぶりの跳び箱だったので、まずはウォーミングアップとして、誰でも跳べそうな三段にセットされている。それから、一段ずつだんだんに高くしていくのだろう。
 ピッ。
 先生の笛の合図で、男子から次々に跳んでいく。
 五年生には三段はさすがに低すぎるので、みんな軽々と跳べている。このあたりはまだ余裕だから、あまり緊張しないせいか、待っている列ではおしゃべりしている子たちもいた。
 翔太の番が来た。
 ピッ。
 翔太も、軽く助走して跳ぼうとした。
(あっ!)
 踏み切り板を強く蹴りすぎたのか、跳び箱が低すぎて前につんのめりそうになった。手首が逆に曲がりそうになってヒヤリとしたが、何とかバランスを立て直して着地した。
(ちぇっ、低すぎるよ)
 翔太は思わず舌打ちした。この高さなら、一年生だって跳べるだろう。
「あーあっ!」
 その時、みんなから歓声とため息が同時に起こった。翔太の次の石井くんが、初めて跳びそこなったのだ。
 お尻を跳び箱の角に、ガツンとぶつけてしまっていた。踏み切りまでの助走の勢いがぜんぜん足りなかったので、身体が十分に前に進まなかったようだ。
 石井くんは、顔をしかめながら戻ってくる。
(ふーん、こんな高さでも跳べない子もいるんだ?)
 跳びすぎだった翔太は、少し優越感に浸りながら、お尻をさすりながら戻ってきた石井くんを見ていた。
 それからも、何人か跳び越すのを失敗した。みんな、運動の苦手な子ばかりだ。五年生だというのに、こんなに三段を跳べない子がいるとは、翔太にはすごく意外に思えた。

 横山くんの番になった。クラスで一番やせっぽちで、この子も運動が苦手だった。
 バン、…、バチーン。
 横山くんは、跳び箱に手をついたまま前のめりになり、向こう側へ倒れてしまった。助走のスピードや踏み切りはよかったのだが、腰が高く上がりすぎて前につんのめったようだ。
「大丈夫かあ!」
 村岡先生が、あわてて横山くんに駆け寄った。
「いたーい!」
 横山くんは、両腕を上に差し伸べて、床に倒れたままうめいている。
「大変だ。誰か、職員室の他の先生を呼んできて」
 村岡先生に言われて、学級委員の石戸谷くんが全速力で走っていった。

 ピーポ、ピーポ、…。
 外からサイレンが聞こえてくる。
 翔太が教室の窓からのぞくと、救急車が赤いライトを点滅させながら校庭から走り出していく。横山くんを運んでいるのだろう。村岡先生も付き添って病院へ行くことになったので、翔太たちのクラスは代わりに教頭先生が来て自習をしていた。体育の授業は、あのまま打ちきりになっていた。

 次の日、先生の説明によると、横山くんの怪我は、翔太たちが予想していたよりもずっと重かった。骨折、それも両腕の手首を同時に骨折してしまっていたのだ。しばらくの間は、そのまま入院しなければならないだろう。
 横山くんの怪我は、極度の運動不足のせいのようだった。たしかに、横山くんは、いつも携帯ゲーム機やトレーディングカードばかりで遊んでいて、ぜんぜん運動をしていなかった。
 先生の話によると、使わないために両腕の手首の関節が固くなっていて、もともと十分に曲がらなかったようだ。そこへ、跳び箱で両手をついた時に、踏み切りが三段にしては強すぎたために、腰だけ上がってつんのめってしまい、全体重が手首の骨にかかって支えきれずに折れてしまったのだという。
 その話を聞いて、翔太は自分も手首が逆に曲がりそうになってヒヤリとしたことを思い出した。
(五年生に三段なんて、低すぎる設定にしたのがいけないんだ)
 翔太はそう思ったけれど、その三段も飛べない子がいたのだから仕方がなかったのかもしれない。

 横山くんの事故は、学校内だけでなく、市の教育委員会の方でも問題になってしまった。横山くんの両親が、今回の怪我について、教育委員会へ強くクレームをつけたためだ。
「息子の事故は、怪我の防止について、学校側の注意が足りなかったからだ」
と、主張している。場合によっては、学校や村岡先生の責任が問われかねない。
 教育委員会では、今回の事故の原因究明のために、緊急に調査委員会を設置した。
 その一環として、市の小中学校では、児童や生徒の運動時間や生活習慣について、大掛かりな調査が行われることになった。
 そんなまわりの大騒ぎを、翔太は他人事のように感じていた。自分は、ふだんからたくさん運動をしているから大丈夫だと思っていたのだ。
 翔太は、一年生からサッカーのスポーツ少年団に入っている。ポジションはゲームをコントロールするミッドフィルダーで、六年生たちにまじってレギュラーをまかされている。ミッドフィルダーは、攻撃も防御もする忙しいポジションなので、一番運動量が多い。
 少年団では平日は週三回も練習があるし、週末も試合などが行われることが多かった。少年団が休みの日にも、翔太はチームメイトとの自主練にいつも参加して、河川敷にある市のグラウンドまでおかあさんに車で送ってもらって、ボールを追っかけている。

 翔太は、横山くんとはクラスで同じ班だったので、班のメンバーの人たちと一緒に、クラスを代表して病室へお見舞いに行くことになった。みんなの寄せ書きの色紙や、手作りの千羽鶴(百羽ぐらいしかいなかったけれど)を持っていった。
 病室に入って驚いたことには、横山くんはベッドの上でも携帯ゲームをやっていた。横になったまま、ギブスをはめた両腕を上に伸ばして、器用にゲーム機を操作している。どうやら、骨折していても指はよく動くようだった。まったく懲りない奴だ。
「なんだよ。ここでもゲームかよ」
 翔太が言うと、横山くんはさすがに少し恥ずかしそうな顔をしていた。

お見舞いの帰りに、病院のホールで、翔太たちは隣のクラスの竹下くんに出会った。
「どうしたの?」
と、翔太がたずねると、
「うん、ひじを痛めちゃってさあ」
と、竹下くんはサポーターをした右腕を上げて見せた。
 竹下くんは、主に翔太の学校の子どもたちで構成されている少年野球チームで、エースピッチャーをやっている。
「ふーん」
「ここの整形外科に通ってるんだ」
 竹下くんの話だと、ピッチングのやりすぎでひじの腱を痛めてしまったようだ。先月の市大会の時に、試合で連投して、無理をしたのがいけなかったみたいだ。
(ふーん)
 対照的な横山くんと竹下くん。どうやら運動のしなさすぎでもダメだし、やりすぎてもダメなようだ。
 翔太は、なんだか自分までが不安になってしまった。

 横山くんや竹下くんのような身体の機能性障害のことは、ロコモティブ症候群と呼ばれている。本来は高齢者が加齢や運動不足で陥る状態のことだが、最近は子どもたちにもその予備軍が増えていた。あまり運動をしないために、手首やひじや肩や足首やひざなどの関節やそのまわりの筋肉の柔軟性が失われたり、逆に特定の運動ばかりやりすぎていて、その部分を痛めてしまったりすることによって起きていた。
 子どもたちのロコモティブ症候群を防ぐためには、鬼ごっこ、木登り、石蹴り、縄跳び、ゴム段などの、昔からの多様な外遊びで体中の関節や筋肉を使うことが必要だった。以前と違って、そういった外遊びをする環境は、翔太たちのまわりではほとんど失われてしまっていた。学校の休み時間は短すぎたし、下校時間になったらさっさと学校を追い出されてしまう。校長や教師たちが、学校での事故を極度に恐れているからだ。もっとも、今回の横山くんの骨折のような件があることを考えると、あながち学校側の態度だけを責められないかもしれない。
 近くの公園には、滑り台やブランコなどのもっと小さな子どもたちのための遊具がたくさんあって、小学校高学年の子どもたちが自由に遊べる空間はあまりなかった。そのうえ公園では、木登りやボール遊びは禁止されている。ここでも、事故とそれに伴うクレームを極度に恐れる行政サイドの姿勢が表れている。
 しかし、仮に自由に遊べる場所があったとしても、肝心の子どもたちが少なすぎるので、人数が必要な外遊びが成立しないのも事実だった。昔に比べて子どもの絶対数が圧倒的に少ないし、その希少動物のような子どもたちも、いろいろな習い事や塾などに追われていて、自由に遊べる時間がすごく少なかった。だから、たまに暇があっても、少人数で遊べる携帯ゲーム機、スマホ、トレーディングカードなどでしか遊べないのだった。
 今の子どもたちが身体を動かそうとしたら、竹下くんや翔太のように、野球、サッカー、ミニバスケットボール、バレーボール、水泳、体操などのクラブに入らなければならない。
 でも、そこでは、同じ種目だけを長時間やることが多いので、逆に身体の特定部位の使いすぎで、関節や腱などを痛めてしまったり、特定の場所に筋肉がつきすぎて体全体の柔軟性が失われてしまったりする危険性があった。

 翔太のクラスでも、ロコモティブ症候群の調査のための問診表が配られた。一週間の運動時間や内容を記入するようになっている。
「みんな、家族の人たちにも聞いて、きちんと記入して、今週中に提出してください!」
 教壇では、村岡先生が、真剣な表情で声をからしている。今やロコモティブ症候群は、翔太の学校ばかりではなく市全体でも大きな問題になっている。
 翔太は、おかあさんに確認しながら、家で問診表を記入してみた。
 運動時間は予想通りにけっこう長かったが、サッカーだけに偏っていることがわかった。驚いたことには、それ以外の運動時間は、一週間合計で一時間にも満たなかったのだ。
 翔太の学校では、問診表の提出に続いて、クラスごとに交代で体育館に集められて、身体の柔軟性を調べる検査が行われた。
 最初の立位体前屈は、翔太はOKだった。手のひらまでは着かなかったけれど、指先は楽に床に着いた。
 しかし、まるで床に着かない子も多い。中には、ふざけているんじゃないかと思うほど、身体が曲がらない子もいる。指先が床から30センチ以上も離れている。
 でも、逆に余裕で手のひら全体がペッタリと床に着く女の子たちもいた。彼女たちの身体は、折り畳みナイフのように、ぴったりと二つ折りになっている。そんな子は、たいてい新体操かバレエを習っていた。
 次の検査に移った。かかとを浮かさずにそのまましゃがみこむテストだ。
「あっ!」
ショックなことには、翔太は足の裏をつけたままだと、きちんとしゃがむことができなかった。どうしてもバランスを崩して後ろに倒れてしまう。
 サッカーで走りすぎて、足に筋肉がつきすぎているせいかもしれない。翔太自慢の太ももの太さが仇になっている。膝や腰の関節の柔軟性が、太ももの太さに追いついていなかった。
 内心恐れていたことが事実になった。翔太自身も、ロコモティブ症候群予備軍だったのだ。

 市内の小学校の検査結果がまとまった。
 実に20パーセント以上の子どもたちが、なんらかの機能障害を抱えていることがわかった。ロコモティブ症候群予備軍は、知らないうちに子どもたちの間に蔓延していたのだ。
 その後、市では、大学の先生の指導の元に、ロコモティブ症候群を予防するためのストレッチを、すべての学校で導入することになった。体育の授業では、初めに、ラジオ体操に続いて、このロコモティブ症候群対策ストレッチを、必ずやるようになった。
「このストレッチは狭いところでもできるから、家でもやるように」
 村岡先生は、口を酸っぱくしてクラスのみんなに言っていた。横山くんのような事故を再発しないようにと、先生たちも必死だったのかもしれない。
 翔太も、学校だけでなく、サッカーをする前などにも、このストレッチをやるようになった。なんとか、ロコモティブ症候群予備軍の汚名を晴らしたかった。


ロコモティブ症候群
平野 厚
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万馬券

2020-02-20 16:26:23 | 作品
 塾も部活も何もない、ゆっくり休める久しぶりの日曜日。目を覚ましたのは、とっくにお昼を過ぎているころだった。
 何もやる気が起こらない。そのままベッドの中でグズグズしていたら、いつのまにか二時近くになってしまった。さすがに腹が減ってきて、グルグルと音を立てている。
エイヤと気合を入れて、ようやくベッドから起き上がった。
 パジャマのままキッチンへ行くと、テーブルの上には卵焼きとハムサラダが置いてある。月末だから、かあさんは気の毒にも休日出勤なのだろう。
 冷凍のスパゲッティーをチンしている間に、インスタントのスープにお湯を注ぐと、朝昼兼用の食事が完成だ。
 ベランダ越しに見える外は、気持ちよく晴れ上がっている。五月晴れってやつだろう。
 一人でもくもくと食べるだけだから、あっという間に終わってしまう。
 洗うのが面倒なので、お皿やコップなんかは流しに突っ込んでおく。かあさんが、夕食の時の食器と一緒にやってくれるだろう。ちょっと後ろめたい気がしたけれど、どうにもやる気が起きない。
 洗面所で歯をみがいて顔をあらったら、少しはさっぱりとした。
 それでも、いぜんとして何もやる気が起こらない。外へ遊びに行く気も、コミックスを読む気にもなれない。友達にスマホ連絡する気さえ、起きてこなかった。
 パジャマをぬぎかけたまま、居間のソファーねころがった。おなかがくちくなったので、また眠ってしまいそうだ。

 何気なくテレビをつけたら、ちょうど競馬中継が始まるところだった。
 どうやら、今日はダービーが行われるらしい。競馬に特に関心があるわけではないけれど、このレースの名前は聞いたことがある。ソファーの手すりに足を乗せて寝そべりながら、中継を見ることにした。
 画面いっぱいに、初夏のあたたかな日差しがあふれている。薄緑のじゅうたんをしきつめたようなコースも、大きな弧を描いて続いていく白い柵も、ぎっしりとつめかけた人々のシャツも、明るい日の光の中ですべてが輝いて見える。
 ダービーのひとつ前のレースが始まった。カラフルな衣装をまとったジョッキーを背に、黒やこげ茶や栗色のサラブレッドがけんめいに走っていく。
 集団が直線に差しかかった。観客席から歓声がわきおこる。サラブレッドたちは、ひとかたまりのままゴールを過ぎて行った。
 ゴール前では、紙ふぶきが舞っている。どうやら、ハズレ馬券を投げているらしい。
「三連単で十万馬券が出ました! 3番12番7番で、2236.8倍」
 アナウンサーが、興奮気味に叫んでいる。
 わずか百円の馬券が、二十二万三千六百八十円にもなったというのだ。
(千円買ってたら、二百二十三万六千八百円)
 頭の中ですばやく計算してみた。
 テレビの中から、大喜びしている人たちの歓声と、がっかりしているずっと多くの人たちのため息とが聞こえてきそうだ。
「いよいよ、ダービーのパドックです」
 放送席のふんいきも、明るくはなやいでいる。
 白いタキシードを着た司会者も、花をあしらった大きな帽子をかぶった女性アシシタントも、ダービーというお祭りを前にしてにぎやかにはしゃいでいた。
 画面が切り替わった。
 ゼッケンをつけたサラブレッドが、手綱を引かれて歩いている。楕円形のパドックを番号順に十八頭が一列に続いている。
さまざまな毛色をしたサラブレッドたちが、あるものはゆっくりと、あるものは小走りに歩いていた。
 さまざまな模様の衣装を着たジョッキーたちが、いっせいにサラブレッドにまたがった。
「わーっ」
場内の興奮が高まってくる。
(XXXX、がんばれ!)
(XXXX、参上!)
 馬名に思い思いの言葉がそえたいくつもの横断幕が周囲にはりめぐらされて、その外側を大勢の人たちが取り囲んでいる。ここにも、初夏の日差しがあたたかくあふれていた。
 でも、ぼくはもうひとつの競馬場の風景を知っていた。
 そこは、ひどく寒くて暗い場所だった。

 寒いふきっさらしの中で、ぼくはせいいいっぱいの声をあげて泣いていた。まだ小さいころのぼくだ。4才か、5才ぐらいだっただろうか。
よれよれになった新聞を手に、あたりを歩き回っている男たちは、そんなぼくの方をチラリと見ているのだが、誰一人として足をとめてくれない。
 あたりには、たばこやほこりに混じって、かすかに潮の香りがした。ぼくは、海のそばの競馬場へ連れてこられていたみたいなのだ。来る途中のモノレールから、近くに海が見えたような気がする。
 ピューッと冷たい風が吹いてきた。風に巻き上げられたはずれ馬券が、ぼくの頭の上でクルクル回っている。
「馬鹿だなあ、だからそばにいろって、言っただろ」
 遠くから人々をかきわけるようにして、ようやくとうさんがやってきた。くしゃくしゃになった新聞を片手に、反対の手でぼくの頭をゴシゴシとなでた。そして、ヒョイとぼくを肩車すると、人ごみの方へ歩き出した。
 大勢の人たちの頭越しに、馬たちが走ってくるのが見えてきた。
 ワーッ。
 歓声がわきあがる。
 馬たちがかけぬけていったとき、とうさんはポケットから馬券を取り出すと、だまって破り捨てた。

「腹へったな、なんか食うか?」
 とうさんに聞かれて、ぼくはコクンとうなずいた。
 ぼくを肩車したまま、とうさんは建物の外へ連れて行った。そこには、食べ物を売っている売店がならんでいる。
 とうさんは、その一軒の店先の椅子にぼくをおろすと、ポケットからさいふを取り出した。そして、それをさかさまにして、しょうゆやビールがこぼれたままになっているテーブルの上にぶちまけた。
 一円玉や十円玉がほとんどで、百円玉は少ししかない。
その中に、四角い小さな紙が混じっていた。
「帰りの切符だよ。これまですっちまうと帰れなくなるからな」
 とうさんは、切符を大事そうに胸のポケットにしまった。
 とうさんは、小銭の山から十円玉と百円玉を拾い出すと、手の中でジャラジャラさせながら、窓口のそばまで歩いていった。壁のメニューをしばらくにらんでいたが、やがて窓口のおばさんにいった。
「スイトン、ひとつ」
 しばらくして、四角いオレンジ色のおぼんに、あたたかそうな湯気を立てたどんぶりをのせて戻ってきた。
「ここの食いもんも、高くなっちまったな。一杯しか買えなかった」
 ぼくが困ったような顔をしていると、
「おれはおなかがすいてないから、おまえが食べな」
と、とうさんはいった。
 とうさんは割り箸を割ってどんぶりにのせると、こちらに押してよこした。
 薄茶色のおつゆの中に、ほうれん草やだいこんや白いおもちのような物が浮かんでいる。プーンと、おしょうゆのおいしそうなかおりがしていた。
 ぼくはどんぶりに顔をつっこんで、おつゆを飲もうとした。
(アチチ!)
 熱すぎて、とても食べられない。
「ちょっと、待ってな」
 とうさんはまた窓口にいくと、おちゃわんとスプーンをもってきた。
 スプーンで少しだけ中身をおちゃわんに移すと、
「フーフーして、食べるんだぞ」
といって、手渡してくれた。
 ぼくは本当にフーフーと息をふきかけてから、スイトンを食べ始めた。
白いかたまりはおもちではなくて、うどんのかたまりのようでへんなかんじだったけれど、おつゆも野菜もちょっとだけ入っていた鶏肉も、あたたかくてすごくおいしかった。
 ふと気がつくと、とうさんはたばこをすいながら、夢中で食べているぼくのことをうれしそうな顔をして見ていた。
「おとうさんも、食べる?」
 ぼくがたずねると、
「おれはいいから、もっと食べな」
 とうさんは、もういちどおちゃわんに少しよそってくれた。どんぶりの中には、まだ半分くらい残っている。
 少しさめてきたのか、今度はすぐに食べ終わった。まだ、おなかはすいている。
 でも、ぼくはいった。
「おなかいっぱいになっちゃった」
「もういいのか?」
 ぼくがコクンとうなずくと、とうさんはどんぶりに残っていたスイトンをすごいいきおいで食べ始めた。そして、あっという間に、おつゆ一滴も残さずにたいらげた。
「もう帰ろうな」
 立ちあがったとうさんの手を、ぼくは急いでギュッと握り締めた。

 ぼくが小学校に上がる前に、とうさんは突然家からいなくなった。ハンコを押した離婚届一枚を残して、失踪してしまったんだそうだ。
 かあさんに言わせると、
「あちこちに借金の山をこしらえてしまっていたから、離婚してこちらに迷惑が及ばないためにしたんだろうね。それがあの人のせいいいっぱいの思いやりだったのよ」
って、ことになる。
 かあさんは口癖のように、
(結婚はもうこりごりだ)
と、言って、ぼくとの二人きりの生活をずっと続けている。
そのくせ、とうさんに対してそれほど恨みに思ってもいないらしく、あまり悪口は聞いたことはない。
 それは、かあさんのさばさばした性格に原因があるのかもしれない。あっさりととうさんをあきらめると、かあさんはすでに始めていた保険の営業の仕事に専念していった。けっこう元から向いていたみたいで、今では全国でもトップクラスの営業成績らしい。
 ぼくも、とうさんに恨みも未練もあるわけではない。
でも、たまに母方のおじいちゃんに、
(浩子は悪い男にだまされた)
なんて、とうさんの悪口をいわれたりすると、なんだか顔がこわばってしまう。
 ぼくのとうさんの記憶は、もうはっきりしなくなっていた。遊園地へ一緒に行ったり、入園式にとうさんが来たり、だのの記憶がぼんやりとはあるのだが、それらは写真やビデオによって、後からうえつけられたものかもしれない。
 うちでは、テレビドラマの離婚家庭のようには、写真から何からとうさんの物がすべて捨てられてしまったわけではない。だから、見ようと思えば今でもとうさんの姿を見ることができた。それが、頭の中でごっちゃになっていたのかもしれない。
 その中で、写真もビデオもないのに、すごく鮮明に残っている記憶。それが、競馬場でのものだった。
 競馬場の記憶は、他にもたくさんあった。どうやら、とうさんは競馬場へ行く時に、いつもぼくを連れて行っていたようなのだった。それが、せめてものぼくとのふれあいの時間だったのかもしれない。
 歓声の中をかけていく馬たち。とうさんとさくに寄りかかるようにしてながめていると、ずいぶん遠くからヒズメの音が聞こえてきて、やがて目の前をすごいスピードでかけぬけていった。
 パドックの中を、手綱を引かれてグルグルまわっている馬たち。ぼくはとうさんに肩車されて、大勢の人たちのうしろからながめていた。あたたかい糞のにおいが今でも記憶に残っている。

 ある時だった。
「やった、やった!」
 とうさんが興奮して叫んでいた。
「どうしたの?」
 わけがわからずに、ぼくがたずねると、
「万馬券だあ!」
 とうさんは、にぎりしめていた馬券をぼくの方に突き出した。
「まんばけん?」
「そうだ。大当たりだあ。いくらつくかなあ」
 とうさんは、コースの反対側の大きな電光掲示板の方をながめている。
「やった、三万二千二百円だ」
 ぼくがキョトンしてみていると、
「この千円の馬券が、三十二万二千円になったんだぜ」
「すげえ!」
 わけもわからずに、ぼくは答えていた。
 とうさんは、ぼくの手を引いて払い戻しの機械に並んだ。

「新宿まで」
 とうさんは、競馬場の正門でタクシーに乗りこむと、大きな声で運転手にいった。
 いつもなら、帰りにはスッカラカンになっていて、往きに買っておいた切符で電車を乗り継いで帰っているところだ。
「だんな、いい景気ですね。勝ったんですか?」
「うん、今日もぜんぜんだめでさあ。それがさいごの12レース」
「えっ。じゃあ、あの馬券、取ったんですか?」
「おお、6番、13番、8番よお」
「そりゃあ、どうもおめでとうございます」
 とうさんは、ごきげんで運転手と話をしている。
 やがて、車はにぎやかな場所に着いた。
 タクシーを降りるときに、とうさんは、
「釣りはいいから」
とかいって、一万円札を運転手に押し付けていた。
 とうさんは、大きな看板のかかったレストランにぼくを連れていった。そして、テーブルにならべきれないくらいのごちそうを取ってくれた。
 ビーフステーキ、エビフライ、とんかつ、サラダ、……。
 でも、それらがどんな味だったかは、もう忘れてしまった。もしかすると、いつか海の近くの競馬場で食べたスイトンの方がおいしかったのかもしれない。
 その後、とうさんはきれいなおねえさんがいっぱいいる場所に、ぼくを連れていった。ふだんはお酒を飲まないとうさんは、一番きれいなおねえさんにつがれたビール一杯で、真っ赤になってしまった。
 そして、ぼくにむかって、
「おかあさんには内緒だぞ」
と言って、わらっていた。

 ふと気がつくと、いつのまにか競馬中継は終わっていた。
ぼんやりしていたので、ダービーの結果は覚えていない。ただ、アナウンサーの絶叫と、観衆の大歓声が遠くに聞こえたような気がした。
 でも、きっと今日も馬券をめぐって、泣き笑いをしている人たちがいることだろう。
 テレビは、次のゴルフの番組が始まろうとしていた。
 リモコンでテレビを消した。
(競馬場かあ)
 遠く離れたこの部屋にいることが、なんだか少し物足りない気分だった。
そして、急に競馬場へ行きたくなってしまった。
 ぼくは、思わず椅子から立ち上がっていた。
 もうあれから、十年近くもたってしまっている。どうやって競馬場へ行けばいいかさえもわからない。だいいち、中学生だけで競馬場に入れるのかどうかさえあやしかった。
 それに、今から行ったのでは、最終レースにも間に合わないだろう。きっと、今ごろは、大勢の人たちが競馬場からはき出され始めているに違いない。
 でも、ぼくはどうしても競馬場に行きたかった。
そして、そこでまた迷子になろう。ぼくが競馬場をさまよっていたら、どこかでとうさんに会えるような気がした。万馬券をにぎりしめて、あの笑顔を浮かべて。


万馬券
平野 厚
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サイレント・ウォー

2020-02-18 08:57:20 | 作品
 目標まで、あと五キロメートルになった。
そこを過ぎると、ミサイルはぐんぐんと高度を落としていった。
 地上は、徹底した燈火管制でまっ暗だった。
 でも、赤外線カメラは、ところどころすでに破壊された町並みをとらえていた。
(見えた!)
 前方に、目標とする軍需工場の建物が映った。
 ミサイルはますます高度を下げていく。みるみる工場の建物が大きくなっていった。そして、画面いっぱいにひろがった。
 ガガガーン!
 大音響とともに、一瞬、画面いっぱいにまぶしいほどの白い閃光が拡がった。
 次の瞬間、画面は上空高くに舞い上がっていった。
もうカメラの視点は、ミサイルからは切り離されている。
 画面の視野が、どんどん広がっていく。
真っ赤な火柱をあげた工場の全景が見える。モクモクと立ち上る黒煙を、カメラはとらえていた。
(やったあ!)
ミサイル攻撃は見事に成功した。

 最終戦争が始まって、四年の月日が流れていた。紆余曲折はあったものの、最終的にはわが国の一方的な勝利で終結することが、確定的になりつつあった。
 ある国の独裁者によって始まった世界中を巻き込んだ果てのない軍拡競争。それに、とうとうひとつの終止符がうたれるのだ。
 でも、それは、ひそかに世界制覇を目指していた我が国の支配層にとっては、またとない機会だったかもしれない。
 巧みな外交戦略によって国際情勢をこちらの思う通りに操り、戦争の大義名分は完全にこちらのものとなっていた。
我が国は、単独ではなく多国籍軍の一員として、敵と戦えばよかった。
たとえその戦力が、実質的には我が軍が大多数を占めているとしても、国際世論は完全にこちらを支持していることになる。
 しかも、他国との長い戦争で疲れきっている敵側には、最新兵器で武装した我が軍に立ち向かえるはずもなかった。わが国は、漁夫の利を得ていたのだ。ミリタリーバランスは、初めから崩れていた。あとは、定石どおりに相手を孤立させて、攻めていけば良かった。 
 そして、それももうじき全てが終了する。世界制覇に向けての最終戦争は、いよいよ最後の段階を迎えていたのだ。

 ジェット戦闘機のコックピット。ディスプレイには、さまざまな計器が表示されている。
 すでにディスプレイで、ミサイル攻撃がねらいどおりに成功したことを見とどけていた。
(よしっ)
 機体を百八十度旋回させた。これから、自軍の基地へ帰還することにした。今日の使命は、見事に果たしている。後は、無事に基地にたどりつけばいい。
 ビーッ、ビーッ、ビーッ、……。
 突然、激しいブザーの音とともに、赤い警告ランプが点った。
(しまった。地対空ミサイルか?)
 すぐに、敵のミサイルの誘導装置をかく乱させるために、妨害電波を発射した。そして、左へ大きく旋回してミサイルから逃げようとした。
 しかし、それは遅すぎたようだ。
 ディスプレイには、ミサイルがぐんぐん接近してくるのが映っている。
 グガガーン!
 すさまじい命中音とともに、機体が激しく揺れた。
 急いで緊急脱出装置のスイッチを押して、空中に飛び出した。
次の瞬間、コックピット内は真っ赤な炎に包まれた。

「ちぇっ、最後につまらない失敗しちゃったなあ」
 ススムはそうひとりごとをいうと、画面を戦闘モードから戦略モードへ切り換えた。
『 (戦果)
    軍需工場    6
    飛行場     2
    戦車     23
    戦闘機    46
    移動ミサイル 17
  (損害)
    戦闘機     5
    爆撃機     2   』
 画面に、今回の戦闘の結果が表示された。最小の損害で、最大の戦果をおさめている。作戦全体の成績については、ススムは満足していた。
 インターネットを通して、七人の対戦相手とともにはじめた世界制覇ゲーム「ファイナル・ウォー」は、いよいよ最終局面をむかえている。
 ゲーム開始の時に覇権を争っていた八カ国も次々に淘汰されて、今ではススムのひきいるキチーク共和国と、ヒロシのダトーア帝国との間の最終戦争に突入していた。
 「ファイナル・ウォー」では、国家としての立場での戦略モードから、一兵士としての戦闘モードまで、さまざまなレベルでの戦争をシミュレーションできる。
 戦略モードでは、他国との同盟関係の構築や他国同士を先に戦わせるための謀略といった外交政策が重要だ。また、兵器や食糧の増産、戦時国債の発行といった内政にも、手腕をふるわなければならない。ここでの戦争は、結果としての死者数、負傷者数、残存兵器数といった単なる数字でしかない。
 それにひきかえ戦闘モードは、個々の戦闘のリアルシュミレーションだった。ここでは、歩兵でも、砲兵でも、戦闘機パイロットでも、何の立場にも自由になることができる。さらに、人間だけではなく、ミサイルそのものになって空を飛び、目標を破壊するところをモニターすることさえ可能だった。

『敬愛するダトーア帝国の皇帝陛下へ。
 陛下もご承知のとおり、このたびの戦争はわが共和国側の一方的な優勢のまま、最終局面をむかえています。
 これ以上の無駄な血を流すことは、我々の本意ではありません。
 よって、即時、無条件降伏を勧告いたします。
 もし、降伏されないならば、当方としては重大な決意で臨まなければなりません。
                           キチーク共和国大統領より』
 ススムは、ヒロシへの最後通告をキーボードで打ち込んだ。
(さて、どんな返事が来るものやら)
 ピロロロン。
 すぐに、ヒロシがメールを受け取ったことを示すサインがあらわれた。渋い表情でメッセージを読んでいるヒロシの顔が画面に見えるようで、ススムはついニヤリとしてしまった。
(おっと、最後まで油断しちゃだめだ)
 ススムはどんな返事がきても大丈夫なように、ICBM(大陸間弾道弾)でダトーア帝国の首都を地上より抹殺できるようにセットした。
 もうすでに今までの戦闘で、ダトーア帝国の迎撃ミサイル網は完全に破壊してある。ヒロシには対抗手段はないはずだった。
 やがて、ヒロシからの返事が届いた。
『親愛なるキチーク共和国の大統領閣下へ。
 丁重なる御勧告、痛み入ります。
 しかしながら、わが帝国には、敵に対して降伏するような非国民はただの一人もおりません。最後の一兵になるまで戦い続けて、潔く玉砕するつもりですので、遠慮なく「重大決意」とやらを実行してください。
                             ダトーア帝国皇帝より』
 ヒロシには、降伏する意思はぜんぜんないようだ。
(ちぇっ、手間をかけさせやがって!)
 ススムは即座に、ICBM発射の命令をキーボードから打ち込んだ。
 ブロロローン。
 ミサイルが発射台から打ち出されていく。
 十分後には、ダトーア帝国の首都は、地上より抹殺されるはずだ。

 結果が出るまでの間、ススムは一息入れるために階下の食堂へ降りていった。
 冷蔵庫からグレープジュースの1リットルの紙パックを取り出す。
「フーッ」
 コップ一杯を一息に飲み干して、小さくため息をついた。
 口の端からツツーと垂れたジュースが、ススムの白いシャツに小さな赤黒い染みを作った。

 白黒の画面にぼんやりうつった建物が、みるみる大きくなってくる。画面の右すみに表示されているミサイルの高度を示す数字は、どんどんゼロに近づいていく。
 建物が画面いっぱいにひろがった。
 命中と同時に、画面はグシャグシャに乱れてとまった。
 爆発音もしなかった。
 しばらくして、アナウンサーが抑揚のない声でしゃべり出した。
「ただいまお送りしたのは、ミサイルに取りつけられたカメラによる映像でした。一月十七日に勃発した多国籍軍と政府軍の戦闘は、今日で四週間目に入りました。多国籍軍による延べ四万八千回以上の空爆により、すでに政府軍の軍事施設は壊滅的な打撃を受けている模様です。軍事専門筋によると、戦闘は地上戦も含めた次の段階に、……」
 プツン。
 ススムは、リモコンでテレビのスイッチを切った。
 もう何回も見たミサイルの映像。
 でも、なぜか実感がわいてこない。
 色彩も音もないまったく無機質な世界。
(映像の向こうで何が起こっているのか?)
 まったく想像できない。誤爆によって一般市民にも被害が出ているというけれど、もうひとつピンとこない。よっぽど「ファイナル・ウォー」の方が、実感があった。

 勢いよく階段を駆け上がって、ススムはパソコンの前へ戻った。
 さっき発射したICBMは、すでにダトーア帝国の首都を、きれいさっぱりと地上から消滅させていることだろう。
 今度こそ、さすがの頑固なヒロシ皇帝陛下も無条件降伏するに違いないと、ススムは思っていた。
 まず、メールをチェックする。
 何も来ていない。
(ちぇっ、強情な奴め)
 まだ無条件降伏しないなんて、とても信じられない。
 ススムはマウスを操作して、パソコンにダトーア帝国の首都を表示させた。
 パソコンの画面が切り替わった。
 あたり一面、完全に破壊されつくされている。
(やったあ!)
 ミサイル攻撃は、完全に成功だ。
 ススムは、もう一度メールをうった。
『ヒロシ、
 もういいだろ。いいかげんに降伏しろよ。
          ススム』
 今度は、単刀直入な文面にした。
 それでも、返事は来ない。
 しびれをきらしたススムは、スマホでヒロシに電話をかけた。
 ルルー、ルルー、ルルー、……。
 呼び出し音が鳴っているのに、誰も出ない。
(まさか?)
 ススムは急に不安になって、荒涼としたパソコン画面の風景を見つめた。


サイレント・ウォー
平野 厚
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天使たちの夏

2020-02-16 10:50:14 | 作品
 まとわりつく熱い風、思わずクラクラッとする強い日ざし。ぼくは夏がきらいだ。
 今、ぼくは走っている。どこかへって、いうよりは、一日に向けて走っている。
だって、夏休みの初日だもの。そうしないわけにはいかないじゃないか。
 前の方に、このあたりでは見かけない男の子が歩いている。
「おい、きみ」
 クルッとふりむいたその子は、色白でふっくらしたほほをしていた。
「きみ。わるいけど、このひもをもって、ここに立っていてくれないか」
「えっ!」
「きみ、急いでる?」
 どぎまぎした顔でその子は首を横にふった。
「それじゃ、持っててよ」
「うん」
「ピンとはっててくれよな」
 ぼくは男の子にはじをにぎらせると、ひもをくり出しながら角をまがった。そして、そばの電柱に、のこりのひもをしばりつけた。
 これで、いたずらは一丁あがり。しばらくして、あの子が一杯くわされたのに気づいた時には、ぼくはいなくなっているってわけだ。

 永遠に続くかと思われた夏の一日もようやく終わりかけ、街灯にもあかりがともった。おなかがすいて、手で押したらペコンとへこんでもとに戻らないような気さえする。
「あっ!」
 なんとさっきの男の子が、まだひもをもって同じ場所に立っていた。さすがにくたびれたのか、フェンスによりかかっているけれど、できるだけピンとはろうとがんばっている。
「ああ、やっときたね。ずいぶん長くかかったね」
 そういいながらも、にこにこしている。
 信じられない。あれからはかなりの時間がたっているんだ。
「う、うん。ここにずっと立ってたの?」
「うん。でも、少しくたびれて、時々ひもがゆるんじゃったけど、だいじょうぶだった」
 そんな言い方をされると、こっちは困ってしまう。いたずらは好きだけれど、相手を選ぶべきだった。あやまろうと思ったけれど、何といっていいのかわからない。
「ちょっと待ってて」
 ぼくはあわてて角をまがると、ひもをはずして戻ってきた。
「ありがとう。お礼にひもをあげるよ」
「わあっ。ありがとう。ほんとにいいの」
 小さな目を、せいいっぱい大きくまんまるにしてよろこんでいる。こうむじゃきに喜ばれると、また胸が痛む。

「とうさん。この子が今日ぼくと遊んでくれたんだ。それに、このひももくれたんだ。」
 ふりむくと、いつのまにか、ぼろぼろのレインコートに山高帽の男が立っていた。手にはヴァイオリンの古いケースをさげている。
(この人に、ひもをほどくところを見られたかもしれない。なぐられるかな?)
 思わず、ぼくは手足を緊張させた。
 でも、その男は、ジーッと暗いどこか悲しげな目でぼくを見ただけだった。
「とうさんは、ことばがしゃべれないんだ。でも、耳は聞こえるんだよ」
 男は何かしゃべりたそうに、口をもごもごと動かした。何も聞こえなかったけど、この子にはわかったようだ。男は、とってもやさしい目で男の子を見ていた。
「何かきみにあげたいんだけど、何もないから踊りを見せてやれってさ。」
 男の子が、ぼくにいった。
「踊り?」
 ぼくは驚いて聞き返した。
「そう、いつも踊っているんだ」
(もしかすると、この親子は大道芸人なのかもしれないな)
と、ぼくは思った。

 男の子はポケットから小さなハーモニカをとり出した。男もケースからヴァイオリンを出すと、ぶしょうひげのはえたあごにあてた。
 まずハーモニカがやわらかくふるえながら鳴り出すと、すぐにヴァイオリンが続いた。
 その旋律は、夏の夜の闇の中へとすいこまれていくようだ。
 しばらくすると、ハーモニカはやみ、ヴァイオリンの調べのみとなった。
 弱く強く、強く弱く。その音はぼくたちがいる街角を中心にして、町中に輪をひろげていく。
 ゆるくはやく、はやくゆるく。ぼくは、しだいにそのうずの中に入り込んでいった。
 男の子が踊り出した。軽やかなステップ。ゆるくそっと胸にくんだ腕。踊りながら、円を描くようにぼくのまわりをまわった。
 ヴァイオリンの調べは、始まった時と同じようにゆっくりひっそりとやんだ。
 男はヴァイオリンをさも大事そうにしまうと、さっき自分の子どもを見ていた時のようなやさしい目でぼくを見ていた。
「それじゃ、さよなら。今日はありがとう。」
 男の子はそういうと、右手でそっとぼくのほほにふれた。その手は、夕立の後のそよ風のような心地よい冷たさをもっていた。
 立ち去って行く二人の後ろ姿が、やがて道の向こうに消えていった時、ぼくはようやく自分の空腹を思い出した。



天使たちの夏
平野 厚
メーカー情報なし




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