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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ファールボール

2020-05-27 09:07:17 | 作品
 ヒロシは、大小ふたつのかぎをはずして、アパートのドアをあけた。
 入り口が北向きなので、中は真っ暗だ。手探りでスイッチを捜して、玄関の電灯をつけた。三十ワットの蛍光灯が、ぼんやりと灯る。
 いつもの習慣で、ドアの内側の郵便受けに手をつっこんでみる。
 ガスの料金表、建売り住宅の広告、そして、スーパーの特売のちらし、……。
 いろいろなものが入っている。
(あっ!)
それらにまじって、赤や青に塗り分けられた、ひときわ派手な封筒が入っていた。表には、『コーラを飲んで、東京ドームへいこう!』と、大きな文字で書かれている。
(もしかして?)
 ヒロシは急にドキドキしてきた。
 ダイニングキッチンの椅子にランドセルを放り出して、ビリビリと封筒を破いた。
(やったあ!)
 当選したのだ。封筒の中には、「おめでとうございます」の手紙と一緒に、東京ドームでのジャイアンツ対ドラゴンズ戦の招待券が二枚入っていた。
 ヒロシがこの清涼飲料水メーカーのプレゼントに応募したのは、もう三週間も前のことだった。
『毎週、毎週、東京ドームの巨人戦に、百組二百名をペアでご招待』という広告につられて、ハガキを出してみたのだ。
 応募してからの数日は、
(チケットが送られてきていないか?)
と、学校から帰るとすぐに郵便受けを念入りにチェックしていた。
 でも、その期待は、毎日、裏切られた。郵便受けの中には、たくさん入ってくる広告のチラシやダイレクトメールだけしかなかったのだ。一週間たち、二週間たちするうちに、期待はしだいに薄れていった。今では、応募したことすら、ほとんど忘れかけていたほどだ。
 ヒロシはこのチケットで、久しぶりにとうさんと野球を見にいこうと思っていた。去年までは、とうさんと一緒に、野球場へよく行っていた。ホームグラウンドは、東京ドームだった。とうさんがファンなので、ヒロシもジャイアンツを応援するようになっていた。
 ジャイアンツのビジターの試合を追って、神宮球場や横浜スタヂアムへも行った。ときには、交流試合を見るために、パリーグの西武の本拠地である西武ドームやロッテの千葉マリンスタジアムにまで、足をのばすこともあった。
 でも、今シーズンは、まだ一度もとうさんと野球を見にいっていなかった。

 ご飯はおいしそうに炊けたし、味噌汁の用意もできている。今日の味噌汁の実は、とうさんの好きな豆腐と油揚げだ。
 あとはとうさんが途中で買ってくるおかずを並べれば、夕ご飯の支度は完了する。
 今日は火曜日。火曜と木曜だけは、とうさんも早く帰ってきて、一緒に夕ご飯を食べることになっていた。
 いつもとうさんは、乗り換え駅にある駅ビルの食料品売り場で、夕ご飯のおかずを買ってくる。
 飽きないように、(和、洋、中、洋、和、洋、中、洋)というローテーションを守っている。
 テレビの時報とともに、七時から始まるNHKのニュースのテーマ曲が流れてきた。とうさんはまだ帰ってこない。
(遅いなあ)
 ニュースを見たがるとうさんがいないので、BSの野球中継に切り替えた。ちょうどジャイアンツが攻撃中だった。
その回の表裏が終了して、テレビがCMに変わっても、とうさんは帰ってこなかった。
 ルルルー、ルルルー、……。
 七時半をまわったころ、ようやく電話がかかってきた。
「はい」
 急いでヒロシが出てみると、やっぱりとうさんからだった。
「えっ? うん。……。そう」
 ヒロシはそっと受話器を置いた。とうさんからの電話は、帰りが遅くなるから、一人で、外で食べるようにということだった。
 最近は、火曜や木曜でも、今日のように帰れないことが増えてきている。平日に一緒にご飯を食べられるのは、週に一回あるかないかだ。
 おとうさんが帰れない時は、ヒロシは外食することになっている。家の近くの定食屋やラーメン店に行くことが多い。
(ご飯を炊くんじゃなかったなあ)
と、ヒロシは思った。
 せっかく炊いたご飯が、また必要なくなってしまった。冷凍庫の中には、一人前ずつラップにくるんで冷凍したご飯がだいぶたまっている。
 ヒロシは家中の電気を消すと、戸締りして玄関を出た。

 家の近くの立花食堂のガラス戸を、ヒロシはいつものように元気よく開けた。
「らっしゃい」
 カウンタの中から、おじさんが声をかけてきた。
「こんばんは」
 ヒロシはおじさんたちにあいさつすると、テレビがよく見えるいつもの席に座った。
「ヒロちゃん。今日もおとうさん、遅いの?」
 コップの水を持ってきたおばさんが、少し心配そうな顔でたずねてくれた。すっかりおなじみになっているので、火、木は家で食べるはずなことを知っているのだ。
「うん。どうしても、お得意さんの接待に、顔を出さなきゃならないんだって。でも、九時半ごろには帰れるって」
 がっかりしているのを気づかせまいとして、ヒロシは明るい声で答えた。
「今日はなんにする?」
「うーんと」
 壁にはられたメニューを、あらためてながめた。四百五十円のモツ煮込み定食からいちばん高いステーキ定食まで、いろいろな定食が二十種類近くもならんでいる。
 でも、もう一年以上も毎週のように来ているので、ほとんど食べたことがあった。
(急に帰れなくなったとうさんがいけないんだから、今日はステーキ定食でも食べてやろうか?)
 だけど、ステーキ定食は千円もしてしまう。いつもはよほどのことがないかぎり、七百円以内の物をたのんでいる。
 さんざん迷ったあげくに、けっきょく五十円だけぜいたくすることにして、七百五十円の焼肉定食にすることにした。
 ヒロシは料理ができるのを待ちながら、ちょっとピントのくるった食堂のテレビでクイズ番組を見ていた。そして、とうさんが帰ってきたら、野球のチケットのことを話そうと思った。
「はーい、お待ち」
 おばさんが、焼肉定食を持ってきてくれた。
 皿からは、うまそうな湯気がたちのぼっている。
「あれっ、おばさん。サラダはたのまなかったよ」
 お盆の上に、定食には入っていない野菜サラダがのっていたのだ。
「いいのよ。ヒロちゃん、よく来てくれるから。サービス、サービス」
 おばさんはちょっと照れくさそうに笑いながら、テレビの画面をちょうど八時になって始まったバラエティ番組から、ヒロシの好きなBSのナイター中継に替えてくれた。
「いただきまーす」
 ヒロシは大きな声でいうと、勢いよく食べ始めた。

 その晩十時を過ぎても、とうさんは帰ってこなかった。
 いつもなら遅くなるときには、
「先に寝ているように」
と、とうさんから電話がはいる。
 でも、今日はその電話もなかった。
 九時から始まった映画が終わった。ラブシーンがたくさん出てくるアクション物だった。とうさんが一緒だったら、お互いに照れくさくてとても見られやしなかっただろう。
 ヒロシはリモコンで次々とチャンネルを切り換えながら、スポーツニュースのはしごを始めた。今日は大好きなジャイアンツの羽賀がホームランを打っているので、なかなか楽しかった。
 けっきょく羽賀のホームランを六回も見ることになったけれど、それでもとうさんは帰ってこなかった。

 とうとうあきらめて先に寝ようとしたとき、ようやく玄関のドアのところで音がした。時計の針は十二時をまわっている。
「おかえり」
 ヒロシは玄関までいって、とうさんを出迎えた。
「あれっ、ヒロシ。なんだ、こんな遅くまで。早く寝なきゃだめだろ」
 酔っ払っているようで、ろれつがすっかりまわらなくなっている。
「だって、電話がなかったから」
 ヒロシは少し不服そうに答えた。
「あれっ、そうだったかな」
 とうさんは赤い顔をして考えている。
「うん、なかった」
 もう一度はっきりといってやった。
「そうか。わりい、わりい。そりゃ、おとうさんが悪かったな」
 とうさんはふらふらしながらダイニングキッチンへ入っていくと、いすにドシンと腰をおろした。
「だいじょうぶ?」
 ヒロシが心配すると、
「ああ。ヒロちゃん、悪いけど、水をいっぱい」
 とうさんは酒臭い息をはきながら、片手でヒロシをおがんだ。
「うん」
 ヒロシがコップを渡すと、とうさんはグビグビとうまそうな音をたてて、水をいっきに飲みほした。
「ふーっ」
「おとうさん、もう寝ようよ」
「ああ」
 とうさんはヒロシが差し出した手にはつかまらずに、ふらふらと自分で寝室へ歩いていった。そして、ネクタイと背広を、もどかしそうにあたりに脱ぎ散らかすと、ワイシャツ姿のまま、ヒロシが敷いておいたふとんの上に横になった。
「おとうさん」
 ヒロシが声をかけた。野球のチケットのことを、話そうと思ったのだ。
 でも、とうさんは、すぐに大きないびきをかいて眠ってしまった。

 かあさんが病気で亡くなってから、もう二年近くがたっていた。ヒロシが四年生の時だった。
 ヒロシは、去年までのように時々かあさんを思い出して、涙が出てしまうようなことはなかった。とうさんと二人だけの生活にもすっかり慣れて、洗濯だって、掃除だって、一人でできるようになっている。
 ヒロシが心配なのは、とうさんなのだ。ここのところとうさんは、かえって前よりもさびしそうだった。白髪もすごく増えて、なんだか急に年をとったように見える。
 ヒロシと二人だけの生活が始まったころ、とうさんは本当に一所懸命だった。
 毎日、なんとかして、ヒロシと一緒に夕ご飯を食べようと、必ず七時までには帰ってきた。遅れてしまったときなど、おかずの入ったビニール袋をさげて、駅から走ってきたことさえあった。とうさんは何もいわなかったけれど、玄関のドアを開けたときにまだハアハアと息をはずませていたから、ヒロシにはわかってしまった。
 土曜日や日曜日には、いつもヒロシと遊んでくれた。もちろん、毎週、毎週、遊園地へ行ったり、野球見物をしたりというわけにはいかない。忙しいときには、近所の公園で一時間キャッチボールをするだけのこともあった。それでも、なんとか一緒にがんばっていこうとしていた。
 しかし、時間とともに二人の生活は、だんだん変わってしまっていた。
 とうさんの仕事はますます忙しくなり、夕食までに帰れない日が週一日になり、やがて二日になった。そして、遅くなったときには、必ずお酒を飲んでよっぱらっていた。
 今では、土曜日にもほとんど出勤するようになり、日曜日は昼近くまで寝ていることが多くなっている。
 もう半年近くも、ヒロシはとうさんとキャッチボールをやっていなかった。

 日曜日の夜、ヒロシは久しぶりに、とうさんと一緒に夕ご飯を食べていた。
「おとうさん。六月十二日の火曜日の夜、忙しくないかなあ」
 食後のお茶を飲んでいるときに、ヒロシは野球のチケットのことをようやく話すことができた。
「えっ、なんだい?」
「チケットが当たったんだ」
 ヒロシは、二枚のジャイアンツ戦のチケットを、とうさんに見せた。
「へーっ、すごいな」
 おとうさんも、興味をそそられたみたいだ。
「一緒に行けるかなあ」
 ヒロシは、遠慮がちに聞いてみた。
「うーん、ちょっとなあ」
 とうさんは、カバンから分厚い手帳を取り出してきた。
「あー、残念だなあ。その日は、名古屋まで日帰りの出張があるんだ。試合までに戻ってくるのは、ちょっと無理だなあ」
 とうさんはすまなさそうにいった。
「……」
「ヒロちゃん。悪いけど、クラスの友だちか誰かと、行ってくれないかな」
 とうさんにそういわれて、ヒロシは仕方なくうなずいた。

 その晩、ヒロシは自分の部屋で算数の宿題をやっていた。教科書の分数の計算が、今日はなかなかはかどらない。ついつい、ジャイアンツ戦のチケットのことを考えてしまう。とうさんと見に行かれないことが、まだ残念でならなかった。
(もっと早く、チケットが来ればなあ)
 そうすれば、とうさんも都合がついたかもしれない。
(誰を誘おうかなあ?)
 クラスの友だちを思い浮かべてみた。マコトにしようか、それともケイくんがいいかな。東京ドームのジャイアンツ戦ならば、誰を誘っても大喜びで来るだろう。
 でも、ヒロシは、やっぱりとうさんと行きたかった。
 ポンポン。
 部屋のふすまを軽くノックする音がした。
「なあに?」
 振り返ると、ふすまを開けてとうさんが入ってきた。
「ヒロちゃん。おとうさん、考えてみたんだけど、なんとか仕事を三時までにきりあげれば、ぎりぎり試合に間に合うかもしれない」
 とうさんは、少し照れくさそうな顔をしてそういった。

 ジャイアンツ戦の当日になった。
 ヒロシは四時少しすぎに、新宿のホームで総武線の電車を待っていた。
 東京ドームのある水道橋駅は、ここから七つ目。十五分ぐらいでつける。六時ちょうどのプレーボールだから、時間はたっぷりすぎるぐらいだ。
 まだラッシュ前なので、ホームに入ってきた電車はすいていた。車内のところどころには、ヒロシと同じように東京ドームへ行くらしい人たちも乗っている。
 ななめ前の家族連れもそうだった。
 三年生ぐらいの男の子は、首から大きな双眼鏡をぶらさげているし、妹のほうはジャイアンツのマーク入りのメガホンを持っている。
 父親もビデオカメラにメモリーカードを入れたり、ファインダーをのぞいたりしていた。母親の横の紙袋には、大きな赤い水筒が入っている。
 男の子が妹の頭を軽くこづいて、母親に叱られていた。そして、なぜかみんなで楽しそうに笑い出した。
(やっぱり双眼鏡を持ってくれば良かったかな)
 男の子が双眼鏡で車外のけしきをながめ始めたときに、ヒロシはそう思った。
 ヒロシがかあさんと最後に野球を見にいったのは、三年前、三年生のときだった。
 場所は所沢の西武の球場。もちろん、とうさんも一緒だった。
 西武線の電車の中で、ヒロシはちょうど今日、目の前にいる男の子と同じようにはしゃいでいたかもしれない。

「じゃあ、トルコは?」
 横にすわったとうさんがたずねた。
「えーっと」
 ヒロシはあわててヨーロッパとアジアの境目あたりの世界地図を、頭の中に思いうかべた。たしかトルコはヨーロッパの一番はじで、すぐ隣からはアジアになっていた。
「あっ、わかった。アンカラだ」
 ヒロシは得意そうに答えた。
「正解。それじゃ、ブルガリアは?」
「ソフィア」
 これはすぐに答えられた。東ヨーロッパの地名は得意なのだ。
「つぎは?」
 ヒロシは勢い込んで、とうさんに催促した。家を出てからずっと、世界の首都当てクイズを出してもらっていた。
「うーん、もう忘れたよ。降参」
 とうさんが笑いながらいった。
「えーっ、もっとやろうよ」
「じゃあ、今度は県庁所在地にしたら」
 かあさんが笑いながら、とうさんに助け舟を出した。
「うん、やって、やって」
 ヒロシはとうさんにせがんだ。
「もう疲れたよ。おかあさん、代わってくれよ」
 かあさんはクスクス笑っていた。

ジャイアンツの主砲、羽賀選手がフリーバッティングをしている。
 カーーン。
 かわいた気持ちのよい音をたてて、ボールは次々に外野席へ打ち込まれていく。
 ワーッ。
 そのたびにドーム全体に歓声がおこり、試合前の興奮がいっそう高まってくる。
 フェンスぎわでは、エースピッチャーの栗田投手が軽いランニングで体をほぐしていた。
「本日の先発投手をお知らせいたします。ジャイアンツのピッチャーは栗田、……」
 ウワーッ!
 一段と大きな歓声が、場内に巻き起こった。
 試合開始三十分前。東京ドームはすでに八分の入りだった。ヒロシのまわりも、とうさんの席を除いてはほとんどうまっている。
 羽賀選手のバッティング練習が終わった。ゆっくりとベンチへ引き上げて行く羽賀選手に、ヒロシは双眼鏡を合わせた。
 さんざん迷ったあげくに、入り口横の売店で双眼鏡を借りてきていた。
 招待券の席は一応内野席とはいえ、広すぎるほどの東京ドームの一番高いところにある。そこからはグラウンドの選手の顔は、肉眼ではぜんぜん見えなかった。

 六時ちょうどに、試合が始まった。
 ワーッ。
 東京ドームは、好ゲームを期待するファンの興奮に包まれている。
 でも、とうさんはまだやってこなかった。
 一回、二回、……。
 ゲームはどんどん進んでいく。
 初回に先取点をあげたドラゴンズが、試合を有利に進めている。ヒロシの応援しているジャイアンツは、なかなかチャンスがつかめなかった。
 三回になっても、まだとうさんは現れなかった。 
 心配になったヒロシは、イニングの合間ごとに、入り口までとうさんを捜しにいった。もしかすると、渡しておいたチケットをなくして、困っているのかもしれないと思ったからだ。ヒロシは携帯を持っていないから、とうさんからは連絡できない。
でも、入り口付近には、それらしい人の姿は見えなかった。よっぽどそこにあった公衆電話からとうさんのスマホへ電話しようとも思ったが、まだ仕事中かもしれないと思うとそれもできなかった。
 回をおうごとに、ヒロシはだんだんおなかがすいてきた。
 でも、双眼鏡の借賃のほかに保証料も取られていたし、試合開始前にはコーラも買っていたので、サイフにはもう百九十円しかなかった。これでは、いちばん安いアメリカンドッグも買えやしない。
(最後までとうさんが来なかったらどうしよう?)
 そんなことまで頭の中にちらついて、ヒロシはゲームどころではなくなってしまった。

 ようやくとうさんが現れたのは、五回裏のジャイアンツの攻撃中だった。
 得点は三対一と、相変わらずドラゴンズがリードしていた。
「ごめん、ごめん」
 とうさんは、顔の前で手を合わせてヒロシにあやまった。
 出張先の仕事が長びいて、座席予約していた新幹線に間に合わなかったのだ。これでも、東京駅からタクシーを飛ばしてきたらしい。
「めし食ったか?」
 ヒロシは黙って首を振った。
「なんだ。先に食べてても良かったのに」
「これ借りたら、お金が足りなくなっちゃったんだ」
 ヒロシは、とうさんに双眼鏡を差し出してみせた。
「そうかあ。悪かったなあ」
 とうさんはすぐに売店へ走っていって、「ドーム弁当」という大きな弁当をふたつと、生ビールとコーラのLを買ってきてくれた。
 おなかをすかせていた二人は、口もきかずに弁当をガツガツと食べ始めた。とうさんも、気ばかりせいて新幹線の中で何も食べていなかったらしい。

 試合の方は、そんな二人にはかまわずに、どんどん進んでいく。依然としてドラゴンズの先発投手が好調で、ジャイアンツはなかなか点が取れない。
「あーあ」
 観衆が大きなため息をついた。ツーアウトながら満塁のチャンスを迎えていたのに、四番の羽賀が内野フライに倒れてしまったのだ。
「残念だったねえ」
 ヒロシも、隣のおとうさんに話しかけた。
「そうだねえ」
 でも、おとうさんは、どこか上の空みたいだ。弁当を食べ終わってからも、なかなかゲームに気分を集中できないようだった。
「ちょっと電話をしてくる」
 おとうさんは、そういってスマホを取り出しながら立ち上がった。
(どうしたんだろう?)
 十分以上たって、おとうさんはようやく帰ってきた。もしかすると、仕事の途中だったのを、無理して来てくれたのかもしれない。そう思うと、ヒロシの方も、心の底からはゲームを楽しめなくなってしまった。

 ゲームは、終始ドラゴンズペースで進んでいた。八回の表を終わって六対一と、ジャイアンツは五点もリードされている。
 この回の先頭バッターは、四番の羽賀。
 でも、東京ドームの観衆には、早くもあきらめムードがただよっていた。中には、帰りかけて通路で振り返りながら見ている人もいる。きっと羽賀が凡退したら、そのまま帰ってしまうつもりなのだろう。
 ヒロシも大好きな羽賀選手の打席なのに、ついぼんやりとしてしまっていた。
 カーーン。
 歓声になりかかった声が、すぐにため息にかわった。
(ファールかな)
と、ヒロシは思っていた。
 アアーッ。
 まわりの人たちが大声を出した。
 顔をあげると、ファールボールがグングンきれながら、すぐそこまでせまっていた。
「あっ!」
 ヒロシは、思わず目をつぶってしまった。
「あぶない!」
 とうさんが大声を出して、ヒロシにおおいかぶさってきた。ワイシャツにしみこんだ汗の匂いに混じって、小さいころ同じふとんで寝たときのとうさんの匂いがした。
 ゴン。
 ボールの当たる鈍い音と同時に、
「ウッ!」
と、とうさんが短くうめく声が聞こえた。
 でも、とうさんは、すぐにヒロシに声をかけた。
「だいじょうぶかっ?」
 目を開けると、すぐそばに心配そうなとうさんの顔があった。
「うん」
「どこにも当たらなかったか?」
 とうさんは、まだ真剣な声を出していた。

「すみません。ボールが当たりませんでしたか?」
 係のおにいさんが、白い帽子をぬぎながらあやまっている。
「えっ? あっ、いてて」
 とうさんは、急に左腕を押さえて顔をしかめた。
「もし、あまりお痛みのようでしたら、医務室で応急手当てはできますけれど」
「うーん、まあ、いいや」
「そうですか。それで、ボールは?」
「えっ?」
 とうさんは、あわててあたりをキョロキョロし始めた。ヒロシやまわりの人たちも椅子の下などを捜したが、ボールはどこにも見当たらなかった。
 ワーッ。
 急に歓声が巻き起こった。
 あわててグラウンドを見ると、羽賀の打球が左中間の真ん中を抜けていくところだった。
 ゆうゆうとツーベースヒット。
 双眼鏡でのぞくと、羽賀は得意そうな顔をして、二塁ベース上でガッツポーズをきめている。
 羽賀のツーベースをきっかけに、試合は急に盛り上がっていった。
 その回は同点にこそならなかったものの、ジャイアンツが三点を返して、六対四と二点差にまで詰め寄っている。
「いい試合になってきたな」
 タンクをかついだおねえさんから新しく買った生ビールを、とうさんはグビグビと気持ちのいい音をたてて飲み始めた。
「うん、代打の山内がヒットだったら、もっと良かったのにねえ」
 ヒロシも、とうさんが買ってきてくれた鶏の唐揚げをかじりながら答えた。
「ああ。もうちょっとだったな。あれが抜けてたら、二塁ランナーの石塚は俊足だから、同点になっていたかもしれん。でも、つぎの回も羽賀までまわるから、うまくいけば逆転できるかもしれないぞ」
 とうさんはそういって、残っていた生ビールを一気に飲み干した。
 逆転の期待をしているのは、ヒロシたちばかりではない。げんきんなもので、二点差になったとたんに、帰りかけた人たちまでが席へ戻ってきている。

「あーあっ」
 とうさんが大きなため息をついた。
 ジャイアンツの最後のバッター山森が、ドラゴンズのクローザー(試合の最後を締めくくるピッチャー)の上村の速球で、セカンドフライに打ち取られたのだ。
 六対五。ドラゴンズが、なんとか一点差で逃げきってしまった。
「残念だったなあ」
 とうさんは席を立つのを、まだ名残惜しそうにしていた。
「悔しいねえ」
 ヒロシも腰をおろしたまま答えた。
 でも、最後にきて盛り上がったゲーム展開には、充分満足していた。ジャイアンツは、最終回も羽賀のタイムリーヒットで一点差にまで詰め寄ったのだ。
 それに、その一球一球のプレーを、とうさんと一緒に大声を出して思いきり応援できたのもうれしかった。
「よーし、行くか」
 とうさんはようやく立ち上がると、大きくひとつ伸びをした。
「うん」
 ヒロシも立ち上がると、家から持ってきたとうさんと自分の野球観戦用の小さなビニール座布団を、手提げ袋に入れようとした。
「あっ!」
 思わず声を出してしまった。
「どうした?」
 先に歩きだしかけたとうさんが振り返った。
「おとうさん、これ」
 ヒロシはそっと紙ぶくろを開いてみせた。
 中には硬式ボールがひとつ入っていた。
「えっ? ああ、さっきのファールボールだな」
「うん。気づかないうちに、紙ぶくろの中に入ってたんだ」
「ふーん。でも、うまいこと入ったもんだな」
 とうさんは、感心したようにボールを見ていた。
「どうしようか? 係の人に返したほうがいいかなあ?」
「いやあ、最近はファールボールももらえることになったんじゃないかな」
「そう?」
「いいから、もらっておけよ」
 とうさんは、急にニヤッと笑って付け加えた。
「もしほんとはもらえなくても、治療代の代わりだよ。」
 とうさんは、ワイシャツの袖をまくってみせた。さっきボールがあたったところが、青くあざになっている。
「そうだね、治療代だね」
 ヒロシもうなずいた。
「うん、そうだ。治療代だ」
「ふふふ」
 わざとまじめくさった顔をしてみせたとうさんが、ヒロシにはおかしかった。
「ははははは」
 とうさんも、おかしそうに大声で笑い出した。
 そして、ヒロシはいっしょに大きな声で笑いながら、このボールで今度の日曜日に、とうさんとキャッチボールをしたいなと思っていた。

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トールちゃん

2020-05-06 09:28:36 | 作品
 久しぶりに晴れ上がった青空を、ピイピイと鳴きかわしながらヒバリが飛びまわっている。
芳樹たちヤングリーブスは、町営グラウンドで春季大会の一回戦を戦っていた。
 相手チームの攻撃中だった。センターの前方に、小さなフライがフラフラッとあがった。ツーアウトだったので、満塁のランナーはいっせいにスタートを切っている。
「オーライ、オーライ」
 センターのトールちゃんが、すごい勢いで前進してきた。
(なんなくキャッチ)
と、思ったら、勢いあまってボールがグラブから飛び出した。
「うわあ!」
 ヤングリーブスの応援席から、悲鳴があがりかける。
 トールちゃんは、けんめいにダイビングキャッチ。なんとか地面に落ちる前に、もう一度ボールをつかんでいた。
「あぶねーなあ。落としてたら、二点は入っちまうとこだった」
 ベンチでは、監督が苦笑いしている。そんなことにはおかまいなしに、トールちゃんはキャッチしたグローブを誇らしげにかかげながらかけてきた。
「いいぞ、トールちゃん」
「ナイスキャッチ」
 応援席からは、自作自演のファインプレーに大きな拍手と声援が飛んだ。
 トールちゃんは最上級生の六年なので、本来ならばもっと経験を必要とする内野をやっていなければならない。
 でも、あぶなっかしいプレーが災いして、今年も引き続き外野を守っている。
 そのせいもあって、五年生の芳樹や良平たちが、サードやショートといった重要なポジションを守らねばならなかった。
「本当は、お前たちがやらなきゃいけないんだぞ」
 監督にそうハッパをかけられると、外野にまわされている六年生たちは、みんな小さくなって肩をすくめていた。
 でも、トールちゃんだけは、そんなことはぜんぜん気にしていないようだった。だから、監督に(ノーテンキなトールちゃん)なんて、古くさいニックネームで呼ばれるのだ
「バッチ、積極的に打っていこうぜい」
 コーチスボックスから、トールちゃんの元気のいい声がグランドに響いた。トップバッターのトールちゃんは、すでに豪快な空振り三振をきっしている。そのままベンチには戻らずに、一塁コーチになっていた。
 本来、ベースコーチは、下級生や補欠の選手の役目だ。
 でも、六年生の中で、トールちゃんだけはいつも率先して務めていた。
 二番バッターの芳樹への投球は、外角に大きくはずれた。
「ピッチ、怖がってるよお」
 トールちゃんの声が、さらに大きくなった。
 ベンチにいても一番声を出しているし、守備でもセンターから大きな声でピッチャーをはげましていた。監督にいわせると、ムードメーカーとしての貢献度は、トールちゃんが断然ナンバーワンということになる。

 芳樹の送りバントが、サードの前にコロコロところがった。
「ファースト!」
 二塁はあきらめて一塁へ投げるように、キャッチャーが三塁手に指示している。
 送りバント成功。
 最終回の裏で、5対5の同点だった。
 ワンアウト二塁にして、一打サヨナラの絶好のチャンスをむかえられる。
「あっ、馬鹿っ」
 監督が大声でうめいた。応援団からも、悲鳴のような声がわきあがっている。
 一塁でフォースアウトされた芳樹は、三塁方向に振り返った。一塁ランナーだったトールちゃんが、送球の間に強引に二塁をけって三塁へ走っていたのだ。完全な暴走だ。
 一塁手はすばやく三塁へ転送。タイミングは完全にアウトだった。
 ところが、あわててベースに戻った三塁手が、ボールをうしろにそらしてしまった。
「まわれ、まわれ」
 ベンチの大騒ぎに、スライディングで横になったままだったトールちゃんが、あわてて立ちあがった。振りかえると、ボールはファールグラウンドを転々ところがっている。トールちゃんは、けんめいにホームを目指して駆け出した。
 ホームイン。サヨナラ勝ちだ。
「ウワーッ」
 芳樹は、大喜びでトールちゃんに駆け寄っていった。他のチームメイトも飛び出してきて、トールちゃんはもみくちゃにされてしまった。
 監督はベンチでまた苦笑いしていたけれど、とにかくこれで一回戦を突破だ。

「ありがとうございました」
 キャプテンの誠くんのかけ声とともに、みんなで応援団の前に整列して試合後の挨拶をした。
「いいぞお!」
「トールちゃん、最高」
 ベンチ横に集まった応援団から声援が飛ぶ。チームのみんなも、一回戦突破に大喜びだ。中でも、トールちゃんは最後のファインプレー(?)のせいもあってか、一番うれしそうな顔をしている。
 試合が行われている町営グラウンドは、チームのある地域から近いこともあって、応援の家族の人たちがいつもよりも多かった。
芳樹のとうさんとかあさんも、今日はスマホやタブレット端末で芳樹の動画や写真を撮りながら、試合を見ている。チームの中心である六年生の親たちは、もちろんみんな顔をそろえている。
 しかし、トールちゃんの両親だけは、その中に姿がなかった。今日に限らず、トールちゃんの両親は、練習はもちろん、試合にさえほとんど顔を見せなかった。
 チームの裏方の仕事は、六年生のおかあさんたちが中心になって行っている。練習グラウンドの予約、会計、備品の購入、食べ物や飲み物の準備など、仕事はたくさんあった。
 グラウンドの整備、練習の手伝い、チームの車での送迎、審判やスコアラー。こういった仕事は、六年生のおとうさんたちが中心になって手伝っている。
 しかし、トールちゃんの両親は、おとうさんはもちろん、おかあさんさえめったに顔を見せなかった。うわさでは、トールちゃんのにいさんがチームにいたとき、中学受験のためにシーズンの途中で主力選手だった彼をやめさせて、監督たちともめたらしい。

「それじゃあ、みんな一列に並んでえ」
 チームのマネージャーをやっている誠くんのおかあさんが、おにぎりの入った大きな袋を手に、みんなに声をかけた。まわりには他の六年生のおかあさんたちも、飲み物やお菓子の入った袋を持って立っている。
「うわーっ」
 お腹をすかせていたみんなが、われ先にと押し寄せた。芳樹はすばやくまっさきにならぼうとしたが、トールちゃんに押しのけられて先頭を奪われてしまった。
「トールちゃん、押すなよ」
 芳樹が文句をいっても、トールちゃんはしらんぷりをしている。
「だめだめ、小さい子順だぞ」
 キャプテンの誠くんが、押し合いへしあいしているみんなにいった。
「ちぇーっ、ずりいなあ」
 トールちゃんはさも残念そうに顔をしかめながら、列の後にまわった。
「ブー、ブー」
 他の六年生たちが、口をそろえてからかっている。
 午後の二回戦に備えて、近くの公園でお昼を食べることになっていた。六年生のおかあさんたちがみんなからあずかっていたおにぎりと飲み物。それに、劇的な勝利に大喜びの応援団からは、アイスやお菓子も差し入れされて、豪華版の昼食になっていた。
 芝生の広場にひろげたシートの上で、みんな思い思いにおにぎりをほおばっている。
 こんな時、食べるのが一番早いのもトールちゃんだ。隣にすわった芳樹が最初のおにぎりを半分も食べないうちに、割り当ての2個をペロリと食べて、もうお菓子に取りかかっている。
 みんなのまわりでは、監督やコーチ、それに応援の家族の人たちもいっしょにお昼を食べている。
「徹(とおる)。おまえ、なんで3塁へ走ったんだあ?」
 真っ先に食べ終わって立ち上がったトールちゃんに、監督が声をかけた。
「えーっと、実はツーアウトだとかんちがいしちゃって。えへへ」
 トールちゃんはペロリと舌を出した。
「おいおい、またかよ。アウトカウントをしっかり覚えておけって、いつもいってるだろ」
 監督があきれ顔をすると、
「まあ、いいじゃないですか、勝ったんだし。そんな細かいことは」
 そういって、トールちゃんは監督の肩をポーンとたたいた。
「あーあ。おまえは、本当にうちのラッキーボーイだよ」
 とうとうあきらめたように、監督がため息をついた。
「トールちゃんにかかっちゃ、さすがの鬼監督もかたなしですね」
 打撃担当の佐藤コーチがすかさず口をはさむと、他のコーチや応援の人たちも楽しそうに笑いだした。

 しばらくすると、食べ終わったみんなは、公園の砂場で遊びだした。芳樹たち五年生も、下級生たちと一緒に砂の山を作りはじめた。
 でも、てんでんバラバラにやっているので、ごちゃごちゃしていて何がなんだかわからない。
「だめだめ、そんなやり方じゃあ」
 トールちゃんがそういいながら、のりだしてきた。
 砂場のまん中に陣取ると、みんなを指揮してひとつの大きな山をこしらえ始めた。練習とは違って、こんな遊びの時は、不思議とみんながトールちゃんのいうことをきく。
 砂山のまわりにちらばったみんなを指揮するトールちゃん。遠くから見たら、まるでサル山のボスザルのように見えたことだろう。
 トールちゃんの指示で、交代で水のみ場から空いたペットボトルで水をくんできた。それで砂を固めながら、せっせと大きな山を築いていく。
 さらに、まわりに道をつけたり、トンネルをほったりもし始めた。砂山はしっかり固めてあるから、ミニカーだったら2車線は十分とれそうな見事なトンネルが完成した。
 トールちゃん以外の他の六年生たちは、そんな遊びには加わらずに、自分たちだけでおしゃべりしていた。もうこんなことには卒業した気でいるのだろう。
 砂場のまわりでは、まだチームにも入っていないメンバーの幼い弟や妹たちが、泥団子を作り出していた。
 すると、トールちゃんは、今度はそちらへいって、ピカピカの泥団子の作り方を教え始めた。
 いつも遊んでくれるトールちゃんに、みんなすっかりなついている。中には、トールちゃんのひざの上にのっかって、泥団子を作っている子までがいた。
「昔は、ああいうガキ大将がどこにでもいたんだよなあ」
 監督が、そんなトールちゃんを見ながら、まわりの大人たちに話しているのが聞こえた。
 たしかに、芳樹自身も、にいちゃんが中学生になってからは、トールちゃんと遊ぶ方が多いくらいだった。近所の小栗公園にみんなが集まって、野球やサッカーなんかをやっている。
 そこに行けば、いつも誰かがいるので、けっこう遠くから遊びに来ている子たちもいる。
 トールちゃんは、そこでもみんなの中心だった。どんな遊びをやる時も、大きな子も小さな子も楽しめるようによく気を配っていた。
 トールちゃんがいない時は、同じぐらいの年齢の子たちだけでバラバラに遊んでしまうので、ぜんぜん盛り上がらなかった。
 トールちゃんを見ていた監督が、ふと思いついたように携帯を取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。
「あっ、もしもし、江川さんのお宅ですか? ヤングリーブスの松永です」
「……」
「いえ、こちらこそ」
「……」
「今日はお忙しいですか?」
「……」
「いや、何、徹が一回戦で大活躍でして」
 どうやら、トールちゃんの両親に、試合を見に来てくれるように頼んでいるらしい。
 監督は、けっこう長々と電話していた。
「そうですか、ご主人も。それじゃ、お待ちしてますから」
 監督は、ようやく満足そうな表情を浮かべて電話を切った。

 トールちゃんの様子が変だ。
 芳樹はウォーミングアップの時、トールちゃんとキャッチボールをしていた。
 でも、こちらが「いくぞ」って声をかけても、なんだか上の空みたいだ。
 いつもなら、「ナイスボール」とか、「しっかり投げろ」とか、一球ごとにかけ声をかけてくるのだ。一緒にやっていると、うるさいぐらいだった。
 ところが、さっきからずっとだまったまま。機械的に、ボールを受け取ったり、投げたりしているだけだ。そして、さかんにバックネットの方を、チラチラと横目で見ている。
 芳樹が振り返ってみると、そこには二人の人がすわっていた。立派な口ひげをはやした男の人と、眼鏡をかけたまじめそうな女の人。
(ははあ)
たぶん、さっき監督が電話していたトールちゃんのおとうさんとおかあさんだ。
 でも、そう知っていなければ、とても「ノーテンキなトールちゃん」の両親には見えない。とてもまじめそうな人たちだった。それに、二人とも、今まで練習はもちろん、試合でも見かけたことがなかった。
 ヤングリーブスの応援団は、ベンチ裏に陣取っている。一回戦の勝利が伝わったのか、だいぶ人数が増えていた。
 でも、トールちゃんの両親は、そこから離れて二人だけでバックネット裏に並んですわっていた。
 そちらを見るときのトールちゃんの横顔は、いつもとはぜんぜん違っている。ピリピリとした神経質そうな表情が浮かんでいた。
 キャッチボールを終えてベンチに戻ったら、監督がバックネット裏へ向かって歩いていくところだった。どうやら、トールちゃんの両親が来ているのに、気がついたようだ。
「どうも、およびだてしてしまって」
 監督は、二人に近づきながら声をかけた。
「いえ、こちらこそ、いつも徹がお世話になりまして」
 急いで立ち上がったおかあさんが、あわててあいさつしている。となりでは、ひげのおとうさんも頭を下げていた。
「徹はすごく良くなりましたよお。いつも先頭にたって、チームをひっぱってくれてます」
 監督がニコニコしながらいっている。
「いーえ、いつもご迷惑ばかりで。秀平と違って、この子は……」
 おかあさんが徹のにいさんを引き合いにだそうとしたので、監督があわててさえぎった。
「いえいえ、そんなことはありません。徹は小さな子たちにもやさしくて、チームワークのかなめなんですよ」
「そうですかあ」
 おかあさんは、意外そうな顔をしていた。
 でも、やっぱりほめられれば、まんざらでもない様子だった。いかめしい顔をしたおとうさんも、少しだけ表情をゆるめていた。

 二回戦の試合が始まった。後攻のヤングリーブスが、守備位置についている。
 でも、なんか変だ。センターのトールちゃんから、いつものような元気な声が聞こえてこない。
 芳樹がサードからセンターを見ると、すっかり固まっているみたいだ。接着剤か何かで、ガチガチにされてしまったみたいに見える。
 先頭打者が四球で出た。相手チームは、手堅く送りバントでランナーを二塁に進める。
 しかし、ピッチャーの誠くんは、次の打者をうまく打ち取った。
 平凡な浅いセンターフライだ。いつもなら、センターのトールちゃんが大声で「オーライ」と叫びながら、猛然と突っ込んでくるところだ。
 ところが、今はだまったままゆっくりと前進してくる。なんだか、ヨロヨロしているようにさえ見えた。
「トールちゃん!」
 思わず芳樹は叫んだ。
 しかし、打球はトールちゃんの目の前で大きくはずむと、頭の上を超えていってしまった。
 我に返ったトールちゃんが、帽子を飛ばしながらけんめいに追いかける。
 でも、ボールはコロコロと、芝生の上をどこまでもころがっていく。ようやく追いついたときには、バッターもすでに3塁ベースをまわっていた。
「バックフォーム!」
 芳樹は、中継に入った良平に叫んだ。
 でも、とても間に合わない。
 ランニングホームラン。いきなりのトールちゃんのミスで、早くも2点も奪われてしまったのだ。
 その後も、トールちゃんは失敗続きだった。
しかも、いつもの暴走気味のハッスルプレーがわざわいしていたのではない。消極的なプレーでのミスばかりが目立っていた。
 守備では、いつもならなんでもないようなフライを、および腰で落球してしまった。
 バッティングでは、一球も振らずに見送りの三振。やっと四球で出塁したと思ったら、けんせい球であっさりさされてしまった。
 失敗しないように、失敗しないようにと、気をつければつけるほど、かえってつまらないミスをしてしまうようだ。
 芳樹の目から見ても、トールちゃんの持ち味である思いきりの良さが、完全に失われていた。
「うーん。せっかくおとうさん、おかあさんに来てもらったから、まさか代えるわけにもいかないしなあ」
 ベンチの中で監督がうめいているのが、すぐそばのサードを守る芳樹にも聞こえてきた。
 それでも、相手チームのミスにも助けられて、この試合もなんとか8対7で勝利をおさめることができた。
 これで、来週の準決勝に進出だ。それにも勝てれば、いよいよ優勝をかけての大一番となる。
 試合後、いつものようにベンチ前に選手が整列した。
「ありがとうございました」
 いっせいに帽子をぬいで、応援団に礼をした。
「いいぞお」
「来週も頑張れよ」
応援席からは、いっせいに声援がとぶ。
 しかし、トールちゃんの両親だけは、いつのまにかバックネット裏から姿を消してしまっていた。

 次の日曜日。今日も朝から晴れ上がって、もってこいの野球日和だ。
 準決勝の相手は、城山ジャガーズ。秋の新人戦では優勝している強豪チームだった。
 この強敵に勝てれば、いよいよ午後には決勝戦だ。
「お願いしまーす」
 ホームプレート前で、両チームの選手が元気良く礼をした。
 後攻のヤングリーブスのメンバーが、いっせいに駆け足で守備に散っていく。
「がんばれーっ」
「落ち着いていけーっ」
 ベンチ裏に陣取っていたヤングリーブスの応援団も、いつもより盛り上がっている。
 ジャガーズの先頭バッターが、バッターボックスに入った。
「しまっていこーっ」
 キャッチャーの康平が、マスクをはずして守備陣に声をかける。
「がんばっていこうぜい!」
 センターの方から、いつもよりも大きなトールちゃんの声が、グラウンドに響き渡った。
(そうか!)
 芳樹は、トールちゃんの両親の姿が、応援席にもバックネット裏にも、見えないことに気がついた。

 目の高さぐらいのくそボールだった。
 でも、トールちゃんは、大根切りで思いっきりバットを振ってしまった。
「あっ、ばか」
 監督のうめき声が、ネクストバッターサークルの芳樹にも聞こえた。
 最終回の裏、4点差で負けているけれど、ツーアウトながら満塁のチャンスを迎えていた。しかも、ツーストライクスリーボール。見逃せば押し出しで3点差になる場面だった。
 トールちゃんの打球は、ショート真っ正面のゴロ。
(万事休す)
 と、思った瞬間、小石にでも当たったのか、ボールがポーンと跳ね上がった。ショートのグローブをかすめて、左中間を抜けていく。
 スタートを切っていた満塁のランナーが、続々とホームへ帰ってくる。トールちゃんも三塁をけると、バンザイしながらホームイン。
 ランニング満塁ホームラン。ヤングリーブスは土壇場で、9対9の同点に追いついた。
 トールちゃんは、監督やコーチたち、それにベンチのみんなと、ハイタッチをして大はしゃぎだ。
「さすが、トールちゃん」
「ラッキーボーイ」
 応援団からも声がかかる。ゲームは、完全にヤングリーブスペースになった。
 でも、次の芳樹は残念ながらピッチャーゴロに倒れて、試合は延長戦にもつれ込んだ。

「うっ、まずい」
 ベンチの中で監督がつぶやくのが、グローブを取りに戻った芳樹に聞こえた。
 振り返ると、グラウンドの向こうの方からトールちゃんの両親の姿が見えた。二人とも、何やら大きなビニール袋をかかえている。
 この試合に両親が来なかったせいか、トールちゃんはいささかやけっぱちに見えるほどの思い切ったプレーを見せていた。
 守備では、右中間を抜けそうな当たりをダイビングキャッチ。四球で塁にでれば、ノーサインなのに強引に走って、二盗、三盗を決めていた。
 そして、極めつけがさっきの大根切りランニング満塁ホームランだ。
 でも、それがチームにツキを呼び寄せて、強豪ジャガーズと互角の試合をしていた。
 しかし、おとうさんとおかあさんが、来てしまったのだ。
(先週の二の舞にならなければいいけど)
と、芳樹は思いながらサードの守備位置につくと、心配そうにセンターのトールちゃんの方をみた。
「ピッチ、打たせていこうぜい」
 あいかわらず元気に、トールちゃんがさけんでいる。どうやら、両親が来たことにまだ気づいていないようだ。
(どうぞ、このまま気がつきませんように)
 芳樹は、思わず野球の神様(?)に祈った。
 少年野球の延長戦は、試合時間を短くするために促進ルールで行われることが多い。ノーアウト2塁3塁の場面で、何点取れるかを競うのだ。
 先攻のジャガーズのランナーたちが位置についた。芳樹は三塁ベースについて、けんせい球に備えた。
 ピッチャーの誠くんは、ボールを散らして、相手になかなかスクイズをさせなかった。
 ツーストライクツーボール。
 次が勝負だ。
スリーバントスクイズをやってくるか? それともヒッティングか?
(うまい!)
 芳樹は、サードベースで思わず感心してうなった。
 誠くんが、うまくボールを外角高めにはずして、先頭バッターのスクイズをファールさせたのだ。スリーバント失敗の三振なので、これでワンアウトになった。
 ホームへスタートを切っていた三塁ランナーが、ベースに戻ってくる。
 サードの芳樹がすぐそばの応援団をチラッと見ると、トールちゃんのおかあさんがニコニコしながら大きな袋を誠くんのおかあさんに渡している。どうやら差し入れのようだ。ひげのおとうさんも、今日はバックネット裏ではなく、応援団の中に腰をおろしている。
「バッチ、いいぞお」
 トールちゃんの大声がグラウンド中にひびいた。
(まだ、だいじょうぶだ。気がついていない)
 芳樹は、また試合に集中した。
 続くバッターへの誠くんの第一球。
 カーン。
 大きなフライがセンター方向に飛んでいった。
 でも、俊足のトールちゃんはすばやくバックすると、すでに落下位置に入っている。
 しかし、サードランナーがタッチアップでホームインするには、十分な飛距離だ。
 トールちゃんは、少しうしろに下がってから前に出ながらキャッチして、すごい勢いでバックホームした。
「ダイレクト!」
 芳樹が大声で叫んで、中継に入ろうとした誠くんをとめた。
 いいボールが、マウンドの前でワンバウンドして、ホームへ戻ってくる。
 キャッチャーの康平は、ホームをがっちりとブロックしながらキャッチすると、スライディングしてくるランナーにすばやくタッチした。
「アウート」
 主審が叫んだ。
 一瞬のうちにダブルプレーが成立して、ヤングリーブスは促進ルールを見事に無失点で切り抜けたのだ。
 次はヤングリーブスの攻撃の番だ。
 前の回のバッターがランナーになるので、三塁ランナーはトールちゃん、二塁ランナーは芳樹だ。
 トールちゃんがホームを踏んだ瞬間に、サヨナラ勝ちでゲームセットだ。
 二人が位置につくと、三番バッターの康平が素振りしながら、バッターボックスに入った。
「リーリーリー」
 トールちゃんは慎重にリードを取りながら、大声で相手ピッチャーをけんせいしている。
(まだ、気づいてない)
 トールちゃんは、おとうさんとおかあさんが来ていることに、まだ気がついていないようだ。
「石岡、思い切って打っていけ」
 監督がバッターを名字で呼ぶのは、スクイズのサインだ。
(あっ!)
 バッテリーが、外角高めに大きくボールを外した。スクイズをよまれたのだ。康平は飛びつくようにしてバットを出したが届かなかった。スクイズ失敗で三塁ランナーがはさまれてしまう。
 ところが、三塁ランナーのトールちゃんはスタートをきっていなかった。ベースについたままのんきな顔をしている。得意のサイン見落としだ。
でも、おかげで、アウトにならないですんだ。
ツーストライクに追い込まれた康平は、スクイズはやめてバッティングに切り換えている。
ピッチャーが三球目を投げ込んできた。
康平は振り遅れて、二塁手正面のゴロだった。バックホームに備えて二塁手は浅く守っていたので、三塁ランナーのホームインは無理だ。
(あっ!)
 トールちゃんがホームへ突っ込んでいく。暴走だ。
二塁手がバックホーム。タイミングは完全にアウトだった。
 しかし、トールちゃんは猛烈な勢いでスライディングして、キャッチャーに激突していった。
 ガツーン。
 次の瞬間、キャッチャーのミットから、ボールがコロコロとこぼれ出た。
「セーフ、ホームイン、ゲームセット」
 ヤングリーブスのサヨナラ勝ちだ。
 ベンチからメンバーが飛び出していく。芳樹も遅れずに走り寄った。
みんなにもみくちゃにされながら、トールちゃんはバンザイしている。
ヤングリーブスの応援団も大騒ぎだ。その中で、トールちゃんのおとうさんとおかあさんも、同じようにバンザイしていた。



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キャッチボール

2020-05-04 09:49:20 | 作品
 五年生以下のBチームの試合が始まった。先頭バッターの打球は、平凡なショートフライだった。これなら、フライが苦手なショートの良平でもOKだ。サードの芳樹は、ボールを見上げながらすっかり安心していた。
 ところが、「オーライ、オーライ」の声が、良平からなかなか聞こえてこない。ボールを取るほうが声をかけるのが決まりなのだ。
(あーあ、また声を出してない。後で、監督に怒られちゃうのに)
と、芳樹はまだのんびりと考えていた。
 ところが、
「ショート!」
 急に監督の怒鳴り声がして、あわてて横を見た。すると、良平も、その場に突っ立ったままこっちを見ている。
(やべっ!)
 あわてて動き出したのは、二人同時だった。頭上を見上げてグラブを差し上げたまま、両側からヨタヨタとボールを追っていく。
(あっ!)
 三遊間のショートよりの所で、二人はぶつかってしまった。ボールは芳樹のグローブにあたって、外野の方へころがっていく。レフトの隼人が前進してやっとボールを拾い上げたときには、バッターはゆうゆうとセカンドベースにまで進んでいた。

「良平、一回のフライの時、なんで芳樹の顔を見てたんだ」
 監督がこわい顔をして、良平をにらみつけていた。試合後の反省ミーティングで、みんなは監督のまわりをグルリと取り囲んでいた。
「……」
 良平は、何もいえないでうつむいている。
 開始早々のあのミスをきっかけに、初回だけで大量七点も奪われてしまった。その後は、けんめいに反撃してなんとか二点差まで追い詰めた。でも、とうとう追いつけないまま敗戦が決まっていた。グラウンドでは、六年生たちのAチームが試合前の練習を始めている。
「なんでもないショートフライじゃないか。いつも芳樹にたよってばかりじゃだめだぞ。自分で取りに行かなきゃ」
 監督の声は、ますます大きくなっていく。
チラッと横目で見ると、良平の目はすっかりうるんでしまっている。まわりのみんなもうなだれたまま黙っていた。
「なんだ、もう泣いてるのか。泣けば解決するってもんじゃないぞ」
 監督が大声でどなった時、とうとう良平は泣き出してしまった。

「ねえ、よっちゃん」
 試合からの帰りの車の中で、良平が芳樹の横っぱらをつつきながらささやいた。
「なあーに?」
 芳樹が大きな声を出すと、良平は口の前に人差し指を立てて前の座席をチラリと見た。そこでは、芳樹のおとうさんが車を運転している。
(なあーに?)
 声をひそめて聞きなおすと、
「おれ、もうすぐチームをやめるかもしれない」
と、良平も小さな声でいった。芳樹はびっくりして、良平の顔をみつめてしまった。今年になってから、すでにゴンちゃんとアルちゃんがチームをやめていた。今では、四年生は二人だけになっていたのだ。
「どうして?」
「だって、監督がガミガミおこってばかりなんだもん」
 そういわれれば、たしかにそのとおりだ。芳樹たちの少年野球チーム、ヤングリーブスの監督は、町に六つあるチームの中でも、一番おっかないので有名だった。けれど、ここで良平にまでやめられてしまったら、これからBチームはどうなってしまうのだろう。五年生は四人いるけれど、三年生は三人だけだから、今でも九人ギリギリだった。このまま良平がやめたら、もう試合もできなくなってしまうかもしれない。芳樹はすっかり心細くなって、平気な顔をしてすましている良平の横顔をみつめた。

 次の日の昼休み、良平が芳樹の机のそばにやってきた。なぜか、前にチームにいたアルちゃんが一緒だった。 
「よっちゃん、おれ、やっぱりチームをやめることにしたよ」
 良平は、いきなり芳樹にそういった。
「えっ、そんなあ。そしたら、四年は、ぼく一人になっちゃうじゃない」
 芳樹があわてていうと、
「でも、おこられてばっかりで、つまらないんだもん。おかあさんに話したら、そんなにいやならやめてもいいよって、いってるし」
「そうだ。よっちゃんも、いっしょにやめちゃえばいいじゃん」
 横から、アルちゃんが無責任に口をはさんできた。そういえば、この二人は、最近よくいっしょに遊んでいる。もしかすると、良平がやめたいといい出したのも、アルちゃんに、そそのかされたせいかもしれない。
「うーん、でもなあ」
 たしかに、監督にしょっちゅうおこられるのは、芳樹もいやだった。でも、ようやく試合に出られるようになったのに、やめてしまうのはもったいないような気もする。
「よっちゃん、チームをやめないんなら、次の時、おれがやめること、監督にいっておいてよ」
「そんなあ、自分でいえよ」
 良平は、こまっている芳樹を残して、アルちゃんといっしょにさっさと行ってしまった。

 その日の夜、芳樹はテレビを見ながらビールを飲んでいるおとうさんのそばに行った。
「おとうさん、もしもの話だけど、聞いてくれる?」
「なんだい?」
 おとうさんは、おいしそうにビールを飲みほした。どうやらきげんはよさそうだ。
「もしもの話だよ」
「だから、なんのことだい?」
 芳樹は思いきって、ヤングリーブスをやめてもいいかどうかを聞いてみた。
「ふーん、でも、いきなりどうしたんだい? この前までは、試合がおもしろいって、はりきってたじゃない」
 おとうさんは、コップにつぎかけた缶ビールを持った手をとめたままいった。
「監督がね、ちょっとしたミスでも、すぐにガミガミおこるからいやなんだ」
 良平のこともいおうかなと思ったけれど、なんだか人のせいにするようなので黙っておいた。
「ふーん、でも、それは芳樹に一人前のサードになってもらいたくて、期待してるからじゃないかな」
「だけど、いろんなことを一度に注意されて、頭がこんがらがっちゃうんだよ」
「でもなあ、それはぜいたくな悩みなんだぞ。にいちゃんなんか、五年になってから野球を始めたから、やっと試合に出られるようになったのは、六年になってからだぞ」
 黙々と練習を積んでレギュラーを勝ち取ったにいちゃんのことは、いつも監督やコーチたちがほめている。おとうさんも、それにはすごく満足しているようだった。それにひきかえ、すでに試合に出ているくせにやめようとしている芳樹には、かなりがっかりしたみたいだった。

次の練習の時だった。ヤングリーブスがホームグラウンドにしているのは、芳樹たちの若葉小学校の校庭だ。集合場所には、もうメンバーのほとんどが集まっていた。
 でも、良平の姿だけは見えなかった。
「あれっ、芳樹。良平はどうした?」
 集合時間になったとき、キャプテンの明が聞いてきた。いつも二人でいっしょに来るからだ。
「わかりません」
「連絡網でも、何もいってこなかったし。しょうがねえなあ、ズル休みかあ」
 キャプテンはそういうと、他のメンバーを集めて監督たちの前に整列させた。
 その日、良平は、とうとう最後まで練習に姿を見せなかった。

 その日の夕方、芳樹は家の横手で「壁当て」をやっていた。ボールを家の壁やへいなんかにあてて、そのはねかえりをキャッチする練習だ。キャッチボールと違って、一人でだってできる。それに、ピッチングとゴロキャッチの両方の練習になった。
芳樹の家のへいは石垣ででこぼこしているので、はねかえる方向が予測できない。だから、ボールを投げたら、すばやく左右に動いてキャッチしなければならなかった。
 芳樹は、まだ四年生なのに、Bチームでサードをまかされていた。本当なら、五年生たちが守らなければならない重要なポジションだ。サードはバッターからの距離が短いから、すばやく左右にダッシュしなくてはならない。まだうまくできなくて、ノックでは監督にしかられてばかりだ。
 なんとかうまくなろうと、今日も、さっきからもう三十分以上も「壁当て」を続けている。 
 それでも、なかなかうまくできない。
 またボールを投げた。すばやく腰を落として、グローブを地面すれすれに構える。
(右だ)
 はねかえってくる方向に合わせて、すばやくすり足でダッシュする。
(あっ!)
 ボールを、グローブで大きくはじいてしまった。どうしても、すり足でダッシュする時に、グローブの位置が高くなってしまう。地面すれすれにグローブを構えたまま、移動するのが難しかった。
「よっちゃん」
 ふりかえると、声をかけてきたのは良平だった。
ベスの夕方の散歩らしい。ベスは、良平の家で飼っているミニチュアダックスだ。耳がたれていて、短いしっぽがかわいらしい。良平は、今日のヤングリーブスの練習をさぼったくせに、ケロリとしている。
(本当にヤングリーブスをやめちゃうのか?)
 のどからでかかったことばを、けんめいに飲み込んだ。なんだか聞いてしまったら、本当になるようでこわかった。
「壁当て、やってるんだ?」
 かけだそうとするベスをひっぱりながら、良平がいった。
「なかなかうまくいかないんだよ」
 芳樹は、息をはずませながら答えた。
「ふーん。ちょっと、やらしてみて」
 良平は芳樹のグローブを受け取ると、ベスのロープを芳樹に渡した。
「ベス」
 芳樹は、ベスの頭をなでてやった。ベスは、芳樹の手をペロペロとなめた。
良平は、大きくふりかぶって第一球を投げた。ボールは石垣にあたって、大きく左側にはねかえった。
(間に合わない!)
と、思った瞬間、良平はすばやくまわりこんでキャッチしていた。
 その後も、良平は右に左に機敏に動いて、上手に壁当てをこなしていた。
 今まで芳樹は、良平のことを守備が下手だと思っていた。でも、こうしてみるとなかなかのものだ。もしかすると、おっかない監督にビビッて、チームの練習や試合では、実力が発揮できていないのかもしれない。
(でも、待てよ)
 良平の守備位置はショートだ。ショートといえば、たんにゴロやフライを取るだけではだめだ。ダブルプレーや盗塁阻止など、いろいろとやらなければならない。そんな守備のかなめを、良平はまかされていた。 やっぱり良平も、監督に期待されているのかもしれない。
 30球ほどやってから、良平は壁当てをやめて芳樹にいった。
「そうだ、よっちゃん。キャッチボールやらないか?」
 良平はそういうと、ベスを連れて自分の家の方へかけていった。

 良平は、すぐにグローブを持って戻ってきた。
「じゃあ、やろうぜえ」
と、ポンポンと自分のグローブをたたきながらいった。
「行くぞ」
 芳樹は、ゆるい山なりのボールを良平に投げた。
 ポン。
軽い音を立てて良平がグローブでキャッチして、やっぱりゆるいボールを返す。
こうして、二人のキャッチボールが始まった。
 はじめは、ゆっくりと大きなホームで投げる。良平も、同じようにゆったりと投げかえす。なんだか、のんびりとしたいい気分だ。
 チームに入ってすぐのころは、練習から帰ってからも、よく二人でキャッチボールをしたものだった。
でも、そのうちに、だんだんやらないようになってしまった。今では、チームの練習以外には、ぜんぜんといっていいほどキャッチボールをやっていなかった。

 芳樹たちに、キャッチボールの大切さを教えてくれたのは監督だ。
チームに入って、最初の練習の時だった。
「一球、一球を大事にしなくてはいけない」
 監督は、みんなを見ながら大きな声でいった。
「キャッチボールは、野球の練習で一番大事なんだ。投げる、ボールを見る、ボールをキャッチする、相手との呼吸。すべての野球の要素が、この中に入っている」
 そういってから、新入りの子たちを上級生たちと組にならせた。
「じゃあ、はじめ」
 監督の合図とともに、キャッチボールが始まった。
 上級生たちは、新入りの子たちでも取りやすいようなゆるい球を投げてくれた。そして、こちらが暴投しても、すばやく動いてボールをキャッチした。
(早くこんなふうにうまくなりたいな)
 その時、そう思ったことを今でも覚えている。
 ふだんの練習でも、監督はキャッチボールにたっぷりと時間を取っている。そんな時、芳樹はいつも良平と組になってやっていた。
 でも、今日の練習では良平がいなかったので、他の人と組まなければならなかった。

 5球、……、10球、……。
 投げ合っているうちに、だんだん二人の投げるボールは速くなっていった。
 芳樹は、良平の一番取りやすい所に投げることに気を集中して、ボールを投げていた。そうすると、不思議なもので、良平も芳樹が取りやすいボールを投げてくれる。
 シュッ、……、バーン。
シュッ、……、バーン。
軽快なリズムにのって、キャッチボールは続いていく。投げるにつれて、二人の投げる球はますます速くなっている。
大きく振りかぶる。力いっぱいボールを投げる。
 シュッ、……、バシーン。
 気持ちのいい音を立てて、ボールが良平のグローブに吸い込まれていく。
今度は、良平がゆったりした大きなモーションで返球してくる。
 シュッ、……、バシーン。
 芳樹のグローブも、いい音を響かせていた。
 ボールの気持ちのいいひびきを聞いていると、もやもやしていた気持ちがだんだんはれてくるのを芳樹は感じていた。もうヤングリーブスをやめるつもりはなかった。
 気持ちがよかったのは、芳樹だけではないようだった。良平も、久しぶりに晴れ晴れとした表情でボールを投げている。
(やっぱり良平も野球が好きなんだな)
と、芳樹は思った。
 小さいころから、良平とは何をやるのも一緒だった。幼稚園でも、学校でもずっと同じクラスだ。
 ヤングリーブスに入ったのも、二人同時だった。
(これまでどおり、一緒にチームでがんばっていきたい)
 良平にも、そんな気持ちがあったはずだ。
(もしかすると、やめるのを思い直してくれるかもしれない)
 芳樹は、そんな気がだんだんしてきていた。
 暗くなってすっかりボールが見えなくなるまで、二人はキャッチボールを続けた。

 次の週の日曜日、リトルダンディーズとの練習試合があった。今日は、ヤングリーブスのホームグラウンドの若葉小学校の校庭で、行われることになっている。
 チームの集合時間になった。
しかし、この日も、良平は姿を見せなかった。
 試合前のグラウンドの準備が始まっても、芳樹は何度も校門の方を振り返ってみていた。
 でも、とうとう良平はやってこなかった。
(やっぱり、良ちゃんはやめちゃうのかなあ)
 そう思うと、芳樹はすっかりがっかりしてしまった。この前のキャッチボールの時は、チームに戻ってくれると思ったのに。
 これで今日のBチームの試合は、いつもの守備位置が組めなくなっていた。
良平の代わりに、ショートは三年生の隼人が守ることになった。隼人の守っていたレフトには、まだチームに入ったばかりの二年生が入らなければならない。すっかり心細いチームになってしまった。
(おれがやめること、監督にいっておいてよ)
 いつかの良平のことばがよみがえってくる。もちろん芳樹は、監督にはまだそのことはいっていない。良平がやめてしまうなんて、どうしても信じたくなかった。
「ヤンリー、ファイト」
「オー」
「ファイト」
「オー」
 試合前のウォーミングアップのランニングが終わった。
 みんなは、二列にひろがってキャッチボールを始めた。いつもは良平とやるのだが、今日も隼人と組になった。
 バーン。……。バーン。
(あっ!)
 隼人が投げたボールが高すぎて、グローブをかすめて後へいってしまった。
(やっぱり良平とでなくっちゃ、あの気持ちのよいリズムは生まれてこないなあ)
 芳樹はボールを追いかけながら、そんなことを思っていた。そして、キャッチボールを続けながら、良平がやってこないかと、芳樹は何度も校門の方をふりかえった。
 パパーン。
 クラクションを鳴らしながら、自動車が校庭のはずれの駐車場に入ってきた。相手チームのリトルダンディーズが、車に分乗してやってきたのだ。
 でも、良平は、とうとうグラウンドに現れなかった。

 Bチームの試合が、始まろうとしていた。
後攻のヤングリーブスが守備位置についた。
芳樹は、サードから隣のショートの方を見た。いつもなら、良平がこっちにむかって手をあげて、元気よく合図をしてくれる。でも、今日は隼人が、慣れない守備位置で不安そうに守っていた。
「隼人、ガンバ」
 芳樹は守備位置から声をかけた。
「うん」
 隼人が小さな声で答えた。
 試合が始まった。
 カーン。
いきなり打球がショートへ飛んだ。正面のゴロだ。良平ならなんなくさばけるところだ。
 でも、打球は、隼人がへっぴりごしで出したグローブの先をかすめて、左中間に抜けていった。そこには、初出場の二年の雄介が守っている。ボールはそこもぬけて、外野のうしろを転々ところがっていった。
 ランニングホームラン。あっという間に、一点取られてしまった。

 その後も、試合は相手チームの一方的なペースで進んでいった。二回を終わって、すでに7対0。
 その間に、ショートへは何度かゴロがきた。
でも、隼人は、ボールにさわることすらできなかった。
 ベンチに戻るたびに、芳樹は何度も校門の方を見た。
あいかわらず良平の姿は見えない。
(やっぱり、今日も来ないのかなあ)
 そう思いながらも、良平とキャッチボールをした時のことを思い出していた。キャッチボールを終える時、良平はじつに晴れ晴れとした顔をしていた。
「やっぱ、キャッチボールって、気持ちいいな」
 良平は山なりのボールを投げながら、こちらに近づいてくる。
「そうだね」
 芳樹もうなずいた。
「チームの練習の時は、そんな風に思わなかったのに」
 良平が、不思議そうに首をひねっている。
「やっぱり良ちゃんは野球が好きなんだよ」
 芳樹がそういうと、
「うん、そうかもしれないね」
 良平は、素直にうなずいていた。芳樹たちは、これからも時々キャッチボールをやろうと約束して別れた。
(あのときは、チームをやめないと思ったのに)
 芳樹はがっかりして、
(試合が終わったら、良平がやめることを監督に話さなければならないなあ)
と、考えていた。

 三回の表の時だった。この回もたくさん点を取られて、なお相手の攻撃中だった。
(あっ!)
 ふとふり返ると、校門のあたりに良平がいるのが見えたのだ。ちゃんとユニフォームを着ている。監督にやめるのをいいにきたのじゃなさそうだ。
(良かったあ、やっと来てくれた)
 やっぱり、チームをやめるのを思い直してくれたのだ。
 良平は、ノロノロとなんとかベンチのそばまではやって来ていた。
 でも、そこで立ち止まってしまった。もしかすると、来るのが大幅に遅れてしまったので、監督になんていえばいいのかわからないのかもしれない。たしかに、へたをするといつものようにガミガミおこられてしまうだろう。
 良平は、その場に立ちすくんだままになっている。
(うーん)
 芳樹は、早く良平のところへ行ってやりたくてうずうずしていた。手をひっぱっていって、監督のところへ連れて行こう。
(早くチェンジにならないかなあ)
 芳樹は気合を入れて、相手のバッターをにらみつけてやった。
 カーン。
三遊間に強いゴロがきた。芳樹が思いっきり横っ飛びすると、ボールがすっぽりとグローブにおさまった。 すばやく立ちあがって、一塁へ送球。
「アウトーッ」
 間一髪、間に合った。これで、延々と続いていた相手チームの攻撃がようやく終わった。
「芳樹、ナイスプレー!」
 監督が、めずらしく大きな声で芳樹をほめた。
 攻守交代で、みんなはベンチへかけていく。
でも、芳樹だけはベンチを素通りすると、良平の所にかけよっていった。
「よっちゃん、すごいなあ。ダイビングキャッチ」
 良平が、少し照れくさそうにいった。
「そんなことより、早く監督の所へ行けよ」
 芳樹に背中を押されるようにして、良平はおずおずと監督の方へ近づいていった。
 でも、良平に気づいた監督の顔が、みるみるけわしくなっていく。
(あっ、やばい!)
 監督が、良平をどなりつけようとしている。
 しかし、監督は大きく一つ深呼吸すると、
「良平、よく来たな。途中から試合に出すから、ウォーミングアップしとけ」
と、いっただけだった。もしかすると、監督も良平のことを心配してくれていたのかもしれない。
 芳樹はホッとして、良平にむかってニヤッとわらってみせた。良平も、少し恥ずかしそうにわらっていた。

 けっきょくその日の試合も、3対18でヤングリーブスが大敗した。前半の大量失点でやる気を失ったせいか、攻撃の方もさっぱりだった。
 とうぜん反省ミーティングでは、今日も監督にみっちりしぼられた。五年生から順番に、その日のプレーについてさんざん文句をいわれている。
 良平も、いつもとかわりなくガンガン叱られていた。四回からショートに入って、簡単なフライを落としたり、サインを見逃したりしたからだ。良平は、いつものように涙目になっている。
 芳樹も、「もっと前へ突っ込め」とか、「いくじなし」とか、さんざん監督にいわれた。三回のファインプレーのことなんか、すっかり忘れてしまったようだ。
 でも、今日は不思議と、監督にどなられてもぜんぜん気にならなかった。そんなことより、良平が戻ってきてくれたことの方がずっとうれしかったからだ。
 最後に、いつものようにみんなで円陣を組んだ。芳樹は五年生たちに頼んで、真ん中で号令をかける役を良平にやらせてもらった。
 良平は円陣の中にしゃがみこむと、両耳を手でふさいで思いっきり叫んだ。
「ヤンリー、ファイトッ!」
「オーッ!」
 芳樹も、他のチームメイトに負けないような大声で叫んでいた。




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雪合戦

2020-04-25 09:59:52 | 作品
 灰色の雲が低くたれこめた暗い空から、雪はどんどんおりてきていた。ふるのが強くなるにつれて、教室の窓から広いグランド越しに見える黒い木々が、だんだんかすんでくる。
 窓際の自分の席から、恭司はぼんやりとそれをながめていた。
 今日は、S大学付属中学の二次試験、作文と面接が行われる日だった。すでに作文は終了していて、恭司は規定文字数いっぱいに書いた自分の作文のできに満足していた。
ところが、作文に引き続いて、十時十五分からスタートするはずだった面接は、もう定刻を三十分以上も過ぎているのにまだ始まらなかった。
 雪のために電車が遅れ遅刻者が続出したので、救済策として別室でまだ作文を書いているらしい。
 作文が終わった他の受験生たちは、手持ちぶさたにして待っている。もう一度受験パンフレットをながめたり、たぶん面接の注意でも書かれているらしいノートに、目をとおしたりしている。スマホの持ち込みは禁止されているので、こんな時の暇つぶしに困っているようだ。
 玄関で待たされていた付き添いの父母たちも、今は臨時に廊下までは来ることが許されている。
「ほら、ここの所、…」
 教室の入り口で、母親に肩のほこりを払ってもらっている子がいる。
「けっ」
 隣の席で本を読んでいた黒ぶちの眼鏡の男の子が、それを見て馬鹿にしたように小さくつぶやいた。
 チラっと見ると、彼が熱心に読んでいる文庫本は、ライトノベルのようだった。
 教室の前の方のドアが開いて、ようやく先生らしい人が来た。
「どうも大変お待たせして、申し訳ありませんでした」
 先生は、恐縮した様子で話し出した。
「雪による交通機関の遅れによる遅刻者の救済処置で、今まで作文を書いてもらっていました。ようやく終わったので、予定より一時間遅れになりますが、十一時十五分より面接をスタートします。付き添いの方々は、そろそろ教室を出てください」
 先生は、教室にまで入り込んでいた父母たちにむかっていった。
「ちょっと、ひとこと申し上げたいんですが、…」
付き添いの母親の一人が、先生にむかって進み出た。
「なんでしょう?」
「ちゃんと遅れずにきた者が、なんで迷惑を受けなければならないんですか!」
 母親は、ヒステリックな声で先生にくってかかった。
「…。公共の輸送機関が、…。」
 先生は、母親の勢いに押されてしどろもどろになりながら、弁解につとめている。
 元気いっぱいの母親のうしろでは、おとなしそうな受験生が困ったような顔をして立っていた。
(すげえなあ!)
 恭司は、なかばあきれたようにその様子をながめていた。
 受験のことは本人にまかせっきりの恭司の両親は、今日はどちらもついてきていなかった。

(よしよし、あたたまっている)
 恭司は、窓際にあった旧式の暖房用スチームの上にのせておいた弁当箱を取った。
 ふたを開けると、ファーッとおいしそうな湯気がたった。いつものように、ごはんのぎっしりつまった二段重ねののり弁だ。
 おかず入れのタッパーのふたを開けると、好物のタマゴ焼きやタコウィンナ、それにプチトマトやキュウリがずらりとならんでいる。
「お弁当どうする?」
 昨日、かあさんに聞かれたとき、
「お昼までに終わるからいらないよ」
と、恭司は答えていた。
 でも、かあさんは、
「何かあったときに心強いから」
と、無理に持たせてくれた。
 恭司はかあさんに感謝しながら、
「いただきます」
と、小さな声でつぶやいた。そして、のりごはんを、口いっぱいにほおばった。
 何人かの受験生が、恭司の方を振り返っている。
 でも、やはり午前中で終わると思って弁当を持ってこなかったのか、恭司に続く者は誰もいなかった。

 恭司の受験番号は、三千四百二十一。願書受付初日には数百人以上の行列ができたというのに、友だちとのんびり数日後に行ったのでかなりうしろの方だった。その友だちも一次試験で落ちてしまい、今日は一人きりだ。
 男子ばかり三百人の募集に対して、応募者は実に三千八百二十三人。十二倍以上の狭き門も一次でかなり落とされて、今日の二次試験を受けるのは約七百人だった。
 せっかく一次試験に合格したのに、恭司は本当にこの学校に入りたいのかどうか、わからなくなっていた。もともと、はっきりした考えがあってこの学校に決めたのではない。みんなと同じようになんとなく塾へ入り、そして、みんなが受けるから受験してみようという気になっただけなのだ。
 もしかすると、この学校を選んだのも、恭司自身ではなく、恭司の偏差値だったのかもしれない。東大の合格数を誇るようないわゆる有名私立や国立の中高一貫校は、もともと無理だった。
 でも、この学校なら合格の確率は高いと、塾や模擬試験業者のコンピューターが、太鼓判を押してくれていた。
 それに引き換え、まわりの人たちは、みんな受験競争のエキスパートのように思えた。
ある受験生は、親子一丸になって「いい学校」に入ることにけんめいになっているように見える。
 別の子は、「受かったらラッキー、落ちたら落ちたでいいや」と、クールに割り切って、ゲーム感覚で受験しているようだ。
(この学校に受かっても、友だちができるだろうか?)
 そう考えると、恭司は少しゆううつな気分になっていた。

 いつのまにか、雪は小止みになっていた。そうすると、今まで雪にばかり目がいって気がつかなかった物が見えてきた。
 目の前のグランドはかなり広い。縦でさえ百メートル以上はあるし、横はさらに広く二百メートル近くあるように見える。
 サッカーのゴールがむこうに二つ、こちらにも二つある。どうやら、二面もとれるらしい。ゴールのバーの上には、もう十センチ以上も雪が積もっていた。
 グランドの右手には、さらにハンドボールやテニスの専用コートもあるようだ。
 でも、今は雪で真っ白になっていてよくわからない。
 反対側の左手には、大きな体育館らしい建物があった。
「大学までの六年間、何かのスポーツをやるには最高の学校だよ」
 この学校の高等部にいる姉の彼氏が、前にいっていた言葉がぼんやりと思い出された。大学までエスカレーター式に行かれるので、受かってしまえばもう受験勉強をする必要はなかった。

 雪はクルクル舞いながら、ゆっくりゆっくりと地上に降りてくる。
 恭司はそれをながめながら、だんだん自分の気持ちがわくわくしてくるのを感じていた。
 少し薄明るくなった灰色の空から、雪はそれこそきりがないほど次々とおりてくる。じっと見つめていると、吸い込まれそうな気さえしてきた。
 低学年のころまで、恭司は雪がふるのが楽しみだった。
 いつも翌日にはとけて、崩れてしまったぶかっこうな雪だるま。弟と交代で引っ張りあった青いプラスチック製のそり。そして、校庭や近くの公園で友だちとやった雪合戦。どれも楽しい思い出だ。
さらにいいのは、学校がお休みになることもあったことだ。突然与えられた自由に使える一日。勉強なんか忘れてずっと降り積もった雪で遊べるのだ。
 朝起きた時に雪が積もっていると、弟と二人でいつもはしゃいだものだった。そのかたわらでは、おとうさんがゆううつそうな顔をしていた。
「小学生はいいなあ」
 うらやましそうにいっていた。
 おとうさんは、雪がふったって、会社には行かなくてはならない。たんに、通勤がいつもよりずっと大変になるだけなのだ。
 でも、いつのまにか、恭司にとっても、雪の日も、ふだんと変わらない日になってしまっていた。せっかく積もった雪も家の中からながめるだけで、手に取ることもなくなった。
(クラスのみんなと雪合戦をやらなくなったのは、いったいいつごろからだっただろうか?)
 恭司は、一面の雪景色をながめながら、そんなことを考えていた。

 恭司は、席を立って窓際まで行ってみた。思わず額を押しつけたガラス窓は、氷のように冷たかった。
 と、その時、校舎から黒いかたまりが、いきなりグランドへ飛び出してきた。
(あれっ?)
 じっとよく見ると、それは二人の男の子だった。ここの学校は制服だったから、私服を着ているところを見ると、恭司と同じ受験生らしい。
 一人は百七十センチ近くありそうな背の高い子で、もう一人はずっと小柄だった。
 ノッポとチビのデコボココンビは、まっすぐにグランドの真ん中へ向かっている。
 すっかり雪がつもってあたり一面まっ白になったグランドに、二人の足跡だけがポツポツと黒くついていく。
(あっ)
 いきなりノッポが、地面の雪をつかんでチビに投げつけた。
 チビの方は、大げさなかっこうで逃げていく。
 でも、しっかり握っていなかったのか、雪玉は途中でふわーっとばらばらになって、風に流されてしまった。
 チビは充分に離れたところまで逃げると、地面にしゃがみこんで雪玉を作り出した。
 ノッポの方も、その場でせっせと今度はしっかりした雪玉を作っているようだ。
 ググッ。
 二人に興味をもった恭司は、古い教室の窓をあけてみた。
 スーッと、冷たい外気が流れこんでくる。暖房でほてった恭司のほほには、それがすごく気持ちよかった。

 しばらくすると、どちらともなく二人が立ちあがった。
「わーっ」
 二人が上げた叫び声が、遠くから聞こえてくる。いっせいにすごい勢いで雪玉をぶつけあい始めた。一所懸命作ったおかげで、二人の足もとにはかなり雪玉がたまっているようだ。
 ノッポの方は豪快なフォームで、一球一球声を出しながら雪玉を投げつけている。
 でも、スピードはあるけれど、コントロールの方がさっぱりなので、チビにはぜんぜん当たらない。
 チビの方は軽く雪玉をかわすと、正確にねらいをつけてノッポに命中させている。
 とうとう顔に一発くらって、ノッポがうずくまってしまった。チビはそれにおかまいなしに、連続して命中させている。
「うぉーっ!」
 いきなり雪玉を両手に持って、ノッポが仁王立ちになった。
「やっつけてやる」
 ノッポは大声でどなると、猛然と突進していった。
 チビは、そんなノッポに、さらに数発雪玉をあてた。
 でも、ノッポは少しもひるまずに突っ込んでいく。
「うわーっ」
 とうとうチビは、うしろを向いて逃げ出した。
「待てーっ」
 ノッポはなおも追いかけていく。
 充分近づいてから、今までのうっぷんをはらすように、二発の雪玉を思いきりチビの顔にたたきつけた。
「うはーっ」
 チビは雪玉を当てられたはずみに尻もちをつくと、口に入った雪を吐き出した。
「やったぞ、大逆転」
 ノッポは満足そうに叫ぶと、チビの横に腰をおろした。二人とも雪玉とまだふり続いている雪とで、全身雪まみれになっている。
「あははっ」
 ノッポが、さもおかしそうに大声で笑い出した。
「ははは」
 チビの方も笑っている。
 こちらで見ている恭司までが、つられて笑いそうになるくらい楽しそうだった。
「馬鹿みたい」
 ふと気がつくと、となりにさっきの黒ぶちの眼鏡の男の子が立っていた。
「寒いから閉めさせてもらうよ」
 男の子は、音をたてて窓を閉めた。すると、外からのノッポとチビの笑い声は、まったく聞こえなくなってしまった。
 男の子は、恭司が文句をいう間も与えずに、さっさと自分の席へ戻っていった。
 もう一度グランドを見ると、二人は次の合戦に備えて、またせっせと雪玉を作り始めている。窓を閉めてしまったせいか、恭司にはさっきより二人の姿が遠く感じられた。 
(また、窓を開けようか?)
 でも、さっきの子だけでなく教室にいる全員が、恭司を冷ややかにながめているように感じられてならなかった。
 とうとう恭司は、たまらなくなって教室を出ていった。

 グランドに面した昇降口から外に出ると、寒さが一段と身にしみた。恭司は少し震えながら、教室にコートもマフラーも置いてきたことを後悔していた。
 それでも、ブレザーのポケットから青い毛糸の手袋を出してはめると、二人に近づいていった。
 ノッポとチビは、グランドの真ん中で、次の戦いに備えてせっせと雪玉を作っている。しんと静まり返った景色の中で、二人の吐く息だけがホカホカと暖かそうだった。
「やあっ」
 恭司は遠慮がちに声をかけた。
 少しけげんそうな表情を浮かべて、二人は顔を上げた。
 近くで見ると、ノッポはベースみたいに角ばったあごにうっすらひげまではやしている。とても同い年には見えない。冬だというのにまっ黒に日焼けしている。
 チビの方は対称的に色白で、クルクルとよく動く目がすばしっこそうだった。
「なんだい?」
 ノッポの方が、代表するように恭司にたずねた。
「うん、ぼくも雪合戦に入れてくれないかな」
「えっ。ああ、いいよ」
 チビが、すぐにニコニコしながら答えてくれた。ノッポもつられてニッコリすると、右のほほに不似合いなえくぼができた。
 今度の雪合戦でも、チームを作らずに三人バラバラに戦うことになった。
 恭司は二人に三個ずつ雪玉を貰うと、残りを作りはじめた。
 キュッキュッキュッ。
 気温が低いせいか雪はサラサラしていて、しっかり握らないとすぐバラバラになりそうだ。
「用意はいいかあ」
 しばらくして、ノッポが声をかけた。
「OK!」
 チビがすぐに答える。
「いいよ」
 でも、そう答えた恭司の雪玉は、他の二人よりもまだちょっとだけ少なかった。
「よーし、戦闘開始!」
 ノッポはそう叫ぶと、チビの方に二、三歩駆け寄り、一つ目の雪玉を投げた。
「へへ、残念でした」
 チビはそのボールを軽くかわすと、すぐに反撃した。
「それっ」
 チビの玉をかろうじてかわしたノッポの横顔めがけて、恭司が第一球を投げた。
「うはっ!」
 顔面に正確にぶつけられたノッポは、雪を吐き出しながらうめいた。
「くそーっ」
 ノッポは雪玉を両手にわしづかみにして、こんどは恭司の方に突進してきた。

 雪は、相変わらず降り続いていた。フワフワとゆっくり落ちてくる雪のひとつひとつが、みんな形が違っているのが、恭司には不思議でたまらなかった。こんなふうにじっくりと雪をながめるのは、久しぶりのことだった。
 そうやって上を向いていると、二十分近くも走りまわってほてったほほに、いくつもの雪が落ちてとけていった。さっきグランドに出てきたときと違って、体はポカポカにあたたまっている。
 休戦中の恭司は、他の二人と並んで、校庭の真ん中に立っていた。まだハアハア荒い息づかいをしている三人の口からは、肉まんのようにあたたかそうな湯気が噴き出している。
「あれっ、みんな見てるぜ」
 ノッポがいった。いつのまにか、ほとんどの教室から、受験生たちがこちらを見ていた。中には、さっきの恭司のように、少し窓を開けている子さえいる。もしかしたら、もう面接が終わった子なのかもしれない。
 恭司は、自分がいた教室から、さっきの黒ぶちの眼鏡の男の子も見ていることに気がついた。
「おーい、一緒にやらないかあ」
 ノッポがすぐに声をかけた。
「面白いぞお」
 チビも続いた。
「降りてこいよお」
 恭司も、みんなに、特に黒ぶちの眼鏡の男の子に向かって呼びかけた。三人は両手を振りまわしながら、大声でみんなを誘い続けた。
 それに応えるかのように、次々と窓が閉められ、みんなの姿が消え始めた。
(みんな、こっちに来るんだ)
 恭司はわくわくしてきた。三人でもこんなに面白かったのに、この広々したグランドを使って、十人、いや何十人もの子どもたちで雪合戦をしたら、どんなに楽しいことだろう。想像するだけで、胸の中がカッと熱くなってくる。
 三人は、他の子の分も雪玉を作りながら、みんなを待つことにした。

 それから五分がたち、やがて十分になった。
 しかし、三人が見つめる昇降口には、誰も姿を見せなかった。
「あーあ、つまんねえなあ」
 とうとうノッポがつぶやいた。
 恭司も残念だった。
(やっぱり、受験生たちの大雪合戦なんて、無理なのかなあ)
 と、そのとき、昇降口に人影があらわれた。
 でも、それは三人が待っていた男の子ではなく、大人の男の人だった。茶色のジャケットを着て、りっぱな口ひげまではやしている。
「君たち、まだ面接中だぞ。早く校舎に入りなさい」
 どうやら、この学校の先生らしい。三人はしぶしぶ近づいていった。
「おやおや、びしょびしょじゃないか。もう面接は終わったのか」
「いえ、これからです」
 ノッポが答えた。
「受験番号は?」
「三一二四」
「三〇九六」
 チビが続く。
「三四二一です」
 恭司も答えた。
「そうか。それならまだ時間があるな。これでよくふいて。風邪をひくなよ」
 先生は、三人に一枚ずつ大きなタオルを渡してくれた。夢中になっていて今まで気づかなかったけれど、三人とも頭から靴まで、とけた雪ですっかりぬれてしまっている。恭司の毛糸の手袋もびしょびしょで、指先がジンジンと痛かった。

「おい、遅かったな」
 面接を終えて控室を出てきた時、恭司は急に声をかけられた。さっきの二人が、並んで立っている。
「おれ、台東区からきた田中智樹。一緒に帰ろうぜ」
 ノッポの方が先にいった。
「ぼくは有本雄介。世田谷の駒沢二小からだけど、君はどこから?」
 チビが続く。先に面接が終わったので、恭司のことを待っていてくれたらしい。
 三人で話しながら正面玄関まできた時、面接票の入った黒い箱を持って、さっきの口ひげの先生が横の階段から降りてきた。
 恭司が声をかけたものかどうか迷っていると、
「先生、さよならあ」
と、智樹が大声であいさつしてしまった。
「おっ、さっきの三人組か。君たちは、同じ小学校なのか」
「いいえ、違いますよ。今日、初めて会いました」
 恭司が答えると、先生は少し驚いたようだった。
「まあこれも何かの縁だから、入ったら仲よくしろよ」
「先生、それは合格してからのことですよ」
 雄介がすかさず口をはさんだ。
「それもそうだな」
「先生、うまいこと三人の成績を水増ししといてくださいよ」
 智樹が調子よくいった。
「ははは。まあ考えとくよ。それじゃあ、まだ面接やってる人もいるから、またグランドで雪合戦するなよ」
 先生は笑いながら、そばにある職員室の方へ歩き出した。
「もうやりませんよお。先生、きっついなあ」
 智樹が、先生の後ろ姿に向かってそう叫んだ。

 玄関を出ると、雪はようやくやんでいた。
 校舎から校門までは、並木道が続いている。そこも、もうすっかり雪でおおわれていた。
 受験生たちは、三々五々、雪道を帰っていく。
 踏み荒らされた真ん中を避けて、三人は両端のまだきれいに雪が積もっている所を選んで歩いていった。一歩進むごとに、三人の足跡がくっきりと残されていく。
「みんなで雪合戦できなくって残念だったね」
 雄介がポツリといった。
「せっかくだから教室で他の子も誘ったんだけど、雄介くんしか話にのってこなかったし、後からきたのも恭司くんだけだったなあ」
 智樹も残念そうだった。
「やっぱりみんな、他の子は受験のライバルだって思っているのかもしれないな。だから、そんな連中とは一緒に雪合戦なんかできないのかなあ」
 恭司がそういうと、
「うーん。今日は二次試験だったからなあ。みんなも面接のことで頭がいっぱいで、他のことをやる余裕がなかったのかもしれない」
と、雄介が首を振りながら答えた。

 校門を抜けると、学校の向かい側に小さな公園があった。
 真ん中にある小さな滑り台に、雪玉をぶつけている男の子がいる。
 バシッ。
滑り台の手すりに雪玉があたると、つもっていた雪と一緒になって、大きく四方に飛び散った。
 三人に気づいたのか、男の子がこちらに振り返った。
(えっ?)
 恭司の教室で、窓を閉めた黒ぶちの眼鏡をかけた男の子だった。
 目が合うと、少し恥ずかしそうに笑った。
 公園には、他にも五、六人の男の子たちがいる。みんな、恭司たちと同じ様に面接の帰りらしい。
「よっしゃ。また雪合戦を、いっちょやったろか」
 隣で智樹が、急に元気な声になっていった。
「OK、OK」
 雄介も、うれしそうに笑っている。
「やろう、やろう」
 恭司は二人につづいて、ザクザクと雪を踏みしめて公園に向かいながら、また気持ちがわくわくしてくるのを感じていた。


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カード

2020-04-24 10:03:25 | 作品
 ある日、弘樹のおとうさんが、会社の健康診断の胃のレントゲンでひっかかった。
すぐに病院で内視鏡を使った精密検査をした結果、胃ガンが発見された。
おとうさんは、会社の病気休暇を取って、すぐに手術を受けた。おかあさんもパートを休んで、病院に付き添っていた。
休みの日には、弘樹も、おとうさんを病院に見舞った。
「おとうさん、大丈夫?」
 強志がたずねると、
「大丈夫、大丈夫。でも、胃が三分の二なくなっちゃたから、今までみたいにごはんをたくさん食べられなくなっちゃったけどな。ごはん茶碗を、弘樹のと交換してもらわなくちゃな」
と、おとうさんは笑いながら言った。
「そんなあ。ぼく、あんなに大きなお茶碗じゃ、食べきれないよ」
と、弘樹が言ったので、みんなは大笑いした。
さいわい手術は成功して、おとうさんは一ヶ月後に会社に復帰できた。ただし、時々会社を休んで、病院で抗がん剤の治療を受けている。
抗がん剤の副作用で、おとうさんの髪の毛が抜けた。
「つるつる坊主になっちゃうよ」
 おとうさんは、鏡を見ながら嘆いていた。
弘樹は、自分のおこづかいで、おとうさんに帽子をプレゼントした。
「これをかぶれば、大丈夫だよ」
「どうもありがとうね」
おとうさんはその帽子を気にいって、いつもかぶるようになった。

数ヵ月後、ガンが再発しておとうさんはまた入院した。
今度は、全身に転移していて手術はできなかった。
おかあさんと弘樹は、おとうさんにつきっきりで看病した。
しかし、おとうさんは、二人に看取られながら亡くなった。
おとうさんの病室には、あの帽子が残されていた。
お葬式の時に、弘樹はお棺に帽子を納めてもらった。
弘樹の心の中にいるおとうさんは、いつも帽子をかぶってほほえんでいた。

 おとうさんが亡くなってから、八ヶ月がたった。もうおとうさんのことを思い出して涙が出てしまうようなことは、最近はあまりなくなっていた。
 おとうさんが亡くなるまで、弘樹たちはおとうさんの会社のそばの家で暮らしていた。しばらくの間はそのままそこに住んでいたが、ローンなどのためにやがてはそこを売って出なければならなかった。
 おかあさんは結婚してからずっと専業主婦をしていたが、これからの生活を考えるといつまでもそのままではいられなかった。おかあさんは、結婚前に働いていた小さな出版社でまた雑誌の編集をすることになった。その会社は都内にあったので、先週のゴールデンウィークの間にこちらに引っ越してきた。
 前に住んでいた藤沢の家は、海のそばにあった。近くの海浜公園の中を歩いていくと、すぐに広々とした浜辺に出られた。
 それに引き換え、今度の家は、東京のはずれにある足立区の工場が建ち並んだゴミゴミしたところにあった。団地の十階にある弘樹の家からは大きく蛇行している川が見えたが、それも高いコンクリートの塀で囲われていた。

「今日は、みんなに新しい友だちを紹介します」
 三谷先生はそういうと、入り口の近くで緊張して立っていた弘樹に合図をした。弘樹は教壇の上に進み出ると、ピョコンとひとつ頭を下げてから話し出した。
「山本弘樹です。神奈川県の藤沢市から引っ越してきました」
 四年二組の全員の目が、興味しんしんって感じでこっちを見ている。
「えーっと、……」
 それ以上、何をいったらいいのか思い浮かばない。
「……」
「じゃあ、みんなの方から、山本くんに質問してみたら?」
 立ち往生してしまったヒロキに、三谷先生が助け舟を出してくれた。
「誕生日は?」
 窓際の席に座っていたポニーテールの女の子が、すぐにたずねた。
「五月十一日です」
 弘樹が答えると、その女の子はニッコリしていった。
「へー。じゃあ、来週じゃない」
(そうだ。引越しで忙しくて忘れていたけれど、もうすぐ十才になるんだ)
 それをきっかけに、他の子からも次々と質問が出た。
「前の学校は?」
「プロ野球はどこのファンですか?」
 そこまでは、なんとか答えられた。
「いちばん好きな物は、何ですか?」
 まっ先に、おじいちゃんの家にあずけてきた、ゴールデンリトリバーのリュウのことがうかんだ。五才の誕生日に、おとうさんがもらってきてくれてからずっと一緒だった。
 次に、前の学校の友だち、祐二、啓太、孝志たちの顔がうかんだ。
 でも、そんなことはとてもいえない。
「……。バ、バナナです」
 やっとのことで答えると、うしろの方の何人かがクスクスわらった。
「何人家族ですか?」
「二人、おかあさんと二人家族です」
「あれっ、おとうさんは?」
「……」
「あんまりプライベートなことは、聞くんじゃないぞ」
 言葉につまったヒロキを見て、三谷先生があわてたようにいった。 

 その晩、弘樹は一人でおかあさんの帰りを待っていた。留守電に入っていた伝言によると今日も帰りは八時過ぎになるとのことだった。
 弘樹は勉強机の上に、一枚のカードを置いた。鉄腕アトムのカードだった。これは、ヒーローカードと呼ばれていた物だ。おとうさんの話では、おじいちゃんが子どものころに集めていたお菓子のおまけだったらしい。
 それをおとうさんが小学生の時にもらって、おじいちゃんと一緒に遊んだんだそうだ。
 他には、鉄人28号、狼少年ケン、ジャングル大帝、ビッグX、遊星少年パピイ、宇宙エース、伊賀の影丸、少年ジェット、月光仮面、エイトマン、サイボーグ009など、たくさんの種類があった。名前だけはなんとか知っているものもあったけれど、ほとんどがぜんぜん聞いたことがないものばかりだった。
 しばらくそのカードを見つめていると、中からゆっくりと鉄腕アトムが立ちあがってきた。
「やあ、弘樹」
 アトムは、弘樹に向かって笑顔を見せた。
「やあ、アトム」
 弘樹もニッコリして、立ち上がった。アトムは、ポンと勢いをつけて机から飛び降りた。
「じゃあ、行こうか」
 アトムは窓を大きく開け放った。眼下の川は、今日も黒々と大きく蛇行している。
 ゴォーッ!
 弘樹を背中に乗せると、アトムはジェット噴射とともにいきおいよく窓から飛び出していった。

 次の日の理科の時間に、弘樹は初めて同じ三班の人と一緒にすわった。
 三班の人数は、弘樹を入れてぜんぶで五人。他の四人が四人とも、興味深そうにこっちを見ているので、弘樹はまた昨日のようにドキドキしてしまった。
 でも、昨日真っ先に質問した、背の高い元気のよさそうなポニーテールの女の子が話しかけてくれた。
「私は安西真理奈。三班の班長をやっています。弘樹くん、三班にようこそ。今まで他の班より少ない四人だけだったから、人数が増えてよかったと思っています。ほら、他の子も自己紹介しなさいよ」
 真理奈は、最後は他の子たちにむかっていった。
「おれは遠藤康太。スポーツは、野球でもサッカーでもなんでも得意だよ。今度休み時間にドッジボールをやらないか」
 そういった康太は、髪の毛を女の子みたいに長く伸ばしているけれど、身体はがっちりしていてすばしっこそうだった。
「あたしは広川由里。クラスでは飼育係をやっているの。教室にはグッピーとミドリガメしかいないけれど、校庭の小屋にはチャボとウサギもいるよ」
由里は、クルクルの天パーをショートカットにしている小柄な女の子だ。
「ぼくの名前は内田純一。好きなことは、パソコン、インターネット、オンラインゲーム、アイポッド、アマチュア無線、電気工作、うーんと、まあ、そんなところかな」
最後にそういったのは、分厚いレンズの黒ぶちめがねをかけたまるまるとよく太った大きな子だった
 
 その日の午後、昼休みの後だった。
「弘樹くん、まだここにいたの? 次の時間はパソコンルームだよ」
 教室の前の入り口がガラガラとあいて、班長の真理奈が顔をのぞかせた。
「えっ!」
 弘樹はあわてて椅子から立ちあがった。次の授業がパソコンだということは聞いていたけれど、どこでやるのかぜんぜん知らなかった。そういえば、ぼんやりしているうちにみんながいなくなっちゃったけれど。
「急いで、急いで、もう始まっちゃってるよ」
 早足で歩いていく真理奈の後を、弘樹はけんめいに追いかけた。
 パソコンルームは三階の一番はしに合った。
(そういえば、昨日、三谷先生が校内見学で連れてきてくれたっけ)
 真理奈と弘樹が入っていくと、もう班ごとに分かれてパソコンを動かしている。
 でも、三班だけは弘樹を待っていたのか、まだ電源を入れていなかった。
「もう、誰かさんのおかげで遅れちゃったよ」
 純一が少しイライラした声を出しながら、待ちかねたように電源ボタンを押した。他の子たちも、すぐにパソコンに夢中になっていく。
 カチャカチャとにぎやかな音を立てているパソコンルームの中で、弘樹だけがポツンと取り残されていた。

 その晩も、弘樹はおかあさんの帰りを待っていた。
 一日一時間だけの約束のテレビゲームもやりおわった。おかあさんが用意しておいてくれた晩ごはんも、あたためて食べた。もう何もやることは、何もなかった。
 弘樹は勉強机の上に、今日は別のカードを置いた。
 伊賀の影丸。黒い覆面をした忍者マンガのカードだ。
 弘樹は、しばらくそのカードを見つめていた。
 やがて、中からゆっくりと影丸が立ちあがってきた。
 黒覆面に黒い忍者の着物を着ている。
「やあ、弘樹」
 影丸も、弘樹に笑顔を見せた。
「こんばんは、影丸さん」
 影丸は大人なので、弘樹はていねいに挨拶した。
「じゃあ、行こうか」
 影丸はそういうと、忍術の呪文を唱えた。
「忍法木の葉隠れ」
グルグルとつむじ風がおこると、影丸と弘樹は部屋から姿を消した。

 その後も、毎晩、ヒーローたちが一人ずつやってきてくれた。
 机の上に置いたヒーローカード。
弘樹がじっと見つめていると、やがて、その中から、ヒーローたちが立ち上がってくる。
弘樹はヒーローたちといっしょになって、それぞれの冒険の世界へ旅たっていく。
 鉄人28号は、敵の巨大ロボットと激しく戦っていた。
「頑張れ鉄人!」
 弘樹は、鉄人28号の操縦桿を必死に操作した。
 ジャングル大帝のライオンのレオと一緒に、アフリカの大草原を歩んでいく。後には、キリン、カモシカ、ゾウ、サイ、マントヒヒなど、いろいろな動物たちが仲良く続いてくる
 エイトマンと一緒にならんで音速でかけてゆく。新幹線もあっという間に追い越してしまう。なぜか新幹線は古いタイプのものだったけれど。
他のヒーローたちとも、ジャングルで悪漢と戦ったり、宇宙で怪しい円盤を追いかけたり、敵の秘密基地を爆破したりしていた。
 弘樹は、それぞれのヒーローたちとの冒険に、いつも夢中になっていた。
 そして、ふと気がつくと、ヒーローたちと一緒に、おとうさんもすぐそばにいてくれるような気がしてくるのだった。

 五月十一日、弘樹は十才になった。
 でも、おかあさんはまだベッドの中にいる弘樹に、いつものように
「いってきまーす」
としかいわずに、あわただしく仕事へ出かけてしまった。
 テーブルの上には、いつものようにハムエッグと野菜がのったお皿があるだけで、特にメモも置かれていなかった。
(あーあ、ぼくの誕生日なんか、忘れちゃったのかなあ)
 オーブントースターにパンを入れながら、なんだかひとりぼっちで取り残されてしまったような気がしていた。
 去年の九才の誕生日。おとうさんも一時退院して、一緒にお祝いしてくれた。
 その日は、おかあさんが腕によりをかけて作った料理やケーキが、テーブルいっぱいにならんでいた。
 おとうさんは、すっかりやせて顔色も白くなってしまっていた。いつも休みの日には、おかあさんたちとテニスをやってまっ黒に日焼けしていたのに、まるで違う人のようだった。  
 せっかくのごちそうも、おとうさんはほとんど食べられなかったけれど、ずっとニコニコ笑っていた。
 そして、おとうさんは、
「よくなったら、また遊園地へ行こうな」
って、弘樹に約束してくれた。

(ない!)
 弘樹は、けんめいにポケットの中をさぐっていた。そこにヒーローカードが入っていたはずなのだ。
(どこに落としてしまったのだろう?)
 二時間目の後の休み時間には、たしかにポケットにあった。
 弘樹はうつむいてカードをさがしながら、心あたりの場所を歩きまわっていた。
 ひとけのない廊下を、ヒーローカードをさがしながら歩いていると、校庭からはみんなが遊んでいるにぎやかな声が聞こえてくる。弘樹は、まだ一度もその中に加わったことがなかった。
 念のため、校庭に出て行ったとき、
「おーい、弘樹くーん。一緒にやらないか」
 遠くから叫んでいる子がいる。女の子のように長い髪の毛。康太だ。手にはドッジボールを持っている。
「うーん、今、ちょっと探し物してるから」
 弘樹がそう答えると、
「じゃあ、見つかってからでいいから、一緒にやろうぜ」
といって、康太はまた仲間のほうへ戻っていった。
 弘樹は、また校舎の中を探し回った。
三階のコンピュータールームに行ったとき、純一に出会った。
「どうしたんだよ。浮かない顔をして」
 純一がたずねた。
「うん、カードをおとしちゃったんだ」
「えっ、カードって、キャッシュカードかい、それともスイカか何か」
 純一が心配そうに聞いてくれた。
「うん、まあ」
 ヒーローカードだというと馬鹿にされそうなので、弘樹はあいまいにごまかした。
 弘樹は、その後も学校中をさがしまわっていた。
 でも、やっぱり見つからない。
弘樹があきらめかけて、自分の教室に戻ってきたときだった。
「弘樹くん、さがしてるのこれじゃない?」
 ふりかえると、由里が立っていた。クルクルの天然パーマの子だ。ヒーローカードをこちらに差し出している。
 弘樹がコクンとうなずくと、すぐにカードを手渡してくれた。
「ありがとう」
 由里はニコニコしながら、
「校庭の手洗い場に落ちてたんだよ」
「そうだったのか」
 もしかしたら、手を洗ってハンカチを出したときに落としたのかもしれない。
「それ、あたし、知ってる。鉄腕アトムっていうんでしょ。うちのおとうさん、おじいちゃんにもらって、そのマンガを持ってるんだよ。弘樹くんって、そういう古いカード集めてるんだ」
「うん」
 弘樹は小さな声で答えると、かすかに笑みをうかべた。

 弘樹がヒーローカードをポケットに入れて学校にくるようになったのは、今週になってからだ。毎日、違うカードを一枚だけ持ってきていた。
 時々、ポケットに手を入れてカードにさわってみる。それだけで、特に外に取り出さなくてもヒーローたちは姿を現わしてくれた。
 巨大ロボットの鉄人28号が、校舎の向こうをゆっくりと歩いていく。
校庭の上空を、すごいスピードで鉄腕アトムが飛んでいった。
砂場には、伊賀の影丸の忍法「木の葉隠れ」のつむじ風がおこった。
ジャングル大帝のライオンのレオが、動物たちの群れを引き連れて校庭を横切った。
……、……。
弘樹は、そんなヒーローたちの姿を、教室の窓からじっと見つめていた
でも、ヒーローたちは弘樹以外には見えないようだった。みんなはまるでそんなことにはおかまいなしに、いつもどおりに授業を受けたり遊んだりしている。もしかすると、ヒーローたちは、弘樹だけの秘密の存在だったのかもしれない。
 弘樹は、ポケットにヒーローカードがあるだけで、なんだか気分が落ち着いていた。
 そう、ポケットの中にあるのはカードでなく、本物のヒーローのような気がしたのだ。そして、おとうさんも一緒にそこにいるように思えた。

 その日の放課後、いつものように弘樹は一人で家へ帰ろうとしていた。
 校舎の玄関を出て、校門に向かったときだった。
「弘樹くん、ちょっと待って」
 うしろから声をかけられた。
 弘樹が振り向くと、真理奈がむこうから走ってきた。
「これ、三班のみんなから」
 真理奈はそういって、小さな紙の手提げ袋を弘樹に押しつけた。弘樹が受け取ってみると、中身は軽そうなものだった。
 あわてて弘樹が紙袋をあけようとすると、
「ちょっと待って。家に帰ってからあけてって、みんなにいわれてるんだ」
 そういうと、真理奈はさっさともどっていってしまった。
 弘樹がそちらを見ると、
「おーい」
康太と由里と純一が玄関のところから、こっちに向かって手を振っている。
(中身はなんだろう?)
 弘樹はみんなに聞いてみたかったけれど、三人は真理奈と一緒に校舎へ入っていってしまった。
 弘樹は、手提げ袋を持ちながら家へ帰っていった。

 家に帰ると、留守電のランプがついていた。
(なんだろう?)
ボタンを押すと、すぐにおかあさんの声が流れてきた。
「ヒロちゃん、ごめんね。引越しのゴタゴタでうっかりしちゃって。十才の誕生日、おめでとう。ケーキとプレゼントを買って、早く帰るからね」
 なんだか泣き出しそうな声に聞こえた。
弘樹は、自分の部屋に戻ると、急いで三班の人たちからもらった紙袋をあけてみた。
中には、二つに折りたたまれたカードが入っていた。
『誕生日、おめでとう。山本弘樹くんへ』
 何色ものサインペンで、表に書かれている。
 開いてみると、まん中にはにかんだような男の子が描かれていた。どうやら弘樹の似顔絵のようだ。そのまわりは、寄せ書きみたいになっていた。
 一、二、三、全部で四人。三班全員の名前があった。
『ハーイ、弘樹くんって、なんだか呼びにくいね。かわりに、ヒロくんっていうのはどうかしら。じゃあ、バイバーイ。安西真理奈』
 名前の下に、ピンクのプリクラのシールがはってある。真理奈は、ウィンクしながらバッチリとポーズをきめていた。
『山本くんもカードを集めているみたいだけど、ぼくもプロ野球やJリーグのカードを集めています 遠藤康太』
 少し古びたジャイアンツの坂本選手のカードが、テープで貼り付けてあった。
『弘樹くんは、動物が好きですか? 私は猫が好きなんだけど、団地ではペットが飼えません。でも、ぬいぐるみのミーちゃんがいるから、今度見せてあげるね。 広川由里』
 オレンジのサインペンで、かわいいネコのイラストが書いてある。
『この広い宇宙の銀河系の太陽系の地球の北半球のアジアの日本の本州の関東地方の東京都の足立区の千住緑町の千住第七小学校の五年二組のたった五人しかいない三班で、いっしょになるなんて本当に奇跡的なことです。  内田純一』
 名前の横には、なんだかよくわからない秘密のサインが書いてある。

 その晩、約束どおりにおかあさんは早く帰ってきてくれた。
弘樹はおかあさんと十才の誕生日を祝った。
 ケーキには、
(ひろちゃん、十才。お誕生日おめでとう)
と、チョコレートで書かれていた。
 プレゼントは、前からほしかった携帯ゲームだった。

部屋に戻ると、弘樹はいつものように机の上にヒーローカードをおいてみた。
 鉄腕アトム。
 でも、どういうわけか、いつまでたってもアトムは、カードの中から立ちあがってこなかった。ジェット噴射の音も聞こえない。
 伊賀の影丸。
これもだめだ。やっぱり影丸も、カードの中から立ち上がってこない。影丸得意の忍法「木の葉隠れ」のつむじ風がおこらない。
鉄人28号。8マン。狼少年ケン。月光仮面。ジャングル大帝。……、……。
弘樹は、次々とカードを出してみた。
 でも、ヒーローはだれも現れなかった。
 机の上にならべられたたくさんのヒーローカード。
 なんだか、もう役目を終えたようにひっそりとしている。
弘樹は、その上にもう一枚、みんなからもらった誕生カードをひろげてみた。
(あっ!)
 その中から、三班のメンバー四人、安西真理奈、遠藤康太、広川由里、内田純一が、ゆっくりと立ち上がってきた。まるで、弘樹の誕生日を祝うように。





コメント
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なんでも屋でござーい

2020-04-23 11:52:10 | 作品
 大通りから一本入った裏道に、その事務所はありました。「ヤマネコよろず引き受け事務所」なんて、たいそうな名前がついています。
 でも、表のくたびれかかった看板には、
(なんでも屋でござーい。どんな仕事でも引き受けます)
って、書いてありました。
 事務所の中では、今日もヤマネコ所長がひまをもてあましています。所長といっても、この事務所はヤマネコひとりでやってるんですけどね。
 ヤマネコは、じまんの口ひげを左上から順番に数えてみました。
 左が五本で、右が四本。ぜんぶで九本です。
 今度は、右下から数えてみました。右が四本で、左が五本。やっぱり九本です。
 右と左で数が合わないのは、右の上から二番目がぬけているからです。そのかわりに小さな古傷がありました。
(こんなにひまだと、ただでさえ丸い背中が、ますます猫背になっちゃうよ)
 ヤマネコは大きくひとつのびをすると、白髪まじりの鼻毛を一本ひきぬきました。

 チリリリン。
 ドアに取り付けたベルをならして、ようやくお客さんがはいってきました。アナグマのおくさんです。
「いらっしゃいませ。どんなご用で?」
 ヤマネコが、もみ手をしながらたずねました。
 まだ11月になったばかりだというのに、アナグマのおくさんは、高そうなフカフカの毛皮をまとっています。そういえば、アナグマのだんなは、土建会社の社長です。猫魔山に造成中のアニマニュータウンの仕事で大もうけしていると、もっぱらのうわさでした。
「ご存知のように、タクの主人は大忙しザアマスでしょ」
 アナグマのおくさんは、とがった鼻を上に向けて、ツンツンしながら話し出しました。
「はいはい、よく存じ上げています」
 ヤマネコは、ニヤニヤしながら聞いています。
「それで、今度の日曜日、アニマ小学校の運動会なのに、出張で来られないんザアマス」
「はあ?」
「アタクシはアタクシでPTAの仕事で忙しいザアマスでしょ。ほら、なにしろ副会長をおしつけられてしまったザアマスから。オホホホ」
「そうでしょうねえ。なにしろ奥様は人気がおありだから」
 ヤマネコは、ますますもみ手をしながら調子を合わせました。
「それで、うちのボクちゃんの大活躍を、ビデオにとっていただけないザアマスかしら?」
(ボクちゃん、ボクちゃんと。はて?)
 ヤマネコは、ようやくにくたらしいので有名な、アナグマのハナタレ小僧を思い出しました。
 でも、もちろん、そんなことはおくびにもだしません。
「ああ、あのかわいらしいお坊ちゃんのことですね。それはお困りのことでしょう」
 ヤマネコは、お世辞笑いをうかべています。
「えーと、今度の日曜日でしたね。スケジュール、スケジュールと。何しろ、大忙しなもんですから」
 ヤマネコは、スケジュール表を調べるふりをしますが、本当は、見る必要なんかありません。だって、中はまっしろ。何の予定もありませんから。
「奥様、ついてますねえ。その日だけが空いていましたよ」
「まあ、よかった。それで、おいくらかしら?」
 アナグマは、ずるがしこそうな目つきでヤマネコもにらみました。
「特別お安くして、1時間ごとに300ドングリ(1ドングリは約10円)でいかがでしょう」
「まあ、ちょっと、お高くありません? ディジタルビデオカメラとディスクはこっちで用意するザアマスから、もっとお安くならないかしら。そうねえ、100ドングリぐらいでどう?」
 アナグマのおくさんの目が、ぬけ目なく光りました。
「そ、そんなあ!」
 ヤマネコは情けない声を出しました。
 でも、お金のことにかけては、アナグマのおくさんの方が、一枚も二枚も上手です。けっきょく、1時間100ドングリにねぎられてしまいました。

「まったく、大金持ちのくせに、ケチンボなんだから」
 アナグマのおくさんが帰ってからも、ヤマネコはいつまでもブツブツと文句をいっていました。
「あーあ、ぜんぜん楽で、がっぽりもうかるような仕事がこないかなあ」
 どこかの王国のお姫様のボディーガードなんかいいなあ。その王女様が絶世の美女だったりして。そして、二人は恋に落ちて、……。
 昔の海賊の宝捜しとかもいいなあ。どこかの宝島の地図をもとに、大航海して。金の延べ棒やダイヤモンドの指輪、真珠のネックレスなんかも、どっちゃり見つかったりして、……。
「あーあ、なんでもいいから、いっぺんに百万ドングリぐらい、ドカンともうかる仕事がこないかなあ」
 ヤマネコは、ひげをひっぱりながら、そうつぶやきました。
 こう見えても、ヤマネコは、何をやらせても仕事の腕はいいのです。探偵でも、ボディーガードでも、なんでもこなせます。
 でも、金もうけとなると、からきしへたくそでした。
 最近やった仕事も、ろくなのはありません。
 アニマ幼稚園の雑草取り、アニマ祭りでの落し物捜し、アニマ商店街の宣伝ポスター貼り、……。
 せいぜい数百ドングリの半端仕事ばかりです。しかも、そんな仕事でさえ、しょっちゅう代金をねぎられたり、取りはぐれたりしています。

 ボーン、ボーン、……。
 大きな古い柱時計が、正午を知らせました。
 ヤマネコは事務所の入り口の鍵をかけると、近くの店まで食事に出かけました。
もっとも、別に鍵なんかかけなくっても、取られるものなんて何にもないんですけどね。
 大もうけの空想をしたおかげで、ヤマネコはすっかりいい気分になっていました。 さっきまで、アナグマの奥さんの文句をいっていたことなど、どこふく風です。
「フンフン、フフン、……」
 鼻歌まじりで、お店のドアをいきおいよくあけました。
「ママ、いつものやつね」
「あら、ヤマちゃん、ご機嫌ね」
 黒ネコのマダムが、カウンターの中からこたえました。
 ここ、歌謡スナック「ビロード亭」では、昼間はランチサービスもやっています。独身で一人暮らしのヤマネコは、毎日ランチを食べに来ている常連でした。
 本当のことをいうと、ランチだけでなく別のお目当てもありました。それは、もちろん黒ネコのマダム。実は、ヤマネコはマダムに片想いをしていたのです。
 でも、変なところで純情な所があるヤマネコは、まだ気持ちを打ち明けていません。
「はい、本日の日替わり定食。カツオブシは、たっぷりサービスしておいたわよ」
 黒ネコのマダムは、メザシのネコマンマ定食をヤマネコの前に置きました。

 日曜日になりました。いよいよアニマ小学校の大運動会の日です。
 アニマタウンの中ほどにあるアニマ小学校に、朝早くから家族たちの場所取り合戦で混み合っていました。
 ところが、開始5分前になっても、ヤマネコの姿が見えません。どうやら、寝坊でもしてしまったようです。
「まあ、あのグズヤマネコったら、どうしたんザアマスでしょう」
 いつものように毛皮やアクセサリで着飾ったアナグマの奥さんは、PTA席でイライラしています。
 そのとき、やっと校門からヤマネコがかけこんできました。
 9時ピッタリ、開始時間です。
 よっぽど急いできたのか、じまんの口ひげをとかすひまもなかったようです。クシャンクシャンのビロローンになっています。
「あーっ、よかった。なんとか間に合った」
「よかったじゃありませんザアマス。何をグズグズしているんザアマス。はい、ディジタルビデオカメラとディスク。さっさと撮影を始めるんザアマス」
 アナグマの奥さんにどやしつけられながら、ヤマネコはあわてて撮影エリアに急ぎました。
 ヤギ校長のメエーメエーと長ったらしい挨拶も、全員での準備体操も無事に終わりました。
 ヤマネコは大勢の中からアナグマのボクちゃんを見つけだすと、そちらにビデオカメラを向けました。
 ボクちゃんは、挨拶にすっかりあきてしまっているらしく、ずっとはなくそをほじくっていました。
 運動会のプログラムは、順調に進んでいきます。いよいよボクちゃんの出場する徒競走です。
 スタートラインに選手がならびました。
「ヨーイ」
 ドン。
 ピストルが鳴ると同時に、選手がいっせいにスタート。
 と、いいたいところですが、ピストルに驚いたボクちゃんは、スタートラインで腰を抜かしていました。

 その後も、ボクちゃんは、まるでいいところがありません。
 大玉ころがしでは、ころんで玉の下敷きになってペッタンコ。
 フォークダンスでは、ボクちゃんだけ、みんなからワンテンポ遅れて踊っていました。
 そんなボクちゃんの失敗の数々を、ヤマネコはバッチリとカメラにおさめました。
 でも、撮影しながら、ヤマネコはだんだん不安になってきました。
(こんな失敗ばかりを映したビデオに、ちゃんとお金を払ってくれるかしら?)
 たくさんのプログラムもすべて無事に行われ、運動会がめでたく終了しました。
 ヤマネコはPTA席のアナグマのおくさんの所へ、ビクビクしながら行きました。
 ところが、どうしたことでしょう。アナグマのおくさんは、上機嫌でニコニコしているのです。
「あーら、ヤマネコさん。どうもごくろうさま。うちのボクちゃんの大活躍をきちんととってくれたザアマスか」
(はて、大活躍?)
 本当に、親の欲目というのは恐ろしいものでございます。あんなボクちゃんでも、きっと大活躍に見えたのでしょう。
 でも、ヤマネコはそんなことはおくびにも出さずに、
「はいはい、それはもうバッチリ」
と、にこやかな笑顔を浮かべながら、約束の6時間分、600ドングリ(約六千円)を受け取りました。

 その翌日の朝でした。
 チリリリン。
 ドアのベルが鳴りました。
 どうしたことでしょう。こんなに朝早くからお客さんが来るなんて、めったにないことです。
 でも、お客の顔を見て、ヤマネコはギクリとしました。それは、ドアを開けて入ってきたのがタヌキだったからです。
 高利貸しのタヌキは、町の顔役です。
(腹黒い)
って、もっぱらの評判でした。
「これは、これは、タヌキさん。どんなごようですか?」
 ヤマネコはとっさに出かかった爪を引っ込めると、いつものようにもみ手をしながらいいました。たとえ評判が悪くても、お客はお客です。それに「ヤマネコよろず引き受け事務所」は、そんな選り好みをしていられるような経営状態じゃないのです。
「今日はおまえさんに、もうけ話を持ってきてやった」
 タヌキは、いかにもえらそうに太鼓腹を突き出しながらいいました。
「それは、それは、どのようなお話ですか?」
「簡単な仕事だ。明日の夜中の12時に、アニマ港の第三埠頭で、この男からある品物を受け取ってきて欲しいのだ」
 タヌキは、一枚の写真を机の上に置きました。写っているのは、外人キツネです。ベージュ色のトレンチコートを着て、黒のサングラスをかけていて、いかにもうさんくさそうです。
「それで、その品物というのはなんですか?」
「いや、それは秘密だから、聞かないでくれ。その代わり」
 そういうと、手の切れそうな新品の千ドングリ札を10枚、机の上に並べました。
「前金で、一万ドングリ(約十万円)。無事に品物を届けてくれたら、さらに十万ドングリ(約百万円)でどうだ」
 ヤマネコはよだれをたらさんばかりの様子でお金を受け取ると、タヌキの依頼を引き受けてしまいました。

「マダム、いよいよ俺にも運が向いてきたよ」
 ヤマネコは、カウンターの中の黒ネコのマダムにいいました。その日も、ヤマネコは歌謡スナック「ビロード亭」に、ランチを食べに来ていました。
「あら、ヤマちゃん、ここのところ、すっかりご機嫌ね」
 黒ネコのマダムが、今日の日替わり定食、「豚肉のマタタビソースランチ」をカウンターに置きました。
「今度は、本物のもうけ話さ」
 ヤマネコがニヤニヤしながらいいました。
「へー、いったいどんないい話があったの?」
 ヤマネコがマタタビのにおいがプンプンする豚肉にかぶりついた時、マダムがたずねました。
「それは、ヒ・ミ・ツ。でも、タヌキさんは前金で1万ドングリもくれたし、成功報酬は10万ドングリももらえるんだ」
 前金は、たまっていた家賃の支払いなんかに使わなくてはなりません。
 でも、成功報酬のお金が入ったら、黒ネコのマダムに何か素敵なプレゼントを贈るつもりでした。そして、そのとき自分の気持ちを……。
「ヤマちゃん、だいじょうぶ? 危ない仕事ではないでしょうね」
 マダムが、心配そうに小首をかしげながらいいました。

 翌日の真夜中、アニマ港の第三埠頭。そこにヤマネコの姿がありました。
 もうすぐ約束の12時。
 コツコツコツ。
 埠頭の先端の方から足音が響いてきました。
 目を凝らしてみると、ひとりの男が近づいてきます。
 目深にかぶったソフト帽。サングラスにベージュのトレンチコート。
 間違いありません。写真の外人キツネです。
「ヤマネコか?」
 かすかに外国なまりがあります。
「そうだ」
 そう答えると、キツネはポケットから小さな箱を取り出しました。
 ヤマネコは、受け取った「品物」が意外に小さいのでびっくりしました。マダムが心配していたような麻薬や武器なんかではなさそうです。
(ダイヤモンド? それとも密輸品の隠し場所の鍵とか地図なんかでは?)
 ヤマネコは、いろいろと想像してしまいました。
 と、そのときです。
「おっと、そいつはこっちでいただこう」
 いきなりうしろから声がかかりました。
 振り返ると、いつのまにかウルフ団の一味が、十人近く忍び寄っていました。タヌキと対抗するもう一人の顔役、オオカミの手下たちです。みんな、手に、手に、ナイフやこん棒を持っています。
 先頭のジャッカルが、二人にピストルを突きつけました。
「だましたな」
 外人キツネが怒鳴りました。
「いや、俺じゃない。でも、どうやら勝ち目はなさそうだな」
 ヤマネコはそういうと、ジャッカルにむかって小箱を差し出しました。
「ちくしょう、そうはさせるか」
 いきなり外人キツネが、ヤマネコの影にまわりこみながら銃を抜きました。
 ガガーン。
 でも、一瞬早く、ジャッカルの銃が火を吹きました。外人キツネは、パッタリと倒れました。
 ジャッカルの銃は、今度はヤマネコに向けられました。その瞬間、ヤマネコの目が、キラリキラーリと光りました。
 ヤマネコは持っていた箱を、すばやくジャッカルに投げつけました。
 ガガーン。
 手元を狂わせたジャッカルの弾丸は、ヤマネコのほほをかすめただけでした。
 でも、左の上から二番目のひげが吹き飛ばされました。これで、左右四本ずつ、きれいにそろったことになります。
 ヤマネコはすばやく体をしずめると、ジャッカルに体当たり。ジャッカルの手からふっとんだ拳銃は、埠頭をすべっていって、そのまま海にドボン。
 しかし、ナイフやこん棒を手にしたウルフ団の手下たちに、取り囲まれてしまいました。
 それをグルリと見まわしたヤマネコの口からのぞくキバは、ギラリギラーリ。両手の爪もズラリズラーリと飛び出して、すっかり臨戦体制です
「いくぞお」
 まわりから襲い掛かるウルフ団に、ヤマネコは一人で立ち向かいます。
 右からくるナイフはさっとかわして、鋭いパンチ。左からくるこん棒は逆に奪い取って、激しい一撃。
 後はもう、ちぎってはなげ、ちぎってはなげ。すっかりヤマネコの独り舞台です。
 でも、相手は大勢です。なかなか勝負はつきません。

 ピリピリピリー。
 あたりに、ホイッスルが鳴り響きました。
「警察だ。おまえたちはもう取り囲まれている」
 ブルドック署長を先頭に、アニマ警察が到着しました。大きなイヌの形をしたパトカーが何台もとまって、第三埠頭を封鎖しています。
「やばい、逃げろ」
 ジャッカルをはじめとして、ウルフ団の連中があわてて逃げようとします。
 でも、埠頭は行き止まりです。次々と逮捕されてしまいました。中には、海に飛び込んだ者もいましたが、それらもかけつけた警備艇に捕まえられました。
「くそっ、おぼえてろよ」
 ヤマネコにむかって捨てゼリフをはきながら、手錠をかけられたジャッカルはイヌ型パトカーにのせられました。
「ヤマネコ、おまえもちょっときてもらおうか」
 ブルドック署長が、ヤマネコにいいました。
「えっ、おれもですか。完全に正当防衛ですよ」
 ヤマネコはブツブツ文句をいいましたが、
「まあ、なにしろ一人殺されているんだからな。おまえさんにも事情を聞かせてもらわなきゃな」
 署長に背中を押されながら、ヤマネコもイヌ型パトカーにのりこみました。
 ウーウー、ワンワン。
 へんてこなサイレンを響かせながら、イヌ型パトカーは夜更けの町を走り出しました。

「だから、タヌキから受け取りを頼まれたっていってるでしょ」
 ヤマネコは、大きな声でどなりました。
 ここはアニマ警察の取り調べ室。ヤマネコはイヌ型パトカーで、警察署に連れてこられていました。
「そんなデタラメをいったって、すぐにばれるんだぞ」
 ブルドッグ署長が、じきじきに取り調べています。
「じゃあ、タヌキに聞いてみてくださいよ」
「よーし、わかった。嘘をついてもすぐにわかるんだからな」
 ブルドッグ署長は、電話をかけるために取調室を出て行きました。
 でも、すぐに戻ってきてしまいました。
「やっぱりタヌキ氏は、お前の所なんか行っていないし、頼んだ覚えもないって、おっしゃってるぞ」
「そんなあ。タヌキが嘘をいってるんだ」
「何が嘘だ。だいたいおまえはふだんからうさんくさいと思っていたんだ。でも、外人キツネとの密輸にまで手を出しているとは思わなかった」
 ブルドッグ署長は、太鼓腹を突き出していばっていいました。
「そうだ、タヌキをよんでくれ。二人で対決させてくれれば、おれの濡れ衣をはらしてみせる」
 でも、もう明け方近くです。けっきょく、ヤマネコはその晩は留置場に留め置かれることになりました。

 翌朝、
「取り調べだ。出ろ」
と、看守にいわれて、ヤマネコは留置場から出てきました。まだ顔も洗っていないので、ご自慢の口ひげもクシャンクシャンのビロローンです。留置場の硬いベッドで一晩を過ごしたので、身体の節々がいたくてしかたありません。
「ううーん」
 ヤマネコは、大きくひとつ伸びをしました。
 取り調べ室へ行くと、そこにはタヌキの姿は見えませんでした。ブルドック署長だけです。
「タヌキは?」
 ヤマネコがたずねると、
「タヌキ氏はお忙しくていらっしゃれない。オホホーン」
と、ブルドック署長は、わざとらしいせきばらいをしました。
 これで、タヌキと直接対決することはできなくなりました。なにしろ、アニマ市では顔役のタヌキのことです。どうやら、抜かりなく裏で手をまわしたにちがいありません。もしかすると、ブルドッグ署長もワイロか何かをつかまされたのかもしれません。
「他に証人はいるのかね? 誰もいないんだったら、おまえの話は信じるわけにはいかないね」
 ブルドッグ署長は、冷たく言い放ちました。
「そうだ、ビロード亭のマダム。彼女だったら、俺がタヌキに頼まれたことを知っている」
 ヤマネコは、最後の望みをたくすようにいいました。

 その日の遅くになって、やっとヤマネコは釈放されました。ブルドッグ署長が、ようやく黒ネコのマダムに連絡をつけてくれたようです。
 黒ネコのマダムは、ヤマネコのために、この間の話を証言してくれました。
ブルドッグ署長は、あっさりと黒ネコのマダムの言うことを信用してくれました。
(なぜかですって?)
実はブルドック署長も、黒ネコのマダムのファンだったのです。そのことが、ヤマネコにはさいわいしたようです。
「ヤマちゃん、だいじょうぶ」
 黒ネコのマダムは、警察署の外でヤマネコを待っていてくれました。
「どうも、すっかり迷惑かけちゃって」
 ヤマネコは、黒ネコのマダムに頭を下げました。
「なんだかあやしいと思ったのよ。どうも、話がうますぎるもの」
 実はこんなこともあろうかと、マダムはヤマネコがアニマ埠頭にでかけるのをひそかにかぎつけていたのです。そして、あの夜、アニマ署へ匿名で連絡してくれていたのでした。
「それにしても、タヌキの奴め」
 ヤマネコは、どこか安全なところでふんぞりかえっているだろうタヌキにむけて、うなり声をあげました。
 例の小箱は、ドサクサまぎれに行方不明になっていました。もしかすると、ちゃんとタヌキの手元に届いているかもしれません。なにしろ、警察の中にも、タヌキの息のかかったものがいるのですから。
 もちろん、ヤマネコがもらうはずだった報酬の十万ドングリはパーです。それに、手付け金の一万ドングリまで、そっくり証拠として没収されてしまいました。今度も、ヤマネコはただのくたびれもうけになったわけです。

「あーあ、オレって、何をやってもだめ。けっきょく、いつも骨折り損のくたびれもうけなんだよなあ」
 ビロード亭のカウンターで、ヤマネコはマタタビ酒をすすりながらためいきをつきました。
「でも、それが、ヤマちゃんのいいところなんだから。これ、あたしの気もち」
 黒ネコのマダムは、一夜干しのスルメを、サービスで出してくれました。
「サンキュー」
 ヤマネコは、スルメを手にとって、大きくかじりました。
「マダム、デュエット、デュエット」
 うしろのボックス席のよっぱらったイタチの四人連れから、声がかかりました。
「はい、はい、お待たせ」
 黒ネコのマダムは、ボックス席へ行ってしまいました。
 リクエストの、「ギンナン山の恋の物語」がかかります。よっぱらいイタチが、黒ネコのマダムの肩に手をまわして、デュエットで歌いだしました。
 ヤマネコは、一瞬、イタチにキラリキラーリの視線をおくりました。
 でも、すぐにまた、もとのねむたそうな目つきにもどってしまいました。
「あーあ、オレって、…」
 窓の外では、猫魔山に青白い三日月がかかっています。



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スライディングタックル

2020-04-21 10:02:31 | 作品
 青チームのフォワードが、相手バックスの前でクルリと反転した。そして、ゴールを背にして、少し後戻りした。次の瞬間、つられて付いてきた赤チームのバックスをサッとかわすと、右足で強烈なシュートを放った。白いボールは、相手ゴールキーパーをかすめて、見事にゴールへ飛び込んでいった。
「ゴオーーール」
 秀樹は、大声で叫びながら立ち上がった。小刻みにステップを踏みながら、両手を交互に回して勝利のダンスを踊った。
 と言っても、これは本物のサッカーの試合のことではない。「スーパープロフェッショナルサッカー」なんて、大げさな名前の付いたサッカーゲームでの話だ。ゲーム盤の横に突き出たスティックで、盤上の人形をガチャガチャと操作して、相手ゴールをねらう奴だ。ビデオのサッカーゲームと違って、奇妙な臨場感があって面白かった。
「ちぇっ、またやられた」
 相手の和也が、悔しそうに言った。
 これで得点は10対7。
今日も秀樹の勝利に終わった。ここのところ絶好調で、これで五連勝か、六連勝目のはずだ。
「二人とも、早くしないとバスに乗り遅れるよ」
 台所から、和也のおかあさんが声をかけてきた。
「あっ、いけねえ」
 二人はあわてて立ち上がると、スパイクや着替えの入ったチームのスポーツバッグをつかんだ。

「カズ、ヒデ、また遅刻だぞ」
 運転席の窓から、コーチが怒鳴っている。
「すみませーん」
 大声で答えた和也に続いて、秀樹も古ぼけた灰色のマイクロバスに乗り込んだ。他のメンバーは、すでに全員揃っている。これから、車で20分ほど離れたグランドまで、サッカーチーム「ウィングス」の練習へ行くところだ。
 秀樹たちがウィングスに入ったのは四年生になってすぐだったから、もう二年以上がたっている。月、水、金と週3回2時間ずつの練習、土日も練習試合や大会でつぶれることが多かった。
 でも、監督やポジションごとにいる専門コーチの熱心な指導に、二人とも満足していた。
 それまで入っていた近所のサッカーチームでは、ゴールキーパーを除いてはポジションなんかほとんど関係なかった。誰もがボールを追っかけることだけに、夢中になっていたのだ。
 でも、ウィングスでは、各選手には決められたポジションが与えられている。そして、そのポジションごとに、きちんと練習メニューが作られていた。
 和也は、攻撃の中心のセンターフォワード。みんながやりたがる花形ポジションに、五年生のときから抜擢されていた。
 一方、秀樹は長身を生かして、ディフェンスの中心、センターバックをずっとやっている。

 グラウンドの中央付近でパスをもらった和也が、ドリブルでこちらに近づいてくる。
(右か、それとも左か)
 秀樹は自分の体をゴールと和也の間に置いて、シュートのコースを消しながら待ち構えた。
 和也が、右にグッと体を傾けた。
(右だ)
 そう思って詰め寄った瞬間に、和也は鮮やかに左へ体を反転させて秀樹をかわしてしまった。そして、そのまま右足で強烈なシュート。
 懸命に跳び付くゴールキーパーの手をかすめながら、ボールはゴールネットに吸い込まれた。
 ピーッ。
コーチのホイッスルが鳴る。
「やったあ」
「カズ、ナイスシュート」
 和也は、喜ぶ味方の選手に囲まれて、両手を上げながら引き揚げていく。
 それを見送りながら、秀樹は足元の地面をガツンッとひとつ蹴った。
(今日も、やられてしまった)
 右へいくと見せかけて左へ。和也の最も得意なフェイントだ。頭では分かっているのだけれど、いつもそれを止められない。和也自慢の一瞬のスピードに、どうしても付いていけなかった。

 秀樹と和也は、若葉幼稚園の時からずっと一緒だ。いや、その前に、近所の公園でおかあさんたちに連れられて会っているらしい。
 秀樹はよく覚えていないけれど、その頃からもう、いつも二人でボールを蹴っていたという。
 幼稚園のサッカースクールに入ったのも、二人同時だった。そして、小学校のサッカーチーム、今のウィングスと、ずっと一緒にボールを蹴ってきた。
 体格的には、小さい時から秀樹の方が恵まれていた。秀樹は六月生れで和也は一月生れだから、赤んぼの時に秀樹が大きいのは当たり前だ。
 でも、その後もずっと秀樹の方が背が高い。
 秀樹の家の居間の壁には、古くなった身長計がある。初めての秀樹の誕生日に、とうさんが買ってくれたらしい。そして、毎年、誕生日に、一人息子の秀樹の身長を記入するのが、秀樹の家の習慣になっている。
 一才の時の秀樹の身長は八十五センチ。そして、去年、十一才の誕生日の時は、百五十九センチだった。
 五才の時からは、秀樹だけでなく同じ日の和也の身長も記録されている。いつも誕生会に来ていたからだ。その記録は、いつも十センチ近く秀樹より低かった。
 来月の十八日に、また秀樹の誕生日がやってくる。
 でも、その身長計はもう使えない。
(なぜって?) 
 だって、目盛が百六十センチまでしかないのだ。秀樹の身長は、とっくにそれを超えてしまっている。

 ピンポーン。
 秀樹の家の玄関のインターフォンがなった。出なくても誰だか分かる。
 秀樹は愛用のサッカーボールを持って、玄関のドアを開けた。
「おーす」
「よお」
 門の外に立っていたのは、もちろん和也だ。やっぱりボールを持っていて、いつものようにはにかんだような笑顔を浮かべている。
 ウィングスの練習のない日でも、二人はいつも一緒に遊んでいた。雨の日には、家の中でこの前のようなサッカーゲームに熱中することもある。
 でも、今日のようないい天気の日は、もちろん本物のサッカーだ。こんな習慣が、もう何年も続いている。
 他の子たちがいるときは、3対3とか、4対4のミニゲームをやった。緊張するウィングスの正式な試合と違って、こういう草サッカーは気楽にできるからけっこう楽しい。
 二人だけの時は、パス、ドリブル、リフティングなどの、サッカーの基本練習をしている。そんな単調なトレーニングでも、二人でやれば楽しかった。
「昨日のJリーグの試合、見た?」
 秀樹が尋ねると、和也は興奮気味に答えた。
「うん、見た見た。マリノスの小島。すげえ、シュートだったろう」
「ああ、やっぱり、あいつはすごいよな」
 秀樹も隣でうなずいた。二人とも、大きくなったらJリーグの選手になるのが夢だ。さらにその後は、ヨーロッパのリーグへ。秀樹は守備が固いので有名な、イタリアのユベントスに入ることが目標だ。和也は攻撃サッカーのスペインのレアルマドリードかバルセロナでプレーすることが夢だった。
だから、テレビ中継は欠かさずに見ている。海外サッカーは有料放送でしか見られないので、Jリーグの試合を見ている。和也はマリノスの、そして日本代表のエースストライカー、小島選手の大ファンだった。
 秀樹は和也と肩を並べるようにして、近くの公園に向かった。

「1、2、3、4、……」
 使い込んで薄汚れたボールが、足の上でリズミカルにはずんでいる。
 ボールリフティング。秀樹と和也は、ボールを下へおとさずに連続してける練習をしていた。
「……、61、62、63、64、……」
 今日みたいにまっさおに晴れあがった日に、ボールリフティングをするのは本当に気もちがよかった。まるで自分もボールになって、はずんでいるかのようなうきうきした気分になれる。
「……、123、124、125、あーっ」
 とうとうバランスをくずして、ボールを下へおとしてしまった。
「ヒデちゃん、最高、いくつになった?」
 そばでボールリフティングをつづけながら、和也がたずねた。
「うーん、300ぐらいかなあ」
 本当は最高283回だったけれど、少しさばをよんでこたえた。
「おれ、おととい、新記録で974出したぜ。もうちょっとで、1000回達成だったんだけどな」
 和也はリフティングをつづけながら、得意そうにいった。
「……、411、412、413、……」
 軽々とけりつづけていく。
 秀樹は、リフティングするのを休んで、そばでながめていた。
 和也は右でも左でも、足の甲でも、ももでも、同じようにボールをけることができた。ときには、ヘディングをまぜたりする余裕さえある。
 どうしてもきき右足にかたよってしまう、秀樹とはちがっていた。
「……、524、525、526、……」
 まるで、ひとりでダンスでもしているかのように、リズミカルにリフティングをつづけていた。そんな和也を見ていると、こちらまで気分がよくなってくる。

「得点は1対1の同点、後半もいよいよあと五分を残すところになりました。アントラーズ対マリノスの首位攻防戦。期待どおりの好ゲームです」
 テレビのアナウンサーが、いつものように絶叫し続けている。
 試合終了直前、秀樹の応援しているアントラーズは一方的にせめまくられていた。相手のマリノスは、現在、Jリーグの首位をしめている強豪チームだ。
 でも、秀樹の大好きなセンターバックの佐藤選手を中心に、アントラーズはなんとか点を取られずに守っている。
「ピーッ!」
 審判のホイッスルがなった。
「反則です。アントラーズの佐藤、マリノスの小島をうしろから手でおさえてしまいました」
 マリノスのエースストライカー、小島のドリブルのスピードについていけずに、つい反則してしまったようだ。ここで抜かれてしまったら、シュートを決められそうだった。そうなったら、今のアントラーズが同点に追いつくのはもう絶望的だ。
「あっ、レッドカードです。佐藤、退場です」
「佐藤選手のこんなプレーを見るなんて、はじめてですよ。かつての佐藤選手なら、得意のスライディングタックルで、うまく防げたはずなんですが、……」
「そうですねえ。ちょっと待ってください。たしか、……。やっぱりそうです。佐藤選手は、これがプレーヤー生涯初めてのレッドカードですねえ」
 チームメイトになぐさめられながら、佐藤選手はがっくりうなだれて退場していった。秀樹はこれ以上ゲームを見る気になれずに、テレビをけしてしまった。

 ザザザーッ。
相手の少し手前からすべりこんでいって、倒れながら強く遠くにボールをはじきとばす。これが、スライディングタックルだ。
 秀樹はボールを持って近くの公園に行くと、一人で練習を始めていた。
 さっき解説者がいっていたように、スライディングタックルは佐藤選手の得意技だ。アントラーズの、そして日本代表のゲームで、何回チームのピンチをすくったことだろうか。
 相手チームのエースストライカーにボールがわたり、ドリブルで味方のゴールにせまっていく。
(だめだ、やられた)
と思って、みんなが目をつぶろうとしたとき、佐藤選手のすて身のスライディングタックル。
 つぎのしゅんかん、ボールは遠くへはじきとばされピンチを脱出していた。
 ザザザーッ。
なかなかうまくいかない。
 頭の中では、マリノスの小島選手がドリブルでせまってくる。秀樹は佐藤選手になったつもりで、スライディングタックルをする。
 でも、ボールをうまくけれなかったり、足が頭の中の小島選手の足をひっかけてしまったりする。
 秀樹は何度も何度も、スライディングタックルの練習をしていた。頭の中の小島選手は、いつのまにか和也に変わっていた。

『アントラーズの佐藤、引退か?』
 翌朝、朝刊のスポーツ欄の片隅にそんな記事が出ていた。20年以上の選手生活で初めての退場処分にショックをうけて、引退を決意したというのだ。佐藤選手は、ファールを取られやすいディフェンスのポジションなのに一度もレッドカードを受けた事がなく、それをとても誇りにしていた。
『かつては日本代表チームのキャプテンまでつとめた佐藤選手。しかし、ここ数年は故障続きと年令からくる衰えとで、精彩を欠いていた』
記事は、冷たくそうしめくくってあった。そして、その上には、マリノスのスーパースター、小島選手の大きな写真がかかげられていた。けっきょく昨日の試合でも、小島選手が決勝ゴールを決めていた。
 秀樹は、新聞を居間のソファーの上に置くと、自分の部屋に戻った。
 そこには、佐藤選手の大きなポスターがはってある。自分と同じポジションだということもあって、佐藤選手はいちばん好きなプレーヤーだった。
 佐藤選手は、長身ぞろいのセンターバックとしては、けっして身体が大きい方ではなかった。
 でも、的確な状況判断と体をはったプレーで、いつも味方のピンチを防いでいた。
 たしかに激しいスライディングタックルをすることで有名なので、相手チームのフォワードからは恐れられていた。
 ただし、わざと反則するような汚いプレーはけっしてしなかった。
 ギョロリとした大きな目と、トレードマークの口ひげ。ポスターの中の佐藤選手は、いつもと変わらぬ闘志あふれる表情をしている。右手を前にさししめして、チームメイトに何か指示を出しているようだ。グラウンド中に響き渡る大きな声が聞こえてきそうだ。

 ザザザーッ。
その後も毎日、秀樹はスライディングタックルの練習を続けていた。学校へ行く前、帰ってきたすぐ後、近所の公園に行って、何度も何度も練習をくりかえした。
 今度の紅白試合では、何がなんでも和也のドリブルを止めたかった。そのために、スライディングタックルをためしてみるつもりだった。
 どんなに注意していても、和也の例のフェイントにはひっかかってしまう。右とみせかけて左へ。頭ではわかっているのに、どうしても体がついていけない。
 それならば、抜かれた瞬間に、スライディングタックルでボールを遠くにはじきとばしてしまおう。それが、秀樹が考えた和也対策だった。
 ザザザーッ。
だんだんタイミングがあって、ボールを強く遠くに飛ばせるようになってきた。
 秀樹は練習をやりながら、佐藤選手のことも考えていた。あの日、退場させられるとき、本当にさびしそうだった。もしかすると、佐藤選手はこのまま本当に引退してしまうかもしれない。あの闘志あふれるスライディングタックルが、もう二度と見られなくなってしまうのだ。そう考えると、なんだかとてもたまらない気持ちになってくる。
 ザザザーッ。
秀樹は頭の中で佐藤選手のプレーを思い浮かべながら、けんめいに練習を続けていた。

 和也は胸でボールをうけると、ゆっくりとドリブルに入った。
「サイド、サイド、カバー」
 秀樹は大声で他のバックスの選手に指示すると、和也の前に立ちはだかった。
 和也は、ドリブルのスピードをグングン上げて近づいてくる。
 目の前にきたとき、右にグッと体重をかけた。
 秀樹がそちらに体をよせると、和也はすぐに左へ体を反転させた。
 得意のフェイントだ。
 秀樹も、けんめいに体勢を立て直してついていく。
でも、一瞬早く和也に抜かれてしまった。
(今だ!)
 秀樹はななめうしろから、スライディングタックルをしかけた。
 ザザザーッ。
秀樹の右足が、ボールにむかってまっすぐのびていく。
(やったあ!)
と、思った瞬間、わずかにボールに届かず、逆に和也の足を引っかけてしまった。
 ピーッ。
コーチのホイッスルがなった。反則を取られてしまったのだ。

「うーーん」
 助け起こそうとした和也が、右足首をかかえてうめいている。
「どうした?」
 監督やコーチたちが、あわててこっちにとんできた。他の選手たちも集まってくる。
「スプレー、スプレー」
 監督が、グラウンドのまわりで練習を見守っているおかあさんたちにどなった。マネージャーをやっているキャプテンのおかあさんが、救急箱を持って走ってきた。
 監督は和也の足首に、シューシューと痛み止めをスプレーした。そして、慎重な手つきで和也の右足首をゆっくりと動かしてみた
 でも、和也は、監督にさわられるたびに痛そうに顔をしかめている。
「春の大会が近いというのに、……」
 うしろでは、フォワードのコーチが心配そうな声を出していた。
「ねんざかもしれないなあ。病院に連れて行こう」
 監督が、マネージャーに車を用意するように指示している。
 とうとう和也は、コーチの一人に背負われてグラウンドを出ていった。秀樹は、うなだれたままそれを見送るしかなかった。

「……、41、42、43、……」
 家の玄関の前で、今日も秀樹はボールリフティングをしていた。
「……、61、62。あっ」
 バランスをくずして、下におとしてしまった。何度やっても、いつもより長くつづかない。ついつい和也のけがのことを考えてしまうからだ。
 昨日、練習が終わるころに、一緒についていったマネージャーとコーチは戻ってきた。
 でも、和也の姿だけはなかった。そのまま家へ帰ったのだという。
「けがはどうでしたか?」
 秀樹はまっさきに、コーチにたずねた。
「ヒデ、心配するな。だいじょうぶだから」
 コーチは、笑顔でそう答えてくれた。診察の結果は、右の足首の軽いねんざだそうだ。さいわい骨には異常はなかった。
(学校にも来られるかな?)
と、そのときはそう思った。
 それで、今朝はずっと校門のところで待っていたけれど、とうとう和也は姿を見せなかった。
(まだ痛いのかなあ)
 今日はなんども和也のクラスまで様子を見に行ったけれど、どうやら学校を休んでしまったようだった。これでは、とうぶんウィングスの練習には、出られそうになかった。

「ヒデちゃん、アントラーズの佐藤選手がテレビに出てるわよ」
 おかあさんが、家の中からよんでくれた。秀樹は練習をやめて、すぐに家の中に入った。
 テレビ番組は、ワイドショーのスポーツコーナーのようだった。佐藤選手は、大勢のレポーターやカメラマンたちに取り囲まれている。
「一部で引退されるとの報道もされていますが、……」
 レポーターが、マイクを佐藤選手に突き出した。
「生涯初めてのレッドカードが原因ですか?」
「小島選手との対決に破れたのが、ショックだったのですか?」
 矢継ぎ早に質問されている間、佐藤選手はだまってじっと下をむいていた。
「全国のファンに何か、コメントを、……」
 最後にそう聞かれたとき、佐藤選手は初めて顔をあげると、きっぱりとした口調でいった。
「引退なんかしません。たしかにこの間の試合では、恥ずかしいプレーをお見せしてしまいましたが、……。体をきっちりと直し、十分なトレーニングをして、もう一度チャレンジします。今度は、得意のスライディングタックルで、正々堂々と小島くんを止めてみせます」
 佐藤選手の顔には、いつもの闘志あふれる表情が戻っていた。
「次のコーナーは、……」
 画面がきりかわったテレビを消すと、秀樹はまた家の外へ出た。リフティングの練習をしながら、自分から和也にきちんとあやまろうと考えていた。

 ピンポーン。
インターフォンのボタンを押すと、玄関に和也のおかあさんが出てきた。
「あら、ヒデちゃん、よく来てくれたわね」
「これ、おかあさんが持って行けって」
 お見舞いのお菓子のつつみを、和也のおかあさんに手渡した。
 二階の部屋へ上がって行くと、和也は勉強机のいすにすわっていた。白い包帯をぐるぐるまきにされた右足が、いやでも目に飛び込んでくる。
「よお、どうだい、足の具合は?」
 秀樹が緊張しながらたずねると、
「だいじょうぶ。包帯がおおげさなんだよ」
 和也は、白い歯を見せてわらった。
「でも、歩けないんだろ?」
「歩けるよ。走ったり、サッカーはしばらくできないかもしれないけど」
 和也は立ち上がると、少し足を引きずりながら歩いてみせた。
「明日から学校にも行けるんだ」
「そうかあ」
 けががそれほどひどくないようなので、秀樹は少しホッとした気分だった。

「それより、おれ、退屈で死にそうだったんだ。ゲームをやろうぜ」
 和也はけがしていない方の足でいすの上にのると、棚の上から「スーパープロフェッショナルサッカー」をおろした。
 すぐに二人は、いつものようにはげしいたたかいをはじめた。
「シュート!」
 和也の赤チームの選手がシュートしたが、秀樹の青チームの選手がうまくふせいだ。
「ちくしょう」
 和也がくやしそうにつぶやいた。
(本当のサッカーでも、こううまくいけばいいのにな)
 秀樹は、攻撃に移りながらそう思った。
 でも、おかげですんなりと昨日の事を口に出すことができた。
「カズちゃん、ごめん。けがさせちゃって」
 和也の足をひっかけたのは、もちろんわざとではない。
 でも、結果として、ボールではなく足にタックルしてけがをさせてしまった。それは、秀樹のスライディングタックルがへただったせいだ。もっと練習してから使うべきだった。
「気にするなよ、ヒデちゃん。おれこそ、悪かったな」
「えっ?」
 秀樹はおどろいて、和也の顔を見た。
「おまえの足にひっかかっちゃってさ。 そっちはちゃんとボールにむかって、スライディングタックルしてたんだから。わざとした反則じゃないよ。おれがマリノスの小島みたいなスーパースターだったら、ヒョイととびこえて軽くシュートを決めてるよ」
「でも、ボールに足がとどかなかったんだから、やっぱり反則だよ。うまくいくと思ったんだけどなあ。どうして失敗しちゃったんだろ」
「それは、ヒデちゃんの足が短いからじゃないか」
 和也はニヤッとわらいながらいった。
「うるせえ」
 秀樹はそういうと、青チームの選手に強いシュートを打たせた。
 小さな白いボールは、赤チームのゴールキーパーにあたってゲーム盤の外へとびだした。そして、床の上をコロコロと遠くまでころがっていった。



        
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タブ

2020-04-21 10:00:36 | 作品
 ぼくが小学校六年生の時、もう半世紀以上も昔の話だ。
 そのころは、街には野良犬がたくさんいた。
 そんな野良犬のうちの一匹のタブが、いつごろからぼくたちの町に姿を見せるようになったのかは、どうもはっきりしない。
気がつくと、家の近くの公園に、姿を見せるようになっていた。
ぼくらが野球やサッカーをしているのをじっとすわってながめていたり、空き地のくさむらの中をクンクンかぎ回ったりするようになっていた。
 タブはやや小型の雑種のメス犬で、体は薄茶色、たれた大きな耳だけが濃い茶色をしている。まるまるとよく太っていて、足が短い。全体的には、現在では一般的になっているゴールデン・レトリーバーを小さくしたような感じだった。目がいつも少しうるんでいて、茶色のまつげがかわいらしかった。むるいに人なつっこく、みんなにあいきょうをふりまいていた。
 どこから来たかわからない野良犬だったけれど、誰も保健所に連絡しようとはしなかった。いや、逆に近所の人気者にすらなっていた。けっして吠えたり、誰かに危害を加えるように見えなかったので、なんとなくおめこぼしにあっていたのだ。
 特に、誰かがお菓子を持っている時などは、タブのようすはすごかった。目を輝かし、全身をふるわせておこぼれをねだる。だから、誰もがついついタブに分け前をあげてしまうようになっていた。
 タブは、子どもたちだけでなく大人たちにも人気がある。うちの裏に住んでいる山田さんちのおばさん。米屋のおばあちゃん。その他にも、たくさんのお得意さんを何軒もかかえている。そこを順繰りにまわって、ごはんをもらっているようだ。
 タブは、はじめは別の名前で呼ばれていた。ある日、中学生のはじめちゃんが、タブがはめていたそまつな茶色の首輪をはずしてみたのだ。
「あれ、ここに名前が書いてあるぞ」
 のぞきこんでみると、首輪の裏側に、マジックで「ゴロー」と書かれていた。メス犬なのに変だなと思った。
 でも、ためしにぼくが、
「ゴロー」
って呼ぶと、タブはいきおいよくしっぽを振った。
 その日以来、みんなが「ゴロー」と呼ぶようになった。もっとも、タブは、いたずらに「ポチ」とか、「タロー」と呼んでも、同じようにしっぽを振っていたけれど。

「ゴロー」
 ぼくは、ひとりで家に帰るところだった。草野球のアウト、セーフでもめて、ヒロちゃんたちと大げんかしてしまったので、すっかりつまらない気分だった。
 タブは、遠くからふっとんできて力いっぱいしっぽを振った。
 ぼくは、近所の家のゴミ箱の上に腰かけて、タブにいろいろな芸をやらせた。
 フセ、オスワリ、チンチン。何でも器用にできる。ビスケットを細かくくだいてほうると、見事にキャッチした。
 タブと遊んでいたら、ぼくのくさくさした気分は、しだいに消えていった。
「タカちゃん。何やってるの?」
 学校から帰る途中のねえさんだった。クラブがあったらしく、少しくたびれたような顔をしている。ねえさんが入っている中学のバスケットボール部は、区内では強豪チームで、猛練習をすることで有名だった。
 ねえさんは、ぼくに負けない犬好きだ。いや、ぼくなんかくらべものにならないかもしれない。
 今、家で飼っているルーも、子犬の時にジステンバーになりかかっていたのを、ねえさんが拾ってきて助けたのだ。ねえさんは、ルーを知り合いの獣医さんに連れていって、頼み込んで格安でジステンパーをなおしてもらった。それ以来、ルーはなんとなく家にいることになった。
 それにひきかえ、ぼくの方は、小さいころは犬がこわくてしかたがなかった。道に犬がいると、それがどんなに小さい犬でも遠回りしたくらいだ。
 ところが、ルーが家にいるようになってから、いっぺんに犬好きになってしまっていた。
 ねえさんは、タブの頭をなでながらいった。
「丸っこい犬ねえ。まるでブタみたいじゃない。おい、ブタ、ブタ」
 タブは、人なつっこくしっぽを振っている。
「ブタじゃ、かわいそうだよ」
「ブタブタブタ」
「ブタはよくないって」
「じゃあ、なんて呼ぶのよ」
「ゴローっていうんだ」
「ゴローだなんて。この子、メス犬じゃない。ブタブタブタブ、タブ。そうだ。ブタのさかさまでタブ、伸ばしてタブーなんて、香水の名前と同じですてきじゃない」
「なんだかその名前も変だなあ」
 その時、通りがかりの自転車がブレーキをかけた。いきなり、タブは自転車にとびかかると大声でほえた。
「こら、タブ、タブ」
「どうもすみません」
 ねえさんと二人がかりで、やっとタブを引き戻した。タブは、首の回りの毛がまだ少しさかだっていて、今まで見たこともないようなこわい顔をしている。
「どうしたのかしら。タブ、自転車に乗った人にいじめられたことがあるのかい?」
 ねえさんが、タブをなだめながらいった。
 この日以来、ゴローではなくて、みんなにもタブと呼ばれるようになった。

 ぼくは家へ帰ると、すぐに我が家の狭い庭にあるルーの小屋へ行くのが日課になっている。給食のパンを残してきて細かくちぎり、牛乳にひたしてルーにやるのだ。
 ルーは芝犬の雑種で、茶と緑と灰色とがまじりあったような、変な色をした中型のオス犬だった。胸とおなかと足が真っ白で、額にも白い模様がある。すごくおとなしい性格で、いつもいるのかいないのかわからない。
 食べ物をあげても、しっぽの先を小さく振るだけですぐには食べない。
「ルー、早く食べろ」
 ルーは、何度もぼくにせかされて、やっと食べ始める。それも、舌でペロペロなめながら、ゆっくりゆっくり食べるのだ。
 ぼくは、そんなルーを見ているのが大好きだった。友だちと遊んでいても、夕方になると、ルーを散歩に連れていくためにもどってくる。
「やあ、ルーくん。元気か」
 頭をなでてやると、目を細めながらしっぽを小さく振っている。
「それじゃ、散歩に行こうな」
 小屋からくさりをはずして、ルーと散歩に出る。
 歩いて五分ほどのところの広い公園で鎖をはずしてやると、ルーは矢のようになって走っていく。
 ぼくが大声で、
「ルー!」
と呼ぶと、またいっさんに走って戻ってくる。
 でも、ぼくにつかまらないように、ルーは二、三メートル離れたところで、ハアハアいいながらこっちを見ていた。
公園のすみにある小山のてっぺんに腰をおろして見ていると、ルーはあちこちをかぎまわったり、時々、片足をあげておしっこをしたりしている。
 三十分ぐらいしてから、ぼくは立ち上がり、おしりについた土をパタパタ落としてから大声で呼ぶ。
「ルー。もう帰るぞ」

 ぼくらの散歩に、いつのまにかタブが加わるようになった。初めは時々だったが、すぐにほとんど毎日一緒についてくるようになった。
 散歩に行く時刻になると、家の前に来ていてぼくたちを待っている。ぼくとルーのまわりを、前になったり、後ろになったりしながらついてきた。ルーが、電柱でにおいをかいだり、片足をあげたりしていると、じれったそうな顔で待っている。
 公園では、ルーと一緒に走り回ったり、じゃれついたりするが、ルーの方は少し迷惑そうなふりをして相手にしない。
 そんな時でも、ぼくが
「タブ」
と呼ぶと、ルーとは違って体当たりするようにとびついてくる。そして、小山のてっぺんにぼくが腰をおろすと、すぐ横に腹ばいになっておとなしくしている。ぼくは、タブのたれた大きな耳をもてあそびながら、ルーが走りまわっているのを見るようになった。
 散歩の間ずっとついてきたタブは、ぼくたちが庭の中へ入ってしまうと、いつも木戸の下から鼻を出してなごりおしそうにのぞいている。
「タブ。もう夕ごはんだから、家へ入らなくちゃ。また明日な」
 そういっても、タブの黒い鼻はなかなかひっこもうとしなかった。
 ぼくは、しだいにタブのことも好きになっていった。ルーの控え目なおとなしいところも前と変わらず好きだったが、タブの全身で喜びをあらわすしぐさにも強く引かれていた。
 給食の食パンをタブの分も残してきて、公園でいっしょにすわっている時にやるようになった。ルーの分が一枚、タブの分が一枚。給食の割り当ては二枚だけだったから、ぼくはいつも腹ぺこだった。

 タブのおなかがふくらんできたのに気づいたのは、つい一週間前だった。それが、みるみるうちに大きくなっていった。もともと丸っこいおなかが、いよいよ太鼓のようにはってきた。
「タブに赤ちゃんができたみたいね」
 夕飯の時に、ねえさんがさりげなくいった。
「やっぱりそうなの。いやにコロコロしてきたと思ったんだけど」
 ぼくも、なにげなさそうにかあさんの顔色をうかがいながらいった。
 かあさんは、ハンバーグをお皿によそりながら、
「うちでは飼えませんからね。もうルーだっているんだから。これ以上は大変よ」
と、ひとりごとのようにいった。
 先手を取られたぼくは、何もいえなくなってしまった。
「誰か、タブを飼ってくれるといいんだけど」
 ねえさんがそういったので、ぼくもいきおいづいていった。
「そうそう、誰かいないかなあ」
 でも、かあさんは、
「子犬が生まれるとわかってるのに、飼う人なんかいないわよ」
と、そっけなかった。

 突然、タブがいなくなった。今までも、ルーと散歩にいっても出会わないことはあった。タブが家へ寄らないこともある。
 でも、三日も続けて、一度も姿を見せないことはこれが始めてだった。
「どこかへ行っちゃったのかなあ」
 ぼくがそういうと、
「そんなはずないわよ。あんな大きなおなかをかかえて。誰かの家で飼われているといいんだけど。だけど、子犬が生まれるのを承知で飼う人いるかなあ」
 ねえさんも、心配そうだった。
 その日から、散歩の時に、タブをさがすようにした。
公園に行くだけでなく、町の他の場所にも行った。
ルーも、しぶしぶ後についてくる。
「ターブ、タブタブ」
 タブがいそうな場所に来ると、ぼくは足を止めて名前をよんでみた。
 でも、あの丸っこい体は、どこからも現れなかった。
 ねえさんも、友だちに聞いたりしてさがしてくれているようだった。
 それでも、タブはなかなか見つからなかった。

 タブがなぜいなくなったのかわかったのは、それから二日後だった。
 ぼくはその夕方、近所の酒屋に醤油を買いに行かされた。そのとき、そこの店のおにいさんが、お客と話していたのだ。
「頼まれちゃってね。おれもちょっといやだったんだけど。子犬が生まれないうちにって、山田さんちの奥さんがいうんでね」
「よくつかまえられたわね」
「あいつは、食い意地がはっているからね。ソーセージでつってさ。店の車の荷台にとじこめちゃってね」
 ぼくは、醤油を入れる一升ビンを取り落としそうになった。
「近くじゃね、すぐにもどってきちゃうからさ。川向こうまで運んでったんだ」
「だいじょうぶかしら」
「水を越えるとにおいが消えるっていうからね」
「追っかけてこなかった」
「うん。しばらくついてきたけどね。やっぱり車の方が速いから。ねんのために逆方向へ走って、まいてからもどってきたんだ」
 ぼくは、醤油ビンをドンとカウンタの上に置くと、店から飛び出した。
「あれっ。ぼく、お醤油を買いにきたんじゃないの?」
 ぼくは、店の横に積んであったビールの空きびんを入れた箱を、思い切りけとばしてやった。
 家に帰ると、ぼくはすぐに自転車をひっぱり出した。
「あれ、タカちゃん。どこに行くの。もうごはんだよ。あれ、お醤油はどうしたの?」
 かあさんの声を背中で聞いて、思い切り自転車をこぎだした。
 川までは、ふだんは自転車で三十分はかかる。それを思い切りふっとばしたので、二十分もかからずに着いた。
 川には、一キロぐらい離れて、新橋と大橋とがかかっている。
「タブ、タブ、……」
ぼくは、そのあたりをあちこち走り回り、名を呼び続けた。
 タブに少しでも似た犬をみかけると胸がどきどきした。
 でも、すぐに違うことがわかってがっかりさせられた。
 二、三時間捜して、ぼくはすっかり疲れてしまった。
「タブ、タブ」
 最後に、川原へおりて大きな声で名前を呼んだ。
 でも、とうとうタブはあらわれなかった。
 すっかり暗くなった川面に、橋のあかりがゆらゆらゆれている。
 十時すぎに家へ戻ったので、ぼくはとうさんとかあさんにこっぴどくしかられてしまった。
 翌朝、山田さんちのおばさんは、へいに大きく「バカヤロー」と落書きされているのに気がついた。

 次の土曜日の午後、ぼくたちは、家のちかくの公園でサッカーをやっていた。
「おら、おら、おら」
 ぼくは、フェイントで相手のバックスをぬいた。
(よし!)
 体を反転させて、敵ゴールへシュートしようとした。
 と、そのとき、ぼくの横を茶色のカタマリがすりぬけた。
 タブだ。
「タブーッ」
 タブはぼくをチラッと見ると、しっぽを数回ふって公園をでていった。
 ぼくはボールをほうりだして、あとをおっかけた。
「ターブ、タブ、タブ」
 何回も、大声で名前をよんだ。
 タブは、やっとこちらへもどってきた。
 タブのまっ白だったおなかや足は、泥によごれて真っ黒になっている。長い道のりを苦労してもどってきたのだろう。
「良く帰ってきたなあ」
 ぼくは、力いっぱいタブの頭をなでてやった。

その晩、ぼくは、銭湯の店先に出ている屋台の焼き鳥屋で、レバーを五本と焼き鳥を五本買った。全部で二百円。ぼくのひと月のこづかいは、たったの三百円。その半分以上が軽くふっとんだ。
「ターブ、タブ、タブ」
 ぼくは、大声でタブを呼んだ。
 タブは、いつものように遠くから飛んできた。
 ぼくは、タブを公園へ連れていった。
 焼き鳥の袋を開いている間、タブはくいいるような目つきでぼくの手元を見ていた。しっぽというより、後半身全体を振って、喜びを表している。
 ぼくは、タブががっついてけがをしないように、鶏肉やレバーを串からはずしてやった。タブはそれが待ち切れなくて、口からよだれがツツーと糸を引いて落ちた。
「ほら」
 ぼくは、鶏肉のひときれをタブにほおった。
 パクッ。
 あざやかに空中でキャッチ。タブは、鶏肉をかまずに飲み込んでしまった。
「馬鹿だなあ、あわてなくてもいいんだよ。これは全部おまえのなんだから」
 ぼくは笑いながら、次の肉を今度は手のひらにのせて食べさせた。
  
 タブが帰ってきてからちょうど一週間後、昼過ぎから降りだした雨が夕方になって強くなっていた。その日、かあさんは、PTAの総会で学校へ行っていた。
役員をやっているので、帰りは九時過ぎになる。とうさんもいつもどおり帰りが遅いので、ねえさんが二人分の夕食のしたくをしていた。
「タカちゃん。これをルーに持っていってやって」
 ぼくは、ルーの夕ごはんを持って、もう暗くなっている庭へ出ていった。
「ルー君」
 ルーは、小屋の中から出てきてしっぽを小さく振った。
「ほら、よく食べるんだよ」
 ルーの小屋は、雨がからないように軒の下に置いてある。
今日は、ビニールの雨よけもかけてあった。
 食器をルーの前に置いて、家へ入ろうとした時、何げなく木戸に目をやった。
 木戸の下に黒い小さな鼻。
「タブー」
 ぼくは、雨の中に飛び出していって木戸をあけた。タブが雨の中でじっとしていた。毛に雨がしみこんでどす黒くなっている。自慢のしっぽもだらりとたれさがっていた。
「おねえちゃん、おねえちゃん。タブだ。タブが来たよ」
 ねえさんと二人でタブを玄関に入れて、かわいたタオルでごしごしふいた。
「うーん。どうも、今晩中に子犬が生まれそうだなあ。困ったなあ」
「どうするの、追い出したりしないよね」
「うーん。どうしたらいいかなあ。おとうさんもおかあさんもいないしねえ」
「せっかく来たんだもの。かわいそうで外へなんかやれやしないよ」
 タブは、かねのボウルに入った牛乳をゆっくり飲んでいた。

 ねえさんは、学校に電話してかあさんを呼び出してもらった。
「そうなの。絶対今晩中よ」
「タブ? うん。今、玄関にダンボールをしいて横にしてあるわ」
「そんなことできないわよ。タカシが承知するもんですか」
「うん。そう。わたしも承知しないわ」
「そう、わかった。おかあさん、ありがとう」
 ねえさんはやっと受話器を置いた。
「飼っていいって?」
 ぼくは、喜んでねえさんにたずねた。
「あまーい。飼うか飼わないかは、後で決めるって。とりあえず今日は、タブをおいてもいいってさ」
 ねえさんは縁の下にゴザをしいて、その上に古い毛布やボロきれを置いた。軒からビニールのおおいをたらして、雨がかからないようにする。
 その間、ぼくはうろうろ歩きまわっているだけだった。
「タブ、こっちにおいで。ほら、いい子だ」
 タブはおとなしく玄関を出ると、縁の下の毛布の上に横たわった。小屋の中からルーもそれをながめている。
「ルー。おまえは、家の中に入るのよ」
「なんで?」
 ぼくが聞くと、ねえさんは指でぼくのひたいをつっつきながらいった。
「そばにルーがいたんじゃ、タブが落ち着かないでしょ」
 ルーはおとなしく玄関に入り、さっきまでタブがいたダンボールの上に横になった。
 雨はしだいに強くなってきていた。ねえさんは、何度かタブのようすを見にいっている。
 ぼくもそわそわとおちつかなかった。テレビを見ていても、ちっとも頭に入ってこない。
 八時半ごろ、雨の音にまじってミューミューという鳴き声が聞こえてきた。
「やっと生まれたようね」
 ぼくはいすから飛び上がって、玄関へ行こうとした。
「待って、タカちゃん。のぞいちゃだめよ」
「どうして?」
「親犬をおどかしたり、興奮させたりすると、子犬を食べちゃうことがあるんだって。だから明日まで待たなくっちゃだめよ」
「でも、タブはだいじょうぶかなあ」
「だいじょうぶよ。犬は人間みたいに弱くないから。それにタブはのら犬だからたくましいもの」

 九時すぎに、かあさんととうさんがあいついで帰ってきた。とうさんは、ねえさんから事情を説明されると、しばらくふきげんそうに黙った後にいった。
「これ以上、うちでは犬を飼えないよ。ルーはしかたないけれど、そのタブとやらと子犬はもらい手をみつけるんだな」
「子犬はわたしがなんとかするわ。学校の友だちに聞いてみるし。タカシも捜すのよ」
 ぼくは、不服だったのでずっと黙っていた。
「おかあさんも近所をあたってみるわ」
「でも、タブのもらい手はむずかしいわよ」
 ねえさんは、ぼくの顔を見ながらいった。
「おとうさん。ぼくがいっしょうけんめいめんどうみるから、タブも飼ってくれない」
 ぼくは、必死にとうさんにたのんだ。
「いや。二週間以内に、タブも子犬も飼い主を捜さなければだめだ。おとうさんも会社で聞いてみるから」
 おとうさんは、ふきげんそうな顔をくずさずにそうこたえた。

 翌朝、目がさめると、雨はもうすっかりあがっていた。ぼくは、すぐに庭へいった。
 かあさんとねえさんが、子犬たちをタオルでふいている。タブも子犬をなめていた。
「何匹だった?」
「六匹。でも、一匹は死んでいたわ」
 ねえさんが、ふりかえってこたえた。
 白いムクムクとしたのと、真っ黒でつやつやしたのが二ひきずつ。タブに似た、ちょっとほかよりチビなのもいる。
 ぼくは、一匹一匹を胸にだきあげてなでてみた。まだ目があかなくて、すこしふるえている。タブが心配そうに見ているので、ぼくはすぐにそばにもどしてやった。
 とうさんも顔をだしてきた。まだふきげんそうな顔をしている。
 でも、子犬たちがタブのまわりをもごもご動いているのを見ると、少しだけ表情をやわらげた。
「おとうさん、一匹死産だったの」
 かあさんが、庭のすみの茶色い布を指さしながらいった。
「そうか、それはかわいそうだったな」
 とうさんは、タブの頭をなでた。タブは、しっぽを小さくふっている。
「死んだ子犬を、遠くにうめてきてくれないかしら?」
「ああ」
「近くだと、タブがさがしだしてきちゃうから」
 朝ごはんのあと、とうさんは自転車の荷台に乗せた箱の中に、茶色い布でおおわれた子犬を入れて出かけていった。
 一時間後、帰ってきたとうさんは、小さな包みをぼくにほうってよこした。あけてみると新品のピンクの首輪が入っていた。


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交渉王、芳樹

2020-04-19 11:14:50 | 作品
 目の前のたなにも、その前のテーブルにも、いろいろなお菓子が並んでいる。色とりどりのパッケージが、あざやかだ。それぞれの中身を想像すると、食欲がそそられてくる。よだれがでてしまいそうだ。
(どれにしようかなあ?)
 芳樹は、目うつりがしてしまってこまった。あたりには、はかり売りのジェリーやクッキーなどのお菓子がはなつ甘い香りがただよっている。
(やっぱり来てよかったなあ)
 芳樹は、しみじみとそう思った。
 自転車で十分もかかる大正堂まで、明日の遠足のお菓子を買うために、わざわざやってきていたのだ。
 大正堂は、お菓子の問屋さんだ。でも、近くの人のために小売りもしている。
一個五円のガムやあめから、千円以上もする高級チョコレートまでなんでもそろっている。それも、すべて定価の二割から三割引きだった。
 遠足のおやつは、金額の上限が決められている。今回の場合は、三百円。だから、その買い出しにとって、大正堂以上にたのもしい味方はない。
 芳樹の学校のルールでは、三百円というのは定価ではなく実際に払うお金ということになっている。
(本当かな?)
 先生には確かめてないけれど、代々そういうことになっているから、まあいいんじゃないかな。
 だから、近くのお菓子屋さんやコンビニで、定価で買ったりしたら大損してしまう。スーパーなら、割引になっているけれど、大正堂ほどではなかった。

「よっちゃん、来てたの」
 そう声をかけてきたのは、同じクラスの裕香だ。奈々子や明日美も一緒にいる。
「うん、やっぱり、ここっきゃないよね」
 芳樹は、手に下げたお店の買い物かごを振ってみせた。
「そうだよね。みんな、ここに来るんだよね」
 裕香は、右だけのえくぼを見せながら、ニッコリとわらった。たしかに、店の中には、他にも、芳樹と同じ三年生の姿がチラホラ見えていた。みんな、考えることは同じようだ。
「よっちゃん、何を買うの?」
 裕香が聞いてきた。
「うーん、まだ決めてない」
 芳樹がそう答えると、
「じゃあ、遠足でかえっこしようね」
と、裕香がいった。
「うん、約束だよ」
 芳樹もうなずいた。
「じゃあね」
 裕香は小さく手を振って、先にいっている奈々子たちを追いかけていった。

 三百円円以内で、いかに工夫してバラエティに富んだ物を買いそろえるか。それが、芳樹たちにとっては腕の見せ所だ。ポイントは、安くてみんなに人気があって数の多いお菓子を買うこと。いくら自分が好きだからって、みんなに人気のないお菓子を買ってはだめだ。誰とも交換できずに、ひたすらそれを食べなければならないはめになる。それと、分けるのが難しい「イカの姿やき」みたいのも、遠足にはむかない。細かくさいて、分割するという奥の手もあるけれど、形や大きさが不ぞろいになる。交渉レートが複雑になって、めんどうくさくなってしまう。値段の高い一点豪華主義もだめだ。クラスの友だちの好みはバラエティに富んでいる。それに合わせて、品揃えをしておく必要があった。
 芳樹は、じっくりと店内を歩きまわっていた。そして、クラスのみんなの顔を順番に思い浮かべていった。
(えーっと)
 良平は、ハイチューが好きだろ。アルちゃんは、プチポテトに目がない。ゴンちゃんとは、チョコの交換レートが高い。女の子たち用には、ポイフル(果汁グミ)は欠かせない。
(いくらかな?)
 芳樹は、必要なお菓子を慎重に価格を確認していった。それから、たなからとって買い物かごに入れる。
 芳樹の頭の中には、見えないコンピューターがあるみたいだ。合計金額が、きちんと計算されていく。
(えーっと、あと百二十八円)
 芳樹は、値段を確認しながら最後のおかしをえらんでいた。
(どれにしようかな?)
 迷った末に、カールとスティックタイプのチョコレート菓子をかごに入れた。こういう数の多いお菓子は、交換の時に組み合わせるとなかなか効果的だ。思いかけずに高いお菓子と交換できるときがあって、貴重な戦力になる。
 芳樹は、もう一度合計値段を確認した。二百九十五円。
 最後に、一個五円のあめをかごに入れた。これでピッタリ三百円だ。
 芳樹は、かごをかかえて、レジの列に並んだ。

 翌朝、芳樹はいつもより早い時間に学校へ行った。
校門の前には、すでに観光バスが何台もとまっている。これに乗って、今日の目的地である県立七沢公園に向かうのだ。そこは広々とした公園で、ハイキングコースや民芸館、大きな芝生の広場などがある。
 校庭で、付き添いの先生の注意事項を聞いてから、みんなはバスに乗り込んだ。
「ねえ、スティックチョコ一個と、プチポテト三枚を、交換しない?」
 芳樹は、さっそく前の席のゴンちゃんに声をかけた。
 車内でお菓子を食べるのは、禁止されている。
 でも、交換するだけならかまわないだろう。芳樹の交渉は目的地に着く前から、もう始まっていた。
「いいよ」
 ゴンちゃんはあっさりOKした。
(うーん、プチポテト四枚でも良かったかな)
 芳樹は、ちょっぴり後悔していた。
(ゴンちゃんのスティックチョコのレートは、プチポテト四枚) 
 芳樹は、頭の中のメモリーにすばやくインプットした。
「ねえ、プチポテトとハイチュー二個と、交換しない?」
 次のターゲットは、通路をはさんで反対側の席にすわっているアルちゃんだった。

 ピリピリピリー。
 秋山先生のホイッスルがあたりに鳴り響いた。これで、お弁当の後の自由時間はおしまいだ。芳樹は、空のお弁当箱やレジャーシートをナップザックにつめてせおった。
「おーい、三班、集まれーっ」
 班長の康之くんが、大声で呼んでいる。芳樹も、他の班の人たちと一緒に、大急ぎで集合場所に並んだ。
(うまくいったなあ)
 整列しながらも、つい笑顔になってしまう。今日一日の物々交換の成果には、すごく満足していた。
 特に、お菓子の交換は、期待以上にうまくいった。ねらいどおりに、何回も交換を繰り返して、だんだん数を増やしていく。最終的には、十種類以上のお菓子やいろいろなお弁当のおかずを、交換で手に入れることができたのだ。まるで昔話のわらしべ長者みたいだ。
 芳樹の頭の中のコンピューターによると、初めは三百円だったお菓子が、五百円以上の価値を生み出した事になる。
 もっとも、芳樹が持ってきたのはお菓子だけではなかった。家からみかんを三個も持ってきていた。これを、一粒ずつお菓子と交換する裏技まで駆使していた。これは果物だから、三百円の中に入れなくてもOKだ。
 おまけに、去年の担任で教育委員会に出向中の小野沢先生が、ぼくたちのクラスにうまい棒を差し入れしてくれていた。ひとり一本ずつだったけれど、いらない子にもらったり、ハイチュー一個と交換したりして十一本もゲットしたのだ。
 四本(テリヤキバーガー味二本と、たこ焼味、チーズ味)食べたけれど、まだ七本ものこっていた。すごくリッチな気分だった。

 芳樹の交渉上手な才能は、今までにも何度も発揮されていた。
 少年野球チームの祝勝会。バーベキュー大会。子ども会のハイキング。催し物があるたびに、物々交換でいろいろな物を手に入れていた。
 最高にうまくいったのは、去年の運動会だった。
 たった十四本のプチキットカットを、食べきれないほど豪華なおやつに変身させた実績がある。手に入れたのは、ポテトチップスやチョコレートといったお菓子だけではなかった。から揚げやおにぎりやたまごやきなどまで、たっぷりと手に入れていた。
 まず、チョコレートが好きそうな子にねらいをつける。
「ねえ、このキットカットとうまい棒三本と交換しない?」
 このとき、相手の子に余っていそうな物をいうのがこつだ。たいていの場合、自分がいらない物は気前良くくれるものなのだ。
 そして、今度は、うまい棒を食べたそうな子を探していく。
「ねえ、うまい棒とグミ三個と交換しない?」
 これを、根気良く繰り返していった。
 相手が、うんといわない時は、違う組み合わせを提案した。
 最後には、最初からは想像できないほどたくさんの、お菓子やおかずを手に入れることができたのだ。
(交渉王、芳樹)
 ひそかに自分のことをそう呼んでいた。

 その晩、夕ご飯を食べているところだった。
「どうだった、遠足は?」
 にいちゃんの正樹が、芳樹にたずねた。
「うん、けっこう楽しかったよ」
 芳樹が答えると、
「どんなところが、おもしろかった?」
 今度はおかあさんが、おつゆをよそいながらたずねた。今日もおとうさんの帰りは遅いから、三人での夕食だ。
「うん、やっぱり自由行動の時間かなあ。みんなで、手つなぎおにをやったよ」
 芳樹がそういうと、
「なーんだ。そんなのいつでもできるじゃない」
 そういって、おかあさんは笑っていた。
「それと、お弁当とおやつかな」
 芳樹がつけくわえた。
「あら、そう。そんなにおいしかった? いつもと変わらないけどね」
 おかあさんは、自分のお弁当がほめられたと思って、よろこんでいた。
「うん、うちのもおいしかったけれど、他の子からもいろいろもらったんだ」
 芳樹は、今日の成果を思い出していた。
「あらあら、食いしん坊ねえ。ちゃんと自分のもお返しにあげたんでしょうね?」
「うん、ちゃんとあげたよ」
 芳樹はそう答えたけれど、交渉で得したことはおかあさんには内緒にしていた。

 ルルル、…。
 そのとき、電話がかかってきた。
「はい、石川ですが、…」
 おかあさんが電話に出た。
「あら、山本さん、…」
 おかあさんは笑顔であいさつしている。電話は、トシくんのおかあさんのようだ。
(なんだろう?)
 今日は遠足では違う班だったので、特にこころあたりはない。
 芳樹は、またご飯を食べ始めた。
「えっ、はあ、そうですか、…」
 おかあさんの表情が、急にけわしくなった。時々、チラチラとこちらを見ている。芳樹は、おちおちご飯を食べていられなくなってしまった。
「…、はい、どうも申し訳ありませんでした。よくいって聞かせますから」
 おかあさんは、ペコペコと何度もおじぎしながら、受話器をおろした。

「芳樹っ!」
 いつもだったら、おかあさんは芳樹のことを、「よっちゃん」と呼んでいる。きちんと名前を呼んだのは、怒っているしょうこだ。芳樹は、ビクッとしてはしをとめた。
「トシくんの遊戯王のカードを、何枚もまきあげたんだって? トシくんのおかあさんが、電話でそういってたわよ」
 おかあさんは、一気にまくし立てた。
「まきあげてなんかいないよ」
 芳樹が反論すると、
「うそおっしゃい。トシくんは、芳樹にまきあげられたっていってるのよ」
 おかあさんはそういって、芳樹をにらみつけた。
「そんなあ。トシくんがそんなこというはずないよ」
 芳樹は口をとがらせた。
「それに、何度も買ってあげたのに、いつのまにかカードが少なくなっているんだって、おかあさんがいってたわよ」
 おかあさんの怒鳴り声は、だんだん大きくなっている。どうやら、とうとうトシくんのおかあさんに、カードのことを気づかれてしまったらしい。
「違うよ。いいカードと交換したんで、枚数が減ったからじゃないかなあ」
 芳樹はそういいわけした。
「何よ、交換って?」
 おかあさんの声は、金切り声になってきた。
「だから、学校なんかで、みんなでカードの交換をしてるんだよ」
 芳樹は懸命に説明した。

 でも、たしかにクラスの中で何度も交換しているうちに、トシくんはだいぶ損していたかもしれない。
 いいカードと普通のカードの交換には、決まった相場(枚数)があるわけじゃない。だから、おっとりしているトシくんは、芳樹たちのいいカモになっていた。
「でも、トシくんのおかあさんは、すごく少なくなったっていってるのよ」
 おかあさんは、ぜんぜん納得してくれない。
「だから、何回も交換しているうちに減っちゃったんじゃないかな」
 芳樹は、けんめいに説明しようとした。
「あなたの方はどうなのよ。トシくんの分があなたの方にきてるんじゃないの?」
 とうとう話が、芳樹のカードの方にきてしまった。どうにもまずい展開だ。これだけは避けたかったところだった。
「それは、…」
 芳樹は口ごもってしまった。
「じゃあ、持っているカードを、みんな見せてごらんなさいよ」
 おかあさんの声は、すっかりヒステリックになっている。
「ごちそうさま」
 雰囲気が険悪になってきたので、にいちゃんはさっさと夕食をすませると、自分の部屋に逃げ込んだ。

 芳樹は、しぶしぶ自分の部屋へもどった。
 勉強机の一番下の引き出しをあけると、そこには芳樹のいろいろな宝物が入っている。
東京ドームで買った坂本選手のサインボール、野球大会の準優勝メダル、スイミングの十二級の合格証、…。
 大事なカードだけを入れているカードホルダーも、そこにはいっている。じつは、このカードホルダーも、にいちゃんがいらなくなったのを、ただでもらったものだ。
 芳樹は、カードホルダーを大事そうに取り出した。カードホルダーは、カードを一枚ずつビニールのケースに入れるようになっている。ほこりや傷がつかないようにカバーするとともに、一枚ずつ出さずにながめられる。
 それから、ベッドの下に手を突っ込んだ。そこには、あまり大切でない物がつっこんである。引っ張り出してみると、そこからはいろいろなものが出てきた。
幼稚園の卒園証書、七十点以下のテストの束、旧型のテレビゲーム、…。
大事ではないカードを入れたお菓子のアキカンも、そこにあるはずだ。
 芳樹はベッドの下をさんざん引っかきまわした後、ようやくアキカンをひっぱり出した。
 アキカンのふたを開けてみると、中にはごっそりとカードが入っている。種類別に輪ゴムでとめてあるから、どんなカードが何枚あるか、芳樹はすべて把握していた。
 そして、カードホルダーとアキカンを持って、おかあさんに見せにいった。
おかあさんは、カードホルダーをパラパラッとめくっていたが、そのときは何もいわれなかった。
 カードホルダーに入れてある遊戯王のカードは、どれもマニアだったらよだれをたらしそうなめずらしいものばかりだ。
でも、価値のわからないおかあさんには、どれも同じように見えたのだろう。

 次に、芳樹はアキカンのふたをあけて、ザザザッと中身を出した。
「えーっ、こんなに?! いったい何枚、持ってるのよ」
 おかあさんは、すっかりびっくりしている。たしかおかあさんの記憶では、芳樹には10枚入りのカード入りの袋を、1回か2回買ってやっただけだ。それが、いつのまにかすごく増えている。
「えーっと、たしか236枚だったかな」
 芳樹は、ボソボソっと小さな声でいった。
「なんで、こんなに増えてるのよ。おかあさんにだまって買ったりしてたの?」
 おかあさんの顔が、だんだんけわしくなってくる。
「まさかあ、だまって買ったりなんかしないよ。お小遣い帳はきちんとつけてるでしょ」
 芳樹が弁解すると、
「じゃあ、どうしたのよ。やっぱりトシくんなんかから、取り上げたんじゃないの?」
 おかあさんは、もう涙声になっている。
「だから、他のカードと交換したり、にいちゃんや他の子からいらないのをもらったりして、だんだんに増やしていったんだよ」
 芳樹は、けんめいに説明した。
「でも、交換したんなら、枚数は変わらないはずでしょ。どうして、あんたばかり数が増えて、トシくんは減っちゃうのよ」
 素人のおかあさんには、なかなか理解できないらしい。
「それが、交渉なんじゃない。例えば、トシくんがどうしても欲しいカードがあるとするよ。ぼくがそれをあげたら、お返しに一枚じゃなくて何枚かくれるんだよ」
 芳樹は、カードホルダーの中から一枚カードを抜き出した。
「例えば、このカードなんか、すごく人気があるんだよ。こういったカードだったら、普通のカードの三枚分ぐらいの価値があるんだよ」
 芳樹は普通のカードを三枚ならべて、おかあさんにカード交換の仕組みを説明した。

「でも、なんであんたが、いつもトシくんの欲しいカードを持ってるのよ?」
 それでも、まだ納得してくれない。
「それは、また別の子と交渉して、安く手に入れておくのさ。カードのだいたいの相場と、誰がどのカードを持っていて、何を欲しがっているかがわかれば、有利に交渉できるんだよ」
 そこのところは、芳樹はちょっと得意そうな声を出していた。
「うーん、…。でも、そんなの小学生がやることじゃないわ」
 どんなに芳樹が交渉について説明しても、おかあさんは納得してくれなかった。
「とにかく、トシくんにカードを返しなさい」
 おかあさんは、がんとしてトシくんにカードを返すようにいいはっていた。
「うん、わかったよ。でも、どれがトシくんのだったのか、覚えていないよ」
 芳樹は仕方なく、これ以上がんばるのをあきらめた。
「そうねえ。こんなにいっぱいあるんなら、トシくんが持っていた枚数分選んでもらいなさい」
 おかあさんは、カードを手にしながらいった、
「わかった。じゃあ、こっちのカードなら、必要なだけ持ってってもいいよ」
 芳樹は、アキカンに入っていたほうのカード渡しながらいった。
「そっちも返しなさいよ」
 おかあさんは、カードホルダーも取ろうとした。
「こっちは、ぜったいだめ!」
 芳樹は、あわててカードホルダーを自分の体の後ろに隠した。まったく、おかあさんは、これらのカードを集めるために、芳樹がどれだけ苦労したかぜんぜんわかっていないんだから。
 これでは、遊戯王は236枚だけど、実はポケモンカードは372枚も持っているなんて、とてもいえなくなってしまった。



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ラ・マルセイエーズ

2020-04-18 10:02:54 | 作品
 ヒロシが、蟹沢先生に国語を教わったのは、中学一年と二年の二年間だった。その年の終わりに、先生は、学校を定年退職されたのだった。
 ヒロシが先生の退職のことを知ったのは、学年末試験の最中だった。昼休みにクラスの連中とだべっているときに、クラス委員の星野から聞いたのだ。
「そういえば、カニ先が学校を辞めるんだってさ」
 星野が、それほど関心なさそうにみんなにいった。
「えーっ、どうして?」
 ヒロシは驚いて星野に聞き返した。
「うん、定年なんだって。職員室で先生たちが話してたぜ」
 星野は、いつものようにヒロシの机に腰をおろして、足をブラブラさせながら答えた。
「へーっ、カニ先って、そんな年だったんだ」
 隣りにいた吉村も、びっくりしたような声を出していた。ヒロシも、それに同感だった。
 自分の父親よりは年上だろうとは思っていたけれど、定年退職になるほどの年だとは思ってもみなかった。
 定年を迎えた人というと、どうしても母方の祖父の顔が浮かんでくる。蟹沢先生よりも、もっとずっと年取った人のイメージがあった。もっとも、祖父はとうに七十を超えているはずだったから、それも無理はないことだったけれど。

「そういえば、蟹沢先生が退職するってよ」
 試験が終わった日の夕食の時に、ヒロシは五つ年上の大学生の姉貴に話した。姉貴も蟹沢先生に教わったと、聞いていたからだ。
「そう。蟹沢先生も、もう定年かあ。わたしの知っている先生たちは、学校にほとんどいなくなっちゃったんしゃない?」
 姉貴は、少しさびしそうな顔をした。
「そうかもしれないなあ。なにしろ、毎年十人ぐらいは、退職や転勤でいなくなってるからね」
 ヒロシは、おかずのハンバーグをほおばりながら答えた。
「あら、蟹沢先生、お辞めになるの?」
 台所でおつゆをよそっていたおかあさんが、口をはさんだ。
「そうなんだよ。今度の終業式でおしまいだって」
「はい、おつゆ」
 おかあさんが、おわんを二人に渡した。今日のおつゆはけんちん汁だった。おいしそうなゆげをたてている。
「あの先生は、ほんとにユニークだったわね。私たちの中学では国語を教えているけど、英語の先生の資格も持っているし、大学ではフランス文学を専攻していたんだって」
 姉貴は、なつかしそうに話していた。
「へえ、ほんと。そりゃ、初耳だな」
 ヒロシは、たんなる国語の先生としての姿しか知らなかった。
「そうだっ。あの先生、酔っ払うとフランス国歌を歌うんだってさ。たしか『ラ・マルセイエーズ』って、いったよね。それも、すごい音痴でさ。聞いた人に必ず笑われちゃうんだけど、こりずにいつも歌うんだって」
 姉貴は笑いながらいった
「姉貴も聞いたことあるのか?」
 ヒロシは、興味をひかれて聞き返した 
「ううん、聞いたことない。だけど、あの先生のクラスだった子が、この前、クラス会で聞いたって言ってたよ」
「ふーん」
「『ラ・マルセイエーズ』って、どんなメロディだっけ?」
 おかあさんが、また口をはさんだ。
「えっ?」
 姉貴もしばらく考えているようだったけれど、思い出せないみたいだ。
(どんなだったろう?)
 アメリカの国歌だったら、覚えている。「星条旗よ、永遠に」だ。メジャーリーグの中継を見たりするときに、唄われるのを聞いたことがある。
 でも、フランス国歌は、あまり聞いたことがない。けっきょく、家族三人、だれもそのメロディを思い出せなかった。
 ヒロシにとって、蟹沢先生は大の苦手だった。
 色黒でひげがすごく濃い。黒ぶちのめがねをかけていて、背はヒロシよりも低いくらいだ。いつも皮肉っぽい笑いを口の端に浮かべている。
 生徒たちを、自分でつけたあだ名で呼ぶ。しかも、そのあだ名が特徴をすごくうまくつかまえているのだ。だから、友だちや他の先生までが使うようになってしまう。
 ヒロシは、姉貴が二人も同じ中学を卒業している。それで、入学したとき、真っ先にあだ名をつけられてしまった。
「おい、山村。おまえのねえさんたちは、できが良くて美人だったけど、おまえはチョコマカ落ち着きがないなあ。コロコロ太っていて、ぜんぜんねえさんたちに似てないなあ。似てるといやあ、タヌキだな。そうだ。おまえ、タヌキってあだ名がいいかもな。いやゴロが悪いから、ポンポコにしよう」
 以来、学校では、ヒロシのことを本名で呼ぶものはいない。女の子たちまでが、「ポンポコ君」なんていう。男子は、「ポンポコ」とか、「山ポン」と呼びすてだ。

 翌日の昼休みも、ヒロシはいつものようにクラスの連中とだべっていた。蟹沢先生の話を持ち出したのは、星野だった。
「カニ先の授業も、あと二、三回で終わりだなあ」
「うん、あいつも変わったやつだったよな」
 ヒロシは、カッターで消しゴムをきざみながらいった。
「カニ先には、いつもやられっぱなしだったな」
 ヒロシの前の席で、いすに横向きに座っていた吉村が言った。蟹沢先生のあだ名や皮肉の餌食になったのは、ヒロシだけではなかったのだ。
「でも、あれでけっこう憎めない所もあるんだよなあ」
 星野が、意外にもしみじみとした声を出した。
「でも、一度でいいから、カニ先にひと泡ふかしてやりたかったな」
 吉村が残念そうに言った。
「カニだからか?」
 吉村は、あげ足を取った星野のボディーに、軽くパンチを入れた。
 ヒロシが、「ラ・マルセイエーズ」の件を思い出したのはその時だ。
「えっ。あいつ、『ラ・マルセイエーズ』なんか歌うのか」
 ヒロシの話が終わると、星野がおもしろそうに言った。
「クラスで、歌わしてやりたいなあ」
 吉村がそう言うと、他の連中も乗り気になってきた。
「ただ歌わすだけじゃ、おもしろくないよ。なんか、趣向をこらしてさ、カニ先をギャフンと言わしてやりたいな」
 ヒロシがそう言ってみんなの賛同を得た時、昼休み終了のチャイムが鳴った。

ヒロシは、授業中もこのことを考え続けていた。こういうことにかけるヒロシの情熱は、本当にたいしたものだ。
 その日の放課後に、もう一度、みんなを集めて相談した結果、つぎのような手はずになった。
 ①授業の最後に、ヒロシが「ラ・マルセイエーズ」を歌ってくれるように先生に頼む。
 ②先生が断ったら、クラス全員で「ラ・マルセイエーズ」を連呼して要求する。
 ③先生が引き受けて、最初の一小節を歌ったら、一列目が笑う。次の小節では二列目が、以下順番に各列が笑い、最後にみんなで大笑いする。
 どうしても先生が引き受けなかったり、途中で怒り出したりしたら、みんなで「ラ・マルセイエーズ」を合唱する。そうすれば、悪意からではないことが、わかってもらえるはずだ。
ヒロシたち二年三組での蟹沢先生の最終授業は、三月二十二日。あと一週間しかない。クラスのみんなへの根回しもいるし、当日の用意も必要だ。大急ぎで準備しなければならない。

 その日の放課後、ヒロシは、星野と一緒に、区立図書館の視聴覚ライブラリーへ出かけて行った。もちろん、「ラ・マルセイエーズ」のCDを借りるためだ。
 そこのライブラリーは充実しているので、ヒロシは、時々、好きなJポップのCDや外国映画のDVDを借りている。
 でも、今日はそんなひまはない。
「どこを探せばいいかなあ?」
 ヒロシは、あたりをキョロキョロながめながら、星野に聞いた。
「国歌のコーナーってないか?」
 星野も、あたりを見回している。
「そんなのあるはずないよ」
 ヒロシは、あきれたように星野の顔を見た。
「じゃあ、クラシックだな」
 星野が自信ありげに言った。
 「ラ・マルセイエーズ」のCDは、予想どおりにクラシックのコーナーで見つかった。
 しかし、残念ながら歌詞がついていない。インストルメンタルなのだ。
「クソーッ。これじゃだめだ」
 ヒロシがそのCDを棚に戻そうとした時、星野があわてておしとどめた。
「待てよ。カニ先が歌ったりさ、おれたちが歌ったりする時に、バックに使えるじゃないか」
「あっ、そうか」
 結局、「ラ・マルセイエーズ」が入っているフランスの合唱団のCDを見つけるのには、それから三十分近くもかかってしまった。

 図書館の帰りに、ヒロシは、駅の前で星野と別れた。ヒロシは、となりの区から電車通学をしているのだ。
 ホームで電車を待っていると、まるで待ち合わせでもしていたかのように、蟹沢先生がやってきた。
「おい、ポンポコ。なにやってんだ、こんな遅くに」
 先生は、めざとくヒロシを見つけると、いつものように大声で言った。
「こんちは。ちょっと図書館に行ってたもんで」
 ヒロシはそう言うと、手にさげていたCDの入ったビニール袋を、持ち上げてみせた。
(まさか、この中身が『ラ・マルセイエーズ』だとは思うまい)
「そうか」
 先生は、納得したようすでうなずいた。
 さいわい、すぐに電車がホームに入ってきたので、先生は、それ以上話しかけてこなかった。
 ヒロシは、電車に乗るとドアのそばに立って、反対側の席に腰をおろしている先生を横目で見ていた。
 古ぼけた三つ揃いの背広に、大きな黒カバン。おまけに、灰色のソフト帽までかぶっている。
 今どき、こんなかっこうをしている中学教師なんて、東京広しといえども他にはいまい。
 しかも、先生は一年中同じ格好をしていた。くそ暑い夏の日にも、きちんと背広を着て、汗だくで歩いている。それを生徒たち、それに若い先生たちまでが、笑いの種にしていた。学校新聞に、「U中学の七不思議」のひとつとして、「蟹沢先生のスリーピースとソフト帽」は、取り上げられたくらいなのだ。
 でも、ヒロシだけは、なぜいつも先生がそんな格好をしているかを知っていた。

 一年生の二学期のことだった。
 ある日、ヒロシは、駅員に不正乗車の疑いをかけられたことがあった。
ピンポーン。
自動改札機のチャイムが鳴って、ヒロシの目の前で扉が閉まった。
(チッ)
 仕方がないので、端にある駅員のいるレーンへ行って、定期券を見せて出ようとした。
 めがねをかけた若い駅員は、定期を持ったヒロシの腕をつかんで言った。
「おい、期限が一週間も過ぎてるぞ」
「えっ」
 ヒロシがあわてて定期を見ると、期日は十月五日までだった。今日はもう十二日だ。
「うっかり……。」
 ヒロシが言いかけると、
「ちょっと、そこで待ってろ」
 駅員はそう言って、続いてやってきた他の乗客をさばき始めた。
 その後で、ヒロシは駅員と押し問答を繰り返した。昨日まで、どのように改札を通過したのだというのだ。そんなこと言ってもヒロシにもなぜ期限切れの定期で追加できたのかはわからない。ヒロシがいくら弁解しても、駅員は聞き入れてくれない。何か不正な方法で通過したのだろうというのだ。そして、ペナルティーとして、超過した期間の通常料金の三倍を払えとの、一点張りなのだ。ヒロシがその時持っていたお金では、とても足りなかった。
「山村、どうした?」
 振り向くと、改札口に蟹沢先生が立っていた。いつのまにか、次の電車が到着していたのだ。
「失礼ですが、わたしは、この子の学校の教師ですが」
 先生は、ていねいにソフトをぬいで、駅員に話しかけた。先生のしらが頭はかなり薄くなっていたが、きちんと刈りそろえられている。この時ばかりは、ヒロシの目にも、先生はおしもおされぬ「紳士」に見えた。
 駅員も、ちょっと圧倒されたような顔をしていた。それでも、駅員は、事情を説明し始めた。さっきとはうってかわって、ていねいな口調だった。
「そうですか。山村はうっかりしたと言っているんですか」
 そう言うと、先生は、ヒロシの顔を確かめるようにみつめた。
「彼の言葉は、わたしが保証します。この子は、うそをつくような子じゃない」
「しかし、……」
 駅員が、言い返そうとした。
「それに、うっかりしたのは、この子だけではない。自動改札機もあなたたちも、今まで気づかなかったんじゃないですか?」
 先生にこう言われると、駅員は黙ってしまった。先生は、さいふを取り出して一回分の正規の料金だけを払うと、ヒロシを連れてさっさと改札口を抜けていった。

 翌日、ヒロシは、昨日のお金を返しに職員室へいった。
「蟹沢先生をお願いします」
 入り口近くにいた先生に声をかけていると、
「おーい、ポンポコ、こっちだ」
 向こうから、蟹沢先生が手を振っている。
「ありがとうございました」
 ヒロシがお金を返すと、先生はこう言った。
「ポンポコ。昨日、なんであの駅員が、おれの言葉を信用したと思う?」
 ヒロシがどう答えたらいいかわからずに黙っていると、先生はすぐに話を続けた。
「外見なんだよ。見た目ってやつ。中学生の言葉は信じられなくても、きちんとした身なりの大人の言うことならば信じてしまう」
 先生は、そこでちょっと言葉を切った。
 でも、また話を続けた。
「でもなあ、人間って、案外そんなとこあるのかもしれないなあ」
 先生は、少し照れたように笑っていた。
「だから、このみかけだおしのかっこうも、たまには役立つってわけだ」
 先生はそう言って、背広のえりに両手の親指をかけて、おどけてみせた。

「馬鹿みたい。こんなのやめときなよ」
 ヒロシの説明が終わると、片柳さんが真っ先に反対した。大人びた顔に、馬鹿にしたようなうす笑いを浮かべている。
 ヒロシと星野は、「ラ・マルセイエーズ」の計画について、クラスの中心的な女の子たちにも協力を求めていたのだ。すでに男子たちには根回し済みで、他のクラスや先生たちにばれないように、星野がかん口令をしいてある
「そうね。お年寄りを笑うなんてかわいそうよ」
 そう言ったのは、クラス委員の竹田さんだ。
(ちぇっ。ブリッ子してら)
 ヒロシは心の中でそう思っていたが、もちろん口には出さない。そして、けんめいにもう一度計画を説明した。星野は、そんなヒロシと女の子たちを見較べながら、ニヤニヤしている。
「でも、ちょっと面白いかもね」
「うん、最後はハッピーエンドなんだし」
 何人かの女の子たちは、興味を持ってくれたらしく、賛成しそうな雰囲気になってきた。竹田さんも迷っているようだ。ヒロシは、期待をこめて片柳さんの顔をみつめた。
「しらけるなあ。まるで小学生みたいじゃない」
 片柳さんはそう言い放つと、さっさと教室から出て行ってしまった。すると、賛成しかかっていた子たちまでが、前言を翻して反対にまわったので、ヒロシはすっかりがっかりさせられた。
 星野はそんな様子をながめながら、相変わらずニヤニヤしているだけだった。

 その晩の九時過ぎに、ヒロシに星野から電話がかかってきた。
「オーケー、山ポン。話はつけたよ」
「何の?」
 ヒロシが聞き返すと、
「もちろん、『ラ・マルセイエーズ』のさ」
と、星野は、少しじれったそうに言った。
「えっ、女の子たちとか?」
 ヒロシは、びっくりして答えた。
「鈍いな。まだ、片柳さんとだけだよ。彼女さえOKなら、後はだいじょうぶ。みんなに話をつけといてくれるから」
「そうか、やったな」
 ヒロシはホッとしていた。どうやって女の子たちを説得したらよいか、ヒロシには見当もつかなかったからだ。
「でも、先生を笑うのはいやだってさ。合唱は協力するけどな」
「いいよ、いいよ。それだけで。告げ口したり、じゃましたりしなけりゃ、それでいいよ」
「それは絶対に保証するよ」
「でも、どうやって片柳さんを説得したんだ?」
 ヒロシは、不思議そうにたずねた。彼女は、学校ではあんなに強く反対していたのに。
 すると、星野は一段と大人びた口調で言った。
「山ポン。それは企業秘密ってやつだよ」
「えっ?」
 星野が笑いながら電話を切った時になって、やっとヒロシにも、星野と片柳さんの関係がピンときた。

 その後は、準備は着々と進んだ。
大学では、一応フランス語を習っていることになっている姉貴が、調べてくれた発音をカタカナで書いた訳詞付きの歌詞カードは、片柳さんが人数分のコピーをとってくれた。彼女は、前とはうってかわって協力的だった。
 先生にプレゼントする「ラ・マルセイエーズ」をダビングしたCDは、凱旋門のカードとリボンで、きれいに飾られている。放課後にひそかに開いた合唱練習にも、クラスのほとんどが参加してくれていた。

 いよいよ三月二十二日がきた。国語の授業は四時限目。もう学校は半日授業になっているので、これがその日の最後の授業だった。
 蟹沢先生は、他のクラスでも、最後のあいさつをしたり、プレゼントを受け取ったりしているとの情報が、ヒロシたちに入ってきていた。
 四時限目になった。
 蟹沢先生は、いつもと少しも変わりなく授業をすすめている。相変わらずの皮肉っぽいしゃべり方で、一年間の授業内容を総括していく。
 ヒロシは、授業に全然身が入らなかった。他のクラスの連中も、うわべはそしらぬ顔でまじめに聞いているふりをしているが、たぶん同じ気持ちだったに違いない。
 終了五分前になった時、先生は授業を終わらせた。
「みんな、もうすでに聞いていると思うけど、私は、二十五日の終業式を最後に、退職することになりました」
 先生は緊張をごまかすように、照れ笑いを浮かべながら言った。
 クラスのみんなが、いっせいにヒロシの方へ目くばせしてくる。
 ヒロシは、先生のあいさつが終わると、すぐに席を立った。
「先生、お願いがあります。最後に、先生の得意の『ラ・マルセイエーズ』を、聞かせてくれませんか?」
 先生は、ちょっととまどったような顔をしていた。
「『ラ・マルセイエーズ』か。ポンポコ、ねえさんから聞いたな」
「ええ。ぜひお聞きしたいんですが」
「おれはへたなんだよ、歌が。音痴なんだ」
「そこをなんとか」
 はじめは数人が、そして、しだいにクラス全体が、
「ラ・マルセイエーズ」
「ラ・マルセイエーズ」
と、叫びだした。机をがたがたさせたり、足を踏みならす者もいる。
「わかった、わかった。まあ最後だからな。みんなは知らないだろうけれど、『カサブランカ』っていう戦後すぐにヒットした映画の中で、フランス人たちが、ドイツ軍人に対抗して、この歌を歌うシーンがあってね。そのころの若い人は、みんなその映画に感動したんだそうだ。先生は、そういう古い映画が好きなもんでね」
話し終わると、蟹沢先生は、間をおかずにいきなり歌い出した。
「アロナファンドゥラパトリィー、ルジュドゥグラエーアリヴェ!
  (たて祖国の若者たち、栄光の日は来た。)        」
 星野が、あわててCDラジカセのスイッチを入れる。少しひずんだ「ラ・マルセイエーズ」のメロディーが流れ出した。
 先生の歌は、まったくへたくそだった。ヒロシが想像していたよりも、数倍へたなのだ。音程もリズムもめちゃくちゃだった。CDの演奏にもまったく合っていない。
 でも、先生は体中に力をこめて、いっしょけんめいに歌っていた。
 最初の一小節が終わった時、最前列の数人が笑いかけた。
 しかし、それは、打ち合わせどおりのそろった笑い声にはならなかった。
 二小節目が終わった時には、もう誰ひとり笑う者はなく、みんなは、黙って蟹沢先生をみつめていた。
 先生は、黒ぶちめがねの奥にある、ギョロリとした目にいっぱいの涙をためて、一心に歌っていた。からだを前後に揺さぶりながら、大きな声で歌い続ける。
「マルション! マルション! クンサナンピュー、アブルヴノショーン!」
 最後まで歌い終わると、先生は、何も言わずに教室を出て行った。クラスのみんなは、黙ってその後ろ姿を見送っていた。
 と、その時、片柳さんが小さな声で歌い出した。
「アロナファンドゥラパトリィー……。」
 それにつれて、クラス全員が「ラ・マルセイエーズ」を歌い始めた。ヒロシは、プレゼントのCDをつかむと、廊下へ飛び出していった。




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バードウォッチング

2020-04-17 10:18:59 | 作品
 ピピ、ピピ、……。
 枕もとに置いためざまし時計が鳴っている。孝志はぼんやりと目を覚ました。
(いけない!)
次の瞬間、孝志は急いでアラームをとめると耳をすました。
 隣の部屋は、シーンとしている。どうやら、とうさんを起こしてしまわなかったようだ。昨日の夜も、とうさんは仕事で帰りが遅かった。
 そっと寝床を抜け出して、パジャマ姿のまま玄関へいった。
 まだ六時少し前だ。
ドアを開けると、ちょうど太陽が東の空に昇りはじめたころだった。
(ふーっ、寒い)
 孝志は少しふるえながら、胸の前で腕を組んだ。
 三月になったとはいえ、高台にある孝志の家のあたりでは、まだまだ朝晩の冷え込みがきびしい。カーポートにとめてあるとうさんの車のフロントガラスは、真っ白に凍りついていた。孝志は、指先でフロントガラスをさわってみた。少しこすったくらいでは、氷は溶けなかった。
 でも、寒さこそ厳しいものの、空はすっかり晴れ上がっている。待ちに待った晴天の日曜日の朝だった。
 孝志は、いつものように郵便箱から朝刊を抜き出すと、急いで家の中に戻った。

 同じクラスの秀平から、バードウォッチングに誘われたのは、もう三週間も前のことだった。
「タカちゃん、今度の日曜日に、鳥を見に行かないか?」
 休み時間に孝志の机のそばまでやってくると、秀平はいきなりそういった。
最近、孝志は休み時間にも運動場で遊ばずに、教室にいることが多かった。秀平は、そんな孝志に声をかけてくれる数少ない友だちだった。
「えっ、鳥? 動物園へでも行くの?」
「ううん、違うよ。野生の鳥。バードウォッチングだよ」
「バードウォッチング?」
「うん。山とか、川とか、林なんかを歩いて、双眼鏡で鳥を見るんだ」
 秀平は、少し得意そうに説明している。
「ふーん?」
 孝志がまだピンとこないでいると、秀平は熱心に説明を始めた。
「ぼくらの町って、すごくバードウォッチングに向いてるんだよ。だって、住宅地や公園だけでなく、畑や田んぼ、それに山や川だってあるし。なんといってもすごいのは、湖まであることだよ。だから、いろんな種類の鳥が見られるんだ」
 秀平は、去年、町のバードウォッチング教室に参加して以来、すっかりはまっているんだという。
「今の季節だと、朝早く行けば、お昼までに軽く三十種類は見つけられるよ」
「ほんとう? そんなにたくさん?」
 三十種類と聞いて、急に興味がわいてきた。
 鳥といわれて頭に浮かんでくるのは、ハトやスズメ。それに、最近やたらと増えてゴミ箱をあさっているカラスぐらいだ。自分のまわりにそんなにいろいろな鳥がいるなんて、とても信じられなかった。
 秀平がわずか一年弱の間に七十八種類もの鳥を確認できたと聞いて、とうとう孝志は行くことを約束した。
 ところが、そのあとの週末は雨続きで、今日までのびのびになっていたのだ。

 秀平とバードウォッチングに行くと聞いて、孝志以上に喜んだのはとうさんだった。
とうさんは、翌日すぐに、すごく高そうな双眼鏡を買いこんできてしまった。
(初心者用でいい)
っていったのに、どうやらドイツ製の高級品らしい。
「倍率は高ければ高いほどいいのかと思ったら、そうでもないらしいんだよな。鳥ってのはチョコマカ動くから、7倍から10倍ぐらいがちょうどいいらしいんだ」
 ネットでも調べたのか、いやに詳しくなっている。
「ほら、持ってごらん」
 そういって差し出された双眼鏡を持ってみると、思ったより軽い。それにゆるやかなカーブを描いた形が、ピタッと手になじんでくる。
 目にあててみると、いきなり居間の飾り棚に置いてある博多人形が、視野いっぱいに飛び込んできた。
 でも、ちょっとピンボケだ。
「まん中のダイヤルで、ピントを合わせるんだよ」
 横から、とうさんがいっている。
孝志が少しずつダイヤルをまわすと、くっきりと描かれた人形の顔がはっきりと見えるようになった。
 居間の壁に沿って、見る先を少しずつ動かしていく。
 孝志が3才のときの虫歯予防の表彰状。去年の習字コンクールで優秀賞をもらった「大空」。
最後に、額に入ったかあさんの笑顔がアップになった。

 その後も、とうさんは必要以上に張り切ってしまった。
「リュックはいらないのか?」
「靴は山歩き用のがいいらしいぞ」
「雨具は軽くて折りたためるポンチョ式のがあるぞ」
と、いろいろといってくる。
 半年前にかあさんが亡くなってから、孝志が自分から何かをしようとするのは初めてのことだった。だから、とうさんはよほどうれしかったらしい。
「まだ始めてもいないのに、そんなに買いこんだってしょうがないよ」
 孝志が文句をいうと、
「いや、せっかくやるんなら、形から入るってのも、最近はありだぞ」
と、なかなか引き下がらない。そして、孝志の忠告など聞かずに、次々と買いこんできてしまった。
 いろいろな野鳥の鳴き声が録音されたCD。ナップザックや大きなひさしのキャップ。
 びっくりするぐらいいろいろな物を買ってきた。
 図鑑などは、バードウォッチングに携帯できる小型のだけでない。ずっしりと重たい本格的な物まであった。それには、日本だけでなく外国の野鳥までがのっていた。
 まあ、そのおかげで、雨で伸び伸びになっている間に、野鳥の鳴き声や名前をずいぶん覚えることができたけれど。

「おーい、タカちゃーん」
 待ち合わせ場所に先に着ていた秀平が、中学校の校門の前で手を振っている。
「おはよー」
 孝志もそれにこたえると、かけだしていった。
 秀平は、孝志が首からぶらさげている双眼鏡に気づくと、目をまん丸にして驚いていた。
「それ、もしかして、ツァイスのT457じゃない?」
「うん、とうさんが勝手に買ってきちゃったんだ」
 孝志が恥ずかしそうに答えた。
「ちょっと、さわってもいい?」
 秀平が遠慮勝ちに手を伸ばした。
孝志は、すぐに双眼鏡を首からはずして手渡した。
「すげえ、やっぱりクリアに見えるなあ」
 あちらこちらを見ながら、秀平は感心したような声を出していた。
 孝志は、代わりに秀平の双眼鏡を受け取った。それは、黒塗りの古くて大きな双眼鏡だった。
 のぞきこもうとしたら、手前の左レンズがポロリと取れてしまった。孝志は、あわててそれをもう一度はめこんだ。
「じゃあ、始めようか?」
 秀平はそういいながら、ツァイスのT457を孝志に返した。孝志も、レンズが落ちないように気をつけながら、秀平の双眼鏡を戻した。
「まずどこへ行くの?」
 孝志がすぐにでも歩き出そうとすると、
「待って、ここにもすごいのがいるんだぜ」 
 秀平はそういうと、孝志を中学校の中へ連れていった。校舎の中ほどがアーチ型になっていて、反対側の校庭につながっている。
「ほらっ」
 秀平が指差した天井を見上げると、背中が黒くおなかが白い鳥が何羽もいた。ツーイ、ツーイと上へ下へとせわしなく飛びかっている。秀平によると、虫をつかまえているのだそうだ。
「ツバメ? でも、それって、夏しかいないんじゃなかった?」
「うん。これはイワツバメっていって、一年中いる鳥なんだ」
 孝志は、けんめいに双眼鏡でイワツバメを追いかけようとした。
 でも、すばっしこくってなかなかキャッチできない。
「1種類目はイワツバメと」
 秀平はポケットから小さなノートを取り出すと、ひもで結びつけてあるちびた鉛筆で書き込んだ。
「なんだい、それ?」
 孝志が聞くと、
「フィールドノート。観察した鳥の名前を書いておくんだ」
 覗き込むと、前回のところにはびっしりと鳥の名前が書きこんであった。

 大戸橋のたもとから、二人は沢へ降りて行った。二、三メートルしか幅のない浅い流れだが、これより上流に家がないせいか、意外と水は澄んでいる。秀平の話だと、もっと上流まで行けばサワガニがいっぱいいる所もあるらしい。
 その時、二人の頭上を白い大きな鳥が横切った。
「シラサギだ!」
 孝志は興奮して叫んだ。
こんなに大きな鳥が家のそばにいるなんて、今までぜんぜん気がつかなかった。
「正確には、コサギだけどね」
 見なれているのか、秀平は意外と冷静だ。
(シラサギという名前の鳥はいなくて、大きさによってコサギ、チュウサギ、ダイサギというのだ)
と、孝志に教えてくれた。
 コサギは沢に沿ってゆうゆうと滑空すると、50メートルぐらい先にそっと舞い降りた。
 双眼鏡でのぞくと、魚をねらっているのか、流れの中にじっと立っている。
 孝志と秀平は、コサギを驚かさないように、岸辺に沿ってゆっくりと近づいていった。
 コサギは川の中ほどで、一本足でやや前かがみになりながら、じっと水面をにらんでいる。まるで、あたりの風景に溶け込んでいるかのようだ。
 少し先を進む秀平をけんめいに追いながら、孝志は頭の中がジーンとしびれるようなうれしさを感じていた。

 その後も、二人は次々と違う種類の鳥を見つけていた。家が密集しているような所でも、意外にいろいろな鳥を見ることができる。
 ポポー、ポポー、ポポー。
 電線には、キジバトがつがいでとまっている。
 広い庭のあるうちでは、芝生の上を黄色いくちばしをしたヒヨドリが歩き回っていた。
 高いこずえの上では、巣でもあるのか、たくさんのムクドリがペチャクチャとおしゃべりしている。
 やがて二人は、ひろびろとしたお寺の境内に出た。
「あっ、ウグイスだ」
 孝志が指差したところには、ウグイス色をした小さな鳥がいた。
「違うよ、メジロだよ」
 秀平が答えた。
「よく見てごらん。目のまわりが白いから。ここが黒かったらメグロなんだ」
 孝志は双眼鏡のダイヤルを調節して、その鳥にピントを合わせた。たしかに、目のまわりが白くなっている。
「メジロって、うちの町鳥なんだぜ。つまり町の鳥ってわけ」
「へーっ」
 孝志も国鳥がトキだってことは知っていたけれど、町鳥なんてものがあるなんて、ぜんぜん知らなかった。
 本堂の屋根に、白と黒のツートーンカラーのきれいな鳥がとまっている。長い尾っぽをヒラヒラさせている。
 オナガだ。
 ギャー、ギャー、ギャー
 オナガは、見た目とは似つかわない汚い声で鳴きわめいていた。

 11時すぎに、二人は小倉山の中腹にある発電所まで来ていた。
「タカちゃん、ちょっと休もうか」
 歩きなれないせいか、孝志はすでにかなり疲れてきていた。日差しも高くなって、3月だというのに額には汗もうかんできている。そんな様子に気がついた秀平が、声をかけてくれたのだ。
 二人は背中からデイバッグをおろすと、発電所の横の芝生に腰をおろした。
 ここはなかなか見晴らしが良かった。正面に丹沢の山々が、幾重にも重なって続いている。その向こうには、真っ白な雪をかぶった富士山が頭をのぞかせていた。
「いい物があるよ」
 秀平が、デイバッグからチョコレートを取り出してくれた。
「これを食べると、疲れがとれるよ」
「サンキュー」
 ほおばると、口の中にほろ苦い甘さがひろがった。なんだかチョコレートに元気をもらって、これからの急な坂道を登っていく力がわいてきたような気がした。
 ホホホッホーーー、ホケキョ。ケキョケキョ。ホーホケキョ。
 眼下の雑木林からは、あちらこちらから、これは本物のウグイスがいい声を聞かせてくれている。
「あっ、イカルだ」
 秀平が指差す高い木の上のてっぺんには、大きな黄色いくちばしが特徴的な鳥の群れがとまっていた。

 一歩一歩、足元を見つめながら、長い坂道をゆっりと上っていく。
(そうすると疲れない)
って、秀平がアドバイスしてくれた。
 ようやく登りきって最後カーブをまがると、急に前の景色が開けた。
 城山湖だ。周囲3キロそこそこの小さな人造湖だけど、深い緑色の水をたたえた美しい湖だった。まわりには家などは一軒もなく、ぐるりを山に囲まれているので、いつも静かだった。
 観光地の湖と違って、やかましいおみやげ屋や遊覧船のアナウンスがないのがいい。
(自然そのものに包まれている)
って、感じだ。
 ここは、孝志たちにとっては、おなじみの場所だった。遠足やお花見、それに秋のもみじ狩りなどの時に、ここまで足をのばしている。
「放流によって、湖の水位が急激に上下しますので、絶対に柵の中に入らないでください」
 テープに吹き込まれた、おなじみのアナウンスが、聞こえてきた。 
 フェンスの向こうをのぞきこむと、下のほうに、今日も監視の目を盗んで釣り糸をたれている人たちがいる。
 夜間電力で川から水を組み上げ、昼間はそれを放水して発電する。揚水式ダムというタイプだと、社会科で習っていた。そのため、湖に流れ込んでいる川は、一本もなかった。
 でも、釣り好きの人がこっそり放流したのか、けっこう魚が住みついている。そして、それをねらっている水鳥たちも、秋から春にかけてはたくさんやって来ていた。

「オシドリ、マガモ、それにカイツブリ」
 遠くの湖面に、黒い粒のように見える鳥たちに双眼鏡を向けながら、秀平がつぶやいた。
 孝志もそちらの方に双眼鏡を向けたけれども、距離が離れすぎていてどんな鳥か良くわからない。このくらい離れていると、孝志の8倍の双眼鏡では無理なのだ。
 秀平のは倍率が12倍なので、少しはましだ。二人は双眼鏡を交換しながら、湖面に浮かぶ鳥たちも観察していた。
 でも、なかなか細かいところまではわからない。図鑑と見比べても、慣れない孝志には、なかなか鳥の区別がつかなかった。
「やっぱり、双眼鏡じゃあ、はっきり見るのは無理だなあ」
 とうとう秀平も、あきらめたように双眼鏡をおろした。
 このくらい離れていると、最低でも20倍以上の倍率が必要なのだという。しかも、そんなに倍率が高いと、双眼鏡では手で持っているので、視界がぶれてしまうのだそうだ。三脚つきの本格的な望遠鏡でしか、見ることができない世界だった。
「あーあ、三脚つきの望遠鏡が欲しいなあ」
と、隣では秀平がため息をついている。
 それでも、なんとか種類を見きわめようとして、孝志は双眼鏡にあてた目をけんめいにこらした。

 コンビニで買っておいたおにぎりを湖の展望台で食べてから、二人は沢伝いに山を下っていった。
「あっ」
 急に秀平は立ち止まると、後に続く孝志にそっとしているようにと、身振りでサインを送った。
「カ・ワ・セ・ミだ」
 声をひそめて対岸の木を指差している。
「えっ?」
 キョロキョロしてみても、どこにいるのかわからない。
「しーっ。そこそこ、枝の先」
 秀平は、いっそう声をひそめている。対岸に植わった梅の木から、沢にかかるように枝が張り出している。その枝の先にカワセミはいた。
 コバルトブルーの羽が、日の光をあびてキラキラ輝いている。おなかはくっきりしたオレンジ色だ。大きさは、そう、15センチぐらいだろうか。ヒヨドリと同じぐらいに見える。長いくちばしに短いしっぽ、肩をすぼめるようにして、じっとしている。
 と、カワセミは何かにたたきつけられたかのように、いきなり川面めがけてダイビングした。一瞬、水中に沈んだと思ったら、あっという間にもとの枝に舞い戻ってくる。すごい早業だ。
 長いくちばしには、まだけんめいに身をくねらせている10センチほどの魚をくわえていた。カワセミは魚を何度か枝にたたきつけると、天を振り仰ぐようにして頭から丸呑みにした。
「すげーえ」
 隣では、秀平が小さくつぶやいてる。孝志は双眼鏡のピントをけんめいに合わせた。画面いっぱいにひろがったカワセミは、首をキョトキョトとせわしなく動かしている。もう満腹したのか、獲物をねらっている様子には見えない。
 やがて、カワセミはいきなり枝を飛び立つと、下流に向かって水面すれすれを一直線に飛んでいってしまった。

 沢伝いに町はずれまで降りてくると、急にポッカリと開けた場所に出た。
 鉄筋4階建ての大きな建物。今年できたばかりの「町民健康福祉センター」だ。入り口部分は屋上までの吹き抜けで、その正面は大きなガラス張りになっている。お日様に照らされて、ピカピカに輝いていた。
「ああっ、今日もだ」
 秀平はそういうと、先に立ってかけだした。孝志もあわてて追いかけると、秀平は入り口の前で何か黒っぽい物を拾い上げている。
「何だい?」
 そばへよってみると、秀平が両手にかかえていたのはかなり大きな鳥だった。もう死んでいるようだ。
「トラツグミだよ」
 秀平がポツンといった。
「どうしたんだろう?」
「あの大きなガラス窓にぶつかっちゃたんだよ」
 二人は、キラキラ光る大きなガラス窓を見上げた。
「あんまり大きくって透き通っているので、鳥にはガラスがあることがわからないんだよ」
「ふーん」
 トラツグミの薄茶色の体には、黒い縞模様がくっきりとしていて、まるでまだ生きているようだ。
 でも、秀平の手の中で、固く目を閉じたまま動かない。もう大空を自由に飛びまわったり、虫を捕まえたりすることはできないのだ。
 孝志は、急にお葬式のときのかあさんの顔を思い出した。白くて眠っているようにきれいだったけれど、やっぱりどこか遠い所へ行ってしまった。

 チッチッチッチ。
「ヒヨドリだ」
 秀平がすぐに答えた。
 ピロロー、ピロロー。
「ヤマバト」
 また、すぐに答えた。
「正解!」
 バードウォッチングの帰りに、秀平に家へよってもらっていた。野鳥のCDをかけて、鳴き声で名前を当てるクイズをやっている。間違えたら交代するルールなのだが、秀平が連続して的中させるので、孝志の番はなかなか来なかった。
「もうやめよう。シュウちゃん、ぜんぶあてちゃうんだもの。なんか他かの事をしようよ?」
 とうとう孝志がギブアップした。
 秀平が一緒に家に来たとき、とうさんは一週間分の洗濯にせいをだしていた。
「こんにちは」
 秀平があいさつをすると、
「よく来たねえ」
と、孝志の友だちが来たことをすごく喜んでくれていた。
 でも、どういうわけか、すぐにどこかへ車で出かけてしまっていた。

 トントン。
 部屋のドアが軽くノックされた。
 孝志がドアを開けると、いつの間に戻ったのか、とうさんが大きなおぼんを持って立っていた。おぼんには紅茶ポット、カップとお皿が二枚ずつ、それに大きな白い箱がのっている。
 とうさんは、おぼんを勉強机の上に置くと、箱を開いた。中には、おいしそうなケーキが六、七種類入っていた。ショートケーキ、モンブラン、フルーツタルト、シュークリーム、……。
 でも、どういうわけか、すべて二個ずつあった。
「秀平くんが、何が好きかわからなかったから」
 とうさんは、少し恥ずかしそうにわらうと、二人のカップに紅茶をついだ。
「好きなだけ、食べてな」
 とうさんはそういうと、さっさと部屋を出て行った。
 二人は思わず顔を見合わせると、次の瞬間、プッと同時に吹きだしてしまった。とても、二人で食べきれるような量ではない。
 けっきょく、孝志がチョコレートケーキを、秀平がショートケーキをひとつ食べただけだった。箱には、まだごっそり残っている。
「そうだ。 おじさんにも一緒に食べてもらわないか?」
 ケーキの箱を見ていた秀平がいった。
「えっ?」
 少しびっくりしたけれど、秀平にうながされて孝志はとうさんを呼びにいった。

 孝志と秀平は、かわるがわるに今日のバードウォッチングの様子をとうさんに話した。
 甘いものが苦手のとうさんは、シュークリームをひとつ食べるのがせいいっぱいのようだった。だから、二人は話しながら、無理して二個目のケーキに手をのばした。
 話が、湖の所まで来た時、
「あーあ、三脚付きの望遠鏡があればなあ」
と、秀平がまたため息をついた。
「そうだね。そうすれば、湖の鳥だけでなく、空の高いところを飛んでいる鳥を観察するときにも便利だろうね」
 孝志もうなずきながら、そう答えた。
 と、そのとき
「よーし、おじさんが望遠鏡を買ってやろう!」
 いきなり、とうさんが興奮気味に叫んだ。
 孝志は、こまったような顔をして、秀平を見た。
 すると、秀平は、
「おじさん、そんなになんでもかんでも買ってやったりしたら、タカちゃんをだめな子にしちゃいますよ」
と、まるで先生か何かのような口調でいった。
「……」
 とうさんは、しばらくキョトンとしていた。
 でも、やがて少し恥ずかしそうに笑った。それにつられるように秀平も、そして、孝志までが大きな声で笑い出した。

  
                    
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サイン

2020-04-16 11:34:10 | 作品
「へーっ。明日の公式戦の先発メンバーに選ばれたのかあ。そりゃあ、すげえや。いったい守備位置はどこをやるんだい?」
 パパは、ビールをごくりと飲み干しながら弘に聞き返した。
「セカンドだよ」
 弘は、ハンバーグをほおばりながら答えた
「そうか。じゃあ、巨人の野島だな。あいつみたいに、守備がいいのかい? いや、弘は右打ちだから、むしろ阪神の山田タイプかな」
 パパは、ビールのコップをテーブルに置くと、お箸でバットを振る真似をした。
「そんなすごくないよ。打順は八番なんだし」
 弘はあわてていった。そんなに期待されても困ってしまう。
「まあ、最初はそんなもんさ。じゃあ、内山弘くんのレギュラー入りを祝して乾杯といくか。五年でレギュラーなら立派なもんだ」
 パパは、弘の茶碗にビールの入ったコップをガチャリとぶつけて、一人で乾杯した。おとうさんは、すっかり上機嫌だった。
「そんなでもないよ」
 あんまりパパが喜んでいるので、弘は困ってしまった。
 実をいうと、今回の先発出場は、本当は正式なレギュラー入りではなかった。二塁手のレギュラーをやっている六年生の斉藤さんの都合が悪くて、明日の試合に出られなくなったのだ。それで、補欠の弘が、先発出場することになっただけだった。
「明日、弘の試合を見に行くかな」
 パパは、小さな声でそっといった。
「本当?」
 今までパパは、試合はもちろん、近所の公園でやる練習すら見にきたことがない。
 平日は、いつも仕事からの帰りが遅かった。そのせいか、休日もお昼近くまで寝ていることが多い。他の子のパパたちは、チームのコーチをやったり、熱心に応援したりしているけれど、弘のパパは一度も参加したことがなかった。
「ああ。弘選手の勇姿を、ビデオにおさめなくっちゃな」
 パパは、コップにビールをつぎながらいった。
「やったあ。よーし、絶対ヒットを打つぞ」
 弘は大喜びでいった。
「ヒット? だめだめ、ホームランぐらい打つ気でなくっちゃ」
 パパの顔は、もうかなり赤くなっていた。

 翌朝、パパは、いつものように朝寝坊をしていた。
「おはよう」
 弘は、パパの寝室まで起こしにいった。
「パパ、もう七時半をすぎたよ」
 弘は、まくらもとで声をかけた。
「うーん」
 パパは、布団にもぐりこんでうめいた。
「遅れちゃうよ」
 弘は、パパの布団をはがしながらいった。
「わかった。もうちょっと」
 パパは、まだ寝ぼけ声だ。
 その日の試合は、地区の春期トーナメントだった。約三十チームが参加し、今日はその一回戦と二回戦が行われる。
 選手たちは朝早くに集合して、本田監督の運転するマイクロバスで会場まで移動しなければならない。
 弘は、ギリギリまでパパが起きてくるのを待っていた。
 とうとう集合時間の十分前になってしまった。
 でも、パパはまだ布団の中だった。
「きっと起こしてよ」
「はいはい。間に合うように行かせるから、だいじょうぶよ」
 ママは、弘にお弁当を渡しながら約束してくれた。

 公園には、本田監督、コーチたち、そして、他のチームメイト全員がすでに来ていた。みんな、バットやボール、キャッチャーの用具など、会場に持っていく物を準備している。
(あれ?)
 弘は、その中に斉藤さんの姿を見つけてびっくりしてしまった。
「あっ、内山。ちょっと、ちょっと」
 監督は、弘の肩を抱えるようにして端の方へ連れていった。
「あのな、斉藤が急に出られるようになってなあ。悪いけど、控えにまわってくれないかな」
 監督は、大きな体をかがめてすまなさそうにいった。
 こういわれては、弘は黙ってこっくりとうなずくしかない。
でも、パパが、弘が先発出場するところを、ビデオに撮りに来てしまう。
よっぽど、
「今日は来なくていい」
と、家へいいに戻ろうかとも思った。
 でも、もう出発の時間が迫っていた。
「集合」
 キャプテンの沢木さんが、みんなを呼び集めている。学年別に整列するのだ。
弘も、急いで五年生の列のところに並んだ。

 会場である広いグラウンドのあちこちでは、すでに各チームが、思い思いにウォーミングアップをやっていた。この会場には、少年野球のグラウンドを三面も取ることができる。
 弘たちのチームも、空いている場所を見つけて、体をほぐし始めた。
準備体操、ランニング、そしてキャッチボール。
 弘にキャッチボールの大切さを教えてくれたのはパパだ。
「一球、一球を、大事にしなくてはいけない。キャッチボールは、野球の練習で一番大事なんだ。正しいフォームで投げる。ボールをよく見る。両手でしっかり取る。相手と呼吸を合わせる。すべての野球の要素が、この中に入っているから」
 もっともこの言葉は、パパが入っていた中学の野球部の監督の受け売りだと言っていたけれど。それでも、弘が一年生のころまでは、週末によくパパとキャッチボールをしたものだった。
 でも、弘が二年生になって少年野球チームのヤングリーブスに入ってからは、だんだんやらなくなってしまっていた。毎週土日には、弘はチームの練習があるし、パパは昼近くまで寝ているからだ
 しかし、今でも、弘はパパに教えられたことを守って、真剣にキャッチボールをやっていた。特に、相手の一番取りやすい所に投げることに注意している。そうすると不思議なもので、相手も弘の取りやすいボールを返してくれる。
 本田監督やコーチたちは、いつも弘のキャッチボールをほめてくれていた。時には、他のメンバーのキャッチボールをストップさせて、弘たちのキャッチボールを、模範として見学させることもある。それで、弘は、ますますキャッチボールが好きになっていたのかもしれない。

 開会式が終わっても、パパはいっこうに姿を見せなかった。
 試合に備えて弘たちがベンチへ行くと、そのうしろには、チームメイトの家族たちがすでに十数人も陣取っていた。
 しかし、その中にもパパはいなかった。
弘は、ようやく少しホッとし始めていた。パパはいつものように寝坊していて、来られなくなったのかもしれない。
いや、
(ぜひ、そうであって欲しい)
とさえ思っていた。
 試合が始まると、もうふだんの弘に戻っていた。味方のひとつひとつのプレーに、けんめいに声援を送っている。
「ナイスキャー(ナイスキャッチ)。ツーアウト、ツーアウト」
「ナイス選(ボールを見極めること)。ほらほら、ピッチ(ピッチャー)、入らないよ」
 ベンチにすわっている補欠たちの中でも、弘が一番声を出していた。
 一回の裏のヤングリーブスの攻撃は、ノーアウト一、二塁の絶好のチャンスを逃して零点に終わった。
 ふと気がつくと、いつからそこに来ていたのか、ヤングリーブスの応援団の一番端にパパが立っていた。約束どおり、手にはビデオカメラを持っている。弘が見ているのに気がつくと、大きく手を振って笑いかけてきた。
 弘たちのチームが、守備位置に向かった。セカンドを守るのは、もちろん斉藤さんだ。弘はパパの方を見られずに、下を向いていた。
 試合は、終始、相手チームにリードされて進んでいた。いぜんとして、弘はずっとベンチのままだった。
弘の応援には、一回の時のような元気がなくなっていた。

 一点をリードされた最終回。ヤングリーブスは、ワンアウトから一塁にランナーが出た。
 しかし、次の九番バッターの池田くんは、今日は三振二つでノーヒットだ。
「選手交替」
 本田監督が、審判に近寄って大声で叫んだ。
 そしてクルリとベンチを振り返ると、弘の顔を見てうなずきながらいった。
「バッターは、内山」
 弘はあわててヘルメットをかぶると、ベンチを飛び出していった。
 監督は、すれ違いざま弘に小声でいった。
「サインをよく見ていろよ」
(そうか、バントだ。バントのサインが出るんだ)
 監督は、確実にランナーを二塁に送るつもりなのだ。トップバッターの佐野さんで、同点をねらっているのに違いない。
 何かひとつでも監督に認めてもらいたくて、弘は人の何倍もバントの練習をやっていた。だから、送りバントだけには、絶対の自信がある。それで、監督は代打に弘を指名したのだろう。
 バッターボックスに入る前に、弘はパパの方をちらっと見た。パパは、ビデオカメラを弘の方へ向けて、撮影を始めている。
 弘は、ベンチの前に立っている監督をじっと見ていた。
一球目は、「待て」のサインだった。初球は、さすがに敵チームもバントを警戒しているからだ。
案の定、投球と同時に、三塁手とピッチャーがダッシュしてきた。
 ストライク。
 続く二球ははずれて、ワンストライク、ツーボールになった。
 ここがチャンスだ。相手は、バントとヒッティングのどちらにでも対応しようと、中間守備に切り換えている。
 予想通り、監督から「バント」のサインが出た。
 ピッチャーが振りかぶる。弘は、バントをしようとしてピクッとバットを動かした。
 すると、それを見た三塁手が猛然とダッシュしてきた。
 ボールが来た。真ん中の直球。
 次の瞬間、弘は、バントをしないで思い切りバットを振ってしまっていた。打球は、突っ込んできた三塁手の頭を超えて、レフト前に達するはずだった。
 しかし、スピードに押されて完全につまったボールは、平凡なピッチャー正面のゴロになっていた。
 ピッチャーはボールを取ると、すばやく振り返って二塁へ投げた。
「アウト」
 ショートが一塁へ転送する。弘は必死に一塁へと走った。
 ファーストがボールへ手を差し出す。
 弘が一塁へかけこむ。
「アウトーッ」
 審判は、少しもためらわずに叫んだ。ダブルプレーでゲームセット。
 弘は、ぼうぜんと一塁ベースの後ろに立ちつくしていた。

帰りのマイクロバスの中でも、公園に戻ってからも、監督やチームメイトたちは、弘のサイン無視を責めなかった。
 でも、かえってそのことが、弘をよけいにつらい気持ちにさせていた。
 午後に予定されていた二回戦に進めなくなったので、ヤングリーブスはいつもの公園で軽い練習をすることになった。
 キャッチボールが始まった。弘は、なんとか気持ちをふるいたたせて、いつも以上に一球一球ていねいに、相手の斉藤さんの胸をめがけて投げていた。
 初めはねらいから少しずつずれていたボールが、十球目ごろから安定してきた。斉藤さんも、弘に負けまいと良い球を投げてくれている。
 シュッ、…、バン。
 シュッ、…、バン。
 軽快なリズムにのってキャッチボールを繰り返しているうちに、弘はいつの間にか気持ちが少し軽くなっているのに気がついた。
 弘の後ろにきた本田監督は、しばらくキャッチボールをながめていたが、やがて何もいわずに他の選手たちのところへ移っていった。
 練習が終わった。
「集合!」
 キャプテンの沢木さんが、みんなをよび集めた。校庭に散らばっていたメンバーが、ホームベースの近くに集まってくる。
「整列!」
 沢木さんの合図で、学年順に横一列に整列する。解散する前にいつも行うミーティングだ。
「監督、お話をお願いします」
 沢木さんは、みんながきちんと並んだのを確認してから、監督に声をかけた。
「じゃあ、みんな休めでいいから、……」
 いつもどおりのおだやかな口調で、今日の試合について話を始めた。走塁や守備のミスについて、身振りを入れながらていねいに説明する。コーチたちも、自分の気づいた点を指摘してくれた。
 しかし、ここでも最後の弘のプレーが責められるようなことはなかった。
 ただ、「サインの見落としをしないように」と、みんなへの注意があっただけだった。
「でも、今日の試合は、みんなきびきびしていて元気があって良かった。特にベンチの人たちは、声がよく出ていたな」
 監督は、最後にそういって話をしめくくった。

 解散した後、みんなで自治会館の物置に、チームのヘルメットやボールをしまいにいった。
「さよなら」
「バイバーイ」
 みんなに手を振って、弘は家に帰った。
「ただいま」
 玄関のドアを開けたとき、弘はがんばって元気な声を出した。
「ヒロちゃん、残念だったわね」
 迎えに出たママがいった。
「うん」
 弘はバットを傘立てに入れて、グローブは下駄箱の上に置いた。
 ママは、いつものように玄関から風呂場まで、どろよけの新聞を敷いている。弘は、つま先立ちで歩きながら、風呂場に向かった。
 汚れたユニフォームを脱いで、洗濯機に放り込む。そして、風呂場に入った。
 ザアーッ。
 泥だらけの手足を洗い、汗まみれの髮の毛にもシャワーの水を浴びせた。

 弘はタオルで頭をふきながら、さっぱりした顔で食堂に入っていった。
 パパは、専用のリクライニングチェアにすわって、ビールを飲んでいた。開け放した窓からは、庭のライラックとこでまりの花がよく見える。
 パパは、枝豆を立て続けに口に放り込んでいる。そして、またうまそうにビールを飲んだ。
 弘もそばのいすにすわった。
「ジュースでも飲む?」
 ユニフォームを洗濯機にかけてきたママが、弘にいった。
「うん」
 弘がうなずくと、1リットル入りのジュースのボトルと、コップを持ってきてくれた。弘は、コップになみなみとジュースをついだ。
「ほれっ」
 パパが、ひとつかみの枝豆を弘によこした。
 弘は、それをぼそぼそと食べ始めた。
「今日は残念だったな」
 パパは、ビールのコップを持ったままいった。
「うん」
 弘はそういうと、ジュースを一気に飲み干した。かわいたのどには、すごくおいしく感じられた。
「斉藤くん、来られるようになったのか?」
「えっ!」
 弘はびっくりして、パパの顔を見た。
「ぼくがレギュラーじゃないって、知ってたの?」
「ああ。これでも時々、練習を見に行ってるんだぜ」
 パパは、ちょっと照れくさそうにいった。
「ほんとう? ちっとも知らなかった」
 他の子のパパたちと違って、遠くから見ていたのかもしれない。
「そうだったのかあ」
 弘は、急に気が楽になった。

 しばらくして、弘はパパに今日のサイン無視のことを話した。
「監督さんは何かいってた?」
 パパが、ちょっと心配そうにたずねた。
「ううん」
「なんにもか」
「うん。ただ、みんなに『サインの見落としをしないように』って注意をしてたけど。監督は、ぼくが無視したとは思わなかったのかなあ?」
「いいや、そうじゃないよ。監督さんは、知ってたと思うな。ただ、……」
 パパは何かいいかけたのを途中でやめると、ポツリといった。
「いい監督さんだな」
 弘も黙ってうなずいた。
「弘ぐらいの年のころだったかなあ。おとうさんも、学校から帰ると、毎日、毎日、野球をやっていたころがあったなあ」
 パパは、コップをテーブルの上に置いて、また話し出した。パパが自分のことをおとうさんというときは、いつも思い出話になる。
「夏休みだったかなあ。朝から夜暗くなるまで、延々とやり続けたんだよ。今みたいにきちんとしたユニフォームなんかなかったし、グローブを使うのだってたまにだった。いつもはゴムまりに素手でやったんだ」
「ふーん。少年野球はなかったの?」
 二杯目のジュースを飲み終わった弘がたずねた。
「軟式の少年野球のチームは、近所にはなかった。でも、硬式のリトルリーグのチームはあったな。たしか千住ジャイアンツっていったかな。でも、リトルはけっこうお金がかかるから、おとうさんと同じクラスじゃ、佐久間くんって子だけが入ってた。ヒョロッと背が高くて、デンチューってあだ名だったな。けっこう速い球ほうってたよ」
「ニューリーブスの上田さんぐらい?」
「上田って、今日投げてた子か?」
「うん」
「そうだな、もう少し速かったかもしれないな」
「すごいね」
 弘が感心していった。
「うん、そうなんだ。それでね、六年の時には、エースじゃなかったけど、ジャイアンツの二、三番手ぐらいのピッチャーになっていたんだ」
「ふーん」
「佐久間くんのおやじさんは大きな酒屋さんをやってたから、けっこうお金があったのかもしれない。だから、チームに息子を入れられたんだろうな。それに、すごくリトルリーグにも熱心な人だった。息子の試合の時なんか、いつも店をほったらかしにして応援にいってたらしい。ある時、佐久間くんが先発することになったんだ。そしたら、佐久間くんのおやじさん、はりきっちゃってさ。店で使ってたトラックの荷台に近所の子どもたちを乗っけて、応援に連れ出したんだ。それで、試合が始まると、みんなすごい応援さ。なにしろ、佐久間くんの名前を書いた横断幕まで持っていってるんだから」
「すげえ、その子やりにくかっただろうね?」
 弘は、佐久間くんに同情していった。
「そうだな。今考えてみると、佐久間くんはかわいそうだったな。でも、そのときは、おとうさんも一緒になって応援しちゃったけどね」
「結果はどうだったの?」
「それがさんざん。佐久間くん、すっかりあがっちゃってフォアボールの連発。一回ももたずにノックアウトになっちゃったんだ」
「かわいそうに」
 弘は、今日の自分のみじめな気持ちを思い出していた。
「うん。それから、もっとかわいそうなことになったんだ」
 パパはそこで話すのを中断すると、残っていたビールをコップについだ。
「その日の帰り際だったんだ。佐久間くんがグラウンドから出てくるとね、おやじさんが、いきなり佐久間くんにいきなりどなったんだ。『ばかやろう。おまえのおかげで、おれがいい恥かいた』ってね」
「えーっ。そんなのひどいよ」
 弘は憤慨していった。
「うん。一番みじめな思いをしているのは佐久間くん自身なのに、おやじさんには自分の気持ちしか見えてなかったんだろうな」
 そういうと、パパはのどぼとけをグッグッと動かしながら、ビールを飲み干した。
 最後に、パパは、次の日曜日の朝七時から弘とキャッチボールをすることを、約束してくれた。

 それから一週間がたった。待ちに待った次の日曜日だ。
 時計は、朝の七時をとっくにまわっている。弘は、もうユニフォーム姿に着替えている。
 でも、パパは、いつものようにまだ寝ていた。
(約束したのに)
 弘は、とうとうがまんできずにパパの寝室へ行った。
 ガラガラッ。
 雨戸を大きく開けた。強い日差しが、さあっと部屋の中を明るくする。
 パパは、まぶしそうに顔をしかめると、
「うーん」
と大声でうめいて、布団を頭からかぶった。
「パパ、キャッチボールをする約束だよ」
 弘は布団をめくって、パパのまくらもとでどなった。
「うーん、もうちょっと。もうちょっとだけ、寝かせてくれ」
 パパは、なんとか布団にもぐろうとする。
「だめだよ。早く起きて」
 弘は、パパの布団を思いっきりひっぱがした。




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ダイビングキャッチ

2020-04-14 16:41:00 | 作品
 カーン。
 いきおいのよいゴロが、一塁ベースよりにきた。芳樹は、ダッシュしながらボールをキャッチしようとした。
(あっ!)
グローブを出すのが一瞬遅れて、ボールを大きくうしろにはじいてしまった。芳樹は、あわててボールの後を追いかけた。
「よっちゃん、あんまり突っ込んでくるな。あわてなくても、守備位置はセカンドなんだから、待ってても一塁は充分間に合うよ」
 ゴロをノックしてくれたおとうさんが、向こうで叫んでいる。
 今まで芳樹はサードを守っていたので、どうしても前にダッシュしてボールをキャッチしようとする癖が抜けきらない。一塁ベースから遠い三塁の守備位置からでは、そうしないと送球が間に合わなかった。
 芳樹は、勢いがゆるくなるようにワンバウンドさせて返球した。おとうさんはバットを右手に持ったまま、ボールを素手の左手でワンハンドキャッチした。
「もう一回、お願いしまーす」
 芳樹は、右手をあげてさけんだ。
 おとうさんが体を左に傾けながら、また速いゴロをノックしてくれた。
 今度は、正面にボールが来た。芳樹はボールが来るのを待ってから、慎重にキャッチした。そして、すばやく一塁に送球。
 ところが、今度は送球が左に大きくそれてしまった。
「うわーっ」
ファーストを守る兄の正樹のグラブをかすめて、ボールは公園の外に飛び出していく。
「あわてて投げすぎだよ。こんな近くでそんなに急いで投げるなよ」
 正樹はブツブツ文句をいいながら、道路におりてボールをひろいにいっている。
「よっちゃーん、リラックス、リラックス。キャッチしてから、少し待って投げるくらいでいいから」
 向こうで、おとうさんが手を上げている。
 芳樹は、緊張をほぐすために、右手をグルグルと大きくまわした。
「おーい、いくぞお」
 正樹が、道路の方から声をかけてきた。
 やまなりのボールが、こちらにむかって飛んできた。芳樹はそのボールをキャッチすると、すぐにおとうさんにワンバウンドで返球した。
「今度はしっかり投げろよ」
 正樹が、道路からかけあがってきた。
「うん、わかった」
 芳樹はグローブをポンポンとたたきながら、守備のかまえにはいった。
「いくぞお」
 おとうさんが、今度は一塁寄りに速いゴロを打ってきた。芳樹は、左にすばやく移動してキャッチ。
「にいちゃん」
 声をかけながら、ファーストにトスした。
「OK]
 今度は、正樹がしっかりと取ってくれた。

 今日から毎日、おとうさんが会社へ行く前に、近くの公園の広場で朝練をしてくれることになった。
 ウォーミングアップには、少しだけキャッチボールをする。その後で、おとうさんがゴロだけをノックしてくれた。だから、守備位置がセカンドに変わったばかりの芳樹にとっては、かっこうの練習になっている。 
 中一の兄の正樹も、気が向けば練習に付き合ってくれるといってくれた。正樹は左利きだったから、ファースト役にはもってこいだった。きちょうめんな性格の正樹は、地面に靴のつま先で、きちんとファーストベースを描いた。セカンドを守る芳樹との間も、実際のグランドと同じ距離に保っている。
「おーい、みんなあ。時間よお」
 公園の外から、おかあさんが声をかけてくれた。
「よし、今日はここまでにしよう」
 おとうさんは、バットを肩にかついで先に歩き出した。
「ほれ」
 追いついてきた正樹が、山なりのボールを芳樹にトスした。芳樹たちは、軽くボールを投げ合いながら家に戻り始めた。

五年生になったばかりの芳樹は、最初からチームの中心選手だった。去年の秋に新チームを組んだときなどは、上級生たちをさしおいて、キャッチャーと二番手ピッチャーといった、要のポジションをまかされていたほどだ。
 去年の秋、新チームになってすぐの新人戦のころは、芳樹ははりきってプレーをしていた。
「しまっていこー!」
 毎回、守備位置についたとき、芳樹はキャッチャーマスクを頭の上にあげて大声で叫んだ。
「おーっ!」
 みんなが返事をしてくれると、自分がチームをひきいているみたいで、気持ちが良かった。
 しかし、その後、監督の方針で、新チームのキャプテン(六年生)に、チームをリードするキャッチャーの座をゆずることになってしまった。
 そのため、守備位置はファーストにまわることになった。
 ここでも、キャッチングに自信があった芳樹は、丈の長いファーストミットをうまくあやつって、無難にこなしていた。
 ところが、新学年になると、背が高いけれど不器用でサードを失格になった六年生のために、ファーストのポジションをゆずらなくてはならなくなった。ファーストは、高い球も取らなくてはならないので、背が高い子には向いているのだ。
 芳樹の守備位置は、今度はサードに変わった。
どうやら監督は、芳樹のことを、どこをやらせても器用にこなせる選手だと、思っていたみたいだった。
 そのため、チーム事情にあわせて、あちこちの守備位置をやらされるはめになってしまったのだ。
 芳樹は、キャッチングには自信があった。だから、本当は、キャッチャーかファーストをやりたかった。
 でも、そんな本人の希望は、六年生たちを一人前にするのにかかりきりの監督には、完全に無視されてしまった。
 そのためか、五年生になってから、芳樹は急激にやる気がなくなった。自主練をさぼるようになり、正式練習でも気合が入らなくっていた。
 でも、六年生たちで手一杯な監督やコーチたちは、そんな芳樹の様子に気づいていないようだった。
 練習の成果というのは、正直なものだ。監督の特訓でしだいに力をつけてきた六年生たちに、芳樹は実力でも追い抜かれ始めていた。
 そして、けっきょく二番手ピッチャーも、サードも、監督に失格の烙印を押されてしまったのだ。
 そして、郡大会を目前にして、今度はセカンドにまわされることになった。
 ところが、芳樹は、いつのまにか別人みたいに不器用になってしまっていた。そのため、セカンドの守備になかなか慣れることができなかった。
 今まで順調すぎるほどだった芳樹の野球人生において、初めて訪れた試練だったかもしれない。すっかり調子を落としてしまった芳樹を見かねて、おとうさんが朝錬をやってくれるようになったのだ。

次の土曜日、芳樹の入っている少年野球チーム、ヤングリーブスの練習の時だった。
監督が、シートノック(レギュラーが定位置に着いてやる守備練習)をしていた。
カーン。
速いゴロが、セカンドベース寄りに飛んだ。
芳樹はすばやく横に移動すると、逆シングルでボールをキャッチした。
体を反転させて、一塁へ送球。
「ナイスキャッチ。やっぱり、キャッチングは芳樹が一番だな」
監督が、大声で芳樹をほめた。
セカンドとしての体の動かし方が、ようやく身に付いてきた。さっそく、朝錬の成果が出たようだ。
「次、ショート」
 監督は、次の球をノックした。
 章吾が、三遊間寄りのゴロを素早くさばいて、ファーストに送球した。
「章吾、ナイス。次は、6、4、3な」
 監督が章吾にセカンドベース寄りのボールをノックした。
 章吾ががっちりキャッチすると、セカンドベースに入った芳樹にトス。
 芳樹はベースを踏みながら、ファーストへボールを投げた。
「よし、ダブルプレー成功」
 監督が機嫌よさそうに叫んだ。
 郡大会に向けて、チームの練習には熱が入っている。
「バッチ(バッターのこと)、こーい」
「バッチ、こーい」
 守備についていても、みんなから良く声が出ている。
 セカンドの芳樹が安定してきたので、ようやくレギュラーの守備位置が固まってきた。
外野の守備にはやや不安が残っていたが、内野はなかなか堅い守備を誇っていた。
サードは四年生の康平。肩も強いし、ボールをぜんぜん怖がらないので、強い打球にも逃げずに食らいついていた。
ショートは、同じく四年生の章吾。レギュラーでは一番の小柄だったが、一年生の時からチームに入っていた野球を良く知っている選手だった。
ファーストは、六年生の広斗。キャッチングには少し難があったが、長身なので高い球に強くファーストにはぴったりだった。
ピッチャーは、六年生の智美。監督ご自慢の郡でただ一人の女子エースだ。ピッチングだけでなくフィールディングもうまかった。
キャッチャーは、六年生でキャプテンの直輝。小柄で肩がやや弱かったが、ファイト満々でチームを引っ張っていた。
そして、セカンドを守るのが、ようやくこのポジションに慣れてきた五年生の芳樹だった。

 少年野球の郡大会が始まった。郡内の四町から十八チームが参加している。
 この大会で準々決勝に勝ってベストフォーに残れば、自動的に県大会に出場できた。
県大会は、いろいろなスポンサーが主催している四つの大会がある。だから、郡大会でベストフォーに残れば、県大会に出場できた。
 この一年間、ヤングリーブスは県大会出場を目指して、猛練習を続けてきた。いよいよその大会が始まるのだ。
 キャプテン会議での抽選の結果、ヤングリーブスは一回戦が不戦勝になり、二回戦からの出場になった。チームのくじ運はまあまあかもしれない。二回戦と準々決勝の二試合を勝てば県大会に出場できた。

 二回戦の対戦相手は、相模湖イーグルスだった。去年の練習試合では、10対1で楽勝している。もっとも、その時は、芳樹の兄の正樹たちが六年生だった時の、去年のチーム同士だったのでぜんぜん参考にならない。去年のヤングリーブスはレギュラーが全員六年生だったので、今年のチームの選手は誰も出場していなかった。
 一回の表、先攻のヤングリーブスは、相手ピッチャーの制球難と守備陣の乱れをついて、早々と四点を先行した。今日は六番に入っている芳樹も、相手のエラーで出塁し、二盗、三盗を決めて、足で相手チームをかき回している。
 その裏、ヤングリーブスの守りが始まった。
ピッチャーの智美が振りかぶった。
「ストライークッ!」
第一球は、低めに速球が決まった。上々の立ち上がりだ。
 ガッ。
 いきなりセカンドゴロがきた。
 芳樹は、じっくりボールを待ってしっかりキャッチした。ファーストの広斗へ送球する。
「アウト」
 一塁の審判が叫んだ。
 芳樹は、最初の打球を無事に処理して、ホッとしていた。
 その後も、試合はヤングリーブスペースで進んだ。着々と得点を重ねてリードを広げている。
 ピッチャーの智美も、打たせて取るピッチングがさえている。バックの守備陣もがっちり守って相手の得点を最小に抑えている。
 けっきょく、ヤングリーブスが9対3で快勝した。これで、来週の準々決勝に勝てば、県大会出場が決まる。
 セカンドの芳樹も、ゴロ三つフライ一つをノーエラーでさばいて、無事に責任を果たした。ショートの章吾とのコンビで、ダブルプレーもひとつ決めている。

 イーグルスとの試合が終わるとすぐに、ホームグラウンドの校庭に戻った。来週の準々決勝に備えて、さっそく練習をするためだ。
こんな時、大会が地元若葉町の横山グラウンドで行われているので、すぐに練習に戻れて有利だ。監督にいわせると、これもホームタウンアドバンテージ(地元のチームが有利)のひとつだということになる。それ以外にも、近いので応援団が多いなどいろいろな利点があった。
 来週の土曜日の準々決勝の対戦相手は、同じ町の城山ジャガーズだった。チームのレギュラーは六年生ばかりで強打で有名だ。
先月行われた町の春季大会では、外野のうしろにボカスカ打たれて、13対0で四回コールド負けをきっしている。その大会の優勝もジャガーズだった。
 練習の前のミーティングの時に、監督がいった。
「ジャガーズ戦だけ、芳樹を外野にコンバート(守備位置変更)しようと思う。今日から、その守備位置で練習をやろう」
 芳樹の外野へのコンバージョンは、強打のジャガーズ対策の秘密兵器だった。ジャガーズ戦では、外野への飛球が圧倒的に多い。芳樹は足も速いし、キャッチングもうまい。その芳樹を外野にコンバージョンして、ジャガーズの強打線の打球に備えようというのだ。
 センターにはすでにチーム一の俊足で、六年生の徹がいた。徹は守備範囲も広いし、肩も強かった。だから、芳樹が守るとしたらレフトかライトだ。
 そこに、もうひとつの秘策ともいうべき監督のアイデアがあった。
 さっそく、芳樹を外野に入れた守備位置での秘密練習が始まった。
 
「また、守備位置が変わったんだ」
その日の夕食の時に、芳樹がいうと、
「えっ、今度はどこ?」
 おとうさんは、びっくりしたような声を出していた。
「外野」
「えっ、そうなの。やっとセカンドに慣れてきたのに」
 おとうさんの声が心配そうになる。
「うん。でも、セカンドがだめだってわけじゃないんだ。次の試合だけの戦術的なコンバートなんだって」
「戦術的コンバート?」
「うん、監督がそういってた。ぼくの足の速さとキャッチングのうまさをいかしたいんだって」
「で、外野のどこを守るんだ?」
「レフトとライト」
「えっ、どういう意味?」
「右バッターの時はレフトで、左バッターの時はライトなんだって」
 これが対ジャガーズ戦用の監督の秘策だった。ジャガーズの打線は強打者揃いなので、ヤングリーブスのピッチャーの智美の球速では必ず引っ張られて、右バッターはレフト方向へ、左バッターはライト方向へ大きな打球が飛ぶのだ。
「ええーっ!」
 この秘策というよりは奇策に、さすがにおとうさんも驚いていた。

「じゃあ、今日からは、朝錬もフライキャッチの練習にするからね」
 芳樹とおとうさんは、公園の広場の対角に位置した。そのちょうど中間に、正樹が今日はセカンドベースを描いた。セカンドとショートの役をやってくれるのだ。芳樹がライトの時はショートが、レフトの時はセカンドが内野への返球をキャッチするからだ。
「ライト」
 おとうさんの声とともに、芳樹は左側に動いてライトの守備位置についた。同時に、正樹は右に動いてショートの位置についた。
 カーン。
 浅いフライが上がった。芳樹は一、二歩前進すると、なんなくキャッチ。
「バックセカン」
 正樹が声をかけると、芳樹はすばやくセカンドに返球した。
 カーン。
 今度はやや大きめなフライがセンターよりに飛んだ。芳樹は素早く落下地点を見定めると、やや下がりながらランニングキャッチした。
「バック」
 芳樹は、今度もいい球を正樹に返した。
「よっちゃん、フライは大丈夫なようだね」
 おとうさんが満足そうに声をかけた。もともとキャッチングに自信のある芳樹は、監督がにらんだ通り外野ならなんなくこなせそうだ。
「じゃあ、今度はレフト」
 おとうさんにいわれて、芳樹は守備位置を右側に変更した。正樹も、今度は左側のセカンドの位置に移動している。
 カーン。
 おとうさんがフライをノックして、練習が再開された。

 翌週の土曜日、城山ジャガーズとの準々決勝が行われた。ここで勝てばベストフォー進出で、県大会出場が決まる。まさに、今シーズン一番の大勝負だった。
 一回の表、ヤングリーブスが守りについた。城山ジャガーズの一番バッターは、左バッターだったので、芳樹はライトを守っている。
 ピッチャーの智美が第一球を投げた。
「ストライク」
 審判が叫ぶ。外角低めに速球が決まった。智美は好調を維持しているようだ。
 二球目。ボールがやや高めに浮いた。
 カーン。
 思い切りよく引っ張った打球が、ライトを襲う。
 しかし、あらかじめ深めに守っていた芳樹が、背走してランニングキャッチした。
「いいぞ、よっちゃん」
 応援席から、おとうさんの声が聞こえてきた。
「ワンアウトよお」
 芳樹は人差し指を一本立てて、チームメイトに叫んだ。
「おーっ」
 みんなもそれにこたえた。
 次の打者は、右バッターだった。
 監督はベンチから出ると、
「守備交代をお願いします。ライトがレフト、レフトがライト」
 芳樹は、今度はレフトに向かって走り出した。観客席は、思いがけない守備交代にざわめいていた。

最終回(少年野球の場合は七回)の裏、3対2とヤングリーブスが1点リードしていた。芳樹をレフトとライトにコンバートした監督の奇策があたって、相手チームの打線を抑えている。芳樹は、フライをレフトで五つ、ライトで四つと、合計九つもキャッチして、しかもノーエラーだった。この数は、六回までのジャガーズの全アウト数の、ちょうど半分にあたっていた。
 しかし、この回、智美がコントロールを乱して、相手打線に捕まってしまった。
ワンアウト満塁。ヒットが出れば逆転サヨナラ負けのピンチだ。
次のバッターは、左バッターだった。
 すかさず監督がベンチから出てきた。
「守備位置、変更します。ライトがレフト、レフトがライト」
 主審に守備の交代を告げる。
今日の試合で、いったい何回目だろう。おそらく十回以上にもなる
芳樹は、レフトの守備位置から、小走りにライトに向かった。
ライトからは、四年生の慧(けい)がこちらに走ってくる。
「ハーイ」
ちょうど中間地点ですれ違った時、二人はグローブでハイタッチをした。
 相手バッターは四番の強打者だ。芳樹は大きな当たりに備えて、深めに守った。

カーーン。
智美が投げ込んだ初球を、相手のバッターが思い切り引っ張った。
鋭いライナーが、芳樹に代わってセカンドに入っている佳之の頭の上を越えてくる。このまま右中間を抜かれたら、逆転サヨナラだ。
芳樹は、けんめいに右中間へ走っていった。
打球は、地面すれすれにまで落ちてきていた。
芳樹は、全身を前に投げ出すようにしてダイビングした。
キャッチ!
芳樹がけんめいに差し出したグローブに、ボールがすっぽりと入っていた。
(やったあ!)
 芳樹は、グローブを差し上げてノーバウンドでキャッチしたことを、二塁の審判に示した。そして、すぐに跳ね起きて、二塁の方を見た。
 打球が外野の間を抜けると思った二塁ランナーは、大きく飛び出している。
「よっちゃん、バックセカンド」
 ショートの章吾がベースカバーに入ってくる。
 芳樹は、すばやく章吾に返球した。
「アウトッ」
 ダブルプレーで一気にチェンジになった。ヤングリーブスは、3対2でぎりぎり逃げ切った。これで、県大会出場が決定したのだ。
「ワーッ!」
 チームのみんなが歓声をあげながら、ホームベースへかけていく。芳樹も、泥だらけになったユニフォームのままけんめいに走っていった。


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事故

2020-04-11 10:33:26 | 作品
「あーあ、けっきょく今年の夏休みは、どこにも行かれなかったなあ」
 隆志はそういうと、ストローの袋をプッと吹き飛ばしてきた。
優(まさる)は、とっさにそれを手で払った。はねかえされた紙袋は、向かい側の席にすわっていた雄太のマックシェ―クの中に飛び込んだ。
「ゴーール。優選手、ナイスシュート」
 隆志はゴールが決まった後のサッカー選手のように、両手を高く差しのべて喜んでいる。
「きったねえなあ」
 雄太はぼやきながら、紙袋をシェークから取り出した。
「おまえって、ほんとにストロベリーしか飲まないんだなあ」
 下半分がきれいなピンク色に染まった紙袋を見て、隆志がいった。
 たしかに雄太は、飲み物はいつもストロベリー一本やりだった。マックだけではない。ロッテリアでも、ケンタでも、サブウェイでもそうだ。吉野家に行った時なんかは、わざわざミニストップでストロベリーのハロハロを買ってきていたほどだった。
 四週間も続いた塾の夏期講習も、いよいよ今日が最終日。
いつも塾へ行く前に、優は、隆志、雄太、そして秀平と昼ごはんを食べている。駅ビルにあるファーストフード店は、とっくにすべて制覇していた。
 うしろの壁にかかった時計が、ようやく十二時をさした。塾が始まるまでには、まだずいぶん余裕がある。
「このあいだの模擬テスト、どうだったあ?」
 それまでだまっていた秀平が、さりげなさそうにたずねた。
 でも、内心は興味津々なのが優にはわかる。
「ぜーんぜん、だめ。数学なんか、ぜーんぶ間違ったかもしれない」
 すぐに隆志が大声で答えた。
(うそつけ)
 優はそう思ったけれど、口には出さなかった。
毎週ある模擬テストで、隆志はこのところぐんぐん成績をのばしている。
 優たちの塾では、模擬テストの成績によって自動的にクラス分けが決まる。一学期までは、隆志は優よりひとつ下のクラスだった。
 でも、今では優と同じ上から二番目のクラスまで上がっていて、さらにトップクラス入りの機会もうかがっている。うわさでは、新しい家庭教師もついたらしい。
「おれもぜんぜんだめ。クラス、おっこちたらどうしよう」
 秀平も顔をしかめていった。
(こいつも、大うそつき)
 秀平は、全国で30教室、3000人以上もいるこの塾でも、つねにトップ50に入っているのだ。胸にはトップクラスの印の金バッチが、これみよがしに光っている。
「おれもさあ、ぜんぜんだめで、またクラスがさがっちゃうよ」
 二人の話につられるように、雄太もいった。
(こいつだけは、馬鹿正直)
 雄太は、夏季講習になってからふたつもランクを落としてしまっている。
今では、下から二番目のクラスに入っていた。このままでは、夏休み明けに行われる父兄面談で、志望校を変更させられることだろう。
 優たち四人は、同じ小学校だった。それまで、特に仲が良かったわけではなかったが、同じ塾に通うようになってから、なんとなくグループを作るようになっていた。
「優はどうなんだよ」
 秀平が、ずっと黙っていた優にたずねた。
「どうかなあ、わかんねえなあ」
 優は、何気なさそう答えた
「おーお、また優のおとぼけが始まった」
 すかさず突っ込みを入れてきた隆志に、優は笑ってごまかした。
 でも、本当の所は、優は模擬試験の結果をおおいに期待していたのだ。うまくいけば、初めてトップクラスに入れるかもしれない。そうすれば、おかあさんとの間で、残りの夏休みを少しはのんびりさせてもらう約束になっている。
「さてと、ボチボチ、ゲーセンにでも行きますか?」
 いつものように、隆志が真っ先に立ち上がった。秀平と優もすぐに続く。
 後では、いつものように雄太が四人分のトレイを片づけている。驚くほどたくさん出たハンバーガーの紙くずやシェークのコップなどを、勢いよくゴミ箱にほうり込んでいた。
 マックの外に出ると、駅ビルの通路は大勢の人たちでごったがえしていた。三人は、雄太を待たずにすぐに歩き出した。
「おれ、ちょっと買物があるから」
 優は、できるだけさりげなく二人にいった。
「なんだよ、買物って」
 あんのじょう、隆志が不機嫌そうな顔をしてたずねてきた。いつでも、仲間を仕切っていないと気が済まない性格なのだ。
「ひ・み・つ」
「こっそり女の子と会ってたりして」
 秀平がすかさず突っ込みを入れる。
「じつは」
 わざとおどけて答えた。
「うそーっ!」
 後から追いついてきた雄太が、おおげさに騒いでくれた。
「ない、ない、だいじょうぶ。こいつに限って、そんなことないって」
 隆志が自信たっぷりにいいきったので、秀平と雄太も笑い出した。優はそのすきに、すんなりと三人と別れることができた。

 八月も残すところあと数日。まだお昼を過ぎたばかりなのに、駅ビルの外はもう三十度を越すような暑さだった。そのギラギラと照りつける強い日差しの下で、優は走りだしていた。
 今年の夏は気象観測が始まって以来の暑さだとかで、夏休みに入ってからずっとこんな天気が続いている。テレビでは、海やプールはどこも超満員だと騒いでいた。
 でも、中学受験を控えて毎日夏期講習に通う優たちには、まったく無縁の世界だった。ただもうひたすら暑くて苦しいだけだった。むしろ動物園でぐったりしている白熊やペンギンのニュースの方が、共感が持てたぐらいだ。
 隆志じゃないけれど、今年の夏休みは本当につまらなかった。7月の終わりに、さっそく夏季講座のクラス決めの実力判定テストがあったからだ。その日程と重なったために、楽しみにしていた子ども会のキャンプに行かれなくなってしまった。しかも、テストの準備のために、学校のプール開放にさえ、行けたのはたった二回だけだ。それからは、四週間連続の夏期講習。
 一年前とはえらい違いだ。去年は、夏休みに入るとすぐに、埼玉のおじさんの家へ遊びに行った。おじさんの家には子どもがいないせいか、いつも優が行くと大歓迎してくれた。お祭りの山車を引いたり、縁日でかき氷やお好み焼きを、嫌ってほど食べさせてもらった。おじさんは、お祭りが終わってからも、わざわざ茨城の海岸へ海水浴にまで連れて行ってくれた。
 そこから帰ってからは、毎日、学校のプールに出かけて、真っ黒になるまで泳いだ。
 八月に入ってからは、今度はおとうさんの夏休みに合わせて、泊りがけで海や遊園地へ出かけていった。
 そして、夏の終わりにもビッグイベントがあった。去年まで入っていた少年野球チームの仲間とのバーベキュー大会。おなかいっぱい焼肉や焼きそばを食べたり、スイカ割りをしたり、大きな岩のてっぺんから川へ飛びこんだりと、思いっきり遊んだのだ。
 今思うと、まるで夢のような日々だった。
 でも、夏期講習も今日で終わると思うと、汗だくになって走りながらもかなりいい気分だった。

 駅から少し離れた七階建ての古いビルの前で、優はようやく足をとめた。この四階にN模型店がある。今日は、雑誌に載っていた新製品の電気機関車を買う予定だった。
 期待どおりに模擬テストでトップクラスに入れれば、 久しぶりに自分の部屋にレールを敷くことができる。何ヶ月ぶりかで、思う存分鉄道模型に熱中できるのだ。
 鉄道模型のことは、もちろんみんなには内緒だった。
隆志にでも知られたら、
「やっぱ優って、クラーイ奴」
と、馬鹿にされるのがおちだ。
 一階にある喫茶店の横の狭いガラスドアを押して、勢いよく飛び込んだ。ビルの中はエアコンがよくきいていて、ヒンヤリとしている。すっかり汗びっしょりになっていたので、ホッと一息つくことができた。
 つきあたりの古ぼけたエレベーターのボタンを押すと、かすかなうなりを立てて動き出した。
 おんぼろエレベーターは、ゆっくりゆっくりと降りてくる。優は少しイライラしながら、エレベーターのとびらをコツコツとこぶしでたたいていた。
 ふと横を見ると、すぐそばの守衛室では、年よりの警備員が眠たそうな顔をして腰をおろしていた。
 しばらくして、ようやくエレベーターがガタンと大きな音をさせて到着した。
 ギギギッ。
 嫌な音をたてて開いたドアからは、誰も出てこなかった。そういえば、今日は土曜日だ。ビルに入っている会社もお休みが多いのだろう。夏休みも終わりに近づいていたので、曜日の感覚が完全に狂ってしまっている。それに、塾の夏季講座は、土曜も日曜もおかまいなしだった。
 四階でエレベーターを降りたとき、優は嫌な予感がした。いつもと違って、あたりにぜんぜんひと気がなかったからだ。
 急いで細い廊下を右手にまがった。
 あんのじょう、つきあたりのN模型店の入り口には、灰色のシャッターが下りている。
 優がかけよると、シャッターにはマジックで書いたメモがはってあった。
『まことに勝手ながら、本日(8月28日)は、臨時休業させていただきます。   
店主敬白』
「チェッ」
 優は舌打ちすると、シャッターを軽くたたいてみた。
 でも、うつろな音がしただけで、中からは何も応答はなかった。
 優は、未練たらしくN模型店のまわりをウロウロ歩きまわっていた。すぐに塾へ行く気も、ゲーセンへ戻ってみんなに合流する気も、ぜんぜん起きなかった。なんとか夏期講座を終えて、たった三日間の短い夏休みを楽しもうとはりきって来たのに。すっかり水をさされた気分だった。
 N模型店の入り口の左側には、大きなショーウィンドウがあった。そこには、Nゲージの鉄道模型がレイアウト(ジオラマ)で展示されていた。電車や線路をただ並べて展示するのではなく、まわりの風景や人間たちまでがミニチュアで作られている。町や山などの中を走る鉄道を、ひとつの世界として再現しているのだ。
 この店のジオラマでは、いろいろな編成の列車がいくつも同時に走り回っていた。優のような鉄道模型ファンにとっては、まるで夢のような世界だった。
(あれ?)
 ふと気がつくと、ショーウィンドウの横のガラス戸がほんの少しだけ開いていた。いつもはピチッと閉じられていて、鍵もかかっている。
 ガラス戸のすぐ向こうには、ジオラマの制御盤があった。
 おそるおそるガラス戸を、もう少しだけ開けてみた。そして、しばらくあたりの様子をうかがった。この四階には、N模型店以外にも小さな会社がいくつか入っている。
 でも、何も起こらない。
 大胆になった優はガラス戸を大きく開けると、制御盤に手をのばした。制御盤には電車の運転台を模したコントローラーが2セットついている。
 思いきって、電源スィッチをオンにした。
(あっ!)
ジオラマの町にいっせいに灯りがついたので、優は思わず飛びあがってしまった。
ビルの窓、街灯、そして、町外れのスタジアムの照明もともって、まわりのガラス戸にキラキラとはねかえっている。
 しかし、それでも、誰もやって来なかった。どうやら、N模型店だけでなく、四階の他の会社も今日はお休みらしい。
駅には、C57蒸気機関車と新型の特急あずさが停まっていた。
 優は、手前のコントローラーを少しずつ動かしてみた。
特急あずさが、ゆっくりとホームから動き出した。徐々にスピードを上げながら、ビルの立ち並ぶ町の中心を離れる。
 そこには、アメフトのスタジアムがあった。かわいいヘルメットをかぶったミニチュアの選手たちが、熱戦の真っ最中だ。手にピンクのポンポンを持ったチアガールたちもいる。
 一瞬、チアガールの一人が、こちらに向かってウィンクをしたような気がした。
 でも、スピードを上げた特急あずさは、あっという間に町を離れると、赤い鉄橋を渡った。
 川の向こう側は、のどかな田園地帯だ。たんぼにはカラフルなかかしと、虫取り網を持った子どもたちがいる。
(何を取っているんだろう?)
 と、思うまもなく、特急あずさは深緑のおむすび山のトンネルに吸い込まれていった。
 優は、すばやくトンネルの出口側へ移動した。特急あずさは、あっという間にトンネルから出てきた。大きなカーブで、クリーム色の車体を本物そっくりに傾けてまがっていく。
(これが、振り子機能かあ!)
 雑誌の広告で見たばかりの新機能だった。
 うっとりと見とれているうちに、早くも一周した特急あずさはホームをすべるように走り抜けていく。
 急いでガラス戸まで戻ると、また制御盤に手を伸ばしてもうひとつのコントローラーを動かした。
 今度はC57蒸気機関車が、ゆっくりと特急あずさとは逆の方向に動き出した。小さなピストンを力強く動かして、青い客車を四両もひっぱっていく。
 優はガラス戸にベッタリとほほをくっつけて、目線をできるだけ線路の高さに持っていけるよう腰をかがめた。そうすると、ますます本物そっくりに見えて迫力満点なのだ。
 C57蒸気機関車は、ビーチパラソルのならんだ海岸を抜けて、トンネルの手前で特急あずさとすれ違った。

 優は、ふと腕時計に目をやった。 
(うそーっ!)
 驚いたことに、もう一時十分前になっていた。
 ほんの十分ぐらいたっただけのつもりだったのに、ジオラマに夢中になっているうちに、いつのまにか三十分以上もたってしまっていたことになる。まるで、きつねにでもつままれたような思いだった。すぐに走って行かないと、塾に遅刻してしまう。
 あわててガラス戸まで戻ると、制御盤に手を伸ばした。
コントローラーを慎重に操作して、特急あずさを元のホームにピッタリと停車させる。
うまくいった。
次はC57の番だ。蒸気機関車の小さなピストンは、ゆっくりと動きを止めた。
 続いて電源スイッチを切ると、ビルの、街灯の、そしてスタジアムの灯りがいっせいに消えた。ジオラマに吹き込まれていた「命」がなくなってしまったようだ。それと同時に、優のいる現実世界までが、急に色あせた物になったように感じられた。
 次の瞬間、自分でも気がつかないうちに、ミニチュアを一個、手の中ににぎりしめてしまっていた。さっきスタジアムで、優にウィンクしたピンクのポンポンを手にしたチアガールだ。
 優は、彼女を右のポケットにつっこんだ。そして、ショーウィンドウのガラス戸を閉めると、足早に立ち去った。

 ギギギッ。
 嫌な音を立てて、エレベーターのドアが開いた。
 優は急いで乗りこむと、一階のボタンと「閉」のボタンを続けて押した。また同じ音がしてドアが閉まり、エレベーターが動き出した。
 ガッ、ガッタン。
 降り始めてすぐに、エレベーターが停まってしまった。
 と、同時に、中の灯りが消えて真っ暗になった。
(わーっ、停電?)
 暗闇の中で、優は一瞬パニックになりかけた。
 でも、すぐに天井の非常灯がぼんやりとついてくれた。どうやら非常用の電力に切りかわったらしい。
 しかし、エレベーターはまだ動き出さなかった。ドアの上のランプを見ると、「4」のところに灯りがともったままだ。
 優は、ドアの横の行き先ボタンをかたっぱしから押してみた。
 でも、なんの応答もない。
 もしかすると、非常用の電力では、エレベーターを動かせないのかもしれない。
 それでも、その時は誰かがすぐに来てくれるだろうと思っていた。

 5分たち、やがて10分が過ぎた。
 誰もやってこない。ジオラマで遊んでいるうちに、このビルにいた人たちはみんないなくなってしまったのだろう。
 (だけど、警備員のおじいさんがいる)
 しかし、おじいさんが眠そうな顔をしていたことを思い出した。もしかすると、いねむりでもしているのかもしれない。
 と、その時、行き先ボタンの上に、黄色いボタンとインターフォンがついているのに気がついた。
薄暗いけれど、
(非常のときはこのボタンを押してください)
と、書いてあるのがなんとか読めた。
 非常ボタンに伸ばしかけた手を、優はあわててひっこめた。誰もビルにいないはずなのになぜエレベーターにいるのか、怪しまれてしまうかもしれないと、思ったからだ。
空調が停まったせいか、エレベーターの中はだんだん暑くなってきている。ハンカチを出そうとポケットにつっこんだ手に、何かが触れた。
 取り出してみると、何気なく持ってきてしまったチアガールの人形だ。
(なぜ、こんなことをしてしまったのか)
 自分でもわからなかった。
(これを持ってきてしまったことも、ばれてしまうかもしれない)
 そう思うと、ますます非常ボタンを押せなくなってしまった。
 時計を見ると、とっくに一時を過ぎてしまっている。夏季講習の一時間目の授業は、もう始まっていることだろう。隆志たちは、なんで優が来ないのかと、不思議に思っているかもしれない。
 運の悪いことに、明日は日曜日だ。へたをすると、出られるのは月曜日になってしまうかもしれない。ここに閉じ込められたまま、貴重な三日間だけの「夏休み」が、どんどんなくなってしまう。
 エレベーターの壁を見ながらそんなことを考えていると、胸の奥の方がジワーッと苦しくなってきた。
 優は背中のデイバッグをおろして、床にぺたりとこしをおろしていた。エレベーターの後の壁にもたれて、じっとドアを見つめている。
 でも、ドアはピタリと閉じたまま開かない。
とうとう見つめるのをあきらめて、優は目を閉じた。
 頭の中に、さっきのジオラマの世界が広がってきた。町並みが、田園風景が、おむすび山のトンネルが、見えてくる。
 特急あずさが、すばらしいスピードでホームを通り過ぎた。C57蒸気機関車が、赤い鉄橋を力強く渡っていく。
アメフトのスタジアムが見えてきた。ここでも、チアガールは誰かをけんめいに応援していた。
 ショーウィンドウに顔をべったりとつけて、優は一心にながめている。
 いつのまにか、空想は狭いジオラマを抜け出して、外の世界へ飛び出していった。
 どこかの広い庭いっぱいに広がった線路。何重にも複雑に入り組んでいる。つつじやさざんかの植え込みをぬい、置石のまわりをめぐって、たくさんの列車が走り回っている。
  新幹線の「のぞみ」がサルスベリの向こうからやってきた。二階建ての「MAX」は、竹林のそばを走っている。
 優は線路を踏まないように気をつけながら、庭中をピョンピョンとはねまわった。
(あっ!)
 ロマンスカーとスカイライナーが正面衝突しそうだ。
 と、思った瞬間、ポイントが自動的に切り替わって、ぎりぎりで無事にすれ違った。

 ふと気がつくと、優はいぜんとして薄暗いエレベーターの中にいた。腕時計を見たら、いつのまにか三十分近くがたっていた。
 とうとう優は、思い切って非常ボタンを押した。
 しかし、呼び出し音は確かに鳴っているのに、誰も出てくれない。優はじっと受話器に耳を押し当てていた。
「……。ど、どうしました」
 あきらめかけたとき、ようやくインターフォンから、あわてたような男の人の声が聞こえてきた。
「エレベーターが停まっちゃって」
 優がそういうと、しばらくガチャガチャと雑音がした。それにまじって、
「あっ、ほんとだ」
と、つぶやいているのが聞こえてきた。
「ちょっと、待ってください」
 男の人はそういって、インターフォンを切った。
 しばらくして、ようやくエレベーター内の蛍光灯がついた。そして、それと入れ代わるようにして、非常灯が消える。
 ウーーン。
 かすかなうなりを立てて、エレベーターが動き出した。どうやら、一時的に電源がとまっていただけらしい。
 優は、急いですべての階のボタンを押した。
 ギギギッ。
 また同じ音をたてて三階でドアが開いたが、今度ばかりは嫌な音には聞こえなかった。
 すぐにエレベーターから飛び出した。
 久しぶりに吸う外の空気はさすがにうまかった。知らず知らずのうちに、エレベーター内の空気が汚れてしまっていたのだろう。
 ダダッダダッ、……
 優は、むかい側の階段を勢い良くかけおりていった。
 一階では、予想どおりに警備員が待ち構えていた。あのおじいさん警備員だ。
「あっ、だいじょうぶでしたか?」
 意外にも、ていねいな口調だ。
「あ、はい」
「いつごろ、停まったのですか?」
「一時間ぐらい前かなあ」
 優が少しサバを呼んでいうと、驚いたような表情をうかべた。
「えーっ、おけがはないですか?」
 警備員の態度は、すっかりオドオドしている。もしかすると、本当にいねむりをしていて、責任を問われるのを恐れていたのかもしれない。
 けっきょく、警備員は拍子抜けするほどあっさりと、優を自由にしてくれた。
ビルの外へ向かいながら、きっとあの警備員はこの「事故」のことは会社に報告しないだろうなと思った。
 急いでビルを飛び出すと、またギラギラする強い日差しの下を、優は塾に向かってけんめいに走りだした。
 ようやく塾にたどりついた時は、もう二時近くになっていた。ちょうど一時間目の後の休憩時間だ。
 塾の玄関の壁には、いつものように模擬テストの結果がはってあった。
(あった!)
 期待どおりに、トップクラスの中に自分の名前を見つけた。
 もちろん、秀平の名前も、その中のトップ、つまりこの塾全体で一番のポジションにあった。
 でも、意外にも、隆志の名前はトップクラスの中になかった。くやしがっている顔が目に浮かぶようだ。
 雄太は、予想どおりにひとつクラスを落としていた。これで、夏休み明けの父兄面談では、志望校変更をいわれるのはまぬがれないところだろう。
「おや、村下。一時間目はサボリか?」
 入り口わきの控え室にいたトップクラス担任の斉藤先生が、目ざとく優を見つけて声をかけてきた。
「ほらっ。でも、トップに入ったからって、油断するなよ」
 そういって、模擬試験の成績表とトップクラスの印の金バッチを渡してくれた。
 成績表を開いてみると、コンピュータが打ち出したコメントには、
(志望校の合格確率は90%以上。でも、油断せずにがんばろう)
と、書かれていた。家に帰ってこれを渡したら、おかあさんはお赤飯を炊くかもしれない。

 二時間目の授業が終わったとき、秀平がそばへやってきた。
「トップクラス入り、おめでとう」
「いやあ、まぐれ、まぐれ。それより、秀平はトップじゃない。これで、特待生入りは確実だな」
 この塾では、成績優秀者の中で特に上位の生徒は、特待生として授業料が免除されている。
「どうかなあ。まだ今月の成績だけじゃ決まんないと思うけど」
 そういいながらも、秀平はまんざらでもないような表情を浮かべていた。
「おっ、いたいた」
 隆志と雄太が教室に入ってきた。
「優、どこに行ってたんだよ? トップクラスのメンバーともなると、さすがに余裕だな」
 皮肉っぽくいいながらも、やはり隆志はくやしそうだった。
「うん、ちょっとな」
「やっぱり、女の子と会ってたりして」
 雄太が、少し重くなりかけた雰囲気をそらせてくれたので、
「まあね」
と、すかさずおどけて見せた。
「ちぇ、女の子とのデートに、トップクラス入りか。優ばっか、いい目見てるじゃねえか」
 さすがの隆志も、今度はお昼のときのように否定してみせる余裕はないようだった。
 三時間目のチャイムがなったので、隆志たちは教室を出て行った。遅刻のことをそれ以上追求されなかったので、優はホッとしていた。

 その日の帰り、最後の授業が終わると同時に、優はすばやく教室から抜け出した。
「おーい、優ーッ」
 隣のクラスの前を通りかかったとき、中から隆志の呼ぶ声がした。
 でも、聞こえないふりをしてそのまま素通りすると、勢い良く階段をかけおりた。今日のことを、これ以上あれこれ聞かれるのがいやだった。それに、一刻も早く帰って、トップクラスに入れたことをおかあさんに報告したかった。そして、それから短い夏休みを満喫するのだ。 
 塾の建物を出た時、ポケットの指先に何かがふれた。取り出してみると、あのチアガールのミニチュア人形だ。ジオラマにいた時と同じように、ピンクのポンポンを手にしている。
(いったい誰を応援しているのだろう?)
 なんだかこのまま持っていると、今日のことがみんなに知れ渡ってしまうような気がしてきた。
 ジオラマのこと、エレベーターの事故のこと、そしてチアガールを持ってきてしまったこと。
 どこかに捨ててしまおうと、あたりをキョロキョロと見まわした。向かいのコンビニの前に、大きなゴミ箱が置いてある。優はまわりの人たちを気にしながら、ゴミ箱に近づいていった。
 ポケットからそっとチアガールを取り出す。ゴミ箱のふたを押して、思い切って中に捨てようとした。
 でも、次の瞬間、優はドキッとして手を引っ込めた。また、彼女がウィンクしたように見えたのだ。そして、ジオラマで遊んでいた時の、あのうっとりするような満ち足りた気持ちがよみがえってきた。それと同時に、あたりの現実の風景が急に色あせて感じられてきた。
 けっきょく、優はチアガールを捨てられないまま、その場を立ち去った。
 その後も、優はチアガール人形をなかなか捨てられることができずに、町中をさまよっていた。
 いつのまにか、S川にかかる橋に通りかかった。塾を出たときはまだ明るかったのに、あたりはすっかり薄暗くなっている。
あのギラギラした夏の太陽も、とっくにビルの向こうに沈んでしまった。
 優は橋の中ほどの欄干によりかかって、川面をながめていた。黒く濁った水が、白い洗剤の泡のような物を浮かべて流れている。
 ポケットからチアガールを取り出すと、ウィンクを見ないように目をつぶって川に捨てようとした。
 でも、どうしても捨てられない。
 なぜだか、これを捨ててしまうと、自分の一番大事なものが失われてしまうような気がしたのだ。
 チアガールをまたポケットに突っ込むと、別の物が指先に触れた。取り出してみると、あのトップクラスの金バッチだった。金メッキされたバッチは、街灯の光を受けてキラキラと安っぽく光っている。
 じっと見つめていると、塾や受験のことが、なんだかすごく遠くのことになってしまったような気がした。
 優は、金バッチをチアガールの代わりに川に投げこむことを心に描いてみた。金バッチは、きれいな放物線を描いて流れの真ん中あたりに落ちていく。
 でも、やがて優は、金バッチをチアガールと一緒に、そっとポケットの中へしまった。


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生きていくこと

2020-04-10 09:15:51 | 作品
 ある晩、ぼくは夜中にふと目を覚ました。
 ぼくが寝ているのは、二段ベッドの下の段だ。ぼくはそのまま寝つかれずに、ベッドの上の段の床を見ていた。上の段には、にいちゃんが寝ている。
 ぼくは、すぐ眠れるように、いつものように野球やサッカーのスーパースターになった時のことを想像しようとした。
 そうすると、未来への不安がなくなって、いつもならすぐに眠れるのだ。
と、そのときだ。
ふと、
(死んでしまったら、その後はどうなるのだろうか?)
と、考えてしまった。
 いろいろな疑問がむくむくと湧き起ってくる。
(お話にあるように、天国とか、地獄とかに行くのだろうか?)
(それとも、もう一度何かに生まれ変わるのだろうか?)
ぼくは、生まれる前のことを考えてみた。
何も思い出せない。灰色の無の世界が拡がっているだけだ。もしかすると、ぼくが死んだら、そんななんにもない世界に行ってしまうのかもしれない。
(ぼくが、この世からいなくなる)
そんな死後のことを、考えると恐ろしくてたまらなくなってきた。
(うわーっ、いやだ、いやだ)
ぼくは、ベッドからはねおきた。
いつの間にか、背中にはびっしょりと汗をかいていた。
それからは、眼がさえて眠れなくなってしまった。もし眠ったら、あの灰色の無の世界に引きずり込まれるような気もした。
 ぼくは、またベッドの上の段の床を見つめた。二段ベッドの上では、にいちゃんが軽い寝息をたてて眠っている。のんきに寝ているにいちゃんの寝息を聞いていると、その図太さがうらやましかった。
でも、にいちゃんを起こして助けてもらうわけにはいかなかった。

とうとうぼくは、ベッドから起き上がると、子ども部屋を抜け出して両親の寝室へ行った。
トントン。
寝室のドアを軽くノックをする。
「どうした?」
おとうさんの声がした。すぐに目を覚ましてくれたようだ。
おとうさんはすごく敏感で、どんな小さな物音でも目を覚ますんだそうだ。そんなところは、ぼくはおとうさんに似たのかもしれない。
ドアを開けると、おとうさんが布団から上半身を起こしていた。その横では、おかあさんが寝息をたてている。こちらは、おとうさんとは対照的に、一度眠ったらどんなことがおきても目を覚まさないんだそうだ。こちらの血は、間違いなくにいちゃんに受け継がれている。
「眠れないんだ」
ぼくがそういうと、
「じゃあ、おとうさんのところへおいで」
と、おとうさんがいってくれた。
ぼくは部屋に入ると、片手で開いてくれたおとうさんの布団の中にもぐりこんだ。
ぼくは、すぐにおとうさんのにおいにつつまれた。少し汗臭いけれど、なんだかホッとする。
「おとうさん、聞きたいことがあるんだけど」
「なんだい?」
「おとうさんは、死ぬのは怖くないの」
 ぼくは、小さな声でたずねた。
「怖いよ」
 おとうさんはすぐにそう答えたけれど、
「でも、子どものころよりは怖くなくなった」
と、付け加えた。
「なぜ?」
「たぶん、よっちゃんやにいちゃんが生まれたからだろうな」
 おとうさんはそういうと、こんな話をしてくれた。
「あるとき、死ぬことを夢に見て、ハッと目をさましたことがあったんだ。いつもなら、怖くて、怖くてたまらなくなるところだ。だけど、そのとき、かたわらに赤ちゃんのころのよっちゃんと、まだ幼稚園に行く前のにいちゃんが寝ていた。そのころは、まだ、二人が小さかったから、おかあさんと四人で同じ部屋に寝ていたんだ。そのとき、よっちゃんやにいちゃんの寝顔を見ていたら、なぜか気持ちがだんだん落ち着いてきた。それ以来、死ぬことが、前よりも少しだけ怖くなくなったかもしれない」
「へえ」
 ぼくは驚いておとうさんの顔を見た。
「おそらく、自分の血が、よっちゃんやにいちゃんに確かに引き継がれていると、思ったんだろうな。難しい言葉でいうと、DNAが伝えられるってことになるけれど」
「ふーん」
 よくわからなかったけれど、ぼくはうなずいた。
「きっと、よっちゃんにも自分の子どもができたら、同じようになるよ」
「そうかな?」
「だいじょうぶだよ。だから、もうおやすみ」
「はーい」
 なんだかよくわからなかったけれど、ぼくはそのまま少し安心して眠りについた。

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