肉まんをカプッとほおばると、熱い肉汁がのどにググッと流れこんだ。
「ハグ、ハグ、……」
急いでのみこんで、優治はホーッと白いいきをはいた。
肉まん二個とカレーパン一個。これで、塾から帰る八時すぎまでの三時間を、もたさなければならない。
月曜から金曜まで、雄治は電車で東京よりへ二駅行った所にある大手進学塾へ通っていた。
月水金は普通コース。火木は受験コースだ。
強い風がガタガタッと、古いガラス戸をゆすった。外はすごく寒そうだ。
でも、パン屋の中は、ストーブがカッカッともえていてあたたかい。雄治は、店の中に五、六脚置かれているいすにすわっていた。
駅前にあるこの店は、五時半をすぎるとけっこうにぎわってくる。部活帰りの高校生のたまり場になっていたからだ。
でも、今はまだ時間が早いので、お客は雄治だけだった。
今日、塾へ行きたくなかった。先週のテストが返されるからだ。
結果は見なくてもわかっている。まったく悲惨なものなのだ。
五年生になってから、雄治の成績は少しずつ下がり始めている。
特に算数。中でも分数が苦手だった。
肉まんとカレーパンは、すぐに食べ終わってしまった。
でも、雄治は、壁にはられた古いコーラのポスターをながめたりして、ぐずぐずしていた。
テレビの横の古ぼけたかけ時計が、五時二十分をさした。とうとうタイムリミットが来てしまった。雄治は、のろのろと立ち上がった。
ガララッ。
ようやくパン屋のガラス戸を開けた。
(ふーっ!)
あんのじょう、外はすごく寒かった。
改札口を抜けてホームへの階段に行こうとした時、掲示板の前に拓哉がいるのに気がついた。
拓哉は、クラスで一番からだが小さい。いつもノートに犬の絵ばかりかいていて、勉強はビリの方だ。
拓哉は、掲示板をじっくりとながめている。
アニメのキャラクターが変なポーズをしている遊園地、作り笑いを浮かべた女の人のスキー場、そして、初もうでのお寺のポスターなどがはられている。雄治には興味のないものばかりだ。
それなのに、拓哉は何がおもしろいのか、熱心に見つづけていた。夢中になった時のくせで、口をポカンとあけている。
「拓哉、どこへ行くんだ?」
雄治が声をかけると、拓哉はしばらくぼんやりしていた。
でも、相手が雄治だとわかると、ニコッとわらってそばにかけよってきた。
「やあユウちゃん。これから千葉まで行くんだ」
「ふーん。そっちに知り合いでもいるのか?」
「ううん」
拓哉は首を振りながら、雄治を階段の方へ引っぱっていった。そして、改札口の駅員の様子をうかがいながら、声をひそめていった。
「終点まで行って、また戻ってくるだけ。でも、中でいろいろ遊ぶんだ」
拓哉はそっとてのひらをあけて、雄治にキップを見せた。それは入場券だった。
「なんだよ、ひまなやつだな。そんなことしてて、おかあさんにおこられないのか?」
雄治は、少しうらやましそうにいった。
「うん。おかあちゃんは、ここんとこ帰りが遅いんだ。家にいても、テレビかゲームしかないし」
雄治は、拓哉の家族について自分がなにも知らないことに、初めて気がついた。もう二年以上も同じクラスだったのに。
「ユウちゃんも、いっしょに行かないか?」
拓哉が、少し遠慮がちにさそいかけた。
「えっ! でも、電車の中で何をするんだよ?」
「いろいろさ。あとで教えてあげるよ」
拓哉はそういって、先に階段をかけあがっていった。
雄治はそのあとを追いかけながら、だんだん迷い始めていた。なんだか今日だけは、塾をサボってしまいたい気もするし、行かないとますます勉強についていけなくなるような気もする。
ホームには、おおぜいの会社帰りの人たちが、寒そうに電車を待っていた。
風がピューッとふいてきて、雄治は思わずダウンジャケットのポケットに両手を突っこんだ。
拓哉の方は元気いっぱいで、ホームの黄色い線の上を行ったり来たりしていた。一歩一歩、わざわざ黄色いブロックをふみながら、チョコチョコ歩いている。
雄治は電車を待ちながら、塾をサボるかどうかまだ決めかねていた。
その時、上り下りほとんど同時に、電車が前の駅を出たことを示すランプがついた。
(よーし)
とうとう雄治は、判断を天にまかせることにした。上り電車が先に来たら、このまま塾へ行く。下りが先だったら、拓哉と一緒にそちらへ乗って、サボッてしまおう。
やがてホームの両側に、あいついで電車が滑り込んできた。
スピードがだんだんゆるくなる。
雄治は少しドキドキしながら、電車がとまるのを待っていた。
シュッ。
一瞬早く、下り電車のドアが開いた。たくさんの乗客が、はき出されてくる。
「行こう!」
拓哉はそう声をかけると、先にたって電車に乗り込んでいった。
ついに雄治は思いきって、その後に続くことにした。
サラリーマンやOLたちの帰宅時間にちょうどあたっているらしく、電車の中はすごくこみ合っていた。
雄治たちは、ぎゅうぎゅうづめの車内で、すぐにはなればなれになってしまった。
雄治のまわりは、人の壁、壁、壁。あちこちから押されて、息がつまりそうだ。
「拓哉」
雄治は小声で、拓哉を呼んでみた。
でも、遠くに離れてしまったのか、ぜんぜん返事がない。しかたがないので、天井をにらみながらじっとしていた。
電車が江戸川を渡り千葉県に入るころになって、ようやく降りる人たちが増えてきた。車内にも、少しは余裕ができてくる。
「ユウちゃーん」
拓哉が、大人たちの間をもぐるようにして、そばにやってきた。
「すごいラッシュだね?」
雄治はびっくりしていた。上り電車は、いつもこの時間にはガラガラだったのだ。塾の帰りには、下り電車も混雑のピークをすぎている。
「うん、七時まではいつもこんなもんだよ」
慣れているのか、拓哉はケロリとしていた。
次の駅が近づいた時、少し離れた所にすわっていた太ったおばさんが立ち上がった。
「ユウちゃん、早く、早く」
拓哉はすばやく人をかきわけて席を確保すると、大声で雄治を呼んだ。
雄治は少し顔を赤くして、拓哉の横に腰をおろした。前に立っているめがねをかけたおじさんが、手に持った新聞の上から雄治たちをこわい目でにらんでいる。
雄治はからだをかたくしてうつむいてしまったが、拓哉の方はまるでへいちゃらのようだ。かばんからすぐにノートを取り出すと、雄治に手渡した。
あけてみると、どのページにもぎっしりと犬の絵が並んでいる。ひとつひとつが、濃いえんぴつでたんねんに描かれていた。
大きい犬、小さい犬。かわいいの、どうもうそうなの。拓哉の知っているミニチュアダックやトイプードル、ポメラニアンなどもいる。
「これはねえ、グレートデン。体高は五十八センチから六十二センチ。体重は五十三キロから六十八キロ。主に番犬と軍用犬に使われているんだ」
体じゅうにはんてんのある大きな犬の絵を指差しながら、拓哉が説明してくれた。
「ふーん」
雄治は、拓哉が詳しいのに感心してうなずいた。
「これはシェトランドシープドッグ」
「えっ、コリーじゃないの?」
「ううん、コリーを小型にした犬なんだ。やっぱり牧用犬だけどね」
「へーっ」
「そう見えないかな?」
拓哉は少し不安そうに、急いで別のページをめくった。
「こっちがコリー。シェトランドシープドッグにくらべると、足が長いんだ」
「うん、そんなような気もするな」
雄治がそういうと、拓哉は安心したようにニカッとわらった。拓哉がわらうと、たれぎみの細い目はぜんぜんなくなってしまう。
拓哉は一頭ずつ順々に指差しながら、いろいろな犬について教えてくれた。
でも、その説明は、グレートデンの時と同じように、ひとつの型にはまっている。なんだか、ボタンを押すとおしゃべりするロボットみたいだ。もしかすると、図鑑かなにかを丸暗記しただけなのかもしれない。
「どうして、みんなベロを出して、しっぽを振ってるんだ?」
「えっ! ああ、そうした方が、本当に生きてるように見えるんだよ」
「ふーん?」
雄治が首をひねっていると、拓哉はポケットからチビた3Bのえんぴつを取り出した。そして、ノートの余白に、さっさと犬の絵を書き始めた。
シェパードのようだ。どうやら拓哉は、シェパードの絵が一番得意らしい。ノートにもたくさん出てくる。
そして、口を閉じしっぽを動かさない絵と、舌を出してうれしそうにしっぽを振っている絵とを、あっという間にかきあげた。
だんぜんしっぽ振りの方がいい。
「ほんとだな」
雄治が今度は心からそういったので、拓哉はうれしそうに顔をクシャクシャにした。
「ユウちゃん、これできる?」
拓哉は、一本の鉛筆を両手の親指と人指し指の間にはさんで、雄治に向かって突き出した。えんぴつの上に両手の親指を出して、てのひらを合わせている。
「何だよ?」
「ハイッ!」
拓哉は、いきなり大声で気合をかけた。
次の瞬間、拓哉は両方のてのひらを、逆方向にグルリとまわした。
「あっ」
いつの間にか、両手の親指が鉛筆の下に移動している。
「ハイッ!」
拓哉はもう一度気合をかけて、てのひらをグルリとまわした。今度はもとどおりに、両手の親指がえんぴつの上にきている。
「やってみる?」
拓哉はそういって、鉛筆をさしだした。
雄治は受け取った鉛筆で、同じようにやろうとしてみた。
でも、ぜんぜんうまくいかない。手がグチャグチャにこんがらがってしまう。
「えーっ? もう一度やってみてよ」
「うん。ハイッ!」
拓哉は得意そうな顔をして、この手品を何度も繰り返した。雄治はジーッと、拓哉の手先を見つめている。
でも、なかなかコツがわからなかった。
「ス・ロ・ー・モ・ー・シ・ヨ・ン」
最後に拓哉は、雄治にもコツがわかるように、ゆっくりとやってくれた。
「なーんだ。簡単じゃないか」
雄治があっさりとやってみせると、拓哉は少しだけ残念そうな顔をしていた。
拓哉は鉛筆をしまうと、今度はポケットから消しゴムを二つ取り出した。それを両手にひとつずつ持って構える。
「ハイッ!」
例の気合とともに、次の手品が始まった。
その後も、拓哉はえんえんと手品を続けていた。
しかし、得意なネタがつきてきたのか、しだいにつまらなくなっている。
雄治は、ときどき拓哉から目を離して、窓の外をながめた。
外はすっかり暗くなっている。かすかに見える見知らぬ風景が、急に不安に感じられてきた。
雄治が興味を失うのを恐れるかのように、拓哉は次々に新しい手品を繰り出していた。
六時四十分ちょうどに、終点の千葉駅に到着した。塾では、ちょうど一時間目の算数がおわったころだ。
電車がとまるのをまちかねていたように、乗客はわれ先にと降りていった。みんな足早に急いでいる。
そのまま車両に残っているのは、もちろん雄治と拓哉だけだ。ガランとした車内は、急にさみしくなってしまった。
窓越しに、別のホームにも電車がとまっているのが見えた。きっと、そっちが先発に違いない。
「行こう」
雄治は拓哉を誘って電車を降りると、階段に向かって走り出した。
帰りの電車は、驚くほどすいていた。六両編成全体で、雄治と拓哉の他には、五、六人しかお客が乗っていない。
六時四十八分発。
雄治たちの駅には、八時少し前に着くことになる。塾から帰る時刻とピッタリなので、雄治にはちょうどよかった。
雄治たちは、誰もいない三両目に乗り込んだ。
「ヤッホー!」
拓哉はすぐに靴を脱いで座席にあがると、そこからつりかわへ飛びついた。
両手でぶら下がり、足をぶらぶらさせる。半ズボンからシャツがはみでて、おへそまでまる見えだ。
雄治の方は座席に乗らなくても、ちょっとジャンプすればつりかわに手が届く。拓哉のよこで同じように足をぶらつかせてみた。
「よいしょっと」
拓哉はつりかわの位置まで腰を引き上げると、あざやかに前転をしてみせた。最近、運動不足で太り気味の雄治には、とてもそんなまねはできない。
ここからは、拓哉の一人舞台になった。
両手で交互につりかわにつかまりながら、まるでうんていでもやるように車内を移動してみせた。
はじまでたどり着くと、こんどは左右をつなぐパイプを器用に伝わって反対側へ移る。そして、またうんていで雄治のそばまで戻ってきた。どうも、いつもやり慣れているって感じだ。
拓哉がポンと座席に飛びおりると、パッとホコリが舞いあがった。
「ユウちゃん、見てて、見てて」
拓哉はある駅についたときに、ホームへとびだしていった。
ドアから顔を出してみると、電車の先頭へむかって走っている。
発車のベルが鳴り出した。
すると拓哉は、二両ほど前のドアに、急いでとびこんだ。
「なんだよ?」
車内通路をもどってきた拓哉に、雄治はたずねた。
「うん、停車中にどこまでいけるかためしてるんだ」
まだ少し息をはずませながら、拓哉はそうこたえた。
「よーし。それなら競争しよう」
これなら雄治にもできそうなので、はりきっていった。
電車が、次の駅のホームに滑り込んでいく。
しだいにゆっくりになって、やがて完全に止まった。
シュッ。
ドアが開くと同時に、二人は外へ飛び出していった。どこまで遠くのドアに行けるかの勝負だ。
リリリリリ……。
ホームには、発車のベルが鳴り響いている。すぐに雄治が少しリードした。鉄棒はだめだけれど、かけっこなら自信がある。
ベルが鳴りやんだと同時に、雄治はすぐそばのドアに飛び込んだ。
しかし、拓哉はそのドアには入らずに、通りすぎていく。
ドアがしまる。その瞬間、拓哉は一つ先のドアを、スルッとすり抜けていた。
「勝った、勝った」
拓哉は大喜びだ。
(クソーッ。まるでサルみたいに、すばしっこいやつだな)
次のホームでは、雄治は作戦を変更した。
拓哉を先に行かして、後ろにつける。そして、拓哉がドアに入ろうとしてから、全速力で追い抜いて、次のドアから乗ろうというのだ。
拓哉は、後ろにピタリとくっついた雄治を少しも気にしないで、マイペースで走っている。拓哉より足の速い雄治は、余力充分だ。
(よし、これならラストスパートで勝負できる)
……リリリリ。
ベルが鳴りやんだ。
しかし、拓哉はドアに入ろうとしなかった。雄治は不安になって、スビードをゆるめた。
シュッ。
ドアの音と同時に、雄治は車内に飛び込んだ。
拓哉は、まだけんめいに次のドアに向かっている。
いくらなんでも、これは無理だ。ドアは拓哉の目の前で、完全にしまってしまった。
ぼうぜんとしている拓哉を残して、電車はゆっくりと走り出した。
「次の駅で待ってるぞーっ」
雄治はけんめいに、口の形で拓哉に知らせようとした。拓哉は不安そうな顔で、こちらを見送っている。
約束どおりに、雄治は次の駅で電車を降りると、拓哉がやって来るのを待っていた。
ようやく次の電車が来た。
でも、拓哉は乗っていなかった。
その次の電車にも、やっぱりいない。
(拓哉のやつ、しょうがないな。あの駅でまだ待ってるのかなあ?)
どうやら、雄治のいったことが、わからなかったらしい。
とうとう雄治は、ひとつ前の駅へ戻ってみることにした。
雄治を乗せた下り電車が動き出した時、上りにも次の電車が入ってきた。
「あっ!」
拓哉がその電車に乗っているのに気づいて、雄治はびっくりしてしまった。
でも、どうすることもできない。
拓哉は上り電車を飛び降りると、雄治の乗っている下り電車をけんめいに追いかけ始めた。
「拓哉っ! そこで待ってろよ。すぐ戻ってくるから」
雄治は、今度は窓を開けて大声で叫んだ。冷たい十二月の夜の空気が、ドッと車内に押し寄せてくる。
拓哉はようやく走るのをやめると、こちらに向かって大きくうなずいた。
雄治は窓を閉めながら、そばにすわっている人工毛皮のえりの付いた服を着たおばさんが、めいわくそうに顔をしかめているのに気づいた。
拓哉との行き違い騒動のために、雄治たちがもとの駅にたどり着いたのは八時半を過ぎていた。ふだんなら、もう家へついている時間だ。
雄治は拓哉へのサヨナラもそこそこに、家に向かって走り出そうとした。
「ユウちゃん」
拓哉が大声でよびとめた。
「なんだよ?」
雄治が振り返ると、拓哉はニッコリ笑いながらさけんだ。
「明日も遊ぼうよ!」
雄治はびっくりして、しばらく拓哉の顔をみつめていた。
「うん」
やがて雄治は小さくうなずいた。
「ユウちゃん、バーイ」
拓哉はそういうと、反対方向へ走っていった。
(明日も遊ぼうよ!)
拓哉の言葉を頭の中で繰り返しながら、雄治は家へ急いだ。
次の朝、雄治が教室へ入っていくと、まっさきに拓哉がわらいかけてきた。
(明日も遊ぼうよ!)
昨日の拓哉のことばがよみがえってくる。
でも、雄治はぎこちない笑顔をうかべて、目をそらしてしまった。拓哉との約束を、すっぽかすつもりだったからだ。
昨日の晩、家に帰ってから、パパとママに、雄治はこっぴどくしかられていた。塾に行かなかったことが、塾からの連絡でばれていたのだ。
今日は、もうとてもサボれない。
授業中も、時々、拓哉は雄治の方を親しげに見ていた。
(今日も遊ぼうよ!)
拓哉の顔が、そういっているように思えてならなかった。雄治は、そのたびにすぐに目をそらしてしまった。
でも、雄治にははっきりと約束をことわることはできなかった。拓哉のがっかりする顔を見る勇気がなかったからだ。
休み時間には、雄治は拓哉と顔をあわせないように、他のクラスへ行ったり、ふだんはめったに行かない図書室をのぞいたりしていた。拓哉に、昨日した約束の念をおさせないためだった。
ようやく、学校が終わった。雄治にとって、すごく長く感じられた一日だった。
「先生、さようなら」
「さよなら」
みんなが、担任の先生にあいさつをしている。雄治だけは、帰りのあいさつもそこそこに、ランドセルをつかんで教室をとび出していった。拓哉につかまらないためだ。
そんな雄治を、拓哉はふしぎそうな顔をして見送っていた。
四時になると、雄治は塾へ行くために家を出た。いつもより一時間も早い。ふだんなら、ギリギリまでテレビを見ている。ママにせかされてから、いやいや出かけるのだ。これも、駅で拓哉と顔を合わせたくないからだった。
塾の教室に入れるのは、五時半からだ。これでは、一時間近く、塾の前の道路で待たなければならない。
(それでもかまわない)
と、雄治は思っていた。
いつものように、例のパン屋で肉まん二個とカレーパン一個を買った。
でも、今日はすぐには食べないで、店を出てそのまま改札口に向かった。
頭上で、ちょうど上り電車が到着する音が聞こえる。雄治は、急いで階段を三段飛びでかけ上がっていった。
「ヤッホー」
いきなり声をかけられた。
いた。なんと拓哉が、もう来ていたのだ。
雄治はぼうぜんとして、ホームに立ちつくした。
上り電車は雄治を残したまま、さっさと行ってしまった。
「ユウちゃん、今日の方が長く遊べるね」
拓哉は、ニコニコと笑いながらいった。
「食べる?」
雄治は、そんな拓哉に肉まんを一個手渡した。
「えっ、いいの?」
拓哉は肉まんを受け取りながら、目を輝かせている。
そんな拓哉を見ながら、雄治は、困ったような、でもちょっとだけうれしいような気持ちがしていた。
「ハグ、ハグ、……」
急いでのみこんで、優治はホーッと白いいきをはいた。
肉まん二個とカレーパン一個。これで、塾から帰る八時すぎまでの三時間を、もたさなければならない。
月曜から金曜まで、雄治は電車で東京よりへ二駅行った所にある大手進学塾へ通っていた。
月水金は普通コース。火木は受験コースだ。
強い風がガタガタッと、古いガラス戸をゆすった。外はすごく寒そうだ。
でも、パン屋の中は、ストーブがカッカッともえていてあたたかい。雄治は、店の中に五、六脚置かれているいすにすわっていた。
駅前にあるこの店は、五時半をすぎるとけっこうにぎわってくる。部活帰りの高校生のたまり場になっていたからだ。
でも、今はまだ時間が早いので、お客は雄治だけだった。
今日、塾へ行きたくなかった。先週のテストが返されるからだ。
結果は見なくてもわかっている。まったく悲惨なものなのだ。
五年生になってから、雄治の成績は少しずつ下がり始めている。
特に算数。中でも分数が苦手だった。
肉まんとカレーパンは、すぐに食べ終わってしまった。
でも、雄治は、壁にはられた古いコーラのポスターをながめたりして、ぐずぐずしていた。
テレビの横の古ぼけたかけ時計が、五時二十分をさした。とうとうタイムリミットが来てしまった。雄治は、のろのろと立ち上がった。
ガララッ。
ようやくパン屋のガラス戸を開けた。
(ふーっ!)
あんのじょう、外はすごく寒かった。
改札口を抜けてホームへの階段に行こうとした時、掲示板の前に拓哉がいるのに気がついた。
拓哉は、クラスで一番からだが小さい。いつもノートに犬の絵ばかりかいていて、勉強はビリの方だ。
拓哉は、掲示板をじっくりとながめている。
アニメのキャラクターが変なポーズをしている遊園地、作り笑いを浮かべた女の人のスキー場、そして、初もうでのお寺のポスターなどがはられている。雄治には興味のないものばかりだ。
それなのに、拓哉は何がおもしろいのか、熱心に見つづけていた。夢中になった時のくせで、口をポカンとあけている。
「拓哉、どこへ行くんだ?」
雄治が声をかけると、拓哉はしばらくぼんやりしていた。
でも、相手が雄治だとわかると、ニコッとわらってそばにかけよってきた。
「やあユウちゃん。これから千葉まで行くんだ」
「ふーん。そっちに知り合いでもいるのか?」
「ううん」
拓哉は首を振りながら、雄治を階段の方へ引っぱっていった。そして、改札口の駅員の様子をうかがいながら、声をひそめていった。
「終点まで行って、また戻ってくるだけ。でも、中でいろいろ遊ぶんだ」
拓哉はそっとてのひらをあけて、雄治にキップを見せた。それは入場券だった。
「なんだよ、ひまなやつだな。そんなことしてて、おかあさんにおこられないのか?」
雄治は、少しうらやましそうにいった。
「うん。おかあちゃんは、ここんとこ帰りが遅いんだ。家にいても、テレビかゲームしかないし」
雄治は、拓哉の家族について自分がなにも知らないことに、初めて気がついた。もう二年以上も同じクラスだったのに。
「ユウちゃんも、いっしょに行かないか?」
拓哉が、少し遠慮がちにさそいかけた。
「えっ! でも、電車の中で何をするんだよ?」
「いろいろさ。あとで教えてあげるよ」
拓哉はそういって、先に階段をかけあがっていった。
雄治はそのあとを追いかけながら、だんだん迷い始めていた。なんだか今日だけは、塾をサボってしまいたい気もするし、行かないとますます勉強についていけなくなるような気もする。
ホームには、おおぜいの会社帰りの人たちが、寒そうに電車を待っていた。
風がピューッとふいてきて、雄治は思わずダウンジャケットのポケットに両手を突っこんだ。
拓哉の方は元気いっぱいで、ホームの黄色い線の上を行ったり来たりしていた。一歩一歩、わざわざ黄色いブロックをふみながら、チョコチョコ歩いている。
雄治は電車を待ちながら、塾をサボるかどうかまだ決めかねていた。
その時、上り下りほとんど同時に、電車が前の駅を出たことを示すランプがついた。
(よーし)
とうとう雄治は、判断を天にまかせることにした。上り電車が先に来たら、このまま塾へ行く。下りが先だったら、拓哉と一緒にそちらへ乗って、サボッてしまおう。
やがてホームの両側に、あいついで電車が滑り込んできた。
スピードがだんだんゆるくなる。
雄治は少しドキドキしながら、電車がとまるのを待っていた。
シュッ。
一瞬早く、下り電車のドアが開いた。たくさんの乗客が、はき出されてくる。
「行こう!」
拓哉はそう声をかけると、先にたって電車に乗り込んでいった。
ついに雄治は思いきって、その後に続くことにした。
サラリーマンやOLたちの帰宅時間にちょうどあたっているらしく、電車の中はすごくこみ合っていた。
雄治たちは、ぎゅうぎゅうづめの車内で、すぐにはなればなれになってしまった。
雄治のまわりは、人の壁、壁、壁。あちこちから押されて、息がつまりそうだ。
「拓哉」
雄治は小声で、拓哉を呼んでみた。
でも、遠くに離れてしまったのか、ぜんぜん返事がない。しかたがないので、天井をにらみながらじっとしていた。
電車が江戸川を渡り千葉県に入るころになって、ようやく降りる人たちが増えてきた。車内にも、少しは余裕ができてくる。
「ユウちゃーん」
拓哉が、大人たちの間をもぐるようにして、そばにやってきた。
「すごいラッシュだね?」
雄治はびっくりしていた。上り電車は、いつもこの時間にはガラガラだったのだ。塾の帰りには、下り電車も混雑のピークをすぎている。
「うん、七時まではいつもこんなもんだよ」
慣れているのか、拓哉はケロリとしていた。
次の駅が近づいた時、少し離れた所にすわっていた太ったおばさんが立ち上がった。
「ユウちゃん、早く、早く」
拓哉はすばやく人をかきわけて席を確保すると、大声で雄治を呼んだ。
雄治は少し顔を赤くして、拓哉の横に腰をおろした。前に立っているめがねをかけたおじさんが、手に持った新聞の上から雄治たちをこわい目でにらんでいる。
雄治はからだをかたくしてうつむいてしまったが、拓哉の方はまるでへいちゃらのようだ。かばんからすぐにノートを取り出すと、雄治に手渡した。
あけてみると、どのページにもぎっしりと犬の絵が並んでいる。ひとつひとつが、濃いえんぴつでたんねんに描かれていた。
大きい犬、小さい犬。かわいいの、どうもうそうなの。拓哉の知っているミニチュアダックやトイプードル、ポメラニアンなどもいる。
「これはねえ、グレートデン。体高は五十八センチから六十二センチ。体重は五十三キロから六十八キロ。主に番犬と軍用犬に使われているんだ」
体じゅうにはんてんのある大きな犬の絵を指差しながら、拓哉が説明してくれた。
「ふーん」
雄治は、拓哉が詳しいのに感心してうなずいた。
「これはシェトランドシープドッグ」
「えっ、コリーじゃないの?」
「ううん、コリーを小型にした犬なんだ。やっぱり牧用犬だけどね」
「へーっ」
「そう見えないかな?」
拓哉は少し不安そうに、急いで別のページをめくった。
「こっちがコリー。シェトランドシープドッグにくらべると、足が長いんだ」
「うん、そんなような気もするな」
雄治がそういうと、拓哉は安心したようにニカッとわらった。拓哉がわらうと、たれぎみの細い目はぜんぜんなくなってしまう。
拓哉は一頭ずつ順々に指差しながら、いろいろな犬について教えてくれた。
でも、その説明は、グレートデンの時と同じように、ひとつの型にはまっている。なんだか、ボタンを押すとおしゃべりするロボットみたいだ。もしかすると、図鑑かなにかを丸暗記しただけなのかもしれない。
「どうして、みんなベロを出して、しっぽを振ってるんだ?」
「えっ! ああ、そうした方が、本当に生きてるように見えるんだよ」
「ふーん?」
雄治が首をひねっていると、拓哉はポケットからチビた3Bのえんぴつを取り出した。そして、ノートの余白に、さっさと犬の絵を書き始めた。
シェパードのようだ。どうやら拓哉は、シェパードの絵が一番得意らしい。ノートにもたくさん出てくる。
そして、口を閉じしっぽを動かさない絵と、舌を出してうれしそうにしっぽを振っている絵とを、あっという間にかきあげた。
だんぜんしっぽ振りの方がいい。
「ほんとだな」
雄治が今度は心からそういったので、拓哉はうれしそうに顔をクシャクシャにした。
「ユウちゃん、これできる?」
拓哉は、一本の鉛筆を両手の親指と人指し指の間にはさんで、雄治に向かって突き出した。えんぴつの上に両手の親指を出して、てのひらを合わせている。
「何だよ?」
「ハイッ!」
拓哉は、いきなり大声で気合をかけた。
次の瞬間、拓哉は両方のてのひらを、逆方向にグルリとまわした。
「あっ」
いつの間にか、両手の親指が鉛筆の下に移動している。
「ハイッ!」
拓哉はもう一度気合をかけて、てのひらをグルリとまわした。今度はもとどおりに、両手の親指がえんぴつの上にきている。
「やってみる?」
拓哉はそういって、鉛筆をさしだした。
雄治は受け取った鉛筆で、同じようにやろうとしてみた。
でも、ぜんぜんうまくいかない。手がグチャグチャにこんがらがってしまう。
「えーっ? もう一度やってみてよ」
「うん。ハイッ!」
拓哉は得意そうな顔をして、この手品を何度も繰り返した。雄治はジーッと、拓哉の手先を見つめている。
でも、なかなかコツがわからなかった。
「ス・ロ・ー・モ・ー・シ・ヨ・ン」
最後に拓哉は、雄治にもコツがわかるように、ゆっくりとやってくれた。
「なーんだ。簡単じゃないか」
雄治があっさりとやってみせると、拓哉は少しだけ残念そうな顔をしていた。
拓哉は鉛筆をしまうと、今度はポケットから消しゴムを二つ取り出した。それを両手にひとつずつ持って構える。
「ハイッ!」
例の気合とともに、次の手品が始まった。
その後も、拓哉はえんえんと手品を続けていた。
しかし、得意なネタがつきてきたのか、しだいにつまらなくなっている。
雄治は、ときどき拓哉から目を離して、窓の外をながめた。
外はすっかり暗くなっている。かすかに見える見知らぬ風景が、急に不安に感じられてきた。
雄治が興味を失うのを恐れるかのように、拓哉は次々に新しい手品を繰り出していた。
六時四十分ちょうどに、終点の千葉駅に到着した。塾では、ちょうど一時間目の算数がおわったころだ。
電車がとまるのをまちかねていたように、乗客はわれ先にと降りていった。みんな足早に急いでいる。
そのまま車両に残っているのは、もちろん雄治と拓哉だけだ。ガランとした車内は、急にさみしくなってしまった。
窓越しに、別のホームにも電車がとまっているのが見えた。きっと、そっちが先発に違いない。
「行こう」
雄治は拓哉を誘って電車を降りると、階段に向かって走り出した。
帰りの電車は、驚くほどすいていた。六両編成全体で、雄治と拓哉の他には、五、六人しかお客が乗っていない。
六時四十八分発。
雄治たちの駅には、八時少し前に着くことになる。塾から帰る時刻とピッタリなので、雄治にはちょうどよかった。
雄治たちは、誰もいない三両目に乗り込んだ。
「ヤッホー!」
拓哉はすぐに靴を脱いで座席にあがると、そこからつりかわへ飛びついた。
両手でぶら下がり、足をぶらぶらさせる。半ズボンからシャツがはみでて、おへそまでまる見えだ。
雄治の方は座席に乗らなくても、ちょっとジャンプすればつりかわに手が届く。拓哉のよこで同じように足をぶらつかせてみた。
「よいしょっと」
拓哉はつりかわの位置まで腰を引き上げると、あざやかに前転をしてみせた。最近、運動不足で太り気味の雄治には、とてもそんなまねはできない。
ここからは、拓哉の一人舞台になった。
両手で交互につりかわにつかまりながら、まるでうんていでもやるように車内を移動してみせた。
はじまでたどり着くと、こんどは左右をつなぐパイプを器用に伝わって反対側へ移る。そして、またうんていで雄治のそばまで戻ってきた。どうも、いつもやり慣れているって感じだ。
拓哉がポンと座席に飛びおりると、パッとホコリが舞いあがった。
「ユウちゃん、見てて、見てて」
拓哉はある駅についたときに、ホームへとびだしていった。
ドアから顔を出してみると、電車の先頭へむかって走っている。
発車のベルが鳴り出した。
すると拓哉は、二両ほど前のドアに、急いでとびこんだ。
「なんだよ?」
車内通路をもどってきた拓哉に、雄治はたずねた。
「うん、停車中にどこまでいけるかためしてるんだ」
まだ少し息をはずませながら、拓哉はそうこたえた。
「よーし。それなら競争しよう」
これなら雄治にもできそうなので、はりきっていった。
電車が、次の駅のホームに滑り込んでいく。
しだいにゆっくりになって、やがて完全に止まった。
シュッ。
ドアが開くと同時に、二人は外へ飛び出していった。どこまで遠くのドアに行けるかの勝負だ。
リリリリリ……。
ホームには、発車のベルが鳴り響いている。すぐに雄治が少しリードした。鉄棒はだめだけれど、かけっこなら自信がある。
ベルが鳴りやんだと同時に、雄治はすぐそばのドアに飛び込んだ。
しかし、拓哉はそのドアには入らずに、通りすぎていく。
ドアがしまる。その瞬間、拓哉は一つ先のドアを、スルッとすり抜けていた。
「勝った、勝った」
拓哉は大喜びだ。
(クソーッ。まるでサルみたいに、すばしっこいやつだな)
次のホームでは、雄治は作戦を変更した。
拓哉を先に行かして、後ろにつける。そして、拓哉がドアに入ろうとしてから、全速力で追い抜いて、次のドアから乗ろうというのだ。
拓哉は、後ろにピタリとくっついた雄治を少しも気にしないで、マイペースで走っている。拓哉より足の速い雄治は、余力充分だ。
(よし、これならラストスパートで勝負できる)
……リリリリ。
ベルが鳴りやんだ。
しかし、拓哉はドアに入ろうとしなかった。雄治は不安になって、スビードをゆるめた。
シュッ。
ドアの音と同時に、雄治は車内に飛び込んだ。
拓哉は、まだけんめいに次のドアに向かっている。
いくらなんでも、これは無理だ。ドアは拓哉の目の前で、完全にしまってしまった。
ぼうぜんとしている拓哉を残して、電車はゆっくりと走り出した。
「次の駅で待ってるぞーっ」
雄治はけんめいに、口の形で拓哉に知らせようとした。拓哉は不安そうな顔で、こちらを見送っている。
約束どおりに、雄治は次の駅で電車を降りると、拓哉がやって来るのを待っていた。
ようやく次の電車が来た。
でも、拓哉は乗っていなかった。
その次の電車にも、やっぱりいない。
(拓哉のやつ、しょうがないな。あの駅でまだ待ってるのかなあ?)
どうやら、雄治のいったことが、わからなかったらしい。
とうとう雄治は、ひとつ前の駅へ戻ってみることにした。
雄治を乗せた下り電車が動き出した時、上りにも次の電車が入ってきた。
「あっ!」
拓哉がその電車に乗っているのに気づいて、雄治はびっくりしてしまった。
でも、どうすることもできない。
拓哉は上り電車を飛び降りると、雄治の乗っている下り電車をけんめいに追いかけ始めた。
「拓哉っ! そこで待ってろよ。すぐ戻ってくるから」
雄治は、今度は窓を開けて大声で叫んだ。冷たい十二月の夜の空気が、ドッと車内に押し寄せてくる。
拓哉はようやく走るのをやめると、こちらに向かって大きくうなずいた。
雄治は窓を閉めながら、そばにすわっている人工毛皮のえりの付いた服を着たおばさんが、めいわくそうに顔をしかめているのに気づいた。
拓哉との行き違い騒動のために、雄治たちがもとの駅にたどり着いたのは八時半を過ぎていた。ふだんなら、もう家へついている時間だ。
雄治は拓哉へのサヨナラもそこそこに、家に向かって走り出そうとした。
「ユウちゃん」
拓哉が大声でよびとめた。
「なんだよ?」
雄治が振り返ると、拓哉はニッコリ笑いながらさけんだ。
「明日も遊ぼうよ!」
雄治はびっくりして、しばらく拓哉の顔をみつめていた。
「うん」
やがて雄治は小さくうなずいた。
「ユウちゃん、バーイ」
拓哉はそういうと、反対方向へ走っていった。
(明日も遊ぼうよ!)
拓哉の言葉を頭の中で繰り返しながら、雄治は家へ急いだ。
次の朝、雄治が教室へ入っていくと、まっさきに拓哉がわらいかけてきた。
(明日も遊ぼうよ!)
昨日の拓哉のことばがよみがえってくる。
でも、雄治はぎこちない笑顔をうかべて、目をそらしてしまった。拓哉との約束を、すっぽかすつもりだったからだ。
昨日の晩、家に帰ってから、パパとママに、雄治はこっぴどくしかられていた。塾に行かなかったことが、塾からの連絡でばれていたのだ。
今日は、もうとてもサボれない。
授業中も、時々、拓哉は雄治の方を親しげに見ていた。
(今日も遊ぼうよ!)
拓哉の顔が、そういっているように思えてならなかった。雄治は、そのたびにすぐに目をそらしてしまった。
でも、雄治にははっきりと約束をことわることはできなかった。拓哉のがっかりする顔を見る勇気がなかったからだ。
休み時間には、雄治は拓哉と顔をあわせないように、他のクラスへ行ったり、ふだんはめったに行かない図書室をのぞいたりしていた。拓哉に、昨日した約束の念をおさせないためだった。
ようやく、学校が終わった。雄治にとって、すごく長く感じられた一日だった。
「先生、さようなら」
「さよなら」
みんなが、担任の先生にあいさつをしている。雄治だけは、帰りのあいさつもそこそこに、ランドセルをつかんで教室をとび出していった。拓哉につかまらないためだ。
そんな雄治を、拓哉はふしぎそうな顔をして見送っていた。
四時になると、雄治は塾へ行くために家を出た。いつもより一時間も早い。ふだんなら、ギリギリまでテレビを見ている。ママにせかされてから、いやいや出かけるのだ。これも、駅で拓哉と顔を合わせたくないからだった。
塾の教室に入れるのは、五時半からだ。これでは、一時間近く、塾の前の道路で待たなければならない。
(それでもかまわない)
と、雄治は思っていた。
いつものように、例のパン屋で肉まん二個とカレーパン一個を買った。
でも、今日はすぐには食べないで、店を出てそのまま改札口に向かった。
頭上で、ちょうど上り電車が到着する音が聞こえる。雄治は、急いで階段を三段飛びでかけ上がっていった。
「ヤッホー」
いきなり声をかけられた。
いた。なんと拓哉が、もう来ていたのだ。
雄治はぼうぜんとして、ホームに立ちつくした。
上り電車は雄治を残したまま、さっさと行ってしまった。
「ユウちゃん、今日の方が長く遊べるね」
拓哉は、ニコニコと笑いながらいった。
「食べる?」
雄治は、そんな拓哉に肉まんを一個手渡した。
「えっ、いいの?」
拓哉は肉まんを受け取りながら、目を輝かせている。
そんな拓哉を見ながら、雄治は、困ったような、でもちょっとだけうれしいような気持ちがしていた。
明日も遊ぼうよ! | |
平野 厚 | |
平野 厚 |