塾も部活も何もない、ゆっくり休める久しぶりの日曜日。目を覚ましたのは、とっくにお昼を過ぎているころだった。
何もやる気が起こらない。そのままベッドの中でグズグズしていたら、いつのまにか二時近くになってしまった。さすがに腹が減ってきて、グルグルと音を立てている。
エイヤと気合を入れて、ようやくベッドから起き上がった。
パジャマのままキッチンへ行くと、テーブルの上には卵焼きとハムサラダが置いてある。月末だから、かあさんは気の毒にも休日出勤なのだろう。
冷凍のスパゲッティーをチンしている間に、インスタントのスープにお湯を注ぐと、朝昼兼用の食事が完成だ。
ベランダ越しに見える外は、気持ちよく晴れ上がっている。五月晴れってやつだろう。
一人でもくもくと食べるだけだから、あっという間に終わってしまう。
洗うのが面倒なので、お皿やコップなんかは流しに突っ込んでおく。かあさんが、夕食の時の食器と一緒にやってくれるだろう。ちょっと後ろめたい気がしたけれど、どうにもやる気が起きない。
洗面所で歯をみがいて顔をあらったら、少しはさっぱりとした。
それでも、いぜんとして何もやる気が起こらない。外へ遊びに行く気も、コミックスを読む気にもなれない。友達にスマホ連絡する気さえ、起きてこなかった。
パジャマをぬぎかけたまま、居間のソファーねころがった。おなかがくちくなったので、また眠ってしまいそうだ。
何気なくテレビをつけたら、ちょうど競馬中継が始まるところだった。
どうやら、今日はダービーが行われるらしい。競馬に特に関心があるわけではないけれど、このレースの名前は聞いたことがある。ソファーの手すりに足を乗せて寝そべりながら、中継を見ることにした。
画面いっぱいに、初夏のあたたかな日差しがあふれている。薄緑のじゅうたんをしきつめたようなコースも、大きな弧を描いて続いていく白い柵も、ぎっしりとつめかけた人々のシャツも、明るい日の光の中ですべてが輝いて見える。
ダービーのひとつ前のレースが始まった。カラフルな衣装をまとったジョッキーを背に、黒やこげ茶や栗色のサラブレッドがけんめいに走っていく。
集団が直線に差しかかった。観客席から歓声がわきおこる。サラブレッドたちは、ひとかたまりのままゴールを過ぎて行った。
ゴール前では、紙ふぶきが舞っている。どうやら、ハズレ馬券を投げているらしい。
「三連単で十万馬券が出ました! 3番12番7番で、2236.8倍」
アナウンサーが、興奮気味に叫んでいる。
わずか百円の馬券が、二十二万三千六百八十円にもなったというのだ。
(千円買ってたら、二百二十三万六千八百円)
頭の中ですばやく計算してみた。
テレビの中から、大喜びしている人たちの歓声と、がっかりしているずっと多くの人たちのため息とが聞こえてきそうだ。
「いよいよ、ダービーのパドックです」
放送席のふんいきも、明るくはなやいでいる。
白いタキシードを着た司会者も、花をあしらった大きな帽子をかぶった女性アシシタントも、ダービーというお祭りを前にしてにぎやかにはしゃいでいた。
画面が切り替わった。
ゼッケンをつけたサラブレッドが、手綱を引かれて歩いている。楕円形のパドックを番号順に十八頭が一列に続いている。
さまざまな毛色をしたサラブレッドたちが、あるものはゆっくりと、あるものは小走りに歩いていた。
さまざまな模様の衣装を着たジョッキーたちが、いっせいにサラブレッドにまたがった。
「わーっ」
場内の興奮が高まってくる。
(XXXX、がんばれ!)
(XXXX、参上!)
馬名に思い思いの言葉がそえたいくつもの横断幕が周囲にはりめぐらされて、その外側を大勢の人たちが取り囲んでいる。ここにも、初夏の日差しがあたたかくあふれていた。
でも、ぼくはもうひとつの競馬場の風景を知っていた。
そこは、ひどく寒くて暗い場所だった。
寒いふきっさらしの中で、ぼくはせいいいっぱいの声をあげて泣いていた。まだ小さいころのぼくだ。4才か、5才ぐらいだっただろうか。
よれよれになった新聞を手に、あたりを歩き回っている男たちは、そんなぼくの方をチラリと見ているのだが、誰一人として足をとめてくれない。
あたりには、たばこやほこりに混じって、かすかに潮の香りがした。ぼくは、海のそばの競馬場へ連れてこられていたみたいなのだ。来る途中のモノレールから、近くに海が見えたような気がする。
ピューッと冷たい風が吹いてきた。風に巻き上げられたはずれ馬券が、ぼくの頭の上でクルクル回っている。
「馬鹿だなあ、だからそばにいろって、言っただろ」
遠くから人々をかきわけるようにして、ようやくとうさんがやってきた。くしゃくしゃになった新聞を片手に、反対の手でぼくの頭をゴシゴシとなでた。そして、ヒョイとぼくを肩車すると、人ごみの方へ歩き出した。
大勢の人たちの頭越しに、馬たちが走ってくるのが見えてきた。
ワーッ。
歓声がわきあがる。
馬たちがかけぬけていったとき、とうさんはポケットから馬券を取り出すと、だまって破り捨てた。
「腹へったな、なんか食うか?」
とうさんに聞かれて、ぼくはコクンとうなずいた。
ぼくを肩車したまま、とうさんは建物の外へ連れて行った。そこには、食べ物を売っている売店がならんでいる。
とうさんは、その一軒の店先の椅子にぼくをおろすと、ポケットからさいふを取り出した。そして、それをさかさまにして、しょうゆやビールがこぼれたままになっているテーブルの上にぶちまけた。
一円玉や十円玉がほとんどで、百円玉は少ししかない。
その中に、四角い小さな紙が混じっていた。
「帰りの切符だよ。これまですっちまうと帰れなくなるからな」
とうさんは、切符を大事そうに胸のポケットにしまった。
とうさんは、小銭の山から十円玉と百円玉を拾い出すと、手の中でジャラジャラさせながら、窓口のそばまで歩いていった。壁のメニューをしばらくにらんでいたが、やがて窓口のおばさんにいった。
「スイトン、ひとつ」
しばらくして、四角いオレンジ色のおぼんに、あたたかそうな湯気を立てたどんぶりをのせて戻ってきた。
「ここの食いもんも、高くなっちまったな。一杯しか買えなかった」
ぼくが困ったような顔をしていると、
「おれはおなかがすいてないから、おまえが食べな」
と、とうさんはいった。
とうさんは割り箸を割ってどんぶりにのせると、こちらに押してよこした。
薄茶色のおつゆの中に、ほうれん草やだいこんや白いおもちのような物が浮かんでいる。プーンと、おしょうゆのおいしそうなかおりがしていた。
ぼくはどんぶりに顔をつっこんで、おつゆを飲もうとした。
(アチチ!)
熱すぎて、とても食べられない。
「ちょっと、待ってな」
とうさんはまた窓口にいくと、おちゃわんとスプーンをもってきた。
スプーンで少しだけ中身をおちゃわんに移すと、
「フーフーして、食べるんだぞ」
といって、手渡してくれた。
ぼくは本当にフーフーと息をふきかけてから、スイトンを食べ始めた。
白いかたまりはおもちではなくて、うどんのかたまりのようでへんなかんじだったけれど、おつゆも野菜もちょっとだけ入っていた鶏肉も、あたたかくてすごくおいしかった。
ふと気がつくと、とうさんはたばこをすいながら、夢中で食べているぼくのことをうれしそうな顔をして見ていた。
「おとうさんも、食べる?」
ぼくがたずねると、
「おれはいいから、もっと食べな」
とうさんは、もういちどおちゃわんに少しよそってくれた。どんぶりの中には、まだ半分くらい残っている。
少しさめてきたのか、今度はすぐに食べ終わった。まだ、おなかはすいている。
でも、ぼくはいった。
「おなかいっぱいになっちゃった」
「もういいのか?」
ぼくがコクンとうなずくと、とうさんはどんぶりに残っていたスイトンをすごいいきおいで食べ始めた。そして、あっという間に、おつゆ一滴も残さずにたいらげた。
「もう帰ろうな」
立ちあがったとうさんの手を、ぼくは急いでギュッと握り締めた。
ぼくが小学校に上がる前に、とうさんは突然家からいなくなった。ハンコを押した離婚届一枚を残して、失踪してしまったんだそうだ。
かあさんに言わせると、
「あちこちに借金の山をこしらえてしまっていたから、離婚してこちらに迷惑が及ばないためにしたんだろうね。それがあの人のせいいいっぱいの思いやりだったのよ」
って、ことになる。
かあさんは口癖のように、
(結婚はもうこりごりだ)
と、言って、ぼくとの二人きりの生活をずっと続けている。
そのくせ、とうさんに対してそれほど恨みに思ってもいないらしく、あまり悪口は聞いたことはない。
それは、かあさんのさばさばした性格に原因があるのかもしれない。あっさりととうさんをあきらめると、かあさんはすでに始めていた保険の営業の仕事に専念していった。けっこう元から向いていたみたいで、今では全国でもトップクラスの営業成績らしい。
ぼくも、とうさんに恨みも未練もあるわけではない。
でも、たまに母方のおじいちゃんに、
(浩子は悪い男にだまされた)
なんて、とうさんの悪口をいわれたりすると、なんだか顔がこわばってしまう。
ぼくのとうさんの記憶は、もうはっきりしなくなっていた。遊園地へ一緒に行ったり、入園式にとうさんが来たり、だのの記憶がぼんやりとはあるのだが、それらは写真やビデオによって、後からうえつけられたものかもしれない。
うちでは、テレビドラマの離婚家庭のようには、写真から何からとうさんの物がすべて捨てられてしまったわけではない。だから、見ようと思えば今でもとうさんの姿を見ることができた。それが、頭の中でごっちゃになっていたのかもしれない。
その中で、写真もビデオもないのに、すごく鮮明に残っている記憶。それが、競馬場でのものだった。
競馬場の記憶は、他にもたくさんあった。どうやら、とうさんは競馬場へ行く時に、いつもぼくを連れて行っていたようなのだった。それが、せめてものぼくとのふれあいの時間だったのかもしれない。
歓声の中をかけていく馬たち。とうさんとさくに寄りかかるようにしてながめていると、ずいぶん遠くからヒズメの音が聞こえてきて、やがて目の前をすごいスピードでかけぬけていった。
パドックの中を、手綱を引かれてグルグルまわっている馬たち。ぼくはとうさんに肩車されて、大勢の人たちのうしろからながめていた。あたたかい糞のにおいが今でも記憶に残っている。
ある時だった。
「やった、やった!」
とうさんが興奮して叫んでいた。
「どうしたの?」
わけがわからずに、ぼくがたずねると、
「万馬券だあ!」
とうさんは、にぎりしめていた馬券をぼくの方に突き出した。
「まんばけん?」
「そうだ。大当たりだあ。いくらつくかなあ」
とうさんは、コースの反対側の大きな電光掲示板の方をながめている。
「やった、三万二千二百円だ」
ぼくがキョトンしてみていると、
「この千円の馬券が、三十二万二千円になったんだぜ」
「すげえ!」
わけもわからずに、ぼくは答えていた。
とうさんは、ぼくの手を引いて払い戻しの機械に並んだ。
「新宿まで」
とうさんは、競馬場の正門でタクシーに乗りこむと、大きな声で運転手にいった。
いつもなら、帰りにはスッカラカンになっていて、往きに買っておいた切符で電車を乗り継いで帰っているところだ。
「だんな、いい景気ですね。勝ったんですか?」
「うん、今日もぜんぜんだめでさあ。それがさいごの12レース」
「えっ。じゃあ、あの馬券、取ったんですか?」
「おお、6番、13番、8番よお」
「そりゃあ、どうもおめでとうございます」
とうさんは、ごきげんで運転手と話をしている。
やがて、車はにぎやかな場所に着いた。
タクシーを降りるときに、とうさんは、
「釣りはいいから」
とかいって、一万円札を運転手に押し付けていた。
とうさんは、大きな看板のかかったレストランにぼくを連れていった。そして、テーブルにならべきれないくらいのごちそうを取ってくれた。
ビーフステーキ、エビフライ、とんかつ、サラダ、……。
でも、それらがどんな味だったかは、もう忘れてしまった。もしかすると、いつか海の近くの競馬場で食べたスイトンの方がおいしかったのかもしれない。
その後、とうさんはきれいなおねえさんがいっぱいいる場所に、ぼくを連れていった。ふだんはお酒を飲まないとうさんは、一番きれいなおねえさんにつがれたビール一杯で、真っ赤になってしまった。
そして、ぼくにむかって、
「おかあさんには内緒だぞ」
と言って、わらっていた。
ふと気がつくと、いつのまにか競馬中継は終わっていた。
ぼんやりしていたので、ダービーの結果は覚えていない。ただ、アナウンサーの絶叫と、観衆の大歓声が遠くに聞こえたような気がした。
でも、きっと今日も馬券をめぐって、泣き笑いをしている人たちがいることだろう。
テレビは、次のゴルフの番組が始まろうとしていた。
リモコンでテレビを消した。
(競馬場かあ)
遠く離れたこの部屋にいることが、なんだか少し物足りない気分だった。
そして、急に競馬場へ行きたくなってしまった。
ぼくは、思わず椅子から立ち上がっていた。
もうあれから、十年近くもたってしまっている。どうやって競馬場へ行けばいいかさえもわからない。だいいち、中学生だけで競馬場に入れるのかどうかさえあやしかった。
それに、今から行ったのでは、最終レースにも間に合わないだろう。きっと、今ごろは、大勢の人たちが競馬場からはき出され始めているに違いない。
でも、ぼくはどうしても競馬場に行きたかった。
そして、そこでまた迷子になろう。ぼくが競馬場をさまよっていたら、どこかでとうさんに会えるような気がした。万馬券をにぎりしめて、あの笑顔を浮かべて。
何もやる気が起こらない。そのままベッドの中でグズグズしていたら、いつのまにか二時近くになってしまった。さすがに腹が減ってきて、グルグルと音を立てている。
エイヤと気合を入れて、ようやくベッドから起き上がった。
パジャマのままキッチンへ行くと、テーブルの上には卵焼きとハムサラダが置いてある。月末だから、かあさんは気の毒にも休日出勤なのだろう。
冷凍のスパゲッティーをチンしている間に、インスタントのスープにお湯を注ぐと、朝昼兼用の食事が完成だ。
ベランダ越しに見える外は、気持ちよく晴れ上がっている。五月晴れってやつだろう。
一人でもくもくと食べるだけだから、あっという間に終わってしまう。
洗うのが面倒なので、お皿やコップなんかは流しに突っ込んでおく。かあさんが、夕食の時の食器と一緒にやってくれるだろう。ちょっと後ろめたい気がしたけれど、どうにもやる気が起きない。
洗面所で歯をみがいて顔をあらったら、少しはさっぱりとした。
それでも、いぜんとして何もやる気が起こらない。外へ遊びに行く気も、コミックスを読む気にもなれない。友達にスマホ連絡する気さえ、起きてこなかった。
パジャマをぬぎかけたまま、居間のソファーねころがった。おなかがくちくなったので、また眠ってしまいそうだ。
何気なくテレビをつけたら、ちょうど競馬中継が始まるところだった。
どうやら、今日はダービーが行われるらしい。競馬に特に関心があるわけではないけれど、このレースの名前は聞いたことがある。ソファーの手すりに足を乗せて寝そべりながら、中継を見ることにした。
画面いっぱいに、初夏のあたたかな日差しがあふれている。薄緑のじゅうたんをしきつめたようなコースも、大きな弧を描いて続いていく白い柵も、ぎっしりとつめかけた人々のシャツも、明るい日の光の中ですべてが輝いて見える。
ダービーのひとつ前のレースが始まった。カラフルな衣装をまとったジョッキーを背に、黒やこげ茶や栗色のサラブレッドがけんめいに走っていく。
集団が直線に差しかかった。観客席から歓声がわきおこる。サラブレッドたちは、ひとかたまりのままゴールを過ぎて行った。
ゴール前では、紙ふぶきが舞っている。どうやら、ハズレ馬券を投げているらしい。
「三連単で十万馬券が出ました! 3番12番7番で、2236.8倍」
アナウンサーが、興奮気味に叫んでいる。
わずか百円の馬券が、二十二万三千六百八十円にもなったというのだ。
(千円買ってたら、二百二十三万六千八百円)
頭の中ですばやく計算してみた。
テレビの中から、大喜びしている人たちの歓声と、がっかりしているずっと多くの人たちのため息とが聞こえてきそうだ。
「いよいよ、ダービーのパドックです」
放送席のふんいきも、明るくはなやいでいる。
白いタキシードを着た司会者も、花をあしらった大きな帽子をかぶった女性アシシタントも、ダービーというお祭りを前にしてにぎやかにはしゃいでいた。
画面が切り替わった。
ゼッケンをつけたサラブレッドが、手綱を引かれて歩いている。楕円形のパドックを番号順に十八頭が一列に続いている。
さまざまな毛色をしたサラブレッドたちが、あるものはゆっくりと、あるものは小走りに歩いていた。
さまざまな模様の衣装を着たジョッキーたちが、いっせいにサラブレッドにまたがった。
「わーっ」
場内の興奮が高まってくる。
(XXXX、がんばれ!)
(XXXX、参上!)
馬名に思い思いの言葉がそえたいくつもの横断幕が周囲にはりめぐらされて、その外側を大勢の人たちが取り囲んでいる。ここにも、初夏の日差しがあたたかくあふれていた。
でも、ぼくはもうひとつの競馬場の風景を知っていた。
そこは、ひどく寒くて暗い場所だった。
寒いふきっさらしの中で、ぼくはせいいいっぱいの声をあげて泣いていた。まだ小さいころのぼくだ。4才か、5才ぐらいだっただろうか。
よれよれになった新聞を手に、あたりを歩き回っている男たちは、そんなぼくの方をチラリと見ているのだが、誰一人として足をとめてくれない。
あたりには、たばこやほこりに混じって、かすかに潮の香りがした。ぼくは、海のそばの競馬場へ連れてこられていたみたいなのだ。来る途中のモノレールから、近くに海が見えたような気がする。
ピューッと冷たい風が吹いてきた。風に巻き上げられたはずれ馬券が、ぼくの頭の上でクルクル回っている。
「馬鹿だなあ、だからそばにいろって、言っただろ」
遠くから人々をかきわけるようにして、ようやくとうさんがやってきた。くしゃくしゃになった新聞を片手に、反対の手でぼくの頭をゴシゴシとなでた。そして、ヒョイとぼくを肩車すると、人ごみの方へ歩き出した。
大勢の人たちの頭越しに、馬たちが走ってくるのが見えてきた。
ワーッ。
歓声がわきあがる。
馬たちがかけぬけていったとき、とうさんはポケットから馬券を取り出すと、だまって破り捨てた。
「腹へったな、なんか食うか?」
とうさんに聞かれて、ぼくはコクンとうなずいた。
ぼくを肩車したまま、とうさんは建物の外へ連れて行った。そこには、食べ物を売っている売店がならんでいる。
とうさんは、その一軒の店先の椅子にぼくをおろすと、ポケットからさいふを取り出した。そして、それをさかさまにして、しょうゆやビールがこぼれたままになっているテーブルの上にぶちまけた。
一円玉や十円玉がほとんどで、百円玉は少ししかない。
その中に、四角い小さな紙が混じっていた。
「帰りの切符だよ。これまですっちまうと帰れなくなるからな」
とうさんは、切符を大事そうに胸のポケットにしまった。
とうさんは、小銭の山から十円玉と百円玉を拾い出すと、手の中でジャラジャラさせながら、窓口のそばまで歩いていった。壁のメニューをしばらくにらんでいたが、やがて窓口のおばさんにいった。
「スイトン、ひとつ」
しばらくして、四角いオレンジ色のおぼんに、あたたかそうな湯気を立てたどんぶりをのせて戻ってきた。
「ここの食いもんも、高くなっちまったな。一杯しか買えなかった」
ぼくが困ったような顔をしていると、
「おれはおなかがすいてないから、おまえが食べな」
と、とうさんはいった。
とうさんは割り箸を割ってどんぶりにのせると、こちらに押してよこした。
薄茶色のおつゆの中に、ほうれん草やだいこんや白いおもちのような物が浮かんでいる。プーンと、おしょうゆのおいしそうなかおりがしていた。
ぼくはどんぶりに顔をつっこんで、おつゆを飲もうとした。
(アチチ!)
熱すぎて、とても食べられない。
「ちょっと、待ってな」
とうさんはまた窓口にいくと、おちゃわんとスプーンをもってきた。
スプーンで少しだけ中身をおちゃわんに移すと、
「フーフーして、食べるんだぞ」
といって、手渡してくれた。
ぼくは本当にフーフーと息をふきかけてから、スイトンを食べ始めた。
白いかたまりはおもちではなくて、うどんのかたまりのようでへんなかんじだったけれど、おつゆも野菜もちょっとだけ入っていた鶏肉も、あたたかくてすごくおいしかった。
ふと気がつくと、とうさんはたばこをすいながら、夢中で食べているぼくのことをうれしそうな顔をして見ていた。
「おとうさんも、食べる?」
ぼくがたずねると、
「おれはいいから、もっと食べな」
とうさんは、もういちどおちゃわんに少しよそってくれた。どんぶりの中には、まだ半分くらい残っている。
少しさめてきたのか、今度はすぐに食べ終わった。まだ、おなかはすいている。
でも、ぼくはいった。
「おなかいっぱいになっちゃった」
「もういいのか?」
ぼくがコクンとうなずくと、とうさんはどんぶりに残っていたスイトンをすごいいきおいで食べ始めた。そして、あっという間に、おつゆ一滴も残さずにたいらげた。
「もう帰ろうな」
立ちあがったとうさんの手を、ぼくは急いでギュッと握り締めた。
ぼくが小学校に上がる前に、とうさんは突然家からいなくなった。ハンコを押した離婚届一枚を残して、失踪してしまったんだそうだ。
かあさんに言わせると、
「あちこちに借金の山をこしらえてしまっていたから、離婚してこちらに迷惑が及ばないためにしたんだろうね。それがあの人のせいいいっぱいの思いやりだったのよ」
って、ことになる。
かあさんは口癖のように、
(結婚はもうこりごりだ)
と、言って、ぼくとの二人きりの生活をずっと続けている。
そのくせ、とうさんに対してそれほど恨みに思ってもいないらしく、あまり悪口は聞いたことはない。
それは、かあさんのさばさばした性格に原因があるのかもしれない。あっさりととうさんをあきらめると、かあさんはすでに始めていた保険の営業の仕事に専念していった。けっこう元から向いていたみたいで、今では全国でもトップクラスの営業成績らしい。
ぼくも、とうさんに恨みも未練もあるわけではない。
でも、たまに母方のおじいちゃんに、
(浩子は悪い男にだまされた)
なんて、とうさんの悪口をいわれたりすると、なんだか顔がこわばってしまう。
ぼくのとうさんの記憶は、もうはっきりしなくなっていた。遊園地へ一緒に行ったり、入園式にとうさんが来たり、だのの記憶がぼんやりとはあるのだが、それらは写真やビデオによって、後からうえつけられたものかもしれない。
うちでは、テレビドラマの離婚家庭のようには、写真から何からとうさんの物がすべて捨てられてしまったわけではない。だから、見ようと思えば今でもとうさんの姿を見ることができた。それが、頭の中でごっちゃになっていたのかもしれない。
その中で、写真もビデオもないのに、すごく鮮明に残っている記憶。それが、競馬場でのものだった。
競馬場の記憶は、他にもたくさんあった。どうやら、とうさんは競馬場へ行く時に、いつもぼくを連れて行っていたようなのだった。それが、せめてものぼくとのふれあいの時間だったのかもしれない。
歓声の中をかけていく馬たち。とうさんとさくに寄りかかるようにしてながめていると、ずいぶん遠くからヒズメの音が聞こえてきて、やがて目の前をすごいスピードでかけぬけていった。
パドックの中を、手綱を引かれてグルグルまわっている馬たち。ぼくはとうさんに肩車されて、大勢の人たちのうしろからながめていた。あたたかい糞のにおいが今でも記憶に残っている。
ある時だった。
「やった、やった!」
とうさんが興奮して叫んでいた。
「どうしたの?」
わけがわからずに、ぼくがたずねると、
「万馬券だあ!」
とうさんは、にぎりしめていた馬券をぼくの方に突き出した。
「まんばけん?」
「そうだ。大当たりだあ。いくらつくかなあ」
とうさんは、コースの反対側の大きな電光掲示板の方をながめている。
「やった、三万二千二百円だ」
ぼくがキョトンしてみていると、
「この千円の馬券が、三十二万二千円になったんだぜ」
「すげえ!」
わけもわからずに、ぼくは答えていた。
とうさんは、ぼくの手を引いて払い戻しの機械に並んだ。
「新宿まで」
とうさんは、競馬場の正門でタクシーに乗りこむと、大きな声で運転手にいった。
いつもなら、帰りにはスッカラカンになっていて、往きに買っておいた切符で電車を乗り継いで帰っているところだ。
「だんな、いい景気ですね。勝ったんですか?」
「うん、今日もぜんぜんだめでさあ。それがさいごの12レース」
「えっ。じゃあ、あの馬券、取ったんですか?」
「おお、6番、13番、8番よお」
「そりゃあ、どうもおめでとうございます」
とうさんは、ごきげんで運転手と話をしている。
やがて、車はにぎやかな場所に着いた。
タクシーを降りるときに、とうさんは、
「釣りはいいから」
とかいって、一万円札を運転手に押し付けていた。
とうさんは、大きな看板のかかったレストランにぼくを連れていった。そして、テーブルにならべきれないくらいのごちそうを取ってくれた。
ビーフステーキ、エビフライ、とんかつ、サラダ、……。
でも、それらがどんな味だったかは、もう忘れてしまった。もしかすると、いつか海の近くの競馬場で食べたスイトンの方がおいしかったのかもしれない。
その後、とうさんはきれいなおねえさんがいっぱいいる場所に、ぼくを連れていった。ふだんはお酒を飲まないとうさんは、一番きれいなおねえさんにつがれたビール一杯で、真っ赤になってしまった。
そして、ぼくにむかって、
「おかあさんには内緒だぞ」
と言って、わらっていた。
ふと気がつくと、いつのまにか競馬中継は終わっていた。
ぼんやりしていたので、ダービーの結果は覚えていない。ただ、アナウンサーの絶叫と、観衆の大歓声が遠くに聞こえたような気がした。
でも、きっと今日も馬券をめぐって、泣き笑いをしている人たちがいることだろう。
テレビは、次のゴルフの番組が始まろうとしていた。
リモコンでテレビを消した。
(競馬場かあ)
遠く離れたこの部屋にいることが、なんだか少し物足りない気分だった。
そして、急に競馬場へ行きたくなってしまった。
ぼくは、思わず椅子から立ち上がっていた。
もうあれから、十年近くもたってしまっている。どうやって競馬場へ行けばいいかさえもわからない。だいいち、中学生だけで競馬場に入れるのかどうかさえあやしかった。
それに、今から行ったのでは、最終レースにも間に合わないだろう。きっと、今ごろは、大勢の人たちが競馬場からはき出され始めているに違いない。
でも、ぼくはどうしても競馬場に行きたかった。
そして、そこでまた迷子になろう。ぼくが競馬場をさまよっていたら、どこかでとうさんに会えるような気がした。万馬券をにぎりしめて、あの笑顔を浮かべて。
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