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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ぼくの探偵たち

2020-02-16 10:47:50 | 作品
「フンフンフン、ハはハチミツのハ、ニはニンジンのニ、ホは……」
 ぼくは、タンポポの花をふりふり、ハニホの歌を歌いながら、ウカレ山からの一本道を下りていきました。
 ウカレ山は、アニマン市のはずれにある小さな山です。毎年、春になると、横から見た形が三角形の山は、一面サクラの花におおわれて、まるでピンクのオムスビみたいです。
 今年も、同じクラスのコブタくんやウサギさんたち、それに幼なじみのジュンちゃんと、お花見ピクニックへ行くことになっていました。今日はその下見に来たのです。
ふもとの方では、もうサクラはチラホラ咲き始めていました。これから、だんだんと上へ向かって花が開いていくのでしょう。頂上付近のサクラの木も、いっぱいにツボミをつけていました。
 あと一週間。そう、来週の日曜日にはちょうど満開になりそうです。

ふもと近くまで下りてきたとき、タヌキのうらないばあさんに出会いました。
「こんにちは、おばあさん」
 ぼくは大きな声であいさつすると、手にしたタンポポの花をふってみせました。
「あら、タツルさん、こんにちは」
 うらないばあさんは、ヨッコラショとこしをかがめてあいさつしました。
「フンフンフン、ハはハチミツのハ、……」
 また歌い始めようとしたとき、うらないばあさんにうしろから呼びとめられました。
「おやおや、タツルさん、たいへんだこと」
「えっ、なーに?」
 ぼくがうらないばあさんの方にふりむくと、
「タツルさん、今度の土曜日に、おまえさんの一番大切なものを盗まれるよ」
「えっ、大切なものって?」
「そこまではわからないよ。でも、おまえさんの顔を見ていたら、三つのものが浮かんできたよ。リンゴとシャボンとスミレさ」
 タヌキのうらないばあさんはそれだけをいうと、スタスタと山のほうへ行ってしまいました。

ぼくは、家へ帰ってからもいろいろと考えてみました。
(一番大切なものって、なんだろ?)
(誰に盗まれちゃうんだろ?)
 いくら考えてもわかりません。そこで、ぼくの探偵たちに相談することにしました。

机の一番上の引出しから金の鈴を取り出すと、一回だけ鳴らしました。
 チリリリン。
 きれいな鈴の音がまだ消えないうちに、大きな茶色のかたまりが窓から飛びこんできました。
 バタン、ドシン、ガチャン。
 すごい勢いで突っ込んで机にぶつかりました。机の上の筆箱、本立て、電気スタンド、読みかけのコミックスなんかが、みんな床に落っこちてしまいました。
 茶色のかたまりは、落っこちたものの中からなんとかはいだすと、きちんとすわって前足で敬礼しました。ふさふさの茶色い毛の中に、真っ黒な眼だけがギロギロと光っているムクイヌ。
 これが、一番目の探偵です。
「およびの、ゼイゼイ、鈴の音を聞いて、ハアハア、急いで、ゼイゼイ、飛んできました」
「じつはね、……」
 ぼくはタヌキのうらないばあさんの不吉な予言について、ムクイヌ探偵に説明しました。ムクイヌ探偵は、鼻をピクピクさせながら話を聞いています。
「一番大切なものって、なんだろ?」
「さて、何でございましょうな。私でしたらこのメダル」
 ムクイヌ探偵は、首輪にぶらさがっている金メダルをチャラつかせながらいいました。
「これは、去年、川でおぼれていた子どもを救ったときにいただきました」
「ぼくは、金メダルなんてもらったことないよ」
 ムクイヌ探偵の自慢そうな顔を見て、ぼくはちょっと腹をたてました。
「そうですか。でも、ご安心ください。私にはもう見当がついております」
 ムクイヌ探偵は、得意そうに胸を張りました。
「なんだって!」
 ぼくはびっくりして、ムクイヌ探偵の顔を見ました。
「なにしろ、リンゴといえば八百屋、シャボンといえば洗濯屋、そしてスミレといえば花屋に決まっています。これからひとっぱしり、その三人をふんじばってまいります」
 いうが早いか窓から飛び出そうとするムクイヌ探偵を、ぼくはあわててやっとの思いで捕まえました。
「待って、待って。なんだよ、リンゴとシャボンとスミレだからって、それを売っている人たちが犯人とは限らないじゃない。その三つが好きな人かもしれないし、その三つを使って何かを作っている人かもしれないよ」
 ぼくがそういうと、ムクイヌ探偵は、面目なさそうにシッポをたれて、部屋を出ていきました。

「あーあ」
 ぼくは大きなためいきを一つつくと、机の二段目の引出しから銀の鈴を取り出して、二回鳴らしました。
 チルン、チルルルン。
 鈴の音が長く尾を引いて鳴り止んでも、誰もあらわれません。ぼくがもう一度鳴らそうと鈴に手を伸ばしたとき、頭の上で声がしました。
「もう、とっくに来ていますよ」
 本棚のてっぺんに、何かが丸くうずくまっています。ベージュ色のスラリとした身体、四本の足にはこげ茶色のストッキング。とがった顔に、エメラルド色の目がチロチロと燃えています。
 そう、二番目の探偵、シャムネコでした。
(うすきみの悪い奴だな)
と、ぼくは思いました。
「それじゃあ、ご用件を聞かしていただきましょうか」
といいながら、しなやかな身体を宙におどらせて、一回クルリと宙返りをすると、部屋の真ん中に置いてあるテーブルの上に着地しました。
「じつはね、…」
 ぼくは、またタヌキのうらないばあさんの不吉な予言について、シャムネコ探偵に説明しました。
 シャムネコ探偵は、大きな伸びをしたり、耳の後ろを足でかいたり、ちっとも落ちついて人の話を聞こうとしません。
 最後に、シャムネコ探偵は、面倒くさそうにいいました。
「じゃあ、その大事なものを、金庫にでもしまっておけばいいじゃないですか」
「だから、何が大事なのかがわからないんだって、いってるんじゃないか!」
 あきれはてたぼくは、シャムネコ探偵を怒鳴りつけてやりました。
「はあ? なーんだ、それなら問題なし。あなたでさえわからないものを、犯人はもっとわかりっこない。だから、盗まれっこありませんよ」
 頭にきたぼくは、シャムネコ探偵の首根っこを捕まえて、窓から放り出しました。

「あーあ、あーあ」
 ぼくは二つためいきをつくと、机の一番下の引出しから銅の鈴を取り出して、三回鳴らしました。
 チロン、チロロン、チロロロン。
 最後の鈴の音が鳴り止んだでも、何もおきません。
(おや、どうしたんだろう)
 ぼくがしびれをきらし始めたころ、ようやくドアをノックする柔らかな音がしました。
 ドアをあけると、三番目の探偵が入ってきました。
 モグラ探偵です。
 ビロードのフロックコートを着こみ、まぶしいのかサングラスをかけています。
「失礼します」
 モグラ探偵は、もったいぶった身振りで部屋のいすに腰を下ろすと、短い足を組みました。
「じつはね、…」
 ぼくは、またまたタヌキのうらないばあさんの不吉な予言について、モグラ探偵に説明しました。
 モグラ探偵は、ピクリとも身体を動かさずに、いっしんに話を聞いているようです。
 でも、ぼくが話し終わっても、モグラ探偵はぜんぜん動こうとしません。
 そばに近寄ってのぞきこんでみると、モグラ探偵は足を組んだままスヤスヤと眠っていました。
「あーあ、あーあ、あーあ」
 ぼくはがっくりして、大きなため息を三つもつきました。

とうとう一週間がたって、予言の日がやってきてしまいました。
 ぼくは、たよりにならないけれど、もう一度三匹の探偵たちを呼ぶことにしました。
 金の鈴は、チリリリン。
 銀の鈴は、チルン、チルルルン。
 銅の鈴は、チロン、チロロン、チロロロン。
 部屋の真ん中にせいぞろいした探偵たちは、今日はまじめくさった顔をしてならんでいます。
「いよいよ、予言の日だからね。しっかり見張ってくれよ」
 ムクイヌ探偵は、さもぼくのことばを聞いているような顔をしています。
 でも、時々、隣のシャムネコ探偵に、鋭いキバを見せて脅していました。
 シャムネコ探偵のほうは、そんなムクイヌ探偵には知らんぷりで、時々、前足で顔を洗ったりしています。
 ただ、モグラ探偵だけが、いっしんに話を聞いているようです。
「それじゃあ、みんな配置に着いてくれ」
 ムクイヌ探偵は玄関の外に、シャムネコ探偵は二階のベランダに、それぞれ持ち場に向かいました。
 でも、モグラ探偵だけは、突っ立ったまま動こうとしません。
 そばに近寄って覗き込んでみると、モグラ探偵は、また立ったままスヤスヤと眠っていました。

まあ、とにかく三匹のぼくの探偵たちは、持ち場に着きました。モグラ探偵も、床下にもぐって見張っているはずです。
 ぼくは、家の中で、ベッドにもぐりこんでかくれました。
 
トントン。
 ドアが軽くノックされました。
(誰だろう?)
 探偵たちが騒がないところを見ると、怪しい者ではなさそうです。
 ぼくは、ドアの覗き穴から、そっと外をうかがいました。
(なーんだ)
 外にいたのは、幼なじみのジュンちゃんです。手には、大きなバスケットを下げています。今日のことは話してあったので、差し入れに来てくれたようです。
「ジュンちゃん、来てくれたの」
 ぼくは、うれしくなってドアを大きく開けました。
「タッちゃん、そんなにベッドにもぐりこんでばかりじゃ、だめじゃない」
 ジュンちゃんは、パジャマ姿のぼくを見ていいました。
「はい、お弁当よ」
 バスケットの中から出てきたのは、ハムに、タマゴに、チーズに、レタスに、トマトをはさんだ大きな大きなサンドイッチでした。それに、冷たい紅茶とイチゴのジェリーまでついています。
(女の子って、どんな時でも食べることだけは忘れないんだな)
 ぼくは、ジュンちゃんに感心しながら、朝から何も食べないではらぺこだったので、サンドイッチにいきおいよくかぶりつきました。
 その後も、何事もなく、時間はどんどんすぎていきました。

 ドン、ドン。
 どこかで、ドアが大きな音でノックされています。
 ふと気がつくと、あたりはすっかり明るくなっていました。いつのまにか、眠ってしまっていたようです。時計を見ると、もう日曜日の朝の八時を過ぎていました。
(やったあ、何も取られなかったじゃないか!)
 もう時間が過ぎているから、外に来たのは犯人ではないでしょう。
 それでも、そっとドアの覗き穴から除いてみました。
外にいたのは、またジュンちゃんでした。
「おはよう、タッちゃん。やっぱり大丈夫だったじゃない」
 ドアを開けると、ジュンちゃんはニコニコしながらそういいました。
「うん。でも、ジュンちゃん、こんなに早くにどうしたの?」
「やだなあ、タッちゃんたら。お花見の約束じゃない」
 ジュンちゃんは、プッとホッペタをふくらまして、怒ったふりをして見せました。
(そうだった。例の騒ぎで、すっかり忘れちゃったけれど)
「もーう、そんなことだろうと思って、タッちゃんの分もお弁当を持ってきたわよ」
 ジュンちゃんはそういって、昨日の3倍はありそうな大きなバスケットをふって見せました。

 ぼくとジュンちゃんは、予定どおりに、ウカレ山にお花見ピクニックにいくことにしました。同じクラスの、コブタくんやウサギさんたちもやってきました。それに、ムクイヌ、シャムネコ、モグラのぼくの探偵たちも参加します。
 ジュンちゃんのバスケットの中のお弁当は、とてもたくさんあったので、ぼくの探偵たちの分もちゃんと間に合いました。

「フンフンフン、ハはハチミツのハ、ニはニンジンのニ、ホは…」
 みんなで、「ハニホの歌」を唄いながら歩いていくと、ウカレ山が見えてきました。
「ほんとに、ピンクのオムスビみたいね」
と、ジュンちゃんが指差しながらいいました。
 ウカレ山は、期待どおりにサクラが満開です。山全体が、サクラの花におおわれていました。
「うわーっ!」
 みんなは、歓声をあげながら、ウカレ山に走っていきました。
 今日は風が強くて、サクラは早くも散り始めています。
桜吹雪の中をかけていくジュンちゃんから、ぼくは目を離せなくなっていました。
 途中の道端で積んだスミレの花を片手に、両方のホッペをリンゴのように赤く染めて走り回るジュンちゃんのまわりを、ピンクの花びらがヒラヒラと舞っています。
 ジュンちゃんがクルリと回ると、シャボンの香りがします
(そうだったのか!)
 その時、ぼくは初めて気がつきました。
 やっぱり、タヌキのうらないばあさんは正しかったのです。ぼくは、一番大切なものを盗み取られていたことに、その時気づいたのでした。
 それは、ぼくのハート。そして、それを盗んだのは、…。
 

ぼくの探偵たち
平野 厚
メーカー情報なし
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ビリッケツなんかに、なりたくない!

2020-02-16 10:45:15 | 作品
「これ、運動会の招待状」
 朝ごはんのときに、おとうさんにわたした。
「どれどれ」
 おとうさんは、ウインナをはさんだパンをほおばりながら開いている。
「一年生は、五十メートル走と、鈴割りに、だるま運びか」
 招待状のはじには、ユウキの目標も書かれている。
「もしかして、『四とうになりたい』の『なり』がぬけてるんじゃないか?」
 招待状を見ながら、おとうさんがいった。
「えっ?」
 あわてて、招待状を見てみる
『四とうにたいから がんばるからみにきてください』
 急いで書いたので、うっかりぬかしてしまった。
「四とうって、五十メートル走のことかい?」
 おとうさんが、またパンに手を伸ばしながらいった。
「うん、そう。練習で五人で走って四等だったから」
 ユウキがそう答えると、
「ずいぶん遠慮した目標なんだなあ。どうせなら一等になりたいって、書けばいいのに」
って、おとうさんにいわれてしまった。
「そんなの無理だよ。一等の子なんて、ビューンって、このくらいのスピードで走るんだよ」
 ユウキは、手を左から右へ、サッと動かしながらいった。
「ふーん」
 どうやら、おとうさんをがっかりさせてしまったみたいだ。
「一等じゃなくて、四等って書くところが、ユウちゃんらしいところなんだから」
 台所で目玉焼きを作っていたおかあさんが、助け舟を出してくれた。

 去年、幼稚園の運動会で、年長さんのかけっこでユウキは四人で走っての四等。
 つまり、ビリッケツだった。
 その前の年の年中さんのときは、ビリから二番目だったからがっかりしていると、
「ユウちゃんは本当はもっと速いんだけど、コーナーで他の子に先をゆずっちゃったからだよ。しかたないんじゃない」
と、その時も、おかあさんがなぐさめてくれた。
 たしかに、運度会が行われた幼稚園の園庭は狭いので、まっすぐの所はちょっとしかない。だから、コーナーを何番でまわったかで、順位が決まってしまう。
 今年の運動会は、小学校の広い庭でおこなわれる。走るコースもきちんと分けられているし、五十メートル走はまっすぐだけだから、思いっきり走れる。
「おとうさんは、小学生のころ、運動会じゃ、いつも二等、いや一等の時だってあったんだぞ」
 おとうさんが、得意そうにいった。
「あらあら、おとうさんって、そんなに足が速かったかしら」
 たしかに、太っておなかが出ている今のおとうさんからは、とても想像できない。
「速かったって。もう少しで、リレーの選手にだってなれるところだったんだぞ」
 おとうさんが、むきになっていった。
「本当? 天国のおかあさんにちかって、そう言える?」
 おかあさんがそういうと、
「……」
 おとうさんは、急に顔を赤くしてだまってしまった。
 「天国のおかあさん」というのは、おとうさんのおかあさんのことだ。
 おとうさんが小学生の時に死んじゃったから、もちろんユウキは知らない。
 おとうさんは 小さい時から、
「天国のおかあさんにちかって、本当か?」
って、いわれると、絶対に嘘がつけないのだそうだ。
 おかあさんは、それを世田谷のおばさん(おとうさんのおねえさんだ)から聞いて、おとうさんの言うことが怪しい時にはいつも使っている。だから、おとうさんが一等になったことがあるというのは、どうも怪しいようだ。

「よーい」
 ドン。
 スタートのピストルが鳴った時、ドキンとしてしまった。思わず手足がこわばって、スタートで遅れてしまった。
 他の四人はいいスタートをきっている。ユウキは、あわてて後を追いかけ始めた。
 走りながら、前の人たちをキョロキョロとながめた。
 この前ビリッケツだった林くんも、今日は前を走っている。
 林くんとの差はまだ1メートルぐらい。
 でも、林くんはけんめいに走っている。とても追いつけそうにない。
(もうだめだ)
と、思ったら、足に力が入らずにフニャフニャとしてしまった。
 ユウキは、わざと手足をチャランポランにしながら、ゆっくりとゴールインした。
 ゴールでは、林くんとの差は3メートルぐらいに広がっていた。断然のビリッケツだ。
「北野くーん。もっとまじめに走りなさい。ビリだって、ぜんぜんかまわないんだから、ちゃんと走らなきゃだめよ」
 スタート地点で、担任の谷山先生がどなっている。
 『ビリ』って言葉に、ユウキは思わず顔を赤くしてしまった。

 ユウキは、とぼとぼと到着順に並んだ列の方に向かった。
「ユウちゃん、一緒、一緒」
 五等の列から、声をかけてきた子がいた。なかよしのリョウちゃんだ。小さいころから太っていて、幼稚園の 時もかけっこはいつもビリだったから、もう平気なのかもしれない。
 ユウキは、
(今日は、本気で走らなかったんだから、ビリッケツでもいいんだぞ)
って、顔をして、列のうしろに並んだ。
 こうしてみると、リョウちゃんだけではなく、五等の列にいる子たちは、いかにも足が遅そうだ。ユウキは居心地悪そうに、列の一番うしろに腰をおろしていた。
 と、その時、前の方から 笑い声がおこった。
 コースでは、次の組が走り出していた。五人のうち、一人だけがすごく遅れている。
 シュンくんだ。手と足の動きがバラバラで、ギクシャクギクシャク、まるで操り人形のように走っている。
「シュンくんって、ほんとに遅いなあ。」
 リョウちゃんが 大きな声でいった。自分より遅い子を見て、すごく嬉しかったみたいだ。細い目がますます 細くなって、鉛筆で描いた線みたいになっている。
「うん。シュンくんとなら、歩いても 勝っちゃうよな」
 他の子もいった。
(あーあ。シュンくんと同じ組だったらなあ。絶対に、ビリッケツなんかに ならないのに)
 ユウキもそう思いながら、ゆっくりと走ってくるシュンくんをながめていた。
 と、その時、急にとんでもないことを思い出した。年中さんの運動会で、ユウキがビリから二番だった時、ビリッケツは シュンくんだったのだ。そうすると、今まで運動会で勝てた相手は、シュンくん一人だけってことになる。
シュンくんとは、幼稚園の年中さんの時から、ずっと一緒のクラスだった。
おかあさんの話だと、一才になるかならないかの時に、公園の砂場で会ったのが最初だっていう。もちろん、
ユウキはそんなことは覚えていない。
 でも、気がついたら、いつもユウキのそばにいた。
 シュンくんの誕生日は、三月三十日。お誕生会は一番最後だった。それに、未熟児で産まれたとかで、体がすごく小さかった。今でも、背の順はクラスで一番前だ。そのうえガリガリにやせている。きっと体重は、二十キロもないかもしれない。
 シュンくんは、体が小さいだけでなく、運動がからきしだめだった。サッカーをやれば、ボールの上にのって しりもちをついてしまう。野球では空振りばっかりだ。小学生になったのに、自転車の補助輪が取れていない。とにかく、運動はなんでもクラスで一番へたくそなのだ。
 シュンくんの名字は亀岡だ。だから、クラスの男の子たちは、シュンくんのことをかげでは「ドンガメ」って 呼んでいる。
 みんなが、次々にゴールインしてきた。
 でも、シュンくんはまだだ。みんなからは、10メートル以上も引き離されていた。相変わらず、手と足の動きがバラバラで、ギクシャクギクシャク走っている。
「亀岡くん、がんばって」
 谷山先生が、声援を送っている。
 それに 応えるように、ようやくドンガメ、じゃなかった、シュンくんが ゴールインした。
 でも、シュンくんは、平気な顔をしている。ビリッケツになることなんか、もう慣れっこになっているのかもしれない。
「ユウちゃんもかあ」
 そういいながら、シュンくんは ユウキのうしろへ並んだ。
(あーあ)
 ユウキは思わずため息をついた。シュンくんと同じだと思うと、ビリッケツになったのが、ますますゆううつになってしまった。
「それじゃあ、これで徒競走の練習を終わります」
 先生が、みんなに向かっていった。

 次の朝、思いがけないことが起こった。
「昨日のダルマ運びの練習で、中川くんがころんだでしょ。その時に、足をねんざしてしまったの。さいわい、中川くんのけがはひどくありませんでした。でも、大事をとって、運動会は見学ということになったのよ。そのため、五十メートル走で、中川くんがいた第四組は 四人だけになってしまったのね」
 五十メートル走は、ひと組あたりほとんど五人で、六人の組もあった。
「四人じゃ少ないので、第四組の人たちを、他の組へ分けることにしました」
 最後に、谷山先生がそうみんなに説明した。
「……。岡本くんは二組、亀岡くんは三組、……」
(えっ、シュンくんが 同じ組に!)
 ユウキがそう思った時、
「超ラッキー!」
と、いきなり叫んだ子がいた。同じ三組の林くんだ。
「林くん、静かにしなさい」
 先生にしかられて、林くんがペロリと舌を出したので、みんなは大笑いした。
 でも、本当はユウキも林くんと同じ気持ちだった。
(ドンガメの シュンくんと一緒なら、もう絶対大丈夫だ)
六人で走っての五等と、五人で走っての五等。同じ五等でも、ぜんぜん違う。だって、ビリッケツじゃないんだから。
 ユウキは、シュンくんの席の方に振り返った。
(あれっ?)
 どういう訳か、シュンくんの姿も見えない。
「そうそう。亀岡くんも、今日はお休みです」
 先生が、シュンくんの席の方を見ながらいった。
(まずいぞ。絶対にまずいぞ。シュンくんも 運動会をお休みしたら、またぼくが五十メートル走でビリッケツになってしまう)
 ユウキが心配していると、
「でも、亀岡くんは軽い風邪なので、運動会には出られるそうです。だから、五十メートル走は さっきの組み合わせでやります」
 先生が、そう付け加えてくれた。
(ああ、よかった)
 ユウキは、ホッとしていた。

 その週の木曜日、秋分の日で、学校はお休みだった。
 ルルルルー、ルルルルー、……。
 朝ごはんの時、電話がかかってきた。すぐにおかあさんが出てしばらく話していたが、途中でユウキに向かっていった。
「ユウちゃん、シュンくんのママからよ」
 おかあさんは、ユウキに子機を差し出した
「えっ?」
 電話に出てみると、
「シュンが、どうしても運動会に出たくないって、言ってるのよ」
って、シュンくんのママがいった。
「どうして?」
「五十メートル走の時、みんなに笑われたくないんですって」
ビリッケツには慣れっこでも、笑われるのは やっぱり嫌だったらしい。
「……」
「それで、ユウちゃん。悪いんだけど、誰も笑わないから大丈夫だって、シュンに言ってもらえないかしら」
 シュンくんのママは、涙声になっている。
「でも、ぼくが言っても、……」
「ええ、本当に悪いんだけど。ほら、あの時も、ユウちゃんのおかげで、……」
シュンくんのママがいったあの時っていうのは、幼稚園に入ってすぐのことだ。
 そのころシュンくんは、幼稚園でなかなか友だちができなかった。何をやるのもとろいから、みんなに馬鹿に されてしまったんだ、
 シュンくんは、とうとう幼稚園を休むようになってしまった。
 その時、ユウキはおかあさんと一緒に、毎朝、シュンくんの家まで迎えにいってあげた。
 それでも、初めはなかなかうまくいかなかった。
 どうしても、
「幼稚園なんか、行きたくない」
って、シュンくんが言いはったのだ。
 でも、しばらくして、ユウキと一緒だったら幼稚園に行かれるようになった。そして、それからは、だんだん 平気になったようだ。
 だから、シュンくんのママは、今回もユウキに説得して欲しいようだ。
 でも、ユウキは、シュンくんのママの話を聞きながら、ぜんぜん違うことを考えていた。
(シュンくんが運動会に来ないと困るぞ。絶対に困るぞ。シュンくんが来ないと、ぼくが五十メートル走で、ビリッケツになっちゃうじゃないか)
 ユウキは自分のために、シュンくんを説得しにいくことにした。

 一人っ子のシュンくんの部屋は、二階にある南向きの広い部屋だ。ベッドの反対側には、ピアノまで置いてある。シュンくんは、スポーツはだめだけれど、音楽は得意だった。特に、ピアノは小さいころから わざわざ電車で通って、有名な先生に習っている。
 ユウキが部屋に入っていくと、シュンくんはベッドで布団を頭までかぶっていた。
「おっす」
 あいさつしたが、返事がない。
「シュンくん。ユウキだよ」
 何回か声をかけたら、ようやく顔を出した。布団から首だけ伸ばして、本当にカメみたいだ。
「シュンくん、五十メートル走なんか、平気だよ。みんな、笑ったりしないよ」
 ユウキがそう言うと、
「笑うよ、笑う」
 シュンくんは、顔をしかめながら言った。
「笑わないったら」
 ユウキは、布団を ひっぱって言った。
「笑うったら、笑う」
 でも、シュンくんは、強情に言いはっている。
「じゃあ、笑われないようにしたら、いいじゃん」
 とうとうユウキが 言った。
「えっ、どうやって?」
 シュンくんの小さな目が、キロッと光った。
「えーっと、みんなが笑うのは、シュンくんがビリッケツだからじゃないんだよ。走るかっこうがおかしいからなんだ」
 ユウキは、けんめいに考えながら話していた。
「ふーん」
 どうやら、シュンくんは 興味を持ったようだ。
「だから、ちゃんとしたかっこうで走れば、大丈夫だよ。たとえビリッケツでも、みんなは笑わないよ」
 ユウキは、自信満々に断言した。
「うん、でも、どうしたら、ちゃんと走れるようになるの?」
 そのとき、シュンくんがたずねてきた。
「うーん」
 そう聞かれると、ユウキにもいいアイデアがなかった。

 とうとうシュンくんを説得するのをあきらめて、ユウキは家へ戻っていった。
「やあ、ユウちゃん」
 公園のそばで、リョウちゃんに出会った。
 と、その時、ユウキの頭の中に、ピカッとひらめいたものがあった。
「そうだ!」
 ユウキは、シュンくんの家に引き返そうと走り出していた。
「おーい、どうしたの?」
 うしろでは、リョウちゃんが不思議そうな顔をして見送っていた。
 ユウキは、またシュンくんの部屋に戻ってきた。シュンくんは、相変わらずカメのように布団から チョコンと顔を出している。
「シュンくん、リョウちゃんのおねえさんって、知ってる?」
 ユウキは、シュンくんに向かって言った。
「うん、ユミカさん」
 どうやら知っているみたいだ
「そう、そのユミカさんに、五十メートル走を特訓してもらおうよ」
 ユウキは、シュンくんに提案した。
 ユミカさんというのは、リョウちゃんの中学生のおねえさんだ。デブのリョウちゃんとは、ぜんぜん似てなくって、スラッと背が高い。中学では、陸上部の短距離の選手だそうだ。
「特訓すれば、みんなのように、ちゃんと走れるようになるかな?」
 シュンくんが、ユウキにたずねた。
「そうだよ。特訓すれば、絶対に大丈夫だよ」
 ユウキは、念を押すように言った。
「そうかなあ?」
 なかなか信用しない。
「走るかっこうさえおかしくなければ、ビリッケツでも、ぜんぜんはずかしくないよ」
 そう言いながら、ユウキは なんだかへんなきもちだった。
(天国のおばあちゃんにちかって、ビリッケツがはずかしくないって、言えるか?)
 そんな声が、どこからかきこえてくるようなきがする。
 でも、とうとうシュンくんはベッドからでてきて、さっそくリョウちゃんの家へ行くことになった。
(本当はうそをついています。シュンくんに 運動会を休んでほしくないのは、シュンくんのためではありません。自分が、ビリッケツになりたくないからです)
 ユウキは心の中で、天国のおばあちゃんにそっと告白した。

「ふーん」
 ユウキの話を聞き終わると、ユミカさんは一つ大きなため息をついた。
 ユミカさんの部屋には、ユウキとシュンくんだけでなく、リョウちゃんも一緒に来ていた。二人だけでなく、リョウちゃんも特訓を受けることになったからだ。やっぱりビリッケツになるのは、少しは気にしていたみたいだ。
 リョウちゃんとユウキの目標は、四等になること。そしてシュンくんは、ビリでもいいから、みんなに笑われないようにきちんと走れることが目標だった。
 もちろんユミカさんは、いつも運動会で大活躍していただろう。そんなユミカさんには、三人の小さな小さな願いが、まだ信じられないようだ。
 ユミカさんは、目がぱっちりしていてアイドルみたいな顔なんだけど、髪を男の子のように短くしていて、少しこわそうに見える。
 三人は緊張しながら、ユミカさんの返事を待っていた。
「よーし。いいよ。引き受けた。でも、あたしの特訓は、厳しいよ。それでもいい?」
 とうとう、ユミカさんがOKしてくれた。
「お願いしまーす」
 三人が声をそろえていうと、ユミカさんはやっとニコッとしてくれた。浅黒く引き締まった顔に、真っ白な歯 だけがピカッと光っている。

 ユミカさんは、さっそく三人を近所の公園へ連れていった。いつも、みんながサッカーや野球をやっている所だ。もっとも、ユウキたちは、運動が苦手なのであまり参加していなかったけれど。
 公園は、いつもと違ってガランとしていた。休日なので、みんなどこかに出かけているのかもしれない。
 オレンジ色のジャージに着替えたユミカさんは、足がスラッと長くてとてもかっこいい。中学の陸上部のユニフォームのようだ。
 ユミカさんは、胸にストップウォッチをぶらさげていた。これで、三人のタイムを測るのだろう。なんだか、自分までが陸上選手になったようで、ドキドキしてきた。
「じゃあ、これから、五十メートル走の特訓を開始します。みんな、自分のタイムがどのくらいか、知ってる?」
 ユミカさんは、三人を前に並べていった。
 みんな、いっせいに首を横にブンブン振った。一年生はまだタイムなんか測ってもらってないから、もちろん ぜんぜんわからない。
「じゃあ、最初に測ってみようか。 五十メートルのスタートとゴールを決めるから、みんなは準備体操をやって
て」
 おねえさんは、足で スタートラインを引くと、
「1、2、3、……」
と、数えながら、大またに歩き出した。

「ほら、チンタラやってるんじゃない」
 ゴールラインを引いて戻ってきたユミカさんが、大声でどなった。ユウキたちが、元気なくバラバラに準備体操をしていたからだ。
「もっと、しっかりやらないと、後で体が痛くなっちゃうぞ」
 ユミカさんにそういわれても、準備体操なんてちゃんとやったことがないから みんなうまくできない。
「ほんとに しょうがないねえ。これじゃ、準備体操から教えなきゃなんないじゃない」
 ユミカさんは、あきれたような声を出していた。
「ほら、しっかり曲げて」
「いてててて」
 ユミカさんにぐいぐい体を曲げられて、シュンくんが悲鳴あげている。ユウキとリョウちゃんは、あわててしっかりと準備体操を始めた。
「はい、スタートラインに並んで」
 やっとの思いで、準備体操が終わると、ユミカさんは三人をスタートラインに並ばせた。リョウちゃん、ユウキ、シュンくんの順だ。
「まあ、そろいもそろって、いかにも、かけっこが遅そうねえ」
 フクフクと太ったリョウちゃん。ガリガリのユウキ。それに、幼稚園の子のように小さいシュンくんだ。
「じゃあ、スタートの体勢をして。うーん、そうじゃない」
 ユミカさんが、みんなの手や足をあちこち引っ張って、五十メートル走の特訓が始まった。運動会まであと三日。はたしてぼくたちの目標は達成できるだろうか。

 翌日の金曜日に、運動会の予行練習が行われた。
(「よーい」で、体重を前にかけて、ドンで勢いよく出る。あとはまっすぐ前を見て、腕を大きく振って走る)
 昨日、ユミカさんに教わった『かけっこが速くなる秘密』だ。
「よーい」
 バーン。
 ユウキは、うまくスタートがきれた。隣のシュンくんも、なかなかいいようだ。
 ユミカさんにいわれたように、他の子のことは気にせずに、前だけを見て一所懸命に走った。
 ゴールイン。
(やったあ。四等かな?)
 驚いたことには、シュンくんもビリッケツだったとはいえ、あまりみんなに遅れずにゴールインしていた。一番ひどかったシュンくんが、最も特訓の効果があったのかもしれない。
(やっぱり、特訓して良かったな)
と、思った。
 ところが、ゴール係の六年のおにいさんに連れていかれたのは、いつもの「5」の旗のうしろだった。四等は、林くん。また、少しだけ負けてしまったようだ。
「ユウちゃん」
 五等の列の一番前から、リョウちゃんが笑顔でVサインを送っている。いつもと同じ五等でも、のんきなリョウちゃんは満足しているようだ。
 隣の六等の列のシュンくんも、ニコニコしている。あまり遅れずに走れたし、フォームもずっとましになって いたので、今日は誰も笑う人はいなかった。
(うーん、今日も帰ったら、ユミカさんに特訓してもらわなくっちゃ)
 ユウキは、一人だけ浮かない顔でそう思っていた。

 運動会の朝がきた。すごくいいお天気で、絶好の運動会日和だった。
 今日は、体操着で登校だ。教室には入らずに、校庭にクラスごとに集まった。
「おはよう」
「おーすっ」
 声をかけあいながら、ユウキもクラスのみんなの中に入っていった。
(いた!)
 その中にシュンくんの姿を見つけて、ユウキはホッとしていた。
 昨日のユミカさんの最後の「特訓」が終わった時、シュンくんがポツリとこういったからだ。
「やっぱり、ぼくは、ビリッケツなのかなあ」
(えっ?)
 それまでは、みんなにあまり遅れないだけでも、シュンくんは満足していると思っていた。
 でも、やっぱりシュンくんも、ビリッケツになるのは嫌だったのだ。
 たしかに「特訓」で何回走っても、シュンくんはリョウちゃんにもユウキにもかなわなかった。このままでは、ビリッケツは確実なように思われた。
 と、いうことは、ユウキは、自動的にビリッケツを逃れることになる。
(もしかして、シュンくんは明日休むかもしれない)
 ユウキは、それがすごく心配だったのだ。

 いよいよプログラムの十番目、一年生の五十メートル走が始まった。
 まず、第一組の リョウちゃんが、スタートラインに立った。
 バーン。
 五人のランナーが、いっせいにスタートした。
 ユウキは、心配で伸びあがるようにして、リョウちゃんが走るのを見ていた。
 スタートで少し出遅れたリョウちゃんは、それでもけんめいに前を追っかけている。特訓のおかげか、前後に 腕を大きく振ってなかなかいいフォームだ。
 両隣のコースの子たちと、ほとんど一緒にゴールイン。
(やっぱり五等か?)
 いや、六年生のおねえさんに、連れていかれた場所は、四等の旗の所だった。
(目標達成!)
「やったあ。リョウタ、いいぞお」
 観客席のユミカさんが、飛び上がって大声で叫んだ。リョウちゃんも、嬉しそうにそちらへ向かって手を振っている。
(よしっ。いいぞ、いいぞ)
 控えの列の中で、ユウキも小さくガッツポーズをした。

「次は第三組です」
 ユウキたちはいっせいに立ち上がると、スタートラインに並んだ。
「シュンくん、ユウちゃん、がんばれ」
 ユミカさんの大きな声が聞こえた。ぼくたちは、そちらの方に向かって手を振った。
「1コース、……。2コース、林くん」
「はい」
 林くんは右手を上げると、いつものように必死な顔つきで、ゴールをにらんでいる。
「……。5コース、亀岡くん」
 シュンくんは張り切り過ぎたせいか、返事もしないですぐに「よーい」の体勢をしてしまった。
「亀岡くん、まだよ」
 スターターの 谷山先生が、あわてて注意した。
 観客席から、小さな笑い声が聞こえてくる。
「6コース、北野くん」
「はい」
 ユウキは、最後に右手を上げて返事をした。
 でも、まだ頭の中は、いろいろなことを考えてぐらぐらしている。
 一緒に特訓したシュンくんには、がんばって欲しい。
 でも、自分がビリッケツになるのは、やっぱり絶対に嫌だ。
もちろん、林くんもけんめいにがんばるだろう。
 そうなると、いったいビリッケツになるのは、……?

「よーい」
 体重をぐっと前にかける。
 バーン。
 ユウキは、そしてシュンくんも林くんも、力いっぱい走り出した。
 スタートでは、ほぼ横一線だった。ユミカさんの特訓の成果か、ユウキもシュンくんもスタートがうまくなっている。
 でも、自力に勝る他の三人は次第にリードを広げていく。
 問題は、残りの三人だ。
 林くんが、ややリードした。
(くそお!)
ユウキが、巻き返して並びかける。
「うううっ」
 隣のコースのシュンくんが、うなり声をあげた。
 チラッと横を見ると、必死な顔をして追い上げてくる。
 ユウキも、けんめいにスピードをあげた。林くんも、少し離れた2コースでがんばっている。
 三人がまたほとんど並んだ所が、ゴールだった。
 順位の旗を持った六年生たちが、いっせいに駆け寄ってくる。
 はたして、ユウキは何着だったのか?
 そして、ビリッケツだったのは、……。


ビリッケツになんか、なりたくない!
平野 厚
平野 厚
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夏の迷路

2020-02-16 10:42:50 | 作品
 隆志は宇宙船を旋回させると、敵の背後に回り込んだ。
 ババババッ。
 すかさずレーザー砲をたたきこむ。
 ズガガアーン。
 敵のロケットは、大爆発を起こした。
「これで、三機撃破したな」
 隆志は爆発に巻き込まれないように、愛機を急降下させながらつぶやいた。
(次のターゲットは?)
 隆志は愛機を加速させながら、あたりに敵がいないか、注意を払った。
(いた)

 真夏の昼下がり。あたりには誰もいない。今日も雲ひとつないかんかん照りで、気温は軽く三十度を超えている。隆志は、団地の中を一人で自転車を乗りまわしていた。いつの間にか、隆志の頭の中では、SFX映画やビデオゲームの中で、宇宙船を急旋回して敵と戦っている自分の姿が浮かんできていた。
 リリリリン。
 ベルを押すのは、レーザー砲の発射のつもりだ。
 ガチャガチャ
変則ギアを切り換えて、立ちこぎしてスピードアップしていく。
「グイーン」
これを、宇宙船がワープ航法をするのに見立てていた。
 団地内の道路は、ぐねぐねと入りくんでいる。自動車が通り抜けられないように、道路は行き止まりになっていたり、わざと遠回りしたりするように作られているからだ。
『住む人に優しい街』
 それが、この団地の設計コンセプトだった。おかげで、住んでいる人以外の車はめったに道路を通らないので、自転車を走らせるにはもってこいだった。いつか見た新規分譲用パンフレットの航空写真には、団地内の道路はうねうねとまるでパズルか迷路のようになっていた。
 隆志の愛車は、先月の誕生日に買ってもらったばかりの24インチのクロスバイク。五年生としては小柄な隆志には、サドルをいっぱいに下げても、少しつま先立ちにならなければ地面に足が届かない。隆志は、おかあさんが作っておいてくれた一人だけの昼食を食べ終えた後で、いつも自転車に乗りに来ていた。
 今度は、隆志は自転車での反転遊びに熱中しはじめた。幅の広い道路では、スピードをあげて大きな半円を豪快に描いてから、逆方向へそのままのスピードで進んでいく。もっと細い道路ではバランスを崩さないように注意を払って、道幅ぎりぎりに半円を描いていく。
足をつかずにうまく反転できた時には、
(やったあ!)
という達成感がこみ上げてきた。

 グオーン。
敵の巨大宇宙戦艦が迫ってくる。不意を突かれた隆志の宇宙船は、もう少しで宇宙戦艦と激突してしまうところだった。
「転回!」
 隆志は大声で叫ぶと、愛機をすばやく右へすべらせて敵から逃れた。
 ブッブーッ。
 大きくクラクションを鳴らして、隆志の自転車をかすめるようにして、宅配便のトラックが通っていった。
(あぶない、あぶない)
 隆志は、道路の脇に自転車を傾けて止めた。空想に夢中になりすぎて、自動車に気づくのが遅れてしまった。
 トラックは、排気ガスを吐き出しながら、ゆっくりと遠ざかっていく。
(行くぞ)
 隆志は、全速力でトラックを追いかけ始めた。
「ワープ!」
 変速機を操作しながら、大声で叫んだ。頭の中では、あっという間にトラックに追いついているところだ。
 でも、実際には、ますます引き離されていた。

夏休みに入って、早くも十日が過ぎようとしていた。明後日からはもう八月になってしまう。その間、隆志はいつも自転車を乗り回していた。
 隆志のクラスの友だちも、海や山や両親の実家などへ行っている人たちが多くなっている。だから、ここのところ、一人で遊ばなければならないことが増えていた。
 隆志の家は、おかあさんと二人暮しだった。両親は、隆志が幼いころに離婚している。隆志には、父親の記憶はほとんどなかった。
 おかあさんは中学校の美術の教師をして、二人の暮らしを支えていた。
教師という仕事は、はたから見ているのとは違って、夏休みに入ってからも、やれ研修だ、やれ部活だと、なかなか忙しい。
おかあさんがまとまった休みが取れるのは、八月に入ってからだ。今年は、隆志と二人で、一週間ほど、八ヶ岳のリゾートホテルへ行くことになっている。
 親ゆずりで絵を描くのが好きな隆志は、写生の道具を持っていくつもりだった。
 でも、おかあさんの方は、のんびりと読書をするのを、楽しみにしているようだ。おかあさんが絵筆を握っているところは、もう何年も見たことがない。
 おかあさんがかつては画家を志していたと、祖父母から聞いたことがある。そんな夢は、日々の暮らしの中で、とうに忘れ去られてしまったのかもしれない。

 食卓にひろげた大きな画用紙いっぱいに、隆志はひまわりの絵を描いている。
 庭の花壇に一本だけ植えられたひまわりは、手入れが良かったせいか、とっくに隆志より背が高くなり、大きな花を咲かせていた。
 はじめは水彩絵の具で普通に写生をしてみたが、どうももうひとつ面白くない。外側の黄色い花びらはうまく描けるのだが、内側の蜜蜂の巣のような小さな花のかたまりの部分がうまく感じがでないのだ。
 次に、クレヨンを使って、スーラのような点描で描いてみた。
「ふーっ」
 この絵も気にいらなくて、大きなため息をついた。花のかたまりの部分の感じは少し出てきたが、全体に弱々しく、ひまわりの持つたくましい生命力が感じられない。
 隆志はクーラーを止めると、庭へのガラス戸を大きく開け放った。
 猛烈な暑さが、ドドッと部屋の中へ押し寄せてくる。
 でも、涼しい所でガラス越しに見ていたひまわりが、ぐっと自分に親しいものに感じられるようになってきた。
 隆志はさっき使った水彩絵の具のパレットをきれいに洗うと、その上に赤と黄色の絵の具をたっぷりと絞り出した。
 一番細い絵筆を取り出して、赤と黄色の絵の具を混ぜ合わせて、内側の花のかたまりを描き出した。
 混ぜ具合を変えながら、細く小さな円弧をたくさんたくさん描き込んでいく。
 レモンイエロー、だいだい、朱色、赤、…。
 線が重なって、予想もしなかったような様々な色彩が生まれるのが面白くて、いつの間にか隆志は夢中になっていた。

「似ているわ」
 おかあさんがポツリといった。その日の夕方、隆志が誇らしげに三枚目のひまわりの絵を見せた時だった。細かく描き込んだ様々な色の鋭い円弧が、ひまわりの生命力を表現していて、我ながらいいできだった。
「えっ、何に似てるって?」
 隆志がたずねると、
「…」
 おかあさんは、しばらくの間ためらっていた。
 でも、もう一度ひまわりの絵をじっと見つめた後で答えた。
「あなたのおとうさんの絵によ」
「ふーん」
 そう言われても、父親の絵など一度も見たことのない隆志には、まるでピンとこなかった。たしかに、父親もおかあさんと同じように、絵を描いていたことは知っていた。
 でも、家には、父親の絵は一枚も残っていなかった。
「どんな絵を描いていたの?」
 隆志がたずねても、
「そうねえ、遠い昔のことだから、…」
と、それ以上は話したがらなかった。

 隆志の両親は、彼がニ才の時に離婚している。父親は、その直後にアメリカに渡り、ほとんど連絡がないという。
 父方の祖父母がそれ以前に亡くなっていて、地方に住む親戚たちともほとんど付き合いがなかった。そのため、隆志にはほとんど父親の記憶が残っていなかった。
 それに、新生活への再出発のためか、おかあさんは父親の写真はおろか、身の回りの品物はすべて始末してしまったようだ。
 野沢吉雄。
 名前だけが、唯一のはっきりとした情報だった。
 それも、物心ついたころからずっと、おかあさんの旧姓であった「山本」を名乗っている隆志には、まったく親しみの感じられないものにすぎなかった。
 ただ、父親は画家になる夢を忘れられずにアメリカに行ったということだけは、いつか誰かから聞いたことがあった。
 はたして、その夢を果たしたのかどうかも、隆志は知らなかった。
 ただ、隆志の絵を描くことに対する情熱は、もしかすると、おかあさんではなく、父親から受け継いだものだったかもしれないと思うことがあった。美術教師でありながら、絵筆を握ろうとしないおかあさんからは、絵を描くことの情熱はまるで感じられなかった。

 その晩、自分のベッドに入ってから、隆志は父親の顔を思い浮かべようとしていた。
 なかなか思い浮かばない。それでも、心の奥底に沈んでいる父親の記憶を探ってみる。
 わずかに残る父親の記憶。
 それはあまり心地よいものではなかった。
 食卓でどなっている若い男。感情を爆発させて、声を震わせながらわめいている。
 しかし、どんな顔をしているのか、すこしも具体的なイメージが浮かんでこなかった。まるで目鼻のない、のっぺらぼうのようだ。
 テーブルを挟んで泣いている若い女。これははっきりしている。
 おかあさんだ。今よりもずっと若いけれど、顔もはっきり見えた。特徴的な大きな目に、いっぱい涙をためている。
 でも、時々、やはり大声で何かを言い返していた。すると、ますますのっぺらぼうの若い男は、いきり立ってどなり出す。
 奇妙なことに、そのそばで負けじと大声で泣くことによって、なんとか二人の言い争いを止めさせようとしている、幼い日の自分の姿までが見えてくるのだ。
 青いサロペットに、黄色い縁取りの小さなスタイをつけている。まるで現在の隆志が、窓からこっそりと三人の様子をのぞいているようだった。
 隆志は、もう一度父親の顔を想像しようとしてみたけれど、とうとう最後まで思い浮かばなかった。

 数日後、いよいよ明日から、母親が休みになる日の朝だった。
「あああっ」
 洗面所で顔を洗っていた隆志は、大きな泣き声がするのに驚いて、急いでダイニングキッチンへ戻った。
 おかあさんだった。すでに出勤のための着替えをすませていたおかあさんが、テーブルに両手をついて立ったまま泣いていたのだ。
「どうしたの?」
 隆志がのぞきこむと、おかあさんはだまってテーブルの上の新聞を指さした。そこには、小さな死亡記事がのっていた。
『新進画家、無念の早逝。
 三十一日、ニューヨーク在住の新進画家ダン野沢氏(本名・野沢吉雄さん、三十三才)が急死。死因などくわしいことは不明。
 野沢氏は、昨年のニューヨーク国際美術展でグランプリを受賞し、いちやく注目を集めた新進の画家。その後も、ニューヨークとパリで個展を開くなど、精力的に活動を続けていた。これからの活躍がおおいに期待されていただけに、その早すぎる死を惜しむ声があがっている。…』
 記事の右上には、三十過ぎの見知らぬ男の笑顔が写っていた。
(これが、自分の父親か)
 隆志は食い入るようにその写真を見つめた。
 でも、悲しみも何も、特別な感情はわいてこなかった。

 ようやく泣きやんだおかあさんは、いすに腰をおろすと、父親のことを話し出した。それは、隆志にむかってというよりは、自分自身で思い返すためのものだったかもしれない。
 二人が美術大学で同級生だったこと。学生結婚したこと。卒業後も、父親の方は就職せずに絵に専念していたこと。隆志が生まれて、生活のためにやむなくおかあさんと同じ美術の教師になったこと。仕事に追われて絵をかく時間がなく、いつもいらいらしていたこと。
 隆志にとっては、初めて聞く話ばかりだった。
「普段は優しい人だったのよ。でも、感受性が鋭すぎたのね。どうしても、創作と実生活を両立していけなかったのよ」
「…」
「それに、二人とも若過ぎたのかもしれない。二十二才で結婚して、二十五才で別れたんだから」
 そういいながら、おかあさんは隆志にけんめいに笑顔を見せようとした。
 でも、うまく笑えずに、少しゆがんだ泣き笑いになってしまった。
「あらあら、いけない。完全に遅刻だわ」
 おかあさんは、ようやくいすから立ち上がった。
 洗面所で手早く化粧を直して戻ってくると、
「じゃあ、行ってくるからね」
と、おかあさんはまるで何事もなかったかのようにいった。
 でも、泣いたあとをごまかすためか、口紅もアイメイクも、いつもより濃くくっきりとさせていた。
 おかあさんがガチャリと音をたてて開けたドアの外は、すでに今日も猛烈な暑さだった。

 その日の昼ごはんの時、何気なくテレビをつけたら、思いがけない画面にぶつかってしまった。
『ニューヨーク在住の新進画家、孤独な死。
 死因は麻薬によるものか!?     』
 隆志は、スパゲティを食べていたフォークの動きを止めて、画面に見入った。
 その番組は、主婦向けのワイドショーだった。もちろんこのニュースが、その日のメインの話題なのではない。現地の映像も、「ダン野沢」の作品の紹介もなく、画面の写真も、新聞に載っていたのと同じ物を拡大しただけだった。
 二、三分の短いレポートの後で、司会者は、
「いくら絵の才能があっても、麻薬に溺れるようでは性格に問題があったのだろう」
と、簡単に締めくくって、次の話題に移っていった。
 隆志は、テレビの前に呆然として立ち尽くしていた。
 レポーターの説明の中に、こんな部分があったからだ。
「ダン野沢は、八年前に『妻と幼い息子を捨てて』、単身渡米し、…」
(おかあさんとぼくのことだ)
 その瞬間、隆志は思わずいすから立ちあがった。そして、初めて涙がこぼれてきた。
 でも、これは悲しみの涙ではない、当事者にとっては残酷な言い方を平気でする、軽薄なレポーターに対する悔し涙だった。
 番組では明るい話題に移ったらしく、出演者のジョークに、スタジオ内に並んですわらせられたおばさんたちが、陽気な笑い声をあげている。
(おかあさんが見なくてよかった)
 隆志は心からそう思っていた。

 隆志は、さっきの朝刊を、マガジンラックからテーブルの上に持ってきた。そして、「ダン野沢」の死亡記事の部分を、はさみでていねいに切り抜いた。
 「ダン野沢」は、隆志のてのひらの中でぼんやりと笑っている。その気弱そうな笑顔は、どうしても隆志の頭の中にある声を震わせて怒っている若い男のイメージと、結びつかなかった。
(どんな人だったんだろう?)
 隆志には、ますますわからなくなってしまっていた。
 このおとなしそうな人が、あの怒鳴ってばかりいた若い男だとは、どうしても思えない。
 おかあさんが言っていたように、いつもは優しい人だったのだろうか。
 もう一度、死亡記事を読み返してみた。
『…。なお、ダン野沢氏の作品は、その多くは海外の美術館にあるが、国内ではM区立美術館などに所蔵されている』
(美術館へ行ってみよう)
と、隆志は思った。
 「ダン野沢」の絵を見れば、何かがわかるかもしれない。

 ネットで調べたM区立美術館は、山の手線M駅から歩いて十分ほどの区民センターの中にある。
 あれからすぐに家を出た隆志は、電車を乗り継いでやってきていた。
 M駅からの長い坂道をのぼっていくと、前の方に黒い服を着た人たちが集まっているのが見えてきた。
(お葬式でもあるのかな)
 そう思いながら近づいてみると、そこは「曼陀羅(まんだら)」という名のライブハウスだった。
 黒いのは喪服なんかではなく、ただの黒い衣装だった。女の子たちが、出演するバンドを待っているようなのだった。
(「追っかけ」っていうやつなのかな?)
と、隆志は思った。
 この炎天下に、どういうわけかみんな黒ずくめの服を着ている。
 地下のライブハウスからは、エレキギターとドラムの音が響いてひびいていた。
 二十人近くのカラスのような女の子たちのそばを通ったとき、洋服のそでがレースでできているのに気がついた。
 黒く透き通る袖をとおして見えた女の子たちの腕は、ドキッとするほど青白かった。
 川の向こうに、区民センターの巨大な建物が見えてきた。
 水の少ない泥色に濁った川にかかった橋を渡ったとき、生ごみの腐ったような嫌な臭いが、隆志の鼻を強くうった。

区民センターは、思っていたよりもずっと大きな施設で、美術館だけでなく図書館や公民館、体育館や温水プールも同じ建物に入っていた。そのまわりも、広い公園になっている。
 白い大きな帽子をかぶったおばさんたちがドタドタと走りまわっているテニスコートを抜けると、目の前に大きな屋外プールが広がった。
 水の中もプールサイドも、驚くほど混み合っていた。
 プールの中は、まるで満員のお風呂のようで、とても泳ぐことなどできそうもない。そのまわりも、足の踏み場もないほどシートやタオルが広げられ、カラフルな水着をつけた人たちが日光浴をしている。
 隆志は圧倒されたような気分で、足早にプールのそばを通り抜けた。
 美術館の入り口は、たくさんの人々で混み合うプールや図書館とは対照的に、ひっそりとしていた。特別展がない常設展示だけのときは、あまり入場者がいないのかもしれない。
「ダン野沢の絵はどこですか?」
 隆志は、受け付けにいた眼鏡をかけた若い女の人にたずねた。
「えっ。ああ、ダン野沢なら、つきあたりを左に行った部屋の奥よ。ミニコーナーになっていて、天井から名前を書いたプレートが下がっているから、すぐわかるわ」
 女の人は、まだ「ダン野沢」が死んだことを知らないらしく、特に驚いた様子もなく答えてくれた。どうやら、テレビなども取材に来ていないようだ。

 隆志は、他の展示には目もくれずに、まっすぐ「ダン野沢」のミニコーナーに向かった。
 夏休みにもかかわらす、館内も観客はまばらだった。ミニコーナーにも誰もいないので、隆志はゆっくりと絵を見ることができた。
 思いがけずに、「ダン野沢」の絵は、花や風景を描いた写実的なものではなく、純粋にイメージだけを伝える抽象画だった。
 「イマージュⅢ」と名づけられた一枚目の大きな絵は、たてよこななめの鋭い直線で構成されていた。
 製作年が、横に書いてある。
(ぼくが小学校へ入学した年だな)
と、隆志は思った。
 二枚目の絵は、丸でも四角でもない奇妙にゆがんださまざまな色のかたまりを、大きなカンバスいっぱいに散らした作品だった。
 でも、それぞれのかたまりは、ホアン・ミロのようなにじんだものではなく、くっきりとしたな線で縁取られている。
 この製作年は、
(ぼくが三年生のときだな)
そのころ隆志は、小さいころ罹っていた自家中毒が再発し、学校を二ヶ月も休んで入院していた。仕事と看病に追われて、おかあさんもげっそりやつれてしまっていた。

 三枚目の絵を見たとき、隆志のひまわりの絵を見て「おとうさんの絵に似ている」といったおかあさんの言葉が、頭の中に蘇った。
 そこには、ひまわりの絵で隆志が表現した世界が、より拡大され、より純粋に高められた形で存在していた。
 赤や黄色系統の色だけでなく、金や銀、青や紫といったさまざまな色彩が、鋭くとぎすまされた無数の円弧で描き込まれている。
 そしてひとつひとつの円弧が複雑に絡み合い、さらにさまざまな色彩を生み出していた。
 こうして見つめていると、色の渦の中に吸い込まれていきそうな気にさえなってくる。
 隆志は、作品とそれを生み出した「ダン野沢」の才能に圧倒されて、しばらくの間、絵の前から動けなくなってしまった。
「ダン野沢」の絵は、もう三枚あった。
 全部で六枚。ミニコーナーという名にふさわしい、本当にささやかなコレクションだった。
 その全部を見終えると、隆志は休憩コーナーにあった押しボタン式のウォータークーラーで、よく冷えた水を飲んだ。
 そして、かばんからあの新聞の切り抜きを取り出してみた。
 「ダン野沢」は、不鮮明な写真の中で、あいかわらず頼りなげに笑っている。
 隆志は切り抜きを手にしたまま、もう一度あの色の渦のような絵の前に立った。
 奔放に渦巻く色彩の迷路の前に、切り抜きの「ダン野沢」の写真を重ね合わせたとき、隆志は初めて「おとうさん」に出会えたような気がしていた。


夏の迷路
平野 厚
メーカー情報なし

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私たちの今日

2020-02-16 10:40:50 | 作品
 チャイムが鳴って、壁の7の数字に灯りがともった。美奈は、急いで7番のテーブルにむかった。
「ご注文でしょうか?」
「えーと、日替わりランチと焼き魚定食を一つずつ」
「ドリンクバーはお付けしますか?」
「いくら?」
「ランチにお付けする場合は110円になります」
「じゃあ、付けて」
「日替わりはライスになさいますか、パンになさいますか?」
「パンで」
「かしこまりました。それでは、ご注文を繰り返させていただきます。…」
 美奈は、オーダー用の端末をインプットしながら、客の注文を反復した。

美菜は、大学を卒業してからもう二年以上にもなる。彼女の今の仕事は、ファミリーレストランのウェートレスだ。正規の従業員ではなくアルバイトだった。
 美菜は、ここでバイトをしながら、学生時代からの就職活動もまだ続けている。大学を卒業してからの三年間は新卒採用にも応募できるので、中途採用だけでなく両方に応募し続けていた。
 学生のころと比べて企業の採用状況は大幅に改善されてきていたが、美菜のような文系の学部を卒業した女性にはまだまだ厳しかった。
 美菜は、毎週のようにエントリーシートを送っているのだが、なかなか正社員の仕事には就けなかった。企業によっては、建前は三年前までの既卒者にも新卒採用の門戸を開いているように見せかけて、実際はエントリーシートの段階で既卒者ははねているところもあるらしかった。
 かといって、アルバイト以外にこれといった職歴もないので、中途採用も難しかった。
 そのため、美菜は、新卒扱いの切れる来年三月までには、なんとか正規雇用の仕事を見つけたいと思っていた。それを過ぎると、新卒採用には応募さえできなくなってしまい、一方中途採用は職歴がなくてはねられるという就活の泥沼に落ち込むのだ。

 美菜が卒業した時は、まだリーマンショック後の新就職氷河期は終わっていたが、美菜のような文系の女子大生には企業は冷たかった。1999年に改正された男女雇用機会均等法が、かえって企業に女性を採用することをためらうように作用してしまったのだ。
 結婚や出産で辞めてしまうかもしれない女性に、男性社員と同じ給与を払って新人教育を行うなどの初期投資はできないというのが、企業側の論理だった。その傾向は、2008年のリーマンショック以降の新就職氷河期になるといっそう顕著になり、その後も企業の採用において定着してしまった。
 美菜は、卒業までにとうとう正社員の仕事に就けずに、派遣や契約社員などの非正規雇用の仕事を転々とすることになった。
 そのあげくに、学生時代にやっていたこのバイトにまた行き着いたのだ。まさに、元の木阿弥だった。
 大学に入る時に美菜が抱いていた夢は、卒業したら大企業の正社員になって、バリバリ働くことだった。いわゆるキャリアウーマンになることだ。そのために、無理して東京の共学の四年制の大学に進学したのだった。
 美菜の家は母子家庭で、経済的な余裕はまったくなかった。母親からは、大学進学の応援をしてあげられないことを、すまなそうに告げられていた。
 もっとも、美奈の方では、もともと母親からの支援は期待していなかった。
 生活費を考えると自宅から通える地元の大学に進むことも考えられたが、将来の就職のことを考えるとそこではかなり不利になってしまう。
 地元で就職できるのは、老人ホームなどの介護関係の仕事に限られ、それすら先細りになっていた。それで、東京での就職を希望していたのだ。
 美奈は、けっきょく目標にしていた東京の大学に進学できた。
 仕送りはほとんど期待できないため、借りられる奨学金はすべて借りて学資に充て、生活費はファミレスのバイトでがんばって稼いだ。
 そのころは、正社員になりさえすればボーナスももらえるし、奨学金の返済などは簡単だと思っていた。
 三年生になってからは、正社員になるための就職活動も懸命にやった。企業へのエントリーシートは、何十枚送ったかわからないくらいだ。
 でも、その大半が門前払いだった。一次試験も受けさせてもらえなかった。美菜の大学がいわゆる有名校でなかったことも災いしたかもしれない。やっと一次試験を受けられても、そこでほとんど全滅だった。面接までこぎ着けたことはまれだったし、最終面接まで残ったことは一度もなかった。けっきょく、卒業までに美菜が就けたのは、非正規雇用の仕事だけだった。
 こうして就活に失敗した今の美菜には、奨学金の返済が重くのしかかっていた。
 大学の同期でも、正社員になれた人たち、特に男子たちは、それぞれ新しい環境になれるのには苦労していたものの、充実した日々をおくっているようだった。
 そんな中で、美菜だけがすっかり取り残されたような気分だった。

「マチ、久しぶり」
 美菜は、長距離バスから降り立った真智子に手を振った。
「ミナーっ!」
 真智子が、こちらに走り寄ってくる。
 大学の同級生の真智子は、卒業後は地元に帰っているので、会うのは久しぶりだった。
 お店に入るとお金がかかるので、二人は美菜のアパートへ直行した。美菜のアパートは学生時代から変わっていなかったから、真智子も何度も行ったことがあった。
 これから二日間、真智子のおみやげと、美菜がスーパーやコンビニで買い込んでおいた食べ物や飲み物を食べたり飲んだりしながら、たまりにたまったおしゃべりをして過ごすつもりだった。
 真智子も、就職活動で数十社も不合格になった末に、やっと地元でレンタルビデオ店を展開している会社に就職していた。彼女も学生時代に抱いていた、東京で就職する夢は、あきらめざるを得なかった。
 今の会社では正社員だったが、小さな店舗の名ばかりの副店長というだけで、基本的な仕事はバイトの人たちとあまり変わらなかった。月給の手取りは十五万円しかなかったし、ボーナスも出なかった。
バイトが急に休んだりすると、そのしわ寄せが正社員である真智子にきて超過勤務をさせられる。
しかし、残業手当はいっさい出なかった。皮肉なことに、時給に換算すると、バイトの人たちよりもかえって低かった。

 美菜の部屋で、共通の友達の噂話がひと段落すると、二人の話題は、現在の生活へのグチになってしまった。お酒がはいったせいか、いつもは言えないで我慢しているようなことでも何でも話し合えた。それが今の二人にとっては、最高のストレス解消の手段だったのかもしれない。
 二人とも、その日その日を暮らしていくだけで精一杯だった。生活もぎりぎりまで切り詰めているので、今日みたいに思い切り食べたり飲んだりおしゃべりしたりして、憂さを晴らす機会もなかなかなかった。
 今の二人の共通の夢は、結婚して今の生活を抜け出すことだ。
「どんな人がいい?」
 美菜がたずねると、
「うーん。普通の人でいい。そんなにお金持ちじゃなくてもいいんだ」
「ふーん、学生ころは玉の輿にのるんだって、言ってたじゃない」
「もう、それどころじゃないのよ。年収三百万ぐらい稼いでいる人で十分。私なんか、正社員なのに二百万もいかないんだよ。それより美菜こそどうなのよ。相変わらずイケメン好きなの?」
「私もルックスなんか、もうどうでもいい。普通の人で十分」
 二人とも、もし結婚できたとしたら、結婚後も働くつもりだった。
 夫婦で助け合って普通の生活をする。それが今の二人の望みだった。
 でも、今のままでは、結婚相手を探すのもとても無理だ。毎日、働いて食べて仕事を探しているだけで、いっぱい、いっぱいだったのだ。
 彼女たちの周囲の男性たちも同様の境遇の人が多く、結婚相手にできるような男の人とは出会いがなかった。
 なんとか年収三百万円ぐらい稼げる安定した仕事に就いて、少し生活に余裕ができたら、男の人との出会いを見つけて、平凡でもいいから結婚したかった。
(一人口は食えぬが二人口は食える)
 そんな古い言い回しが、現代の貧しい若い人たちにも当てはまるようになっていた。ただ、その意味は、昔の「男性が働いて、女性は専業主婦」になるというカップルではなく、男も女も一人一人の賃金が安いので、「男性も女性も働いて、家事も平等に分担する」という新しいカップル像になっている。
 就職活動で痛い目にあった若い女性の中には、結婚相手を同世代の中で探すのでなく、経済的に安定した三十代後半、時には四十代の男性と結婚する、いわゆる年の差婚で、専業主婦の座を夢見ている人たちも多かった。
 しかし、美菜たちは違った。経済的に自立した女性になる夢だけは、まだ捨てていなかったのだ。

 今日も、美菜はレストランで忙しく働いていた。
 真智子は、昨日の夜行バスで地元へ帰っていった。次は、美菜が彼女のところを訪ねる約束だった。
 美菜は、お客を席に案内して、オーダーを取り、料理を運び、汚れた食器を片づけている。一日中ずっとその繰り返しだ。
 美菜の時給は、学生時代とまったく同じだった。そのころと違うのは、学校へ行かなくなったのでシフトの時間をずっと長くしていることだ。それでも、食べていくだけで精一杯だった。
 美菜が学生時代よりさらに苦しいのは、奨学金の返済があったからだ。毎月毎月、美菜のバイト代の半分近くを返済に使わなければならない。美菜は、もう数ヶ月分も、奨学金の返済を滞納していた。
 今の美菜には、過去を振り返ることも、将来を考えることもできなかった。
 学生時代の楽しかった日々を思い出すことは辛かったし、結婚などの将来もまったく想像できない。
 毎日、ファミリーレストランでバイトして、家に帰ってからは就活のためのエントリーシートを書く。
 今日一日を生き延びるだけで精一杯だった。



私たちの今日
平野 厚
メーカー情報なし
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ネットカフェにも朝は来る

2020-02-16 10:37:41 | 作品
 駅前のネットカフェは、朝早くからかなり騒々しい。終電を逃してネットカフェに泊まったお客たちが、始発が走り出す時間になると帰り支度を始めるからだ。
「うーん、…」
 明日美は、狭いブースの中で寝返りをうった。今日も、朝の騒音で彼女の浅い眠りは覚まされてしまった。言ってみれば、彼女にとってのこの騒音は、最低のモーニングコールといったところだ。
 といっても、彼女が寝ていたのは、もちろんベッドではない。備え付けのリクライニングチェアで、寝ていたのだ。毎晩、特に週末は、泊りの客がたくさんいるので、この店のリクライニングチェアは飛行機のファーストクラスの席みたいなフルフラットとまではいかないが、かなり後ろに倒すせた。だから、明日美は身体を丸めて横になることができるのだ。
でも、彼女は十四歳にしては体が大きい方なので、ここのチェアは少し狭かった。
 こうして、いつもの浅い眠りは次第に終わりを告げて、今日も明日美の長い一日が始まる。夢ばかり見ていたせいか、長時間寝たのに明日美の頭はぼんやりとしたままだった。
 ブースの広さは、たたみ一畳ぐらいしかない。
備品は、テレビチューナー付きパソコンを載せたテーブルとリクライニングチェアがあるだけだ。ただ、明日美は長期滞在者なので、身の回りの品もブースのしきりのまわりに置いている。といっても、ボストンバックとデイバックがひとつずつあるだけだったけれど。
それでも、彼女の持ち物は他の人たちと比べて少ない方だから、そんなにギチギチではなかった。

 ブースのドアが軽くノックされた。
 明日美がドアを開けると、両そでが擦り切れたダウンベストを着た姉の今日香が顔をのぞかせた。マスクをしてサングラスもかけているので表情はよくわからないが、今日香もよく眠れなかったに違いない。彼女も少し離れた奥の方のブースで夜を過ごしたのだ。
 今日香は、四つ年上の十八歳だ。でも、明日美と同様にまったく化粧っ気がないので、もっと幼く見える。安っぽいサングラスは、年相応に見せるための精一杯の扮装だった。
「おはよう」
 明日美が声をかけると、
「眠いね」
 今日香はボソッと答えた。
「うん、いくら寝ても寝足りないみたい」
 明日香が答えると、
「まあ、ここじゃあ、しかたないけど」
「うん」
「じゃあ、行ってくるね」
 今日香は片手を軽く上げて、すぐに姿を消した。こんな早朝から、近くのコンビニでバイトなのだ。中卒の今日香が、やっと見つけた仕事だった。これから夕方まで、十時間以上も働かねばならない。

 明日美ももう起きることにしたが、今日香と違って外出するわけではないので、着替える必要はない。一日中、いや一年中、上下のスウェットのままだった。
 明日美は、色違いの同じようなスウェットの上下を二着持っていて、一週間交代で着替えている。一週間着たスウェットは、下着などと一緒に近所のコインランドリーで洗濯していた。どちらのスウェットも、もう長い間着ているのですっかり色落ちしている。
 でも、今日香以外の誰に見せるわけではないので、全然気にならなかった。さすがに穴があいたら新しいスウェットを買おうとは思っていたが、よっぽど丈夫な素材でできているのか、まだまだ大丈夫そうだった。
ネットカフェの中は、一年中エアコンで快適な温度にコントロールされていた。だから、明日美が持ち込んでいる衣服は、今日香と比べても驚くほど少なかった。
 明日実のブースの前を、人が歩いていく音が聞こえてきた。
でも、誰もブースの中には入ってこられないから安心だった。このネットカフェでは、明日美たちのような長期滞在者のブースは鍵がかけられる。フロントにキーを預ければ、いつでも外出できた。
といっても、明日実が外出するのは、ネットカフェの入っているビルから50メートル先にあるコインランドリーだけだった。明日美の方がはるかに時間の余裕があるので、いつも今日香の分も一緒に洗濯をしてあげている。
そんな、一週間に一度の外出の時も、コインランドリーの洗濯機をセットすると、明日実は急いでネットカフェの自分のブースを戻っていた。誰か知っている人に会うのも怖かったし、古ぼけたスウェット姿を人に見られるのも嫌だった。とても、コインランドリーの中で出来上がりを待っていられなかった。

「あーあ」
 明日美は、大きく伸びをしながらチェアから立ち上がった。同じ姿勢を長時間保っていたので、体の節々が痛い。明日美は、昼夜逆転しないように、日中はなるべく起きていて、夜は11時には寝るようにしている。
すぐにブースを出て、眠気覚ましのコーヒーを飲みに、店内のドリンクバーへ向かった。迷路のように何度も曲がりくねった細い通路を歩いていくと、両側には細かく仕切られたブースが続いている。こんなに狭いところにたくさんの人がいて、もし火事でも起こったら逃げられるのだろうかと、初めのころはビクビクしていた。
でも、長く暮らしていると、いまさらそんな心配をしても仕方がないので、それ以上は考えないことにしている。
 ドリンクバーには、明日美たちと同様にこのネットカフェで寝起きしている住人たちが、すでに集まってきていた。長く居るメンバーたちは、すっかり顔を覚えてしまっていた。
 でも、お互いにあいさつを交わしたりはしない。まったくの没交渉だった。へたに仲良くなってプライベートな事を聞かれるのは嫌だった。
 ここのドリンクバーには、エスプレッソマシンの他に、コーラやジュースなどのソフトドリンクの機械や、ソフトクリームマシンまでがあった。前にはコーンスープや味噌汁もあったのだが、残念ながら機械が変わってからはなくなってしまっていた。
 明日美は、いつものようにホットカプチーノのボタンを押した。
 プシューと勢いよく水蒸気を吐き出しながら、褐色のコーヒーと乳白色のミルクがカップに注がれていく。
 明日美は、さらに備え付けのミルクと砂糖をたっぷり入れて、甘い甘いカプチーノを作る。
 これだけが、毎日の明日美の朝食だった。

実は、明日美たちの母親も、この同じネットカフェにいた。
 二人が幼いころに離婚した母親は、病院の看護助手の仕事をして、一人で二人の娘たちを育てていた。三年前までは、狭いながらも普通のアパートで、母娘三人で暮らしていたのだ。
 そのころ、明日実はまだ小学生で、普通に学校へ通う日々だった。
 もともと引っ込み思案なところがある彼女は、クラスではまったく目立たない存在だった。
 それでも、学校の往き帰りにおしゃべりしたり、時には放課後や休日に一緒に遊んだりできる友達も何人かはいた。
 姉の今日香は中学生で、成績はそれほど良くなかったし、経済的な理由で塾へも通えなかったが、地元の公立高校を目指して勉強をしていた。
 明日実も、漠然とだったが、将来は姉と同じような道を進むのだと思っていた。
 そう、彼女たち三人の家庭は、どこにでもありそうな普通の家族だったのだ。
 母親の仕事は夜勤も含む不規則なものだったので、姉妹は幼いころから家事を交代でこなしていた。
 炊事、洗濯、掃除、……。
 母親は、家にいる時は、夜勤の睡眠不足を補うように寝ていることが多かったので、二人でできるだけ家事はこなして、なるべく母親に負担がかからないようにしていた。
 明日実が幼いころは今日香が、今日香の勉強が忙しくなってからは明日実が、中心になって家事を負担していた。

 そんな貧しいながらも平穏な生活を送っていた三人の生活に変化が起きたのは、四年ぐらい前からだった。
夜勤の多い重労働の仕事と二人の子育てに疲れはてた母親が、しだいに精神のバランスを失ってしまったのだ。時に激しく感情を爆発させたかと思うと、うつろな目をして何日も黙り込んでしまう。常習化していたアルコールの大量摂取も、そういった気分障害を発症した原因のひとつだったかもしれない。
「おかあさん、もうお酒を飲まないで」
 明日実と今日香は、何度も母親に頼んだ。
しかし、いったん依存症に陥ると、なかなか酒を飲むのを止められなかった。夜勤明けの休みの日などは、目を覚ますとすぐに酒に手を出すようになってしまった。
それでも、病院へ出勤する前は、何とか飲酒はしないようにしていた。
しかし、次第に誘惑に負けてつい深酒をしてしまい、しだいに仕事も休みがちになり、ついには勤めていた病院をくびになった。
その後もいろいろな病院を転々としていたのだが、どこでも無断欠勤などで問題を起こすようになり、だんだんまともに働かなくなり、一家の収入は激減してしまった。
 まだそのころは、今日香もバイトができる年齢には達していなかったので、家計を助けることはできなかった。
 とうとう家賃や公共料金まで滞納するようになり、そのために電気やガスといったライフラインも止められてしまった。
 その時、家にはまだお米などの食材が少しだけはあったのだが、明日美たち一家はもう食事ができなかった。なにしろ電気もガスもきていないので、ご飯すら炊けなかったからだ。
 そして、今日香は、高校進学も断念しなければならなくなった。
 社会の片隅でつつましく生きてきた明日美たちの家庭は、こうして完全に崩壊してしまった。

アパートを追い出された三人は、駅前のビジネスホテルへ緊急避難した。
母親はシングルルームへ、明日実と今日香はツインルームだった。
その地域では一番安いホテルだったが、それでも二部屋だと一万二千円もかかってしまう。
本当は、三人の手持ちのお金は、一日分もなかった
母親はその日も泥酔していて、部屋から出てこなかったので、二人で自宅の部屋の片づけをした。
テレビや冷蔵庫や洗濯機などの家電製品や家具は使うあてもないので、リサイクルショップに連絡して、全部引き取ってもらった。
それらを売ったお金で、何とかビジネスホテルに払うお金ができた。
衣類など必要な物は、レンタルルームの一番狭いスペースに預けた。
それでも、月に三千円もかかってしまう。
これらも処分して、本当に必要な物だけにしなければならなかった。
その後は、三人はもっと安いビジネスホテルを転々とした。
そして、とうとうそのビジネスホテルの料金も踏み倒すようになった。今日香がシングルルームにチェックインして、後で二人が忍び込むのだ。そして、チェックインだけして、お金を払わずに逃げ出すのだ。
しかし、業界のブラックリストに載ったのか、宿泊を拒否されたり、前払いを要求されるようになり、ビジネスホテルは使えなくなった。
しかたなく、三人はネットで調べたドヤ街へ移った。
そこでの一日当たりの料金はビジネスホテルよりは安かったが、当然前金なので踏み倒すことはできなかった。
 しかし、そういった場所も、長く暮らすにはお金がかりすぎた。

 最終的に三人が流れ着いた先が、この駅前のネットカフェだ。この店の一日の料金は二千四百円だったけれど、明日美たちのような長期滞在だと千九百円に割引される。一ヶ月分を計算すると割高なようにも感じられるが、ここだったら公共料金は払わなくていいし、テレビ付きパソコンもエアコンもトイレもシャワーもドリンクバーも完備している。家具を買う必要もないし、インターネットも、ゲームも、漫画も、雑誌も、やり放題見放題だった。
 といっても、
「こんな変なところには長居してはいけない」
と、今日香は明日美にいつも言っている。
 しかし、敷金などの最初に払うまとまったお金や保証人などがネックになって、二人だけではアパートが借りられなかった。頼んで日払いにしてもらっている今日香のバイト代だけでは、毎日カツカツにしか生活できなかった。明日美は、中学を卒業していなかったからまだ働けなかった。
 母親は、時々派遣で看護助手の仕事をしているようだったが、アルコール依存症がまだ治っていなくて、酔うと暴力をふるうことがあるため、もう一緒には暮らせなかった。
 住民票をネットカフェのあるビルの住所に移しているので、明日美たちは郵便も受け取ることができた。めったにかかってはこないが、電話も取り次いでもらえる。通信料金が高いので、二人ともスマホもガラケーも持っていなかった。
ここにいればとりあえず普段の生活には不便はないので、母娘三人が別々のブースでもう二年半も暮らしている。

 通常、ネットカフェは、ゆっくりビデオを見たりインターネットをしたりする人たちが利用している。パソコンを持っていなかったり、スマホでは容量が足りなくて自由に動画を見たりできない人が多い。中には、アダルトビデオやアダルトサイトを見るために来ている男性たちもいた。
 ドリンクバーは無料だったし、有料で食事をしたりシャワーやマッサージ機も利用したりできるので、長時間滞在しても快適に過ごせるように工夫されている。
 料金は短時間だと割高だが、長時間だと安くなる様々なパックが用意されているので、長い時間利用する客が多かった。特に、駅前に近い店では、夜間は終電を逃したお客が泊まることが多いので、無料のモーニングサービスが付いていることもあった。
 明日実たちがいるネットカフェには、長期滞在者が全六十四ブース中七割以上もいる。その大半が、明日美たちのような若い女性だった。体の大きい男性にとっては、このブースでは狭すぎて、ネットカフェは長期滞在に向かないのかもしれない。それに、彼らには、ドヤや脱法シェアハウスのような受け皿が他にあった。
 この店では、長期滞在者を原則として一つのエリアにかためている。女性たちの安全をはかるためと、ブースを利用する時間が一般の利用客と異なるので、区別した方が運営しやすいからだ。そのエリアのブースだけが鍵がかけられるようにしてあるのも、トラブル防止のためだった。
 店の業績は好調で、この会社では同様のネットカフェを都内だけで他に三軒も経営している。ネット難民の生活の便を良くすることにより、長期滞在者を増やしてブースの稼働率を高めるのが、この会社のビジネス戦略のようだ。いわゆる脱法シェアハウスの、ネットカフェ版、女性版なのかもしれない。もちろんこの業態も法律違反すれすれなのだが、結果として行き場のない貧しい若い女性たちを救済していることになっている。

今でこそ明日美は一日中ネットカフェの中にいるが、去年の夏まではとぎれとぎれだったけれど学校へ通っていた。初めは、そのビジネスホテルなどから元の学校へ通っていた。ここに来てからは、現住所をネットカフェの所在地に移したので、近くの小学校に転入できたのだ。
その後、出席日数が怪しかったが、中学校へも進学できた。ブースの中で、学校側の好意で用意してもらったお古のセーラー服に着替えて、通学していた。
 しかし、もう半年ぐらい、明日美は学校に通っていなかった。あのまま学校にいたら、明日美は来月からはもう中学三年生になる。
 学校に通っていたころ、明日美は、ネットカフェで暮らしていることを、小学校や中学校のクラスメートには秘密にしていた。もちろん、先生たちはどこから通っているか知っていたが、内密にしてもらえていた。
でも、中学生になったころから、そういった二重生活に疲れて、明日実はしだいに学校をさぼるようになってしまった。クラスメートにどこで暮らしているのが知られるのが怖くて、突っ込んだ話はできなかった。そのせいもあって、親しい友だちはできなかった。
それに、姉と同様に自分も高校へは進めないだろうと思っていたから、授業にも集中することができなかった。授業中も、休み時間もポツンと一人で過ごすことが多かった。
ネットカフェで暮らすようになってから、明日実がだんだん何事にもあきらめの気持ちを持つようになっていたのも、学校へ行かなくなったことに影響したかもしれない。

 明日美のきちんとした食事は、原則一日一回だった。それを姉が帰ってくる夕方に一緒に食べていた。基本的には、朝食と昼食は抜きだった。
 実は、近くの別のネットカフェが無料モーニングを始めた事を、今日香がコンビニのお客に聞いたことがあった。しかも、食べ放題だというのだ。
 さっそく、その翌朝、六時からやっているというその無料モーニングの様子を、二人で見に行った。
実際のモーニングは、パンとフライドポテトだけの質素な物だったが、トースターが置いてあるので、パンを焼くことができるし、マーガリンやジャムも使い放題なようだ。そばには、フライドポテト用のケチャップまでが置いてある。
 毎日、朝食抜きの二人には夢のようなモーニングサービスだった。
 しかし、店員に話を聞くと、そのネットカフェには、明日美たちのような長期滞在者は受け入れていなかった。
二人は涙を呑んで、夢のモーニングセットをあきらめることにした。
 そんな明日美だったが、たまに夕食の食べ物が残ると、朝にもう一食を食べることもできた。今日はラッキーにも食パンが少し残っていたので、明日美はカプチーノとともにそれを口にすることができた。普段は、どうしても空腹が耐えられない時には、明日美は無料のドリンクバーに通って飢えをしのいでいた。おなかをごまかすのには、お茶類よりも甘いジュースや炭酸飲料の方が有効だった。
紅茶やコーヒーにもたっぷり砂糖を入れていた。
ソフトクリームも甘くていいのだが、食べすぎるとおなかが冷えてしまうので、一日一回に決めていた。
 毎日一食にもかかわらず、明日美はほとんど痩せていなかった。いやむしろ太ったぐらいだ。運動不足と糖類の取りすぎが原因だろう。明日美自身もなんだかむくんだ感じがしていて、彼女の栄養状態は最悪だった。
 インターネット、テレビ、ゲーム、雑誌、漫画、…。ネットカフェには、暇つぶしに適したエンターテインメントがあふれている。
 しかし、明日美はそのどれにも飽きてしまっていた。そのため、一日が死ぬほど長く感じられた。

 現在の明日美の唯一の楽しみは、小学校一年生から五年生まで通っていた、かつての地元の小学校のホームページを見ることだった。個人情報の流出に配慮してか、子どもたちの写真などはなかったが、明日美にとっては懐かしい校舎の写真やみんなで唄った校歌の歌詞などが載っていた。
 それらをぼんやりとながめていると、まだ幸せだったころが思い出されて、ほんのちょっぴり心が和まされた。アパートを出てからの学校には、それぞれ短期間しか通えなかったので、あまり想い出はなかった。

気が遠くなるほど時間がたったように明日美には思えたころ、ようやく今日香がバイトから帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
長時間のバイトのせいか、今日香は疲れきった顔をしていた。
「じゃあ、着替えてくるね」
 すぐに姿を消した今日香は、しばらくして明日美と同じようなスウェット姿で戻ってきた。
 これから、明日美待望の夕食が始まるのだ。
 明日美のブースで、二人は肩を寄せ合うようにして夕食を食べ始めた。今日香のブースの方は、四方を雑多な彼女の持ち物で取り囲まれているので、二人で入る余裕はなかった。
 食事のメインは、今日香の勤め先のコンビニで消費期限を過ぎたサンドイッチやおにぎりや惣菜などだった。それらはコンビニ本社の規則では廃棄しなければいけないのだが、店長の好意によって捨てたことにして内緒でもらうことができた。時々は、明日美の栄養を心配して、魚の缶詰や魚肉ソーセージ、牛乳などのタンパク質源も、今日香が近くのディスカウントストアで買ってくることもあった。
 今日香の方は、一日中体を動かさなければならないので、やはりコンビニの廃棄品などを休憩時間に食べているのだが、明日美にとっては本当に唯一のまともな食事だった。
 二人はゆっくりゆっくりとつつましい晩餐を、小声でささやきあいながら食べている。
「今日はどうだった?」
「うん、いつもと変わらないけど、天気がいいから食べ物の売れ行きがよくて、あんまり廃棄が出なかった」
 今日香が持ってきてくれた夕食は、サンドウィッチが一つとおにぎりが二つ、それにほうれん草のゴマ和えだけだった。二人はそれを分けあって、少しずつ食べていた。
 二人の毎月の収入は、今日香のバイト代の十万円程度と、母親が時々気まぐれにくれる数万円だけだった。
 母親からお金をもらうのは明日美の役目だったが、本当はそれが嫌で嫌でたまらなかった。母親のブースからは、いつもプーンとアルコールのにおいがしていた。ネットカフェでは飲酒は禁止されているのだが、母親は密かに飲んでいるのかもしれない。このままでは、母親のアルコール依存症はいつまでも治らないだろう。
 どんなに嫌でも、母親からお金をもらわなくてはならなかった。その数万円がないと、このネットカフェからも出ていかなければならないのだ。そのお金を足しても、毎日精算が要求されている二人分のネットカフェ代を払うと、あとはいくらも残らなかった。
 二人の願いは、明日の住む所と食事を心配しなくてもいい暮らしをしたいことだけだった。

 ある朝、明日美が自分のブースから出ると、隣のブースの前に荷物が積まれていた。
 隣にいるのも若い女性で、妊娠しているのでおなかが大きかった。同棲していた男がおなかの子どもを認知してくれなくて別れたので、行き場がなくてここにたどり着いたのだ。いよいよ出産が間近になり、そういった女性たちをサポートしてくれるNPOの世話で、やっとネットカフェから施設に移ることができた。
 しかし、生まれてくる子どもを一人で育てる自信はなくて、出産してすぐに養子に出す予定だった。
 明日美がその場に立ち止まって見ていると、ブースからいよいよおなかが大きくなった女性が出てきた。
「さよなら」
 その女性は、小さな声で明日美に言った。
「さよなら」
 明日美も小声で答えた。彼女は半年近くも明日美のブースの隣に「住んでいた」のだが、二人が言葉を交わすのはそれが最初で最後だった。
 彼女の姿が見えなくなると、すぐにネットカフェのスタッフがやってきてブースの清掃を始めた。ビジネスの効率のために、長期滞在エリアのブースは、ひとつでも空けておくことはできない。
 明日美が自分のブースに戻っていると、昼前には早くも新しい人が隣のブースに入ったようだった。

 しばらくして、明日美のブースのドアが軽くノックされた。
 明日美が細くドアに隙間を開けると、知らない若い女の人が立っていた。
「初めまして、あたし、愛媛から来た山本優樹菜です」
 女の人は、満面に笑みをたたえている。すっかり無気力になっている明日美たちとは違って、すごく元気そうな人だった。
「坂東明日美です」
 明日美もボソッと答えた。他のブースの人に声をかけられたことがなかったので、少々面食らっていた。
「あら、明日美ちゃん、若いのねえ。中学生?」
「いえ、もう卒業しました」
 明日美はあわててそう答えた。フロントでは見て見ぬふりをしてくれているが、中学生だということがばれると、ここからも追い出されてしまうかもしれない。
「ふーん」
 優樹菜は、少し疑わしそうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻って、大きなミカンを二つ差し出した。
「あたし、愛媛から今朝来たばかりなの。これ地元の名産だから、引越しのあいさつ代わりというところね」
 明日美は、コクンとうなずいてミカンを受け取った。夕食の時に、今日香と一つずつ食べようと思っていた。
「ちょっと、あたしんのところに来ない?」
 ドリンクバーでそれぞれの飲み物を取った後で、明日美は優樹菜のブースへ行った。
 明日美たちのところとは違って、隅にキャリングケースがひとつあるだけなので、二人で入っても十分余裕があった。
 優樹菜の話によると、彼女は地元にある福祉系の大学に通っているのだそうだ。
 優樹菜の家も離婚による母子家庭で、小さいころから貧しかった。大学にやる余裕はとてもないと母親に言われていたけれど、優樹菜はどうしても勉強して、祖父母の代から続くこの貧困の連鎖から抜け出したかった。母親からの仕送りはぜんぜん期待できなかったので、学費や生活費をすべて自分で稼がなければならない。
 でも、地元では賃金がすごく安いので、奨学金とふだんのバイトでは、生活費だけでいっぱいいっぱいだった。そのため、長い休みになると、賃金の高いバイトのある東京へ学資を稼ぎにやってきている。東京ではいつもこのネットカフェを使っていたので、ここではもう常連になっていた。
 でも、優樹菜はほとんど仕事へ行っているし、帰ってからは自分のブースで寝るだけだったから、今まで明日美とは出会ったことがなかった。
「夜行バスで13時間もかかったの。もうくたくたよ」
 そう言いながらも、優樹菜はエネルギーにあふれていた。明日からは、三つの仕事を掛け持ちしてガンガン働く予定だった。それも、賃金の高い工事現場や深夜の仕事ばかりを選んでいる。
 彼女の母親も、地元でバイトやパートを掛け持ちでやって懸命に働いているけれど、女性の給料では自分一人が食べていくのがやっとで、彼女の仕送りまではなかなか手が回らなかった。現在でも、日本では女性の平均賃金は男性の七割しかないのだ。
「おかあさんは、自分の年金の保険料も払えていないんだよ」
 優樹菜は、そう言ってため息をついた。

 明日美と話しているうちにだんだん自分で興奮してきたのか、優樹菜は見ず知らずの明日美に将来の夢を語り出した。
「卒業したら、年収三百万以上は稼げる仕事に就きたいの」
「大学を卒業したら、そんなすごい仕事があるの?」
 中学にも通えないでいる明日美には、大学など遠い夢だった。ましてや三百万円などという大金は、いつも百円足りるか足りないかで今日香と二人で苦労しているので、想像もできなかった。
「ううん。福祉系の仕事がいいんだけど、そんなに稼げる仕事に地元でつけるかどうかはわからないんだ。愛媛では高齢者が減ってきていて、今まで地元の主力産業だった介護施設の就職も厳しくなっているって、先輩が言ってたのよ。入居者が亡くなって空きができても、最近は新しい応募者がいないんだって」
「…?」
 まわりにお年寄りがいない明日美には、よくわからなかった。
「うちの近くでも、どの商店もお年寄りの年金だけが頼りだったんだけど、そういうお客さえめっきり減って、店を閉めるところも増えてきているの。町の中心の商店街でも、建物を壊して更地になるところが増えているし」
「そうなんだ」
 東京生まれの明日美には、優樹菜のする地方の町の話がピンとこなかった。
「地方はどこも大変なのよ。だから、地元の介護の企業も、愛媛に見切りをつけて東京進出を図っているんだって。先輩たちも働く場所がなくなったから、その会社のつてでどんどん東京へ出て行っているのよ。将来、その会社が東京で施設をオープンしたら移籍するって裏約束で」
「優樹菜さんはどうするの?」
「私も地元で就職がダメだったら、東京に出てくるしかないかもね。本当はおかあさんが心配だから地元に残りたいんだけど。もし残っても、地元では若い女の子たちがいなくなったせいで、生まれてくる子どもたちももうほとんどいないから、将来は町自体が消滅してしまうかもしれないし」
「ふーん、それでみんな東京に来るのかなあ」
「まあ、おかあさんには、自分に余裕があったら仕送りすればいいんだけど。でも、東京では家賃が高いでしょ。暮らしていけるかなあ? それに、地元と違って知っている人がいないから、男の人との出会いもあるのかわかんないし。将来、結婚できるんだろうかと思うと、不安だらけなんだけどね」
 優樹菜はそう言って、さびしそうな笑顔を浮かべた。
「……」
 明日美が黙っていると、優樹菜が自分を奮い立たせるようにして、
「でも、今は頑張るしかないのよ」
と言った。
「私も学校へ戻りたい」
 つられたように明日美もポツリとつぶやいた。
「やっぱり、中学生なのね」
 優樹菜に言われて、明日美はコクンとうなずいた。

 その日の夕食の時、明日美は、優樹菜の話や自分もここを出て学校に戻りたいことなどを、姉に話した。
 今日香は、何も言わずに箸を止めて、そんな明日美の顔をじっと見つめていた。
 あるいは、うまく行政に頼ることができれば、二人は今の暮らしを抜け出せたかもしれない。しかし、役所はあまりにも窓口が細分化されていて、彼女たちにはどこに相談すればいいのかわからなかった。今では、二人ともすっかりあきらめの気持ちになっている。
 二人はそれ以上明日美の希望については話し合わずに、食事を続けた。
「おやすみ」
 今日香がブースから出て行ってからも、明日美は昼間の優樹菜の話を考え続けていた。

 翌朝、今日香はいつものように明日美のブースに顔を見せた。
「おはよう」
 明日美が声をかけると、
「今日、バイトを休むから」
と、今日香は言った。
「どうしたの? 身体の具合でも悪いの?」
「ちょっと出かけてくる」
「どこへ?」
「うん、…」
 今日香は答えずに、そのままブースのドアを閉めて、どこかへいってしまった。明日美は、思い詰めたような顔をしていた姉が心配だったが、何もすることができなかった。

 午後になって、思ったよりも早く今日香は戻ってきた。
 ブースに入ると、今日香は黙ったまま、明日美にパンフレットを渡した。通信制高校のパンフだった。
「ここに通って、卒業したら福祉関係の専門学校にいきたい。それから、あなたも学校に戻してあげたい」
「…」
 明日美は、今まで姉がそんなことを言ったことがなかったから、びっくりして何も言えなかった。
 実は、今日香は、バイトを休んでもっとお金を稼げる仕事を見つけに行ったのだ。
 それは、ネットで見つけたデリバリーヘルスという風俗の仕事だった。ブースのパソコンで調べたネット情報によると、日給は三万円以上で今のバイトの5倍近くももらえる。ワンルームマンションの寮も完備しているので、ここを出て明日美と一緒に住めるかもしれなかった。
 今日香たちには関係ないけれど、その店では託児所を経営している会社とも提携していた。言ってみれば、あまりにも無力な行政に代わって、若い貧困女性のセーフティネットのような機能を備えているのだった。
 しかし、今日香は、さんざん迷ったあげく、そのデリバリーヘルスの事務所へは行かなかった。やっぱり男の人の相手をする風俗の仕事は怖かった。しかも、どうやらその事務所はたんなる待機所で、女の人たちは一人でお客の待つホテルの部屋に行かなければいけないようなのだ。密室で男の人と二人きりになるなんて、恐ろしくて想像もしたくなかった。
 代わりに今日香が行ったのは、やはりネットで見つけた「JKリフレ」というお店だった。そこは、男の人とは店内のカウンター越しに話しをするだけでいいようだった。それならずっと安全そうに思えた。
 でも、そのお店の給料の情報は、ネットではよくわからなかった。

 今日香は、思い切って開店前のお店のドアを開けた。
 中には、背の高い若い男が一人いるだけだった。それほど怖そうな人じゃないので、今日香はホッとしていた。
「入店希望?」
 男は愛想よく言った。
「あのー、…」
 今日香は、恐る恐る仕事の内容について尋ねた。
 仕事自体は、ネット情報通りに男の人とおしゃべりするだけだった。
「給料は?」
「時給千円。後は指名がつけば三十分単位で一本千円」
 それじゃ、今のバイトとそんなに変わらない。今日香は、自分が客から指名されることなど想像もできなかった。
 今日香が黙っていると、
「ここは接触サービスがないからね。給料が不満なら、風俗へ行ったら。おねえさん、十八になってるんでしょ」
 男は急に今日香に興味を失ったようで、ぞんざいにそう言った。
「ここは風俗じゃないんですか?」
「なんだ、そんなことも知らないの。ところで、あんた高校生? ここは、女の子が全員現役女子高生なのが売りなんだから。ねえ、生徒証を見せてよ」
 男にそう言われて、今日香はあわてて店を飛び出した。

 1999年を境に、今日香たちのような若い女性たちの貧困化が急速に進んでいる。皮肉にも、その年に施行された男女雇用機会均等法が、女性の正社員としての就職の妨げになったのだ。結婚や出産で辞めてしまうかもしれない女性に、男性と同じ給料を払って新人教育はできないというのが、企業側の論理だった。
 同時に始まった労働者派遣法の規制緩和もそれに拍車をかけて、若い女性たちに非正規雇用の波が大きくのしかかっている。
 かつては、そういった女性たちの非正規雇用労働の収入は、正規雇用の男性配偶者の補助的な役割にすぎなかったのだが、非婚化が進んだ今では、それだけで女性たちは生活しなければならない。せっかく苦労して大学を出ても、多くの女性たちが正規雇用につけないので、奨学金の返済が重くのしかかっている。このままでは、彼女たちは普通の結婚もできない状態だった。

「でも、なんとかあなただけでも学校へ行かれるようにするから」
 今日香は、風俗のことなどを話した後で、明日美に言った。
「本当に、ここを出られるの?」 
 明日美がたずねた。学校へ戻るにしても、前のようにネットカフェから登校するのは嫌だった。それでは、なんにも変わらない。
「うーん、…」
 今日香も、困ったように黙り込んだ。学校へ通うのにも、ここを出るのにも、かなりまとまったお金が必要だ。今日バイトを休んだために、今日香の所持金は五千円をきっている。明日美の方ときたら、非常用に持っている千円札が一枚と小銭だけだった。これでは、今日の二人分のネットカフェ代、三千八百円を払うのがやっとだった。
「やっぱり風俗しかないよね。これから、デリバリーヘルスの事務所へ行ってみる」
「だめ、そんなところ」
 明日美は、つい大声を出してしまった。
「でも、それしか方法がないよ」
「だめだったら、…」
 二人は、我を忘れて大声で言い争っていた。

 いきなりブースのドアが強くノックされた。
 二人が騒いでいたのでお店の人が注意しにきたのかと、おそるおそるドアを開けると、外には優樹菜が立っていた。隣が騒々しかったので、優樹菜は仮眠から起こされてしまったのだ。彼女は、夕方からの仕事に備えて休んでいるところだった。
「風俗はだめ」
 優樹菜は、狭いブースの中に無理矢理入ってくると、ズバッと言った。
 三人が同時に入ると、ブースの中はギチギチだったので、三人は立ったままだった。
「でも、…」
 今日香が反論しようとすると、
「風俗は、本当に最後の最後の最終手段よ。まだ他にも方法があるから」
「…」
 優樹菜に強く言われて、今日香は黙ってしまった。
「明日の朝、区役所へ行こう」
「区役所?」
 今日香が繰り返すと、
「そう、区役所。何とか窓口で交渉して、あなたたちの住むところを見つけてあげる」
「えっ、ここを出られるの?」
 明日実はネットカフェを出られると聞いて、思わず口を挟んだ。毎日毎日ここで暮らすのは、もううんざりしていた。
「無駄よ。役所に相談したら、きっと二人バラバラの施設に入れられてしまうから」
 今日香は、前に役所の窓口へ行ったことがあったのだ。その時は、さんざんあちこちの部署をたらい回しにされたあげくに、二人がそれぞれ別の未成年者を収容する施設に入れられそうになった。これ以上家族がバラバラにされることには耐えられない。
「ねえ、あなたいくつ?」
 優樹菜が、今日香にたずねた。
「十八」
「なら、大丈夫よ。仕事もしてるんでしょ。あなたが所帯主になって、区営住宅に入れるんじゃないかな」
「でも、お金が、…」
「大丈夫よ。区営住宅は敷金も礼金もいらないし、収入が少なければ家賃も減免されるから。保証人が心配なら、そうしたことをしてくれるNPOもあるみたいだし」
 優樹菜は、母親と暮らしていた時に、地元の町営住宅に住んでいたので、そうした事情に詳しかった。
「えっ、本当?」
 今日香が聞き返すと、
「とにかくダメ元よ。やってみなければわからないって。ネットカフェなんかにいたら、けっきょく割高なんだから。長期割引っていっても、私みたいに数週間だけならいいけれど」
 優樹菜が、励ますように二人の顔を見ながら言った。
「でも、優樹菜さん、明日も仕事があるんじゃないの?」
 明日美がたずねると、
「大丈夫。朝の八時には戻ってくるから」
 優樹菜は、夕方の五時から十二時までが居酒屋のホールのバイトで、続けて夜中の一時から七時まではコンビニの深夜バイトをしている。それに、割のいい夜間の工事現場の仕事も、他のバイトが休みの日に不定期にやっていた。
「今日みたいに、帰ってから寝なくても平気なの?」
 明日美が言うと、
「一日ぐらい寝なくたって大丈夫、若いんだから」
 優樹菜は、そう言って笑って見せた。
 でも、もしかすると、組織が縦割りになっている役所との交渉は、一日じゃすまないかもしれない。そうしたら、何日も粘り強く交渉しなければならないだろう。かといって、後を二人だけにまかせるのは心許ない気が、優樹菜はしていた。
「そうねえ。長期戦に備えてもっと援軍がいるかもね。ちょっと待ってて」
 優樹菜はそう言いながら、ブースを出ていった。

 しばらくして、優樹菜が戻ってきた。若い男の人が一緒だったので、明日美と今日香は緊張した。
「深川くん。二人とも知ってるでしょ」
 たしかに顔に見覚えがあった。ネットカフェのバイトの一人だった。
「彼も私と同じ十九歳で大学生なの」
「よろしく」
 深川さんはペコッと頭を下げた。笑うと親しみやすそうな顔になったので、二人は少し安心した。
「あたしが行かれない日には、彼が一緒に役所へ行ってくれることになったから」
「えっ!」
 二人が驚いていると、
「優樹菜さんって、強引なんだから」
と、深川さんはぼやいていた。
「なんたって、二人はお店のお得意様なんだから、このくらい、サービス、サービス」
 優樹菜にそう言われて、深川さんは苦笑いしていた。
「長期戦といえば、あなた明日もバイト休んで大丈夫?」
 優樹菜は、今度は今日香にむかってたずねた。
「…」
 今日香が不安そうな顔をしていると、
「電話、電話。まずバイト先と交渉よ」
 二人がケータイを持ってないことを知ると、優樹菜は自分のスマホを出して、今日香に聞いた番号にかけた。
「もしもし、…」

 優樹菜の交渉結果は上々だった。コンビニの店長は、今日香のシフトを役所へ行く時間が取れるように調整してくれた。どうやら、これでクビになることは免れたようだ。もともと店長が、今日香の身の上に同情的だったせいもあったかもしれない。
「でも、バイトに行かないと、明日からのネットカフェ代が足りないんだけど、…」
 今日香が恐る恐る言うと、
「ねえ、深川くん、役所との交渉がまとまるまで、代金を待ってくれるように、店長にOKを取ってくれない」
「…」
 優樹菜に強い口調で言われて、深川さんは目を白黒とさせていたが、やがてしぶしぶうなずいた。
 コンビニの店長や深川さんに対する優樹菜のきびきびした交渉経過と、その幸先の良い結果に、明日美と今日香は、これからの区役所との交渉にも、少しは希望が持てるかもしれないなという気がしてきていた。

ネットカフェにも朝は来る
平野 厚
メーカー情報なし


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オオカミウオ

2020-02-09 09:33:34 | 作品
 私はオオカミウオです。
北の冷たい海で生まれ、そして育ちました。体が一メートル以上もあって牙も強いので、怖いものは何もありません。
冷たい海の底をゆうゆうと泳ぎ回り、好物の貝を殻ごとバリバリと食べていました。
 オオカミウオの名の由来は、鋭い牙と発達したあごでしょう。
 でも、陸上のオオカミのようなスマートな姿はしていません。灰色のごつごつした体にはうろこもなく、まるで溶岩のようです。頭でっかちで、大きな口から牙があちこちを向いてはみ出している姿は、自分で考えてみても、まさに海の怪物です。
 小さな魚たちは、私を恐れてそばに近づきません。私の方でも、そんな魚たちを、牙をむいて追い回していました。
 時々見かける自分と同じオオカミウオたちとも、喧嘩ばかりしていました。仲間たちと出会うと、醜い自分の姿を突き付けられたかのようでどうにも我慢できず、むやみにかみついてしまいます。
 もちろん彼らも反撃してきましたので、うろこのない私の体には、仲間たちから受けたかみ傷が、いく筋もついています。
 私は、大嫌いな仲間たちからしだいに離れて、北の海底に見つけた岩穴の巣で、一匹だけで暮らすようになりました。

その日も、私は、小さな魚たちを追いかけまわしていました。
 そのために、ついつい巣のまわりから離れた時でした。
(あっ!)
 突然、私は、漁船の仕掛けた網に引っかかってしまいました。いくらもがいても、網はますます体にからんできます。
 まもなく、私は船の上に引き上げられてしまいました。
「ちっ、ろくでもないのがかかったな」
「たたっ殺せ」
 漁師たちが、口々に叫んでいます。
 私は、観念してじっとしていました。水の外に引き上げられては、私の強い牙も、人間たちには意味のないものだということは明らかです。
「おい、ちょっと待て」
 年配の漁師が、ハンマーを振り上げた若者を押しとどめました。
「こいつはオオカミウオじゃないか。それほど珍しくはないけどな、もしかすると、水族館に売れるかもしれないぞ」
 その言葉に、ハンマーは私の体に振り下ろされませんでした。

 私は、わずかな金と引き換えに命を助けられ、その漁船の母港であるA市の水族館に連れていかれました。
 水族館は、漁港になっている小さな湾をグルッとまわった、岬の突端にあります。
 見ものといったらいかにも北の町らしいトドやアザラシぐらいで、展示されている海の動物たちの数も少ない所です。
 でも、私のようなオオカミウオは、ここでもありふれているらしく、水槽に入れられると仲間が十匹以上もいました。
 私は、世の中で最も嫌い自分の仲間たちの真っただ中に入れられ、カッとして隣の奴の腹にかみついてしまいました。
 パッと、真っ赤な血が水そうに広がります。
 しかし、そいつは、少しもはむかおうともせずに、こういっただけでした。
「殺してくれ」
 他のオオカミウオたちは、関心なさそうに同じ方向を向いて、水底にじっとしています。
 私は、自分で自分を抑えることができずに、狂ったように彼らをかみ続けました。
 水槽の中の水は、彼らの血で濁っていきました。
 騒ぎを聞きつけた飼育員が飛んできました。
 とうとう私は、別の水槽に一匹だけで入れられてしまいました。
 
私は、三メートル四方ほどの水槽の中をゆらゆらと漂いながら、あたりを見まわしていました。
 私の水槽がある部屋の中央には、柱の回りに四方に向かって長椅子が置いてあります。
 他の三つの長椅子には、よく人が座って水槽をながめていました。
「きれいな魚だなあ」
「おもしろい模様だね」
 そこから見える水槽の魚たちについて、話をしています。
 でも、私の正面の長椅子だけは、めったに人が座りません。どんなに館内が混んでいても、そこだけがポツンと空いているのです。
 たまに人がいたとしても、なるべく私の方を見ないようにしているのがよくわかります。
 水槽を、順番にのぞきながらやってきた人たちは、私の水槽の前に来ると、一様にビクッとして体を後ろへ引きます。
 そして、こんなひとことを残して、すぐに他のきれいな魚たちの水槽へ行ってしまいます。
「まあ、なんてこわい顔」
「すごい傷だなあ」
「オ・オ・カ・ミ・ウ・オ。ふーん、なるほどな」
 毎日、私は、水底にじっとして、正面を見ているようになりました。
時間は、ゆっくりと過ぎていきます。

 ある日、一人のおじいさんが、私の前の長椅子に座っていることに、気がつきました。そして不思議なことに、(自分でいうのもおかしいのですが)、私をじっと見つめているのです。
 私は、狼狽して目をそらしてしまいました。
 すると、おじいさんは、持っていた小さな袋から、ミカンを取り出しました。
 ひと房ずつ、ていねいに白い筋をむいて、ゆっくりゆっくり食べています。
 私は、ついその手元、そして次に口元と、ミカンを食べるのをじっと見てしまいました。
 やがて、おじいさんはミカンを食べ終え、再び私の方を見ました。気のせいか、微笑んだようです。白いひげが、電灯にキラリと光りました。
 
それから毎日、おじいさんは、私の前の長椅子に、やってくるようになりました。それも、いつも昼過ぎの決まった時刻に現われます。
 杖を突いて、足を少しひきずっています。もしかすると、おじいさんは、歩く練習のために水族館にやってきているのかもしれません。
 長椅子に二、三十分座って、休みながらミカンを一つか二つ食べます。そして時々、私を正面からじっと見てくれます。
 おじいさんがこちらを見ている時には、私は、なんだかきまりが悪くて目をそらしてしまいます。そして、いつものようにていねいに、ゆっくりゆっくりミカンの筋をむいている様子などを、横目で見たりしていました。
 私は、おじいさんが来るのが、だんだん楽しみになってきました。
そして、自分の今までの荒んだ暮らしが、悔やまれてならないようになりました。
(おじいさんのように、穏やかに暮らしたい。もし、あの北の暗く青い海へ帰れたら。いや、せめて一匹でも仲間に会えたら、今の気持ちが伝えられるのに)

一か月ほどしたある日のことでした。
 おじいさんは、その時も私の前の長椅子に腰を下ろしていました。ひとしきり私をながめた後、いつものようにミカンを取り出しました。
 と、その時、
「ワーッ」
という歓声が聞こえてきました。そういえば、今日は遠足で子どもたちが来ているようでした。
 部屋の中に、小学生の一団が走り込んで来ました。我勝ちに、水槽に取り付きます。中には、ふざけて押し合っている子どもたちもいます。
 一人が、よろけたはずみにおじいさんに突き当たりました。
 おじいさんの手から、皮をむいたミカンが落ちました。さらに、袋からもいくつかのミカンが床にこぼれてしまいました。
 そして、
(ああ、おじいさんの顔が怒りに歪んでいます)
 ステッキが振り上げられました。
 私は、固く目を閉じました。
 その後、おじいさんは、再び私の前に現れませんでした。

 それからしばらくしたある日、一人の男の子が私のいる部屋へ入ってきました。
 平日の昼下がりなので、他には客はいません。
 男の子は、しばらくあたりの様子をうかがっていました。
 誰も来ません。
 すると、男の子は、パッと長椅子の上へ飛び上がりました。もちろん、土足のままです。そして、飛び跳ねながら、柱の回りを一周しました。長椅子には、男の子の運動靴の跡が、くっきりとついてしまいました。
 次に、男の子は、水槽のガラスを順番に両手で叩き始めました。振動に驚いて、小さな魚たちは逃げまわっています。
 私の水槽にも、やってきました。
 男の子は、私を見てちょっと驚いたようです。
 でも、すぐに舌をベーッとばかりに出していいました。
「バーカッ」
 私は、あっけにとられて男の子を見送りました。
 
その日から、男の子は、時々、私たちの部屋にやってくるようになりました。いつも、他の人のいない平日の昼下がりです。
(学校は、サボっているのでしょうか?)
 いつもイタズラの限りを尽くしてから、部屋を出ていきます。

 ある日、男の子がいつものように長椅子の上で飛び跳ねている時に、水族館の掃除係の人が部屋に入ってきました。
「あっ、このガキ。おまえだな、いつもいたずらをしてるのは」
「いけね」
 男の子は、あわてて長椅子を飛び降りました。
「待てーっ」
 係員は、後を追いかけます。
 男の子は、すばしっこく部屋のあちこちを逃げ回っています。
 しかし、とうとう最後に、男の子は捕まってしまいました。男の子は、係員に引きずられるようにして部屋を出ていきます。
 でも、男の子は、最後に私に向かって、Vサインを送ってきました。
 私も、男の子にウインクを返してあげました。
その後、男の子も来なくなりました。

 時間は、ゆっくりと過ぎていきます。私は、以前と変わらず、水底でじっと前を見ています。
 時々、夢を見ます。夢の中で、私は、生まれ故郷の北の海、その深い深い水底にじっと横たわっています。
 そして、以前はこわがって近寄らなかった小さな魚たちが、私の牙の間を出たり入ったりして遊んでいるのでした。


オオカミウオ
平野 厚
メーカー情報なし



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マシラ

2020-02-08 09:34:12 | 作品
 夕方の五時、閉園時間をむかえると、動物園は昼間の喧騒が嘘のように静かになった。
特に、今日のような日曜日には、昼間の騒がしさは平日の数倍にもなる。大勢の観客たちが、檻や囲いに押し寄せてくるからだ。
そのために、夕方には、動物たちはぐったりしてしまう。それで、いつもより静かになるので、昼間との落差はすごく大きい。ときおり、肉食獣の骨をかじる音と、かごの外のカラスが騒ぐ鳴き声が、遠くから聞こえてくるくらいだ。中でも、サル山周辺は、バイソンやラクダなどの草食動物が多いので、普段から静かな一帯だった。
サル山では、今日二度目の食事を、三か所に分かれて食べていた。わずか直径三十メートルばかりの、コンクリート製の「ヤマ」。そのまわりをかこんでいる、幅五メートルほどの空ぼりの「カワ」。こんな小さな場所に、大小五十三匹ものニホンザルが詰め込まれていた。
 第一のエサ場は、「ヤマ」の中央部にあった。
この日当たりの良いエサ場は、トウリョウが、ハハオヤやアカンボたちを従えて、忠実なフクトウリョウたちと共に占領している。今日も、トウリョウは四匹のフクトウリョウ、ハハオヤやアカンボたちとエサを食べていた。
 「ヤマ」の裏手にあたる第二の場所は、ワカモノガシラたちのエサ場だ。
時々、無鉄砲なアカンボが紛れ込むと、彼らはキバをむきだして追い返す。アカンボは大げさな悲鳴をあげて、自分のハハオヤの所へ飛んで帰る。騒ぎが大きくなると、フクトウリョウのうちの一匹が、そちらへ顔をのぞかせにいく。すると、居合わせたワカモノガシラたちは、さり気なくその場を明け渡す。やがてフクトウリョウが元のエサ場へ戻っていくと、何事もなかったようにワカモノガシラたちが再び集まってきた。
 最後のエサ場は、日当たりの悪いカワの中にあった。
そこに、群れの周辺部に住んでいるワカモノたちが集まってきていた。
「ああ、もううんざりしたな」
 今年で四才になるミミカケがマシラに話しかけてきた。ミミカケの左ミミは、前にワカモノガシラたちと争った時にかみきられて、ギザギザになっている。
「何の事だい?」
 マシラは、ホウのミをかじりながら聞き返した。
「早くワカモノガシラになりたいってことだよ。そうすれば、やつらに追いまわされずにすむ」
 ミミカケも、エサのどんぐりを食べながら答えた。ミミカケは、さっきも、こっそり「ヤマ」に行っているところを、ワカモノガシラたちに見つかり、あやうくのがれてきたのだった。マシラやミミカケのようなワカモノたちは、まったく日の差さない「カワ」にいることしか許されていなかった。
「おれは、ワカモノガシラになんかなりたくない」
 マシラがすぐに答えた。
「じゃあ、どうするんだ。ずっとこんな日の当たらない「カワ」でくすぶってるのか?」
 十一匹もアカンボが生まれたので、動物園のサル山はすっかり手狭になっている。 アカンボたちが「ヤマ」に加わるようになってから、ワカモノたちはぜんぜん「ヤマ」にいられなくなっていた。
 前には、冒険心にかられたワカモノたちが、ちょくちょく「ヤマ」に侵入を試みていた。天気が良く、みんながのんびりしている時などには、大目に見てもらえることも多かったからだ。
 でも、今では怒りっぽいワカモノガシラたちがすぐに攻撃してくるので、「カワ」だけで生活するようになっていた
「いいや、いつかきっとこんなニセモノではない「真の山」に行くんだ」
 マシラは、遠くを見つめるような表情を浮かべていた。
「あーあ、またマシラの「真の山」病が始まった」
 ミミカケはマシラに背を向けると、せっせとエサを食べ始めた。

 マシラは、今年三才になったワカモノだ。ニホンザルで三才といえば、まだ十分に大人になりきらない。そう、人間ならば、中学生ぐらいに相当するかもしれない。
 マシラは他のワカモノと同様に、オトナのサルのようなたくましい筋肉も、長い犬歯も持ち合わせていない。
 しかし、彼の体には、オトナたちが持たない柔軟性とスピードが備わっている。その点においては、マシラはワカモノの中でも群をぬいていた。今に立派なワカモノガシラ、いや、その先にはフクトウリョウかトウリョウになる可能性さえあると目されていた。
 マシラは、サル山の他のサルたちと違って、動物園生れではなかった。野生の群れ(といっても餌づけされているので、半野生といった方が正確かもしれないが)の中で生まれたのだ。
 ところが、マシラは生まれてすぐに、人間に捕獲されてしまった。そして、アカンボの間は、人間の手で育てられた。そのころ、人間の中に、ニホンザルの人工飼育を試みるグループがあったのだ。そのグループでは、動物園と野生のサルの群れから、生まれたばかりのアカンボを十匹ずつ連れ出して、一年間、人工的に飼育したのだった。そうした後、今度はそれぞれの出身とは違う場所へ戻した。人工的な環境で育ったことが、その後の生育にどうかかわるのか、追跡調査がなされていた。
 マシラも、そんなサルの一匹だった。だから、彼は自分がどこで生まれたかも知らなかった。生後一週間目に山から連れてこられたので、マシラの記憶は人間によって与えられたオリの中での生活から始まっている。
 飼育場でのマシラは、おとなしいアカンボであった。人間の手をわずらわせるようなことは、ほとんどなかった。それは、動物園に連れて来られてからも一緒だった。
 しかし、マシラの心の奥には、人間に飼われる以前のことがかすかに残っていた。それは、深く高い「真の山」の記憶だった。豊かな食物に恵まれ、自由に暮らせる。たしかに人間の手でエサ場も設けられていたが、そこに顔を出さなければ完全に自由に暮らすことができたのだ。マシラは、この狭苦しいサル山を抜け出して、もう一度その「真の山」へ戻ってみたいと思っていた。
 
 このサル山の群れはトウリョウのリュウを中心に、フクトウリョウ、ワカモノガシラ、ワカモノ、ハハオヤおよびアカンボで構成されている。
 フクトウリョウは壮年のサルたちで、リュウを補佐してヤマを取りしきっていた。
 ワカモノガシラは、七才から十才ぐらいまでの青年のオスザルだ。次代のトウリョウやフクトウリョウの座をねらっている。
 ワカモノは、二才から六才ぐらいまでの成長しきらないオスザルたちだった。
 ハハオヤは、子どもをうめるメスザルで、群れの中心部で生活している。
 アカンボは二才以下のコザルで、ハハオヤと共に行動し、群れの中ではこわいものなしにふるまっていた。
 本来、ニホンザルのトウリョウは、群れの生存に関して、非常に大きな責任を持つ。外敵からの防衛はもちろん、エサの確保、冬の寒さや夏の暑さに対する対処、群れ内での秩序の維持などが、彼の双肩にかかっている。
 ところが、動物園では、その責任の大半は人間が負ってくれている。エサは、きちんきちんと決まった時に十分な量が与えられる。外敵に対する注意といえば、時々、エサをねらいにくるあのあつかましいカラスに、アカンボがつつかれないように気をつければすむ。
 そこで、このサル山のトウリョウであるリュウの関心は、群れの秩序を守ることに集中されていた。本来、秩序の維持は、群れを危険におとしいれないために必要なのだ。
 でも、ここでは単なる自らの保身のためと化してしまっていた。そのため、まったくルーズな部分があるかと思うと、不必要に下位のものたちをしめつけたりもしていた。だから、サル山の下位のものたち、ワカモノやワカモノガシラの不満は、野生のサルたちにくらべてかえって大きかった。そして、一度サル山にクーデターがおこると、野生の世界にくらべてより凄惨なものになることが多い。野生では、けんかや闘争にやぶれたものには、ハナレザルになる道が残されている。
 でも、ここでは場所が狭いこともあって、かなり高い確率で死が決着になることが多かった。クーデターがおこったときに、トウリョウが取る道は二つ。できるだけ強力なフクトウリョウを味方につけて、共同で撃退する。あるいは一騎討ちでいためつける。ただし、この場合は、かなり実力の差がないとともだおれになるおそれが強い。このどちらにも失敗したトウリョウは、注意深い飼育員に決着前に隔離してもらう以外に生きのびる道はない。

 マシラは、頭の上の方で何かがゆれたような気がして、サル山の外壁を見上げた。短い秋の太陽は早くもしずみかかり、空はスモッグでうすよごれたバラ色にそまっている。
(おや?)
 カワの外壁のてっぺんに、何かがぶらさがっている。どうやら上の方では、少し風が出てきているようだ。それはユラユラとゆれていた
 外壁は高さが約五メートル。コンクリートのはだは、風化してざらざらしている。サルたちが外に出るのを防ぐためか、ネズミ返しのように垂直より少し内側にカーブしていた。これでは、よじのぼることに関しては人間の想像を絶するような技量を持つサルたちでも、さすがにはいあがっていくことはできない。
 ゆれている物のはじまでは、四メートル以上もあった。驚異的なジャンプ力をほこるマシラでも、とてもとどく高さではない。
「何を見ているんだい?」
 ミミカケが背後から声をかけてきた。
「あれだ、あれは何かな?」
 マシラは、ふりかえらずにこたえた。
 ミミカケも上をふりあおいだ。
「なんだろうな。ヤマの丸木橋をゆわえているナワのように見えるけど」
「そうだ。おれもそうじゃないかと思っていたんだ」
と、マシラはこたえた。

 外の世界への脱出。マシラは、このことを何度想像してみたことだろう。
 でも、現実的には、それは非常に困難なことだった。サル山と外とを結ぶ唯一の通路は、小さなグリーンの鉄製ドアによって遮断されている。
一日二回、二人の飼育員によって、このドアが開けられる。開園直前の朝の九時半と閉園直前の夕方の四時半だ。かれらは、五十三匹分のエサを三つに分かれたエサ場に運ぶ。それと同時に、サルたちのフンや観客に投げこまれたゴミなどを、きれいに掃除しなければならない。
 サルたちが、このドアをくぐって外部へ出ることは非常にまれだった。病気にかかって園内の動物病院に連れていかれる時か、年に数回行われるサル山の大そうじの時だけだ。ただし、ハハオヤたちは、お産のために別のおりへ行くこともあった。
 でも、いつも厳重な監視つきで、隙を見て脱出することはとてもできそうになかった。
(もしかすると、あのロープは、外の世界へ脱出する千載一遇のチャンスかもしれない)
 マシラは、なわを見上げながら考えていた。あのなわにつかまることができたら、壁をよじ登ることができるに違いない。ただ、あのなわが、きちんと自分の体重を支えてくれるかどうかが不安だった。
 もし、なわが手すりか何かにしっかりとつながれていなかったら、ぶらさがってもあっという間にはずれてしまうだろう。そうしたら、コンクリート製の床にまっさかさま。運良く死ななかったとしても、大怪我はまぬがれないだろう。

 あたりがすっかり寝静まった頃、マシラは動き始めた。それまでは、「カワ」でほかのワカモノたちといっしょに寝ているふりをしていたのだ。
 マシラは、他のワカモノたちをおこさないように気をつけながら、ゆっくりと移動していった。これから、「ヤマ」に侵入しようというのだ。
 「ヤマ」と「カワ」とは、ほぼ百八十度はなれた二か所の石段でむすばれている。
マシラは、石段までいくと、あたりをうかがった。
さいわい、ヤマに住んでいるリュウを初めとしたサルたちは、すっかり寝静まっているようだった。マシラは、体を低くしながら、慎重に石段を登っていった。
しばらくして、マシラは石段の上まで登りきった。あいかわらず、「ヤマ」は静かなままだ。今度は、マシラはヤマの外周に沿ってゆっくりと進んでいった。
(あった!)
 ロープは、あいかわらず外壁の手すりにぶら下がっていた。
 でも、風がやんだのか今はダラリとしたままだ。
外壁がこちらに向かってカーブしているおかげで、ロープまでの距離は4メートルほどしかなかった。ロープの下の端は、ヤマとちょうど同じぐらいの高さだった。
 助走をつけて思いっきりジャンプすれば、なんとかロープをつかむことができそうだった。
 しかし、もしキャッチできなかったら、……。
 そう思うと、さすがのマシラも、踏ん切りがつかなかった。
 マシラは、ロープをにらんだまま動けなくなっていた。

 ついに、マシラの足が、おもいきって岩をけった。全身のバネを使ったジャンプで、マシラの体は大きくこをえがいて、ぎりぎりかべに達した。
「ギャッ!」
 小さくマシラはさけんだ。四足でクッションをきかそうとしたが失敗して、いやというほどかべに顔をうちつけてしまった。
 でも、必死にさぐった左前足にロープがさわった。マシラはそれに一心にしがみついた。マシラの全体重がロープにかかる。 ギッと音がして、手すりがきしんだ。
 しかし、ロープは期待通りにマシラの体をしっかりと支えてくれた。
「マシラ、どこへ行くんだ?」
 ふりかえると、ミミカケがヤマのふちまでよってきていた。マシラの顔の痛みは、ほとんどおさまっている。血も出ていないようだ。
「どこって、外へさ。『真の山』をさがしてみたいんだ」
 マシラは、そういってロープをたぐりはじめた。
「そうか、やっぱり行くのか」
「ああ」
「おれも行こうかな」
 ミミカケがそういうと、マシラは意外な感じがした。今まで、ミミカケはマシラの「外の世界」の話に、あまり乗り気じゃなかったからだ。
 ミミカケは、意を決したように数歩うしろに下がった。そして、いきおいよく前へ走り出した。
 でも、「川」からの高さを恐れたのか、ミミカケは目をつぶって飛んでいた。そのためか、少しいきおいがつきすぎていた。
「ギャーッ」
 ミミカケは、もろにかべに激突してしまった。マシラは、とっさにミミカケの前足をつかんだ。そうしなければ、四メートル下の川へ墜落して、ミミカケは死んでしまったかもしれない。
「だいじょうぶか?」
「……」
 痛みのせいか、ミミカケはしばらく返事をすることもできなかった。

「おまえたち、どこへ行くんだ?」
 いきなり、うしろからトウリョウの声がした。ミミカケの悲鳴を聞かれてしまったのかもしれない。このサル山のトウリョウのリュウは、今年十七才になる堂々としたオスザルだった。
「外へ、外の世界へ」
 マシラが振り返って答えると、リュウのまわりでどよめきが起こった。いつのまにか「ヤマ」のがけっぷちには、フクトウリョウやワカモノガシラをつとめる主だったサルたちが集まってきていた。動物園生まれの彼らにとって、この狭いサル山がすべての世界だった。「外の世界」、それは恐怖に満ちたまったくの未知の世界にすぎなかった。
「ここを出ても、まわりは人間や猛獣がいるだけだぞ」
 トウリョウが冷たい声でいいはなった。
「違う。おれの故郷、「真の山」へ行くんだ」
「真の山!」
 まわりからふたたびどよめきがおこった。そういう彼らにも、どこかにサル山とは違う本物の山があるかもしれないといううわさは、伝わってきていた。
「馬鹿な。そんなものは、ありはしない」
 リュウは、みんなの動揺をおさえるように叫んだ。
 マシラは、リュウのいうことを無視して、ロープをよじ登り始めた。ワカモノの中でも群を抜いて敏捷なマシラにとって、2メートルばかりのロープを登るのはわけなかった。スルスルと、あっというまにてっぺんまでたどりついた。
「来いよ」
 マシラは、下でじっとしているミミカケに声をかけた。
 ミミカケはリュウたちのことを気にしているようで、その場にとどまっている。
 しかし、リュウたちに何かができるはずもなかった。マシラたちのようにロープへ飛びつくことも、ましてや恐ろしい外の世界へ行くことなど考えられなかった。
「馬鹿め。野垂れ死にすればいいわ」
 リュウはそう捨て台詞をはくと、その場を立ち去って行った。群れの他のメンバーもその後を追って行った。
 ロープにはマシラとミミカケだけが残された。
「来いよ」
 マシラが、もう一度ミミカケに声をかけた。
「うん」
 今度は、ミミカケもゆっくりとロープを登り始めた。

手すりをのりこえると、マシラはあたりの様子をうかがった。まわりの檻にいる動物たちの、静かな寝息がきこえてくる。わずかに夜行性の動物たちが、遠くで走り回っている足音が、かすかに伝わってきているだけだった。
 ようやく、ミミカケが手すりの上におそるおそる姿をあらわした。ミミカケの体が、月の光にてらされて白く光った。
「いくぞ」
 マシラはミミカケに低く声をかけると、未知の世界へ一歩を踏み出した。
 マシラは、気をひきしめながら前へ進んでいった。どちらに行ったらよいのか、まったくあてはなかった。
 少しためらった後、ミミカケも続いた。ミミカケは、さっき痛めたのか左後足をひきずっている。
 マシラは少し進んでは、後からゆっくりくるミミカケを待ってやった。
 ハーッ、ハーッ。
 まだ進み始めたばかりなのに、ミミカケの呼吸はもう荒くなっていた。痛めた左足のダメージは相当大きいらしい。

ゆっくりと進んでいたマシラが立ち止まった。
(何か恐ろしいものが前方にいる)
 マシラの直感がそう告げている。
プーンと、生臭いにおいが鼻についてきた。
「ガルルル、どこへ行くんだ」
 恐ろしげな低い声がした。
「外へ」
 マシラが答えた。
 そのとき、月を覆っていた雲がはれた。
 前方にいたのは、大きなトラだった。
 しかし、トラは檻の中だった。彼もまたとらわれの身なのだ。
 マシラは、おそるおそるその前を進んでいた。ミミカケも続く。
「ガオオ、ちくしょう」
 トラが悔しそうにほえた。
 途中でさんざん行き先を迷ったすえに、ようやく動物園を囲っているフェンスにたどりついた。その間も、猛獣の檻のそばを通るときにはドキドキしたが、彼らも自分たちと同じようにとらわれていることがわかったので、なんとか突破できた。さいわい人間には見つからずに、ここまでくることができた。

「先にのぼるぞ」
 マシラはミミカケに声をかけると、スルスルとフェンスのてっぺんまでよじのぼった。
「ちょっと待ってくれ」
ミミカケも、なんとか後に続いた。
 マシラは動物園のフェンスをのりこえた後、しばらくあたりのようすをうかがっていた。
真夜中になる少し前、まわりの家では、そろそろ電気を消して寝ようとしているころだろうか。マシラたちのいる道路は、電灯でぼんやりとてらされている。
 ブオーン。
百メートルほど前方に、いきなり強く光る物体があらわれた。
それは、大きな音とともにみるみるマシラたちに近づいてくる。マシラたちは、金縛りにあったかのように、そこにたちすくんでいた。
 パパーン。
その物体は激しい音を立てると、すごいスピードでマシラのかたわらを通りすぎていった。一瞬遅れて、まきおこした風がマシラたちをつつんだ。
(なんだろう?)
 自分たちには、目も留めずに行ってしまった。どうやら敵ではなさそうだ。
 マシラは、物音を立てないように気をつけながら、フェンスぞいを進んでいった。五、六メートル進んでは、ミミカケを少し待つ。ミミカケはあいかわらず少し左後足をひきずっている。

「ガウウ、誰だ」。
 いきなり近くでうなり声がしたので、マシラはとびあがってしまった。
前方に何かがいる。
 やがて街灯の下に姿をゆっくりとあらわしたのは、大きなブチイヌだった。舌をダラリとたらして、獰猛そうな顔でこちらをにらんでいた。犬は、動物園と地続きのヤマに住んでいる野犬だった。
 マシラは今までにも、その犬を見たことがあった。前に、どこからか園内に紛れ込んできたのだ。犬は、柵の外からサル山をのぞきこんでいた。サル山中に危険信号が発せられ、トウリョウのリュウ以下主だったサルたちが山から威嚇した。
 そのときは、カワまでの高さにはばまれて、犬はそのまま侵入してこなかった。
 でも、今日は、なんの障害もなくブチイヌはこちらにむかっている。マシラは、今までのサル山での生活がいかに安全であったかを思い知らされた。
「フェンスにのぼれるか?」
 マシラはブチイヌとにらみあったまま、ふりかえらずにミミカケにたずねた。
「ああ、なんとかのぼれそうだ」
 ミミカケが答えた。
 マシラの敏捷性をすれば、ブチイヌを振り切るのはたやすいことだった。
 でも、足をけがしているミミカケには無理だ。なんとか、ミミカケが逃げる時間をかせがなければならない。
「今だ、よじのぼれ」
 マシラはミミカケに声をかけると、わざとブチイヌの目の前に飛び出した。
  
「ワン、ワワン、逃げられないぞ」
 ブチイヌがとびかかる。マシラはそれをからくもかわして、懸命に走り出した。
 マシラは、必死に走っていた。こんなに全速力で走るなんて、はじめての経験だった。夜更けの人気のない道路をひたすら逃げていった。
 でも、平らなところを走ることにかけては、犬の方が一枚上手だ。ブチイヌはすぐに追いつくと、マシラの左ももにガブリとかみついた。激しい痛みが、マシラをおそってくる。
 しかし、マシラはけんめいに体をひねると、とっさに犬の右目をかきむしった。
「キャーン。いててえーっ」
 ブチイヌが、悲鳴をあげて口をはなした。すかさず、マシラはかたわらにあった電柱をよじのぼった。
「ワン、ワワーン。降りて来い」
 下ではブチイヌが、マシラめがけてとびついてくる。
 マシラは、すぐにへい越しに家の屋根へ乗り移った。ここならブチイヌのジャンプも届かない。
「ワオーン。ちくしょう」
 下の道路で、くやしそうにほえるだけだ。
 マシラは、家々の屋根を伝わりながら、どんどん前へ進んでいった。
 ブチイヌはしばらくマシラを追いかけていたが、やがてあきらめたのか、どこかへ行ってしまった。

しばらくの間、マシラは屋根の上でじっとしていた。ブチイヌは、もうもどってこなかった。
 でも、いつまで待っても、ミミカケも姿をあらわさなかった。
(どこに行ってしまったのだろう)
 どんなにたよりなくても、ミミカケはたった一匹の道連れだったのだ。いなくなってみると、なんだか心細かった。
 しかし、このままここにじっとしていることができないことは、マシラにもわかっていた。やがて朝が来たら、どんなに身を隠していても、人間たちに発見されてしまうだろう。
(人間たちがやってくる)
 そう考えただけでも、マシラには恐怖がつのってきた。
 マシラは、人間が自分に危害を加えるとは思っていなかった。今までも、人間たちはマシラの自由を奪うだけだった。
人間たちにつかまったら、おそらく動物園へ戻されてしまうだろう。そこには、メンツをつぶされたリュウを初めとした、サル山のメンバーがいる。きっとマシラは、ひどいリンチを受けるに違いない。もしかすると、殺されてしまうかもしれないと思った。
それに、真の山を目指さないうちに、おめおめとサル山に戻される気はなかった。
(なんとかしなくては)
 マシラは懸命に考えていた。

(あれはなんだろう?)
 道路の反対側にこんもりとした物があった。その後ろ側には、ポッカリと洞窟のように開いている。
(身を隠せるかもしれない)
 マシラはそろそろと屋根から下り始めた。 
 マシラの入った洞窟は、幅も狭かったが奥ゆきもそれほどなかった。はじの方には、何か油くさいにおいのする木箱が重ねてあった。
 マシラは奥まで入っていくと、そこに倒れこんだ。
 マシラは、床にころがったまま動けなかった。さいわい左もものかみ傷は、それほど深くなかった。血も固まりはじめている。
 しかし、さきほどからの激しい運動と極度の緊張のために、身も心もくたくたになっていた。
 薄れていく意識の中で、マシラはミミカケのことを考えていた。フェンスに上ってから、ミミカケはどうしただろうか。動物園に戻ったのだろうか。それならば、きっと飼育員に見つかって、無事にサル山に戻れるだろう。左後ろ足のけがのことを考えると、それがいいかもしれない。
 それとも、ひとりでどこかに向かったのだろうか。マシラには、戻っていったブチイヌのことが気がかりだった。
(もし、ミミカケがブチイヌに見つかったら、……)
 マシラは、ミミカケがブチイヌの追撃をふりきって、なんとか逃げてくれと祈った。
 しかし、それも長くは続かなかった。マシラは自分の体を小さくおりまげるようにして丸くなると、あとはコンコンとねむるだけだった。今、外敵におそわれたならば、のがれるすべはなかった。

「いけねえ、ドアを閉めるのをわすれちまったなあ」
 若い男が車の荷台のドアを閉めると、ガシャンと鍵をかけた。
「タカちゃん、荷物はOK?」
 建物から出てきた帽子をあみだにかぶった中年の男が、若い男に声をかけた。
「ええ、もうだいじょうぶです。昨日のうちに積んでおきましたから」
 若い男は荷台の後ろ側から、返事をした。
 二人は運転席に乗り込んで、いきおいよくドアを閉めた。
 エンジンをかける音がして、貨物トラックがゆっくりと動き出した。
 その荷台の中では、マシラがぐっすりと眠っていた。
マシラが洞窟だと思って入り込んだのは、ドアを閉め忘れたトラックの荷台だったのだ。
 トラックは、朝のすいている道路をどんどんとばしていく。
しばらくして、インターチェンジで高速道路に乗り込んだ。
トラックは、北西の方向にドンドン進んでいく。
東京を離れると、神奈川県、山梨県を経て、やがて長野県にたどりついた。

 二日後の新聞に小さな記事が出た。
「サル山から逃亡!? あえなく憤死!?」
 十四日深夜、動物園のサル山から二匹のニホンザルが逃亡した。翌日、飼育員が気づいたが、警備員によると、前夜十一時すぎにサル山でひとさわぎがあったとのことであるので、その時に逃げたものと思われる。そのうちの一匹(四才オス)が翌朝、五百メートルはなれたY町三丁目の民家のうえこみで死んでいるのを、その家の主婦が発見した。死因は野犬にかまれたものとみられる。なお、もう一匹逃走中の三才のオスザルは、まだ発見されていない」
 マシラとはぐれたミミカケは、あの後、引き返してきたブチイヌに見つかってしまった。傷ついた足を引きずりながらけんめいに逃げたが、とうとう追いつかれてしまった。
 ミミカケは激しく抵抗したものの、鋭い牙をもったブチイヌにかなわずにかみ殺されてしまった。
 一方のマシラは、そんなことは夢にも知らず、「真のヤマ」を目指して進んでいた。
 トラックが長野県の目的地に着いた時、マシラはすでに目をさましていた。
 ガタンガタン。
 激しく振動するトラックの中で、マシラは自分がどこにいるのかなかなかわからなかった。
 しかし、そのうちにかすかな記憶の中で、自分が小さいときに「自動車」に乗せられたことがあるのを思い出した。
 やがて、目的地に着いたトラックが停車した。マシラは入り口付近で隙をうかがっていた。
 若い男がドアを開いた。
「あっ!」
ドアが開いた瞬間に、マシラはいきおいよく外に飛び出し、一目散に逃げ始めた。
マシラの目指す「真の山」はもう目と鼻の先だった。


マシラ
平野 厚
メーカー情報なし


 
 

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