難聴の君へ旅する言の葉は一駅ごとに停まるが如く
私の母は、ここ数年でだいぶ難聴が進んだ。殆ど聞き取れない母に向かって最初の頃は、大きな声で滑舌良く喋ったり言葉を言い換えたりして意思疎通を試みていたが、私の苛つきが伝わるのか逆に母の怒りを買うだけだということに気づいた。
耳遠きゆゑと何度も呑み込みぬすれ違ひたる母との会話 /角田正雄(NHK短歌2018年6月号テキストより:題「会話」佳作)
名詞のみの会話となりて幾星霜単語の数も片手にて済む /児玉正敏(NHK短歌2020年2月号テキストより:題「話」佳作)
それで、まず一語ぽんと置いて、それに対して返ってきた母の何らかの反応を見て、言葉を補う形で少しずつ喋るスタイルで行くと、少し時間はかかるが穏やかに会話を成立させられるということが分かってきた。
もう長らく礼拝にはお越しになれていないご年配の会員がまだ教会にいらっしゃれていた頃、ある日の礼拝で会堂の最後列に座っていた私のところにその方がおいでになり「説教が聴こえない。音量を上げて」と耳打ちしてきたことがあった。私は自分の席のすぐ後ろにあるアンプをいじり、礼拝堂内の音量を少し上げた。席に戻られていたその方は私に向かってグーサインを出してきたが、礼拝後「でも聴こえないところもあった」と私に洩らした。私は内心困りつつ「先生もある程度動きながら話しますからマイクが声を拾いにくいこともあるでしょうし、それに声の抑揚もありますから全部が同じように聴こえるということはないと思いますよ」と申し上げた。
ヨハネによる福音書4章3節から29節に、イエスがサマリアの女性と井戸の傍らで会話するシーンが、またヨハネによる福音書5章に、エルサレムのベトザタの池の近くで38年間臥せっていた病人とイエスの対話がある。サマリアの女も、38年間病気で寝込んでいた人も、会話の初めにはイエスに心を閉ざしているが、イエスとやり取りするうちに心が開かれていく。私はこの二つのエピソードを長いことあまり理解できていなかったように思う。何というか、言葉と言葉の間の飛躍が多い。想像力に乏しく尚且つ人から隔絶して暮らしてきた私には、どうしてイエスのその言葉で、信じられるようになったのかと測りかねていたのだ。でも作業所への通所などにおいて色々な方と接する経験を経てみると、断片的な言葉に纏わりつく雰囲気、言葉以外のコミュニケーションなどの上に、言葉による会話は成り立っているんだなということが今更ながらに解ってきた。
大声は要らないらしい難聴の友の目を見てゆっくり話す /徳永久子(NHK短歌2018年3月放送:題「大」特選一席)
現在は情報過多な世の中である。散弾銃のように情報を浴びていては疲弊することもあろう。これは私の勝手な憶測でしかないのだが、聴こえづらくなるというのは毒々しいナマの情報の荒波にあって身を守るために、自然と身についた心の防御フィルターなのかもしれない。
* * *
コロナ禍で感染予防の観点より礼拝中に換気扇を回して礼拝を守るようになってから、わがN教会でも礼拝説教が聞き取りにくいという声がたくさん上がっている。勿論その要望は蔑ろにはせず、対策は講じるべきである。しかし同時に私は思う。「説教が聴こえづらい」と仰る方が聞き取りたいのは、実際には語られていない説教の行間——イエスの息遣い——ではないだろうか?
馬場実(NHK短歌2019年8月放送:題「旅」入選歌)
私の母は、ここ数年でだいぶ難聴が進んだ。殆ど聞き取れない母に向かって最初の頃は、大きな声で滑舌良く喋ったり言葉を言い換えたりして意思疎通を試みていたが、私の苛つきが伝わるのか逆に母の怒りを買うだけだということに気づいた。
耳遠きゆゑと何度も呑み込みぬすれ違ひたる母との会話 /角田正雄(NHK短歌2018年6月号テキストより:題「会話」佳作)
名詞のみの会話となりて幾星霜単語の数も片手にて済む /児玉正敏(NHK短歌2020年2月号テキストより:題「話」佳作)
それで、まず一語ぽんと置いて、それに対して返ってきた母の何らかの反応を見て、言葉を補う形で少しずつ喋るスタイルで行くと、少し時間はかかるが穏やかに会話を成立させられるということが分かってきた。
もう長らく礼拝にはお越しになれていないご年配の会員がまだ教会にいらっしゃれていた頃、ある日の礼拝で会堂の最後列に座っていた私のところにその方がおいでになり「説教が聴こえない。音量を上げて」と耳打ちしてきたことがあった。私は自分の席のすぐ後ろにあるアンプをいじり、礼拝堂内の音量を少し上げた。席に戻られていたその方は私に向かってグーサインを出してきたが、礼拝後「でも聴こえないところもあった」と私に洩らした。私は内心困りつつ「先生もある程度動きながら話しますからマイクが声を拾いにくいこともあるでしょうし、それに声の抑揚もありますから全部が同じように聴こえるということはないと思いますよ」と申し上げた。
ヨハネによる福音書4章3節から29節に、イエスがサマリアの女性と井戸の傍らで会話するシーンが、またヨハネによる福音書5章に、エルサレムのベトザタの池の近くで38年間臥せっていた病人とイエスの対話がある。サマリアの女も、38年間病気で寝込んでいた人も、会話の初めにはイエスに心を閉ざしているが、イエスとやり取りするうちに心が開かれていく。私はこの二つのエピソードを長いことあまり理解できていなかったように思う。何というか、言葉と言葉の間の飛躍が多い。想像力に乏しく尚且つ人から隔絶して暮らしてきた私には、どうしてイエスのその言葉で、信じられるようになったのかと測りかねていたのだ。でも作業所への通所などにおいて色々な方と接する経験を経てみると、断片的な言葉に纏わりつく雰囲気、言葉以外のコミュニケーションなどの上に、言葉による会話は成り立っているんだなということが今更ながらに解ってきた。
大声は要らないらしい難聴の友の目を見てゆっくり話す /徳永久子(NHK短歌2018年3月放送:題「大」特選一席)
現在は情報過多な世の中である。散弾銃のように情報を浴びていては疲弊することもあろう。これは私の勝手な憶測でしかないのだが、聴こえづらくなるというのは毒々しいナマの情報の荒波にあって身を守るために、自然と身についた心の防御フィルターなのかもしれない。
* * *
コロナ禍で感染予防の観点より礼拝中に換気扇を回して礼拝を守るようになってから、わがN教会でも礼拝説教が聞き取りにくいという声がたくさん上がっている。勿論その要望は蔑ろにはせず、対策は講じるべきである。しかし同時に私は思う。「説教が聴こえづらい」と仰る方が聞き取りたいのは、実際には語られていない説教の行間——イエスの息遣い——ではないだろうか?
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