◆9月1日
昨日作業所でこの人が隣に座ってた。いつもながらに心身の不調を具体的に職員に訴えてた。職員は聞いてあげるくらいしかできない(内心辟易してるのは明らか)。精神科で臀部に打たれた注射の痕が痛むよう。精神科では整形案件と言われ、整形外科では精神科の注射の所為とにべもなく、運動するように、と。
(※この人←2020年10月12日の聖書黙想に登場した人:
【フィレモン25「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」。迫害する者のために祈れ、は有名だが実行は困難。私のある指摘以降、信徒のくせにと揚げ足取り的になった方が作業所に。彼が昔の傷を言うたび「神様、彼と共にいて下さい」と祈ると決心。これならできる】)
* * *
<新改訳第三版 マルコの福音書5:25-26>
ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
↓ ↓ ↓
私は同じテーブルで前に座って作業してた女性に、大学3年の頃に複数の病院へ行っていたことを打ち明け、医者は自分のところで手に負えぬ病状を持ち込む患者に、他科の病名を付けて引き退らせることを結構やる、と話した。私も内科で「子宮内膜症」と告げられた(その医師は子宮を診たわけでもないのに)。それで友人に某婦人科を紹介されて行ったが、色んな病院に行き過ぎて飲み切れぬほど薬を貰っていた私が、次の婦人科受診で薬を飲めなかったことを告げたら、ぶち切れられ診療はストップ。私は大学のカウンセリングセンターの門を叩き、心療内科に繋いでいただいたが、心療内科医師は程なく長期休暇に。1学期の終わり、大学のカウンセラーの方に「これからどうする?」と訊かれ、「最近知り合ったクリスチャンが教会に誘ってくれたので教会へ行ってみます」と答え、涙が出た。私は負けたんだ、と思った。高校の時推薦入学の打算で通ってウンザリしていた教会しか、私には行くところが無いんだと思ったから。
◆9月16日
<新改訳第三版 テサロニケ⑴2:5>
ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。
↓ ↓ ↓
今までの信仰生活で(母教会の頃も含め)、生ぬるい時期も沢山あったが、へつらいはしてこなかったと思う。母教会でいまいち伝道に熱心になれなかったのは、クリスチャンが未信者を食い物にしてる感が否めなかったからだと今は思う。私の反権力的な姿勢はやはり滲み出ていたようで、母教会のリーダー達は、あまり伝道せずともすると教会のやり方に批判的になる私を扱いかねてた。礼拝後に、説教の内容に打たれつつ牧師に感想などを言いに行けない私を詰る人もいた。だが、もしかしたら牧師にすぐ反応できてた人は、体のいいこと言ってたのかもな、と今は思う。
◆9月23日
一昨日は通所だったが、某メンバーがだいぶ幻聴に苦しんで、色んな職員に症状を訴えてた。その人の被害妄想は極度で、訴えも頻回すぎて職員も感覚が麻痺しており「誰もそんなこと言ってないよ」「それ幻聴だから」で済まそうとするが、それで彼の幻聴が取り除かれるわけではないから、ずっと訴え続ける。
* * *
<聖書協会共同訳 マルコによる福音書10章46-50節>
一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
↓ ↓ ↓
イエスのお供をしていた弟子達は、視えぬ苦しみが除かれるよう叫ぶ盲人を黙らせようとした(人々の病を癒す主の手伝いを普段していたにも拘らず)。こういうことって往々にしてある。受洗後も、それまで受けた傷が完全に癒えておらずクリスチャンに聞いてもらおうとして、却って怒られたりとか。でもイエスご自身は、正直に叫びを上げ続ける人が好きなんだ(「好き」という言い方ちょっと語弊あるかも、だけど)。先の作業所の某メンバーのために私ができることは、ほぼ無い。でも「神様、◯◯さんと一緒にいて下さい」と馬鹿の一つ覚えのように心の内で祈る。同時に、Twitterのフォロワーさんや、アイコンでしかよく知らぬRTで見かけた人の呟きを思い出しつつ、馬鹿の一つ覚えを繰り返す。その人にとって何が最善なのかは私には判らない。だから、あの人がああなりますように、とか、この人をこうして下さい、とは祈るべきではないんだな、と思って。
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<新改訳第三版 テサロニケ⑵3:16>
どうか、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。
昨日作業所でこの人が隣に座ってた。いつもながらに心身の不調を具体的に職員に訴えてた。職員は聞いてあげるくらいしかできない(内心辟易してるのは明らか)。精神科で臀部に打たれた注射の痕が痛むよう。精神科では整形案件と言われ、整形外科では精神科の注射の所為とにべもなく、運動するように、と。
(※この人←2020年10月12日の聖書黙想に登場した人:
【フィレモン25「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」。迫害する者のために祈れ、は有名だが実行は困難。私のある指摘以降、信徒のくせにと揚げ足取り的になった方が作業所に。彼が昔の傷を言うたび「神様、彼と共にいて下さい」と祈ると決心。これならできる】)
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<新改訳第三版 マルコの福音書5:25-26>
ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
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私は同じテーブルで前に座って作業してた女性に、大学3年の頃に複数の病院へ行っていたことを打ち明け、医者は自分のところで手に負えぬ病状を持ち込む患者に、他科の病名を付けて引き退らせることを結構やる、と話した。私も内科で「子宮内膜症」と告げられた(その医師は子宮を診たわけでもないのに)。それで友人に某婦人科を紹介されて行ったが、色んな病院に行き過ぎて飲み切れぬほど薬を貰っていた私が、次の婦人科受診で薬を飲めなかったことを告げたら、ぶち切れられ診療はストップ。私は大学のカウンセリングセンターの門を叩き、心療内科に繋いでいただいたが、心療内科医師は程なく長期休暇に。1学期の終わり、大学のカウンセラーの方に「これからどうする?」と訊かれ、「最近知り合ったクリスチャンが教会に誘ってくれたので教会へ行ってみます」と答え、涙が出た。私は負けたんだ、と思った。高校の時推薦入学の打算で通ってウンザリしていた教会しか、私には行くところが無いんだと思ったから。
◆9月16日
<新改訳第三版 テサロニケ⑴2:5>
ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。
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今までの信仰生活で(母教会の頃も含め)、生ぬるい時期も沢山あったが、へつらいはしてこなかったと思う。母教会でいまいち伝道に熱心になれなかったのは、クリスチャンが未信者を食い物にしてる感が否めなかったからだと今は思う。私の反権力的な姿勢はやはり滲み出ていたようで、母教会のリーダー達は、あまり伝道せずともすると教会のやり方に批判的になる私を扱いかねてた。礼拝後に、説教の内容に打たれつつ牧師に感想などを言いに行けない私を詰る人もいた。だが、もしかしたら牧師にすぐ反応できてた人は、体のいいこと言ってたのかもな、と今は思う。
◆9月23日
一昨日は通所だったが、某メンバーがだいぶ幻聴に苦しんで、色んな職員に症状を訴えてた。その人の被害妄想は極度で、訴えも頻回すぎて職員も感覚が麻痺しており「誰もそんなこと言ってないよ」「それ幻聴だから」で済まそうとするが、それで彼の幻聴が取り除かれるわけではないから、ずっと訴え続ける。
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<聖書協会共同訳 マルコによる福音書10章46-50節>
一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
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イエスのお供をしていた弟子達は、視えぬ苦しみが除かれるよう叫ぶ盲人を黙らせようとした(人々の病を癒す主の手伝いを普段していたにも拘らず)。こういうことって往々にしてある。受洗後も、それまで受けた傷が完全に癒えておらずクリスチャンに聞いてもらおうとして、却って怒られたりとか。でもイエスご自身は、正直に叫びを上げ続ける人が好きなんだ(「好き」という言い方ちょっと語弊あるかも、だけど)。先の作業所の某メンバーのために私ができることは、ほぼ無い。でも「神様、◯◯さんと一緒にいて下さい」と馬鹿の一つ覚えのように心の内で祈る。同時に、Twitterのフォロワーさんや、アイコンでしかよく知らぬRTで見かけた人の呟きを思い出しつつ、馬鹿の一つ覚えを繰り返す。その人にとって何が最善なのかは私には判らない。だから、あの人がああなりますように、とか、この人をこうして下さい、とは祈るべきではないんだな、と思って。
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<新改訳第三版 テサロニケ⑵3:16>
どうか、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。