◆7月3日
ルツ記4:7の、買い戻しや権利の譲渡の際に履き物を脱いで相手に渡す習慣は、申命記25:7-10に基づくものなんだな。筋を通さないと、権利の最優先者の顔に泥を塗るということなんだな。ボアズってカッコいいな。
◆7月4日
3週ぶりに礼拝へ。花の日(6/13)に発送の寄書きへのお礼葉書が掲示板に。箸も使えず字を書くのも歩くのもままならぬというSさんは、左手で右手を動かしながらお書きになったとか。生きるのに疲れる時もあるけれど(主よ、御心を悟る知恵をお恵み下さい)と祈り、朝夕に聖書と祈りに励まされているそうです。
この寄書きに牧師先生は、聖句のみ引き写ししていらっしゃいました。それを真似て、私も聖句のみ書きました。相手が信徒なら、人間的な慰めより、そのほうが心の中で生きることを知っているからです。ちなみにこの方には、私はこれを書き写しました。
↓ ↓ ↓
<コリントの信徒への手紙一 12章 26節>
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
◆7月6日
サムエル⑴1章。不妊のハンナは子のいるペニンナにいびられ、神殿での毎年の礼拝のたび苦悶。泣きつつ心の中で祈ってたハンナは祭司エリに酔いをさますよう窘められる。取り乱しての祈りが自己中になり裁かれたのって私も経験。それが牧師からだったら尚辛い筈。でも神は全てご存知で祈りを聞く
◆7月7日
クリスチャンになってから、神を否定する(あるいは呪う)言説が苦しかった。神を悪し様に言われるのは自分を悪く言われてるのと同義だった(そのくらい自分には何も無かった。基本的には今もそう)。でも今は、昔に比べ神の大きさにもっと確信が持てるようになった。
↓ ↓ ↓
サムエル記下16:5-12。ダビデが息子に逆らわれ都落ちした時、前王サウルの一族の出のシムイがダビデと家臣に石を投げて呪った。曰く、サウル家の血を流して王位を奪ったから神が報復されてるのだ、と。ダビデの家臣はシムイに立ち向かうことを申し出るが、ダビデは「主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、『どうしてそんなことをするのか』と誰が言えよう」と家臣を諫め、「主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない」 とも言った。
◆7月24日
最近、通読のコピペも礼拝聖句箇所のコピペも殆どしてなかったのが遠因で(←私ってとことん自意識過剰!)バテバテ気味に見えるフォロワーさんがいらっしゃるので、6月中旬〜下旬にかけて発送した手紙に添えた聖句をネタバレ。
* * *
<新共同訳 イザヤ書64章3節>
あなたを待つ者に計らってくださる方は 神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も 目に見た者もありません。
* * *
<新共同訳 詩編139編11節>
わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
◆7月24日
(私って聖書博士だろ?ハッハッハ)的に聖句をあれこれ引用するよりは、その時々で送る相手に相応しい聖句であれば、使い回しでも心の籠った聖句がいいだろうと『信徒の友』3月号分は、だいぶ同じ聖句を書きました。でもネタバレしちゃったし、ずっと同じのだと祈りの気持ちが薄れてきてしまいます。
それで(礼拝時以外で久々に)紙の新共同訳を開き、とんでもない聖句を発見してしまいました。
↓ ↓ ↓
<詩編129編8節>
傍らを通る者が 「主はあなたがたを祝福される。わたしたちも主の御名によって あなたがたを祝福する」と言わないように。
↓ ↓ ↓
こういう安手の祝福、お仕着せ的な聖句選んでないだろうか…?
◆7月27日
今日は午後、作業所で就労B利用のための計画相談の半期モニタリングがあった。私はabcNotesに予めメモしておいたことを元に、就労Bから地域活動支援センター(無給)への利用に移行したいと伝えたが、結局まだ時期尚早とのことで就労Bを継続することになった。
半年前のモニタリングの際に、この引用ツイートの件も伝えてたつもりだったが、指導員には初耳だったようだ。別に私は今も基本的に変わっていない。ただ義務のために生きてる、楽しみはないと言った。
*【1月30日のツイート】
(母との喧嘩は大なり小なり日々続いていたが、母があまりしつこく追求してくるので私は「もう世の中にはせいせいしてる。正直早くお迎えが来てほしい」と本音を言ったところ、母には相当ダメージだった模様。昨晩〜今朝は夢見が良くなかったらしく、午睡でもうなされてた。今も夕飯作りながら泣いてる。)
* * *
<新共同訳 フィリピの信徒への手紙1章21-24節>
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
↓ ↓ ↓
某フォロイーさんが以前、綾小路きみまろの「人生ひまつぶし」のことを呟いてたけど、私もある意味それだよなぁ……ただ自己肯定感低いので、メンタルがかすかすになりながらアウトプットに走るという。。。
◆7月28日
弟の部屋を掃除してた母が『怒りに負ける人 怒りを生かす人』を弟が読んでることを足掛かりに、私を貶し始めた。「信徒のくせにあんたは…!」というありがちな迫害。でも、委員長に対する愚痴に関しても「◯◯さんだって善意で言ってるのに…!」と詰ってきたので、キレた(確かに怒りには負けてるよ)。
正直私には、委員長が相手を褒めちぎればその人を奴隷みたいに扱って良いかのように思ってるとしか見えない。(教会にとって伝道は必要✧₊⁎❝᷀ົཽ≀ˍ̮ ❝᷀ົཽ⁎⁺˳✧そして若者が教会に来たら、褒めちぎって重い責任を負わせよう)とでも思ってるようにしか見えない、と言った。母は「呆れた!」を連発。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 コリント⑵5:12-13>
私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
* * *
<同箇所 New Living Translation>
Are we commending ourselves to you again? No, we are giving you a reason to be proud of us, so you can answer those who brag about having a spectacular ministry rather than having a sincere heart. If it seems we are crazy, it is to bring glory to God. And if we are in our right minds, it is for your benefit.
↓ ↓ ↓
うわべのことで委員長が人を褒めちぎってるのは確かだし、神は私の怒りを解ってらっしゃる。でもその上で「神の和解を受け入れなさい」[コリント⑵5:20]と仰るのだな。聖書は毎日読んでるけど、ウルっときたのは久々。神様ありがとう
◆7月31日
サムエル⑵5章。初代王サウル死後サウル家は弱体化。ついにはイスラエル全部族がダビデにイスラエルの王となるよう請う。ヘブロンからエルサレムに来たダビデに対し住民のエブス人は「あなたはここに来ることはできない。めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる」(新改訳第三版6節)と蔑む。だがダビデは攻略に成功。
* * *
<新改訳第三版 サムエル⑵5:8>
その日ダビデは、「だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて、ダビデが憎む足なえとめしいを打て。」と言った。このため、「めしいや足なえは宮にはいってはならない。」と言われている。
↓ ↓ ↓
ダビデの発言は、エブス人が自分を見くびったことを受けてのもので、障害者差別推奨の意味ではない。だが後世には王の命令として、発言の一部分のみが意図を歪曲されて伝わってしまった。悲しいかなこういうことって多々。権威ある立場の人の言葉の重み、その結論的な部分に群がる民衆の有り様を思う
ルツ記4:7の、買い戻しや権利の譲渡の際に履き物を脱いで相手に渡す習慣は、申命記25:7-10に基づくものなんだな。筋を通さないと、権利の最優先者の顔に泥を塗るということなんだな。ボアズってカッコいいな。
◆7月4日
3週ぶりに礼拝へ。花の日(6/13)に発送の寄書きへのお礼葉書が掲示板に。箸も使えず字を書くのも歩くのもままならぬというSさんは、左手で右手を動かしながらお書きになったとか。生きるのに疲れる時もあるけれど(主よ、御心を悟る知恵をお恵み下さい)と祈り、朝夕に聖書と祈りに励まされているそうです。
この寄書きに牧師先生は、聖句のみ引き写ししていらっしゃいました。それを真似て、私も聖句のみ書きました。相手が信徒なら、人間的な慰めより、そのほうが心の中で生きることを知っているからです。ちなみにこの方には、私はこれを書き写しました。
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<コリントの信徒への手紙一 12章 26節>
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
◆7月6日
サムエル⑴1章。不妊のハンナは子のいるペニンナにいびられ、神殿での毎年の礼拝のたび苦悶。泣きつつ心の中で祈ってたハンナは祭司エリに酔いをさますよう窘められる。取り乱しての祈りが自己中になり裁かれたのって私も経験。それが牧師からだったら尚辛い筈。でも神は全てご存知で祈りを聞く
◆7月7日
クリスチャンになってから、神を否定する(あるいは呪う)言説が苦しかった。神を悪し様に言われるのは自分を悪く言われてるのと同義だった(そのくらい自分には何も無かった。基本的には今もそう)。でも今は、昔に比べ神の大きさにもっと確信が持てるようになった。
↓ ↓ ↓
サムエル記下16:5-12。ダビデが息子に逆らわれ都落ちした時、前王サウルの一族の出のシムイがダビデと家臣に石を投げて呪った。曰く、サウル家の血を流して王位を奪ったから神が報復されてるのだ、と。ダビデの家臣はシムイに立ち向かうことを申し出るが、ダビデは「主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、『どうしてそんなことをするのか』と誰が言えよう」と家臣を諫め、「主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない」 とも言った。
◆7月24日
最近、通読のコピペも礼拝聖句箇所のコピペも殆どしてなかったのが遠因で(←私ってとことん自意識過剰!)バテバテ気味に見えるフォロワーさんがいらっしゃるので、6月中旬〜下旬にかけて発送した手紙に添えた聖句をネタバレ。
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<新共同訳 イザヤ書64章3節>
あなたを待つ者に計らってくださる方は 神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も 目に見た者もありません。
* * *
<新共同訳 詩編139編11節>
わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
◆7月24日
(私って聖書博士だろ?ハッハッハ)的に聖句をあれこれ引用するよりは、その時々で送る相手に相応しい聖句であれば、使い回しでも心の籠った聖句がいいだろうと『信徒の友』3月号分は、だいぶ同じ聖句を書きました。でもネタバレしちゃったし、ずっと同じのだと祈りの気持ちが薄れてきてしまいます。
それで(礼拝時以外で久々に)紙の新共同訳を開き、とんでもない聖句を発見してしまいました。
↓ ↓ ↓
<詩編129編8節>
傍らを通る者が 「主はあなたがたを祝福される。わたしたちも主の御名によって あなたがたを祝福する」と言わないように。
↓ ↓ ↓
こういう安手の祝福、お仕着せ的な聖句選んでないだろうか…?
◆7月27日
今日は午後、作業所で就労B利用のための計画相談の半期モニタリングがあった。私はabcNotesに予めメモしておいたことを元に、就労Bから地域活動支援センター(無給)への利用に移行したいと伝えたが、結局まだ時期尚早とのことで就労Bを継続することになった。
半年前のモニタリングの際に、この引用ツイートの件も伝えてたつもりだったが、指導員には初耳だったようだ。別に私は今も基本的に変わっていない。ただ義務のために生きてる、楽しみはないと言った。
*【1月30日のツイート】
(母との喧嘩は大なり小なり日々続いていたが、母があまりしつこく追求してくるので私は「もう世の中にはせいせいしてる。正直早くお迎えが来てほしい」と本音を言ったところ、母には相当ダメージだった模様。昨晩〜今朝は夢見が良くなかったらしく、午睡でもうなされてた。今も夕飯作りながら泣いてる。)
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<新共同訳 フィリピの信徒への手紙1章21-24節>
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
↓ ↓ ↓
某フォロイーさんが以前、綾小路きみまろの「人生ひまつぶし」のことを呟いてたけど、私もある意味それだよなぁ……ただ自己肯定感低いので、メンタルがかすかすになりながらアウトプットに走るという。。。
◆7月28日
弟の部屋を掃除してた母が『怒りに負ける人 怒りを生かす人』を弟が読んでることを足掛かりに、私を貶し始めた。「信徒のくせにあんたは…!」というありがちな迫害。でも、委員長に対する愚痴に関しても「◯◯さんだって善意で言ってるのに…!」と詰ってきたので、キレた(確かに怒りには負けてるよ)。
正直私には、委員長が相手を褒めちぎればその人を奴隷みたいに扱って良いかのように思ってるとしか見えない。(教会にとって伝道は必要✧₊⁎❝᷀ົཽ≀ˍ̮ ❝᷀ົཽ⁎⁺˳✧そして若者が教会に来たら、褒めちぎって重い責任を負わせよう)とでも思ってるようにしか見えない、と言った。母は「呆れた!」を連発。
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<新改訳第三版 コリント⑵5:12-13>
私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
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<同箇所 New Living Translation>
Are we commending ourselves to you again? No, we are giving you a reason to be proud of us, so you can answer those who brag about having a spectacular ministry rather than having a sincere heart. If it seems we are crazy, it is to bring glory to God. And if we are in our right minds, it is for your benefit.
↓ ↓ ↓
うわべのことで委員長が人を褒めちぎってるのは確かだし、神は私の怒りを解ってらっしゃる。でもその上で「神の和解を受け入れなさい」[コリント⑵5:20]と仰るのだな。聖書は毎日読んでるけど、ウルっときたのは久々。神様ありがとう
◆7月31日
サムエル⑵5章。初代王サウル死後サウル家は弱体化。ついにはイスラエル全部族がダビデにイスラエルの王となるよう請う。ヘブロンからエルサレムに来たダビデに対し住民のエブス人は「あなたはここに来ることはできない。めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる」(新改訳第三版6節)と蔑む。だがダビデは攻略に成功。
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<新改訳第三版 サムエル⑵5:8>
その日ダビデは、「だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて、ダビデが憎む足なえとめしいを打て。」と言った。このため、「めしいや足なえは宮にはいってはならない。」と言われている。
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ダビデの発言は、エブス人が自分を見くびったことを受けてのもので、障害者差別推奨の意味ではない。だが後世には王の命令として、発言の一部分のみが意図を歪曲されて伝わってしまった。悲しいかなこういうことって多々。権威ある立場の人の言葉の重み、その結論的な部分に群がる民衆の有り様を思う