水の門

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歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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#通読+α 2021年5月分まとめ

2021年05月31日 09時28分20秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆5月4日
ヨハネ福音書20章。死んで葬られたイエスの墓に遺体がなく狼狽えたマグダラのマリヤに主が現れる。園丁と勘違いした彼女に主が「マリヤ」と呼びかけると「ラボニ(先生)」と応えた彼女。イエスは「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないから…」と(17節)。安彦良和の漫画『イエス』では、氏の独自解釈でイエスとマグダラのマリヤに性関係があったように描いてるが、私は違和感。主は女性に優しいが節度あり。ルカ7章で、パリサイ人宅で食卓についた主に罪深い女が近寄って足を涙で濡らし髪で拭い、御足に口づけ香油を塗るシーンがある。パリサイ人はその女性に卑猥なものを見て取っていた風だが、イエスは淫らに見えなくもないその女性の振る舞いに真実の愛を見、彼女を弁護。だから、彼女とイエスはその後イイ仲になったんでしょう…というのは邪推では。イエスが彼女を自分の欲望のために利用したとは私には思えない。

◆5月10日
渡辺和子シスターの「置かれた場所で咲きなさい」への批判は頷ける部分もあるがどうかなぁと思う部分も。己の生きたい環境を選べる人はそれだけで羨ましい。私は今住んでる(発病で連れてこられた)場所を今でこそ甘受できてるが長らく嫌だった。病状・仕事・経済状況・家など様々な面で首都圏に戻るのを封じられた感あった。
   *  *  *
<新共同訳 ヨハネによる福音書21:17-19>
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
   ↓  ↓  ↓
私が今置かれている場所を主の召命によるものと思えるまでは何年もかかった。と言うか、召命は主に与えられるものだから、自己決定ですらないと私は思うが。まぁただ「〜咲きなさい」と人に命じられるのに違和感覚えるのは解る。多分「〜咲きなさい」の本意は、ボブ・ディランの「Forever Young」の歌詞の中の〈May you have a strong foundation When the winds of changes shift〉(風向きの変わる時も 強い芯を持つ人でありますように)的なニュアンスで、命令というより祝祷に近いものだったのでは?
……そうは言っても、確かに影響力は看過できないけれどもね。

◆5月13日
Twitterは本当に私にとって他では得難い場。ただ知識を得るとか、情報発信するとかだけじゃなく、自分に正直になること、多様な人のあり方に触れること、人を尊重することを、体験を通して教えてもらえる。
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<新改訳第三版 詩篇4:6-8>
多くの者は言っています。「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。

◆5月16日
申命記23章。律法のため旧約では限定されてた祝福が、イエスの誕生でいかに拡大されたか判る。2節「不倫の子は主の集会に加わってはならない」17節「イスラエルの女子は神殿娼婦になってはならない」➤タマルがユダ(創世記)により産んだ子がイエスの育ての父(ヨセフ)の祖先となった。
申命記23章3節「アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない」➤モアブ人ルツはボアズと再婚しオベド(ダビデの祖父)を産み、イエスの系図に記された。

◆5月22日
最近通所し始めた人が神に関心ありつつどうも枝葉の方に思考が逸れていくのがもどかしかった(神や愛について書かれた作り話とか、偽典とか)。私の興味関心が狭すぎるのかもしれないが、昔から「人生は短い」と思ってるし、余分でかつ息抜きにならないことをしているほど暇ではない。半可通に議論したりあれこれ色目を使っている時間は(私には)惜しい。申命記30:11-14を読んでそう思った。
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(新改訳第三版)
まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。

◆5月29日
10ヶ月前、トラクト25号を発行してからひと月の間礼拝へ行けなかった。微熱が続いて(まだコロナへの不安感も強固で)休んだのだ。でもあれはあれで良かったと思ってる部分も。25号は丸山光氏のお歌の鑑賞を掲載し、牧師先生も巻頭言を入念に準備されて、コロナに照準を合わせた号になった。私は1ヶ月休んだからその余波は殆ど預かり知らぬが、トラクトの過剰評価の声があったのでは(今までの経験より)。人を奉り上げるところにサタンは働き易い(エフェソ2:2「空中に勢力を持つ者」)。礼拝の長期欠席は好ましくないが、教会員も人の偶像崇拝から守られたし、私も高慢の罪をおかすのを免れた。
前述のエフェソに加え、下記も心に留めたい
   *  *  *
<新共同訳 ヤコブの手紙4:9>
悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。
   *  *  *
<新共同訳 アモス書7:14>
アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。

◆5月30日
今日の礼拝説教聖句は昨年度から据置の年度聖句ホセア10:12。先生としては思い切って教会員に耳の痛いこと(神が教会に求めているのは伝道)を語ったと思う。でも教会員も伝えたくてもどうしたらいいか分からないのも事実。先生も方法論は正直グダグダだった。と言うか、これうちの教会だけの問題じゃないよね。先生は説教の中ではホセア10:12しか読まなかったけど、ホセア10章全体を見回して解き明かしをされたのだろう。協会共同訳10:13「あなたがたは…欺きの実を食べた。しかも、あなたは自分の振る舞いと 軍勢の多さを頼みとした」が個人的に刺さった。良く見える行いが利己的なのって結構あるから。
コメント
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