他の頬を差し出すといふ救ひあり仕返しできぬ立場の人に
歌意は、信条などのために誰かの仕打ちに報復できない人でも、打たれた側と逆の頬も向けさせるという「救ひ」は持ち合わせている、となろう。被虐的に聞こえる歌かもしれない。「他の頬を差し出す」というのは、イエスの言葉を元に詠まれているのは明白である。それはこうだ。<しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい>(ルカによる福音書6章27~29節)。けれど、それがなぜ「救ひ」になるのか。一つには、ローマの信徒への手紙12章19節~20節<愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」>という御言葉を、大崎が承知していたためと思われる。
ここまで聞いて、大崎の歌を「何だ、負け惜しみか…」と捉える方もいることだろう。しかし、この歌の直前に下記の一首が置かれることで、掲出歌は単なる虚勢とは一線を画す、強靭なバックボーンを与えられている。
偽善者てふ語彙は十代の半ばごろ新約聖書を読みて知りたり
私事になるが、私は幼少から十代まで兄の暴力を受けつつもそれを親に訴えず、表面的には平然とやり過ごしていた。私はそういう自分を内心誇る気持ちがあった。だが、キリスト教主義高校に入学し、毎朝授業の前に礼拝を受けるようになって、私は次の聖句に出遭って愕然とした。<たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない>(コリントの信徒への手紙 一 13章2節~3節)。 ――見透かされた!――そう思った。私はまさに偽善者だったのだ。
イエスご自身が真心をもって「もう一方の頬を向け」た方であったと私が理解するまでには、それから何年も要した。掲出歌の心境は、あるいは理屈の上では察せられたとしても、信徒でなければ心深く迫ってくるものではないかもしれない。何故ならその「救ひ」は、「イエス様ならこの気持ちを分かって下さっている」というものだから。
大崎瀬都『メロンパン』
歌意は、信条などのために誰かの仕打ちに報復できない人でも、打たれた側と逆の頬も向けさせるという「救ひ」は持ち合わせている、となろう。被虐的に聞こえる歌かもしれない。「他の頬を差し出す」というのは、イエスの言葉を元に詠まれているのは明白である。それはこうだ。<しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい>(ルカによる福音書6章27~29節)。けれど、それがなぜ「救ひ」になるのか。一つには、ローマの信徒への手紙12章19節~20節<愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」>という御言葉を、大崎が承知していたためと思われる。
ここまで聞いて、大崎の歌を「何だ、負け惜しみか…」と捉える方もいることだろう。しかし、この歌の直前に下記の一首が置かれることで、掲出歌は単なる虚勢とは一線を画す、強靭なバックボーンを与えられている。
偽善者てふ語彙は十代の半ばごろ新約聖書を読みて知りたり
私事になるが、私は幼少から十代まで兄の暴力を受けつつもそれを親に訴えず、表面的には平然とやり過ごしていた。私はそういう自分を内心誇る気持ちがあった。だが、キリスト教主義高校に入学し、毎朝授業の前に礼拝を受けるようになって、私は次の聖句に出遭って愕然とした。<たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない>(コリントの信徒への手紙 一 13章2節~3節)。 ――見透かされた!――そう思った。私はまさに偽善者だったのだ。
イエスご自身が真心をもって「もう一方の頬を向け」た方であったと私が理解するまでには、それから何年も要した。掲出歌の心境は、あるいは理屈の上では察せられたとしても、信徒でなければ心深く迫ってくるものではないかもしれない。何故ならその「救ひ」は、「イエス様ならこの気持ちを分かって下さっている」というものだから。