今日、礼拝後に伝道集会があり、そこで私自身の信仰について証しをしました。
以下に、その全文を掲載いたします。
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私は二十歳の時に東京は渋谷区にある教会で洗礼を受けました。この教会は伝道に非常に熱心で、家族や職場の同僚といった身近な人だけでなく、電車の中や喫茶店などでたまたま隣り合わせた人にも声をかけて教会へ誘うことを熱心に勧めていました。おかげで教会は非常に大きかったです。私が洗礼を受けた頃は約150人の会員数でしたが、その後信徒は増え一時期は1000人にも達していました。しかし教会員の増加に執着するあまり、社会的な影響力のある人の回心が高く評価され、弱さを抱えた人へのケアが十分なされていませんでした。2000年の末から2001年の初めにかけて、私はそのことに強い憤りを感じて、夜昼と無くノートに教会への不満を訴える祈りを書き続けました。その結果として、お正月休みが終わる頃に私は、教会を築き上げるのに必要と思われる個人的な目標を5つ見定めることができました。そのうちの一つが、「人の社会復帰を助ける」ということだったのです。
祈りに対する神様の応えは速やかにやって来ました。当時仕事の上でも追い詰められていた私は2001年1月中旬に幻聴を聞き、職場からの帰りの電車を乗り越して終着駅まで行って改札で倒れて、病院に運ばれました。これが私の統合失調症の始まりでした。統合失調症は、脳内の神経伝達物質が過剰分泌されて起こる病気で、症状としては妄想や幻覚が見られます。発症後 程なくして私は、定年で先に山梨に移住していた両親の元に連れてこられ、山梨厚生病院に一ヶ月入院しました。その後今まで 約7年と8ヶ月の間に大きな再燃を三度繰り返しました。
私が「人の社会復帰を助ける」という目標を掲げた時、まさか自分自身がこのような病気になるとは想像もしていませんでした。『ヘブライ人への手紙』の4章には、イエス様についてこう書いてあります。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(15節)。私達はクリスチャンとして、イエス様が人間の苦しみを全て自分のことのように痛み 理解されていることを信じています。けれど、イエス様は実際に精神病にかかられたわけではありません。このことをどう考えたらいいのでしょう。パウロは、『コロサイの信徒への手紙』の1章でこう述べています。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(24節)と。イエス様が人間の体をもって地上を生きるという制約のために、実際には経験し得なかった苦しみを、私達一人一人のクリスチャンが代わりに担っているのではないでしょうか。私はこの病気にかかったことで、イエス様の苦しみが及ばなかったところを補わせていただき、他の人と苦しみを共に分かち合う恵みにあずかったのだと、今は考えています(コリントの信徒への手紙 二 1章4~6節)。
社会復帰への道のりは平坦ではありません。最初の発病から3年ほど経った頃、一度はパート勤務もできるようになりましたが、去年の4月に病気の再燃で仕事を辞めざるを得なくなりました。今年の春、再就職を考えてハローワークに行って障害者窓口の人と面談を重ねるうちに、安定して仕事を続けていくには私がまだ沢山の不安を抱えていることが浮き彫りにされました。ハローワークの方は私に、病院のデイケアや授産施設などに通って、まず人が沢山いる環境に心身を慣れさせることを勧めました。その時、私は医者がデイケアなどを特に勧めないのをいいことに、自分にはそういった社会的援助は必要ないかのようにおごり高ぶっていたことに直面させられました。
それから約一ヵ月後、私は地域の精神障害者の福祉作業所に通うことになりました。ここでは20代から70代まで幅広い年齢層の方が、ジャムの瓶にシールを貼ったり、スプーンやフォーク、おたま等の台所用品を袋詰めしたりといった作業をしています。たまに作業をしながら、服用している薬の話が飛び交ったり、また発病前にしていたことなどを話したりします。私はそのことを通じて、作業所に通っている人達が病気のせいで自分自身にあまり期待できなくなっていることや、精神障害者に対して社会が向ける冷たい視線にみんな傷ついていることを知りました。同じ痛みを共有するものとして自然にいたわり合っているせいか、作業所の雰囲気は和やかでとても居心地がいいです。私が一足飛びに社会復帰できずにこうして回り道したことは、きっと神様が私に「もっと皆の痛みを感じなさい」とおっしゃりたいのだろうと私は理解しています。イエス様ご自身も人から、「悪霊に取り付かれている」と陰口を叩かれ(マルコによる福音書3章22節)、身内にも「気が変になった」と言われたこと(マルコによる福音書3章21節)を覚えます。イエス様も人から、精神障害者に対するのと同じような偏見の目を向けられたという記述が聖書にあることは、私にとって本当に大きな慰めです。
私が今回こうして証しをすることを頼まれた時に、二つ返事でお受けしたのには訳があります。○○教会(今 通っている教会)では証しというと、何か自分が大きなことを成し遂げているのを話すことのように勘違いされているふしがあるように感じます。しかし、『コリントの信徒への手紙 二』4章にはこう書いてあります。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(7節)と。私達人間の体は土くれで出来ています。土くれはもろく、欠け易いものです。『マタイによる福音書』の5章でイエス様は、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(16節)と語っていますが、これは自分自身がいかに立派かを証明しなさいということではありません。私達は日々の生活の中で、様々な肉体的・精神的なキズを負います。その傷口を通して、私達の内に宿る神様の光が自然に漏れ出て行くのです。だから私達は、欠けたところのある自分のありのままを人に証しすることで、自分から発するのではない神様の光を現していくことができるのだと思います。
パウロも、『ガラテヤの信徒への手紙』の4章で「わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」(13節)と書いています。身体的にも社会的にも弱くされたと自信を失っている方に私は言いたいです。神様はあなたの苦しみを神様の御用のために用いることがおできになります。自分の痛みを人にさらすことは、確かにつらいことかもしれません。けれど、イエス様の復活を信じられなかったトマスに、イエス様が手の釘の跡とわき腹の傷跡を示して「信じなさい」と言った姿を思い起こしてください。トマスはその主を見ただけで信じました。しかし、イエスはトマスが信じられるためには、傷跡に触れられて痛み苦しむことをいといませんでした(ヨハネによる福音書20章24~28節)。きっと、あなたの周りにもあなたの証しを待っていらっしゃる方がいると思います。主が皆さんの目を開いてくださいますようにお祈りしています。
以下に、その全文を掲載いたします。
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私は二十歳の時に東京は渋谷区にある教会で洗礼を受けました。この教会は伝道に非常に熱心で、家族や職場の同僚といった身近な人だけでなく、電車の中や喫茶店などでたまたま隣り合わせた人にも声をかけて教会へ誘うことを熱心に勧めていました。おかげで教会は非常に大きかったです。私が洗礼を受けた頃は約150人の会員数でしたが、その後信徒は増え一時期は1000人にも達していました。しかし教会員の増加に執着するあまり、社会的な影響力のある人の回心が高く評価され、弱さを抱えた人へのケアが十分なされていませんでした。2000年の末から2001年の初めにかけて、私はそのことに強い憤りを感じて、夜昼と無くノートに教会への不満を訴える祈りを書き続けました。その結果として、お正月休みが終わる頃に私は、教会を築き上げるのに必要と思われる個人的な目標を5つ見定めることができました。そのうちの一つが、「人の社会復帰を助ける」ということだったのです。
祈りに対する神様の応えは速やかにやって来ました。当時仕事の上でも追い詰められていた私は2001年1月中旬に幻聴を聞き、職場からの帰りの電車を乗り越して終着駅まで行って改札で倒れて、病院に運ばれました。これが私の統合失調症の始まりでした。統合失調症は、脳内の神経伝達物質が過剰分泌されて起こる病気で、症状としては妄想や幻覚が見られます。発症後 程なくして私は、定年で先に山梨に移住していた両親の元に連れてこられ、山梨厚生病院に一ヶ月入院しました。その後今まで 約7年と8ヶ月の間に大きな再燃を三度繰り返しました。
私が「人の社会復帰を助ける」という目標を掲げた時、まさか自分自身がこのような病気になるとは想像もしていませんでした。『ヘブライ人への手紙』の4章には、イエス様についてこう書いてあります。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(15節)。私達はクリスチャンとして、イエス様が人間の苦しみを全て自分のことのように痛み 理解されていることを信じています。けれど、イエス様は実際に精神病にかかられたわけではありません。このことをどう考えたらいいのでしょう。パウロは、『コロサイの信徒への手紙』の1章でこう述べています。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(24節)と。イエス様が人間の体をもって地上を生きるという制約のために、実際には経験し得なかった苦しみを、私達一人一人のクリスチャンが代わりに担っているのではないでしょうか。私はこの病気にかかったことで、イエス様の苦しみが及ばなかったところを補わせていただき、他の人と苦しみを共に分かち合う恵みにあずかったのだと、今は考えています(コリントの信徒への手紙 二 1章4~6節)。
社会復帰への道のりは平坦ではありません。最初の発病から3年ほど経った頃、一度はパート勤務もできるようになりましたが、去年の4月に病気の再燃で仕事を辞めざるを得なくなりました。今年の春、再就職を考えてハローワークに行って障害者窓口の人と面談を重ねるうちに、安定して仕事を続けていくには私がまだ沢山の不安を抱えていることが浮き彫りにされました。ハローワークの方は私に、病院のデイケアや授産施設などに通って、まず人が沢山いる環境に心身を慣れさせることを勧めました。その時、私は医者がデイケアなどを特に勧めないのをいいことに、自分にはそういった社会的援助は必要ないかのようにおごり高ぶっていたことに直面させられました。
それから約一ヵ月後、私は地域の精神障害者の福祉作業所に通うことになりました。ここでは20代から70代まで幅広い年齢層の方が、ジャムの瓶にシールを貼ったり、スプーンやフォーク、おたま等の台所用品を袋詰めしたりといった作業をしています。たまに作業をしながら、服用している薬の話が飛び交ったり、また発病前にしていたことなどを話したりします。私はそのことを通じて、作業所に通っている人達が病気のせいで自分自身にあまり期待できなくなっていることや、精神障害者に対して社会が向ける冷たい視線にみんな傷ついていることを知りました。同じ痛みを共有するものとして自然にいたわり合っているせいか、作業所の雰囲気は和やかでとても居心地がいいです。私が一足飛びに社会復帰できずにこうして回り道したことは、きっと神様が私に「もっと皆の痛みを感じなさい」とおっしゃりたいのだろうと私は理解しています。イエス様ご自身も人から、「悪霊に取り付かれている」と陰口を叩かれ(マルコによる福音書3章22節)、身内にも「気が変になった」と言われたこと(マルコによる福音書3章21節)を覚えます。イエス様も人から、精神障害者に対するのと同じような偏見の目を向けられたという記述が聖書にあることは、私にとって本当に大きな慰めです。
私が今回こうして証しをすることを頼まれた時に、二つ返事でお受けしたのには訳があります。○○教会(今 通っている教会)では証しというと、何か自分が大きなことを成し遂げているのを話すことのように勘違いされているふしがあるように感じます。しかし、『コリントの信徒への手紙 二』4章にはこう書いてあります。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(7節)と。私達人間の体は土くれで出来ています。土くれはもろく、欠け易いものです。『マタイによる福音書』の5章でイエス様は、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(16節)と語っていますが、これは自分自身がいかに立派かを証明しなさいということではありません。私達は日々の生活の中で、様々な肉体的・精神的なキズを負います。その傷口を通して、私達の内に宿る神様の光が自然に漏れ出て行くのです。だから私達は、欠けたところのある自分のありのままを人に証しすることで、自分から発するのではない神様の光を現していくことができるのだと思います。
パウロも、『ガラテヤの信徒への手紙』の4章で「わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」(13節)と書いています。身体的にも社会的にも弱くされたと自信を失っている方に私は言いたいです。神様はあなたの苦しみを神様の御用のために用いることがおできになります。自分の痛みを人にさらすことは、確かにつらいことかもしれません。けれど、イエス様の復活を信じられなかったトマスに、イエス様が手の釘の跡とわき腹の傷跡を示して「信じなさい」と言った姿を思い起こしてください。トマスはその主を見ただけで信じました。しかし、イエスはトマスが信じられるためには、傷跡に触れられて痛み苦しむことをいといませんでした(ヨハネによる福音書20章24~28節)。きっと、あなたの周りにもあなたの証しを待っていらっしゃる方がいると思います。主が皆さんの目を開いてくださいますようにお祈りしています。