笑顔浴

優しい時間

おくる

2018年04月03日 | Weblog

 

幼なじみのAちゃんから、訃報の電話をもらう。

 

母が小学校の教員だったので

夏休みに遊びに来た彼女と私は出逢った。

その後の文通で、仲良くなった。

県外の大学から帰省した時には

彼女の実家である八百屋を訪ねた。

 

おじいさんの作ったお漬物を新聞紙に

クルクルと包んで持たせてくれたのが

母と同じ年の Aちゃんのお母さんだった。

 

店先で私を見つけると、

すぐに小走りで駆けより 必ず

「よく頑張っといでる」「貴女は偉い」

「きれいになった」「考え方が素晴らしい」と、

何度も何度も 褒めちぎってくださった。

私の<根拠のない自己肯定感>は、

こうして<無条件の称賛>をたくさん浴びたせいに違いない。

 

「出来ない事は、ひとつもないから

 したいことを想像してごらん。

 おばちゃんに話してくれたら 二人で想像しよう。

 夢の中は、自由だよ」と励ましてくださった。

 マッチ売りの少女が 寒さに凍えながら灯す光の

 わずかな瞬間に 喜びを感じたように

 死にゆく途中でさえ 幸せを感じることが必要と教わった

 文学少女だったおばちゃんらしいと感じている。

  

 Aちゃんが県外にお嫁に行って

 おじいさんが亡くなって しばらくして

 八百屋のシャッターが下りたままになった。

 おばちゃんが、Aちゃんと同居するようになった便り

 が届いた頃は、自転車で颯爽と走る姿を想像していた。

 

 伊予柑を絞った果汁も、飲めなかったと

 声を詰まらせていたAちゃんに

 身体が思い通りに動かなくなってからも、

 空想の世界で 自由にふるまっておられた気がする

 と手紙を書いて、

 今日は「ありがとうございました」のお線香を届ける。

 

 後日、そちらにうかがうまで しばしのお別れです。

 

 

 

 

 

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