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感想:『日本人のリテラシー―1600‐1900年』――前近代以降の日本人の識字率とその本質

2009年09月04日 17時36分23秒 | 学問
日本人のリテラシー―1600‐1900年日本人のリテラシー―1600‐1900年
価格:¥ 5,040(税込)
発売日:2008-06


インディアナ大学教授リチャード・ルビンジャーによる、江戸時代~明治時代までの日本人の読み書き能力に関する研究書。江戸時代の日本人の識字率が高いという幻想に対して、非常に興味深い検証を行っている。特に、手習所の就学率が単純に識字率を表すものではないという指摘は頷けるものだ。
本書は江戸初期(17世紀)、18世紀、19世紀、明治期と時代を区分し、また都市と農村の差や地域性といった観点から当時の庶民の内実に迫ろうとしている。

江戸時代の史料は大量に残っており、未だ手が付けられていないものも少なくない。しかし、その大部分は読み書き能力に長けた者によって書かれており、読み書き能力のない者たちの実相は掴みにくい。江戸初期では、符牒に使われ方よってその能力を類推しているが、印鑑の普及によって以後は調べられなくなっている。
江戸初期では、大都市、都市、農村に分けて、その状況が述べられている。大都市では高い識字率を誇り、それは女性や下層に位置する者にまで及んでいる。しかし、地方都市や農村では上層の男性に限られている。

江戸中期になり経済の発達によって、地方都市及び郊外の農村部では識字率の向上が見られる。一方で、農村では量的な広がりではなく質的な向上が図られた。農村エリート層はその教養の高さによって農村運営の主導権を得ていると言える。この時代には都市、都市近郊、農村といった各地域に高い教養を備えた層が誕生し、文化を育んでいた。
この当時、農村には大きな文化的格差が存在し、読み書き能力の有無という観点以上にその質においてそれは顕著だった。

18世紀中ごろから徐々に手習所の創設などにより読み書き能力の普及が行われた。19世紀になると社会的な不安定な状況が読み書き能力の価値を上昇させた。道徳的教化としての側面があった当初の目的よりも、必要に迫られて多数の手習所が誕生していく。だが、多数の手習所とはいえ実際にどれだけの効果があったかは不透明だ。農村では農閑期は出席率が高かったが農繁期になるとほとんど閉鎖状態となった。長続きしない手習所も少なくなかっただろうし、教える側の質も多岐に渡っていただろう。エリート層であれば家内や親戚などから初期の教育を受け、その後は都市へ行って学ぶことが行われていた。
そして、読み書き能力の大きな差を生み出したものは地理的条件だった。都市近郊、街道の近く、商業の盛んなところでは下層の人々にまで読み書き能力は広まったが、そうした条件に合わない地域では多くの非識字層を残すことになった。

明治期の文部省及び陸軍省による調査が検証されている。1899年の調査では、全く読み書きできない者とされている率は、仙台、津、長野、福島などでは10%強だったのに対して、沖縄の76.3%はともかく、高知、鹿児島、大村、松山などで40~60%近くと非常に高い数字が残されている。これは陸軍の壮丁教育調査であり、徴兵に際して行われたものなので女性は含まれない。江戸期の調査などから、性差はどの地域でも見られ、もちろん女性の方が非識字率は高い(ただし、地域差に比べると性差は小さい)。
北海道、東北、四国、九州といったところは非識字率が極めて高く、それが改善されるのは1909年頃のことである(あくまでも20歳男性を基準にしたものだが)。

明治期に入っても商業の盛んな地域では識字率は高いが、工業の盛んな地域では就学よりも労働に時間を割かれて識字率は低いままという分析がされている。富国強兵殖産興業という近代化の必要性に迫られ国民の教育の向上が図られ、結果として識字率は上昇する。江戸期は都市部及びその近郊では、確かに高い識字率を誇り、例えば開国期前後にこの国を訪れた海外の知識人を驚かすこともあった。ただそれはあくまでも全国に敷衍できるものではなく、識字率の非常に低い地域も少なくはなかった。
明治期における日本の近代化の成功を単純に江戸期の識字率の高さに求めることは恐らく間違いなのだろう。もちろん、江戸期の文化的蓄積が大きな役割を果たしたことはあっただろうが。

私が関心を抱いている、儒教的思想の浸透は読み書き能力の普及なしには遂げられなかっただろうという予測からすれば、やはり明治期以降にこそ根付いたと考えられる。高い教養を持っていた層による教導はあっただろうが、むしろ明治期の国家的イデオロギーと結び付いてこそ大きな意味合いを持ったのかもしれない。例えば、「武士道」は職分が固定された社会においては、あくまでも武士身分にのみ通用する価値観だった。だが、四民平等となり国民全体に国家への忠誠が要求されるようになると、国民一人一人に身分に関わらず「武士道」のような概念を担うことが求められた。儒教的価値観は江戸期においても庶民を対象にした読み物などにも浸透していたので、明治期に急に広まったとは言えないが、その深度は国家イデオロギーと結び付くことで強まったのだろう。


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