Wikipediaの『けいおん!』の項目の中に、「空気系としての『けいおん!』」というものがある。少し長いがその一部を引用する。
ここで問題となるのは「成長」という言葉の意味だ。
最も記号的な成長として思いつくのはRPGのレベルアップだろう。経験値を獲得し、一定の値以上になるとレベルと共にHPなどが上昇する。ステータスが増え(増減するものもある)、スキルや魔法を覚えたりする。
しかし、この成長をリアリティのあるものと感じる人は少ない。
では、成長とは何か。
最も分かりやすい成長は、肉体の変化である。子供から大人への変化を成長と呼ぶことに抵抗を感じることはほとんどないだろう。それは人間に限ったものではなく、動物や植物など普遍的なものと言える。
だが、先の『けいおん!』の記述で語られる成長はそうした肉体的な成長を意味してはいない。
現代で肉体的な意味以外での成長を比較的実感できるのがスポーツの世界だ。選手の成長は成績として表れやすい。
例えば、マリナーズのイチロー。入団当初は非常に線の細い選手だったが、徐々に筋肉が増え、アスリートと呼ばれる体つきになっていった。これは肉体的な成長である。
入団当初からバットコントロールなどに非凡な才能を見せてはいたが、身体ができていないこともあって1軍で実績を示すことはできなかった。肉体的成長と共に技術的な面でも確実に成長し、入団3年目にブレイクし最多安打の日本記録を更新するなどの活躍を見せた。
日本ではその後首位打者を続け、ついには海を渡り、メジャーで打者として成功を収めるという素晴らしい結果を残した。そんなイチローを評するときに語られるのが精神面での成長ということになる。
スポーツの世界ではよく「心・技・体」という言葉が使われる。つまり、精神、技術、肉体の3要素が重要ということだ。成長もその3要素それぞれで評価されることがある。
スポーツ選手に限らず、社会に必要な様々なスキルを身に付けることも成長と呼ぶに足る行為だと言えるだろう。単なる資格であったり、運転免許や語学といったものだけでなく、コミュニケーションの技術や自分をアピールする技術などもスキルの部類と言える。
しかし、この成長も『けいおん!』で語られた成長とは異なっている。楽器を演奏する技術について語られているわけではないのだ。
結局、語られている成長は精神面に限った話ということになる。では、精神的な成長とはなんだろう?
フィクションにおけるキャラクターの成長を非常に巧みに描いてみせた作品の例として『機動戦士ガンダム』が挙げられる。この作品は様々な切り口で楽しめる作品だが、根幹となっているのは主人公の成長譚である。作品中のほぼ全ての出来事はそのために用意されている。
主人公アムロは社会性に欠けるタイプの少年であり、彼が人との出逢いや仲間とのやり取り、恋愛感情、戦いと身近な人の死といった経験を経て社会性を身に付けた大人へとなっていく。成長のための契機が次々と訪れ、それを通して社会との関わりを学び、生きる意味を理解していく。まさに成長のお手本のような物語である。
『機動戦士ガンダム』は1979年から80年にかけて放送された。その15年後の1995年に作られたのが『新世紀エヴァンゲリオン』である。
同じように社会性に欠ける少年を主人公としながら、ガンダムとは全く異なる展開が繰り広げられた。成長のための契機は訪れるが、主人公はそこから社会との関わりを学んだり、生きる意味を理解したりできない。世界は複雑怪奇で少年の手に負えるものではなく、少年の周囲の大人たちも自分たちのことで精一杯で少年の成長を助けてはくれない。
それはただフィクションの中の出来事ではなく、現実社会が変質したことが生み出したものだった。
肉体であれ技術であれ成長というイメージには到達点へ至る過程というものがある。大人の体つきへ向かうのが成長であり、ただ太ったり痩せたりすることは成長とは呼ばない。技術でも上達のイメージがあるからこそ成長と呼べる。
では、精神的な成長は何に向かうのか。古い話だと双葉山が木鶏を目指したとされる。スポーツ選手であれば、平常心で戦えるというのが一つの目標足りえるかもしれない。
だが、一般社会における精神的成長はどうか。例えば武士道精神であったり、国家に尽くすことが立派な大人とされる時代もあった。少なくとも時代時代に「立派な大人」という共通認識はあった。社会的に成功することも大切だが、それだけではなく人として立派であることが(ある程度は建て前だとしても)理想とされていた。
しかし、日本ではバブル期を経てそうした共通認識が崩壊したと言えるだろう。
価値観が多様化し、理想の生き方も人それぞれとなった。国家や企業への忠誠が求められた時代は終わった。それは生き方の自由が許される時代とも言えるが、自由とは不自由なものとも言える。自分で選択するということは自分で責任を負うことである。また、過去の価値観が相対化されたということは、過去のやり方を真似ればいいというわけにもいかない。
そんな時代に単純に主人公の精神的な成長を描いても文字通り「フィクション」の中だけの出来事となってしまう。『新世紀エヴァンゲリオン』の価値は同時代的にそれを表舞台へさらけ出したことだ。「エヴァ以後」とは精神的な成長が困難になってしまったという前提を踏まえてそ、れでもフィクションとしてどう成立させるかという苦闘を示している。
空気系の元祖とも呼べる作品が1999年にスタートした4コマ漫画『あずまんが大王』である。主人公の少女たちの日常を描いたギャグ漫画だが、その後の空気系に受け継がれるいくつかの要素がある。
まず、明確な主人公が存在せず複数のキャラクターが主人公格である点。次いで、リアルタイムと同じペースで作中で時間が流れる点。恋愛要素が希薄である点、そして、成長要素がほとんどない点である。
それまでも成長要素のないフィクションは数多く存在した。ただそれらの多くは、時間経過のない世界で描かれるものが多かった。作中で時間が経過しないというテクニックは長期連載を可能にすると共にキャラクターの成長を描かない(描けない)という要素を生み出した。それは時に利点となり、時に欠点となった。「永遠のユートピア」的な観念は支持も得たが、逃避的なイメージで捉えられることも多かった。
現代においても、若い世代の中でも、誰もが精神的成長への懐疑を抱いているわけではない。懐疑の程度も異なる。フィクションにおけるキャラクターの精神的な成長の描き方に対して、旧来通りに納得する人もいれば、記号的に感じる人もいる。多くのフィクションにおいて、これまでの成長の表現方法は今も使われているし、そういう「お約束」として成り立っているのも事実だろう。
ゼロ年代の空気系作品に対してもそれまでの「永遠のユートピア」と同じように捉えて支持している人もいるだろう。それが悪いわけではない。
ただ両者は決定的に異なる。
「空気系」のほんわかした空気の先に「覚悟」を感じると言えば大げさだろうか。
「永遠のユートピア」は現実社会からの逃避先だった。だが、空気系は現実社会の限界から生み出されたとも言える。精神的成長の核だった国家や道徳といった「大きな物語」を信じられなくなったとき、何を糧として生きていくのか。「自分探し」なんてものが流行ったりしたのもその表れだったろう。スピリチュアルなものであったり、ナショナリズムのような大きな支えを求める人もいる。しかし、生きる意味が分からなくても日常は否応なく訪れる。そして、そんな日常も捨てたものではないという気付きさえあれば生きていけるのだと「空気系」は示している。
『けいおん!』第1話の主人公たちと『けいおん!!』最終話の主人公たち。高校入学時と卒業時という3年という月日が描かれているが、そこに「成長」はあったのか。私には精神的な成長は感じられなかった。でも、成長しないことがいけないことだというのは、成長が信じられた時代の価値観に過ぎない。
成長を社会への適応と捉えるならば、現代においても成長は必須である。生きていくのに必死な社会でそれを否定することはできないが、でも、それは本当に「成長」なのだろうか。
精神的成長の理想像を見出せない以上、全ては「変化」に過ぎない。日常の中に幸せを見出す生き方も価値観のひとつに過ぎないことは分かり切っている。価値観を押し付けられないがために押し付けるのは間違いの元であると理解している。それでも、本当にそれでいいのかという疑問も捨てられずにいる。
もう少し個別の作品ごとに語るつもりだったが、論旨が乱れそうなので割愛した。機会があればまた語りたいと思う。また、平井和正を起点に高橋留美子や新井素子などに受け継がれた視点も絡ませられたら良かったが、これはエヴァ以後にどう受け入れられているか判断が付かないのでまた別の機会にといった感じだ。
3・11後に空気系は難しくなるという評論家もいるが、むしろ3・11後だからこそ空気系が必要とされると私は感じている。現実に『けいおん!』に匹敵するような空気系作品が生み出されるかどうかは分からないが。
京都国際マンガミュージアム所属の研究員・伊藤遊は、2010年10月21日付けの朝日新聞大阪本社版の夕刊における本作品への批評において「四コマ漫画の基本である「起承転結」や「オチ」が重視されていない」「ストーリーがないため、登場人物が成長しない」といった形で前述のストーリー性・成長要素の欠如を指摘しつつも、本作品のヒットを「オチも成長もない日常をユートピア的に描いた本作は、ブログやツイッターといったメディアを介し、他人の何でもない日々とゆるやかにつながりたい、と願う現代人の志向にぴったりなのかもしれない」として説明した。他方でこの伊藤の評価はインターネット上の掲示板2ちゃんねるでは作品に対する批判として受け止められ、「ストーリーがないってのは1万歩譲ってわかるけど 成長が無いってのは無い」「これはひどい 成長も変化もある」といった反応が寄せられ、そうした反響の一部がニュースサイト「J-CASTニュース」で取り上げられた。
ここで問題となるのは「成長」という言葉の意味だ。
最も記号的な成長として思いつくのはRPGのレベルアップだろう。経験値を獲得し、一定の値以上になるとレベルと共にHPなどが上昇する。ステータスが増え(増減するものもある)、スキルや魔法を覚えたりする。
しかし、この成長をリアリティのあるものと感じる人は少ない。
では、成長とは何か。
最も分かりやすい成長は、肉体の変化である。子供から大人への変化を成長と呼ぶことに抵抗を感じることはほとんどないだろう。それは人間に限ったものではなく、動物や植物など普遍的なものと言える。
だが、先の『けいおん!』の記述で語られる成長はそうした肉体的な成長を意味してはいない。
現代で肉体的な意味以外での成長を比較的実感できるのがスポーツの世界だ。選手の成長は成績として表れやすい。
例えば、マリナーズのイチロー。入団当初は非常に線の細い選手だったが、徐々に筋肉が増え、アスリートと呼ばれる体つきになっていった。これは肉体的な成長である。
入団当初からバットコントロールなどに非凡な才能を見せてはいたが、身体ができていないこともあって1軍で実績を示すことはできなかった。肉体的成長と共に技術的な面でも確実に成長し、入団3年目にブレイクし最多安打の日本記録を更新するなどの活躍を見せた。
日本ではその後首位打者を続け、ついには海を渡り、メジャーで打者として成功を収めるという素晴らしい結果を残した。そんなイチローを評するときに語られるのが精神面での成長ということになる。
スポーツの世界ではよく「心・技・体」という言葉が使われる。つまり、精神、技術、肉体の3要素が重要ということだ。成長もその3要素それぞれで評価されることがある。
スポーツ選手に限らず、社会に必要な様々なスキルを身に付けることも成長と呼ぶに足る行為だと言えるだろう。単なる資格であったり、運転免許や語学といったものだけでなく、コミュニケーションの技術や自分をアピールする技術などもスキルの部類と言える。
しかし、この成長も『けいおん!』で語られた成長とは異なっている。楽器を演奏する技術について語られているわけではないのだ。
結局、語られている成長は精神面に限った話ということになる。では、精神的な成長とはなんだろう?
フィクションにおけるキャラクターの成長を非常に巧みに描いてみせた作品の例として『機動戦士ガンダム』が挙げられる。この作品は様々な切り口で楽しめる作品だが、根幹となっているのは主人公の成長譚である。作品中のほぼ全ての出来事はそのために用意されている。
主人公アムロは社会性に欠けるタイプの少年であり、彼が人との出逢いや仲間とのやり取り、恋愛感情、戦いと身近な人の死といった経験を経て社会性を身に付けた大人へとなっていく。成長のための契機が次々と訪れ、それを通して社会との関わりを学び、生きる意味を理解していく。まさに成長のお手本のような物語である。
『機動戦士ガンダム』は1979年から80年にかけて放送された。その15年後の1995年に作られたのが『新世紀エヴァンゲリオン』である。
同じように社会性に欠ける少年を主人公としながら、ガンダムとは全く異なる展開が繰り広げられた。成長のための契機は訪れるが、主人公はそこから社会との関わりを学んだり、生きる意味を理解したりできない。世界は複雑怪奇で少年の手に負えるものではなく、少年の周囲の大人たちも自分たちのことで精一杯で少年の成長を助けてはくれない。
それはただフィクションの中の出来事ではなく、現実社会が変質したことが生み出したものだった。
肉体であれ技術であれ成長というイメージには到達点へ至る過程というものがある。大人の体つきへ向かうのが成長であり、ただ太ったり痩せたりすることは成長とは呼ばない。技術でも上達のイメージがあるからこそ成長と呼べる。
では、精神的な成長は何に向かうのか。古い話だと双葉山が木鶏を目指したとされる。スポーツ選手であれば、平常心で戦えるというのが一つの目標足りえるかもしれない。
だが、一般社会における精神的成長はどうか。例えば武士道精神であったり、国家に尽くすことが立派な大人とされる時代もあった。少なくとも時代時代に「立派な大人」という共通認識はあった。社会的に成功することも大切だが、それだけではなく人として立派であることが(ある程度は建て前だとしても)理想とされていた。
しかし、日本ではバブル期を経てそうした共通認識が崩壊したと言えるだろう。
価値観が多様化し、理想の生き方も人それぞれとなった。国家や企業への忠誠が求められた時代は終わった。それは生き方の自由が許される時代とも言えるが、自由とは不自由なものとも言える。自分で選択するということは自分で責任を負うことである。また、過去の価値観が相対化されたということは、過去のやり方を真似ればいいというわけにもいかない。
そんな時代に単純に主人公の精神的な成長を描いても文字通り「フィクション」の中だけの出来事となってしまう。『新世紀エヴァンゲリオン』の価値は同時代的にそれを表舞台へさらけ出したことだ。「エヴァ以後」とは精神的な成長が困難になってしまったという前提を踏まえてそ、れでもフィクションとしてどう成立させるかという苦闘を示している。
空気系の元祖とも呼べる作品が1999年にスタートした4コマ漫画『あずまんが大王』である。主人公の少女たちの日常を描いたギャグ漫画だが、その後の空気系に受け継がれるいくつかの要素がある。
まず、明確な主人公が存在せず複数のキャラクターが主人公格である点。次いで、リアルタイムと同じペースで作中で時間が流れる点。恋愛要素が希薄である点、そして、成長要素がほとんどない点である。
それまでも成長要素のないフィクションは数多く存在した。ただそれらの多くは、時間経過のない世界で描かれるものが多かった。作中で時間が経過しないというテクニックは長期連載を可能にすると共にキャラクターの成長を描かない(描けない)という要素を生み出した。それは時に利点となり、時に欠点となった。「永遠のユートピア」的な観念は支持も得たが、逃避的なイメージで捉えられることも多かった。
現代においても、若い世代の中でも、誰もが精神的成長への懐疑を抱いているわけではない。懐疑の程度も異なる。フィクションにおけるキャラクターの精神的な成長の描き方に対して、旧来通りに納得する人もいれば、記号的に感じる人もいる。多くのフィクションにおいて、これまでの成長の表現方法は今も使われているし、そういう「お約束」として成り立っているのも事実だろう。
ゼロ年代の空気系作品に対してもそれまでの「永遠のユートピア」と同じように捉えて支持している人もいるだろう。それが悪いわけではない。
ただ両者は決定的に異なる。
「空気系」のほんわかした空気の先に「覚悟」を感じると言えば大げさだろうか。
「永遠のユートピア」は現実社会からの逃避先だった。だが、空気系は現実社会の限界から生み出されたとも言える。精神的成長の核だった国家や道徳といった「大きな物語」を信じられなくなったとき、何を糧として生きていくのか。「自分探し」なんてものが流行ったりしたのもその表れだったろう。スピリチュアルなものであったり、ナショナリズムのような大きな支えを求める人もいる。しかし、生きる意味が分からなくても日常は否応なく訪れる。そして、そんな日常も捨てたものではないという気付きさえあれば生きていけるのだと「空気系」は示している。
『けいおん!』第1話の主人公たちと『けいおん!!』最終話の主人公たち。高校入学時と卒業時という3年という月日が描かれているが、そこに「成長」はあったのか。私には精神的な成長は感じられなかった。でも、成長しないことがいけないことだというのは、成長が信じられた時代の価値観に過ぎない。
成長を社会への適応と捉えるならば、現代においても成長は必須である。生きていくのに必死な社会でそれを否定することはできないが、でも、それは本当に「成長」なのだろうか。
精神的成長の理想像を見出せない以上、全ては「変化」に過ぎない。日常の中に幸せを見出す生き方も価値観のひとつに過ぎないことは分かり切っている。価値観を押し付けられないがために押し付けるのは間違いの元であると理解している。それでも、本当にそれでいいのかという疑問も捨てられずにいる。
もう少し個別の作品ごとに語るつもりだったが、論旨が乱れそうなので割愛した。機会があればまた語りたいと思う。また、平井和正を起点に高橋留美子や新井素子などに受け継がれた視点も絡ませられたら良かったが、これはエヴァ以後にどう受け入れられているか判断が付かないのでまた別の機会にといった感じだ。
3・11後に空気系は難しくなるという評論家もいるが、むしろ3・11後だからこそ空気系が必要とされると私は感じている。現実に『けいおん!』に匹敵するような空気系作品が生み出されるかどうかは分からないが。
相対化の先だと、単純に、誰が何についてどれだけ判っているか、という(状況についての)適応だけの問題になっている、というのも感じます。
ガンダムは通して見てないので何とも言えないのですけど、軍隊モノだと、個人と集団への責任(所属する場についての『自分の役割』について自覚的であるか否か)は、その反駁として「組織への隷従」が描かれる事もありますし(組織自体を俯瞰した倫理がテーマの場合など)、過適応に対する未熟な視点がドラマを生み出す、というのは、いつくらいからかは判りませんが、確実にあった流れなんだろうなと。親の威厳の失墜云々という話にしても、それが機能していた時代とそうでない時代には扱い方の差がありますしね。
あれからエヴァを見たのですが、ゲンドウの「すまなかったな、シンジ」という台詞は、時代的にもコミュニケーション不全の親としてのそれを象徴していたのかな、と思いました(エンタメ特化の「新」では、コミュニケーション下手の親&組織のボスとしての部分が強調されてて、ぼかすまでもない描き方をしてるのが興味深かったです)。後半でガタガタと人間的に崩れていく赤城博士や、内面を抉られていくミサトさんなんかにしても、これは同様ですね。
身体つきが成長すれば大人と見られる(周囲の視線に晒される「自分のタグ」がランクの対象となる)というのはありますが、それと本質的な成長は無関係なら、「成長」の定義はなにか、という面に繋がっていくかな、と。
創作レベルにそれが影響しているかというとこれは微妙ですけど、例えばラノベなら最近の西尾維新の作品にはそうした意識を感じますし、テーマそのものでなくても、空気系を受容する態度には動物化云々とはまた違った需要があるように感じます。
これは、ある意味で「現状がなんであれ、「それでもいい」という肯定である」というのに繋がりそうですが。
アンチヒーロー物のそれとは違って、『何かになれなくてもそれの何がいけない』、という態度の先とも言えそうな気もします(『先』と言うより、それこそ状況への適応でしょうけど)。
伊藤計劃のハーモニーほど突き付けてくる物がある訳ではありませんが、感覚としては隣接しているようにも思います。
現代においてそうした「忠誠」観は薄れています。ただ様々なレベルにおいて「空気」とも呼ばれる自身の周囲の環境に対してある種の思考停止が行われている状況は指摘されることがありますが。
環境への適応が全てに優先されるのであれば、それもまた正しい行為となりますが、現実にはその判断停止は許されないでしょう(オリンパスの件だと加担した人物のみならず看過した役員にも責があるとされるように)。
エヴァの頃であればコミュニケーション不全として許された部分が現代では許されなくなっているように感じます。社会的に完璧さを要求されるけれども、当然完璧さなど維持できるはずもなく、周囲から寄ってたかって批判されるという構図ができあがっています。一般人はともかく、少しでも目立てばそうやって引きずりおろされるというのがパターン化しています。確かに政治家や官僚などにはそれが必要な面もありますが、あまりにも重箱の隅ばかりつついているのが今の日本の姿でしょう。
価値観は相対化され、何が良い事なのかは人によって判断が分かれますが、悪い事はある程度共通理解として存在しています。法律違反はもちろん、暴言など叩きやすいことがあれば嵐のように叩いて喜んでいます。そんな社会に適応することが「成長」と呼ぶことに強い抵抗を感じてしまいます。もちろん、そんな社会で不利にならずに生きるスキルを身に付けることは悪いとは思いませんが。
以前、善意の暴力という言葉を使いましたが、善意の名のもとに他を糾弾する社会は『ハーモニー』などでも描かれています。最近はリスクシェアを伴わない善意は善意の名に値しないと思っていますが、そうした考えが広まるとも思えません。
『Papa told me』では父と娘の二人暮らしという環境を「可哀想だ」という善意に対して、私たちは「可哀想じゃない」幸せなんだと日々の些細な出来事を描くことで訴えかけています。
日常のなんでもないこと。完璧さからほど遠い世界。大きな物語が信じられず、価値観を共有できなくても、日常は誰にでも訪れ、日々のちょっとした出来事の積み重ねの中に幸せを感じてもいい。精神的成長が必要だとか、困難に立ち向かえだと言う前に足元を見つめることが大切なのではないか。
80年代から90年代にリアルと非リアルが問題とされましたが、日常と地続きならリアルか非リアルかなんて問題じゃないとはっきり提示したのが『電脳コイル』でした。フィクションが多種多様であることはもちろんですが、エヴァ以後としては日常の感覚からスタートする以外にはないように思います(それが非日常を嫌うというゼロ年代主人公へと繋がるとまたおかしな感じがしますがw)。
平井和正の洗礼(人類はどうしようもない存在である)を受けて、高橋留美子や新井素子がそれを受け入れた上でそれでも人であることは仕方がないという形での肯定を80年代に提示しました。そうした屈折はエヴァでも感じられました。ヒューマニズムを礼賛するでもなく、でも滅ぶべきものでもないよねという感覚。それまでの正しさに対する相対化の先駆けのようなものでしたが、空気系へと繋がっているようにぼんやりと感じています。その辺りは機会があればちゃんと書いてみたいですが。
組織に預けてしまえる判断に関しては、映画(特にハリウッド)でよく考えることがありますけど。
ARネタなのに電脳コイルは数話摘み食いしただけでした(汗)。
リアル/非リアルの境界線の不在を常態化する、「現実」のラインを更新する話だと、新城カズマや飛浩隆の作品も同じですね。と言っても、後者はネタとしてコアすぎてSFファン向けになりますがw
ただ、社会環境(インフラ)が規定する「現実」があるのだから、それを無視して既存の空気を適用することはできないなと。体系だった倫理や漠然としたスピリチュアルに傾倒する人もいれば、ネットサーフィンした中で見付けたどこかのサイトかブログの何気ない一文に『救われる』(そして、それを繰り返す)人もいるし、それ自体は何も『悪い』ことではなくなっていますしね。
もちろんそれぞれに効率はありますが、その効率にしても『選ぶ』側に合った効率かどうかは決定できないものですし、そうした『空気』が作品にも影響しているのかな、と(これはネットを扱う作品には多かれ少なかれある要素だと思いますが)。
日常を望むゼロ年代主人公の転倒は、なんでしょうねw 創作レベルでの非日常への希求が多かった事への反論としてのみ扱うのは何か違うのかもしれませんが……。
作品それぞれの文脈になりますが、非日常との折り合いの付け方みたいなものがあるのかもしれません。「ネットの向こうにある現実の戦争」みたいに絡めるのも違いそうですし。
>平井先生
ゾンビーハンターを通して読んだのとウルフガイ、後は別の作品を少し摘んだだけでした。新井先生はともあれ、高橋先生は意識してなかったので、この流れは気になります。
自分の場合、同じようなテーマは京極先生で触れてきたので、この辺りの変遷が判るならなあ、と。
書くことがあるなら期待させて頂きますw
エンターテイメントとして大きな物語の存在は否定しませんが、日常から出発してこそという思いを持ってフィクションのあり方を見てきたように思います。
ゲームでは「ガンパレ」から「ペルソナ3・4」へという流れにそれを強く感じました。アニメでは空気系はもちろんですが、日常発の物語として「電脳コイル」を捉えています。
恋愛、スポーツ、ギャグ、萌え、ミステリなどジャンル化したものでなく、エンターテイメントとして日常から物語を描くというのはかなりレアな存在だと思います。北村薫『秋の花』のようにミステリの類型ではなく、恋愛や青春の枠にもなく、ただ日常を積み重ねて物語を築き上げた小説を求めていますが、あくまでもエンターテイメントとして成立していることが条件なので他に思い浮かぶ作品がなかったりします。
SAOでゲームをせずにリアル世界で恋愛や萌え的なものでないストーリーを描いてくれればなんて思いますが、まあ意味が分かりませんね(ぉぃ
>平井和正
以前、友成純一がこのあたり(高橋留美子・新井素子との関係)について書いていたのを読んで納得しましたが、最近読んだ山本弘『去年はいい年になるだろう』にもサラッとですが平井和正の名がこの文脈で出てました。
エヴァでは野火ノビタによる『デビルマン』(コミック版)との関係についての評論を印象深く記憶しています。70年代の人類性悪説が80年代90年代に換骨奪胎して、人と人以外がフラットな関係を築いたり、人類滅亡が非常に軽く描かれたりする感覚となって表れたと思います。
特にフラット化については、藤子・F・不二雄が子供の世界で描いたのとは異なるレベルで、高橋留美子が『うる星やつら』で実現したものだと思っています。まあこの辺りは記事のテーマからの逸脱が大きくなりすぎますが(笑)。
後は学園モノ(日常と平行するそれ)の構造的にもそんな感じでしょうか。非日常の浸食それ自体はブギーの頃からスタンダードになっているようには感じますが、
って、これはガンパレとの比較でそう思っているだけかもしれませんが(苦笑)。あちらはさわりを読むだけでも学徒出陣みたいなノリで、物語的ではあるみたいですし。
電脳コイルを見ればなんとなく氷解しそうなので、DVD借りてこなきゃですねw
SAOは……題材を扱う力をそっちに振り向けたらなんか見えてきそうですねw
>平松先生
友成先生が! というのがまずは驚きでしたw
この人の作品だと、評論の方は読んだ事がないからか、どうしてもホラーとかそっちに印象強かったので。山本先生のあちらは読んだ筈でしたが……ちゃんと読み返さないと(汗)。
デビルマンの方は一応読んでいるのですが、流れからすると人間のどうしようもなさから一連の非人類とのコミュニケーションの自然さへ、みたいな感じなのかな、と思いました。それ以前とはそこで違っていたのなら興味深いです。って、考えてみたらその間に挟まるように寄生獣とかあるし、なんか色々と「なるほど」というw
まとまらなくてすいません(苦笑)。レス、ありがとうございました。
電脳コイルでは非日常もまた日常に内包されているくらいの日常の勁さが印象深かったですね。(3・11後の非日常な日々がすぐさま日常に飲み込まれてしまうような感覚かもしれません。被災したり、避難していてもそれも日常になってしまうというか)
ガンパレの場合、戦争とシームレスな日常が描かれています。いつ敵が現れその戦いで死ぬかもしれないという状況下で、一方で恋愛や遊びに精を出す(もちろん訓練や整備といった作業にも懸命になりながら)ことは非現実的だという指摘もされましたが、現実に兵士といえどもずっと戦争のみに意識を置くことはできず、ましてや若い学生の身では現実からの逃避としてそういう行動を取る者もいるでしょう(十分な管理ができるのならまた別でしょうが、作品内ではそれだけの余裕がなかったと描かれています)。人は明日死ぬと分かっていても日常にすがってしまう、そんな日常の強さがここでも感じられました。
日常は時に「大きな物語」を補強する働きをしますが、一方で「大きな物語」と対峙する強さも持っていると思います。空気系の作品がそれを意識して日常性を表現しているとは思いませんが、あずまきよひこだけはかなり日常性の強さをテーマとしているように感じます。
友成純一は『びっくり王国大作戦』というエッセイ集でその評論を読みました。また読み返さないとけっこう記憶が曖昧になってたりしますね。
ちょうど新井素子『銀婚式物語』を読み終わりましたが、洗濯機に話し掛ける主人公を非人類へのコミュニケーションと呼ぶのはさすがに無理がありそうですかw
大きな物語そのものの変質は別として、(ジャンルにも寄りますが)ゲームがどの時点で物語を与えられるか、という事は結構気になっていたので、そういうのも気になります。
前回のコメに感じたのは、「~ということをしてきた」のが力になり、それを守る、という流れになるペルソナ3は、そう言われてみれば日常の積み重ねだな、と言う事でした。それを維持しようとする圧力もそうですが、『日常の強さ』そのものを主眼にする、というのは色々に捉えられそうですね。
>洗濯機と一緒に
別の文脈の方が強くなりそうですねw
そっちはそっちで現代的でもあると思いますけどw
まずは借りてきた電脳コイルを見て予習をしておこうかなと思いますw
日常の強さのもう一つの意味として、先の「ログ・ホライズン」もそうですが、非日常も日常化するという点があります。それが人の強さであり、フィクションでもよく使われるものではありますが。
一方で、その日常性を排除していくことが物語の「速度」を生み出すのかもしれません。このミスで高野和明のインタビューがあって、そこでストーリーの速度について語られています。「ジェノサイド」を読んでないので読んでみたいと思いましたw
「大きな物語」自体は日常と対立する存在ではないので、「大きな物語」を補強する日常や「大きな物語」と対立する日常といった様々な日常の有り様があると思います。
それとは別に、フィクションを制作する過程において、物語化への欲求が作り手に強く存在し、それが日常の描き方に制約を与えるという面もあります。現在放送中の「たまゆら~hitotose~」が空気系アニメから逸脱しただのいい話を描いてしまっている感じになっているのもそんな理由からでしょう。
結局、たいていの「いい話」は「大きな物語」的善悪観がベースになっているため、記号的な嘘っぽさが感じられてしまいます。
新井素子のあのシリーズはフィクションというよりノンフィクションに著者が地の文でツッコミを入れるという構成です。そして、洗濯機に語り掛ける主人公へのツッコミはありますが、(分類的には単なる独り言でも)洗濯機に語り掛けることの当り前さを読み手に与える力(昔からの読み手にとってそれが当り前だとなってしまっているというか)みたいなものがあって、つまり、新井素子ワールドにおいて、ネコも碁盤も洗濯機も人もある種のフラットな存在感になっているわけです。もう文学的技術とかそんなものではなくw
時間があれば私も電脳コイルをまた見直したいのですが、とても時間がなさそうで。とりあえずまどマギだけは年内に見たいと思っていますが・・・。
文字の羅列に過ぎないのだから、どんな物語もページに合わせて『進んでいる』ことに変わりはありませんが、その速度の目安を考えると、情報量の展開や構図の変化を指標にするしかないのは間違いありませんし。
舞城王太郎のように文体で引っ張ってしまう例もありますが、それはどちらかと言うと私小説的な読みの方になりそうですが。
一般生活から見て明らかな非日常でも、それをベースに話を構築されたなら日常なわけで、その圧力をどう捉えるか、という。
いい話に関しては、それが大きな物語と接していたからこそフォーマットが整えられてきた事から考えると、どうしてもそうなってしまうのでしょうね。
何かを語ろうとすることとどこで折り合いを付けるかが空気系のスタンスを成立させているように感じられますが、物語と距離を置ける、本当に何気ない場面をどう演出できるか、というのは大きいのでしょうね。
それこそMMORPG的な日常もありでしょうし、最近のSF/ファンタジーでミエヴィルの長編シリーズなんかで日常を描いても面白そうだと思いますが(実際にあれはRPG化が予定されてましたし)、比重としてはやはり「けいおん」な日常が求められてるんだろうなと。
>このミス
ジェノサイドは発売してから割と早く読んでいて、どうしても虐殺器官と比べてしまう内容でした。で、SFとして読んだから合わなかったのかなあ、と(苦笑)。
一連のコメの『人間のどうしようもなさ』『日常』から読み直してみると、別の発見があるかもしれないなと感じました。ネタバレになってしまうので言える事はほぼありませんが、描こうとするテーマが早い段階で提示され、それがどう形を結ぶかと言うのは、ジャンルによって違うのかもしれないなと。
奇天様が読まれてから感想が見られればなと思いますw
このミスは帰りがけに買ってきたのですが、この記事とこれ読んで作品への見方が少し変わったように感じました。作品の運動、と言っていいか判りませんが、ある種の予定調和(ネタバレではありません)に読めた展開も、エンタメを円滑に機能させる役割を果たしているんだと。
虐殺器官のそれは静的な、テーマと不可分に世界を掘り下げる面白さでもあったので、このミスでも選出されるような「エンタメの強さ」として考えたとき、こうした作品に求められるのが何かと思わされました。これは自分がジャンル小説ばかり読みすぎと言うのもある気がします(苦笑)。
当てになる感想かは判りませんが、一読する分には「ジェノサイド」、中々のお勧めかと。
というかこれ、「このミス」記事に書くべきだったような(苦笑)。
まどマギはシリーズとして通して見るだけならそれほど苦労しなかったので、年末にでも、と言ってみたりw
アニメ……というか映像作品を見る際の難点は、場所を限定されてしまうことと、自分のペースで鑑賞するのが本に比べると難しいことですね。BGVみたいに流しておいて楽しめる作品だと、喋っている内容が直接訴えてくる押井作品や攻殻のテレビシリーズなどになったりしますがw
とはいえ、情報を一度に提示されるという強さはやはり映像固有のものですし、見られる範囲で見ていきたいですね。
※投稿する記事を間違えたということなので修正しておきました。(レスはのちほど) by 奇天
恋愛要素なしにエピソードを構築し続けるのは容易ではなく、どうしても物語性が強くなってきてしまいます。人はありのままの事実を話すよりも、それを結論のある物語として語ってしまうものです。多くのクリエーターにとって物語化の呪縛は避けられないものなのかもしれません。
「ジェノサイド」に関しては読んでからですが、私にとっての「虐殺器官」の読み方は不幸なものだったかもしれませんね。メタルギア的世界観はゲームやコミックを通して繰り返しイメージしたものでしたし、テーマの元となっているネタもどこかで見た気がするものでした(いまだに思い返せないので本当に見たのかどうかは謎ですが)。機会があれば、また読み返してみたいですね。そうすれば印象も変わるかもしれません。
とりあえず録画しておいて後で見ようと思ってもなかなか時間が取れないというか、ほとんどの作品が録画して終わりになってしまっています。もちろん、アニメだけの話ではなく、積読している本やマンガなどあらゆるものに当てはまることですが。
ノルマを決めて無理にでもやっていかないとって感じですが、怠惰な人間にはノルマを決めても達成できないという・・・困ったものです。