奇想庵@goo

Sports, Games, News and Entertainments

感想:日常系アニメの可能性と『らき☆すた』の限界

2007年10月02日 21時21分19秒 | 2007春アニメ
日常の出来事のみを取り上げ、明確な物語は存在せず、キャラクターの個性を前面に押し出したスタイルは『あずまんが大王』で確立された。「AskJohnふぁんくらぶ」でジョンが指摘したようにこのスタイルはハーレム系アニメから主人公である男子を消去したものである。よってそこでは「恋愛」がすっぽりと抜け落ちている。

このスタイルの明確な後継が『苺ましまろ』だ。メインキャラクターを「恋愛」以前の少女とし、自覚的にハーレム系アニメの主人公の位置に女性を置いた。リアリティの乏しさを逆にシュールさへと変換して独特の面白さを生み出した。
今年放映されたアニメでは、『ひだまりスケッチ』『らき☆すた』がこのジャンルに相当する。前者は『あずまんが大王』のテイストを引き継ぎ、美術系高校生の少女4人の関係性で世界を構築した。後者も『あずまんが大王』を原点に、「おたく」の女子高校生という異物が軸となっている。彼女の存在は『苺ましまろ』ほど自覚的ではないがハーレム系アニメの主人公の代役的な役割も果たしている。

『らき☆すた』には「おたく」ネタと非「おたく」ネタが混在している。正直なところ、非「おたく」ネタに関しては『あずまんが大王』ほどの質の高さは感じなかった。やはり、この作品の魅力は「おたく」ネタにあるのは間違いない。この作品を面白いと感じるかどうかはそうした「おたく」ネタに反応できるかどうかにかかっている。そして、実際にこれに反応した人々に支えられてこの作品はヒットした。

アニメ『らき☆すた』を語る上で外せない要素は「パロディ」と「楽屋落ち」だ。これらは日本のアニメ・コミックでよく見られる要素である。本作ではそれを過剰に行うことで見る者の注意を引いた。特に京都アニメーション繋がりで繰り返された『涼宮ハルヒの憂鬱』絡みのパロディは、過去例が無いほどの量と質があった。主要キャラクターの声優の登場は言うに及ばず、番組を見ている場面やコスプレ、ライブシーンなど手を変え品を変え描かれている。他の作品のパロディと比べ『ハルヒ』が突出している点は『ハルヒ』に頼りすぎという見方もできる。ただ『ハルヒ』のパロディはそれ自体が「楽屋落ち」と言うことも出来るだろう。
「楽屋落ち」では番組の終わりにある「らっきー☆ちゃんねる」のコーナーが特徴的だ。アニラジのアニメ出張版とも言えるコーナーで、虚実が入り混じったノリが印象的だった。シリーズ中盤に本編のパワーが落ちた頃はこちらのコーナーの方に勢いがあった。しかし、終盤には失速してしまった。

「パロディ」を主とした「おたく」ネタは視聴者を選別する。選別するが故にそこにヒットした者は強く惹きつけられる。狙った視聴者に支持されたという点において大成功したアニメと言えるだろう。だが、視聴者は更に過剰なもの、より険しい選別を求めていた。その意味で最初のインパクトに比べ徐々にパワーの低下が感じられてしまった。

一方、「楽屋落ち」は特に好評だったエンディングが第2クールで変更されて以来ファンから強い反発を受けることとなる。カラオケボックス入り口の止め絵のみの表示で、中でメインキャラクターたちが会話し歌を歌うというスタイルは非常に強い印象を残した。歌そのものより、会話のネタや何を歌うかに興味が尽きなかった。これに対し、声優白石稔らが実写で歌うエンディングは痛さだけが目立つものだった。『セイント・オクトーバー』で実写のプロモーションをエンディングに起用したことがあり、強烈なインパクトを残したが、1回きりということに価値があった。『らき☆すた』実写エンディングは最初はまだ我慢できたが繰り返されるうちにつまらなさが目立つようになり、最終回の盛り上がりすらもぶち壊してしまう。視聴者の生の反応に対応できなかった点を残念に感じる。

繰り返すが視聴者を選別する狙いは当たった。だが、それによる初期のインパクトは持続できず、一方で「楽屋落ち」の暴走がファンの不興を買う始末となった。この手の作品としては珍しい2クールの作品だったが、第1クールのみで終わっていれば作品の評価は高いままだっただろう。日常系アニメの可能性を示した作品だったが、残念ながら終わってみれば物足りなさが残る印象だ。作り手と見る側とのギャップが徐々に広がりこの結果を生み出した。「パロディ」より「楽屋落ち」に走った作り手と、「パロディ」を支持し「楽屋落ち」にそっぽを向いた視聴者。見る側の見たいものだけを作る必要はないが、今回のケースは明らかな作り手の暴走と言わざるを得ない。エンディングが本編の評価まで下げた稀有な例と言えるだろう。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿