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等価交換と対価

2007年03月19日 23時48分28秒 | アニメ・コミック・ゲーム
人は何かの犠牲なしに何も得る事はできない。
何かを得るためには同等の代価が必要になる。
それが、錬金術における等価交換の原則だ。
その頃僕らは、それが世界の真実だと信じていた。


アニメ『鋼の錬金術師』のオープニングで語られる言葉だ。特にアニメ版ハガレンは、この言葉が作品世界を魅力的なものへと導いた。
一見、腑に落ちる言葉ではある。アニメでは、この原則を覆す「賢者の石」が登場し、終盤でホーエンハイムからも疑義が発せられている。錬金術の原則としてはともかく、世界の真理として存在するかのようなその思想をいかに乗り越えるかが作品のテーマとも言えた。

「対価」はアニメ『xxxHoLic』から。この作品はコミック版は未読なのでアニメ版のみを取り上げる。悩みを持つものだけが入れる店。その人の願いが叶う店。しかし、そのためには対価が必要になる。それがこの作品の前提だ。その対価はモノだけでなく様々な形で提示される。

消費社会と言われて久しいが、その思潮が低年齢にまで及び、それが現在の学校現場の荒廃や果てはニートなどへ繋がっているという指摘がある。等価交換の原則は非常に消費社会的な考え方だ。
モノを買うのに相応の代価が必要なのは当然だが、モノだけでなくあらゆるサービスが消費の対象となるのが現代の特徴だ。モノとコトの境界が消費の分野ではもはやシームレスとなっている。
例えば、子供の頃、こんな勉強が将来何の役に立つのかという思いは誰しも持っただろう。それは新しい疑問ではない。だが、教育というサービスを消費の対象とすると、メリットの感じられないサービスを受けようとは思わなくなる。こういう疑問があっても、勉強しなければならないという規範があり、昔は納得できなくても勉強していた。今は納得できなければ勉強しなくなったと言われる。
もちろん、勉強していい学校に進学しいい会社に就職して幸せになるという幻想が消えた影響も小さくはない。ただ受験の低年齢化も進行しているように、受験勉強自体へのニーズは決して消えてはいない。それでも家庭での学習時間の減少などを見ると、目に見える必要性の感じる勉強はしても、将来のためと言った漠然としたものはやらない姿が窺える。

お金や自分たちのメリットになることには目ざといが、それ以外には消極的。これはつまりモラルの崩壊だ。もちろん子供たちが悪いのではない。大人社会の反映に過ぎない。
一時期喧伝された自己責任という言葉も同様だ。確かに自分で決めたことの責任は自分で負わなければならないのは事実だ。しかし、その選択のための情報が十分に与えられていたかどうかや、他の選択肢を取りうる状況にあったかどうかの検証抜きには成り立たない。そうした背景抜きに使うことは、社会的正義の放棄であり、他人の不幸を喜ぶ浅ましい姿にしか見えない。

エネルギー保存の法則のように閉じられた系における物理法則として見るならば、等価交換の法則は問題ない(実際にはエネルギーの問題がそこに含まれていないためおかしいが)。しかし、現実社会に応用できる法則では決してない。
もちろん、濡れ手に粟を戒める言葉として使う分には構わないが、人の世界において等価交換は存在し得ない。努力が実るとは限らないし、どこから幸運が転がり込んでくるかも分からない。ただ、ひとつ確かなことは、未来を知り得ない人の身で成功を掴む可能性を高めるには、準備の量が必要だということに過ぎない。無駄になる確率の高いことでも、準備しておくことでわずかでも可能性が上がる。もちろん何を準備するかもその人の力量なのだが。

ニートにまで消費社会的思考を要因とするのはどうかとも思うが、確かに仕事の報酬が単純にその労働量の代価としてのみ存在するのならば、それは間違いとは言えない。売春などとも関連するが、自分の体の代価が単純に換金できると信じてしまっても、それが成り立つのはごく限られた状況だけだ。
消費社会において選ぶ側に立つ人々も常に選ばれる側に立たされる可能性を秘めている。選ぶ楽しさと選ばれる苦しさ。消費社会ではその二つは背中合わせで、片側だけを常に手に入れることはできない。

等価交換の法則は、現代の消費社会モデルの反映である。その思想は低年齢化し社会全体を覆うようになった。だが、その思想はその内部においては正しいが、外部においては間違っている。人は消費社会の中だけで生きているわけではない。脱・消費社会として農村や愛国など様々な方向へ流れる人々がいるが、そんな明確な逃げ場でなくとも、しょせんは消費社会も人の生み出した構造のひとつに過ぎず、人の世は様々な構造でできているのだから。

対価は願いを叶える代償というより、悩みを取り除くための代償として描かれている。この世に偶然などなく、すべては必然であるという考え方は、結果論において正しい。この場合の結果論は、単純に過去の事実という意味だ。つまり、選んでしまった選択は、その時点ではもう変えることのできないものであり、その積み重ねとしての過去は取り返しようがない。そこには蓋然性の入る隙間はない。
何かを手に入れると手に入れなかった自分という可能性を失う。その入手がどれほどの偶然の結果だとしても、手に入れてしまったという事実があれば、それを覆す方法はない。つまりは結果においてそれは必然。もちろん、過去を変えることはできなくとも、未来は変えられる。ただし、過去は未来を縛る。因果は巡る。
この作品を見ていて、「因果」を感じた。人の悩みはその大半は過去に原因がある。対価を払うことで、当面の悩みは解決できても、真の原因はそのままだ。また、対価を払うことは「業」を抱え込むようなものだ。

道端の蟻の群れの一匹一匹にも運命があると信じるなら別だが、人にだけ運命があるなんて信じるのは思い上がりだろう。一方で、因果を軽視することも思い上がりだと感じる。簡単に言えば、原因と結果。しかし、それがいつも目に見えるとは限らない。人は神ならざる身なので、知れることなどごくわずかだから。だからどうしても目に見える分かりやすいことばかりを信じてしまう。
先ほど挙げた自己責任も、どの程度が本人の責任でどの程度が仕方なかったのか、因果を調べなければ軽々に語れることではないだろう。また、逆にこうした因果を調べ世に伝えることで、他山の石となることは失敗学などを例に価値あることだったりする。
業は生きる上での制約だ。病気や過去の罪など分かりやすいものから、トラウマや拘泥するものまで人は何かしら、しかし、様々な業を背負う。人間関係も一種の業だ。
投げ出す者もいるが、それもまた業となる。結局、業を背負い人は生きていく。人は生まれも育ちも考えも背負うものも違う。殊更オンリーワンなどと言わなくても、人はそれぞれ違っている。

これら因果や業は、先祖の因果などと言い出すと完全に行き過ぎだが、重要なものの見方だと思っている。消費社会的なものの見方とは若干ずれるがゆえに、こうした考えをでまかせではなくきちんと語ることは見かけない。どこぞの霊能者や教祖、占い師などと一線を劃すのが面倒なせいだろう。非科学や似非科学に身を委ねること全てを否定するわけではないが、それこそ最後は自己責任だろう。
鈍感力という言葉が持て囃されるように、今は考えない方が幸せな時代だ。以前から言っているが、今の日本は勉強して頭が良くなればなるほど生きにくい社会だろう。その意味では消費社会的思潮に乗っていれば幸せを手に入れられるかもしれない。それで良ければそれで良い。


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