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琴浦春香と火田七瀬

2013年05月23日 22時27分07秒 | アニメ・コミック・ゲーム
遅ればせながら、『琴浦さん』を見た。

原作未読だったが、Twitterの私のタイムライン上ではそこそこ話題になっている感じだったので、興味はあった。放送中はなかなかタイミングが合わずようやく最近一気に12話を見終わった。

最近はストーリー性の高いTVアニメはなかなか見続けることができないでいたが、珍しく最後まで見ることが出来た。ストーリーの中心にあるのは、異能者の孤独とも言えるものだが、古いSFではお馴染みの題材であり、それが良かったのかもしれない。

火田七瀬は筒井康隆の七瀬三部作のヒロイン。三部作とはいえ、それぞれの作品ごとに色合いは非常に異なり、ストーリー的にもキャラクター的にも連作とは言い難い内容だ。中でも『七瀬、ふたたび』は、正統派のサイキックSFとしてエンターテイメント性が強い作品となっている。

平井和正のウルフガイシリーズなども含めて、当時は社会から疎外されたアウトローのヒーロー性を正面から描いたエンターテイメントが多かった。任侠ものなども似た構図と言えるだろう。
社会の変化や、フィクションにおいては『うる星やつら』を契機とした異能のフラット化によって、最近は主人公の普通さが好まれる傾向があるように感じる。その意味では、『琴浦さん』は異色の部類に入るかもしれない。

『琴浦さん』では、シリアスとユーモアのバランスが図られている。
ギャグなどの笑い主体の中に取って付けたように感動話を入れるのはあざとく感じてしまうのだが、シリアスをベースにしながら適度にギャグを織り交ぜるのは嫌いではない。
ただTVアニメ『こどものおもちゃ』やコミック版の『ハーメルンのバイオリン弾き』のようにハイテンションのギャグとシリアスを瞬時に切り替えるレベルには及んでいない。90年代後半に登場したこれらの作品は後継を生み出さずにいる。見る側にも作る側にも体力を要求する作風だけに今では受け入れられにくいのは間違いないだろうが。

TVアニメということで、どうしてもストーリー性が前面に出て来ていたが、原作は四コマ漫画ということでどの程度のストーリー性なのか興味がある。機会を見つけて読んでみたいものだ。


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7 コメント

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大藪春彦が流行った時期も同様の理由があるみたい... (名無し)
2013-05-24 18:18:48
それと同様に社会秩序を守る側のヒーローも肯定されてた時期、とは言えるのでしょうけれど。

こちらでも語られてたかもしれませんが(何かのコメントで)、今はいかに「普通であることを受け入れる」かというか、普通の良さを見付ける作品、みたいなのが多い気はします。
落差を生む「普通」への介入では聖お兄さんとかもそれに当たるのかなーと。

まあ、反動的に強くてニューゲームだったり異世界でヒーローだったりするベタなものも生まれてるようには思いますけど。
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「大きな物語」が崩壊した後、「日常」の再評価が... (奇天)
2013-05-25 22:06:28
また、社会的には他者との差別化が求められていますが、学校などの集団の中では同調圧力が強く、それを肯定してくれるようなフィクションに支持が集まっているようにも感じます。

コミックではキャラクター性が強調される構造の為に、普通さを売りにする主人公像はメインストリームではあまり描かれません。ライトノベルに顕著に現れているものだと思いますが、ゼロ年代中頃からの事であり、もちろんそうした主人公ばかりでもありません。
時代状況がライトノベルに限定するように現れたのは、丁度ライトノベルが広く認められる存在になってきたことと関係しているのでしょう。

「普通であること」は、他者や社会への無関心であったり、無責任であったりとして描いたりします。普通だから、そういう態度でも仕方がないとして。それを否定的に描く(成長によってそこから脱する)のではなく、最後までそれを肯定的に描く作品が支持されることに対して、私自身は非常に不満を感じています。ハーレム系の構造上仕方なくそういう主人公像にするなんて場合はまた別でしょうが・・・。
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同調圧力への肯定だと、あるあるネタとかのタイプ... (名無し)
2013-05-26 21:46:39
まあ日常系(と、そのアレンジ)なのでしょうけれどw

>普通だから、そういう態度でも仕方がないとして
これは凄いありますね。
西尾維新の流れで見ても、ゼロ年代初期のポスト新本格の流れだと異端者の方面からそれが書かれてたのに、今は別の潮流を見てる気がしてます。
短編でも文庫に纏めるなら連作形態なりで主人公の変化を出して行く(成長、というほど顕著でなくても)作品がドラマとしては普通かもしれませんが、テーマのレベルから「普通の肯定」となると、確かに意識としては違うなと思いますね。
ラノベは大抵ソフティスケイトされて、満たされてる人もそうでなくても(ドラマに関われるかどうか、或いは個々人それぞれのドラマの価値など)、それはそれぞれに価値があるんだよという方向での主張に流れてるようには思いますけど。
空気系は必然的に「日常」寄りなので、こうした態度に繋がるとは思えました。
日常の維持に力を尽くす、挫折を力に変える、などのバリエーションはあるので、普通、という環境をどう扱うかになるのかもしれませんね。

ハーレム系は……日常を引き摺ったままの非日常というか、日常へ都合の良い環境が侵食してくるような状態のように感じてますね。
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「大きな物語」の破綻から空気系への流れみたいな... (奇天)
2013-06-01 00:01:10
日常の再発見を評価しつつ、普通であることへの肯定を批判的に捉えるための綱渡り的な展開が必要みたいですしw
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ドラマとしては(日常系からの飛躍を取り上げるな... (名無し)
2013-06-04 20:29:46
まあ、多かれ少なかれ一般エンタメからラノベからこれは意識されてると思いますが。

大きな物語の喪失から小さなコミュニティの肯定、そこから偏在化した価値観の肯定、と来て、それがそのままイコールで空気系の流れになるか、というのは気になりますね。
感覚的には繋がってる感じもしますが、いわゆるジャンルとしての日常系は物語を否定する構造を持ってるかだけで意味を取れるのもあるのでw

時代の反映も大きいとは思いますけど、ニコ動とかブログ全盛期とか、日常の底上げみたいな意識も通底している以上、日常とは、みたいな意識をどう捉えるかのが重要なのかとも思えてきます。
部分部分では考えてても、流れで捉えるとどうなのかなって思いはありましたw
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「オタク」として生きるということが、実は大きな... (奇天)
2013-06-05 20:09:28
昨今のハーレム系主人公がモテる理由はこれといって明確なものがなく、本人の努力なしに、ただ主人公だからモテるといった構図がありますが、大きな物語が喪失したからといってすべてが運任せの物語でいいとは思いません。むしろ大きな物語のない中でどう世界と向き合うのかが問われています(かといって、セカイ系がその答えとも思いませんが)。

オタク的に言えば、単純に消費するものとしてのオタクではなく、そこから何か新しいものを生み出せるのかどうかみたいな部分が大切なのだと思います。今は市場を支えている面もありますが、業者に踊らされているようにも見えてしまいますし。

結局のところ社会的な地位や名誉ではなく、自身の矜持が問われるってことなのでしょう。大きな物語のない中で、外の価値観ではなく内なる価値観をどう磨き、それに従って行動するか。フィクションの世界でそうしたキャラクター像を描いていけるのかどうか。『空飛ぶ広報室』の夢に破れた後の再出発を描くという構想は、特にドラマ版でうまく提示できているように思いました。

あとは、メモ代わりw

空気系は、時間の経過を描くことで、その時間の価値を表現していると思います。ブログ上で空気系と日常系は別のものとして扱っていますが、空気系に比べて日常系の定義があいまいだったりします。このあたりも今後の課題だと考えています。

ゼロ年代はケータイと電子メールの時代で、緩やかな繋がりが特徴だったと思いますが、10年代の方向性はいまだ掴み切れない感じです。「絆」というテーマは嘘くさくてw
野心がないのは構いませんが、今の若者像は家畜化している印象もあって、その辺りは気になりますね。やはり大きな物語喪失後の「生き方」像が提示されていなくて、いまだ模索中ということなのかもしれないですね。
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音楽だとシーンの変化について文脈のようなものが... (名無し)
2013-06-08 01:48:45
>自身の矜持が問われるってことなのでしょう
これは最近の空気でもありますね。
決断主義が流行った時期よりも余程にそれぞれが自覚的になってるように思えます。
まあ、これは最近の政治周辺で特になんですけど。

オタク的な話は同感ですね。
万人にとって指標化可能な目標設定が相対化されてしまったあと、オタクはオタクでそれぞれのフィールドを開拓して、時にはその行為自体が権威付けされてたりするパターンもありますし。
初音ミクとかの話で言えば、今のようにセミプロ化された市場が存在しているのは、揺籃期のカオス的な魅力があまりなくて、『作り出すオタク』を押し退けていく淘汰の過程だったのようにも思えます。

ハーレム系はそれこそ『無数のハーレム』が市場に生まれた事で『羨ましい状況』というよりはそれ自体がテンプレ的なネタになり、そこに意味付けしていく過程もゼロ年代後半で終わり、となって、じゃあ今はどうなんだ、という場所で新しい展望が出てきてはいないかなーと。
絆はゼロ年代頭に小さな社会で結構見たような憶えはあるんですが、確かに今でも健在ですねw
繋がりの中に位置付けられる自分、その中で感じる息苦しさやアイデンティティなどは文学方面でも見ますけど、ここから新しい何かが提示されるかというと、自分と公共に対する眼差しになるのかなという気もしています(AKBなどを見ていると)。
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