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無駄に動くアニメ

2007年01月31日 22時13分03秒 | アニメ・コミック・ゲーム
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某ゆー○ゅーぶで、「涼宮ハルヒの憂鬱」アニメを3話ほど視聴。
最初の感想は、やはり、無駄によく動く!だね。もちろんこれは最大級の褒め言葉。

とかく日本のアニメ、特にTVアニメの場合、どれだけ切り詰めて表現できるかを問われてるような有様で、まあむしろそれが特長にまでなってしまった感がある。「エヴァ」なんて職人芸のオンパレードだったし。
一方、作画の密度の詰まった作品、例えばTV版(実質はOVA版だけど)の「攻殻機動隊」だとか、今だと「東京魔人學園剣風帖 龖」だとかは、背景が非常に緻密に書き込まれ、そこにレベルの高い作画がなされている。CGなどの技術がうまく生かされているんだろうけど、そうした作画の良さとは全く異なるものが「ハルヒ」にある。

例えば、一人のキャラクターがお茶を飲むとしよう。手を抜く場合だと、上半身のキャラの絵に、手を動かしてお茶を飲む動作を表現する。これがまともだと、飲むときに頭を動かすようにする。「ハルヒ」の場合、この動作に加えて体の動きも追加されている。
教室のシーンなどでも、通常見せたいキャラ以外の生徒は背景のようなものだ。それなのにそこが結構よく動く。アニメは実写と異なり、描いたものしか見せることができない。また、コミックのようにあえて背景を消すこともあまり使えない技法となる。たいていのアニメは、背景やモブ(群集)は記号化しているので、お約束の意味しか持ち得ないが、「エヴァ」などはかなり細かな部分にこだわって見せた。つまり、監督や演出がこだわろうと思えばいくらでもそこに意味をもたせることができる。
そういう意味では、作画の密度を上げるという手法は「攻殻機動隊」などでかなり完成された。これはもともと原作の士郎正宗の影響も大きいかもしれないが。一方、密度ではなく動きで新たな局面を作り出したのが「ハルヒ」と言える。

アニメの一つの流れに、実写に近づけるというものがあるが、それともまた異なるアプローチだ。「ハルヒ」のそれは決してリアリティの演出には見えない。そういう意味では、明確なテーマがあってなされた演出ではない。
もう一つ注目すべき演出である、エンディングのダンスと絡めると見えてくることがある。エンディングのダンスはかなり話題になったが、曲と動きが合っているのを見るだけで見ている方は快感を得られることがはっきり分かる事例だ。これは「エヴァ」でも行われた演出だが、見ている者を惹きつける力を持っている。
つまり、アニメ版「ハルヒ」で試みられた演出は、新たなテーマを付与するものではなく、あくまでもアニメの動きによる見る者への快楽を狙ったものだ。これはテーマ性という言語化できる面白さという面で袋小路に入っている状況で、非言語的快楽からアニメの面白さを再確認するアプローチと言えるだろう。

ちなみにアニメ界において、「エヴァ」が物語性をぶっ壊した後、「萌え」という概念の創出によって活況を呈することになったものの、それは逆に市場のパイを閉じたものにしてしまった。「ハルヒ」という作品が新たな市場を創出するほどの力を持ち得なかったのは事実だが、一つの方法論として明確化させた意義は大きい。
動くことの面白さは、例えばジブリ作品などにも見られたもので、普遍的な力を有しているのだから、TVアニメでそれができるのならば、もっと大きな動きになり得るものだろう。

他にも語りたいことがあったが、予想以上に「動く」ことだけで語り過ぎてしまったので、それはまた今度。ただ本当にDVDが欲しくなった。「動く」力はすごいよ。