脚と角

関西を中心に国内外のサッカーシーンを観測する蹴球的徒然草。

喜怒哀楽の真髄は蹴球にこそ有り。

ガンバ大阪の耽美なフットボールを旅する②

2007年08月14日 | 脚で語るJリーグ


 遠藤の加入がガンバにもたらした功績もさることながら、2002年シーズンより前述の西野監督が就任した。そのシーズン当初に西野監督は・・・

「ガンバはとてもスマートで理詰めのサッカーをするチーム」

こう形容している。
 この理詰めのチームというのは柏時代にガンバと対峙した印象に基づいての感想及び就任までの半年間で彼自身がウォッチしたガンバのサッカーを言い表しているのだが、おそらくこれはお手本通りの基本となる戦術に忠実なサッカーながら、軸となる選手がハッキリ明確であったことを裏付ける感想でもある。
 現にこの前年の01シーズンは優勝を目標に掲げるチーム土俵を構築しながらも、稲本の移籍でチームは2ndステージ大きく崩れた。つまり、チームのキーマンを欠くとあっという間に結果が付いてこなくなる持病を長年ガンバは抱えていた。

 代表的なのは、97年のエムボマが得点王をかっさらったシーズンとその翌年である。97年ガンバ史上空前の破竹の9連勝で2ndステージあわや優勝に手の届く戦いぶりを演じた。これはエムボマの活躍に大きく起因する点は周知の事実だが、翌年の98年にエムボマが欧州に活躍の場を移した後は前年の躍進が幻のような低迷ぶりを見せてくれた。
 チームを牽引したクゼ監督のクロアチア代表スタッフ入りが97年の末に早々に決まり、引き継いだコンシリアとその後5月に就任したアントネッティが巧くチームを掌握できなかったのも要因であったが、クゼの時代からガンバのサッカーはエムボマとその相棒であった司令塔のクルプニを封じられれば弱小チームのそれと何ら変わらない紙一重のチームであった。クゼがガンバを初めてフルシーズン指揮した96年シーズンはその2枚のピースが足りないだけでは語れないほどの成績であったことは言うまでもない。
 しかし、クゼはガンバのチーム史において何よりも重要な仕事をしてくれた。

 当時まだ高校3年生であった稲本潤一の起用である。

 私自身、97年のガンバ躍進の最大の原動力は稲本の活躍によるところが大きいと考えている。開幕戦で抜擢されたガンバ史上最高の至宝は3戦目となる清水戦で初ゴールを決め、終わってみればチーム5番目の出場時間を記録(27試合出場)。後に遠藤にそのタクトを譲り欧州へと羽ばたく少年は明らかに新世代のガンバを予感させてくれる象徴だった。
 しかしながら、当時のガンバを背負うことは若干18歳の少年には荷が重すぎた。翌年にエムボマがチームを去ると次第に下降線を辿る。若き日の宮本、入団1年目の新井場、前線でエース襲名を狙う小島ら、平均年齢22歳程度のチームは若すぎた。J18チーム中ダントツの若さを誇る平均年齢に裏打ちされる経験の無さが、若干18歳にして攻守の主軸を任された稲本にのしかかっていた。

 この98年シーズンにエムボマがシーズン通して残留していればまた大きく違ったかもしれない。もしくは強くチームを引っ張れるベテランの選手が存在すればスムーズに新時代のガンバにシフトできたかもしれない。ガンバ史上最強の鬼軍曹アントネッティを揶揄する以前にチームが若すぎたことは今思えば少し時間のロスでもあった。しばらく手探りの暗中模索とも言えるヤングガンバの低迷は続いた。
 冒頭の西野監督のガンバに対する印象はこの当時のものが強いかもしれない。稲本以外絶対的なキーマンのいない中で、まずは"守備的"にというアントネッティ流のサッカーは、規律に填まった教科書通りの魅力に乏しきものであった。

 この98-99シーズンの2年間は成績だけ見れば「暗黒」時代かもしれないが、今振り返れば非常に貴重なシーズンだったとも言える。エムボマに酔いしれ、開幕から続いた不遇の時期を脱したかと思えば、あっという間にガンバサポさえ名乗るのが恥ずかしい毎日が再びやって来た。しかし、明らかに磐田や鹿島といった強豪チームに置き去りにされながらも少しずつサナギから成虫へと脱皮していくチームの成長路線がそこには描かれていたのである。本当に今だからこそ言える。当時は見えなかった耽美なサッカーへの布石はこの頃に実は見えかけていた。

 前回も書いたように、本当に苦しいのはここからのシーズンであった。優勝を狙えるのではという戦いぶりと天王山で毎回のごとく露見する経験値の無さが交錯する葛藤は、辛酸を舐め続けた若手の素材によって西野監督による新しいクロスオーバー効果をもたらすこととなる。

                            <続く>