東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

氷川坂(簸川坂)

2015年04月16日 | 坂道

網干坂下 簸川神社前 簸川坂下 簸川坂下 湯立坂を下り、千川通りを横断し、そのまま北東へちょっと進むと、一枚目の写真のように、網干坂下である(現代地図)。右手は小石川植物園。

坂下を左折しちょっと歩くと、二枚目のように、簸川神社前で、そのまま進み階段を上ると本殿がある。

引き返し、左折し神社を右手に見て北西へ進み、次を右折すると、氷川坂(簸川坂)の坂下である(現代地図)。文京区千石二丁目9番と10番との間を上る。

坂下から撮ったのが三枚目、そのちょっと上から撮ったのが四枚目で、まっすぐに北へ上っている。かなりの勾配があり、このため、右手に手摺りが備え付けられている。坂上はちょうど神社の裏手にあたる。

簸川坂下 簸川坂下 簸川坂中腹 簸川坂中腹 坂をちょっと上り坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、下の通りを左折すればさきほどの神社方面である。

さらにちょっと上り坂上側を撮ったのが二枚目、さらにその上から坂上側を撮ったのが三枚目、さらに進んで坂下側を撮ったのが四枚目である。

この坂は、坂上に立っている標識に次のように説明されている。

『氷川坂(簸川坂)
 氷川神社に接した坂ということでこの名がつけられた。氷川神社の現在の呼称は簸川神社である。坂下一帯は明治末頃まで「氷川たんぼ」といわれ、千川(小石川)が流れていた。洪水が多く、昭和9年(1934)暗渠が完成し、「千川通り」となった。神社石段下には千川改修記念碑がある。』

上記の標識の説明によれば、この神社は、小石川、巣鴨の総社として江戸名所の一つで、もとは現在の小石川植物園の地にあったが、白山御殿造営のため、元禄十二年(1699)この地に移された。

簸川坂中腹 簸川坂中腹 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 東都小石川絵図(安政四年(1857)) さらに上って坂上側を撮ったのが一枚目の写真、さらにその上から坂上側を撮ったのが二枚目である。

三枚目は、御江戸大絵図(天保十四年(1843))の氷川神社周辺の部分図。四枚目は、尾張屋清七板江戸切絵図の東都小石川絵図(安政四年(1857))の部分図である。

三枚目の御江戸大絵図で、松平大学屋敷わきの湯立坂の坂下を進み、千川(小石川)にかかる橋(祇園橋)を渡りそのまま進むと、四差路があり、その先は網干坂であるが、その左に氷川とあるのが氷川神社、四差路を左折し、次を右折した道がこの坂である。

四枚目の江戸切絵図もほぼ同じで、氷川社とあり、四差路を左折した先を右折した道がこの坂である。千川の流域に緑色に描かれた田があるが、これが上記の標識にある氷川たんぼであろう。

この江戸切絵図には、氷川社の左に別当極楽水宗慶寺とあり、道を挟んで、小石川宗慶寺門前の町屋が描かれている。極楽水宗慶寺は、千川の下流、南側に描かれている。「御府内備考」の小石川乃四の宗慶寺門前の書上に次の記述がある。

一飛地町内間口拾貳(十二)間、裏行拾六間餘、
 右は小石川村の内氷川明神下に有之候、

上記の江戸切絵図の氷川社前の町屋が「御府内備考」に飛地として記されている。

東都駒込辺絵図(安政四年(1857)) 簸川坂上 簸川坂上 簸川坂上 一枚目は、東都駒込辺絵図(安政四年(1857))の部分図で、下右にアミホシサカ(網干坂)とあり、その左に氷川宮とあるのが氷川神社、その左の上に延びる道がこの坂上で、此ヘンヒカワダイト云、とある。

近江屋板を見ると、坂名はないが坂マーク△が記されている。

二枚目は、坂上近くから坂上方面を撮ったもので、この先を氷川台といった。以前はじめて網干坂を訪れたとき、坂を上り坂上で左折し次を右折して、この写真の向こう側からこの坂にやってきた。

この坂は、この写真やその下側の写真(上記の二枚)を見るとわかるように、崖地をこのあたりからまっすぐに掘削してつくりあげたような趣がある。

その坂上から坂下側を撮ったのが三枚目、坂上を上記の標識を入れて撮ったのが四枚目で、この右を進めば神社境内である。

江戸名所図会 小石川氷川明神絵図 江戸名所図会 小石川氷川明神絵図 江戸名所図会に、この氷川明神社の説明として、「祭る神、武州大宮の氷川明神に同じ。」「極楽水宗慶寺の持にして、祭祀は九月十日なり。」「当社は千有余年を経る所の宮社にして、八幡太郎義家公奥州下向の時、当社に参籠ありしと云ひ伝ふ。中古荒廃して形ばかり残りしを、伝通院の開山了誉上人、この地の幽邃を愛し庵を結んで聖冏庵(しょうけいあん)と号け、この地に閑居ありし頃、宮居を重修ありしとなり。」などと記されている。

左は、江戸名所図会の氷川明神社、聖冏庵の旧跡、祇園橋の挿絵である。一枚目の上に氷川明神の本社が描かれ、その下側に氷川たんぼがあり、その手前に千川が流れ、祇園橋がかかっている。湯立坂はこの橋の手前側である。

この坂は本社の裏手で木々に隠れているが、よく見ると、坂の一部がここを上る人物とともに描かれている。

二枚目には、氷川たんぼなどと、神社の階段や鳥居が描かれているが、その右の山道が網干坂であろう。

祇園橋については「御府内備考」に次の説明がある。

『祇園橋は小石川氷川社の前七八間の土橋也、【江戸鹿子】祇園橋は猫また橋のならびなり、いかなる故にかく名あることを詳にせず、或は云、氷川の神社はもと素盞烏[嗚]尊(すさのおのみこと)を祭るゆへに此橋を祇園橋といへりと、是は付会の説に近し、別に故あらん、【改選江戸志】』

上記の東都小石川絵図とこの挿絵をながめていると、当時の風景がなんとなく思い浮かんできて楽しい。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
鈴木理生「江戸はこうして造られた」(ちくま学芸文庫)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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