東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

網干坂

2012年04月30日 | 坂道

網干坂下 網干坂下 網干坂下 網干坂下側 前回の一行院坂から網干坂を下って帰ることにし、坂上から南西を目指して歩く。このあたりは白山台地の北寄りにあたるが、白山台地は独立した山ではなく、ここからさらに北の方で、妻恋坂・清水坂の方から延びる本来の本郷台地と一緒になる。いわば、白山台地は本郷台地から岬のように突き出ている。これは、中沢新一「アースダイバー」(講談社)の縄文海進期の地図を見るといっそう明らかである。

網干坂の坂上につく。今回、この台地の東側にある坂を巡ったが、この坂はそれらとは反対側の千川(小石川)の流れていた谷へ下っている(千川の谷の西側が小石川台地)。この坂は小石川植物園の西端に位置し、東端にあるのが御殿坂である。

この坂はかなり長く、坂上側でちょっとカーブしているが、それからほぼまっすぐに下っている。勾配は中程度であるが、それも長く続くとかなりの上りになる。この坂は二回目で、はじめに来たとき、坂下から上り、なにかもっと暗い感じがしたが、晩秋の遅い時間だったからかもしれない。

坂上から下ったが、写真は坂下から坂上へとならべた。

一~三枚目の写真は坂下から撮ったもので、中腹のあたりまでほぼまっすぐに上っている。坂下から見て右側(東)の塀の向こうが小石川植物園である。

網干坂下側 網干坂中腹 網干坂中腹 網干坂中腹 一枚目の写真の坂上側のさらに上の方で、二枚目の写真のように右に緩やかに曲がっている。坂下に坂標識が立っているが、次の説明がある。

「網干坂(あみほしざか)   白山三丁目と千石二丁目の境
 白山台地から千川の流れる谷に下る坂道である。小石川台地へ上る「湯立坂」に向かいあっている。
 むかし、坂下の谷は入江で舟の出入りがあり、漁師がいて網を干したのであろう。明治の末頃までは千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた水田地帯であった。
 その後、住宅や工場がふえ、大雨のたびに洪水となり、昭和9年に千川は暗渠になった。なお、千川は古くは「小石川」といわれたが、いつの頃からか千川と呼ばれるようになった。
    文京区教育委員会  平成7年3月」

むかし、坂下の谷は入江で舟の出入りがあったという説明は、いまからすると信じ難いが、たとえば、鈴木理生「江戸はこうして造られた」(ちくま学芸文庫)の江戸の原型という地図(21頁)を見ると、小石川が日比谷入江へと流れ込んでおり、その入江(いまの皇居平川門のあたり)から4~5kmほど上流がこの坂下あたりであるから、江戸湾へ漁に出た漁師が網を干したことは充分考えられる。

小石川の伝通院前から南へ下る安藤坂の別名も網干坂であるが、これは「あぼし」坂と読むようである。

別名が網曳(あみひき)坂、網(あみ)坂、氷川坂、簸川坂(横関、石川、岡崎)。簸川(ひかわ)坂というのは、坂西側に簸川神社(氷川神社)があるためという。戦前の昭和地図(昭和十六年(1941))では網曳坂となっている。

網干坂中腹 網干坂中腹 東都小石川絵図(安政四年(1857)) 東都駒込辺絵図(安政四年(1857)) 一、二枚目は中腹のカーブの上を撮ったもので、ほぼまっすぐに上っているが、この上側で左にわずかに曲がっている。

この坂は、尾張屋板江戸切絵図の東都小石川絵図(安政四年(1857))、東都駒込辺絵図(安政四年(1857))の両方にのっている。いずれの地図でも端に位置するためである。これからここが江戸から続く坂であることがわかる。

三枚目は、前者の東都小石川絵図の部分図であるが、上側に描かれている千川の流域には田圃ができている。ここに下る道が左側上にあり、「アミホシサカ」とある。右端中央には極楽水が見え、そのわきに松平播磨守の屋敷があるが、ここにいま、播磨坂がある。近江屋板(嘉永三年(1850))にも「△アミホシサカ」とある。いずれにも坂下西側に氷川社があり、その別当が極楽水宗慶寺である。

四枚目は、後者の東都駒込辺絵図の部分図であるが、御薬園(いまの小石川植物園)の左に「アミホシサカ」とある。御江戸大絵図(天保十四年(1843))にはこの道筋があるが、坂名はのっていない。

網干坂中腹 網干坂上側 網干坂上側 網干坂上 一~三枚の写真のように、坂上側はかなり緩やかになる。さらにその先は、四枚目のようにほぼ平坦である。

坂上の北側、坂西側のあたりを小石川林町といったが、これは、上四枚目の江戸切絵図にも見えるが、江戸時代にこの坂の西側に林大学頭の屋敷があったので、明治維新後、上地されて町になったときに、この町名がつけられたという(石川)。坂上の北に林町小学校があり、この旧町名が校名として残っている。

坂下を直進し、千川通りを横断し、そのまま西へ進むと湯立坂という名坂に至るが、このときちょうど工事中であったので、この坂はいつかまた別の機会に訪れたときに紹介したい。

湯立坂を上り、春日通りを横断し、茗荷谷駅へ。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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