東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

さいかち坂

2015年02月09日 | 坂道

さいかち坂下 さいかち坂下 さいかち坂周辺明治44年地図 さいかち坂周辺昭和16年地図 前回の鏑木坂を下り、坂下を東に進むと、中原街道にいたる。横断歩道を渡り、右折し、中原街道の歩道を南へ歩く。やがてカーブし、しだいに西へ向きが変わり、中原街道の緩やかな上りが見えてくる(現代地図)。ここがさいかち坂で、そのあたりから撮ったのが一枚目の写真である。四車線の広い道路で、交通量が多い。旗の台一丁目4番と旗の台二丁目1番との間を西へ上る。

交差点を坂上側に進み、そこで振り返って坂下側を撮ったのが二枚目である。このあたりでここを横断するようにして立会川が流れていた。ここも鏑木坂と同じように立会川流域から荏原台地の一角に上る坂である。

三枚目は、明治44年(1911)の地図のこのあたりの部分図、四枚目は、昭和16年(1941)発行の地図のこのあたりの部分図である。

明治地図は、昭和地図とかなり違っているが、中央やや右よりの縦方向(南北)の道が旧中原街道と思われ、真ん中よりもちょっと下側で左側(西)へ曲がり半円状にカーブしながら西側へ延びているが、左側のカーブのあたりがこの坂ではないだろうか。坂下のあたりで、立会川の分流が街道を横切っている。

昭和地図では、中央縦方向(南北)の太い道路が中原街道で、中央ちょっと下側でかくっと左(西)へ曲がっているが、この曲がってから西へ延びる道がこの坂である。曲がったところをちょうど立会川が南北に横切っている。

中原街道は、大正期に旧道が改修され、大正12年(1923)に完成している。明治地図と昭和地図が違っているのはこのためである。

さいかち坂下 さいかち坂中腹 さいかち坂中腹 さいかち坂中腹 坂下の交差点を北側へ横断し、左折した近くから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、坂をちょっと上りそのあたりから坂上側を撮ったのが二枚目で、進行方向に見える歩道橋のあたりが坂上である。

そのあたりから坂下側を撮ったのが三枚目である。四枚目は、この後、反対側の歩道を下ったときに坂上側を撮ったものである。

この坂名の由来が品川区HPで次のように説明されている。

『中原街道が立会川と交さする荏原新橋付近から、大井町線ガードまでを登る坂で、大正時代までは右手に清水山、左手に亀の子島(山)の崖と崖にはさまれ、樹木と雑草のしげる、昼なお暗い坂であったといわれる。名称の由来は、坂の右手に「さいかち原」があったとも、両側にさいかちの木があったとも伝えられている。近年までの坂の登り口(旗の台駅の入口側)にさいかちの木が残っていた。』

さいかち坂上 さいかち坂上 さいかち坂上 さいかち坂下 さらに上ってから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、歩道橋の先でほとんど平坦になっている。

歩道橋を渡り坂上側で撮ったのが二枚目である。

三枚目は歩道橋から坂上側を撮ったもので、遠くに大井町線のガードが見える。

四枚目は歩道橋から坂下側を撮ったもので、左側(北)の歩道から北へ延びる道が写っているが、その先は鏑木坂上の交差点へと続いている。

品川区HPでは、坂の延長が400m、最大勾配が6%(3.4度)。かなり長いが、上の説明にあるように、大井町線のガードのあたりを坂上としているためであろう。

後で気がついたのであるが(上のHPにも紹介されている)、この坂にはいつもの品川区教育委員会による尖った柱状の標識が歩道橋近く坂下側の歩道(北)に立っている。上の写真にもかすかに写っている。いずれまた訪れて撮影したい。

同名の坂(皀角坂)がお茶の水駅西側にある。神田川(南側)に沿って上下する坂で(以前の記事)、さいかち(皀角)の木がたくさんあったからといわれている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑰荏原郡大井町・平塚村全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑲荏原區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
「東京の道事典」(東京堂出版)

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