前回のサイカチ坂下の交差点を右折し、旗の台東口商店街の通りを南へ進み、池上線の踏切を渡り、次を右折し道なりに進むと、四差路の向こうに坂が見えてくる。カナリヤ坂である(現代地図)。旗の台五丁目8番と11番との間を南へ上る。
交差点の手前から坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、坂下から坂上側を撮ったのが二枚目である。坂下は緩やかであるが、中腹でちょっと勾配がある。
四枚目は、昭和16年(1941)発行の地図のこのあたりの部分図である。右(東)上(北)から左下へと斜めに延びる鉄道が目蒲線(目黒線)で、ほぼ左右に延びるのが大井町線である。両者が交わる地点に上下にまっすぐに延びる道が、そのちょっと下(南)で左右に延びる道と交差している。そこから南へ延びる道がこの坂と思われる。戦前にすでにできていた。
この地図をみると、戦前には、両線ともにいまの旗の台駅がなかったことがわかる。池上線には、その交わる地点から立会川を越えた北東方向に旗ヶ岡という駅があり、大井町線には西側に中原街道のすぐ右に東洗足という駅があるが、これらは現在ない。両駅を廃止し、両線の乗り換えが便利なように現在の旗の台駅をつくったのだろう。
坂下からちょっと進み坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、このちょっと先の滑り止めのあるあたりから勾配がつきはじめる。そのあたりから坂下側を撮ったのが二枚目である。これらの写真からもわかるが、坂下近くにこの坂名のついた歯科医院がある。
さらに上ってから坂上側を撮ったのが三枚目で、このあたりでもっとも勾配がある。さらに坂上側に進んでから撮ったのが四枚目である。
この坂名の由来が品川区HPで次のように説明されている。
『昭和三十年頃、荏原五中の校長先生と坂の途中にあった鳥獣店のご主人とが相談して「カナリヤ坂」という名前を付けました。荏原五中の生徒だけでなく、近くの旗台小学校の子供達にもこの名称が広まり、「カナリヤ坂」の名称が定着することとなりました。なおこの鳥獣店は、現在はなくなっています。』
その二人の相談で坂名が決められたとあるが、おもしろい坂名の決まり方である。その店にカナリヤが陳列されていたのであろうか。
上記HPに、旗の台駅の東側では、三間通りから南側にたくさんの坂道があるが、正式な名称が付いているのは「カナリヤ坂」だけ、というメモがある。 三間通りとは坂下の東西に延びる道であるが、この道のあたりが荏原台地に入り込んだ谷地なのであろう。その谷から南へ荏原台地に上る坂である。ところで、「正式な名称」とあるが、正式と非正式とをわける基準はなんだろうか。ふとそんな疑問がわく。
そのあたりから坂下側を撮ったのが一枚目の写真である。さらに上ってから坂上側を撮ったのが二枚目で、右(西)の公園わきに、この坂名が刻まれたプレート(「しながわ百景」)がある。
さらに上ってから坂上を撮ったのが三枚目で、坂上右側に荏原五中がある。そのあたりから坂下側を撮ったのが四枚目である。
品川区HPでは、坂の延長が93m、高低差が7.5m、最大勾配が約12.8%(7.3度)。高低差はさほどないが短いため比較的急で、前回の百反坂からはじめた品川区の坂の中でもっとも勾配がある。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑰荏原郡大井町・平塚村全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑲荏原區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
「東京の道事典」(東京堂出版)
なぜかと言うと、単純にここが洗足駅の東に位置していたから。
洗足駅は渋沢栄一が発想した「田園都市計画」の一番手に上がったところですが、田園調布駅ほどうまくいきませんでした。途中で計画が漏れて地価が高騰してしまったからです。それでもここが渋沢氏の田園都市計画の第一歩で今でも昔の地図には「洗足田園都市」という印字があります。
その東側だから東洗足駅
当時は池上線旗ヶ岡駅とは700m離れておりました。
当ブログの管理人です。
「東千束」駅の誤字のご指摘ありがとうございます。
貼り付けた地図にも東洗足とあります。ブログを訂正します。