東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

石古坂

2013年11月14日 | 坂道

石古坂下 石古坂下 石古坂下 石古坂下 前回の目黒不動尊の表門(南)から出て、南へちょっと歩き、次の交差点を右折し、しばらくすると道がうねってくるが、その向こうに林試の森公園の入口が見えてくる(現代地図)。

一枚目の写真は、そのあたりから公園入口方面を撮ったもので、このあたりが石古坂の坂下と思われるが、公園入口付近までかなり緩やかな勾配である。

二、三枚目は、公園入口(東門)に近づいてから撮ったもので、右側の入口手前に坂の標柱が立っている。

四枚目は、標柱から坂上側を撮ったもので、緩やかな勾配でまっすぐに南へ上っている。

標柱(目黒区教育委員会)に次の説明がある。

『石古坂(いしこざか)
 その昔石ころが多い坂だったので、石古坂とよぶようになったといわれる。他に、古地図に記された「石河坂」が転じた説などがある。』

石古坂中腹 石古坂中腹 石古坂中腹 石古坂中腹 一枚目の写真は、標柱のちょっと上側の中腹から坂下側を撮ったもので、かなり緩やかに下っている。

二枚目は、公園入口を過ぎてから坂上側を撮ったもので、このあたりからちょっと勾配がつきはじめる。

三枚目はさらに上側から坂上側を、四枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。二~四枚目のあたりがもっとも勾配があり坂らしくなっている。

この坂について目黒区HPに次の説明がある。

『下目黒3丁目と品川区小山台1丁目の境、都立林試の森公園正門前に「石古坂」というゆるやかな坂がある。

坂の名は、石ころの多い坂だから「石古坂」と、土地の人はいう。また、江戸の「府内場末其他沿革図書」の「中下目黒滝泉辺之図」には、この坂を「石河坂」とあり、そこから転じて「イシコ坂」となったらしいともいわれている。

坂下で米穀商を営む林正雄さんは「以前、この坂は、かなりの急斜面で、大八車なんかが通る時には、ひどく汗を流していました。私も幼いころは、確か、1銭か2銭のだ賃をもらうために、坂下で大八車を待っては、後押しをしたものですよ」

坂下の目黒不動商店街付近には、昭和18年ごろまで、何軒もの芸者屋があり、稽古三味線の音がよく聞けたそうである。また、不動の門前には、待合や料理屋が軒を連らねていたという。

不動門前に比翼塚という石碑がある。これは以前、坂下にあったもので、その碑にまつわる平井権八と小紫の恋物語は、いろいろと脚色され、歌舞伎や人形浄瑠璃で知られ、参拝する男女も多かったという。

俳優の長谷川一夫、大江美智子、萬屋錦之介の兄である中村時蔵など、比翼塚にまつわる芝居をする役者さんたちが、よく芝居の前に供養に訪れたという。』

この坂は目黒区と品川区との境にあるため品川区HPにも紹介され、坂名の由来について次の説明がある。

『名前の由来にはいくつかの説がありますが、一般的には石ころが多い坂だったので「石ころ」が転じて「石古坂」と呼ばれるようになったという説が有力です。他には、近くに「石河(いしこ)」という屋敷があったという説や、飲料に適した清流を「石川(河)」と呼び、付近を流れる羅漢寺川がそうした清流だったという説があります。』

分間江戸大絵図(文政十一年(1828)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 目黒白金図(安政四年(1857)) 官版東京大絵図(明治四年(1871)) 四つの古地図(1800年代以降)の部分図を年代順に並べた。左から順に、分間江戸大絵図(文政十一年(1828))、御江戸大絵図(天保十四年(1843))、尾張屋板江戸切絵図目黒白金図(安政四年(1857))、官版東京大絵図(明治四年(1871))。

一枚目の分間江戸大絵図は、目黒不動尊の表門近くの道に「イケ上」ヘという意味らしきことが記されているだけである。

二枚目の御江戸大絵図は、表門から出てすぐのT字路を左上へ延びてから丸くカーブしている道筋があるが、ここがこの坂かもしれない。

三枚目の尾張屋板目黒白金図は、表門から出てすぐのT字路までしか描いていない。

四枚目の官版東京大絵図は、表門から出て左の方にまっすぐに延びる道を描いているが、その先がちょっとしかない。

 二枚目の御江戸大絵図以外、この坂近くの目黒不動尊を西、南の端に描いているので、この坂は途切れている。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、林業試験場のわきに、この坂の道筋が続いているが、南側は平塚村で途中で途切れている。昭和16年(1941)の目黒区地図にも同様の道筋があるが、その先が品川区のため途切れている。

石古坂中腹 石古坂上 石古坂上 石古坂上 一枚目の写真は、公園から下りてくる階段近くから坂上側を撮ったものである。

二枚目はその上側から坂上を、三枚目はさらに上側から坂上を撮ったもので、坂上近くはかなり緩やかである。

四枚目は坂上近くから坂下側を撮ったものである。

この坂名の由来として、石ころの多い坂だから石古坂、江戸の「府内場末其他沿革図書」の「中下目黒滝泉辺之図」にある「石河坂」から転じてイシコ坂、「石河(いしこ)」という屋敷があった、飲料に適した清流を「石川(河)」と呼んだが、付近を羅漢寺川が流れていた、などが紹介されているが、石ころ説が単純で、そのためもっとも本当らしく思える。

以前、この坂はかなりの急斜面であったとあるが、いまの公園前から上のあたりであろうか。そうだとしたら、改修工事でかなり均したことになる。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、127m、4.9m、2.9で、かなり緩やかである。品川区HPには、延長350m、平均勾配約4.1%(≒2.3°)とあり、距離がかなり長い。この違いは、目黒区は公園入口前の標柱のあたりを坂下とし、品川区は目黒不動尊の表門から出た先の四差路のあたりを坂下としているからであろう。

林試の森公園 林試の森公園 林試の森公園 林試の森公園 坂上から公園入口までもどり、林試の森公園に入る。東西に細長く、東門から入ると、平坦な道が続くが、途中、右手(北側)を見ると、緩斜面になっている。

しばらく歩くと、橋に至るが、下を見ると、立派な谷になっていて、池があって小川が流れている。

一枚目の写真は、その橋の上から撮ったものである。谷に降りてから、小川に沿って歩いて撮ったのが二枚目の写真である。三枚目は、谷から戻る途中に撮ったものである。

四枚目の写真は公園内に建っている記念碑である。

目黒区HPに次の説明がある。

『林業試験場の始まりは、明治11年[1878]、東京府北豊島郡滝野川村西ケ原におかれた樹木試験所である。目黒、品川にまたがって山林局目黒試験苗圃[びょうほ]として発足したのは、明治33年[1900]のことである。荏原郡目黒村大字下目黒字谷戸と同郡平塚村大字戸越字鎗ヶ崎の4万5000坪余りの土地に、研究施設が建てられ、西ヶ原で育てられていた樹木が移植された。』

林業試験場の樹木が残って、公園となったようであるが、そうでなければ、宅地となったはずで、そうだとすると、橋の下の谷地と台地とを結ぶ坂ができ、かなりの急坂になったかもしれないなどと想像してしまう。

東門までもどり、きわめて緩やかな坂を下り、目黒不動商店街を東へ歩き、山手通りを横断し、やがて目黒川わきの散歩道にたどり着いた。ここを上流側に歩き、中目黒駅にもどった。

今回は午前中から歩きはじめ、油面の方へ寄り道などをしたのでかなりの距離になった(20.9km)。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)

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