東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

落合の市郎兵衛坂の位置

2010年05月22日 | 坂道

先月の妙正寺川の坂巡りの記事で、落合の市郎兵衛坂(いちろべえさか)について、石川悌二「江戸東京坂道辞典」、岡崎清記「今昔東京の坂」は、いずれも一の坂の位置とし、現在、標柱が立っている市郎兵衛坂の位置と違っていることを紹介したが、これについて調べてみた。

まず、「東京府豊多摩郡誌」(豊多摩郡誌)は、市郎兵衛坂の標柱にもあるとおり、市郎兵衛坂について次のように記載している。

「市郎兵衛坂 中井道、字不動谷と前谷戸との間にあり。」

中井道についての記載は次のとおりである。

「府費補助道にして、小石川道即ち下落合字大原の東端より分れて、西へ大上に至り、南へ、東へ、市郎兵衛坂を南に下り、東に折れ、西坂下に至り、新宿道に合す。」

豊多摩郡誌は、落合村大字下落合の各小字について右のように記載している。

字不動谷と字前谷戸が見える。地番は、字不動谷が1,073番~1,383番で、字前谷戸が1,724番~1,912番である。

地番は、小字にかかわらず通し番号であるので、地番から小字がわかる。

豊多摩郡誌の記述によれば、市郎兵衛坂は、字不動谷と字前谷戸との間の中井道にある。

豊多摩郡誌は大正五年(1916)七月一日発行であるので、この前後の地図を見ればよいと思い、図書館でむかしの地図を調べたら、次の本があった。

 「地図で見る新宿区の移り変わり-戸塚・落合編-」
 昭和60年3月 東京都新宿区教育委員会 発行

この本にあった地図のうち、明治44年、大正14年、昭和4年、昭和10年、昭和16年の落合付近の各地図が参考になる。これらの中で昭和4年のものが、町名変更前でかつ現在の山手通りと新目白道路(放射7号線)の予定線が載っているため現在と対比するのにもっとも適している。その一部分が下の地図である。

下の地図の上中央近くから左に傾斜した破線が山手通りの予定線で、上左側から右に傾斜した破線が新目白通り(放射7号線)の予定線である。両者が交差した部分が現在の中落合2丁目の交差点と思われる。交差点の右側に第一小学校が見える。

 

「落合」の下に「不動谷」の地名が見え、左下に「前谷戸」の地名が見える。

「不動谷」の「谷」の上近くに見える地番が1268や1286-1291で、その道路を挟んだ反対側には1750,1751,1756,1757などの地番が見える。

上記のように、豊多摩郡誌では、字不動谷の地番が1,073番~1,383番、字前谷戸の地番が1,724番~1,912番であるから、「谷」の左の道路が中井道と思われる。この位置から西へと延び、また、南側に延びている。

豊多摩郡誌には中井道は、「市郎兵衛坂を南に下り、東に折れ、西坂下に至り、新宿道に合す。」とあるので、「谷」の左上付近から南に延びる辺りが市郎兵衛坂であり、地図の右端中央に見える徳川別邸の側を南東に下る坂が西坂と考えられる。

「谷」の左からそのすぐ上にかけて道路は逆「く」字状になっているが、ここが、現在も残っている中井道で、市郎兵衛坂の一部であり、新目白通りにより分断される辺りが現在、標柱が立っている所と思われる。

以上のように、現在、標柱の立っている所が豊多摩郡誌で紹介している市郎兵衛坂付近と思われる。古い地図を調べたら、意外に簡単にわかった。

中井道を西に進み、上に湾曲した部分の少し西側に南に延びる破線が見えるが、この破線は字前谷戸と西隣の字小上との境である。この破線の通り(またはその西隣りの通り)が一の坂と推定されるが、ここを石川と岡崎は、豊多摩郡誌のいう「字不動谷と前谷戸との間」と誤解したのではないだろうか、そんな気がする。 

コメント
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