東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

木戸坂~下瀬坂

2010年05月11日 | 坂道

連休に豊島区の坂と北区の坂を坂ガイド本にしたがって歩いた。

午前JR駒込駅下車。

東口を出てアザレア通りを南側に進む。

しばらく歩いてから右折すると、木戸坂の上りである。

坂の由来は、明治になって、長州藩出身の木戸孝允(桂小五郎)の別邸が建てられたからという。

二回ほど曲がってから坂上で駒込東公園のわきにでる。

道なりに歩いて本郷通りに出て右折し進む。

JR駒込駅南口の駒込橋を渡った先から本郷通りが下り坂になっていて、ここが妙義坂である。

広い通りがまっすぐに緩やかに下っている。

駅前の交差点を渡ったところに、坂の大きな案内板が立っている。

裏に坂名の由来が書いてあるが、それによると、坂の西方駒込三丁目にある妙義神社に由来するとのことである。

 この案内板は、都立大学駅近くの柿の木坂の案内板と同じタイプであり、よくある説明板や標柱タイプのものではない。道路の管理者(都や区など)の違いによるのであろうか。

信号を渡ってもとに戻り、坂を下ると、右手に、駒込妙義坂子育地蔵尊がある。

説明板によると、寛文8年(1668)に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立し、以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれたとのこと。

地蔵尊の前の信号を渡り、そのまま進み階段を下り、少し歩くと、妙義神社の石段が見えてくる。

神社の横の公園から出て左折し道なりに進み、1本目を右折し、突き当たりの左右が染井坂である。

細い道がまっすぐに延びている。

坂上の左側にちょっとした公園があり、染井植木の里の碑が建っている。

それによると、豊島区駒込3,6,7丁目付近は、昔、染井村と呼ばれており、江戸時代から植木の一大生産地として知られていた。

別の説明板には、「染井よしの」は、この駒込の地でオオシマザクラとエドヒガンの品種を改良してつくられ、幕末から明治初期にかけて全国に広まったとの説明がある。

現在、サクラといえば、このソメイヨシノといわれるほどになっている。

この地のもとの所有者の丹羽家は、天明年間(1780年代)から明治後期まで、この染井を代表する植木屋であったとのことである。写真右の門が旧丹羽家腕木門である。

説明板によると、この門は、腕木と呼ばれる梁で屋根を支える腕木門という形式で、簡素な構造であるが格式のある門とのことである。

写真左奥にあるのが、旧丹羽家住宅蔵である。説明板によれば、昭和11年(1936)の建築で、鉄筋コンクリート造の蔵とのこと。

公園を出て突き当たりを右折して染井通りを進み、途中、右折すると、有松坂の下りである。

坂名の由来は、坂上の辺りに有松姓の人が住んでいたことによるらしい。

染井通りをさらに進むと、染井霊園に至る。

入口にある霊園案内図にしたがって、高村光太郎(高村家)、二葉亭四迷(長谷川辰之助)、饗庭篁村のお墓をたずねた。最初のお墓(高村家)が見つからず時間がかかった。

引き返し、入口手前を右に進み、専修院の前を通り、墓地の中の道を進むと、大きな通りにでる。ここが下瀬坂の坂下付近である。

この坂は、右に大きく曲がりながら上っている。

写真は坂上から撮影したもので、左側に見える標柱には次の説明がある。

「この坂名は、明治32年(1899)、ここに設けられた「海軍下瀬火薬製造所」に由来します。戦前に製造所は舞鶴(京都府)に移転し、跡地は東京外国語大学のキャンパスとなりました(現在は移転)。このあたりは、江戸時代に幕府の御薬園があり、谷田川の水源となる湧水もありました。」

谷田川は、かつての石神井川の跡を流れる川で、下流では藍染川と呼ばれた。

坂上からまっすぐに都電荒川線西ヶ原四丁目駅方面に進む。
(続く)

参考文献
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)

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