東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荷風と写真(7)

2020年04月19日 | 荷風

荷風は、前回の記事のような「奇事」の写真撮影ばかりでなく、もとのように風景も撮影している。

昭和12年(1937)
「二月十八日。春風嫋々たり。近巷の園梅雪の如し。午後写真機を提げ小石川白山に赴き、肴町蓮久寺に亡友唖唖子の墓を帚ひ、団子坂上に出で鷗外先生の旧邸を撮影す。阪を下り谷中墓地に至り、五重塔のほとりに上田敏先生の墓を拝し、また鷲津家の墓に詣で、瑞輪寺に行きて枕山大沼先生の墓に香花を供ふ。市営バスに乗り上野に出で、それより銀座に飰して家に帰る。」

この日(2月18日)、春風がそよそよと吹いた。近隣の園の梅が雪のようである。午後写真機を持ち小石川白山に行き、肴町の蓮久寺に亡友井上唖唖子の墓を掃い、団子坂上に出で鷗外先生の旧邸を撮影した。坂を下り谷中墓地に至り、五重塔のほとりに上田敏先生の墓を拝し、鷲津家の墓に詣で、瑞輪寺に行き大沼枕山先生の墓に香花を供えた。市営バスに乗り上野に出で、それより銀座で夕食をとり家に帰った。

この日は、団子坂上の鷗外旧邸などを撮影したが、その散歩コースが興味深い。

白山上の蓮久寺(井上唖唖子の墓)→団子坂上(鷗外旧邸)→谷中墓地(五重塔近くの上田敏の墓→鷲津家の墓)→瑞輪寺(大沼枕山の墓

白山上から大観音通り団子坂三崎坂経由で谷中墓地までほぼ一本道である。荷風の散歩コースのうち、親友や尊敬する人々の旧邸や墓を集中して訪ねることができる点で特筆すべきコースである。鷗外だけは墓がこの辺にないので、旧邸訪問であった。

(鷗外の墓は向島の弘福寺から三鷹の禅林寺に移転していたが、禅林寺には昭和18年10月に行っている(以前の記事))。

「二月十九日。隂晴定りなし。朝十時頃起出で、自ら朝飯の仕度する中早くも午となる。二時過ぎ家を出づ。谷町より溜池あたりの道路には小学校の生徒整列して麻布聯隊満州よりの帰陣を歓迎せむとす。幸にして電車は運転せり。銀座より浅草公園を散歩し、燈刻家にかへる。笄阜子の書に接す。写真焼附の後金水の小説廊の花笠をよむ。暁三時初て眠るを得たり。」

次の日、朝10時頃起きて自分で朝飯の仕度をしていると早くも昼となった。2時過ぎに家を出た。谷町から溜池あたりの道路には小学生が整列して麻布連隊の満州からの帰陣を歓迎しようとしていた。幸いにして電車は運転していた。銀座から浅草公園を散歩し、夕方に家に帰った。笄阜子の書をながめた。写真の焼き付け後に金水の小説「廊の花笠」を読んだ。明け方3時なってようやく眠りについた。

10時頃に起き、自炊で朝飯をとり、2時過に外出し銀座、浅草を巡って帰宅した。荷風の気ままな生活ぶりがわかる。谷町から溜池かけて小学生が整列し満州から帰ってきた麻布連隊の歓迎準備をしていたが、電車が動いていたことに安堵した。荷風はこの頃、ちょっと不眠症気味であったようである。

「二月廿一日日曜日 快晴の空雲翳なし。午後笄町長谷寺の墓地を歩む。門内は本堂建て直しの最中なり。古き渋塗の門に普陀山の額あり。大正三四年のころ写真うつしに来りし時見しところに異ならず。旧観喜ぶべし。墓地には徃年の如く松杉鬱然、昼猶暗く、鴉のなく声深山に在るが如き思あらしむ。・・・」 長谷寺門前

この日(2月21日)、快晴で、笄町の長谷寺の墓地を歩いたが、古い渋塗の門に掲げてあった普陀山の額を見て、大正三四年のころ写真撮影に来たときと同じであることに喜んでいる。

左の写真は、10年ほど前に撮った長谷寺(港区西麻布二丁目)の門前である。

「三月十九日。晴れたる空には雲の影もなけれど風猶冷にして彼岸に入りし心地もせず。朝の中庭を掃き、昼過より写真機を提げて葛西町を歩み、濹東を過ぎて銀座にに夕餉を食す。燈下東関紀行続々紀行文集をよむ。」

「三月廿一日日曜日 快晴。春風嫋々たり。正午起床。写真機を提げて墨陀の木母寺に至り鵬斎が観花碑をうつす。堀切橋をわたり放水路に沿ひ歩みて四木に至り、玉の井を過ぎて浅草より銀座に出で、夕餉を食す。不二店地下室を窺見しがいつもの諸子も在らざれば物買ひて家にかえる。」

鵬斎観花碑 3月19日は、晴れた空に雲の影もないが風が冷たかった。昼過ぎから写真機を持ち葛西町を歩み、濹東を過ぎて銀座に行き、夕食をとった。

続いて、21日は、快晴で春風がそよそよと吹いた。正午に起床し、写真機を持ち、濹東の木母寺に至り亀田鵬斎の観花碑を写した。堀切橋をわたり放水路に沿って歩いて四木に至り、玉の井を過ぎて浅草から銀座に行き、夕食をとった。

左の写真は、8年ほど前に木母寺で荷風が鵬斎の観花碑という題墨田堤桜花の詩碑を撮ったものである。

「四月廿四日。快晴。写真焼付に半日を費す。丸善より冬の蠅代金十四円を送り来る。日高笄阜君書を寄す。燈刻自炊の夕餉を食して後銀座富士地下室に徃く。千香女史安東酒泉の諸子に会ふ。杏花子廿六日招飲の電話あり。」

「四月廿五日日曜日。細雨烟の如く新緑更にこまやかなり。午前写真製作。午後二階の几案を下座敷に移す。大正九年この家に来りし当初には二階を書斎となせしが、・・・」

4月24日、25日には、写真焼付に半日を費す、午前写真製作と記している。

荷風は、2月3日、28日にW生・美代子の夫婦と奇事の写真撮影をし(前回の記事)、所謂ポルノ写真の撮影をしていたわけであるが、その一方、いつものように散歩に出かけ、団子坂や葛西町や濹東の木母寺に行き、鷗外旧邸や観花碑の写真を撮っている。どちらも好みで、日常の一部として自然なことのようにしていると感じられる。

参考文献 「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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