東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

光林寺~新坂

2011年06月24日 | 坂道

青木坂を下り、坂下の四差路を直進し、明治通りの歩道を左折する。天現寺によろうとしたが、いくら歩いても見えない。さっきの歩道を右折しなければならなかったことに気がつくが遅い。またの機会に。

新坂付近 街角案内地図 光林寺山門 光林寺境内 ヒュースケンの墓 歩道を東へ歩くとやがて左手に光林寺が見えてくる(左の写真の地図参照)。臨済宗妙心寺派、延宝六年(1678)創建という。

幕末に米国公使ハリスの通訳兼書記官で攘夷派の浪士に斬殺されたオランダ人ヒュースケンの墓がある。境内の右手奥であるが、歩道わきに簡単な案内地図がある。そのとなりの「史跡 ヒュースケンの墓」の説明パネルによると、ハリスの片腕となって日米修好通商条約の調印に奔走し、また、日本と諸外国との条約締結にも尽力した。

万延元年(1860)12月、ヒュースケンは日本とプロシア(プロイセン)との修好条約の協議斡旋のために、会場であった赤羽接遇所と宿舎の間を騎馬で往復していたが、5日午後9時ごろ、宿舎への帰路、中ノ橋(古川赤羽橋の一つ上流側)付近で浪士に襲われて死亡した。カトリック教徒のため土葬が必要であったが、当時御府内では土葬が禁じられていたため、江戸府外であった光林寺に葬られたとのこと。

ヒュースケンは、南部坂の記事にあった日本とプロイセンの修好通商条約の締結に関わった人物らしい。また、以前の記事の岩瀬忠震なども交渉のときの相手方であったろうから互いによく知っていたと思われる。

荷風散人は、このあたりにも散歩で訪れている。

「断腸亭日乗」昭和12年(1937)2月21日に次のようにある。

「二月廿一日日曜日 快晴の空雲翳なし。午後笄町長谷寺の墓地を歩む。門内は本堂建直しの最中なり。古き渋塗の門に普陀山の額あり。大正三四年のころ写真うつしに来りし時見しところに異ならず。旧観喜ぶべし。墓地には往年の如く松杉欝然、昼猶暗く、鴉のなく声深山に在るが如き思あらしむ。偶然花井お梅の墓あるを見たれば落葉焚く寺男にたのみて香花を供ふ。花井家の墓石は三基ありて卒塔婆多く立ちたり。展墓の人絶えざるものと見えたり。広尾の天現寺前に出るに道路取ひろげとなり、曾て見たりし水車も筧も皆なくなりぬ。光林寺の門に入り堂後の丘阜に米国人ヒュースケンの墓を帚ふ。一昨年アルコツク公使の著書をよみてより又近年刺客の横行するを見て、余はヒ氏の不幸を思合せ、先頃より其霊を吊ひたしと思ひゐたるなり。此日春の夕日おだやかに古墳を照し、梅花の満開するを見る。惆悵去るに忍びざるの思あり。電車にて銀座に至り不二あいす店に夕餉を食す。たまたま沢田氏の来るに会ふ。風邪の気味なれば食後直に家にかへる。」

長谷寺(ちょうこくじ)は、永平寺東京別院で、旧笄町、現西麻布二丁目にある。ここまで出かけた帰りに天現寺前に出たが、道路(現在の明治通りと思われる)が広がっており、水車も筧(とい)もなくなっていた。光林寺の門に入り、ヒュースケンの墓を掃苔した。「近年刺客の横行するを見て」とは、前年の2・26事件やその前の相沢事件などを指しているのだろうか、ずいぶんと同情的である。

新坂下 標柱 新坂下 標柱 新坂下 新坂途中から坂下側 新坂途中から坂上側 光林寺を出て、歩道を左折し、2本目を左折する。ここが新坂の坂下である。右角に標柱が立っている。

明治通りの歩道に面する坂下からフィンランド大使館のある坂上まで北へと延々と延びる長い坂で、道幅は細い方である。古川沿いの谷筋と麻布台地とをつなぐ道で、勾配など変化に富んでおり、よい散歩のできる坂道と思う。ただし、明治通りから車がときたま上ってくる。

歩道からすぐの坂下はほとんど傾斜がなく緩やかであるが、ちょっと進んで右に少々折れ曲がったあたりから傾斜が始まる。まっすぐに上って、上の方で、左にやや折れ曲がる。

坂下側を見ると、明治通りの上に首都高速が通っており、その向こうが白金である。何年か前にこのあたりに来たとき、こちら側の坂巡りを終えてから白金の三光坂方面に行ったことを思いだした。

決して若くはみえない婦人が自転車に乗ってすいすいとこの坂を上っていく。若者でも苦労するはずなのに、すごい、何者か、と思い、よく見ると、アシスト付きであった。妙に納得し、感心する。坂のある町では便利なものかもしれない。

新坂途中から坂下側 新坂途中から坂上側 新坂途中から坂下側 新坂途中から坂上側 上の写真のように坂の標柱には次の説明がある。

「しんざか 新しく開かれた坂の意味であるが、開かれたのは、明治二○年代と推定される。」

尾張屋板江戸切絵図を見ると、光林寺の東側に麻布台地へと上る坂道があり、坂上を直進すると南部屋敷に至り、途中、左折すると青木坂へと続く道に出る。ところが、近江屋板を見ると、光林寺わきから上る道筋は、何回か直角に折れ曲がってから北へと南部屋敷まで延びている。

江戸末期の道筋が近江屋板のとおりとすると、標柱のように、後の明治になってから開かれた坂といっても矛盾しないが、坂上側は現在と一致しているような気がする。一方、尾張屋板のとおりであると、江戸末期にはすでにこの坂があったということになりそうである。

明治大正地図を見ると、現在の道筋があるが、坂の中頃に二つの小さなクランク状の折れ曲がりがある。現在、そのような折れ曲がりはない。戦前の昭和地図を見ると、この道筋に新坂とのっている。

ところが、山野は、元禄十二年(1699)に開かれた坂とする。岡崎は、上記の標柱を引用し、明治20年代に開かれた坂としている。山野説がどこから来ているのかと、「東京23区の坂道」を見ると、以前の標柱の説明は、「できた当時は、新しい坂の意味だったが、開かれたのは古く元禄十二年(一六九九)である。しんさかとも発音する。」(設置平成7年1月)であった。岡崎が見たのは、もっと古い(昭和40年代頃か)はずだから、標柱の説明は、かなり前から現在まで元禄説と明治説の二つに分かれ入り乱れているようである。どちらに軍配を上げるべきか、いまのところ資料が少なくてわからない。とりあえず、尾張屋板と近江屋板を詳細に比較することで少しわかるかもしれない。なお、横関は、この新坂を詳しくは紹介せず、石川はリストにも入れていない。

新坂上側 新坂上側 新坂上 新坂上 途中から緩やかになって、それから坂上までかなりの距離がある。このため、緩やかになったところが坂上と思ったが、そうではなく交差点近くが坂上で、そこにも標柱が立っている。

坂上の交差点から直進すると南部坂上を直進した信号のある交差点へ、左折すると新富士見坂上近くのT字路へ至る。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「東京の道事典」(東京堂出版)

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