6月19日(土)は桜桃忌で三鷹市の禅林寺まで出かけた。太宰治の墓を掃苔するのは久しぶり。帰りは、禅林寺から玉川上水の新橋に行き、上水沿いに牟礼橋まで歩き、そこから井の頭線久我山駅方面に向かった。
午後三鷹駅下車
駅から出ると、傘がいるようないらないようなほんの小雨であった。前夜の天気予報では雨となっていて、かなり降るのかなと案じていたので、ちょっと救われた気分。雨はずっとこんな調子で、梅雨の季節を感じさせる一日であった。梅雨は桜桃忌によく似合っている。
玉川上水わきの歩道(一枚目の写真)をちょっと歩いてから、本町通り(二枚目)に入り、ひたすら南下する。
下連雀通りから禅林寺に入り、墓近くを見ると、けっこうたくさんの人が来ている。五年前のとき(桜桃忌(2016))よりも多かった。
この頃、しきりに太宰の影響ということを考える。最近読んだ福島泰樹の岸上大作論に、その自死は太宰の影響がなかったとはいえないようなことが書いてあった。その死の前年11月4日に「斜陽」「ヴィヨンの妻」「桜桃」を読んでいる。
『太宰忌はその命日にしてわれの喪は父の墓標を雨に濡らしむ』
岸上大作歌集「意志表示」にある「太宰忌」全五首のうちの四首目。福島は、一年後の岸上の死を思うとこの一首を読み過ごすことができないと断じ、「さて私の死はと問い、その問いの応えを、「父の墓標」に移行させているのである。自らの死の予感を巧みなレトリックのうちに韜晦[とうかい]させている。」と論じている。
純粋で内向する青年に死の予感を感受させて止まない何かが太宰にはあるのだろうか。
門前の右側にある鷗外の遺言碑(以前の記事)を入れて撮ったのが一枚目の写真。ちょうどきれいに咲いた紫陽花に囲まれて隠れるように建っている。
禅林寺を出て左折し下連雀通りを東へ向かい、適当なところで左折し北へ歩き、次の四差路を右折し、仲町通り(二枚目の写真)に入る。ここを東へ歩き、途中で明星通りとなって、やがて玉川上水にかかる新橋に至る(現代地図)。禅林寺前から新橋まで歩いて20~25分程度。このちょっと下流で昭和23年(1948)6月19日太宰の遺体が発見された。
ここから玉川上水に沿って下流に向かう。このところの雨でできた水溜まりを避けながら小径を歩くが、通行人はほとんどいなく、上水側には樹木の緑が溢れ、梅雨空ながらゆったりした気分になれる。墓前へのおまいりに続く玉川上水沿い散歩は太宰忌にふさわしい。
太宰の影響といっても、太宰と同時代を生きその作品をほぼリアルタイムで読んだ世代からその没後七十年程の間に読んだ世代まで各年代に渡って読者がいたはずで、各世代によって違うのだろうし、当然ながら個々人によっても違う。
1940年代までの同時代に読んだ世代を第0世代、50年代を第1世代、60年代を第2世代、70年代を第3世代、80年代を第4世代、・・・と呼ぶとすると、岸上は第1世代、森田童子は第2世代(たぶん)、私などは奥手で第3世代である。桜桃忌(2016)で触れた四十数年前の太宰研究会に出席していた人たちは、いま思い返すと、ほとんど第0世代だったのであろう。青年期に同時代の太宰に出会い、耽読し、大きな影響を受け、その死(の報道)に接し、大なる喪失感を経験した世代。
そんな中で同時代を生きた第0世代の吉本隆明にとって、太宰作品の中で「右大臣実朝」の「平家ハ、アカルイ。」「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」という実朝のせりふがもっとも好きな言葉である。このような太宰の逆説的な言い方が大好きといっている。明るいからよくて、暗いからだめだという善悪二元論で考えると物事の本質を見誤る恐れがある。無意識のうちに答えが決まっている(善悪二元論による)価値判断は、無意識のうちに人の心を強制する。明るいからよく暗いからだめという単純な価値判断であると、そう思えない自分、そうでない自分を追いつめる結果になってしまう、としている。人間の心理面までよく考えている。単純な善悪二元論による価値判断がはびこる現在にこそ必要な考え方かもしれない。
玉川上水にかかる橋のたもとを何回か通過するが(玉川上水橋案内図)、そのうち、大きめの道路が通る井の頭橋と宮下橋の写真が二、五枚目である。雨は、時々、ポツポツと降り、また、止んで、傘を開いたり閉じたり。
やがて、牟礼橋に至り(現代地図)、玉川上水沿いの小径は人見街道などで大きく分断されるが、ここを左折し、人見街道を久我山方面に向かう。
森田童子のアルバム「友への手紙 森田童子自選集」に収録された「淋しい素描」の曲後に次のモノローグ(一人語り)が挿入されている。
「ラジオ 消しゴム 万年筆 新聞 腕時計 短歌 岸上大作 灰皿 マッチ 窓 雨 4月1日 エイプリルフール」
一人部屋の中で周りの物を見て視線を変えながらつぶやいているのだろうか。勝手に想像するに、周りを見ると、ラジオ~腕時計があり、岸上大作の歌集があって、その隣に灰皿、マッチがあり、窓から外を見ると雨で、きょうは、4月1日、エイプリルフール。
「岸上大作全集」(思潮社)が1970年、「意志表示」(角川文庫)が1972年、「岸上大作歌集」(国文社)が1980年に出版されており、森田童子が岸上大作歌集を持ち読んでいた可能性は充分にありそうである。古本屋にも行っていたから。古本屋で5、6年前のフォーク雑誌を見ていたら早川義夫の記事があって・・・などとスタジオライブで語っている。(このスタジオライブこそ、そのむかし、録音し、繰り返し聴いていた今は無き音源で、これがyoutubeで再現されていることに驚いた。)
岸上大作は、60年安保闘争に参加した学生歌人で、その頃の短歌二首を掲げる。
『装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている』
『血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする』
岸上は、その年の12月5日未明杉並区久我山の下宿で自殺し、21歳の短い生涯を閉じた。その日の朝、久我山駅に向かうサラリーマンがレインコートを被り雨に濡れた縊死体を発見したという。
人見街道は牟礼橋からちょっと歩くと久我山駅に向かって緩やかに下っている(三枚目の写真)。駅前で神田川が街道を横断して流れ(四枚目)、その近くの踏切を渡ると、人見街道はふたたび緩やかに上っている(駅方面を振り返って撮ったのが五枚目)。
岸上終焉の場所は、当時はまだ麦畑などが多く残っていたのでかなり変わったのだろうが、この街道沿いであったかもしれない、いや別の道路もあるからそっちかも、いずれにしても当時の家は残っていないだろう、などと思いながら人見街道の緩やかな坂道を歩いた。
森田童子は、その強い感受性から岸上の生死に関心を寄せ岸上に惹かれた可能性が高いような気がする(ちょうど太宰に惹かれたのと同じように)。ライブ盤 (東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤(1978))の曲間のモノローグで語るように高校時代の女子大学生の先輩を久我山のアパートに訪ねたことがあったが、そのときの二人の会話に岸上大作も出てきたかもしれないなどとつい想像をしてしまった。(「この近くに住んでいたのよ」などと。)
参考文献
「岸上大作全集」(思潮社)
福島泰樹「「恋と革命」の死 岸上大作」(皓星社)
吉本隆明「真贋」(講談社文庫)
CD「友への手紙 森田童子自選集」(ユニバーサル ミュージック合同会社)
CD 森田童子「東京カテドラル聖マリア大聖堂 録音盤」(WARNER MUSIC JAPAN INC.)