前回の浅草橋北詰から神田川に沿って柳橋へと続く小道があったので(一枚目の写真)、ここに入る。河口がすぐそこの最後のところでようやく川沿いの散歩となる。もっとも防波堤が高くそんなに川が見えるわけではない。
次第に柳橋が近くなってアーチ型の姿が目立ってくる。屋形船で観光を終えたと覚しき人たちとすれ違うが、みなさんの顔がおだやかでいい表情をしているのが印象的である。水際近くに長くいると、心を癒すようなよい作用があるのかもしれないなどと思ってしまう。
やがて柳橋のたもとに着く。柳の木が植えられており、そよ風で揺らいでいるのが涼しげで心地よい気分になる。橋を渡った南詰にも植えられているが、橋名からいってごく自然なことに思える。
この橋は幹線道路に近いが、それが通っているわけではないので、人・車ともに通行量は先ほどの浅草橋などと比べてぐっと減る。喧噪から離れて静かで、橋からの眺望をゆっくりと楽しむことができる。下三枚目の写真のように、上流側を眺めると、屋形船が係留されている先にさきほどの浅草橋が見える。反対側に行くと、下四枚目の写真のように、眼の前はもう隅田川で、川向こう正面に高架の首都高速道路が見え、その右手下側に両国橋が見える。この橋が神田川最下流の橋であることをあらためて実感できる。
浅草橋からの小道を左折し橋の北側へしばらく歩くと、右側に石塚稲荷神社がある。近くに総武線が通っており、電車の音が聞こえてくる。以前、隅田川河畔を南下したとき、総武線の手前で途切れたので、このあたりをうろうろしていたら、この神社の前に出た覚えがある。一枚目の写真のように、神社名のわきに火伏神とあるので、火除けの神として信仰されているのであろう。石の門柱には、柳橋芸奴組合、柳橋料亭組合、と浮き彫りされている。かつて柳橋が花柳界として賑わった時代の名残りであろうか。
神社からもどり、橋を渡るが、その途中、歩道わきの欄干の間にかんざしが横になって飛び飛びにたくさん取り付けられて、欄干の模様のようになっている(二枚目の写真)。かつてここにいた芸奴たちが使っていたものであろうか、面白いアイデアと思った。
この地は、もともと吉原や深川へ通う猪牙(ちょき)船の発着場で、船宿が並び、芸者もいてそれなりに賑わっていたが、天保の改革で深川が衰微して以来、とって代わってさらに繁栄したという。
橋名の由来について、前回記事の江戸名所図会は、柳原堤(柳原土手)の末(はじ)にあるから、と説明するが、橋の北側に立っている説明板(台東区教育委員会)によれば、これ以外に、近くに幕府の矢の倉があったので矢の倉橋、矢之城橋とよばれたが、この矢之城(やのき)を柳の字に書き換えた、橋畔の柳にちなむ、の諸説があるとのこと。
成島柳北は安政四年(1857)頃からこの柳橋の花街に出入りしたというが、その体験に基づいて著した『柳橋新誌』の初編冒頭に上記の江戸名所図会にも触れながら次のようなことを記述している。
この橋は、柳を以て名とするのに、一本の柳も植えられていない。旧地誌(江戸名所図会)が云うには、柳原の末に在るためにこう名づけた。しかるに、橋の東南に一橋があり、たもとに一樹の老柳があったため、人々は、故(もと)柳橋とよんだ。ある人が云うには、その橋に柳があり、これがむかしの柳橋で、今の柳橋は後に架けられその名を奪った。この説は江戸名所図会と違う。思うに、故柳橋の正式な名称は難波橋というが、これを知るものは少ない。あれこれ考え合わせると、江戸名所図会の説が当たっているのと似ている。
尾張屋板江戸切絵図(日本橋北内神田両国浜町明細絵図)を見ると、神田川の河口に柳橋があり、その南、隅田川の両国橋からちょっと下流に、薬研堀の河口に元柳橋がかかっている。薬研堀は米沢町三丁目にある短い堀であるが、その近くに薬研堀埋立地とあるので、埋め立てられて短くなったようである。
永井荷風は『日和下駄』「第三 樹」で、上記の『柳橋新誌』の部分を引用して次のように書いている。
「柳橋に柳なきは既に柳北先生『柳橋新誌』に「橋以柳為名而不植一株之柳〔橋は柳を以て名と為すに、一株の柳も植えず〕」とある。しかして両国橋よりやや川下の溝に小橋あって元柳橋といわれここに一樹の老柳ありしは柳北先生の同書にも見えまた小林清親翁が東京名所絵にも描かれてある。図を見るに川面籠る朝霧に両国橋薄墨にかすみ渡りたる此方の岸に、幹太き一樹の柳少しく斜になりて立つ。その木蔭に縞の着流の男一人手拭を肩にし後向きに水の流れを眺めている。閑雅の趣自ら画面に溢れ何とかく猪牙舟の艪声と鷗の鳴く音さえ聞き得るような心地がする。かの柳はいつの頃枯れ朽ちたのであろう。今は河岸の様子も変り小流も埋立てられてしまったので元柳橋の跡も尋ねにくい。」
その小林清親の東京名所絵は見たことはないが、荷風の名文から朝霧のこもる隅田川の様子などが思い浮かぶようである。元柳橋の跡は、荷風が『日和下駄』を書いた大正のはじめ頃、すでに埋め立てられており、よくわからなくなっていたようである。
下一枚目は、柳橋から両国橋にかけての鳥瞰図であるが、真ん中の大きな橋が隅田川にかかる両国橋で、その向こうに回向院などが見える。幕末のころ両国橋は現在よりもやや下流側にかかっていたが、この図からもそれがわかる。中央下側に神田川にかかる柳橋があり、その上流に浅草橋と浅草見附が見える。右端に、元柳バシ、とあり、橋のたもとに、やや傾いた柳の木が描かれているが、これが、柳北が云う一樹の老柳、荷風が小林清親の東京名所絵をみて記した少し斜に立つ幹太き一樹の柳であろう。江戸惣鹿子名所大全に「夫婦柳」とあり、もとは二本並んでいたが、柳北のころは一本だけになっていたという。
この鳥瞰図は、「新日本古典文学大系 100 江戸繁昌記 柳橋新誌」(岩波書店)の612頁からの引用である。もともと『柳橋新誌』の青表紙本という柳北に無断で明治二、三年頃刊行されたテキストの巻頭の口絵であるというが、幕末頃の柳橋・両国橋あたりの様子がわかるよい絵である。
橋を渡り南詰に行き、左折すると、柳の木のさきに、二枚目の写真のように、石碑や説明パネルが並んでいる。右は中央区(橋北側は台東区であるが、南側は中央区である)による柳橋の説明板、真ん中は中央区教育委員会による柳橋の説明板であるが、それらによると、明治20年(1887)にかけられた鋼鉄橋が関東大震災(1923)で落ちたので、ドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを取り入れ、昭和4年(1929)12月に完成したのが現在のアーチ型の柳橋であるとのこと。左の石碑には復興記念と刻まれているが、関東大震災の復興事業として復興局により施工された。
説明板を左に見ながら進み右に曲がると、すぐ京葉道路の歩道で、ちょっと歩けば両国橋である。歩道を少し進むと、歩道から丸く突きだしたふくらみ部分があるが、ここから柳橋を撮ったのが三枚目の写真である。四枚目の写真はそこから隅田川上流を撮ったものである。
両国橋を東へ渡り、前回の記事のように、旧本所小泉町の芥川龍之介生育の地、旧本所松坂町の吉良邸跡を訪ねた。この後、両国駅からさらに東に歩き、錦糸町駅手前の江東橋から大横川親水河川公園を北へ歩き、スカイツリーの近くまで行った。
参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「新日本古典文学大系 100 江戸繁昌記 柳橋新誌」(岩波書店)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
石川悌二「東京の橋」(新人物往来社)