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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

お茶入れ・・・

2011-12-11 14:23:20 | 実例体験観察
かなり前のことだけど、強烈な思い出。

ぐっすり昼寝してるとき、大工さんが家に入っている時でその人に「お茶を入れて」と言われ、

腹が立ったことがある。

いま、ここから書くことは、

腹が立ったその時点より、後で気が付いたこと。

その時はそんなことには気が付いてない。


「昼寝してるのに、わざわざ起きて、そうしなきゃなんない」

と“思ってしまった”私だった。

なんで、そうしなくちゃなんない、となったかと後から検査すれば、

(そういうことは女がするもんだ)これが、

自分の中にあったからだ。


この世の常識にそういうものがあったとしても、

(もう無いか・・)

私自身にそういう(~するもんだ観)がなければ、

「イヤだ」と言うとか、目が醒めない振りをするとか、

「いま、昼ねしてるから、あなたやって」と言うとか、

「今、そうする気にならない」とか、普通に言えるはず。

世の中にそういう常識が在ろうとなかろうと、

本人になければ反応は起こらない。

けれど、私たちは無人島じゃなくて、

いろんな人たちの中で今の自分になってきた。一人残らず。

いろんな不合理な常識や、価値観のあるこの世で成長して来た。

いろんな大人を見て生きてきた。

いろんな情報にさらされてきた。

オーバーアクションのテレビドラマをたくさん見てきた。

神でもない、完璧でもない私たちが、

そういうものから影響を受けないわけがない。


信 という字

2011-12-11 09:50:27 | ひとの幸福
「人」 と 「言う」で、 信じるの「信」。信頼の信。 信用の信。

「人が言うこと」それが 信じる という意味なんだろうか。

言葉は認識だと何度も書いて来たけど、

ご飯を食べた後に認知症の人は「ご飯を食べてない」と言うことがある。

「さっき食べたばかりでしょ!」と言うと、

そういう認知症の人は反発する。

だって、「ご飯食べてない」んだから。

(こういう場合も、その人の言うことをそのまま受け止めて、笑顔で

「そうですか、ちょっと見に行ってきますね」と言うと、納得する。

次に会ったとき、同じようにご飯食べてないと言われたら、

また同じように対応すると、また納得する。)


実際にご飯を食べてはいても、

その人はご飯を食べてない、という気持ちの状態に在る。

心がそう“なっている”、と言ってもいい。

「ご飯を食べてない、と思っている」という表現だと、

ぴったり来ない。

そう思っていることに自覚がないからだろう。

それを忘れてしまうような状態に“なっている”と言ってもいい。


認知症じゃない人がやったことを憶えていても、

「やってない」と言うことはある。

悪い事をした、という意味ばかりではなく、

いろんな都合でそういうことはある。

既に食事はしたけど、断れない立場の人に食事に誘われて、

「まだですので、ではご一緒に・・」なんてことも世間ではあること。

悪いことじゃない。

そう言うことに“なる”のは、何かしらの心の状態というものがある。

この場合、断らない方がいいので、こう言おうか、というような。

そういうのがなかったら、やったことはやったと言う。

してない事をしたと言うとか、した事をしてないと言うとか、

そうことに“なる”には、何かそうなる必然がある。

認知症の人もそうでない人も同じ。


「人が言うこと」それが 信じる の「信」という字の語源だとしたら、

事柄の事実とは違うことを言ったとしても、

それを言うのには何かしらの必然があるとわかる、のが、

信じる ということなんだろうか。

その言葉を否定しない、というのが信じるということなんだろうか。

所謂「嘘をついた」ということでも、

それが起こるには何かがそれ以前にある、

それを観ようとする心があれば、

「嘘をつくな!」でお終いには出来ない。