ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

身の安全

2011-12-17 15:51:14 | ひとの幸福
家族とか大事に思っているひとが病気や怪我で、

痛い、苦しいという状態にある時、

「早く良くなってほしい」と願う。

家族である他者が良くなる、

相手のことだけを案じているのか、

それだけではないのか・・・・


痛む姿、苦しむ姿を見られない、

「痛い」「苦しい」という言葉を聞くのが辛い、

出来れば聞きたくないというのは、

ひとが今ここで苦しんでいる、

その姿が違う姿であってほしい、という心理。


勿論苦しみが減るような施術や看病とか、

手当てとかの策を講じるという行為は必要だけど、

こういう意識の状態はどうなっているんだろ。


具合が悪い人に早く良くなってほしいと、

願ってしまうのは当たり前だし、

悪くなれなんて思うわけもない。


その中味はどういうものだろう。

病気の家族の具合が良くなると、

自分の気持ちが楽になる。

家族の具合が悪いと自分が辛い。

家族である他者に変わってほしい、良くなってほしいと思う。


自分の気持ちが楽になる為に、

他者の姿が変わってほしいと願う。

わたし、そういう経験がある。

死んでくれたら、どんなに自分が楽になるだろ、

って思った一瞬がある。

良くなって、と思うことがなくなるから。

良くなって、と思う辛さが消えるから。



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なにやってんだ ②

2011-12-17 14:19:48 | ひとの幸福
実際その目的達成のためには、

別のことをやった方が相手にとってもよい、

ということもあるかもしれない。

けれど、「何やってんだ」と文句を呟くのは反発を招くことが多い。

相手には相手のその時の意志があるからこそ、そうしているのだろうし。

相手がそうするのは相手の意思によるもの。

ひとは誰でもロボットじゃなくて人間だから。

相手が違う行動をとるとしたら、それは相手の意思によってだ。

相手が自らそうしたくなるので、やるというのが自然。

無理が無い。

無理があると、いろいろ現象に歪みが生じてくる。第一気分が良くない。

何やってんだと思うということは、

それは良くないものと観ている。それが現象化する。

良くないことになる。
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「なにやってんだ」

2011-12-17 12:43:56 | ひとの幸福
ひとが何かしているのを見たり聞いたりした時に、

「何やってんだ、あんなやり方して。バッカじゃないの」

というような思いが出てくるのって、

「もっと別のやり方でやったらいいのになぁ」

という思いを持っているということかもしれない。

そういうのがなかったら、そんな思いは出てこない。

何かなければ、人が何してようと気にならないもの。

ホントに人って、性善説の通りかと思ってしまう。

ひとがうまいこと行くようにってついつい思ってしまう。

無意識のうちに心がそうなってしまう。

本人はそんなつもりないのかもしれないけど。

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子供の意思 ②

2011-12-17 10:04:38 | ひとの幸福
赤ちゃんが気持ちよく寝るにはこちらがどうしたらいいか、

どういう行動をとったらいいか、自然に考える。

泣き止まない時も赤ちゃんを、

どういう状態なのかよく観察する。

こちらがどうしたら赤ちゃんが泣き止むか、観察しながらやってみる。

おっぱいを飲まない赤ちゃんを見て、

どうしてなのか観察する。

こちらがどうしたら、赤ちゃんが飲むか、いろいろやってみる。

離乳食を食べないと、どうしてなのか、赤ちゃんを観察する。

どうしたら食べるか推察し、工夫し、やってみる。

考えていろいろやってみる。

いろんな場面で、やった結果を見て、またやってみる。

そういう繰り返しを自然にやったもんだ。

そうして経験知を得る。

やらなければわからないこと。

そういう経験をしてないひとには泣く赤ん坊に手も足も出ない。

私も産みたてはそうだった。

でも、ふにゃふにゃの赤ん坊を大事に思う気持ちだけはあったから、

いろいろやってみて、いろいろな経験知を得た。

そういう時に言葉で直接赤ちゃんをなんとかしようとする人はいない。

泣かないで寝なさい、とか

おっぱい飲みなさい、とか

離乳食残さず食べなさい、とか

言葉で直接言う人はいない。多分。

赤ちゃんがそう“なる”にはこちらがどうするか、

だけだと皆わかっている。

謂わば、そう“なる”のは赤ちゃんで、

こちらはそう“なるよう”な何かの役目をするだけだとわかっている。

育つのは赤ちゃんだとわかっている。

実際それを自然にわかって、行動しているのに、

わかっている、そのことをわかっていない人は多いかもしれない。

なので、子供が言葉を使うようになると、

子供自身がそう“なるように”

そのために何かをする、

ということを知らないうちに忘れ、

自分が主人公になってしまう。

直接子供にあーしろこーしろと言葉で指図するようになる。


育つのは子供なんだけど・・・。


なので、現代の「子育て」という言葉そのものも、

こういう現状を表わしているんだろうね。

子供は育てるものだと無意識のうちに思ってる。

子供は育てるんじゃなくて育つもの。

なので昔は子育てなんて言葉はなかった。子守だけだった。
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