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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

正しいと・・

2011-12-06 16:40:22 | ひとの幸福
ヒットラーやオウムやたくさんの人も、

自分が 正しい になってると、突っ張るし、そこで留まる。

そして 危ない。

車の運転も下手くそだ、未熟だと自分でわかっていれば、

注意して運転する。

自分は上手いと思っていると、そこで留まる。

本当に完璧に上手い、ってことがあるのかどうか・・・

いつ何があっても上手いこと行くかはわからない・・とも言えるね。

実際に完璧ではないのに、

上手いと思い込んでいることに気づかないのが、

一番恐い。


日常のどんなに小さなことでも、

心が 正しいという状態 に“なってる”場合はよくわかる。

それは心がこういう表現をする・・・・

我を押し通す、ひとのことは聴こうとしない、ひとを馬鹿にする、

偉そうになる、このひとはホントにワカッテナイと堂々と思う、

なんとしても思い通りにさせたい、上から目線になる、

ひとを否定する、

もっとあるだろうけど・・・

自分でもたくさん経験あるからわかる。

正しい、なんて言葉は一言も言わないよ、そういう時って。

正しいと思ってるって、思ってないから。

自分が 正しい、に“なってる”なんて、気付いてないもん。


せずにはいられない ③

2011-12-06 11:23:50 | ひとの幸福
地震の後、避難所がよく映された。

いつ亡くなってもおかしくないような老人が横たわっていた。

勿論一人でそこまでたどり着けたわけじゃなく、

周りの人がそうなるようにしたんだと思う。

津波が来る!逃げよう!となったとき、

その人を置いて逃げることが出来ない、

見殺しに出来ない、という気持ちになった、

というようなこともあったかもしれない。

逃げたいという気持ち、身を安全に保とうとする気持ち、

危険回避は本能。

そういう同じ気持ちを持つ身体の不自由な人が近くにいて、

それを見たら、置いて逃げるなんて出来ないという、

人って、そういう心がある。

共に幸福になる、そういうプログラムが

一人残らず私たちの中にあるのだと思う。

身体の不自由なその人は自分なのだという、

そういう心境なのかなと思う。

だからこそ、どうしようもない状況で、

共倒れになるより、私はいいから逃げて、と嘆願されて、

一人逃げるという選択肢を選んでも、

心は苦しむ。

それほどの経験じゃなくても、震災で家族を失った人は、

自分だけ生き残ってしまったという苦しみを味わっているという。

本当に本当に辛いと思う。


「世界中が幸福にならなければ個人の幸福は無い」

という宮沢賢治の言葉もあるけど、

共に幸福になるしか、幸福への道は無いということを

ひとはみな、心の深い場所では知っている。


ヒットラー・オウム・わたし

2011-12-06 11:19:48 | ひとの幸福
ヒットラーは選挙で選ばれ、大統領になったらしい。

その外交政策や経済政策は効果を上げて、

失業者も大幅に減って、社会に有益な様々なことをした・・らしい。

第一次大戦で負けて、誇りを失っていたドイツ国民に

ドイツ人としての誇りを再び与えた・・らしい。

アーリア人は優れている、

社会のいろいろな問題はユダヤ人が起こしている、

ナチス党(国民社会主義ドイツ労働者党)のやることはいいことだ、

・・・というように考える人が多かった・・らしい。

ドイツ人は優れている、

優れているものが世界を統治するのは当然だ、よいことだ・・

そういうのが彼の中で、動かせない絶対の事実みたいになってしまった、

・・のかもしれない。


彼の意識の中では彼は正しいことをしていた、んだろう。

ドイツ国民の多くも「ナチスのやることはいいことだ。」になってた。

オウム真理教のひとたちにも通じるものがある。

悪いことをしているつもりはなかったのだと思う。

「ハイル・ヒットラー!」と讃えたドイツ国民と

似たようなものだったのかもしれない。


そんなふうに“なってしまう”くらい、

相対的な“正しさ”はひとの目をくらませる。


自分の中にもヒットラーは、いる。

自分の中にもハイル・ヒットラーを叫ぶ人はいる。

自分の中にも麻原彰晃は、いる。

自分の中にもオウム信者は、いる。

事柄が違うだけで。


そういう自覚がないと本当に危ない。

歴史が繰り返すわけ

2011-12-06 09:44:41 | ひとの幸福
ヒットラーがあのヒットラーだったのは、

周りにいたたくさんの人の、

「ハイル、ヒットラー!」という声があったので、そうなった。

それがなかったら、違うヒットラーだった。

うちの亡くなった義母のことを、

以前に書いたけど、「周りを動かす人」と何人もの人が言っていた。

周りの人がロボットだったわけじゃない。

ちゃんと人格、意思のある人間だった。

周りがそんな反応しなかったら、

あのヒットラーにならなかった。

周りがそんな反応しなかったら、

あの義母にはならなかった。

それはそうなんだろうけど、後になってわかる。

時空を経た全体を見てわかる。

その時、みんながそうわかってたらそういう歴史じゃなかった。

どちらも当時の周りの人はそうだった。

そういう反応しかその時は出来なかった。

そのようにしか在りようがなかった。

そういう人たちだった。そういう社会だった。

いろんな状況、そうしないと酷い目に合うとか、

白眼視されるとか、身の安全を考えてとか、

いろいろな選択肢の中から、

そうすることを無意識のうちや意識的に選んでいたと思う。

そうせざるを得なかった。

自分はともかくとして、子供や家族が酷い目に合うことがわかっていて、

体制に逆らうことを選ばないのは当たり前といえば当たり前だ。

非難されることじゃない。


自分のことでも、振り返ると、

あの頃、なんであんなことに夢中になったんだろう、

あんなことしちゃったなぁ、

とか思うことがたくさんあるけど、

その時の自分はそのようにしか在ることが出来なかった。

ヒットラー経験(私個人はしていないけど)や、

義母経験や、過去のことでも、いろんな経験を経てきて、

今になって、そのことが観える。

その時はそのようでしか在りようがなかった。


過去に(そうなっていた)こと、

今(こうなっている)こと、そういう実態は、

否定するとか肯定するとかの思考の圏外にある。


「あんなこと をしたから処刑されるに決まってる」に行くには、

その、(あんなこと)がどんなことだったのか、

どのような意識プロセスが織り成されてそうなったのかを、

明らかにしなければ歴史は繰り返すに決まってる。

そうしなかったら、

いろいろな冤罪も戦争も紛争も、

家庭や職場のいざこざもなくなることは有り得ない。