前回の久々のブログ論「ブログの寿命 閉鎖するブログ」にドッペルさんがコメントをして下さいまして、返事を書いていたら長くなったので、記事としてアップさせて頂きます。
ドッペルさんはネット上のトラブル、いわゆる2ch系の荒らし集団の問題については、根元的には人間関係を構築する際のトラブルで、今に始まったことではなく、ネットコミュニケーションは、それらの問題を増幅してハイビジョン大画面で映し出しているのではないかというご指摘だった。
確かに人と人との繋がりは、人間という種の誕生以前からあったでしょうし、コミュニケーション方法は文化によって様々だろうと思います。
ネット上は顔の見えないコミュニケーションを前提としてますから、表情や手振り、語調などが言葉を補うことが出来ないと思います。
日本語では「あなた」「君」「貴様」「おまえ」「てめえ」と使い分けられても、英語では「YOU」と書くしかないもどかしさと同じような感覚が伴いますね。
そのかわり英語では声、表情、身振り、を豊かにして表現しますね。
日本人は比較的言葉が豊かですが、その分表情に乏しく、特に現代ではその言葉さえバリエーションを失いがちなのが僕達なのですから、ネット上のトラブルは仕方ないことなのかもしれません。
そして人間関係に普遍化すれば、「いじめ」の問題も含まざるを得ないわけです。
攻撃者に徹底的に欠けている、もしくは共通するのは、自分を認めさせようとしながら、他者という存在を認めようとしない点にあるといっても良いのではないでしょうか。
そして逆に「自分」と「他人」という意識において、「他人」も「自分」と同じくらい尊い存在であることを意識している人は、決してその人を傷つけたりしないと考えています。
「日本人に犠牲者はなかった模様です」というコメントに違和感を抱く人が増えてきているように、日本人でなければ、外国人であれば、ましてや日本より文明が進んでいない国のひとならば、悲しむことはないのかと憤慨することがある。哀しみの範疇に外国人は入れなくて良いという民族的エゴイズムが見え隠れする。
これはネット上の攻撃者にも当てはまることで、彼等は自分が傷つくことを極端に怖れ、他者を噛んで吐き捨てるように「断罪」することを好む。そして自分の卑怯な勇気に賛同者を求めようとする。
直接関係ないものなら、どうなっても責任はとらなくて良い、見つからない、逃れられる、傷つけられない。
しかし、あなたがそうであるように、他の人にもその人のことを愛し、心配し、行く末を祈った人達がいて、2時間おきにミルクを飲ませたり、おしめを替えた人が必ずいて、その人が傷つくとその人以上に心を痛める人が、あなたと同じようにいるはずだと、容赦ない攻撃者に意識してもらいたいと願っています。
その人は、あなたにとって無関係の人かも知れないし、その人が例えこの世から消えても、あなたの生活には何の影響もないのがネット上の出来事です。
けれどもそういう風に人を追い込んだあなたの心は、たとえあなたが、大勢の中の一人でしかなかったとしても、変形を来すのです。
それをしてしまった、経験をした人は、しない人や思いとどまったあなたと違う次元の人生を送らなければならないことを覚悟すべきです。
そしてそれはあなたの周りの人間関係において、少なからず影響を与え続けるのだと思って下さい。
攻撃者にたいして一番有効なのは、「冷静に無視」することである。
アップされるたびに冷静に駆除する。
一切の感情の起伏を見せないこと。
見せる必要がない。
ある高校教師がいったセリフにこんなのがある。
邪魔な、そして辞めさせたい生徒は無視し続ければいい。
徹底的な特別待遇という無視を続ければいい。
他の生徒は叱っても、その生徒は許す、なにもいわず許す。
特別待遇と名を変えた「差別」半年もすれば不登校か、何らかの犯罪の発覚にいたり、そのチャンスを逃さず退学させればよい。
というものだった。
その手段方法の是非や、その教師の倫理に関する話がこの稿の主旨ではないので、ここまでにするが、教師にあるまじき態度であるのは確かである。
その人をいないことにしてしまうこと。
誰にも認めてもらえない。
おまえはここにいないのが当たり前なんだといわれるのが、攻撃者にとって一番辛い仕打ちなのではなかろうか。
ただ攻撃者の言葉遣いを見てると、ある種のルールが存在していることに気付く。
氏ね!
DQN
ワロタ
逝ってよし
アボーン
名無しさん
とう言葉遣いが非常に限定され、表現にバリエーションがない。
関西弁のケンカ言葉、「喉から手え、突っ込んで奥歯ぁガタガタ言わしたろかあ!」とかの方が余程リズムが良いし、ペーソスがある表現だと思う。
とにかく対象者を、もしくはサイトなりブログなりを潰そうとするならば、ありとあらゆる攻撃的な創作罵倒分を考え出して芸術性を高めていけば、絶対に文化として生き残っていけるはずである。
…。
中年の説教じみてきたので話を戻す。
言葉は誤解されやすい、気持ちというものは瞬間、瞬間変化しているものだから、それを切り取って、「悲しい」とかに置き換えても、その悲しさには。その原因となるものによる悲しさなので、千差万別なのである。
離婚で傷ついても、1度目と2度目では同じではないかと思われる。
その哀しみは本人にしか捉えられないし、モラトリアム的に「悲しい」と使っているだけで、それに「胸がえぐられるように悲しい」というが、胸をえぐられた人は滅多にいないわけですし、他人には分からないのです。
ただ個々に差はありさえすれ、「胸がえぐられる」と表現されると、他の人も共感できるから言葉として存在できるわけです。
ここで「太宰治の単一表現について」に触れたいのですがそれはまた次の機会にしましょう。
ちょい疲れた。
ドッペルさんはネット上のトラブル、いわゆる2ch系の荒らし集団の問題については、根元的には人間関係を構築する際のトラブルで、今に始まったことではなく、ネットコミュニケーションは、それらの問題を増幅してハイビジョン大画面で映し出しているのではないかというご指摘だった。
確かに人と人との繋がりは、人間という種の誕生以前からあったでしょうし、コミュニケーション方法は文化によって様々だろうと思います。
ネット上は顔の見えないコミュニケーションを前提としてますから、表情や手振り、語調などが言葉を補うことが出来ないと思います。
日本語では「あなた」「君」「貴様」「おまえ」「てめえ」と使い分けられても、英語では「YOU」と書くしかないもどかしさと同じような感覚が伴いますね。
そのかわり英語では声、表情、身振り、を豊かにして表現しますね。
日本人は比較的言葉が豊かですが、その分表情に乏しく、特に現代ではその言葉さえバリエーションを失いがちなのが僕達なのですから、ネット上のトラブルは仕方ないことなのかもしれません。
そして人間関係に普遍化すれば、「いじめ」の問題も含まざるを得ないわけです。
攻撃者に徹底的に欠けている、もしくは共通するのは、自分を認めさせようとしながら、他者という存在を認めようとしない点にあるといっても良いのではないでしょうか。
そして逆に「自分」と「他人」という意識において、「他人」も「自分」と同じくらい尊い存在であることを意識している人は、決してその人を傷つけたりしないと考えています。
「日本人に犠牲者はなかった模様です」というコメントに違和感を抱く人が増えてきているように、日本人でなければ、外国人であれば、ましてや日本より文明が進んでいない国のひとならば、悲しむことはないのかと憤慨することがある。哀しみの範疇に外国人は入れなくて良いという民族的エゴイズムが見え隠れする。
これはネット上の攻撃者にも当てはまることで、彼等は自分が傷つくことを極端に怖れ、他者を噛んで吐き捨てるように「断罪」することを好む。そして自分の卑怯な勇気に賛同者を求めようとする。
直接関係ないものなら、どうなっても責任はとらなくて良い、見つからない、逃れられる、傷つけられない。
しかし、あなたがそうであるように、他の人にもその人のことを愛し、心配し、行く末を祈った人達がいて、2時間おきにミルクを飲ませたり、おしめを替えた人が必ずいて、その人が傷つくとその人以上に心を痛める人が、あなたと同じようにいるはずだと、容赦ない攻撃者に意識してもらいたいと願っています。
その人は、あなたにとって無関係の人かも知れないし、その人が例えこの世から消えても、あなたの生活には何の影響もないのがネット上の出来事です。
けれどもそういう風に人を追い込んだあなたの心は、たとえあなたが、大勢の中の一人でしかなかったとしても、変形を来すのです。
それをしてしまった、経験をした人は、しない人や思いとどまったあなたと違う次元の人生を送らなければならないことを覚悟すべきです。
そしてそれはあなたの周りの人間関係において、少なからず影響を与え続けるのだと思って下さい。
攻撃者にたいして一番有効なのは、「冷静に無視」することである。
アップされるたびに冷静に駆除する。
一切の感情の起伏を見せないこと。
見せる必要がない。
ある高校教師がいったセリフにこんなのがある。
邪魔な、そして辞めさせたい生徒は無視し続ければいい。
徹底的な特別待遇という無視を続ければいい。
他の生徒は叱っても、その生徒は許す、なにもいわず許す。
特別待遇と名を変えた「差別」半年もすれば不登校か、何らかの犯罪の発覚にいたり、そのチャンスを逃さず退学させればよい。
というものだった。
その手段方法の是非や、その教師の倫理に関する話がこの稿の主旨ではないので、ここまでにするが、教師にあるまじき態度であるのは確かである。
その人をいないことにしてしまうこと。
誰にも認めてもらえない。
おまえはここにいないのが当たり前なんだといわれるのが、攻撃者にとって一番辛い仕打ちなのではなかろうか。
ただ攻撃者の言葉遣いを見てると、ある種のルールが存在していることに気付く。
氏ね!
DQN
ワロタ
逝ってよし
アボーン
名無しさん
とう言葉遣いが非常に限定され、表現にバリエーションがない。
関西弁のケンカ言葉、「喉から手え、突っ込んで奥歯ぁガタガタ言わしたろかあ!」とかの方が余程リズムが良いし、ペーソスがある表現だと思う。
とにかく対象者を、もしくはサイトなりブログなりを潰そうとするならば、ありとあらゆる攻撃的な創作罵倒分を考え出して芸術性を高めていけば、絶対に文化として生き残っていけるはずである。
…。
中年の説教じみてきたので話を戻す。
言葉は誤解されやすい、気持ちというものは瞬間、瞬間変化しているものだから、それを切り取って、「悲しい」とかに置き換えても、その悲しさには。その原因となるものによる悲しさなので、千差万別なのである。
離婚で傷ついても、1度目と2度目では同じではないかと思われる。
その哀しみは本人にしか捉えられないし、モラトリアム的に「悲しい」と使っているだけで、それに「胸がえぐられるように悲しい」というが、胸をえぐられた人は滅多にいないわけですし、他人には分からないのです。
ただ個々に差はありさえすれ、「胸がえぐられる」と表現されると、他の人も共感できるから言葉として存在できるわけです。
ここで「太宰治の単一表現について」に触れたいのですがそれはまた次の機会にしましょう。
ちょい疲れた。
平凡な指摘ですけど、やはり匿名性が特殊ですよね。
それによる弊害もたくさんあるけど、だからこそネットっていいんだと思うことにしてます。
ネカマだろうが攻撃系だとか何にでもなれます。
ただ、そういったことをあまり知らない方がブログで傷ついてしまうことがあります。
この辺は、ブログサービスで、めんどくさい規約なんか読ませるより、もっと、ブログの危険性や個人情報の扱い方を教養してもらいたいと思っています。
くだらないコメントへの長文のレスありがとうございました。
今、読み直して気付きました。
すみません。
便利さには必ずリスクが付いてくるってことを日本人ほど意識しない民族もなかろうかと思ってしまうのは僕だけでしょうか。