「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

ブログの寿命 閉鎖するブログ

2005年10月25日 00時20分00秒 | BLOG論
 gooのブロガーが30万を超えて40万に近づこうとしている。

 そして毎日のようにブログが誕生しつつけている。

 これらのブログの平均寿命は約1ヶ月なんだそうです。

 ブロガーの平均寿命

 それによれば平均寿命は38.5日だそうですよ。

 僕はブログの世界でも高齢者になっていたのかあ。トホホ。

 平均投稿間隔: 3.6日

 さらに三日坊主率: 47%

 さらにさらに60日を超えたブログは25%です。


 なんか僕は自信が出ちゃったような気になっているんですけどね。

 続いているブログの多くは日記という形式とは性質が違い、備忘録であったり、ツールの置き場だったりするようです。(あとでまとまった記事や小説にするためのデーターベースの役目を負っていると言う意味で)

 そういえば、カズさんのブログの映画観察のカテゴリーはカズさんの映画評の倉庫になっている一面をもっているといえますね。

 そうすると長く続く。

 考えてみれば自分もそうでしたね。

 ある目的に即した記事をあげていけば自分の思索の深まりとともに自分にとってディープな資料となること間違いなしなのではないかなと思う。

 だからホントの意味で、勉強していかないと書けないし、好きなものこそ勉強できてブログに残せるので、ブログの寿命としては長くなるのでしょうね。

 そうすると共感する人しか来ないので、穏やかなブロガー人生を送ることになる…かな?

 僕は近々仕事までの行き帰りに「富士山の写真」を掲載しようと思っている。無論撮影者は僕だし、場所も遠いのでろくな写真にはなるまいと思われる。

 でもやってみたいな。

 以前やっていた「今日のチェジウさん」よりはましでしょ。


 で、このところまた長寿のブロガーが店をたたむケースが増えてきている。

 原因は心ないコメントに対抗できないがために心やめてしまうケースである。

 この時期やめてしまうケースのもう一つの共通点としてブロガーのプライベートの扱いの甘さにも原因があるように感じている。


 自分の顔写真を公開している。

 自分を中心とした仲間関係について個人を特定できる情報を漏らしてしまうケース。

 独りよがりな意見を書きすぎたもの。

 旬な話題に挑んでアクセスが急増し、同時に招かざる客も招いたケース。

 色々ある。

 ブログ界がブロガーだけで構成されるなら良いのですけどね。

 たとえブロガーとしては蜻蛉のような命であっても、閲覧者としては生き残っている可能性は高いのではないかと思います。

 「ダメダメ教員」、「はあちゅう&さきっちょ」等が書籍化され、ブログの市民権が確立されつつある現在では、今までと全く違った環境が現出してるというしか無いのではないでしょうか。

 僕は以前この「ブログ論」の稿で、ブログはいわゆる2chのような、荒涼とした世界を作らないのではないかと書いたことがある。

 その予想は見事に外れた。

 僕の予想が外れたのは、ブログ界を行き来する人はすべてブロガーであるという前提に於いて成り立っていた。

 人によってはブログで自分を表現することは、自分の裸像を公道に立たせるほどの勇気を要する。

 つまりそれだけのリスクを負うことを承知でブログに手を出している人達であるといえる。

 ただし、自分のブログ界は当初、非常に小さい。

 村民は一人の公道で展覧会をするのに似ている。

 やがて少しずつ展覧会に来る人が増えてくる。

 だがそれも余程のことがないかぎり、爆発的に増えることはない。

 また増えたとしても、その訪問者が同じように近隣の村で展覧会を開いている人であれば、ある程度の価値観を共有し、それがやがてブロガーのマナーとして暗黙の諒解のもとにお互いが傷つけあうこと無しに村落共同体を形成していくのである。

 その意味で、ブロガーがブロガーを攻撃するのは余程のことになってからだと思っていた。


 ところが人が沢山あつまる人気ブログ、いわゆる都市部のブログでは、そうもいかない状態が訪れた。

 僕のブログの「沈黙の観衆」シリーズでは、ブログを、ただ黙って閲覧だけしている人を「沈黙の観衆」と命名し、その功罪について説いた。

 本来ブログを書かない人、もしくはかつて書いていたが今は書かない人達は、僕らのような表現者をどのように見ているのだろうか。

 嘲笑している。

 尊敬している。

 愉しんでいる。

 批判している。

 どれであってもおかしくない。


 ただし彼等は、その沈黙をもって、表現者への最低限のマナーを守っているとも言えなく無いだろうか。

 僕はそう思いたい。

 表現はそのまま、創造である。

 それは、すこしく才能であり、勇気であると思っても差し支えないかと思われる。

 
 攻撃者たちの表現には一様にして形式化されており、オリジナリティーに乏しい。

 
 そこには参加したことの安心感や、虫をさわって反射運動があったことを喜ぶ感覚が垣間見える。


 以前僕は他のブログのコメントとして、そういう攻撃者をキャベツにつく青虫に例えた。

 農薬たっぷりのあざといキャベツに虫は付かない。

 おいしいキャベツにだけつく。

 だから、虫をおいしさの裏返しとして、こまめに駆除してく、もしくはそういう精神で攻撃者に望むしか対処のしようがないのではないかと書いた。

 その後しばらく反応がよかったことを考えると共感者が少なからずいたということになるのではないか。

 ここはその意味ではかなり辺境のブログですから、プライベートビーチにでも着たつもりで遊んでいって下さい。