雲は完璧な姿だと思う。。

いつの日か、愛する誰かが「アイツはこんな事考えて生きていたのか、、」と見つけてもらえたら。そんな思いで書き記してます。

深川徒然。。おまけ

2014-03-27 00:16:07 | 面白い
——————そうそう、
こんな「深川ぷらぷら」......略して「深ぷら」!?
なんぞを誰かとしていると、よく聞かれたりすることがあって。
それが

「神社とお寺って何が違うのさ!?」

というようなこと。
確かに、
日本にはこんな大きな寺院と神社がすぐ近くに並んで
共存している所というのは結構あるし。
確かに、
普通考えないし。

——————深川徒然。
ちょうどいい機会なので、つれづれなるままに、
そんな質問にいつも僕が答えていることを、
次はもう少しだけ記しておこうか......と。
無駄話!(><)ですが、あしからず。




そんな質問に簡単に答えれば、
お寺は「仏教」、神社は「神道=しんとう」
崇めている対象が違います。
ただ、それだけ。(^^)



しかし、これまで多々記して来たように、
僕は「神道」を宗教とは捉えていなくて、

その上でやや深めに答えるとするならば、
個人的な言葉や概念での答えということになりますが、
お寺は「説く=とく」。
神社は「現す ≠ 表す」。
という違い。
そしてこれは僕にとっては途轍も無く大きな違いなのです。
それが僕の「言葉を最小限にした時の」神仏の違いなのです。



「仏は説き、神はただ現す」



「ホトケはとき、カミはただあらわす」



これだけ。



そして、ココからひもといていくと世界中の宗教、信仰等は、
僕的には以下の二つのタイプに分かれていく様にも思えます。

「説く」は「人」に寄った流れ。
大自然、宇宙の摂理に対し「対峙している人」という流れ。
仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教......等々。

「現す」というのは「宇宙」に則した流れ。
大自然、宇宙の摂理に対し「含まれている人」という流れ。
日本神道、アメリカインディアン、北欧、
アフリカ、南米、アジア各地......
自然崇拝やアニミズムを根幹に持つものであれば、
実は世界中のアチコチにあります。



「説く」流れは必然的に教育や学校的なものも生みます。
お寺が寺子屋になったり、
幼稚園になったり、
学校になったり大学になったり。
教会が学校的なものに成ったり、
時に国家にまで成長したり。
本や説法、教材の編纂などをしていくのは
「説く」のであれば当然の流れ。
「教典」が出来るのも必然の流れ。
キリスト教、ユダヤ教にはソレゾレに「聖書=バイブル」が。
イスラム教には「コーラン」が。
仏教には様々な「お経」や「教典」が。
そして、大自然に対し「向かい合っている」ので、
自然を自らに利する様に作り替えていく、
突破していくという方向での

「科学」や「技術」を生み出しやすくもなり。
そんなフィールドをリードしていくのもとても必然的な流れ。



一方で、「現す」という流れでは、
そんなものがあまり発生しません。
ただ「大自然の摂理」や「森羅万象」を「現す」ということに
主眼がおかれるので、
生み出される教義や奥義的なものは
自然と摂理との「調和」の方向になり。
そんなものを「立ち居ふるまい」や「所作」、
それらを集め組み合わせた「祀り」や「祭り」「祭祀」
」「建築」などで「現す」......
という方向に成っていきます。
なので神道などにおける「祭祀」や「祈祷」、
「巫女舞」等で見られる、
人々の動きや所作の中には宇宙の摂理が含まれている......
「現われている」......とも言えます。
代々の神官が唱え続けて来た「祝詞=のりと」等も、
仏法的な「説く」という為のものとは違い、
ソレは「ただ現すもの」であり、
「ただ祓う=はらう=禊ぐ=みそぐ」ためのもの。
そして、故に、
神道において人々に求められるのは常にこういうコトになります......



「あなたはそれを見出せますか......」



そりゃ分からなスギるでしょ!ヾ( ̄o ̄;)コラッ!



そしてそんな「現す」系派閥の中で「神」と成るものは、
宇宙の摂理を含んだり、
現しているようなものであればなんでも.......で。
人も崇拝すれば、火や水や風や雷も。
時に大きな岩や崖、滝から海、山ソノモノ、
土地そのものに至るまで、それぞれ。
神々は自然と「八百万=やおよろず」となり、
ソレゾレの神社でそれぞれの神が崇拝されます。
異文化の神であろうとも

「宇宙の摂理を表現しているものなのだ!」

......などと思えれば、
クリスマスだってバレンタインだって崇拝しちゃいます。

見えない宇宙の「理=ことわり」を神とすると、
当然その姿形は造りづらく、
偶像はナカナカ作られず、崇拝もされません。
ただひたすらに世界の理を「現す」ものだけが神と成っていきます。
あえて、もし神道に「説く」派閥系によく見られるような、
そんな「偶像」に当たるものがあるとすれば......

この時に記した———「鏡」———ということに成るのでしょうか。

なので「現す」系の体をとりつつも、
「説く」的な教義や教典を持っていたり、
学校や団体、施設などを持っているようなものは、
最早「現すのみ」という世界からは逸脱しているもの......
とも言えるのかもしれません。



面白いのはもう一つ、
この両者の「間に存在」するものがあるように思えることです。



それは「禅=ZEN」



仏教から様々な「説き」を取り払っていって余計なものを無くし、
シンプルに磨き上げていこうとする教え。
元来「教え」であるから「説く」でもあって、しかし
「説かないところに向かうのを主旨としている」
のでそうとも言い切れず。
自らの内に二つの相反する矛盾を抱え込んだ宗派!?
とも言えます。



「禅」とはその辺がとても面白いものです。



「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」......
ふりゅうもんじ、きょうげべつでん、
じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ......
「作務=さむ」こそ全て......etc...
どれも世界に「ただ現れている」法則を
「説こう」としている姿が窺(うかが)えます。
そして、そんな森羅万象を「説こう」とする所から入った禅の出口は、
それらを
「如何に表現するか?」
に進んでいきます。
「枯山水の庭園」「円窓」「寺建築や様式」「書」......
それらに繋がってゆく「所作」やその美学......「道」。
理屈的にも「説く」と「現す」の間にあるので
ドチラからもアプローチしやすい。
「説く」文化圏に住む西欧の方々にも、実は!
「現す」より距離が近いので理解しやすい。
そして「禅」と同様に「道教=タオ=TAO」思想も
僕の中ではこの場所に位置づけられます。



さらに、そんな「禅」や「タオ」などと同じく、
この「間の位置」に立っているものがあって。
それが「陰陽道」や「風水」「易教」「占星術」などの「占術」。
前出の禅やタオと全く同じく
「説く」と「現す」の間の位置に立つものなのでどちらからも距離が近い。
そんな同じ理由でもって洋の東西問わず多くの一般の人も入り込みやすい。
そしてこれら「占術」は本来、
入口は「森羅万象の理=しんらばんしょうのことわり」を
「表現する」ものであったのが、
「自然に対して強い力を及ぼしたい」
「自然の力を我に利して用いたい」
という人に寄っていく「説く」的な目的を徐々に含んでいく事と成り。
そのアウトプットが「占=せん」という形に成っています。
それが「術=じゅつ」であり、占術。



占術とは「世界の現れ」を読み解く所から入り、
「説く」という出口に向かうもの。



面白いのは、「説く」から入り、
アウトプットが「表現」に寄っていく「禅」や
「タオ=道教」などと比べて「ベクトルが逆」という、
対面通行の道路的感覚でもって僕の中では理解され、
仕舞われています。



————————この話し、
こんなブログでは10回以上費やさないと
書ききれないコトのようにも思うので、またの機を伺いつつ......
つーか、モトは深川の話しだったし......
この辺りで一旦切り上げまふ......( ̄ー ̄;)ゞアセアセ......
キガツクトナガスギ......
コーヒー飲みいってこよーっと♪



「神道のこころ」1997年の10月に発売された本。
タイトル通り、
僕に神道の「心」をとても分かりやすく最初に説いてくれた本。
ワケも分からず、ただ

「両親がそうしていたから、、」

と、仏壇と神棚を祀っていた実家の父親にもプレゼントしました。
著者の葉室頼昭(はむろよりあき)さんというのは、
今は亡き僕の敬愛する方の一人で、
世界的権威のお医者さんでもあり大病院の理事長さんでもあった方。
医師キャリア40年を経た時に突然!
医療の道全てを後進に譲り、
自らはマッタク違う世界へと、
一から勉強を始め「神主」の道に進む!という人生を送った方。
世界文化遺産でもある奈良の「春日大社=かすがたいしゃ」の宮司を務め、
最高階位も取得していた方。

何故?

そんな道を歩んだのか。

医術とはなんなのか。

西洋医術とは、東洋医術とは、神とは、なんなのか。

生きるとはなんなのか。

そんなことが、
自らの人生から紡ぎ出された独自のリアルな言葉でもって、
分かりやすく綴られています。
素晴らしく素敵な本。
1997年当時の頼昭さん曰く......



「—————いま言ったように人間は進化の過程にあって、
生き残るということは順応することです。
待つこと、感謝することが大事です。
生かされていることに気づくことです。
自然の本当の姿を人間は知らなければいけません。

—————これまで、
人間は自分の利益になることばかり考えてここまで来ました。

—————科学が正しかったら、
いまみんな幸せになっているはずなのに、
現実はだんだんと生活しにくい世の中になって来ているでしょう。
これはみんな本当のことを忘れてしまったからですね。
いっぺん理屈を捨てて、真実の感謝の心でもって、本当の世界、
理屈を超えた世界を感じることが必要です。
自然の本来にたち戻りなさいと。
そうしたらこの世の中は良くなりますよ、ということなんです。
人間社会が、世の中がしあわせになるとか、
そういうことだけの問題ではなくて、
人間の心が変われば、
自然も宇宙もすべて変るということでもあるんです」


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