そよ風が心地よい月夜に、一人、
家の近くにある公園のベンチに座り込みました。
多摩川の土手沿いに広がる、大きな公園。
様々なメディアや人々から届いてくる話が、結構、
心曇るようなものが多くなりすぎていて......
少しばかり心身のリセットでも、と。
夜空に浮かぶ月は満月より少し欠けていて。
振り降りてくる光は柔らかく、細やか。
僕は月に向かって背筋を伸ばし、
静かに目を閉じました。
月の光に沿って、そっと、
意識を広い世界へと広げてみます。
「もう、うんざりだ......」
そう、聞こえます。
将来不安。
職業と雇用の不安。
企業の倒産。リストラ。
何をやってもうまくいかない。
上昇カーブを描けない。
閉塞感。疲労。徒労。
中途半端なニュース番組。
セレブ礼賛番組に大食い番組。
イジメ。自殺。
人種差別。
広がるデモの波。
香港の不満。
中国、韓国、ブラジル、インド、ロシア......
WHOへの疑念。
この国の政治の膿。
官僚システムのゴミ。
トンネル会社と権力と癒着する大企業。人間。
「もう、うんざりだ」
続いて、パラパラといくつかの言葉が浮かんできます。
いつか、何かの本で?
見たことが、読んだことが、あるような......
—————————人間とは弱いもの。
最初に、それを自覚するのだ。
弱いから強くなりたい、賢くなりたい、と努力する。
それが人生でもある。
知力とは何か。
己を知る。
それに尽きる。
自分がどんな人間か。
分からずに右往左往。
迷いの状態。
自分がどういう性格で、人格で、何ができるのか?
学校に行くのも、習い事をするのも、
仕事をするのも、遊ぶのも、SNSを使うのも、
全て自分を探しているということ。
何をしたらいいのか?
どう生きたら良いのか?
そう考えることこそ、
人として正常な状態。反応。
決して異常なことではない。
そもそも、
古(いにしえ)の人々はこのことを最初から熟知していたのだ。
「人とは迷うもの」
ということをだ。
安心しなさい。
それこそが捉えるべき真の人の姿。
確定した自我など最初からどこにもないのだ。
我は、我である、という意識は、
その人が生まれてから今に至るまで歩んできた道の記憶の総体であり、
その総体の記憶によって後から組み立てられた虚偽なるもの。
架空の話。
バーチャル・リアリティ。
自我意識とは、人間を人間たらしめんとする、
個性を持たせんとする、
脳に組み込まれたプログラム。
プログラムである以上、
ある程度時間が経過すると書き換えが起こる。
考えてみなさい。
百年、千年後に生きている人間の自我を。
また、全く違う自我で動いているかもしれない。
試しに、
「本当の自分とは?」
と、考え続けてみるといい。
本当の自分である意識を、また客観視する意識が出て来る。
それは次々と現れ、無限に終わらなくなる。
よく、徳がありそうな?無いような?モノモノが口にする
「エゴを捨てなさい......」
などということは、実のところ、このことを言う。
つまり、自我について考えだすと、
際限のない思考のループに入り、狂いだす。
エゴを捨てるとは、これを防ぐためのことなのだ。
自分を知るとは弱点も知ること。
そして、その自分というものは、
実はあやふやなプログラムであるということを知る。
「あるがまま」
などという言葉にしても、
その真の意味を理解し、表現している者は少ない。
「力を抜き、何も考えず、
縛りなくフワフワしているのがあるがまま......」
などと誤解しているものも多い。
それではただの白痴。盲目。
あるがままとは、
湧き出でる自我の主張に耳を貸さず、
極力錯覚を避ける状態。
そのことを言う。
自我というものは確かにある。
しかし、それに深入りはするな、という事。
錯覚による錯覚を重ねて自我が出来てしまうと、
今度は意識に柔軟さが無くなる。
意識が柔軟であるということの意味は、
この「錯覚による凝り固まり」が無い状態のことを言う。
例えば、
家庭も教育も順風満帆な人間がいたとしよう。
有名企業に入社。将来も安泰。
しかし、ある日、その企業の業績が悪化して、
あっさりとリストラの憂き目に合う。
積み重ねてきた学歴や経歴、
プライドが音を立てて崩れ去る瞬間。
その時、その人は人生の闇を自覚する。
どうだ?
高度な教育や教養を得る事が悪いという話ではない。
その、後付けで得た経歴やプライドを凝り固めて
「自分である」と錯覚していると、
挫折した時の衝撃が大きすぎてしまうのだ。
それで意識が砕けてしまう。
ショックが大きすぎて再起不能になる。
「人とは迷うもの」
忘れるでない。
挫折の経験は打たれ強い自己を作る。
その意味で、
そんな出来事も意識の柔軟さを得るには役に立つ。
挫折や敗北の経験は悪い事では無い。
そして、強い意識とは、
意識が柔らかい事をいうのだ————————————
「もう、うんざりなんだ......
こんな世界を変えたいんだ......」
このところ、
そよ風の吹く月夜には、
世界を飛び交うそんな言葉が、
よく聞こえて来ます。
「強く儚い者たち」Coccoさん。
もはや名曲か。好き好き。(^^)
YouTubeにはショートバージョンがありました。
♪何も失わずに 同じでいられると思う?
人は弱いものよ とても弱いものよ
人は強いものよ とても強いものよ
人は強いものよ そして儚いもの♪
家の近くにある公園のベンチに座り込みました。
多摩川の土手沿いに広がる、大きな公園。
様々なメディアや人々から届いてくる話が、結構、
心曇るようなものが多くなりすぎていて......
少しばかり心身のリセットでも、と。
夜空に浮かぶ月は満月より少し欠けていて。
振り降りてくる光は柔らかく、細やか。
僕は月に向かって背筋を伸ばし、
静かに目を閉じました。
月の光に沿って、そっと、
意識を広い世界へと広げてみます。
「もう、うんざりだ......」
そう、聞こえます。
将来不安。
職業と雇用の不安。
企業の倒産。リストラ。
何をやってもうまくいかない。
上昇カーブを描けない。
閉塞感。疲労。徒労。
中途半端なニュース番組。
セレブ礼賛番組に大食い番組。
イジメ。自殺。
人種差別。
広がるデモの波。
香港の不満。
中国、韓国、ブラジル、インド、ロシア......
WHOへの疑念。
この国の政治の膿。
官僚システムのゴミ。
トンネル会社と権力と癒着する大企業。人間。
「もう、うんざりだ」
続いて、パラパラといくつかの言葉が浮かんできます。
いつか、何かの本で?
見たことが、読んだことが、あるような......
—————————人間とは弱いもの。
最初に、それを自覚するのだ。
弱いから強くなりたい、賢くなりたい、と努力する。
それが人生でもある。
知力とは何か。
己を知る。
それに尽きる。
自分がどんな人間か。
分からずに右往左往。
迷いの状態。
自分がどういう性格で、人格で、何ができるのか?
学校に行くのも、習い事をするのも、
仕事をするのも、遊ぶのも、SNSを使うのも、
全て自分を探しているということ。
何をしたらいいのか?
どう生きたら良いのか?
そう考えることこそ、
人として正常な状態。反応。
決して異常なことではない。
そもそも、
古(いにしえ)の人々はこのことを最初から熟知していたのだ。
「人とは迷うもの」
ということをだ。
安心しなさい。
それこそが捉えるべき真の人の姿。
確定した自我など最初からどこにもないのだ。
我は、我である、という意識は、
その人が生まれてから今に至るまで歩んできた道の記憶の総体であり、
その総体の記憶によって後から組み立てられた虚偽なるもの。
架空の話。
バーチャル・リアリティ。
自我意識とは、人間を人間たらしめんとする、
個性を持たせんとする、
脳に組み込まれたプログラム。
プログラムである以上、
ある程度時間が経過すると書き換えが起こる。
考えてみなさい。
百年、千年後に生きている人間の自我を。
また、全く違う自我で動いているかもしれない。
試しに、
「本当の自分とは?」
と、考え続けてみるといい。
本当の自分である意識を、また客観視する意識が出て来る。
それは次々と現れ、無限に終わらなくなる。
よく、徳がありそうな?無いような?モノモノが口にする
「エゴを捨てなさい......」
などということは、実のところ、このことを言う。
つまり、自我について考えだすと、
際限のない思考のループに入り、狂いだす。
エゴを捨てるとは、これを防ぐためのことなのだ。
自分を知るとは弱点も知ること。
そして、その自分というものは、
実はあやふやなプログラムであるということを知る。
「あるがまま」
などという言葉にしても、
その真の意味を理解し、表現している者は少ない。
「力を抜き、何も考えず、
縛りなくフワフワしているのがあるがまま......」
などと誤解しているものも多い。
それではただの白痴。盲目。
あるがままとは、
湧き出でる自我の主張に耳を貸さず、
極力錯覚を避ける状態。
そのことを言う。
自我というものは確かにある。
しかし、それに深入りはするな、という事。
錯覚による錯覚を重ねて自我が出来てしまうと、
今度は意識に柔軟さが無くなる。
意識が柔軟であるということの意味は、
この「錯覚による凝り固まり」が無い状態のことを言う。
例えば、
家庭も教育も順風満帆な人間がいたとしよう。
有名企業に入社。将来も安泰。
しかし、ある日、その企業の業績が悪化して、
あっさりとリストラの憂き目に合う。
積み重ねてきた学歴や経歴、
プライドが音を立てて崩れ去る瞬間。
その時、その人は人生の闇を自覚する。
どうだ?
高度な教育や教養を得る事が悪いという話ではない。
その、後付けで得た経歴やプライドを凝り固めて
「自分である」と錯覚していると、
挫折した時の衝撃が大きすぎてしまうのだ。
それで意識が砕けてしまう。
ショックが大きすぎて再起不能になる。
「人とは迷うもの」
忘れるでない。
挫折の経験は打たれ強い自己を作る。
その意味で、
そんな出来事も意識の柔軟さを得るには役に立つ。
挫折や敗北の経験は悪い事では無い。
そして、強い意識とは、
意識が柔らかい事をいうのだ————————————
「もう、うんざりなんだ......
こんな世界を変えたいんだ......」
このところ、
そよ風の吹く月夜には、
世界を飛び交うそんな言葉が、
よく聞こえて来ます。
「強く儚い者たち」Coccoさん。
もはや名曲か。好き好き。(^^)
YouTubeにはショートバージョンがありました。
♪何も失わずに 同じでいられると思う?
人は弱いものよ とても弱いものよ
人は強いものよ とても強いものよ
人は強いものよ そして儚いもの♪