アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

関東大震災 2

2011-04-05 09:38:53 | 思い
 これら朝鮮人のテロ行動は数多くの市民によって目撃されている。新聞記事や警察の調書などの形で記されたそれら記録は緊迫した当時の状況をありありと伝えている。また震災当日在京していた芥川龍之介や幸田文、井伏鱒二ら文学者によっても作品の形で残されている。新聞記事の一例を挙げれば次のとおり。
 
「火に見舞われなかった唯一の地として残された牛込の二日夜は不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒するために青年団、在郷軍人団及び学生の有志連は警察官軍隊と協力して徹宵し横丁毎に縄を張って番人を付し通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気が漲り、小中学生等も棍棒を携えて家の周囲を警戒し、宛然在留居留地における義勇兵出動の感を呈した。(中略)牛込佐土原町では二カ所において鮮人放火の現場を土佐協会の大学生数名が発見、直ちにもみ消した。また三日朝二人連れの鮮人が井水に猫いらずを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した」
(「東京日日新聞」大正十二年九月四日付)

「(前略)しかも鮮人の仕業であることが早くも悟られた。そして仕事師連中とか在郷軍人団とか青年団とかいう側において不逞鮮人の物色捜査に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕えた。恐らく首魁者の一人であろうというので厳重に詰問した挙句遂に彼は次の如く白状した。
『われわれは今年の或時期に大官連が集合するからこれを狙って爆弾を投下し、次いで全市至る所で爆弾を投下し炸裂せしめ全部全滅おう殺を謀らみ、また一方二百十日の厄日には必ずや暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし機の到来を待ち構えていた。(略)』
 風向きとは反対の方面に火の手が上がったり意外の所から燃え出したりパチパチ異様の音がしたりしたのは正に彼ら鮮人が爆弾を投下したためであった事が判然したので恨みは骨髄に徹し評議忽ち一決してこの鮮人の首は直に一刀の下に刎ね飛ばされた」
(「河北新報」大正十二年九月六日付)

「(前略)南千住一帯を巣窟とせる鮮人団が三河島附近の煙火製造場を夜襲して火薬類を強奪し、婦女を凌辱し、食糧軍資金を略奪するというので、在郷軍人、青年団が決死隊を組織し警戒中であると聞き、私どもは非常に恐怖し、妊婦を連れて同夜は田圃の中に露宿して難を免れたが、仙台から青森に非難すべく日暮里に引返す途中二人の鮮人は撲殺され、一人の鮮人は電線に縛られ半死半生の体であった。また附近の墓場には扮装卑しからぬ年増婦人が鼻梁をそがれ出血甚しく、局部にも重傷を負い昏倒していたが、七八人の鮮人に輪姦されたという事で地方の青年団は極度に憤慨し、鮮人と見れば撲殺し、追撃が猛烈であった。鉄道線路は軍隊で警戒し、その通路を安全地帯とし仮小屋を建て、避難しているものが無数で、何れも鮮人の襲撃を恐れたためである」
(山瀬甚治郎談「河北新報」大正十二年九月六日付)

「私が田端で不逞鮮人の巨魁らしき壮漢が軍隊に取押えられて自白しているのを聞くと、彼らは二百十日を期して蜂起するの計画を樹て八月二十八日に銀行や郵便局の預金を悉く引出し準備した。若し二百十日が静穏であったならば、今秋の御盛典を期して行う事に決していたが、あたかも震災に乗じて活動したものであると自白したが直に銃殺された」
(鉄道機関手・平田鉄談「北海タイムス」大正十二年九月八日付)

 「強姦し鼻を削ぐ」などという行為は、仮にどんな異常な状況に陥ろうともなべて日本人のできることではない。日本にはそのような文化がなく、歴史を紐解いても捕虜にそうした行為を加えたり、監獄内でそのような刑罰を科したなどという記録はない。しかし中国や朝鮮では違うのである。彼らの歴史にはそのような行為が頻出する。だから「南京虐殺」という創作を見てもわかるとおり、彼らは、先の大戦での「日本兵の蛮行」を捏造するのに、往々にしてこのような「彼らには当たり前だが日本人にはありえない」行為を盛り込んでしまうのだ。目をえぐり鼻や耳を削ぐ、首を紐で通して持ち歩く、生皮を剥ぐ、人肉を喰らう、八つ裂きにするなどだが、かえってこのことによってそれらが捏造であるということが証明される。
 しかしここでは、これら暴虐が現実のものとなった。加害者は当然ながら朝鮮人である。混乱し情報が遮断された中での朝鮮人による強奪・強姦に被災者たちは怯えた。各地域で急遽消防団や青年団、在郷軍人などを中心とした「自警団」が組織され、自衛のために夜回りや巡回が行われ、町の入口に関所が設けられた。抵抗したり攻撃を加えてくる朝鮮人は自衛のために殺すが、反面、おとなしく従う者はそれなりに遇したという所も多かった。なにしろ実際に朝鮮人による集団テロを多くの者が見ているのだから、住民がパニックに陥り多少過剰な防衛をしたとしても無理からぬところがある。
 またこの時、朝鮮人活動家と協調して国内の社会主義者たちも行動を起こしたらしいふしがある。社会主義者の平沢計七らは震災当時、南葛労働本部で火災を見ながら、「いよいよ俺たちの時代が来た」と言って革命歌を歌い騒ぎを起こすが、その後軍によって刺殺されている。また甘粕事件ではアナーキスト・大杉栄とその内縁の妻・伊藤野枝とその子どもとが憲兵隊に殺されている。この背景について内田良平などは、「ロシアが日本の赤化運動のために、日本の社会主義者と朝鮮人を煽動しているのだ」とはっきりと述べている。
 捕まえたものが朝鮮人かどうかを確かめるのに、実際に言葉を喋らせて訛りを見ることが行われたので、中には中国人や、東北など地方出身者が間違って殺されることもあった。また一方で、テロに加担しない一般の朝鮮人を保護しようと尽力した警官の話なども伝えられている。横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人ら300人を守るために、およそ1000人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返したという。
 翌2日夜には勅令により戒厳令が施行される。戒厳司令部は各地から総数5万の兵を動員し、警視庁と合同で朝鮮人襲来の警戒を各地に発した。こうして政府・軍・警察・自警団が協調して朝鮮人によるテロ鎮圧と自衛のための態勢が構築されていく。
 しかしそうした趨勢に変化が見られたのは4日目である。それまで連日朝鮮人の犯罪を報道し続けていた新聞も、その頃をターニングポイントとして記事の傾向が変化する。9月5日付東京日日には次のような記事が載っている。
「善良な鮮人を愛せよ。
善良なる朝鮮人を敵視してはなりませぬ
警察力も兵力も充分ですからこれに信頼して安心してください
各自に武器等を執て防衛する必要はありません
勝手に武器を携帯することは戒厳司令官の命令に依り堅く禁ぜられてをりますからやめて下さい」

 つまり既に軍と警察が治安を預かる態勢ができたから、朝鮮人のテロに対して民衆はなにも(特に過剰に)対処しなくていいということである。以降このような趣旨の報道や通達が相次ぎ、それまでとは急転直下に対朝鮮人感情をなだめる方向に向かうのだが、これにはもちろん発信源がある。震災翌日の9月2日に組閣された山本権兵衛内閣の内務大臣・後藤新平である。
 彼は先の三・一独立運動等の反省から、それまで韓国統監府が武断統治をしてきたことに対して、今度は宥和・懐柔策によって朝鮮人による反日活動を沈静化させる策に出たのである。彼はまず新聞報道への介入を行った。当時の政府介入は強制以外のなにものでもない。その結果今までとは掌を返したように各社は、「善良なる朝鮮人」「朝鮮人による美談」記事を唐突に掲載し始めたのである。
 この時後藤新平は、当時警視庁官房主事だった正力松太郎に、「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのままは引き下がらないだろう。必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあったら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね」と語ったという。当初暴動鎮圧に躍起となっていた正力だったが、後藤の心中に触れて感激し、以後一転して風評の打消し役に徹するようになった。
 後藤は朝鮮人活動家によるテロと凶悪犯罪は戒厳令下の軍事力で防ぎつつも、自警団の武装を解除して民心の安定を図らない限りは、この内戦状態は更にエスカレートして、終いには摂政宮(皇太子であり後の昭和天皇・裕仁)にまで危害が及びかねないだろうことを恐れたのである(事実捕まえた活動家の口から、テロ目標の一つが御大典における皇太子暗殺だという情報を得ていた)。また震災の混乱により皇室の警護も平時並みに万全とは言えない苦しい状況にあった。だからここは強引にでも自警団に引いてもらう、そう決意したのである。
 それまでテロ活動家の取締り一辺倒だった治安当局は、その後はそれに加えて、朝鮮人に対する自警団の過剰防衛についても厳しく取締り始める。後に過剰防衛容疑で起訴された日本人は367人。罪なく殺されたとされる朝鮮人の数、233人よりも多い。
 事実は事実として承知しながらも、ただ事態を鎮静化するために「朝鮮人のすべてが悪い者ではない」「善い朝鮮人もたくさんいる」ことをクローズアップしつつ、特に朝鮮人による不穏な動きを国民に知られないよう封殺して、これ以上の悪化を防ごうとした。政府のこの対策が後に独り歩きして、「流言飛語による朝鮮人の虐殺」に歪曲されることになる。
 実際にあった暴虐を糊塗するという後藤新平の方針を、しかし当然ながら好ましいことではないと主張する者もあった。国家主義的政治結社・黒龍会を主幹する内田良平である。彼は次のように述べている。
「今回の震災に乗じ社会主義者及び一部不逞鮮人が爆弾を投じ或は放火を縦にし或は毒殺、掠奪其他あらゆる非道なる凶行を逞しうしたるは天下万民の斉しく認むる所にして一点の疑いの余地を存せざるなり。(中略)
 然るに政府当局は爾来頻りに此凶行に対し、極力其事実を否認しつつあるは吾人其意を解するに苦しむ所なりと雖も、其結果は却って一面には列国をして日本国民の品性を誤解せしめ多面には日鮮両民族をして永く拭うべからざる暗影を印せしむる至るべきは、吾人の痛歎禁ずる能はずとする所なり」

 実際関東大震災の惨状は、当時首都近辺にいた外国人たちに見聞され多数記録されている。その一つ、横浜で被災した二人のアメリカ人旅行者の行動を記録した「エンプレス・オブ・オーストラリア号」船客の日記を以下に少しだけ引用する。
(前略)歩き始めてすぐに二人はライフルで武装した自警団に出会った。彼らは二人が朝鮮人と間違われないように、この辺すべての人たちがしているように右腕に白か緑の腕章を捲くように強く勧めた。(中略)
 三日、月曜日の夜十時二十分頃に、ホテルの管理部からすべての部屋の灯りを消すようにと軍部からの報せがあったと言ってきた。
 朝鮮人と赤が十分以内に襲撃してくるからとのことだった。
 それからホテルで野営をしていたさまざまな部隊はマシンガンを補給された。(後略)

 また在東京イギリス大使館は、同年12月24日付で以下のような報告書を本国に送っている。
 「(日本政府)当局はすぐに法律と秩序を保つために行動に出ました。戒厳令が布かれ、軍部の適切な行動により深刻な暴動や掠奪はありませんでした。しかしながら市内では、建物に放火をしたということで、僅かな数の朝鮮人が人々に殺されたように見受けられます。朝鮮人労働者です。朝鮮人の中には一定の不平分子たちがいて、彼らが放火の罪を犯した可能性があります」

 このようにさまざまな資料は、震災当時朝鮮人によって組織的な暴虐行動がなされたこと、それは事前に周到な準備をもって計画されたものだったらしいことを裏づけている。テロ集団にとっては、ただ実行の日時が二百十日なのか御大典なのか、または震災当日なのかの違いしかない。ただ当時の政府の方針が途中から「事実の部分的隠蔽による事態の収束」に変わったために、事の真相はそれ以上幅広く伝えられず、情報統制によってやがてはうやむやのうちに葬り去られてしまった。
 このような事情につけ込んで、後日に左翼寄りの文人・知識人たちが「多くの朝鮮人が流言飛語によって殺された」と唱えたのである。しかし当然ながらその説は根拠に乏しく信憑性がない。当時の社会主義者たちは自国を攻撃すること、混乱を内乱にまで高めて、ゆくゆくは共産主義革命を達成することを等しく目標にしていた。だからつけ入る隙があればどのようなことにでも押し入って、殊更政府の非道性・不当性を喧伝することに努力を惜しまなかった。
 それらの流説は大戦後真っ赤に染まった日本の言論界・教育界に取り上げられ、残念ながら今日まで社会の表に居座り続けている。しかし改めて検証してみると、それらの主張が誤ったものであることは誰しも容易に理解できる。例えば「朝鮮人虐殺の証拠」とされる写真はどれも、よく見るとまったく別の光景にも見えるものばかりだ。写真に口がないことを幸いに、別のものを持ってきてさももっともらしい注釈を加えるのは、特に中国・朝鮮人の得意とする手法である。南京虐殺記念館や韓国独立記念館には、この手の写真が多数掲示されている。
 もう一つ、「虐殺された朝鮮人の数」についても同じことが言えるので、最後にこれについて少しだけ触れておこう。

 震災の際にどれだけの朝鮮人が虐殺されたかについては、よく知られているものでは「上海の亡命朝鮮政府発行の機関誌『独立新聞』」によるものと、「在日朝鮮人学生による独自調査」によるものとがある。どちらも朝鮮人グループによる推計値である。両者の詳しい積算根拠は省くが、前者は6,419人、後者は2,607人を虐殺された人数として挙げている。
 またそれらに対して、日本政府当局による推定値もある。こちらは233人。前出の二者に比べて非常に少ない。
 さてどれが正しいのか、詳しくは前掲の書「関東大震災」に預けるとして、ここではまず政府公表数値の算出根拠を大まかに辿り、それと他の数値を比較することによって検証したい。
 震災当時、全国に在日した朝鮮人人口は8万617人とされている。うち東京在住者推定約9千人(労働者6千、学生3千)。また東京市近県の在住者約3千人(いずれも内務省警保局統計より)。この数字は、「朝鮮総督官房外事課」の公表する数と近似なので信頼性が高い。また震災前年の年末時点で東京在住者7千28人(「東京府統計書」より)と確定されてるので、これ点からも平仄が合う。
 つまり被災地の朝鮮人人口1万2000人。これから当日圏外に出ていたと思われる者合計2,200人を差し引いた推定9,800人。政府関係文書はこの数字を基礎として朝鮮人の被害者数などを算出している。
 このうち震災後関東近県各施設に保護された朝鮮人数は、9月17日の時点で6,797人いたことがわかっている。政府は自警団から一般の朝鮮人を保護するために、彼らを東京近辺の各施設に収容したのである。食糧と毛布、救急看護態勢を保証してである。一般日本人が着の身着のまま住居を失い、飢えと寒さに身を晒していたことと比べれば格段の計らいと言える。
 また戒厳司令部は、自警団などによる過剰防衛によって、罪のない朝鮮人233人が殺害されたと発表している(この他、朝鮮人と間違われて殺された日本人57名、中国人4名)。これがいわゆる「虐殺された朝鮮人」の実数である。これと同時に既出のとおり、過剰防衛容疑の日本人367人が起訴されている。
 また震災で死んだ朝鮮人の数として、とりわけ彼らの多くが居住していた本所・深川一帯における日本人対人口死亡率15%などから計算して、詳細は省略するが、およそ1,960人の朝鮮人が圧死や焼死などによって死亡または行方不明になったと思われる。
 よって、基礎の数字からこれら3つの数字を差し引いた「810人」が、テロ行為のゆえに自警団らと戦闘の上殺された朝鮮人とみなされるのである。ただしこの殺害は、当然に自警団側の正当防衛なので犯罪ではない。かえってテロ行為自体が重大犯罪なのであり、本来日本の警察なり軍隊が対処しなければならないところを、無秩序状態ゆえに致し方なく自警団が肩代わりしただけである。
 以上わかるとおり、震災時において朝鮮人虐殺は確かにあった。しかしその数字は「233人」であって、どう見てもそれを大きく上回るようなものではない。またこの殺害自体も、元を質せば反日テロ行動を行った悪質な朝鮮人のとばっちりを受けたものであって、気の毒ではあるが日本人住民側に十分情状酌量の余地が認められるものである。
 これに対して、先にも述べたとおり、朝鮮人組織は余りにかけ離れた数字を挙げている。例えば上海の「大韓民国臨時政府」発行の機関誌「独立新聞」によれば虐殺朝鮮人数6,419人。在日朝鮮人学生による「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」によれば2,607人である。
 しかしこれでは、被災して死亡した朝鮮人が「皆無」になってしまう。またそれでも不足する数合わせのために、被災当日一挙に3,000人以上の朝鮮人がどこからともなく東京に現れた必要がある。このことだけ見ても、これらの数字がどちらも非常に空想的であることがわかる。紙幅の都合でこれ以上詳しくは述べないが、彼らの算出根拠を見てもやはり信憑性に著しく乏しいものと言わざるをえない。
 しかしこの完全なる「でっち上げ」の数字を、その後の反日左翼勢は一方的に、機会あるごとに繰り返し取り上げるのだ。例えば当時の有力な民本主義者・吉野作造もこの数字を単純引用しているし、戦後は大江健三郎、松本清張、吉村昭、佐野眞一、松尾尊允なども皆同じ取り上げ方をしている。いかに左翼全盛の時代だったとはいえ、これではあまりに公正さにかける、というか作為がありありと見える単純稚拙な情報操作である。
 これを許したのは、ひとえに戦後のマスコミ・教育界が極左に走り、反日かつ親中朝路線をひた歩んだからに他ならない。日本人というのはバカだから、捏造してもなんでも、叩けば謝ってお金をくれるのだ。このやり方で味をしめた彼らは、今では多額の金をばら撒いてでも日本の知識人・有力者を買収し、更にそれ以上の金を出させようと日夜努力している。従軍慰安婦問題もも竹島も、際限なく続く戦後補償も、そうした彼らの「戦果」である。

 関東大震災からおよそ4週間後に帝都復興院が設置され、総裁に就任した後藤新平より「帝都復興計画」が提案された。大風呂敷と言われた彼の当初案は13億円(国家予算の約1年分)というあまりに巨額の予算を要したために、最終的には議会によって縮小されたが(最終額は5億7500万円)、この計画がほぼ今日の東京の青写真となっている。特にまだ自動車の普及していなかった時代に、幹線道路網についての彼の構想はただただ「先見の明」と呼ぶしかない。
 戦後65年以上経った今日でも、未だ日本人は戦後のGHQ並びに反日左翼勢力によって植え付けられた自虐史観を脱しきれないでいる。「真実はやがては明るみに出る」というどこか性善説的・楽観的な見方が日本人のメンタリティーの底にあるからなのだろうか。歴史の真実は教科書にも学府にも書かれていない。関東大震災にしても、その発生から90年にして、今ようやっとその全貌に灯りを照らすことができたくらいである。


【写真は「朝鮮人虐殺の証拠写真」と言われるものの一つ。。この写真のタイトルは「竹槍を持ち『不逞鮮人襲来』にそなえる自警団」または「朝鮮人狩りに行く人々」なのだが、見てのとおり、これでもって朝鮮人が虐殺された根拠とはならない。かえって朝鮮人による暴行があったことを立証するばかりである】

(おしまい)

 
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