アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

蓄熱テーブル

2024-03-14 09:48:46 | 暮らし
今年はまるで冬がすっぽりと無かったかのような暖かい冬だった。しかしこの山里では例年そうではない。最低気温はマイナス10度を下回るし、台所の流しが凍り、隙間風に震えながら布団を肩に背負って炬燵に入るのがいつもながらの状態だ。わが家は築(推定)85年くらいの、たぶんただの水飲み百姓の家だったと思う。屋根こそトタンに葺き替えてはあるが、冬はとても寒い。
玄関スペースを暖かくしたい。真剣にその課題に取り組んだのは、今から10何年か前のことである。わが家には畳でいえば四畳ほどの広さの土間の玄関があり、そこを猫部屋として使っていた。文字通り子供部屋ならぬ猫のための部屋である。特に冬の間彼らが暖かくして寝れるように火鉢を24時間焚きっぱなしにしている。しかし古い農家はことさら風通しがよく、熱は天井の隙間を通ってすぐに抜けてしまう。起きている間どんなに火を熾そうと、夜中に部屋は冷え切ってしまう。
ある朝、水皿が凍っていて、それが元で当時腎臓を患っていた猫が一匹死んでしまった。そこで先のとおり、玄関を温めるべく本腰を入れることになったのである。猫たちも若いうちは寒さに耐えられるのだが、年をとったり病気になるとこの生活環境では過酷なようだ。

その結果開発したのが「蓄熱テーブル」。構造としては天板の下に石板を敷き詰めていて、下に置いた火鉢の熱がそこに蓄熱する仕組みになっている。出来上がってみれば単純なつくりである。ところがこれが大ヒットだった。炭のもちはよくなり立ち消えることもなく、以来水皿が凍ることはなくなった。おまけに天板の上は床暖房状態である。当初はその上でコーヒーを保温したり本を広げてくつろごうと思っていたのだが、なぜかいつも猫が乗っている。


蓄熱テーブル2号機 天板は開閉できるようになっている。
かなり重いので、脚にはキャスターを履かせている。


私は子どもの頃から手先が器用だった。絵を描いたりものを彫ったりするのが好きだった。だから農村でお金の無い暮らしを始めてからは、欲しいものができるとそれを作るための道具を買った。古い農家には木材や解体材がたくさん貯められている。一昔前までは、それらは立派な資源として世代を越えて活用されていた。ただし現代はそれを使う人がいなくなって、ただ廃棄物として燃やされたりお金を払って処分されたりしている。私の家にもそのような廃材的なものがたくさんあったのだ。だから材料としてはネジや金物を買うだけで、見かけを気にしなければほとんどのものを作ることができた。
時とともに道具も工具も増えていって、今では家具や日用品、建物の修理改築などなんでもできるようになった。かつての屋根の落ちた物置は修理して作業場となり、入り口に「工房猫家」と看板を掛けている。オリジナルの発明品も幾つかあって、この「蓄熱テーブル」もそのひとつ。わが家の猫たちに大受けした製品である。

もともと子どもたちの多くは豊かな創造意欲を持って生まれてくる。型にはまらない発想と行動力を身に備えている。しかし世の親たちは彼らを自由にはさせておかない。狭い部屋や籠の中で動物を飼い慣らすように、日常行動や習慣を制限していく。これをしちゃダメでしょ。あれをしなさい。これをしなさい。ホラぐずぐずしないで。なんど言ったらわかるの(つまり、おまえ
はダメだ!駄目な子なんだと徹底的に畳み込む)。結果子どもたちは檻の中の生活に無理やり適応させられ、なにかをするときはまず親の顔をうかがうようになる。決められた場所、決められた玩具でしか遊ぶことはできない。そうして育った子どもは、なにか欲しいときも「売ってる中から」しか選ぶことができない。すべてのことに「提示された選択肢の中から」でしか考えられない体質になってしまっている。
この親から子への刷り込みの連鎖はけっして自然にそうなったのではなく、多くの人間を隷属化させよう、そこから搾取しようという「支配者層」によって意図的になされたことである。その企ての多くの部分は「学校教育」によって行われた。子どもたちを一堂に集め互いに比べ競わせる。絶対的な指導者の命令を無条件で受け入れさせる。選択肢は与えられたものだけ。許されたものだけ。逆らう子はみなの前で恥をかかせ罰を受けさせて懲らしめる。
この「洗脳計画」は明治維新以降義務教育が導入されることによって始まり、以後170年かけて、かつて誇り高く愛にあふれ独自の文化を培ってきた日本人は、いつの間にか卑小で型にはまった存在へと落とされてしまった。他と異なることを極力避け、すぐに大衆の中に紛れ込もうとする。ヘタに目立てば悪いことが起きる。上の者には逆らえない。マスクをしろと言われればマスクを、ワクチンを打てと言われればワクチンを打たないといけない。自分の頭で考えてはダメだ。たまにそうでない者がいれば、みなで袋叩きにして引きずり落とすように躾けられた。家畜としては、従順で画一的な方が扱いやすいのだ。個性などいらない。これが支配者の行った洗脳による意識操作の一環である。

けれど現代そのことに気づいて、自身にかけられた洗脳を解こうとする人たちが現れてきている。社会全体がそうである場合、そこから抜け出すのは容易いことではない。しかし勇気をもって、子どもたちのために、明日の地球の子らのためにそのことに多くの人々が挑み始めている。ピラミッドの形をしたこの社会から、教育制度から、政治やそれまでの人間関係から離れて新しい地球の上にまったく新しい人類社会を創ろうと、みんなそれぞれに頑張っている。

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