わが家の猫たちは、ラーメンが好きである。実はここ数年、私は朝にラーメンを食べることが多い。もちろんインスタントだ。こう言うと意外と思われる方も多いだろう。長らく自給自足をモットーにしてきたたわが家では、かつては小麦を育ててうどんを作り、ソバを育てて蕎麦を打った。しかし当時ラーメン作りだけはハードルが高かった。かんすいが手に入らなかったのである。今ならネットで購入することもできるのだろうが、あの頃はそういう流通がなかったのか、一通り探しても行き当らなかった。そこでその頃からラーメンだけは、たまに外に食べに行っていた。インスタントラーメンを食べるようになったのは、比較的最近のことだ。
もともとは鶏にやったのが始まりだった。たまたまラーメンを食べていて、足元に寄ってきた鶏に食べるだろうかとやってみたのだった。したところ好評だった。まるで人間がするように鶏は麺をつるつると啜る。そこでこんなに喜ぶならと、時々庭でラーメンを食べるようになった。程なくこの辺りを縄張りにしていたカラスが混ざり、やがては猫たちも加わった。
私がどんぶりを持って外に出ると、みんな待ってましたとばかりに周りに寄って来る。常連であった鶏は数年後にキツネにやられ、カラスは縄張りを他のカラスに奪われて今は来なくなってしまったけれど、猫たちだけは残った。私が家の中でラーメンを作っているのをどういうわけか察して、戸口の前で行儀よく待っていたりもする。そして今日はトンコツだ、しょうゆ味だと旨そうに食べるのである。ついついこちらもラーメンを食べる日が多くなってしまった。もちろん私も、化学調味料の入っていないものをできるだけ選ぶようにしている。
実はこんなことはあまり書きたくない。無添加・自然派の暮らしを標榜している猫家のメンバーがインスタントラーメンを食べていると知れわたってしまい、世の愛猫家たちに真似されたくないからだ。もちろんそれが身体にいいわけではない。特に本来塩分を摂らない動物にとっては塩味の強いものは腎臓の負担になってしまう。だから与えるにしても、量は加減している。いや、いっそのこと、やらない方が絶対にいい。
かつてわが家では、食べものをとても厳しくコントロールしていた。体に悪いもの、つまり農薬や化学物質を含むものはまずもって食べなかった。そのおかげで猫たちはみんな長命でほとんど病気知らずだったし、私自身も早いうちにデトックスを済ませて、以後生まれ変わったように健康体となり、食べものに対する嗜好もがらりと変わった。つまり食べたいと思うものを食べたいだけ食べて、健康を維持できる体質になったのである。
そんな暮らしを十何年か続けたある日、ふと思った。猫たちは、もういつ死んでもおかしくない年齢になっている。天然魚と植物質を欠かさない食生活のおかげでみんな元気だ。これはこれで結構なことなのだが、でももし今死んでしまったら、この地球の上で長く生きたのに、その間人間の嗜んでいる食べものの味を知ることなく死んだことを残念に思わないだろうか。生ハムを食べないで終わってしまった、ベーコンを、鰻を、ビフテキの味を知らないで終わった、とあの世でがっかりしないだろうか。体験として楽しみとして、少しだけ食べさせるのは悪いことではない。そう思って、(私が食べたかったわけではなかったが)たまに気が向いた時に、ほんの少し(指先ほどの量を)食べさせるようにした(別にケチっているわけではない。猫たちの健康を思んばかってのことなのだ)。
同時に私自身に対しても、以前ほど厳しくなくなった。ほんの気まぐれであってもなにか食べてみたいと思ったら、我慢せず食べてみる。全体の食べる量の90%がしっかりしたものであれば、実際あとは多少何を食べても健康に害はない。つまり10%程度の「遊び」の部分を自分自身に許す。そうすることで健康のみならず、食の楽しみを堪能することもできる。
そういうわけで、わが家の猫たちは、一通り世の美食と呼ばれるものは味わい尽くしたし、食に関しては、いつ死んでもわが猫生に一片の悔い無し、と言っている。一方でホームセンターで売られているようなキャットフードは、与えても絶対食べない。添加物たっぷりの畜産加工品は、初めての場合は少しだけ食べて、すぐにそっぽを向く。ホンモノの味を知っているからだ。文字通りグルメを極めている。こんなのが一人家族にいれば、さぞかし世の主婦は大変だろうとは思うが、わが家では家族全員がそうなので、なんら問題とならない。
基本的に飼い主と同じように猫たちもなる。母親と同じように子どもたちがなるのと同じだ。だから家族みんなに健康でいてもらいたければ、まずは自分自身がそうならないと始まらない。世界平和を実現するには、自分の中が平和で愛に満ちていないとならない。言い方を変えれば、自分一人だけで、世界平和は実現できるのだ。実際わが家ではみな世界平和を達成している。
しかしだからといって、あまり性急に自分を正そうとするのも考えものである。長い間かけて培ってきたものは、それなりの時間をかけて修正していかなければならない場合が多い。コツは、我慢しない、無理し過ぎない。状況や問題には、それを支える土台となるものがあるから、それを着実に変えていく。それとほとんどの場合、ホンモノを追求するのにお金はあまりかからない(お金がかかるようなら、それは商業ベースに乗せられているのでは、ということを疑った方がいい)。
なにか大きなことをするときには、とかく効率や早く達成することだけを考えてしまいがちだ(実際私もそうしてきたことが多かった)。それはそれで確かにいいことではあるのだが、他のやり方も存在する。例えば、10%の遊びというのは意外と大きいかもしれない。それがあることによって、全体が楽で楽しいものになるし、結果的に自分独自のユニークなものができあがる。そのように人生を遊んでいるうちに、やがては100%丸ごと楽しいものになる可能性もある。
もともとは鶏にやったのが始まりだった。たまたまラーメンを食べていて、足元に寄ってきた鶏に食べるだろうかとやってみたのだった。したところ好評だった。まるで人間がするように鶏は麺をつるつると啜る。そこでこんなに喜ぶならと、時々庭でラーメンを食べるようになった。程なくこの辺りを縄張りにしていたカラスが混ざり、やがては猫たちも加わった。
私がどんぶりを持って外に出ると、みんな待ってましたとばかりに周りに寄って来る。常連であった鶏は数年後にキツネにやられ、カラスは縄張りを他のカラスに奪われて今は来なくなってしまったけれど、猫たちだけは残った。私が家の中でラーメンを作っているのをどういうわけか察して、戸口の前で行儀よく待っていたりもする。そして今日はトンコツだ、しょうゆ味だと旨そうに食べるのである。ついついこちらもラーメンを食べる日が多くなってしまった。もちろん私も、化学調味料の入っていないものをできるだけ選ぶようにしている。
実はこんなことはあまり書きたくない。無添加・自然派の暮らしを標榜している猫家のメンバーがインスタントラーメンを食べていると知れわたってしまい、世の愛猫家たちに真似されたくないからだ。もちろんそれが身体にいいわけではない。特に本来塩分を摂らない動物にとっては塩味の強いものは腎臓の負担になってしまう。だから与えるにしても、量は加減している。いや、いっそのこと、やらない方が絶対にいい。
かつてわが家では、食べものをとても厳しくコントロールしていた。体に悪いもの、つまり農薬や化学物質を含むものはまずもって食べなかった。そのおかげで猫たちはみんな長命でほとんど病気知らずだったし、私自身も早いうちにデトックスを済ませて、以後生まれ変わったように健康体となり、食べものに対する嗜好もがらりと変わった。つまり食べたいと思うものを食べたいだけ食べて、健康を維持できる体質になったのである。
そんな暮らしを十何年か続けたある日、ふと思った。猫たちは、もういつ死んでもおかしくない年齢になっている。天然魚と植物質を欠かさない食生活のおかげでみんな元気だ。これはこれで結構なことなのだが、でももし今死んでしまったら、この地球の上で長く生きたのに、その間人間の嗜んでいる食べものの味を知ることなく死んだことを残念に思わないだろうか。生ハムを食べないで終わってしまった、ベーコンを、鰻を、ビフテキの味を知らないで終わった、とあの世でがっかりしないだろうか。体験として楽しみとして、少しだけ食べさせるのは悪いことではない。そう思って、(私が食べたかったわけではなかったが)たまに気が向いた時に、ほんの少し(指先ほどの量を)食べさせるようにした(別にケチっているわけではない。猫たちの健康を思んばかってのことなのだ)。
同時に私自身に対しても、以前ほど厳しくなくなった。ほんの気まぐれであってもなにか食べてみたいと思ったら、我慢せず食べてみる。全体の食べる量の90%がしっかりしたものであれば、実際あとは多少何を食べても健康に害はない。つまり10%程度の「遊び」の部分を自分自身に許す。そうすることで健康のみならず、食の楽しみを堪能することもできる。
そういうわけで、わが家の猫たちは、一通り世の美食と呼ばれるものは味わい尽くしたし、食に関しては、いつ死んでもわが猫生に一片の悔い無し、と言っている。一方でホームセンターで売られているようなキャットフードは、与えても絶対食べない。添加物たっぷりの畜産加工品は、初めての場合は少しだけ食べて、すぐにそっぽを向く。ホンモノの味を知っているからだ。文字通りグルメを極めている。こんなのが一人家族にいれば、さぞかし世の主婦は大変だろうとは思うが、わが家では家族全員がそうなので、なんら問題とならない。
基本的に飼い主と同じように猫たちもなる。母親と同じように子どもたちがなるのと同じだ。だから家族みんなに健康でいてもらいたければ、まずは自分自身がそうならないと始まらない。世界平和を実現するには、自分の中が平和で愛に満ちていないとならない。言い方を変えれば、自分一人だけで、世界平和は実現できるのだ。実際わが家ではみな世界平和を達成している。
しかしだからといって、あまり性急に自分を正そうとするのも考えものである。長い間かけて培ってきたものは、それなりの時間をかけて修正していかなければならない場合が多い。コツは、我慢しない、無理し過ぎない。状況や問題には、それを支える土台となるものがあるから、それを着実に変えていく。それとほとんどの場合、ホンモノを追求するのにお金はあまりかからない(お金がかかるようなら、それは商業ベースに乗せられているのでは、ということを疑った方がいい)。
なにか大きなことをするときには、とかく効率や早く達成することだけを考えてしまいがちだ(実際私もそうしてきたことが多かった)。それはそれで確かにいいことではあるのだが、他のやり方も存在する。例えば、10%の遊びというのは意外と大きいかもしれない。それがあることによって、全体が楽で楽しいものになるし、結果的に自分独自のユニークなものができあがる。そのように人生を遊んでいるうちに、やがては100%丸ごと楽しいものになる可能性もある。
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