アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

春のめぐり

2024-04-25 07:29:30 | 
家の裏に、前から生えていた二本の木がある。クリとクワ。あの時この家に越してきた住人たちと同じようにまだ若かったその木々も、今では見上げる大木に育っている。その枝の下に立ち、タオルケットに横になったミーコを腕に抱えて、私は語りかけた。ほら、ミーコ。ここでおまえは遊んだな。ホルスと一緒に。二人でこの木に登ってよく遊んだな。
23年前、私は手のひらに載るほどの二匹の子猫をつれて、この家に来たのだった。

その前に住んでいた町に、廃工場があって、そこで何十匹も猫を飼っている人がいた。田舎の古い家を買うことが決まった私は、そこでその春生まれたばかりの子猫を二匹譲り受けた。黒白の兄とアメリカンショートヘアの血が混じった妹。その子たちを、ホルスとミーコと名付けた。
それは秋の稲刈りの季節だった。放棄田の後ろに取り残されたように立っていたこの家は背後を深い山に囲まれていた。癌を患ったおばあさんがひとり住んでいたが今は町に越していっていない。建物の中も外もゴミだらけの状態だった。母屋の床は腐っていて土台ごと取り換える必要があった。物置と納屋も傾いていたり屋根が落ちていたり。でも私はここに、夢に満ちて来たのだった。そこは生まれて初めて手に入れた私の「家」だった。
裏山からは笹薮が庭の半ばまで押してきていた。笹の刈り跡はとがっていて痛い。子猫たちが足を痛めないようにと、何度も何度も刈った。ノイバラやキイチゴなど棘のある木々は、きれいに燃やして歩きやすくした。
山に抱かれているこの土地では、カモシカが歩き回りアナグマが徘徊し、リスが走りキジの親子が群れをなしている。幼い兄妹にとってはワクワクの新天地だった。天井ではネズミたちが夜な夜な運動会を開いている。怪しい穴をほじくればヤマカガシやモグラが出てくる。草はらを掻き分けると子ウサギやガマガエルが見つかった。ホルスとミーコ、彼らは草を刈り土を耕す私の後をついてきては、その近くで草むらをかき回したり、藪に潜ったりして遊んでいた。
猫の国から やってきた 冒険探検大発見!
緑の風に 桑の葉わらう
ネズミ 駈け出せ ホルスとミーコ
山の奥どこからともなく、ソンブレロをかぶりギターを抱えた三人連れのメキシカンが現れて、ギターをかき鳴らしながら謳う。最後の「ホルスとミーコぉっ!」のハモリに男たちの熱い思いが込められる。そんな妄想に日々浸りながら、私は幸せだった。

猫を飼い始めた当初は、私もまだ医療サービスというものを信用していた。当時の私にはそれを批判するだけの知識も経験も無かったし、当たり前のこととして、医学知識は人々のために多くの先人たちが努力して築いてくれたありがたい財産だと思っていた。しかしいざ病院の指示に従って治療を進めると、たちまち薬漬けになり、病気によってはなかなか治癒せず、かえって苦しみを長引かせた挙句に死なせてしまうことが多いことに気づいた。
折りしも農業と食の分野で、教育機関によって公然と教えられている知識の多くがでたらめである、ということに気づき始めた頃だった。そこで私は獣医学(医学と言ってもいい)も疑い始めた。この病気はなにが原因でどういうメカニズムで発症するのか、病院で処方される薬がどういうものなのか、これをすると一般的にどういう経過を辿るのか、他に有効な手段はないのか、そもそも昔はどうやっていたのか、などとにかく自分で調べ始めた。幸いなことにインターネットの中には豊富な情報が流れていて、時間をかけて吟味すれば必要なものを手に入れれることが多かった。
数々の試行錯誤はあったし、今に至るまで何匹もの家族を苦しませてしまったことは間違いない。けれどホルスは尿路結石を自然治癒させたし、ミーコは獣医さんが匙を投げた腎臓障害となってからも6年間元気に生きた。どちらも西洋医学的な投薬や治療はしなかった。ただ愛する者を救うためにはやるしかないと思って、私は全力を尽くして自分で最善と思える対処策を講じ実行しただけだった。
ただまったく動物病院のお世話にならなかったというわけではない。それどころかそこで私はとても多くの知識を得ることができた。症状の原因を特定するのには、多くの場合血液検査や尿検査などが必要だったし、なにより獣医さんの経験と診断は素人の私の及ぶところではない。ただ、勧められる治療をそのまま受け入れない場合が多かったというだけだ。もらった薬はその成分を調べたうえでほとんど捨ててしまったし、与えるにしても重篤な場合最初のうちだけで、その後の経過を見てできるだけ早く切り上げるようにした。また骨折などに対しては西洋医学的治療ははとても有効だった。なにしろ今に至るまで20匹近くの猫を飼ってきたから、そのうちだいたいの症状は自分で見極めることができるようになり、その予防にどういったことをしたらいいかも次第に見当がつくようになっていった。

ただ今度のミーコの状態は、危機的なものだった。
歯周病が高じた歯槽膿漏(外歯ろうかもしれない)の症状だった。あまり食べない日が続き、左側の頬が膨れたと思ったら、2日でパンパンに腫れあがった。食欲もなく水もほとんど飲まない。昨年末頃から腎臓の状態が一進一退を繰り返していたので臨戦的な態勢でいた最中だった。事前的な対処はしていたが防げなかった。この状態で病院に罹ったら、どうなるかはわかっていた。前に同じ症状の猫がいたのだ。手術を受けさせ苦しませた挙句、悲しい結末を迎えてしまった。それと同じ道をミーコに辿らせたくはなかった。
もとより長く生きさせようとすることが、愛とは限らないことはわかっていた。ミーコはこの歳にして猫らしい走りもジャンプもできず、片手に不具合があり、耳もほとんど聞こえず、動きも著しくスローで、方向転換するのは大型船が回頭するようであり、立った姿勢から屈むのに一分くらいかかった。これで生きていて苦しくないのだろうか、と思わずにいられない。気持ちとしては猫又となって百歳まで生きてもらいたい、とは思ったが、それも健康で動く身体を持っての話だった。
今回の状況を客観的に見れば、回復の見込みは無かった。ミーコは寝たきりで、姿勢を変えることもままならなくなった。私はそばにいて、顔や腕に表れる微かな所作を見て、トイレに立たせたり水を含ませたりした。猫は体調が悪いときは特に、地面に腹ばいになりたがる。私は、心地よい日差しの時は彼女を日向に、熱くなると日陰にと移しながら一日を過ごした。彼女はほとんどの時間を眠り続け、ごくたまに顔をもたげては私の姿を探して首を巡らす。首筋を撫でてやると、すぐにコテンとまた眠った。

彼女が10才頃まで、私は犬と猫たちを連れて毎日散歩に出かけていた。スヌーピーがいた。ミーコの娘コマリンと孫娘マスキーもいた頃だ。私がスヌーピーを連れて歩き出すと、みんなトコトコとついてくるのだ。私は彼女らと一緒に毎日、野を山を、田んぼの畦道をかなり遠くまで歩いた。日に2kmくらいは歩いたと思う。
稲が実った田んぼの中は、彼らにとって広大な地下迷宮だ。脱穀後の稲架の長木の上で爪を研いだりした。一面の菜の花畑も笹薮も、潜伏場所にもってこいだ。山に入れば倒木のジャングルジム。キイチゴ群落の障害物。そして行く先々でマタタビやサルナシといった宝物を見つけては、頬ずりしたり体をごろんばたんと擦りつけたりした。山にはいつも発見があった。いろいろな匂いに満ちていた。いきなり動物に出くわすという驚きもあった。
どこまでもどこまでも、私たちは歩いた。どんなに歩いても人っ子ひとり出会わなかった。昔おじいさんが言っていたのを思い出す。山で道に迷うことなんてない。常に山には誰かがいたし、オーイと呼べば必ずどこかでオーイと答えるもんだったと。でもこの過疎のムラではもう長いこと山に入る人もいなかった。たぶん半径1km圏内でこの山にいるのは、私たちだけだったろう。おかげで私はこの辺りの土地の状況に随分詳しくなってしまった。猫が歩きやすいようにと、いつも鋸や鎌を持ち歩いて邪魔な枝を切り落としながら進んだ。
楽しいお散歩は何年も続き、やがて猫たちの歩くペースが遅くなっていった。もう犬の歩調には合わせられない。私とスヌーピーは何度も立ち止まって待たなければならなくなった。置いてきぼりにして先を進もうとすると、後ろでニャアニャアと盛んに啼いて前に進ませようとしない。スヌーピーが死んでからは、私はピッタリと散歩に行くのをやめてしまい、同時に猫たちも家を出なくなった。そういえばミーコが家から離れるのを、もう十年以上見たことがない。

私はミーコが横たわったタオルケットを両腕に捧げるように抱えて、家を出た。彼女はもう硬直したように同じ姿勢でい続け、腫れで顔の形が歪んで片方の目が開かなかった。そのまま顔が前に向くように体を持って、昔散歩で通った道を歩く。するとミーコは、むくりと頭を持ち上げて、右目をぱっちりと見開いた。そんな元気があるとは思えなかったのに。じっと前を見ている。昔歩いたところを憶えているのだ。
彼女が首を回すことができないので、私が体の向きを360度少しずつ変えながら歩いた。少し歩いては立ち止まり、ゆっくり回った。それが彼女と十数年ぶりにした散歩だった。彼女は首をもたげて見続けた。脳裏にどんな記憶が巡っているのだろう。
帰り道、梅が満開なのを見た。裏庭では寒緋桜が桃色の花を一輪二輪咲かせ始めていた。わが家で一番の早咲きの桜。ミーコに匂いを嗅がせたいと思ったが、手が届かなかった。山ふところにあって気温の低いわが家にも、これから春爛漫の季節がやって来ようとしている。

伏したまま動くことのできない彼女を前にして、涙が滂沱として落ちた。慟哭した。私にできることはなかった。いや、あった。ひとつだけあったと思った。現在の時間軸を越えて、違うタイムラインにシフトすればいいのではないか。無数の平行現実の中には、いまだ元気なミーコ、病に倒れていないミーコがおそらくどこかにいるだろう。もうこれにすべてを賭けようと思った。イメージの中で両腕の中に彼女を抱きかかえて、目を閉じて自分の感情をコントロールした。
彼女とともにここにいることを感謝する。このうえなく幸せな気持ちでいる。ミーコとただいるだけで、私は喜びに包まれている・・・
その時に私は知ってしまったのだった。これは実に私がいつもしていることだった。これと同じことを、歩いている時、座っている時、ミーコのことが脳裏をよぎるすべての瞬間に、日に幾度となくしていたのだ。そうか、わかった。だからミーコは、今まで私とともに元気に生きていてくれたのだ。私は毎日無意識のうちに、私と彼女にとって最高のタイムラインにシフトし続けていたのだった。つまり今この時が、彼女にとって最も長く幸せに生きた平行現実の、ページのほぼ終わりだった。

猫にもガイド(守護霊)がいるのだろうかと思った。よくはわからなかったが、こんな場合だから、たぶんついていてくれるだろう。私は彼女のガイドに向かってお願いした。どうか彼女を、なにより楽にしてやってくれるように。それから彼女の意思を尊重し、助けてやってくれるように。祈るそばから、それらは既になされているのを確信した。先入観を取り払えば、ミーコは苦しんでいるようには見えなかったし、ただじっと、私とここにいることを静かに楽しんでいるかのように見えた。
いつ死んでもおかしくない状態だったが、ミーコは生き続けた。胸郭が上下することで息をしてるのが見て取れた。朝に彼女が生きているのを見て奇跡のように思った。しかし状態は日に日に更に悪くなっていく。このギャップはなんなんだろう。こんなにまでして生きようとするミーコに、奇跡が起こらないはずがないのではないか。しかし今生きている、この状態が既に奇跡とも言えた。

そして夜明け方、ミーコは死んでいた。玄関の戸を開けると、トラは私の前に立って尋常でなく啼いた。このことを教えてくれていたのだ。わかったよ。ありがとう。
私は両手で彼女の顔を包んで、感謝の思いを伝えた。ふと、彼女の魂はまだその辺にいるのではなかろうかと思った。もしかして感じとれるかと感覚を澄ませてみたが、わからなかった。けれどきっと彼女には私が見えているに違いない。

昨日、眠るミーコの顔を手のひらで包みながら、私は言ったのだった。ミーコ、もしよかったら、またオレのところに来てもいいぞ。今度はもっと幸せな暮らしになるから、もしそんな体験をしたかったら、もう一度ここに来い。おまえのしたいようにしていいから。オレはここにいる。

寒緋桜がいつの間にか満開になっていた。
春のこの一番よい季節に、ミーコはこの世を去っていった。愛に包まれて生まれ、愛に包まれて逝く。苦しい頃から楽しい頃までを共に生き、愛させてくれることによって、私を今この状態まで引っ張り上げてくれたミーコ。ありがとうの言葉しかない。幸いなことは、彼女にとっても最高の猫生だったろうと思える、ということだった。




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