先に述べたとおり、多くの人にとって、自己は子どもの頃から、ほとんどエゴに乗っ取られた状態にある。だから「エゴ=自分」と信じて疑わない。なにかにつけエゴの声はとても大きいし、対してハートの声は感じれるかどうかの微かなものだ。ではこのエゴを小さくしてハートの声を復活させるには、どうしたらいいだろうか。
例えば私がしたように「信念体系」というものに正面から取り組んで自己を変えていく方法もある。またバシャールの言うようにハートに従ってワクワクすることを探求しながら、その過程で妨げとなる信念を手放していく方法、あるいはミナミ・A・アシュタールのアシュタールの言うように、現実を創っている「思考」そのものに焦点を当てて思考から変えていく方法、または並木良和さんが言うように、感情(彼はこれを「周波数」と呼んでいる)を捉えて手放しを進める方法、あるいは古来から伝統的に行われてきた瞑想や各種ワークを通して行っていく方法など、それはそれはたくさんある。多くの人はそのうちの幾つかを併用して実践していたりするだろう。
その中でその人にとってどれが適切かは、まったくもってその個性次第であり、一概に言えない。各自に合ったやり方、その時の状態に適したアプローチがあるので、あくまで自分で決めるしかない。まずは決意する。そしてとりあえず目に留まったもの、気になるものをやってみる。これは今まで私たちがまったく経験してこなかった世界のものだから、まずはしてみないと事が始まらない。必ずガイドたち(日本では守護霊などと呼んだりする)が陰ながら助けてくれる。
1. 常に自分の中を観察し続ける
まず、どの手法を選んでも必ずしなければならないのが「内観」(自分の中に注意を向けること)である。エゴもハートの声も、自分の中にある。自分がどのような信念を持っているか、どのような波動のエネルギーを発しているかは、ひたすら自分自身の中を観察し続けることによって見つけることができる。これを何よりも優先して24時間行い続けるのである。これがまず基本となる。
とかく私たちは幼いころから自分の外側に注意を向けるよう躾けられてきた。物事の原因は常に外側にあると。しかしこれは真っ赤なウソである。真実に気づかれないよう、支配者の仕組んだ罠のひとつだ。ハートを通して魂や高次元の存在と繋がられると都合が悪いのだ。対してエゴの部分は、出生後の教育によってどのようにでも操作できるから、これを利用したのが、今日まで私たちが陥っていた洗脳支配である。
常に外に向けられていた意識を内側にシフトさせるのは、慣れるまでは少しエネルギーと持続力がいる。でも自分の意図(思考)が現実を創っていることを当たり前に知っている宇宙の他の存在たちにとっては、この状態が普通なのである。人間にもその状態/モードがもともと備わっている。これは意識の使い方を本来の形に戻す作業と言える。
2. 外すべきエゴの声を認識する
エゴの声は、とにかく大きい。そして多くは意図的に刷り込まれてきたネガティブなもので構成されている。つまり欲や執着、打算や損得、目先の利益や自分だけ良ければという利己心、人からの評価を気にする、事なかれ主義と保身、その場その場のご都合主義、特に理屈と計算に長けている。そして全体を俯瞰すれば数多くの矛盾を含んでいる。
また嘘と隠蔽、欺瞞もエゴの得意技だ。例えば欲や執着に突き動かされてとった行動であっても、本人は本気で「愛のため」と思っていたりする。とかく世の中で一般的に「愛」と呼ばれているもの、映画やドラマ、小説の中で愛と謳われていることのほとんどは、ここで言う「本当の愛」ではない。また宗教や倫理の教科書では、とても歪められた形で愛が語られている。これは支配者たちが、私たちに本当の愛を知られないようにするために仕組んだことだ。本当の愛はなにかを強いたり、相手の自由を奪ったりコントロールしたりするものではない。こういった「騙し」も、エゴの専売特許的なところである。
こうして見ると今まで私たちが従っていたほとんどのことが、エゴの声だ。が、ここですべてのエゴが悪いと言っているのではない。エゴにはエゴの大切な役割があるし、第一すべてのエゴを無くしてしまえば、肝心の三次元世界での体験ができなくなってしまう。問題なのは、「私たちを低い次元(愛の割合の小さい世界)に留めておこうとする信念」だけだ。それだけをピックアップして外していく。具体的には、その声に従ったら苦しむ、著しく疲弊する、消耗する、無理をする、本当はしたくないことをしなければならない、幸せとは真逆の心境になる、というようなもの。そうしてその声の根底にある「信念」を特定して外す。こうしてひとつひとつ「自分を苦しめる信念」を外していく。
これはエゴの声だな、と思ったら、それが自分にどういう「感覚」を呼び起こすかを見定めよう。嫌な感じ、苦しみ、苛立ち、ざわめき、不安、不快感、違和感などが湧いたなら、その陰には外すべきネガティブ信念がある。そしたらそれを外すことを決めよう。それだけでほとんどの信念は簡単に外れる。中にはそうでないものもあるにはあるが、それらもやり続けているうちにやがては外れるから心配ない。
3. 「より愛の大きい方」を選ぶ
特に大切な選択をするときには、必ずと言っていいほどネガティブな信念が絡んでくるので(そのように教育されてしまっている)、はたして「今までと同じような基準で選んでいいか」を自分に問いかけることが必要だ。今までの状態から抜け出るには、時には今までとまったく反対の選択をしなければならなかったりする。この際に大切なのは、なにごとによらず「より愛の大きい方を選ぶ」ことである。
瞬間瞬間の選択の積み重ねが私たちの行き先、タイムラインを決めている。どちらを選んでもたいして違わないことはどうでもいいが、大切な選択、大きな分岐点に差し掛かったら、できるだけ「より愛の大きい方」を選ぼう。なにが「本当の愛」なのかは、そのような場数を踏むうちに自ずとわかってくるものである。毎回愛の大きい方を選択し続けていれば、それだけで自ずと世界は変わっていく。
4. 自分以外の者を変えようとしない
ここでひとつとても大切なポイントを言おう。それは、「自分以外の者を動かそうとしない」ことだ。自分を取り巻くこの世界を創っているのは「自分」である。自分以外の、現れる人間も現象も出来事も、すべて自分の内面を投影して創られている。他の人たちは、自分の発した意図に合わせてその部分を見せているだけなのだ。だからまず自分を変えることで、同時並行的に他の人たち(の表れ方)を変えることができる。その逆は成り立たない。それを逆転して認識していたのが、今まで楽しんできた三次元の遊びだった。
この世界で自分が変えれるものは唯一「自分」だけである。もし他を変えよう(操作しよう)とするエネルギーを発したら、それは回りまわって結局自分に還ってきてしまうだけである。また「支配・コントロール」という重い波動を出し続けている限り、今までの低い波動領域から抜け出ることはできない。
意識の次元上昇はひとりひとりがそれぞれの意思で決めるものであり、第三者が干渉できることではない。私たちが家族や友人、周りの人たちのためにできることは、実際のところ情報提供くらいしかない。それとできるだけ早く自分の波動を上昇させて、その高いエネルギーの影響を周りの者に及ぼせるようにすること。結局はすべて自分次第なのだ。
例えば、パートナー同士がそれぞれ違う世界に向かうという選択をした場合、一方がもう一方に対して、どうして一緒に来てくれないのか、子どもを愛していないのか、あなたには愛が無いのか、というエネルギー(例え口には出さなくても)をぶつけ続ければ、これはある意味相手に対する拷問である。ぶつけられた方はもちろん、ぶつけた方も著しく波動を下げる。つまりこの場合双方、次元上昇できない。
個々の魂にはそれぞれ独自の進化の計画がある。今回次元上昇するのが良いわけでも、正しい選択でもない。なにが正解かはそれぞれの魂が予め決めている。それを侵害するのは、支配者層と同じネガティブ性の強い者の行いである。もし選んだ道が違うのならば、ただ今迄のことに感謝して相手の意思を尊重し離れること。それ以外にないし、それが五次元での生き方になる。
5. 千里の道も一歩一歩の積み重ね
三次元と五次元の世界の差は、本質的に言えば「愛の割合の違い」と言うことができる。しかしこの違いの、人間の考え方や行動という面への現れ方の違いはとても大きい。私たちが今まで当然のこと、当たり前のことと固く信じてきたことがまったく反対になることが多い。例えば、これはオレのモノ、あれは誰の所有地、といった具合の「所有の観念」が無くなると、それに基づいていた貨幣経済や財産、結婚という制度も将来的に無くなるに違いない。家族や子どもの育て方も大きく変わる。これまで自分の損得で決めてきた行動傾向もまったく逆のものになるだろう。詰まるところ「五次元」と呼ばれるところへ行き着く過程で、今まで握りしめてきた「大切なもの」のかなりの部分を手放していくことになる。
しかしこれは人によっては大きなハードルになる。特に今のところまあまあ幸せである人、そこそこ楽しい生活をしている人、人から羨ましがられるほどのモノを手にしている人たちには、いきなりそれを支えるネガティブ信念を手放すことに対する抵抗は大きい。恵まれてきたがゆえに、本気で覚悟を決めることができないのだ。これとこれとこれだけは握りしめながら五次元に行きたいと思ってしまう。頭ではわかっているのに、できない。もうちょっと待ってくれ!と言いたくなるのもわかる。しかし、地球は今そんな悠長なことを言っていられない状況であるのも事実だ。
どうしてもすぐに手放せないものがある場合、まずは五次元に行くためにはいずれそれを手放さなければならないことを理解し、手放す意思を固め、それに向けて小さなことでいいから少しずつ行動を起こしていく。小さな選択の積み重ねが大きな選択を可能にする。今の自分の状況も、過去の選択の積み重ねによって作られたものだ。それを今度は新しい方向に向けて設定し直すのである。多少時間がかかってもやむを得ないこともある。
ただ、本当に「これだけは手放せない」と思うなら、それを認めたうえで潔く自分はその道を選んだという自覚を持つこと。これがその時点での「ありのままの自分」なのである。それを認めることには価値がある。そしてそれ以外のネガティブ信念を外すことに邁進すればいい。自分の中の全体の愛の割合が大きくなれば、今は手放せない信念もいずれは手放せるようになる。
もし仮に、それが原因で三次元地球に留まることになったとしても、覚悟の上でのことだし、その中でそこそこ苦しみ少ない生活ができるかもしれない(あくまで「かも」である)。また、その自覚が、いざという時の方向転換を可能にしてくれる。起きていることの原因を正しく把握できていれば、いずれ対処は可能である。
一番望ましくないのは、手放せないのを、実はこれはネガティブではないとか、手放す方がもっとネガティブだとか、変にこねくり回して問題の所在を迷走させてしまうことだ。自分自身が混乱していれば、方向転換も立ち直りも難しくなる。事を素直にありのままに受け入れること。宇宙に嘘はつけないし、自分自身にも嘘はつかない方がいい。「ありのままの自分」が選ぶのが最高の道なのである。そこに自分はダメだと思ったり、自分を責めたりする要素はなにも無い。それが魂の選んだ道と割り切ることである。
6. ウラ技「常に一番を選択する」
「エゴを手放す」ということは、当然それ自体が目的ではなく、自己をある一つの状態に持っていくために必要な手段である。その状態はというと、「自分の望む世界を創造する」つまり幸せを創れるようになる、ということだ。本来私たちは思うこと、望むことをなんでも容易く現実化する能力を持って生まれてきている。しかし、そうされては困る存在の手によって、それができないよう、それどころか不幸や悲しみや苦しみを多く生み出すような方向に思考操作されてきた。その洗脳支配から脱却するための極めて有効かつ必須な方法が、すなわち「手放し」なのである。
しかしものごとにはなべて別の見方がある。この「手放し」というある意味消去法的な見方とは正反対の、「それによって得るもの」に焦点を当てた見方も存在する。つまりプラス側からの見方で捉えた場合、「手放しをする」ことは「その時の一番(最高のもの)を選ぶ」というふうに置き換えることができる。
確かに、手放し、手放し、というととかくストイックなイメージが付きまとうので、人によってはなにかしら重圧を感じたりする。もちろんその人に押し通すだけの強さがあれば問題はない。「手放し」は事の核心を突いた極めて直截的な方法なので、これができれば早く確実に目的を達成することができる。しかしもし自分がその重圧に押し潰されてしまいそうな気がするときには、気分転換に、というか気分を一新して違った観点からものごとを捉えてみるのもいいだろう。すなわち、「手放し」をするつもりではなく、「常にその時の一番を選ぶ」「自分にとっての最高を選ぶ」ことを決めるのである。
なんかこっちの方が楽で簡単そうに見えるかもしれないが、ただし中途半端にしてはいけない。私たちは今まで、自分の最高のものを選ばないように思考操作されてきた。二番目、三番目どころか往々にして「したくないこと」「嫌なこと」を強制的に(というか自分から進んで)選ぶように教育されてきた。だがこれからは、常に「一番」を選ぶという、その覚悟が求められる。
今この時、この瞬間に、とにかく自分の感じる「最高のもの」を選び続ける。それをひたすら続けることによって、自然と離れたいものから離れ、手放したいものを手放し続けることになる。つまり「手放し」と「一番を選ぶ」はその効果や目的達成において全く同等のものである。もし手放しに疲れてしまったときは、一度視点を変えて迫ってみるのもありだと思う。
7. 急がない。焦らない。ゆとりを持つ
ハートの声に耳を傾けるには、心に隙間がなければならない。その声は低くてか細いので、心が埋まっていては気づくことができない。だからいつもゆとりを持って生きるように、方向転換しなければならない。
時間に追われている時、焦っている時、あれもこれもしなきゃならないと思っている時は、エゴの自動運転を野放しにしている時だと認識した方がいい。支配者たちは、私たちがクルクルとコマネズミのように回っている限り、檻から出ることはないと思っている。気づくことも、魂と繋がることもないと思っている。
本来人間はそんな風に生きるようにはできていないのだ。のんびりと、余裕をもって、もっと創造的に楽しく生きるように創られている。だからこれからは割り切って、人からヒマな人、やることない人、怠け者と思われるような生き方に変えてみよう。それでひとつ大きな洗脳を解くことになる。
ネガティブ信念を手放す道はけっして一本調子にはいかない。が、手放しただけの効果は自分の内面と外界にてきめんに現れる。それに気づくと、もうやめようなどとは微塵も思わなくなる。いつしか信念を見つけて外すのが日常の「当たり前の状態」になっている。そのような「信念体系」ができてしまうのだ。ここまで来れば後はある意味その「自動運転」に任せてしまえばいいので、疲れもしないしかえって楽しめる。ゲーム感覚で事を進めることができる。
ただ、外さなければならない信念は何百とあるので、それらを払拭するにはまだまだ長い道のりを歩かなければならない。でも、その行程は以前と違って感動と喜びに満ちたものになる。こうして私たちひとりひとりは自分だけの「美しい物語」を織りなしていくのだ。そのためにこの地球にやってきた。
最後にひとつだけ言おう。とかく「手放し」を進めていると、エゴを目の敵にしたくなる気持ちになってしまう。でも、エゴは今まで大きな役割を果たしてきてくれた。地球の三次元世界体験という、この宇宙でも貴重な体験をさせてくれたし、今はそこから高次元に抜けるという、これまた素晴らしい体験をさせてくれている。「エゴ」は敵ではない。肉体と同じかけがえのないパートナーだ。その「エゴ」に対して、信念を外させてくれたこと、エゴ自身を縮小させてくれたことに感謝しよう。そして、これから更に美しい体験をさせてくれることに、心から感謝しよう。
結局この宇宙には、感謝する相手しかいないのである。
(おしまい)
例えば私がしたように「信念体系」というものに正面から取り組んで自己を変えていく方法もある。またバシャールの言うようにハートに従ってワクワクすることを探求しながら、その過程で妨げとなる信念を手放していく方法、あるいはミナミ・A・アシュタールのアシュタールの言うように、現実を創っている「思考」そのものに焦点を当てて思考から変えていく方法、または並木良和さんが言うように、感情(彼はこれを「周波数」と呼んでいる)を捉えて手放しを進める方法、あるいは古来から伝統的に行われてきた瞑想や各種ワークを通して行っていく方法など、それはそれはたくさんある。多くの人はそのうちの幾つかを併用して実践していたりするだろう。
その中でその人にとってどれが適切かは、まったくもってその個性次第であり、一概に言えない。各自に合ったやり方、その時の状態に適したアプローチがあるので、あくまで自分で決めるしかない。まずは決意する。そしてとりあえず目に留まったもの、気になるものをやってみる。これは今まで私たちがまったく経験してこなかった世界のものだから、まずはしてみないと事が始まらない。必ずガイドたち(日本では守護霊などと呼んだりする)が陰ながら助けてくれる。
1. 常に自分の中を観察し続ける
まず、どの手法を選んでも必ずしなければならないのが「内観」(自分の中に注意を向けること)である。エゴもハートの声も、自分の中にある。自分がどのような信念を持っているか、どのような波動のエネルギーを発しているかは、ひたすら自分自身の中を観察し続けることによって見つけることができる。これを何よりも優先して24時間行い続けるのである。これがまず基本となる。
とかく私たちは幼いころから自分の外側に注意を向けるよう躾けられてきた。物事の原因は常に外側にあると。しかしこれは真っ赤なウソである。真実に気づかれないよう、支配者の仕組んだ罠のひとつだ。ハートを通して魂や高次元の存在と繋がられると都合が悪いのだ。対してエゴの部分は、出生後の教育によってどのようにでも操作できるから、これを利用したのが、今日まで私たちが陥っていた洗脳支配である。
常に外に向けられていた意識を内側にシフトさせるのは、慣れるまでは少しエネルギーと持続力がいる。でも自分の意図(思考)が現実を創っていることを当たり前に知っている宇宙の他の存在たちにとっては、この状態が普通なのである。人間にもその状態/モードがもともと備わっている。これは意識の使い方を本来の形に戻す作業と言える。
2. 外すべきエゴの声を認識する
エゴの声は、とにかく大きい。そして多くは意図的に刷り込まれてきたネガティブなもので構成されている。つまり欲や執着、打算や損得、目先の利益や自分だけ良ければという利己心、人からの評価を気にする、事なかれ主義と保身、その場その場のご都合主義、特に理屈と計算に長けている。そして全体を俯瞰すれば数多くの矛盾を含んでいる。
また嘘と隠蔽、欺瞞もエゴの得意技だ。例えば欲や執着に突き動かされてとった行動であっても、本人は本気で「愛のため」と思っていたりする。とかく世の中で一般的に「愛」と呼ばれているもの、映画やドラマ、小説の中で愛と謳われていることのほとんどは、ここで言う「本当の愛」ではない。また宗教や倫理の教科書では、とても歪められた形で愛が語られている。これは支配者たちが、私たちに本当の愛を知られないようにするために仕組んだことだ。本当の愛はなにかを強いたり、相手の自由を奪ったりコントロールしたりするものではない。こういった「騙し」も、エゴの専売特許的なところである。
こうして見ると今まで私たちが従っていたほとんどのことが、エゴの声だ。が、ここですべてのエゴが悪いと言っているのではない。エゴにはエゴの大切な役割があるし、第一すべてのエゴを無くしてしまえば、肝心の三次元世界での体験ができなくなってしまう。問題なのは、「私たちを低い次元(愛の割合の小さい世界)に留めておこうとする信念」だけだ。それだけをピックアップして外していく。具体的には、その声に従ったら苦しむ、著しく疲弊する、消耗する、無理をする、本当はしたくないことをしなければならない、幸せとは真逆の心境になる、というようなもの。そうしてその声の根底にある「信念」を特定して外す。こうしてひとつひとつ「自分を苦しめる信念」を外していく。
これはエゴの声だな、と思ったら、それが自分にどういう「感覚」を呼び起こすかを見定めよう。嫌な感じ、苦しみ、苛立ち、ざわめき、不安、不快感、違和感などが湧いたなら、その陰には外すべきネガティブ信念がある。そしたらそれを外すことを決めよう。それだけでほとんどの信念は簡単に外れる。中にはそうでないものもあるにはあるが、それらもやり続けているうちにやがては外れるから心配ない。
3. 「より愛の大きい方」を選ぶ
特に大切な選択をするときには、必ずと言っていいほどネガティブな信念が絡んでくるので(そのように教育されてしまっている)、はたして「今までと同じような基準で選んでいいか」を自分に問いかけることが必要だ。今までの状態から抜け出るには、時には今までとまったく反対の選択をしなければならなかったりする。この際に大切なのは、なにごとによらず「より愛の大きい方を選ぶ」ことである。
瞬間瞬間の選択の積み重ねが私たちの行き先、タイムラインを決めている。どちらを選んでもたいして違わないことはどうでもいいが、大切な選択、大きな分岐点に差し掛かったら、できるだけ「より愛の大きい方」を選ぼう。なにが「本当の愛」なのかは、そのような場数を踏むうちに自ずとわかってくるものである。毎回愛の大きい方を選択し続けていれば、それだけで自ずと世界は変わっていく。
4. 自分以外の者を変えようとしない
ここでひとつとても大切なポイントを言おう。それは、「自分以外の者を動かそうとしない」ことだ。自分を取り巻くこの世界を創っているのは「自分」である。自分以外の、現れる人間も現象も出来事も、すべて自分の内面を投影して創られている。他の人たちは、自分の発した意図に合わせてその部分を見せているだけなのだ。だからまず自分を変えることで、同時並行的に他の人たち(の表れ方)を変えることができる。その逆は成り立たない。それを逆転して認識していたのが、今まで楽しんできた三次元の遊びだった。
この世界で自分が変えれるものは唯一「自分」だけである。もし他を変えよう(操作しよう)とするエネルギーを発したら、それは回りまわって結局自分に還ってきてしまうだけである。また「支配・コントロール」という重い波動を出し続けている限り、今までの低い波動領域から抜け出ることはできない。
意識の次元上昇はひとりひとりがそれぞれの意思で決めるものであり、第三者が干渉できることではない。私たちが家族や友人、周りの人たちのためにできることは、実際のところ情報提供くらいしかない。それとできるだけ早く自分の波動を上昇させて、その高いエネルギーの影響を周りの者に及ぼせるようにすること。結局はすべて自分次第なのだ。
例えば、パートナー同士がそれぞれ違う世界に向かうという選択をした場合、一方がもう一方に対して、どうして一緒に来てくれないのか、子どもを愛していないのか、あなたには愛が無いのか、というエネルギー(例え口には出さなくても)をぶつけ続ければ、これはある意味相手に対する拷問である。ぶつけられた方はもちろん、ぶつけた方も著しく波動を下げる。つまりこの場合双方、次元上昇できない。
個々の魂にはそれぞれ独自の進化の計画がある。今回次元上昇するのが良いわけでも、正しい選択でもない。なにが正解かはそれぞれの魂が予め決めている。それを侵害するのは、支配者層と同じネガティブ性の強い者の行いである。もし選んだ道が違うのならば、ただ今迄のことに感謝して相手の意思を尊重し離れること。それ以外にないし、それが五次元での生き方になる。
5. 千里の道も一歩一歩の積み重ね
三次元と五次元の世界の差は、本質的に言えば「愛の割合の違い」と言うことができる。しかしこの違いの、人間の考え方や行動という面への現れ方の違いはとても大きい。私たちが今まで当然のこと、当たり前のことと固く信じてきたことがまったく反対になることが多い。例えば、これはオレのモノ、あれは誰の所有地、といった具合の「所有の観念」が無くなると、それに基づいていた貨幣経済や財産、結婚という制度も将来的に無くなるに違いない。家族や子どもの育て方も大きく変わる。これまで自分の損得で決めてきた行動傾向もまったく逆のものになるだろう。詰まるところ「五次元」と呼ばれるところへ行き着く過程で、今まで握りしめてきた「大切なもの」のかなりの部分を手放していくことになる。
しかしこれは人によっては大きなハードルになる。特に今のところまあまあ幸せである人、そこそこ楽しい生活をしている人、人から羨ましがられるほどのモノを手にしている人たちには、いきなりそれを支えるネガティブ信念を手放すことに対する抵抗は大きい。恵まれてきたがゆえに、本気で覚悟を決めることができないのだ。これとこれとこれだけは握りしめながら五次元に行きたいと思ってしまう。頭ではわかっているのに、できない。もうちょっと待ってくれ!と言いたくなるのもわかる。しかし、地球は今そんな悠長なことを言っていられない状況であるのも事実だ。
どうしてもすぐに手放せないものがある場合、まずは五次元に行くためにはいずれそれを手放さなければならないことを理解し、手放す意思を固め、それに向けて小さなことでいいから少しずつ行動を起こしていく。小さな選択の積み重ねが大きな選択を可能にする。今の自分の状況も、過去の選択の積み重ねによって作られたものだ。それを今度は新しい方向に向けて設定し直すのである。多少時間がかかってもやむを得ないこともある。
ただ、本当に「これだけは手放せない」と思うなら、それを認めたうえで潔く自分はその道を選んだという自覚を持つこと。これがその時点での「ありのままの自分」なのである。それを認めることには価値がある。そしてそれ以外のネガティブ信念を外すことに邁進すればいい。自分の中の全体の愛の割合が大きくなれば、今は手放せない信念もいずれは手放せるようになる。
もし仮に、それが原因で三次元地球に留まることになったとしても、覚悟の上でのことだし、その中でそこそこ苦しみ少ない生活ができるかもしれない(あくまで「かも」である)。また、その自覚が、いざという時の方向転換を可能にしてくれる。起きていることの原因を正しく把握できていれば、いずれ対処は可能である。
一番望ましくないのは、手放せないのを、実はこれはネガティブではないとか、手放す方がもっとネガティブだとか、変にこねくり回して問題の所在を迷走させてしまうことだ。自分自身が混乱していれば、方向転換も立ち直りも難しくなる。事を素直にありのままに受け入れること。宇宙に嘘はつけないし、自分自身にも嘘はつかない方がいい。「ありのままの自分」が選ぶのが最高の道なのである。そこに自分はダメだと思ったり、自分を責めたりする要素はなにも無い。それが魂の選んだ道と割り切ることである。
6. ウラ技「常に一番を選択する」
「エゴを手放す」ということは、当然それ自体が目的ではなく、自己をある一つの状態に持っていくために必要な手段である。その状態はというと、「自分の望む世界を創造する」つまり幸せを創れるようになる、ということだ。本来私たちは思うこと、望むことをなんでも容易く現実化する能力を持って生まれてきている。しかし、そうされては困る存在の手によって、それができないよう、それどころか不幸や悲しみや苦しみを多く生み出すような方向に思考操作されてきた。その洗脳支配から脱却するための極めて有効かつ必須な方法が、すなわち「手放し」なのである。
しかしものごとにはなべて別の見方がある。この「手放し」というある意味消去法的な見方とは正反対の、「それによって得るもの」に焦点を当てた見方も存在する。つまりプラス側からの見方で捉えた場合、「手放しをする」ことは「その時の一番(最高のもの)を選ぶ」というふうに置き換えることができる。
確かに、手放し、手放し、というととかくストイックなイメージが付きまとうので、人によってはなにかしら重圧を感じたりする。もちろんその人に押し通すだけの強さがあれば問題はない。「手放し」は事の核心を突いた極めて直截的な方法なので、これができれば早く確実に目的を達成することができる。しかしもし自分がその重圧に押し潰されてしまいそうな気がするときには、気分転換に、というか気分を一新して違った観点からものごとを捉えてみるのもいいだろう。すなわち、「手放し」をするつもりではなく、「常にその時の一番を選ぶ」「自分にとっての最高を選ぶ」ことを決めるのである。
なんかこっちの方が楽で簡単そうに見えるかもしれないが、ただし中途半端にしてはいけない。私たちは今まで、自分の最高のものを選ばないように思考操作されてきた。二番目、三番目どころか往々にして「したくないこと」「嫌なこと」を強制的に(というか自分から進んで)選ぶように教育されてきた。だがこれからは、常に「一番」を選ぶという、その覚悟が求められる。
今この時、この瞬間に、とにかく自分の感じる「最高のもの」を選び続ける。それをひたすら続けることによって、自然と離れたいものから離れ、手放したいものを手放し続けることになる。つまり「手放し」と「一番を選ぶ」はその効果や目的達成において全く同等のものである。もし手放しに疲れてしまったときは、一度視点を変えて迫ってみるのもありだと思う。
7. 急がない。焦らない。ゆとりを持つ
ハートの声に耳を傾けるには、心に隙間がなければならない。その声は低くてか細いので、心が埋まっていては気づくことができない。だからいつもゆとりを持って生きるように、方向転換しなければならない。
時間に追われている時、焦っている時、あれもこれもしなきゃならないと思っている時は、エゴの自動運転を野放しにしている時だと認識した方がいい。支配者たちは、私たちがクルクルとコマネズミのように回っている限り、檻から出ることはないと思っている。気づくことも、魂と繋がることもないと思っている。
本来人間はそんな風に生きるようにはできていないのだ。のんびりと、余裕をもって、もっと創造的に楽しく生きるように創られている。だからこれからは割り切って、人からヒマな人、やることない人、怠け者と思われるような生き方に変えてみよう。それでひとつ大きな洗脳を解くことになる。
ネガティブ信念を手放す道はけっして一本調子にはいかない。が、手放しただけの効果は自分の内面と外界にてきめんに現れる。それに気づくと、もうやめようなどとは微塵も思わなくなる。いつしか信念を見つけて外すのが日常の「当たり前の状態」になっている。そのような「信念体系」ができてしまうのだ。ここまで来れば後はある意味その「自動運転」に任せてしまえばいいので、疲れもしないしかえって楽しめる。ゲーム感覚で事を進めることができる。
ただ、外さなければならない信念は何百とあるので、それらを払拭するにはまだまだ長い道のりを歩かなければならない。でも、その行程は以前と違って感動と喜びに満ちたものになる。こうして私たちひとりひとりは自分だけの「美しい物語」を織りなしていくのだ。そのためにこの地球にやってきた。
最後にひとつだけ言おう。とかく「手放し」を進めていると、エゴを目の敵にしたくなる気持ちになってしまう。でも、エゴは今まで大きな役割を果たしてきてくれた。地球の三次元世界体験という、この宇宙でも貴重な体験をさせてくれたし、今はそこから高次元に抜けるという、これまた素晴らしい体験をさせてくれている。「エゴ」は敵ではない。肉体と同じかけがえのないパートナーだ。その「エゴ」に対して、信念を外させてくれたこと、エゴ自身を縮小させてくれたことに感謝しよう。そして、これから更に美しい体験をさせてくれることに、心から感謝しよう。
結局この宇宙には、感謝する相手しかいないのである。
(おしまい)
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