「ああ、確かに『隠し念仏』ってもぁ、言うな。」
私は驚いた。九州から来る知人に、このでは葬儀のやり方に一風変わった風習が残っていると話したところ、ぜひ話を聞きたいから土地の古老に会わせてくれという。なんでも「隠し念仏」とかいう民俗宗教を調査しているそうだ。そこで隣りのジッちゃんに頼みに行ったら、なんとこのムラの念仏が「隠し念仏」なそうだ。
「オレらはただ、『お念仏』っていうがな。このあたりじゃあどこでもやってる。によって少しずつやり方が違うけどよ。」
なんということ! お念仏なら私も一度混ぜてもらったことがある。しかし・・・このムラでは至極公然と行われていた。あれのどこが「隠し」なんだろう?
隠し念仏は岩手を中心に伝わる民俗宗教で、長い間秘密裏に行われてきたためになかなか実態が掴めなかったそうだ。しかし宗教というより、この近在ではもう単なる仏事の際の慣習となってしまっている。似たようなものが九州にも残されていて、そちらは「隠れ念仏」と呼ぶそうだ。どちらも浄土真宗に起源を求めることができるが、成り立ちは若干異なる。
私が初めてこの念仏の輪に加わったのはもう2年ほど前だ。同じ班内のお婆さんが亡くなって通夜、葬儀を済ませた後に、誰からともなく「お念仏やんべ・・」と黒い木箱が担ぎ込まれ、中から大きな数珠が取り出された。
長さ20メートルの巨大な数珠。
小ぶりな里芋ほどの大きさの不揃いな数珠玉の中に、ひとつだけ握りこぶし大の玉がある。紐は麻縄、使い込まれた木の数珠は手アブラでてらてらと黒光りしている。
「おっと、その前に、あぐりこ君、このせんべいで大の字を作ってけろや。」
私は言われるままに49枚のせんべいを畳に並べて『大』の字を描いた。
「・・んむ。そんなもんだべ。昔ぁ餅使ったんだがな。今時ぁ、せんべいになっちまった。」
さて木枠を組み立てて鉦を吊るし、用意は整った。一同座敷いっぱいに広がって車座に坐る。皆手に大数珠の一端を持っている。その人垣を割ってジッちゃんが歩み出た。
「数珠をまたいじゃなんねえ。中に入る時は、こうしてくぐって入るもんだ。」
独り言を言いながら持ち上げた数珠をくぐり、ジッちゃんはひとり座の中央に坐した。
おもむろに、読経と鉦の音でお念仏は始まった。
若かりし日から謡い、笛、神楽、鹿躍りとの行事や活動を中心になって支えて来たジッちゃんの渋い声が独特の調子を紡ぎだす。
最後の南無阿弥陀ん仏ーを唱和しながら、皆は一斉に数珠を回した。念仏を繰り返しながら何度も何度も際限なく。ひと際大きい数珠玉が手元に来た時には、それを額に押し頂いて念を込めるのが決まりごとのようだ。
最初はなんだかわけのわからない文句で始まったが、次のフレーズから念仏は平易でわかりやすくなる。これがお坊さんを呼んでする普通の葬式と違うところだ。
「隠し念仏」は元々「通り名」であって本来の名前ではない。正式には「浄土真宗御内法」または単に「御内法」と言うそうだ。これはいわゆる寺を通して伝える「表法」に対しての「内法」の意である。
その起源については各流派さまざまな説を持っていて、今となってはいったいどれが本当なのか誰もわからない。しかしながらどの派にも共通な「最大公約数」的なものもある。例えばそのひとつとして、御内法は親鸞上人またはその高弟たちや、彼らが法義を託した門徒によって立てられたということだ。
つまりこれは元々浄土真宗の一分派的、または「裏」的存在であったらしい。これは「真の宗教は職業化した僧によって伝えられるべきではなく、純真な俗人によって伝えられ信ぜられるべき」という上人の教えをその端としている。
中世このようにして始まった御内法ではあったが、当の浄土真宗ではこれを認めていない。所詮「表法」と「内法」は相容れないのだ。
またもうひとつの各派に共通な特徴として、その作法や形式に真言密教の影響が伺えることだ。というよりか、元々真言念仏だったものが、入門の一方便上表面的に浄土真宗の形式を用いたのだろうとする解釈もある。
三体一位の御真影として弘法大師・覚鑁(かくばん)・親鸞を御安置すること、用いられている密教教典、また即身成仏を目的とした秘儀や印を結ぶ仕草など、そのどれを取り上げても弘法大師の流れを汲んでいることは否定できない。
つまり岩手に伝わる「隠し念仏」とは、どういう状況下でかそれら浄土真宗御内法、真言密教、また後に述べる百万遍念仏や他の土着信仰などが習合してできあがったひとつの在家宗教のようである。
ところで親鸞二十四輩の一人「是信房(ぜしんぼう)」は弥陀念仏による教化を志して岩手に移り住み、この地で亡くなっている。その布教のやり方は始めから在家仏教の確立を意図して、その土地ごとの族長の家に名号の軸や祭祀権を与えて「仏別当」としての役を任じたことにある。
中世に始まったこの「寺を通さない」体制は、17世紀に寺檀制度ができるまで公然と行われたそうだ。そして幕府によって禁令となったそれ以降も、「まいりの仏」などに姿を変えて、民衆の地下深く潜伏しながら命脈を保ってきた。
さてそのような宗教習慣上の下地がある上に、現在の形に直結する隠し念仏が改めてこの岩手の地に伝えられたのは江戸時代中頃。京都の鍵屋(御内法の総本家。親鸞の弟子の蓮如が明応6年に上人直筆のお経と同じく自作の上人像を与え、法義を伝えたという。)にて付属を受け、御真影を授けられた伊達水沢家中・山崎杢左衛門(もくざえもん)が導師として活動を始めた宝暦4年(1753年)前後と思われる。
以来御内法はみちのくの地に爆発的に広まった。それがどういう社会的条件によるものかは、勉強不足で私も今ひとつわからない。しかし現在「隠し念仏」と言われるものが近県を含めた岩手全土にくまなく痕跡を留めていることでもそれは伺える。
そうなると面白くないのは浄土真宗である。西本願寺は幕府に提訴し、同時に在野に密偵を放つなどして、同じ親から出た腹違いの子を徹底的に弾圧し出した。
その結果、山崎杢左衛門はその翌年に同志たちとともに磔刑に処せられ死んでしまう。
そして、かつて「隠れキリシタン」を弾圧した地仙台藩では、御内法を「犬切支丹」「秘事法門」「外道邪法」などと呼んでキリスト教に継ぐ厳しさで取り締まるようになった。
しかし皮肉なことにその厳しい弾圧があったればこそ、この秘密宗教はより深くに潜伏し偽装し民俗化して、今日まで「隠し念仏」として生き残ったのである。
それ以降「御内法」はどんどん変化していった。
なにしろ当局や寺の目から隠れながら秘事を続けているのである。当然正しい教えを授ける正式な導師もおらず、分派も更に細分化し、ただ各在に分散・孤立しながら口承口伝によって何百年もの長きに亙り伝えられていった。これでは変容しないわけがない。
実際わがムラに伝わる隠し念仏も、もうほとんど本来の態をなしてはいない。
念仏中の枢要な秘儀である「オトリアゲ」や「オモトズケ」は既に失われ、唯一残った「ネンブツモウシ」が別途行われていた在家講や百万遍念仏と習合して、今の形として伝えられたものらしい。
「百万遍念仏」とは、京都の浄土宗知恩院の念仏行事に因むもので、昔知恩院八代空円が百万遍の念仏を唱えて流行病を平癒したにより、後醍醐天皇から大数珠を賜ったことを発端とする。岩手県に限らず広く全国的に行われていた念仏信仰である。
また念仏の内容も口伝・筆写を重ねるうちにオリジナルとは随分違ったものとなってしまった。
例えばこんなくだりがある。
これなど、内容的には15世紀、世阿弥の息子の元雅の作である能「隅田川」を題材としている。この部分は元々同一の念仏集団であった隣りのお念仏には無いので、もしかしたらこのの継承者の誰かが勝手に挿入した文句なのかもしれない。
二百年余の年月は習慣や伝承が変成するに充分な期間なのだ。
さて、わがムラに伝わる隠し念仏の仏具の箱書きには「寛政6年」(1794年)とある。これから推すに岩手に初めて御内法が伝えられた1753年から僅か40年余り。おそらくはこのに隠し念仏が伝わって作られた最初の箱であり、数珠も各種小道具もその当時からそれほど離れてないものがそのまま使われている可能性が高い。
・・・と、人に訊いたり図書館に通い詰めてわかった「隠し念仏」についての情報を話したら、ジッちゃんは目を丸くした。
「そんなに由緒あるものだったのか!? するとこの箱ぁ、の宝じゃあ。」
ジッちゃんにして先代から受け継ぎ、伝承してきた仏事の由来を初めて知ったそうだ。それまでは「隠し念仏」という名前の意味さえもわからないでいた。
もっとも今のご時世では、とうに隠す理由も何もないのだが。
しかしこのお念仏、わがムラにはもはやジッちゃんしか唱えられる人はいない。またこの習慣自体も今となれば必ずやるものでもなくなってしまっている。ただでさえ慌しい仏事の際に、更に面倒くさいセレモニーをしようという家は、段々少なくなってしまった。
ジッちゃん、もしジッちゃんが死んでしまったら、この隠し念仏も無くなるんですね。・・・
「おめえ・・覚えっか?教えッぞ。」
「・・・でも、覚えたって、やる機会があるかどうか・・」
せっかく見つけたわがムラの宝「隠し念仏」も、現在81歳のジッちゃんとともに在る。つまりは風前の灯ということである。
私は驚いた。九州から来る知人に、このでは葬儀のやり方に一風変わった風習が残っていると話したところ、ぜひ話を聞きたいから土地の古老に会わせてくれという。なんでも「隠し念仏」とかいう民俗宗教を調査しているそうだ。そこで隣りのジッちゃんに頼みに行ったら、なんとこのムラの念仏が「隠し念仏」なそうだ。
「オレらはただ、『お念仏』っていうがな。このあたりじゃあどこでもやってる。によって少しずつやり方が違うけどよ。」
なんということ! お念仏なら私も一度混ぜてもらったことがある。しかし・・・このムラでは至極公然と行われていた。あれのどこが「隠し」なんだろう?
隠し念仏は岩手を中心に伝わる民俗宗教で、長い間秘密裏に行われてきたためになかなか実態が掴めなかったそうだ。しかし宗教というより、この近在ではもう単なる仏事の際の慣習となってしまっている。似たようなものが九州にも残されていて、そちらは「隠れ念仏」と呼ぶそうだ。どちらも浄土真宗に起源を求めることができるが、成り立ちは若干異なる。
私が初めてこの念仏の輪に加わったのはもう2年ほど前だ。同じ班内のお婆さんが亡くなって通夜、葬儀を済ませた後に、誰からともなく「お念仏やんべ・・」と黒い木箱が担ぎ込まれ、中から大きな数珠が取り出された。
長さ20メートルの巨大な数珠。
小ぶりな里芋ほどの大きさの不揃いな数珠玉の中に、ひとつだけ握りこぶし大の玉がある。紐は麻縄、使い込まれた木の数珠は手アブラでてらてらと黒光りしている。
「おっと、その前に、あぐりこ君、このせんべいで大の字を作ってけろや。」
私は言われるままに49枚のせんべいを畳に並べて『大』の字を描いた。
「・・んむ。そんなもんだべ。昔ぁ餅使ったんだがな。今時ぁ、せんべいになっちまった。」
さて木枠を組み立てて鉦を吊るし、用意は整った。一同座敷いっぱいに広がって車座に坐る。皆手に大数珠の一端を持っている。その人垣を割ってジッちゃんが歩み出た。
「数珠をまたいじゃなんねえ。中に入る時は、こうしてくぐって入るもんだ。」
独り言を言いながら持ち上げた数珠をくぐり、ジッちゃんはひとり座の中央に坐した。
おもむろに、読経と鉦の音でお念仏は始まった。
迷故三界城 悟故十方空 本来無東西
何処有南北
願以此功徳 平等施一切 同発菩提心
往生安楽国 南無阿弥陀ー
若かりし日から謡い、笛、神楽、鹿躍りとの行事や活動を中心になって支えて来たジッちゃんの渋い声が独特の調子を紡ぎだす。
最後の南無阿弥陀ん仏ーを唱和しながら、皆は一斉に数珠を回した。念仏を繰り返しながら何度も何度も際限なく。ひと際大きい数珠玉が手元に来た時には、それを額に押し頂いて念を込めるのが決まりごとのようだ。
最初はなんだかわけのわからない文句で始まったが、次のフレーズから念仏は平易でわかりやすくなる。これがお坊さんを呼んでする普通の葬式と違うところだ。
親を念じる輩は 現在後生良きと聞く
弥陀願以此功徳 平等施一切 同発菩提心
往生安楽国 南無阿弥陀ー
「隠し念仏」は元々「通り名」であって本来の名前ではない。正式には「浄土真宗御内法」または単に「御内法」と言うそうだ。これはいわゆる寺を通して伝える「表法」に対しての「内法」の意である。
その起源については各流派さまざまな説を持っていて、今となってはいったいどれが本当なのか誰もわからない。しかしながらどの派にも共通な「最大公約数」的なものもある。例えばそのひとつとして、御内法は親鸞上人またはその高弟たちや、彼らが法義を託した門徒によって立てられたということだ。
つまりこれは元々浄土真宗の一分派的、または「裏」的存在であったらしい。これは「真の宗教は職業化した僧によって伝えられるべきではなく、純真な俗人によって伝えられ信ぜられるべき」という上人の教えをその端としている。
中世このようにして始まった御内法ではあったが、当の浄土真宗ではこれを認めていない。所詮「表法」と「内法」は相容れないのだ。
またもうひとつの各派に共通な特徴として、その作法や形式に真言密教の影響が伺えることだ。というよりか、元々真言念仏だったものが、入門の一方便上表面的に浄土真宗の形式を用いたのだろうとする解釈もある。
三体一位の御真影として弘法大師・覚鑁(かくばん)・親鸞を御安置すること、用いられている密教教典、また即身成仏を目的とした秘儀や印を結ぶ仕草など、そのどれを取り上げても弘法大師の流れを汲んでいることは否定できない。
つまり岩手に伝わる「隠し念仏」とは、どういう状況下でかそれら浄土真宗御内法、真言密教、また後に述べる百万遍念仏や他の土着信仰などが習合してできあがったひとつの在家宗教のようである。
天竺の嵐が池の蓮の葉一枚
申しおろして新米包んで今日の
お仏に手向け給うやと
弥陀願以此功徳 平等施一切 同発菩提心
往生安楽国 南無阿弥陀ー
ところで親鸞二十四輩の一人「是信房(ぜしんぼう)」は弥陀念仏による教化を志して岩手に移り住み、この地で亡くなっている。その布教のやり方は始めから在家仏教の確立を意図して、その土地ごとの族長の家に名号の軸や祭祀権を与えて「仏別当」としての役を任じたことにある。
中世に始まったこの「寺を通さない」体制は、17世紀に寺檀制度ができるまで公然と行われたそうだ。そして幕府によって禁令となったそれ以降も、「まいりの仏」などに姿を変えて、民衆の地下深く潜伏しながら命脈を保ってきた。
さてそのような宗教習慣上の下地がある上に、現在の形に直結する隠し念仏が改めてこの岩手の地に伝えられたのは江戸時代中頃。京都の鍵屋(御内法の総本家。親鸞の弟子の蓮如が明応6年に上人直筆のお経と同じく自作の上人像を与え、法義を伝えたという。)にて付属を受け、御真影を授けられた伊達水沢家中・山崎杢左衛門(もくざえもん)が導師として活動を始めた宝暦4年(1753年)前後と思われる。
以来御内法はみちのくの地に爆発的に広まった。それがどういう社会的条件によるものかは、勉強不足で私も今ひとつわからない。しかし現在「隠し念仏」と言われるものが近県を含めた岩手全土にくまなく痕跡を留めていることでもそれは伺える。
そうなると面白くないのは浄土真宗である。西本願寺は幕府に提訴し、同時に在野に密偵を放つなどして、同じ親から出た腹違いの子を徹底的に弾圧し出した。
その結果、山崎杢左衛門はその翌年に同志たちとともに磔刑に処せられ死んでしまう。
そして、かつて「隠れキリシタン」を弾圧した地仙台藩では、御内法を「犬切支丹」「秘事法門」「外道邪法」などと呼んでキリスト教に継ぐ厳しさで取り締まるようになった。
しかし皮肉なことにその厳しい弾圧があったればこそ、この秘密宗教はより深くに潜伏し偽装し民俗化して、今日まで「隠し念仏」として生き残ったのである。
それ以降「御内法」はどんどん変化していった。
なにしろ当局や寺の目から隠れながら秘事を続けているのである。当然正しい教えを授ける正式な導師もおらず、分派も更に細分化し、ただ各在に分散・孤立しながら口承口伝によって何百年もの長きに亙り伝えられていった。これでは変容しないわけがない。
実際わがムラに伝わる隠し念仏も、もうほとんど本来の態をなしてはいない。
念仏中の枢要な秘儀である「オトリアゲ」や「オモトズケ」は既に失われ、唯一残った「ネンブツモウシ」が別途行われていた在家講や百万遍念仏と習合して、今の形として伝えられたものらしい。
「百万遍念仏」とは、京都の浄土宗知恩院の念仏行事に因むもので、昔知恩院八代空円が百万遍の念仏を唱えて流行病を平癒したにより、後醍醐天皇から大数珠を賜ったことを発端とする。岩手県に限らず広く全国的に行われていた念仏信仰である。
また念仏の内容も口伝・筆写を重ねるうちにオリジナルとは随分違ったものとなってしまった。
例えばこんなくだりがある。
梅若は母に対面なさんとて
亡者の姿現れてひらりくるりんと駆け巡れば
母はその由ご覧じて抱きつかんとせしがごとくに失せ給うや
弥陀願以此功徳 平等施一切 同発菩提心
往生安楽国 南無阿弥陀ー
これなど、内容的には15世紀、世阿弥の息子の元雅の作である能「隅田川」を題材としている。この部分は元々同一の念仏集団であった隣りのお念仏には無いので、もしかしたらこのの継承者の誰かが勝手に挿入した文句なのかもしれない。
二百年余の年月は習慣や伝承が変成するに充分な期間なのだ。
さて、わがムラに伝わる隠し念仏の仏具の箱書きには「寛政6年」(1794年)とある。これから推すに岩手に初めて御内法が伝えられた1753年から僅か40年余り。おそらくはこのに隠し念仏が伝わって作られた最初の箱であり、数珠も各種小道具もその当時からそれほど離れてないものがそのまま使われている可能性が高い。
・・・と、人に訊いたり図書館に通い詰めてわかった「隠し念仏」についての情報を話したら、ジッちゃんは目を丸くした。
「そんなに由緒あるものだったのか!? するとこの箱ぁ、の宝じゃあ。」
ジッちゃんにして先代から受け継ぎ、伝承してきた仏事の由来を初めて知ったそうだ。それまでは「隠し念仏」という名前の意味さえもわからないでいた。
もっとも今のご時世では、とうに隠す理由も何もないのだが。
しかしこのお念仏、わがムラにはもはやジッちゃんしか唱えられる人はいない。またこの習慣自体も今となれば必ずやるものでもなくなってしまっている。ただでさえ慌しい仏事の際に、更に面倒くさいセレモニーをしようという家は、段々少なくなってしまった。
ジッちゃん、もしジッちゃんが死んでしまったら、この隠し念仏も無くなるんですね。・・・
「おめえ・・覚えっか?教えッぞ。」
「・・・でも、覚えたって、やる機会があるかどうか・・」
せっかく見つけたわがムラの宝「隠し念仏」も、現在81歳のジッちゃんとともに在る。つまりは風前の灯ということである。
真宗の一端を見た思いです。
信はそうやって伝わり、また消えていくもの。
これは真宗だけには限らないのですが説教師あるいはそれに似たものは北の果て北海道にまで及んでいて違った習俗で秘密裏に残って今も脈打っている。たぶん岩手では根強く残っている民俗的なものと融けあうように仕向けられ後世において変容したものかもしれないが、やがて土俗的なものは滅びるだろうし、真が残っていくようになる。別に珍しいことではありませんよ。真宗も浄土宗であってよりどころは大乗です。モトは華厳宗とも並べることも出来ますよ。
共通しているのは「善知識さん」の存在のみですよ。少し難しくなるが仏と人とを架橋する者と捉えればいいかと思います。寺も無く僧侶もいない土地で「法を説く者」であり他力の極北を説く者、信のなんたるかを導き教える者。と、いう感じですかね。
ま、『風前の灯』にはならないと思いますね。誰かがまた伝えるでしょう。あなたの見えないところで地下水脈のように残っていくような気もするね。私が南無阿弥陀仏と口誦するように。
お寺や坊さんは檀家が多くいて金のあるところにしか来ない。こんなムラには、頼んだってなかなか来てくれないんだ・・・
これはたぶんジッちゃんの経験や言い伝えから出た言葉だと思います。私のムラは山で閉ざされた隠れ里のようだったと言います。お寺は隣りに曹洞宗のものがあるのですが、決して信仰に熱心な寺ではないようです。
元々そのような条件の土地が多かった岩手だからこそ、百万遍念仏や隠し念仏のような在家仏教が広まったのでしょうね。それも南無さんの言うとおり、最も受け容れられやすい形に加工されて。
それに山間のの地域性として、お上や権威に対して従いはするけれど根強い不信感を持っている、という向きがあると思います。だから表向きはお寺の檀家となりながらも、裏では隠れて念仏を唱えているという形がすんなりと作られていったのでしょう。
当時蝦夷やみちのくと言われていたこの地に布教に来た行基や是信房は素晴らしい宗教家ですね。金も権威も求めない、一命投げ打つ心意気じゃないとできないだろうと思います。
南無さんの記事にもあった、北海道に布教しに行った説教師も、今で言えばアフリカのど真ん中に乗り込むようなものだったのでしょうか。
情報もチャンスも求めれば容易く手に入るこの時代に、みんなが善知識になる心意気で学び合い教え合い、関わり合ったらいいのですね。人のいるところ法が伝えられない所はないのでしょう。発する言葉や表現は違っても、真心や真は必ず伝わるのですね。
この「隠し念仏」をに伝承させようと私も頑張ってます。でもなかなか壁は厚いのですよ。
騒動週と浄土信州、私は宗教や信仰論などには暗い方で、agurikoさんの見識には舌を巻いています、そのうち私が疑問に思っていることについて教えてください。
20日は忙しいですか!「樹を観る会」
後でまた電話します。私の場合、できれば途中合流という形で加わらせていただきたいのですが。
私も宗教には疎いのですよ。この記事は本を読んだりしながら纏めたもので、書き上げるのに随分かかりました。
でもこのようなきっかけがあって初めてこんなことを調べられるので、いつか鹿躍りや剣舞の由来も調べてみたいです。
土地も縁、そこで出会うものごとも縁ですね。
うちも隠し念仏の家のようで、祖父が熱心です。私は同居してないのでそんなもんかとおもってました。
・・そういえば曾祖母の葬式で数珠回したなぁ・・「南無阿弥陀ン仏」だけを延々繰り返しつつ、一族郎党集まって・・。今思えばあれがそうなんですね。
祖父曰く、私も小さい頃に善智識さまにご挨拶して「この法をいただいた」のだそうです。
祖父母がすがれるものがあるのはよいことだと思いますが、継承していけと言われても難しい孫世代です。
民俗学的にとても興味はあるんですが、そんなこと言ったらバチ当たりますね。
大変興味深いお話でした。自分でも調べてみようかな・・。また寄らせていただきますね。
隠し念仏は、なにぶん「隠れて」やってきたものだから、必ずしも本来の形そのままで伝わってるとは限らないみたいですよ。
本家の下にたくさんの分派があって、その分派ごとにすることが微妙に違います。どれも自分たちが正統だと主張してるのですけどね。
特に隠し念仏中最大派閥を誇った「渋谷地派」は、布教に導師の派遣が追いつかず、かなりゆるやかにそれぞれの地元の独自性を認めたようです。それらの地域では土着の信仰や習慣と結び付いて、さまざまな形が生まれたようですね。
私の集落の隠し念仏もこの渋谷地派なのでしょうが、もう今では自分たちが何派なのかも知る人もいません。
大数珠をみんなで回す作法は元々「百万遍念仏」です。それが隠し念仏に取り入れられてしまったのでしょうね。
厳しい所では、元々あった信仰習慣をすっかり捨て去って、隠し念仏一筋に傾倒した地域もあったそうです。それに比べると随分ゆるやかだったんですね。
身の周りで見ると、隠し念仏の継承者も風前の灯みたいです。
幼い頃に「オモトズケ」を頂いたならば、その作法なんかを今のうちに訊いておいた方がいいんじゃないでしょうか。貴重な体験になるかもしれません。
私はいつか、このに伝わる「鹿躍り(ししおどり)」の起源を辿ってみたいと思ってるんですよ。
在家仏教だと思っておったところですが、
隠し念仏というのを初めて聞きました。
私は寺とか仏教関係のことが好きで半可通なブログを
書いておりますが、agricoさんの見識の深さに恐れ入りました。
貴重な情報を聞かせていただきました。
どうも、ありがとうございました。
隠し念仏は民俗学的には価値があり保存の意味もあるのですが、残念ながら念仏自体、現代人の意識から大きく離れていっていると思います。実際、写経や念仏を布施として行う人の存在とともに各地で音も無く消滅していっています。この思いは形を変えて、やがてまたどこかに現れてくるのでしょうかね。
「念仏宗無量寿寺」をはじめいくつかの新興宗教では「隠し念仏」の秘儀が受け継がれています。
agricoさんも「ジッちゃん」から受け継いで、一旗上げたら儲かるかもしれないですよ?
かねがね「オメしかやるやついねえ」とは言われてるんですが、これは人の幸せのためにするものですからね、宗教と名の付くものでも営利事業でもその他のものでもないのです。だから金を介さずに数百年も続いてきたのですよ。
現代における価値と言えば、まず解脱の道からは遠くなったでしょうね。人々の価値観があまりに遠くなりすぎてしまいました。唯一言えるとすれば、伝統文化財としてでしょうか。私も伝承するならそれとして学びます。
形として変わらないものはないのですね。これが釈迦の教えでもあります。